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1:蛇口からの日常

 四月の終わり、鎮波市の朝は、しっとりと濡れていた。夜半に降った霧雨が未だ空気の中にとどまり、街全体をかすかに濁らせている。人々が「潮のにおい」と呼ぶそれは、塩ではなく、実のところ、海と陸の境界に漂う生活排水の微粒子と、干潟に残された泥の発酵臭とが交じり合ったものだった。


 根津耕太は、玄関先の縁石に片足を掛け、長靴のかかとをトンと打ち鳴らした。ゴムが湿っていて足がうまく収まらない。小さく舌打ちをして、庭に出る。あいにくの曇天だが、こうした日の方が草木の手入れには適している。朝露と霧が葉に水気を残し、剪定の際に出る粉塵が少なくて済む。


 なんば市は、かつて漁業と造船で栄えた町である。最盛期には人口五万人を超えていたが、今では三万人を割り込み、住宅地の空き家率は二割を超えるという。根津の住む丘陵地の住宅街も例外ではなく、朝の散歩で通りかかる一角には、ガラスの割れたまま放置された家屋がいくつかある。だが、根津の家は違った。建てたのは四十年以上も前、妻の美保と一緒に貯金をはたいて新築した。老朽化は否めないが、手入れは行き届いている。水道管も、自ら設計した配管図を基に施工業者を選んだという念の入れようだった。


 「……今日も水、悪くなかったよな」


 根津は、今朝の風呂場のことを思い出す。湯を張る際に、わずかに塩素臭が強かったような気がしたのだ。だが、これは時折ある。配水池の残留塩素が多めになったのだろう。それより、浴槽の底に沈殿物がなかったことの方が重要だ。色、におい、触感――そのどれもが、今朝の水に不審を抱かせるほどではなかった。少なくとも、プロの目からすれば、だ。


 根津耕太、六十五歳。市の水道局に三十七年勤め上げ、二年前に定年退職した。技師としての最終階級は課長補佐。現場の土木作業から始まり、配水計画、浄水場の更新設計、耐震補強計画など、多岐にわたる業務に携わった。現役時代は「偏屈」「細かすぎる」と言われたが、その執拗な検査癖と慎重すぎる施工チェックは、少なくとも過去十年間、町の水質事故ゼロという実績を支えていた。


 だが、そうした技術者の誇りも、退職と同時に薄れていくのだと根津は思う。誰も聞いてくれない。誰も振り返らない。図面を描いた男の顔など、水を飲む市民の記憶には残らない。


 「おはよう、あなた。今日の新聞、読み終えた?」


 縁側に置かれた籐椅子に、美保が座っていた。柔らかなベージュのカーディガンを羽織り、膝の上に新聞を開いている。六十二歳には見えない穏やかな顔つきで、まるでこの霧の朝に溶け込むように、静かにそこにいた。


 「一面だけな。何かあったか?」


 「これ……市内の小学校で、二十人くらいお腹壊したんですって。給食かしらね」


 根津は新聞を受け取り、眉をひそめる。確かに社会面に、小さな囲み記事がある。『○○小学校で児童が集団腹痛 原因調査中』。校名も、場所も伏せられ、事務的な文面で四行程度だ。


 「またノロか何かじゃない? 春でもあるのね、こういうの」


 美保がそう言う。根津は、無言のまま記事を読み返し、指先で紙面をなぞった。


 「……いや、時期が妙だな」


 「え?」


 「ノロなら冬場だし、ウイルスならもっとはっきり症状が出る。しかも二十人ってのは、ちょっと中途半端だ。数が多すぎもせず、少なすぎもしない。こういう場合、給食じゃなくて……水を疑うべきなんだよ、本来は」


 美保が、少しだけ表情を曇らせた。


 「……また、あの頃みたいに気にしてるの? もう仕事じゃないんだから、そんなに思いつめなくても……」


 根津は応えず、庭の隅に視線を移した。そこにあるのは、古びた外蛇口と、ホースリール。蛇口の先からは、一滴の水がぽたりと垂れている。


 その音が、今朝の霧のなかに、不自然に大きく響いている気がした。



***


 翌朝、根津が新聞を取りに玄関を出た時、遠くの住宅街にサイレンの音が短く響いた。救急車かパトカーかはわからない。だが、その後の静寂が、なにかしら異様な余韻を残していた。


 霧は昨日よりも薄れ、空にはぼんやりとした陽光が差していた。新聞を開く。見出しに目立った続報はない。昨日の小学校での腹痛事件に関する記事も、内容は前日とほぼ同じ。報道ベースでは、依然として「詳細調査中」の一点張りである。


 だが、美保が食卓にスマートフォンを持ち出し、眉をひそめながら見せた画面には、もっと不穏な情報があった。


 「あなた、これ……。市民掲示板の投稿だけど。ちょっと変じゃない?」


 スマートフォンの画面には、地元SNS掲示板「しず波ねっと」の投稿が並んでいた。

 《水のにおい、おかしくないですか?》《蛇口からサビ臭い》《子どもが下痢と嘔吐》

 そうした投稿が、昨晩から深夜にかけて集中していた。


 さらに美保は、X(旧Twitter)の画面を開いた。

 《#なんば市 #水道 #変な味》《風呂入ったらかゆい》《この水、前と違う》《浄水場事故?》

 ついには「#なんば水道」がトレンド入りしていた。


 根津は眉をひそめ、スマホをのぞき込む。投稿の多くは若者によるもので、なかには半ば悪ふざけのような書き込みや、画像にフィルターをかけた遊び投稿も混じっているが、根津の目には、それらがまるで煙のような予兆に見えた。火の手はまだ確認できないが、焦げるにおいは確かにある。


 「昨日の学校の件と、関係してると思う?」


 美保の問いに、根津は即答を避け、代わりに自室へと引き返した。


 書棚の最下段には、古いノートPCが眠っている。現役時代に使っていた業務機と違い、個人の資料や記録を蓄積したもので、退職以降はほとんど触れていない。起動には時間がかかったが、ようやくデスクトップが立ち上がると、根津は保存フォルダを開き、「浄水場配水記録」「浄水質検査実績」などの古いPDFを次々に呼び出した。


 画面に映る配水系統図を見つめながら、根津は指先で顎を撫でた。

 鎮波市の水道システムは、十年前の大規模改修で一部更新されたものの、主たる供給ルートと浄水場の基幹構造は半世紀前とほとんど変わっていない。もし水質に変化があるとすれば、可能性のひとつは――


 「中継ポンプ場か、沈殿池か……あるいは、活性炭フィルターの詰まりか……」


 根津は小さくつぶやき、傍らのメモ帳にペンを走らせた。

 その瞬間、玄関の呼び鈴が鳴った。

 郵便配達ではなかった。回覧板を持った近所の主婦だったが、雑談のついでに彼女はこう言った。


 「ねえ、根津さん。水、なんか変じゃない?」


 「……変、というのは?」


 「洗い物してたらね、においっていうか、何ていうか……。うちの旦那が“下水が逆流してるんじゃないか”なんて言うのよ。市には電話したけど、“異常は確認されていません”って言われて。それで終わりなの」


 根津は頷きつつ、心中の警鐘がひときわ強く鳴るのを感じた。

 数時間後、市役所の公式サイトに「水道水の安全性について」というPDFファイルがアップされた。

 それはこう始まっていた。


 > 現在、市内における一部報道およびSNS上の風評について、以下の通りご説明いたします。

 > 昨日発生した児童の体調不良と水道水との因果関係は、現時点では確認されておりません。

 > 市内五箇所の給水地点におけるサンプル採水の結果、塩素濃度・濁度・pHは基準値内であり……。


 形式は整っていた。だが、それはあくまで形式にすぎない。

 現場の「におい」は、現場でしか感じ取れないのだ。サンプル採水も、その方法が適切でなければ意味をなさない。配水の末端で何が起きているのか、机上のデータだけでは判断できないことを、根津は身に染みて知っていた。


 その夜、根津は旧友に電話をかけた。かつての上司であり、市水道局で課長を務めていた木田義昭だ。定年退職は根津より三年早いが、今でも非常勤で調査委員会の仕事に関わっていると聞いていた。


 「木田さん。鎮波の水、ちょっと妙だと思いませんか」


 電話口の向こうで、木田は短く息を吐いた。


 「根津。お前、もう現役じゃないんだぞ。気持ちはわかるが、今さら首を突っ込んでも無駄だ」


 「いや、無駄かどうかじゃない。異変があるなら、それを――」


 「異変なんて言葉、使うな。憶測で騒いだら、それこそ風評になる。お前が水道局の根津だったことを覚えてる人間はまだ多い。中途半端に動くな。迷惑になる」


 その言葉に、根津は言葉を失った。

 電話を切ると、部屋の中の空気が冷たくなったように感じられた。

 パソコンの画面には、ぼんやりと光る水道局時代のファイル群が並んでいる。技術的な情報の塊。そのどれもが、今はただの“個人の記録”に過ぎない。


 静まり返った室内に、美保の咳が遠く聞こえた。

 些細なことかもしれない。だが根津はその一音に、神経が微かに震えるのを感じた。

 なにかが、始まっている。

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