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最終話 雪乃の気持ち、マユの気持ち

 全てを語り終えたイロハは憑き物が落ち、晴れやかな表情をしていた。

 胸倉を掴まれ、ソファで倒されていることなんて、最初から無かったかのように。

「変化で生態は模倣できても、各々の習慣は分からない。落とし穴だったわね……ヘマしちゃった」

 画竜点睛を欠く、というよりは、ゲームで軽いミスを犯したような口ぶり。マユを殺された怒りが、喉の奥から吐き気と共に昇ってきた。

「何を、軽々しくっ……」

「貴方の価値に比べたら、十分重々しいものよ」

 そんな感情は意に介さず、イロハはこちらの頬に触れる。

 冷ややかな目と、品定めに近い笑みが、これが愛情表現とは違うことを暗に告げている。

「こんな奴のことを、マユは大切にしてたなんてね。どうせ生涯愛しても、寿命だって違うのにさあ」

 あの時に交わした言葉さえ、嘘だったのだと気付く。笑いながら一生を終えたいと、そう言ったはずなのに。

「寿命なんて、関係無い」

「あるでしょ。死んでも忘れるくせに」

「忘れたりなんてしない!」

 マユが教えてくれた、いつも前を向いて生きることを。

 限りがあるから一瞬を大切に過ごす。あの子がいなくなっても、伝わった想いは揺るがない。

 そうだ、その想いをこの存在は容易く踏み躙った。

「口だけは達者ね。如何にもきたない人間らしいわ」

 きたない、に力が込められる。本当は、人間のことなんて何も知らないはずなのに。

「……こんなの、マユが可哀想で仕方無いわ」

 その一言が、最後に背中を押すスイッチだった。


「マユを殺した奴に、そんなこと言われたくないっ!」

 何かを考えるよりも先に、イロハの首に手が回った。

 真里亜の身体、人の肌に触れる感覚に、一瞬の躊躇いが起きる。違う……この存在は人間じゃない、怪物。

「意味……無いわよ? こんな、こと」

「そんなの、私が一番分かってる!」

「……んぐっ!」

 足をばたつかせる彼女を押さえつける。全ての迷いから目を背け、彼女の首筋に指を食い込ませた。

「マユの無念は私が晴らす。あの子は、私の家族だから!」

 彼女を殺して、自分も死ぬ。もう一度マユと出会うことが叶わなくても、せめてその想いだけは。

 時を経る毎に、抵抗するイロハの力が大きくなっていく。

「かぞく……家族、ねえ。ごほっ」

 それでも、その声は徐々に弱々しくなっていく。もう少し、と一層の力を込めて絞め上げた。

「何が、おかしいの!」

「いやあ、ね……家族だなんて、おかしな、ことを」

 唇から漏れ出る微かな呻き声が、軋みのように響き渡る。

「血の繋がりなんて関係無い。マユと出会ったあの日から、私たちは家族なんだっ!」

 地獄のような今の光景を、マユの笑顔で上塗りしていく。

 あの子のためなら、自分は何だってできる。できなければ、今までの日々は全て、水の泡。

「ふぅ、ん……それって、さ」

 抵抗の力が弱まってきた。これなら、と思いかけた刹那。

 瞳の光が消えかけていたイロハが、震えながらこちらの耳元に顔を近付けた。

「それって、貴方が勝手にそう思ってるだけじゃないの?」


「……えっ?」

 首を絞める動きが止まり、力が一瞬だけ弱まってしまう。

 まずい。一瞬でも耳を傾けた自身を振り切り、もう一度押さえつけようとした瞬間。

 イロハの掲げられた両手が、こちらの肩を捉えていた。

「貴方の独りよがりだって言ってんのよ、雲雀雪乃っ!!」

「う、あっ……!?」

 人離れした力を纏った手に突き飛ばされ、自分とイロハとの距離が一気に引き離される。

 身構えることも受け身も取れず、リビングの壁に叩き付けられてしまった。

「ぐっ、うう……」

「この程度で、殺せるとでも思ったの?」

 イロハが跡の残った首を押さえる。死が迫っていた様子は見せず、ソファから軽々しく立ち上がった。

わざと苦しむ素振りを見せたのは、こちらの感情を弄ぶための演技で……嘘。

「言葉が通じても、争う奴らがいる。ましてや言葉が通じないんじゃ、心なんて通わせられるわけが無い」

 トン、トンとフローリングが音を立てる。痛みで立ち上がれない自分に、彼女はゆっくりと指を差した。

「自己満足。そうでしょう?」

 小学校の頃の記憶と共に、苦々しい味が蘇ってくる。

 マユは、いつだって笑ってくれた。自分が苦しい時も元気で、いつも家に幸せを振りまいてくれた……はず。

 信じて疑わなかったのに、胸を張って叫ぶことができない。

「違う……私は、あの子のために、いつも」

「救えないわねえ、きたならしい」

 動こうとすると、さらに痛みが増してしまう。目に見えず、血も出ていないが、服の下は覗きたくない。

「……もう、この身体も潮時ね。外に出てしまえば、身元が割れるのも時間の問題かな」

 ふとイロハが立ち止まり、自身の手をまじまじと見つめる。

 真里亜の顔は、警察に知られているはず。外出こそすれど、彼女が自身の存在を隠していた理由が遅れて繋がった。

「私は次の獲物を探す。この世のきたない人間全てを滅ぼすまで、この魂は終われないからね」

 人に知られた真里亜の姿と、人に近付けないマユの姿。

 全身が震え上がった。笑みを消したイロハの目は、ただ一点こちらの身体を睨んでいる。

「貴方の、身体を使って」

「はっ……?」

 不意に、自身の呼吸が止まるような感覚を覚える。

 イロハを殺すことは叶わなかった。今の家には母もおらず、身動きの取れない自分と彼女だけ。

「殺してやる……ってこと。ちょうど、この子みたいにね」

 突き飛ばされた瞬間に、逃げ道はもう絶たれていた。


 まだ動かせる腕で、置き時計を必死に手繰り寄せた。

「来ないでっ……このっ、化け物!」

 イロハの頭に、残された力で投げつける。鈍く砕けたような音と、衝撃で彼女がそっぽを向く。

 それでも、瞬時に向き直って足を踏み出し、止まらない。

「どうして、どうして……どうしてっ、どうして!」

 リモコン、本、鋏、花瓶。手元にある物全てを投げつけても、その足は構わず進み続ける。

 物が砕け、ガラスの割れる音だけが、虚しく響き渡る。

 それでもと、腕を振り上げて今できる抵抗を続けた。

「しつこい、気色悪い、ウザい、気持ち悪いっ……!」

 今こんな所で死ねない、死ぬわけにはいかない。

 大切なマユの願いを叶えることもできず、無念を晴らすこともできず、その仇を討つこともできずに、途中で倒れて死ぬことなんて。

「偽物のっ……あんたなんて!」

 最後に一つ。手元に残ったのは、この写真立てだけ。

 思い半ばで自分が消えることなんて、露ほども思っていないだろう、その腹立たしい脳天に。

 せめて一矢報いようと、叫びと共にそれを振り上げた。


「あっ……!」

 その瞬間、投げようとしていた手がぴたりと止まる。

 初めて出会って、ちょうど一年が経った節目の日。ふと思い出に残る写真を撮ろうと思い立って、新しく買ったクッションの上でカメラを構えた。

 今となっては遠い昔のようにも思える、自分とかつて生きていたマユとのツーショット。

「……ねえ、マユ。お願いだから、顔見せてよ」

 投げることはできず、全身の力が抜けて床に座り込む。

 どんな笑顔かも、次第に薄れてきた。あの子のいない日々と、イロハの創った紛い物が、欠けてきた記憶を無理矢理埋めようとしてくる。

 そして、当たり前のように触れていた本物は、遥か遠くに飛び去っていなくなっていく。

「もう一度、私の前で笑ってよ。マユがいなくちゃ、私何にもできない、よぉ」

 目の前の現実を直視できなくなって、涙が溢れてきた。

 何か特別なことをしたかったわけじゃないのに。いつかは来る寿命のことを忘れて、ふたりで幸せに過ごしたかっただけなのに。

「やだよっ、マユぅ……!」

 もう帰ってこない、あの子のことを思い浮かべて。

 両足に顔を埋めて、友達に見放された子供のように。声を上げて咽び泣いた。


「……最後まで、どうしようも無い奴」

 足音が近付いてくる。強い力で両肩を掴まれ、強引に引き上げられる。

 無造作にかかる黒髪を払われ、剥き出しになった首元。

 ドクン、ドクンと脈打つそこに吐息がかかり、直後に勢いよく噛みつかれた。

「はっ……うぐ、あがっ!?」

 手首が震える。足が揺れ動く。抵抗する暇も無く、その牙はより深い所まで。

 噴き出る血と共に、堪え難い痛みが襲いかかってきた。

「い、ぎゃぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 全身が熱い、痛い、苦しい。前後左右に逃れようとしても、彼女の石のように固まった腕が動かせない。

 視界が紅く染まった、鏡のように綺麗な床も、写真立ても、真っ赤な血で汚されていく。

「いやぁぁっ、いたい、いだいっ、いぎぃぃ!!」

 涙と、血と、叫びとが、形を為さないそれらが全部混じって、ぐちゃぐちゃになっていく。

 走馬灯なんて、飾り気のあるものなんて無い。ただ、痛みから逃れたいという獣のような本能と、薄れいく意識とのぶつかり合い、傷付け合い。

「ああっ、う、らああっ、ひぃぎ、うううっ……!」

 肉が裂ける音、血が零れる音。嫌だ嫌だと思っても、全身の強張っていた力が次第に抜け落ちていく。

 最後に見えたのは、ひっくり返った背後の景色だった。

「……あっ」

 喉が焼け、流血が枯れ果てる。最後の瞬間だと悟ったのか、刺さっていた牙をイロハが引き抜く。

 前触れも合図も無く、そこで眼前の光景が途切れた。


「……の、ゆき、の」

 見上げると、真っ暗闇だった。日本なのか外国なのか、そもそもこの世なのかも判別できない果ての空間。

目印になるようなものも無く、差し込んでくる僅かな光さえも見られない。

 そんな空間で、少女のような叫び声が耳に入ってきた。

「どこにいるの、雪乃っ!」

「だ、れっ……?」

 誰かが自分を呼んでいる。動けるようになった足に力を込め、立ち上がって声のした方に走る。

 場所も方角さえも分からない、果てのような異空間で。

 ひたすら足を進めていると、やがて自分とは違う存在が、無機質な視界に飛び込んできた。

「……マユ?」

「ここ、どこなの、怖いよぉ……苦しいよぉ!」

 遠めでも分かる真っ白な毛玉に、今は崩れてしまっているが、可愛らしい顔。見紛うこと無く、自分の知っているマユそのものだった。

 猫のそれではなく、自分にも聞こえるような言葉で喋っている。でもかつてのイロハのような、偽物と接する違和感は微塵も感じられない。

 ようやく本物と出会えた、とひとまず胸を撫で下ろす。

「大丈夫だよ。私……ここにいるよ、マユ?」

 しかし、まだ離れているからか声は届かず、こちらに視線が向くことも無い。ずっとひとりで寂しかったのか、ただ一心不乱に泣き続けている。

 自分が、傍にいてあげられなかったせいで、こんなことに。

「どこにも行かないで、雪乃っ……」

「もう泣かないで、マユっ!」

 暗闇から、救い出してあげないと。必死に走りながら、抱き上げようと手を差し伸べる。

「今度こそ、私が……マユを!」

 もう少しで届く。あの時は助けられなかったけど、後悔を乗り越えて、自分の力で。


 しかし、マユの真っ白な身体は、自分の両手をすり抜けた。

「……えっ?」

「私、雪乃がいないと、何にもできない、のに」

 立ち止まって、唖然とする。触れられないし、声も届かない。こうして目の前にいるのに、あと一歩、肝心な所で救い出すことができない。

 永遠に離れ離れになるよりも、マユが目の前で悲しみ、そして泣き崩れている方が、堪え難い光景で地獄だった。

「ねえ、マユ……聞こえる? お願いだから、返事してよ」

 立体映像に触れているような感覚。今すぐにでも頭を撫でて、そして抱きしめたいのに、掴むのは虚空でしかない。

「どう……して」

 ようやく気付いた。ここは、取り込まれたイロハの中。

 イロハに殺された各々が監獄のように封じ込まれて、互いに触れることも話すこともできない永遠の孤独。

 生きる気力を失っても、心が壊れても、一生このまま抜け出ることは叶わない。

「一緒にいたい、って……こういう、ことじゃ」

 もっと早く、マユの気持ちに寄り添っていれば。もっと早く、いなくなったマユのことを見つけ出せていれば。

 後悔が雪のように降り積もっていく。それでも、イロハに抗うことも、マユに謝ることもできない今、できることなんて何も無い。

「おねがい。私を、捨てないでっ……雪乃」

「ちが、う。私は、捨ててなんて……」

 残された手段は一つ、現実を直視して佇むことだけ。

「い……いやぁぁぁぁっ!」

 感情を言葉にできず、ただ泣き叫ぶ。その時、自分の心の壊れる音が、はっきりと聞こえた気がした。



 夏休みからしばらく期間を経た、九月の新学期。

「おはよう、みんな」

 自分の名前が書かれた下駄箱を探し出して靴を置き、周りと歩調を合わせて階段を上る。

見よう見まねの素振りで通学し、教科書に書かれていた自分のクラスを辿って教室に入った。

「おはよう、雪乃ちゃん!」

「あれ……雰囲気変わった?」

 かつて「彼女が」まとめていた髪は伸ばし、少し大人びた雰囲気を意識してコーディネートを行った。

 まずは、新しくなった自分の第一印象を刻み付ける。

「ずうっと子供みたいなのは、恥ずかしくて。頑張り過ぎちゃったかしら?」

「ううん、すっごい似合ってるよ!」

「ニュー雪乃ちゃん、って感じ!」

 ありふれた格好と、顔が揃っていた。少なくとも、性悪さが表面に出ている人間は見られない。

「ありがとう。そう言ってもらえて、私も嬉しいわ」

 でも、彼らはいずれきたない本性を現していく。

 自分が裁かなければいけない。かつて捨てられた者として、人間の持つきたなさと、その悪事を。


 学校に通い、みんなの姿を見るのはこれが初めてだった。

「あっ……先生来ちゃった、戻らないと」

 ここにいる四十人の同級生たち。害をなす人間を滅ぼすために、自分は彼らに近い中学生に成り代わった。

 席について辺りを見回す。一度でも隙を見せれば、必ずそこに飛び込んで見せる。

「おはようございます。今日から新学期ですが、今日はどうやら、サボろうとする猛者はいなかったようですね」

 それでは出席を取ります、と先生が机に置いた冊子を開く。あ行の名前から始まるそれは、自分の名が呼ばれるまでは退屈で仕方が無い。

「それでは、雲雀、雪乃さん」

 ここから、自分の新しい人生と日々が始まっていく。

 少し大袈裟に思えるかもしれない挙手をしながら、自分は前のめりに声を張り上げ、叫んだ。

「はいっ!」

 自分の素性も知らず、ただ元気そうな笑顔を浮かべる同級生。その無邪気さが馬鹿馬鹿しく、憎たらしい。


 机に掛けた鞄に付いているのは、登校前日に可愛いからと適当に付けた、あの時買い物でプレゼントされたイルカのキーホルダー。

 もう一つの片割れを持ち歩くことは、終に無かった。


 完

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