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呪われた子

作者: 梔子

 ホームルームの時間、ぼんやり窓の外を眺めていると、灰色の空から白い結晶が落ちて来るのが見えた。ああ、雪だなと思った。


 今朝の寒さは一通りではなかった。学校までの道中、絶え間なく吹く風に冷たさよりも痛みを感じたが、教室の中は暖かいからそれを忘れていた。雪を見て、今朝の寒さを思い出した。


「おい、雪だな」


 前の席の副島が振り返って話しかける。「そうだな」とたわいも無い会話をした。


 彼とは小学校からの付き合いだった。小学生の彼は背が高く、手足の長いのが印象的だった。身体が薄いため、頭と足を上下に引っ張ったようだと思ったのを覚えている。中学生になって更に引き伸ばされたようだ。


 放課後になって、教室のある一階の廊下を部活動で体育館に向かう生徒とは反対の方向に副島と並んで歩いて行った。


 入学したばかりの頃はいろいろの部活に勧誘されたものだった。その勧誘はしつこいもので、上級生が教室の扉の前で逃がさないぞと言わんばかりに待ち構えるものだから、ホームルームが終わるや否や見つからないように窓から抜け出すこともあった。


 確かにどれも人並み以上に出来た。が、どれも面倒だった。苦労せずそれなりに出来てしまうから、殊に何かに打ち込む程、惹かれることがなかった。


 グラウンドを走る野球部の掛け声を背に僕らは門を出た。平坦な道を南に下っていく。


 道に左右には家が隙間を埋めるように密集して立ち並んでいる。子どもの泣き声とそれをなだめる母親の声、おばあさんが身体の後ろで手を組んで反対側の道に渡る姿、どこかでボールを蹴っている音ーー常に人の気配がここらにはあった。


 突き当たりのT字路を前に小学生の群れと遭遇した。道の左から右へと群がりながら歩いている。


 子ども特有の誇張した声。一人の声に反応して、さらに声が大きくなる。互いに共鳴し合ってさわいでいる。


 この辺りに小学校は一つしかない。だから恐らく僕らの母校の生徒なのだろう。僕らもこうだったろう。懐かしいと思わずにはいられなかった。一年前の事だが、随分昔の事のように感じられた。


 彼らが後ろを振り返った。そして互いに顔を見合わせてくすくす笑っている。ちょうど彼らが見えなくなりかけた時、左からぽつんと一人で歩いている子が現れた。


 群れから離れているその子は、ランドセルの肩ベルトを両方の手でぎゅっと握りながら、前の群れから一定の距離を保ち俯きながら歩いている。が、目だけは前に歩く子達を捉え、彼らを上目で睨んでいる。


「あれは何だ?」


僕は思わず立ち止まった。副島も立ち止まって、僕の視線の先を追った。


「何が?」

「ーーいや、何でもない」


何と説明したら良いかわからず、首を振って歩き出した。副島は怪訝そうに僕を見ていたが、問い詰める事はせず、自然と前を向いて歩き出した。


 視界の端に消えてしまう前にもう一度彼をーー彼の目を見た。その目には軽蔑と羨望との二色の色があった。


 あの群れの中に入りたいのに入れてと言う勇気がない。けれど、意気地がないと思われるのが恥ずかしいから群れなければ生きていけない人間とは違うんだという軽蔑の視線を作っている、そういう目だ。


 そう思ったのは直感だった。というのもそういう目を見た事があった。


 僕が彼らと同じ年頃の時の事ーーあれは地域の歴史を調べてそれを模造紙に纏めている時間だったように思う。グループを作って作業に取り掛かろうとしていたところ、遠くから視線を感じる。それで、その方を見るとこちらを睨んでいる者がいる。それが副島だった。


 もう大半がグループを作り終わっているのに、副島は一人で動かずにいる。僕らの声を騒音と見なすかのようにしかめ面をしている。その顔が大袈裟に見えない事もない。


 僕らの声に迷惑しているという意思を示すためにわざとああいう顔をしているのではないかと思った。


 それがちょっと気に食わなかったから、僕は立ち上がり、副島の方へと颯爽と歩き出した。睨んでいた彼もまさか僕が来るとな思わなかったのだろう、大層驚いた顔をした。そして咎められると思ったのかぱっと下を向いた。


「君、こっちに入らないかい?」

「え?」

「絵を描ける人がいるんだ。ほら、君よく絵を描いているだろう。僕らはーーあまり上手じゃないから」


彼が一人で絵ばかり描いているのを視界の隅に捉えていた。


「まあ、いいけど……」


副島の口元が綻んだのを見逃さなかった。


「ありがとう。助かるよ」


睨んでいたのが嘘のように、にやけた顔をしている。虚勢を張っていただけで、実は羨んでいたのだなとわかった。


 あの子はあの時の副島と同じ目をしていた。それだから、あながち間違っていないと思う。


 あの目があった。構って欲しいのだなと思った。そしてあの時のように話しかけてみたい気がした。


 けれど、あの時と状況が違うから、気軽にそうするわけにもいかず、諦めて前を向いて歩き出した。


 T字路で別れを告げて、僕は右に、副島は左に折れた。


 それから幾日か経ったある日のことだった。また、あの子を見つけた。副島と別れて歩いていると僕の家の向かいにある駄菓子屋の前に悄然と立っている姿を見た。ガラス張りの扉から棚のお菓子をじっと見つめている。


 この辺りの家なのか?それにしては見覚えのない事が不思議だった。もしかすると最近越して来たのかもしれない。


 彼は背が低く、骨自体が細いのか華奢で弱々しい身体をしている。余分な肉ーーいや、見たところ必要な肉すらついていない。


 それから目に付くのは肩まである長い髪だった。長い分には構わないが、彼の髪の黒さは他より一層黒の色が濃く、陰鬱な感じがする。そしてその髪の上から茶色の帽子を被っている。


 彼の目を見ると、昨日の衝動が湧き上がってきた。僕は肩にかけたスクールバッグを背負い直した。歩き出して、彼の隣で立ち止まった。


「なあ、君」


 彼はびくっと身体を震わせた。そして恐る恐る振り返り、あの目で僕を見た。鋭い目つきーーこの子は人を見る時、こういう目をするのだなと思った。つり目なのと目つきの悪さが相まって人相が悪い。


 その鋭い目の中に怯えがちらついている。突然年上から話しかけられて身構えているのに違いない。


 僕は出来るだけ敵意のない優しい声を出した。


「お腹が空いているのか?」


近づいてみると、茶色の毛糸の帽子は所々糸がほどけていた。彼は黙っている。が、目だけは逸らさない。


「買ってやろうか?」


僕は扉を開けて中に入り、彼を振り返った。


「いらない」


彼のお腹がぐうと鳴った。彼は顔を真っ赤にして、唇を噛みしめている。真っ赤な唇に前歯が刺さっている。わなわな震えているが、それでも目だけは逸らさないでいる。


「君、名前は?」


 彼は何とも言わない。僕はちょっと面白くなってきて、何だか目の前のこの子を降伏させたい気が起こった。それで中にいた小学生三人組に恬然と話しかけた。


「なあ君達」


突然話しかけられたものだから、彼らは驚いて顔を見合わせている。


「この子の事知ってる?」

「え、うん……」

「この子の名前は?」

「大須賀……」

「大須賀?変わった名字だね」


彼は名前を教えた子達を睨んだ。睨まれても、彼らは気にした様子はなく、これ以上関わりたくないと言わんばかりに足早に去って行った。


 また、二人きりになる。彼はまた僕の目を見た。あの鋭い目で僕を見ている。と、急に背中を向けて走り出した。


「逃げた……」


逃げられると却って追いかけたくなる。懐柔したくなる欲に駆られた。


 どうせ、彼のような人間にーー好意を拒絶し、近づく者を睨みつける事しか出来ない人間に、輪の中へ招き入れる程、人間は親切に出来ていない。


 それで、彼を見かける度に話しかけた。親切を受け取らせようとあの手この手を使った。が、彼は頑なに受け取ろうとしない。


 優しくすればするほど、あの鋭い目をさらに鋭くして睨みつける。それは今までに経験した事のないことだった。


 ある日の帰り道、彼の姿を見かけると、隣に副島がいるのを忘れて走り出していた。


「やあ」


彼は僕に気づくと、じろりと僕の目を見た。必ず一度は見るのだ。


「何で小学生なんか構うんだよ。放っておけよ」


副島が慌てて後ろから追いかけて来て、僕を止めようとする。副島が来た途端、彼はふいと目を逸らして走り去った。


「お前、どうしたんだ?」


副島は稀有な物を見る目で僕を見ている。それには構わず、どうすれば彼を動かず事が出来るか思案していた。


 どうにと思い通りにならない。思い通りにならないと、だんだん自棄になってくる。


 いつしか彼から目を離せなくなっていた。離せないだけでなく、追いかけてしまう。追いかければ、却って離れていく一方だった。離れれば、その距離を詰めようと更に甘い言葉をかける。これの繰り返しだった。


 これはちよっと意外だぞ。自分でもそう思った。今まで、こんなに思い通りにいかない事などなかった。ここまで執着する事もなかった。


 思い通りに動かせないにしても、拒絶するのではなくて、何か他の反応を見られないかーーそればかり考えていた。


 それから、彼の隣に並んでも一瞥するのみで、何事もないかのように歩き出すくらいに彼は僕に慣れていた。


 歩いていると、度々彼はこんこんと咳をした。真っ白な肌に頬だけ真っ赤にしている。鼻水が垂れている。僕は制服のポケットからティッシュを取り出して、彼の目の前に差し出した。


「拭きなよ」

「いい、いらない」


また、拒絶する。彼はぎろりと僕を睨んで服の袖で鼻を拭った。帽子のほどけた毛糸が目に付いた。「その帽子、ぼろぼろじゃないか」と口にしていた。


 彼は口をあんぐり開けて目を見開いていた。俄に帽子を頭から外し、ぎゅっと握って背中に隠した。


 彼が反応したのに驚いた。優しさは跳ね返される。が、悪意ならばーーさっきのは無意識だがーー彼は反応する。


 しめたと思った。僕はこの時にやにや笑っていた。笑いを堪える事が出来ずにいた。


 漸くこう彼が反応した。頑なだった彼が、ついに!


 次に彼に会った時、彼はあの帽子を被っていなかった。僕は笑い出しそうになるのを必死に堪えながら彼に近づいた。


「よお」


警戒した目ーー憎しみの中に怯えを孕んでいる。何ともない風を装っているが、実際は人を恐れている。虚勢を張って人が近づくと睨みつけるが、そうしなければいられないのだ。


 同じだ。副島と同じだ。彼は羨ましさを隠すために睨んだ。彼は恐れを隠すために睨みつけている。


 その内なるものを白日の下に晒し出してしまいたい。彼の内なるものーー静かな敵意……ああ、これか。


 僕は何故ここまで彼に執着するのか漸くわかった。彼から並々ならぬ力を感じたからだ。それは不器用ながらも厳しい社会を何とか生き抜こうとする力だった。


 僕はぼんやり生きていた。必死にならなくとも、それなりにこなす事が出来てしまった。出来てしまうからこそ、直向きな精神に強く引き寄せられた。少しの関心から始まり、思い通りにならない苛立ちから次第に彼に執着し出したというわけだった。


「そういうことか……」


 僕は一切を理解した。理解した上で彼に呪いの言葉を吐き続けた。


 彼は僕の姿が目に入ると、あの鋭い眼光を放った。


「何見てんだよ」

「別に」

「何だよその目は。睨んでいるのか?」


唇を噛んでいる。それを見て、ああ、堪えているのだなと思った。強く噛みしめるものだから、皮が切れて血が滲んでいる。


「……睨んでない」

「そうなのか?相変わらず人相が悪いな」


ああ!その日から彼は僕の目を見なくなった。自分が他人に対してどういう態度をとっていたか、その態度がどう受け取られていたか、彼は全然わかっていなかった。だから、突きつけられて狼狽えている。


 そういう考えが浮かんでからは、殆ど善意から彼を攻撃した。彼を刺激するのは恥だった。恥ずかしいという感情に人一倍敏感だった。


 恥ずかしさ、屈辱を味わされた味わわされた怒りーー怒りだけが彼を動かした。拒絶する事しか出来ない彼の元来の性質を動かす事が出来る。


 怒りは彼の虚勢を別のものに変える力がある。彼を受け入れない社会からーー学校の中の集団といえども、それは小さな社会である事に変わりはないーー怒りのみが彼の元来の虚勢を緩め、厳しい社会と戦うだけの矛、または堪えうる盾となる。


 日差しが冷え切った空気を暖め、その暖かな空気の中に桜の蕾が目を覚ます季節となった。学年が一つ上がり、教室も一階上に上がった。


 僕は中学二年生にーー彼は、僕と同じ中学校に入って来た。というのも、前に制服の採寸に体育館に来ていたのを見かけたのだ。


 少し大きめのブレザーを羽織っている彼を見た日には、身体に電流でも走ったかのように感情が昂ったのを覚えている。


 入学式が終わって人のいなくなった体育館に足を運んだ。壁にはクラス毎の名簿が書かれた模造紙が貼られている。


 一組、二組、三組……と順に見ていった。ない、ない、違う。前に体育館で彼を見たのは見間違いだったかと疑い出した。


 九組ーー最後のクラスで漸く彼の名前を見つけた。四番、大須賀。見つけた。


 九組、一年九組に彼がいる。彼の名前を見つけると、足取り軽く教室に戻った。同じ建物の中にいる、その事実が僕の身体をを高揚感で満たしていた。


 次の日、ホームルームが終わるとすぐに僕は席を立ち教室を出た。廊下には授業が終わりこれから部活動に向かう生徒や帰宅する生徒、訳もなく集まって話している生徒で溢れ返っていた。その隙間を縫うように階段のある方へ進んで行った。


「おい、どこ行くんだよ」


二年でも同じクラスとなった副島の声を後ろに、一年九組の教室へと急いだ。


 九組の教室に辿り着くと、ホームルームが終わったばかりでざわざわしている。


「知り合いでもいるのか?」

「ああ、まあーーそんなところ」


彼を見つけた。窓際の前から四番目の席だった。相変わらず一人でいる。哀れな気がした。それと同時に何とかしてやらないとと思った。


 僕は彼が出てくるのを待った。椅子に座ったまま動かないでいる。何をしているんだ?首を伸ばして中の様子を窺った。づかづか入って平生の通り「よう」と声をかけたくなる衝動をぐっと抑えていた。


 彼の席の前に、ある生徒が立っている。眼鏡をかけた、輪郭の丸い、印象の薄いぼんやりした、家に帰った頃にはその顔を思い出せないような顔だった。


 その眼鏡の子を前に、彼が笑っている!僕には柔らかい表情を一度も見せた事がない。何というーー僕は言葉を失った。目の前の光景を受け入れる事が出来ないでいた。


 対等な人間が出来たのだ。彼にもーーあの拒絶する事でしか生きていけないような彼にも、虚勢を張らずとも関われる人間がいたのだ。


 彼が立ち上がりこちらを向いた。彼と目が合った。ほんの数秒のことだった。


 彼はふいと目を逸らし、あの眼鏡の子と並んで歩き出した。そうして扉の前に立つ僕の隣をぎこちなく通り抜けた。


 僕を意識しているのは明らかだった。が、そういう素振りを見せないように努めていた。



 僕に目を付けられた彼は呪われている。呪いを一身に受け、世間を生き抜いている。僕は遠ざかる彼の強張った肩を後ろからじっと眺めていた。

 


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