第6話 繭の中の記憶
「もう要らないや、君」
生後間もなくの記憶は、もうほとんど残っていない。
覚えているのは、真里亜を名乗る少女に買われたこと、イロハという名前を付けられたことと、昼夜を問わず、彼女からカメラを向けられていたこと。
そして、生後一年で真里亜に家から放り出されたこと。
「私さ、小っちゃい子が好きなの。育っちゃダメなのに、どうしてオトナになっちゃったのかな?」
「……ミィ?」
どうして捨てられたのか、はっきりとは分からない。でも、自分の身体を片手で軽く握り、道具のように運んでいる姿から想像できた。
自分はきっと、不要な存在になってしまったのだと。
「インスタで数字も取れなくなっちゃったしさ。まあ、ここら辺が買い替え時って感じだよね」
ご飯も、装飾品も、何も持っていない。本当に一文無しの状態で、さも当たり前かのように運ばれていく。
このままでは捨てられてしまう。そう思って、自分は手足をばたつかせて抗った。
「ミ、ミ、ミ」
「何、文句あるの? 可愛くなくなったブスのくせに」
それでも、一度決まった運命は変わらなかった。
人の力に敵わず、突き飛ばされる。整っていた毛並みが、水溜まりに当たって汚された。
「良い? 女の子っていうのはね、ソトヅラが良くて、友達たくさん持ってれば、何をしたって許されるんだよ」
言葉の意味が理解できない。理解できないまま、真里亜は自分に背を向け、立ち去っていく。かつて向けられていた視線は、愛ではなくただの興味だった。
「あーあ……ママに次の子、買ってもらおっと」
本当は、どうしてと叫びたかった。でも、伝わらない。
数多あるケージから、自分を選んでくれた喜び。視線を向けてくれて、一度はお世話をしてくれた感謝。
「にゃ……」
それら全てを失い、代わりに湧いてきたのは悲しみだった。
絶えず耳に飛び込んでくるのは、賑やかな音だった。
人間の話し声や足音、車の通り過ぎる音、鳥の鳴き声。外の世界は色彩も豊かで、太陽の赤、木々の緑が、モノトーンだと思っていた風景を明るく変えてくれる。
しかし、それら全ての意識は決して自分に向けられない。
空腹になっても人は助けてくれないし、他の動物も自分が生きるので精一杯。雨が降っても怪我をしても、こうしてくれと教えてくれる存在はいなかった。
自分は頭が足りなかった。物心がついた頃から、ケージか室内で過ごしてきたので、外では生きられない。
それでも時間だけは進んでいく。痩せ細って、傷だらけになって、生きるか死ぬかの境目になっても、自分を救ってくれるような奇跡は姿を現さない。
自分はどこか、大きな勘違いをしていたのだと分かる。
今まで食べ物を得られたのは飼い主のお陰で、住む場所があったのも飼い主のお陰。安心していられたのは周りの人のお陰で、自分が無事に産まれてこれたのは、顔も覚えていない人間のお陰。
自分がひとりで掴み、作り上げてきたものは何も無い。
最初から野生だったなら、ボロボロになっても生きられたのだろうか……いや、きっとそれも無理だろう。
意識が徐々に薄れていく。明るいけれど誰も見てくれない、孤独で冷たい世界の中心で。
そしてある日、限界が来た自分は街の道端で果てた。
一度、自分の短い生は終わりを告げたと思っていた。
「はぁっ、はぁっ、は、あっ……」
でも、今の自分は眠りから覚めて、そして走っている。
以前とは比べ物にならない速さ。どれだけ走っても疲れないし、脚の付け根から力が湧いてくる。
自分の姿に怯え、逃げ惑う真里亜を追いかけられる程に。
「来ないで、近寄らないで、触らないで……とっとと、消えてよぉっ!」
真里亜の叫び声に応じる者はいなかった。飢えて乾いて傷付いて、壊れてしまったあの時の自分と、同じ気分を今の彼女が味わっている。
いい気味だった。もっと苦しんで、壊れてしまえば良い。
「もしもし、警察ですか……今すぐ、来て下さい。変な奴に、追いかけられてるんですっ!」
助けを呼んでいる間にも、距離がどんどん縮まっていく。
視界に収まる程だった隔たりが、建物一つ分の隔たりになり、数人分になり、一人分になり……
大きくなった手と、鋭くなった爪が、彼女の肩を捉えた。
「どこだって……阿仁の公園ですよ! どうして分からないんですか!?」
自分の脚をふと凝視すると、その先端が透けていた。
きっと、死ねなかったのだと思う。身体は傷と空腹で朽ちても、魂は燃え尽きない限り、消えはしない。
誰も見てくれなかった無念と、生を成し遂げたい執念。
「とにかく大変なんです! このままじゃ、私は……」
本能に導かれるまま、両脚に力を込めて飛びかかる。
瞬間、涙で崩れかけた彼女の瞳が目に入る。そこに映る自分は、全身半透明の化け物。
「はっ……!」
真里亜を捕まえた時、そこでようやく実感が湧いた。
捨てられ、飢えて果てても旅立てなかった自分は、異形の存在に化けたのだと。
人の消えた薄暗い廃ビルの、錆が入った非常階段。
「い、や……いや、だ」
真里亜の意識は残っていた。涙の枯れた瞳に、弱々しくなった声になっても、まだ壊れていない。
だが、足だけは勝手に動き、階段を少しずつ上っている。
「死にたくない、死にたくない、じにだく、ないっ……」
視覚、聴覚、嗅覚に感覚。全てに憑りつくこともできた。
でも、それでは全てを投げ出して楽になってしまう。足以外が全て動かせるなら、真里亜は目を剥きながら自死から逃げようとする。
本当は、どうしようも無く頂上に向かってしまうのに。
「私……わたしっ、まだ、中学、生なのに。ねえ、許してよねえ、おねがい、一生の、おねがい、だからっ!」
ここで終わるような奴の一生なんて、欠片も要らない。
手摺に足が掛けられた。来る痛みは変わらないのに、彼女は首を必死に振って抗おうとする。
何をしても許されるなんて、吐き捨てていたくせに。
「私は、一年しか生きられなかったのに?」
「……えっ?」
死の淵に迫った彼女の脳に、直接言葉を投げかける。
不思議な感覚だった。殺すだけなら喋らずできるのに、今出せる最も大きな苦しみを、思い浮かべたそのままの形で与えようとしている。
汚らわしくも、人に染まってしまったのかもしれない。
「真里亜ちゃんには、十四年があった。私たちが一生暮らせるくらいの時間を、貴方はぐしゃぐしゃにして投げ捨てた」
風が吹いてきた。真里亜の束ねた黒髪が揺れ、絶望に満ちた視界をほんの一瞬だけ阻んでいる。
次に視界が晴れ、辺りが静寂に包まれたその瞬間。
「……もう、良いでしょう?」
真里亜は、非常階段から地上へと真っ逆さまに落ちた。
「いやぁぁぁぁっ!!」
真里亜の身体から抜け出た時、彼女の魂は消えていた。
「……本当、酷い顔」
出血や損壊は言うまでもない。視界にこびりついたのは、嘘の笑顔で周りの視線を集めようとしていた、そんな彼女の泣いて壊れて、果てた姿。
汚いよりも、きたない、と形容することができた。
「これでも、私は満たされない……か」
未練は、果たされない。真里亜の死を以てしても、異形になった半透明の身体が消え失せることは無かった。
なら、周りを取り巻く環境を変えてみるしかない。
「やっぱり、やるしか無いみたいね」
大口を開け、力の抜けた彼女の遺体を掴んで引き寄せる。
生前なら、貪るなんて有り得ない体格差。でも本能が、この存在を喰えと訴えかけている気がした。
「……いただきます」
しばらくの躊躇の後、意を決した自分は、殺した真里亜を体内に取り込んだ。
でも、自分を取り巻く環境なんて少しも変わらなかった。
真里亜の家に戻れば怪しまれることは目に見え、化け猫の姿に変わって走り回った所で、一度穴の開いてしまった心が、満たされることは無い。
湧いてきた恨みと憎しみに身を任せた結果が、この孤独。
「……ある意味、自業自得ね」
やがて日向に出ることも嫌になり、滑り台のトンネルに、丸まったまま一日を過ごしていた。
生きる目的も意味も無い。化けたら寿命も無くなるだろうから、終わりの概念も存在しない。
この世界が終わるまで、自分はここで過ごすのだろうか。
「しゃあ……あたれっ!」
「延長戦だぁっ、いくぞ!」
時折目にする子供たちは、自分が丸まっている間に大人になる。もし子供ができたなら、その次の世代にバトンが移り、みるみるうちにお年寄りになっていく。
その間、自分は未練が果たされないまま変わらない。
死よりも、今では時計の音の方が怖かった。誰かに拾われるまでの、気の遠くなるような時間。
「こんな気持ちに、なるくらいなら」
夢なら冷めて欲しい。真里亜は自分を捨てずに、たとえ自分が大人になっても、そして老いても、最後の瞬間まで一緒にいてくれる生涯。
一度は見捨てたその光景が、今になって蘇ってきた。
「私、生まれてこなかったら……」
目を瞑り……誰もいない所で、無になろうとした刹那。
「ねえ、こんな所で何してるの?」
飛び上がりそうになった。人間では無い……猫の言葉。
「……へっ?」
「貴方、猫ちゃんでしょ? 良かったら一緒に遊ぼうよ」
手を伸ばしてきたのは、真っ白な猫だった。声を聞くだけでも分かる、天真爛漫で明るい存在。
いつも日陰に隠れていた自分とは、かけ離れた生物。
「遊べないわ」
「どうして?」
「私に会うと、みんな不幸になってしまうから」
半透明の姿を見ても、白猫は逃げも怯えもしない。仲間だと信じて疑わず、日向からこちらに歩み寄ってきた。
「えっ……でも、私幸せだよ。猫ちゃんのお友達に会えて」
「お友達?」
「そう。目と目が合えば、みんな私のお友達っ!」
唖然とした。誰が見ても言うであろう、変わった子。
でも、不思議と悪い心地では無かった。彼女といると、毎日が幸せで、何も知らなかった頃の生前を思い出す。
「貴方、名前は何ていうの?」
「……イロハ。あの子からは、そう呼ばれてたわ」
毛並みが整っている。言葉に出さずとも、この子は飼い猫。
家を失ったかつての自分と重なる。この子はひとりで生きていく術を見つけたのだろうが、同じ猫を探していた理由がようやく分かったような気がした。
「私はマユだよ。よろしくね、イロハちゃん!」
この子となら分かり合える、そう思うと、自分の閉ざされた心に光が灯った。
「外の世界を、見てみたくなった?」
マユはいつも、自分の知らない場所に飛び込んでいた。
木に登ったり、遊具に登ったり、噴水に触れようとして、やっぱり怖くなって逃げ出したり。
「一生ってね、長いと思えば意外と短いんだよ」
「そう……なのかしら」
「だから、今一番やりたいことをやるの!」
自分はあの子の一歩後ろを追いかけ、時には木陰で休む。
不意に寂しくなったら一緒に遊んでくれて、悲しい時はその気持ちを分かってくれる存在。
ある意味、初めて出会ったパートナーのような存在だった。
「でも……雪乃ちゃんも嫌いじゃないよ。いつも私のお世話をしてくれて、可愛がってくれるから」
唯一分からなかったのは、人間を赦していること。
自分はそうは思えなかった。殺しても取り込んでも、自身の思う人間の中心には、真里亜がいたから。
「……部屋に、閉じ込められたこともあるんでしょ?」
「人には人の悩みがある。今ならそう思えるんだ」
それでも、と疑心が滲んでいる自分に、マユは距離を縮めて身を摺り寄せてきた。
「イロハの気持ちも分かるよ。でも、人は悪いだけの存在じゃないから」
嫌な記憶が徐々に薄まっていく。できるなら、この幸せがずっと続けば良いのにと、思ってしまう。
「お腹空いてきちゃった? こんなこともあろうかと、おばちゃんから貰ったの」
振り返ったあの子の口には、ししゃもが加えられていた。
反射的に、ほんの一瞬だけ両目が輝いた。だが、すぐに正気に戻ってしまう。
「悪いけど、それは要らないわ」
「どうして? 少しは食べなくちゃ……」
出しかけた腕が力無く下ろされる。マユの心配そうな表情は胸が痛かったが、それでも応えられない。
待ち構えていたように、子供の投げたボールが、こちら目がけて飛び込んできた。
「あっ……危ない!」
「離れなさい、大丈夫よ」
「えっ!?」
本当なら、こちらの頭に直撃してしまう軌道。
でも、ボールは身体をすり抜けた。最初から何事も無かったかのように、痛みさえも感じない。
そして、投げる場所を誤った子供も黙って拾いに行く。
「心を許した存在か、強い恨みを持つ相手にしか、私のこの姿は見えないのよ」
偶然出会ったマユが自分を視認できたのは、数多の可能性が積み重なった奇跡なのだと思える。
でも、それは一瞬の驚きと恐怖があれば、容易く崩れ落ちてしまうもの。
「それ、って……」
「軽蔑しちゃった? 無理もないわね、こんな化け猫なんて」
情けない表情を見られたくなくて、ゆっくりと背を向ける。
ほんの少しの間だけど、楽しかった。そう告げようとして、とうに温度を失った口を開こうとする。
あの子が、引き留めようと腕を掴んでくるまでは。
「ううん。貴方がどんな存在でも、私は怖くないよ」
周りに人間はいるのに、他の存在には見えない特別な空間。
マユは瞳の輝きを捨ててはいなかった。こちらを知り、その距離はさらに近くなっていく。
「……嘘おっしゃい」
「嘘じゃないよ」
「嘘よ。実の飼い主にだって、見捨てられたのに」
睨んで、見つめて、怒って、悲しむ。自分の感情がコントロールできなかった。生まれた時から今に至るまでで、一番大きいとも思えた揺れ動き。
「私にとってのイロハは、一匹でずっと頑張ってきた猫ちゃん。貴方と出会ったことを、私は一度だって後悔してないよ」
知らないくせに、と振り払いたかった。でも、そう思ってくれていたんだ、という安心も同時に襲ってくる。
「今までのこと。イロハだって、きっと忘れられないだろうけど……大切なのは、これからだから」
捨てられない過去と、捨ててしまった未来。マユは二つとも持っているのだろうと思うと、羨ましくなる。
今までの自分がもっと、マユのように強くいられたら。
「でも、私には……もう」
「もっと自信を持とう。そうすれば、今からだってまたスタートできるよ」
スタートがどこかは、終ぞ教えてくれなかった。それは自分自身が決めることだからと、判断を委ねられる。
誰かに決められた一生の先、誰の力も借りない決断。
「私も、そしてイロハも。まだゴールは決まってないからね」
かくして、こちらが異形の存在だと知っても、あの子は自分のことを受け止めてくれた。
でも、マユが始めた毎日は、マユの手によって壊された。
「私……やっぱり、帰ろうと思うんだ」
暑い日差しから一転、今にも雨が降りそうな、曇天。
早朝の滑り台の頂上で、マユは意を決して口を開く。
時にみんなから愛され、公園での遊びも一通り終えたあの子は、とても寂しそうな顔をしていた。
「……えっ?」
「イロハが嫌いになったわけじゃないよ。でも私、大切なことに、気付いたから」
失望、すれ違い。真っ先にそれらの感情を疑ったが、違う。
「こらー、いきなり走っちゃダメでしょ!?」
「バウ……ワオンッ!」
公園には子供がいて、遊ぶ姿を見守る親子がいる。そして、散歩をする犬とその飼い主も。
自分から捨ててしまった居場所。その決断が幸せだったのか、結局どこかで捨てなければならなかったのか、今でも路頭に迷うことがある。
そして、それは隣に座るマユも例外では無かった。
「雪乃はきっと、今でも私のことを心配してくれてる。それなのに、私は自分の気持ちばっかり、一番にしてた」
嫌われたのではないと分かる。可能性を探って、考えて、ようやく辿り着いたマユだけの結論。
「だから私、謝りに行きたい。雪乃を悲しませる真似は、もうしたくないから」
「そん、な」
だからこそ、後悔とやるせない気持ちが積み上がった。
既に決まった現実だけが無機質に突き付けられる。自分にそれを考える暇は無く、降りかかる。
「大丈夫。ちゃんと謝って、もし許してもらえたら、またイロハにも会いに行くから」
マユだけが、力のこもった声で告げる。自分は心の準備も何もできていないのに、マユだけが。
「約束するよ。雪乃のこともイロハのことも、私は絶対に忘れない」
一旦の別れの日は、もう明日にまで迫ってきていた。
一度は、こんな自分のことを認めてくれたのに。
「イロハ……? どうしたの、こんな時間に?」
別れを告げられたことは、気にかけていない。許せなかったのは、自分と一緒にいるよりも、人間と一緒にいることを選んだこと。それも意地の悪くて、きたない存在に。
最初に出会った時、同じ境遇だと思っていた。互いの時間を分かち合って、もし自分の勘違いであったとしても、同じ道を辿れると信じていた。
「人間はみんな、きたない。見た目をどれだけ誤魔化しても、心にあるドロドロの欲望は、みんな一緒」
「……えっ?」
ブランコの上に乗る。ゆらゆらと揺れ動き、気を抜けば落とされそうな不安定さを織り交ぜながら。
その傍には、自身で探り当てた大きな岩が佇んでいた。
「貴方も変わらないわ。人間に肩入れする奴は、みんなそのきたなさが伝染していく」
解き放つ光と共に、取り込んだ真里亜の姿に変化した。
かつては憧れだった存在。捨てられて、恨みと共に殺した後は、半ば同化することさえ気色の悪い。
だが、目的を遂行するために、この身体は十分だった。
「終わらせてあげる。貴方を、きれいなままで」
反応する前に。大きな岩を持ち、自分はその場に凍り付くマユに目がけて襲いかかった。
「……っ!」
「結局、これで全部振り出し……ね」
真っ白な頭から血が垂れ始める。それが地面を侵食し始めると、ようやく後悔という感情が浮かび始めた。
だが、一度命を殺めることができてしまえば、二度目は容易くその壁を乗り越えていく。
ある種呆気なくもあり、心底気色の悪い感覚でもあった。
「ご、めんね。ゆき……の」
「はっ?」
聞き間違いでは無い。痙攣しながら、か細い声が出ている。
立ち上がる力は持たず、しかしながら僅かに残った灯を頼りに、マユは目を開いた。
「お外、あぶない。やくそく……全部、やぶっちゃった」
死にたくない、助けて欲しい。そう言うと思っていた。
死の淵に立ってもなお、飼い主を一番に気にかける。揺れ動かない軸が、また憎い。
手に持っていた紅い岩が、力無く地面に零れ落ちた。
「きっと……おこってるよね。ゆるして、くれないよね?」
違う、人間なんて、きっとお前のことを忘れている。いなくなったら、次の子を探そうと、思っている。真里亜がそうだったように、雪乃という人間だって。
震えながら叫ぼうとしても、吐息にしかならなかった。
「わるい、子で……ごめん、なさい」
微かに残っていた力が抜けた、瞳から光は消え、そこにはマユだった物質がただ佇んでいるのみ。
瞬時に腐るわけでも朽ちるわけでも無く、ただ辺りを包む空間に無が広がっていく。
この子の生涯はここで終わりを告げ、死んだのだと分かる。
「どいつも、こいつも」
手玉に取られているような錯覚。悲鳴を上げる者もいなければ、遺体に群がる者もいない、寂しい夜。
「バッカみたい……」
あの時のように、背を向けて立ち去ろうとした刹那。
「雪乃……と言ったかしら?」
何も終わっていない。自分にはまだ、やるべき選択肢が残されている。
人間である真里亜の姿と、猫であるマユの姿を借りれば、自分も雪乃という人間に辿り着けるかもしれない。自分のエゴで猫を縛り付け、それでもマユが愛し続けていた、得体の知れない存在に。
「確かめてやるわ。雪乃が、守るべき存在なのかどうか」
マユの遺体を引っ張り、尻尾から順に貪っていく。傍から見れば、人が猫を食す異様な光景。
だが、自分は駆られていた、やらなければという使命感に。
「……ごちそうさま」
全身に力を込め、確かめてみる。自分の意志に応じ、マユと真里亜の姿を使い分けられた。
捨てられたはずの猫が戻り、奇跡が起きて人に化けられるようになった。思い付きでそんな設定を組み上げる。
まずは平静を装って雪乃に接触する。もし気に入らなければ、隙を見て殺してしまえば良い。
「待ってなさい。見つけてあげるわ、必ず」
何か前触れがあったわけでは無い。でもこの時の自分は、全てがうまく行くような気がしてならなかった。
続く