第5話 壊れるキズナ
暗闇の中、何かに呼ばれたような気がして目が覚める。
顔を上げる、時刻は午前の一時。誰も起きていないはずなのに、扉の隙間からは光が差し込んできた。
耳を澄ませると、下の階で物色するような音がする。
「えっ、何……?」
昨日の不安と倦怠感がまだ抜け切っていない。眠い眼を擦り、物音を消して自室のドアを開ける。
キッチンが光っている。やはり、気のせいでは無かった。
「まさか、空き巣?」
大声を出した方が良いのだろうと思った。それとも身を隠し、警察や知人にでも助けを求めるか。
だがこの時は、冷静な判断よりも焦りが勝ってしまう。
一段、一段と階段を降り、扉に一瞬背を向けた後、意を決して物音の主に接近する。
「貴方、一体誰なの……?」
「……ハッ!?」
深夜に物が散乱したキッチン、その中心には……
夜食を頬張る、猫の姿のマユが鎮座していた。
「一度ならず、二度までも……流石ね」
何なの、と叫びたい衝動に駆られる。つまみ食いをするマユと、一瞬でも空き巣を疑った自分自身に。
「ハァ……」
「ちょっと、何よその顔?」
呆れ笑いを浮かべながら、力無くその場に座り込む。
一度は身を預けた存在の、何よりもだらしない姿。口元に残る食べかすが、より一層間抜けな印象を与えた。
「あのね、お家を食費で潰すつもりなのかな?」
「潰れないでしょ、これしきの食事で」
「そんな、他人事みたいに……」
猫と人間、二つの姿を使い分けるようになると、食事はお互いの姿に対応したものを食べるようになった。
応用は効くし、母のいない時は二人で同じ食事も楽しめる。
しかし問題はその量と、言葉が通じるようになったが故の自由奔放さ。
「ほんと、以前はつまみ食いなんて無かったのになあ……」
話すことはできず、しかしお利口さんだった頃のマユを思い出す。朝と晩、お腹が空いた時は、いつもクッションにちょこんと座っていた。
そして大人しく、飼い主からご飯が来るのを待って……
「……あれ?」
「どうかしたの、変な顔して?」
「ああ……いや、何でも無い」
何か、大事なことを忘れている気がする。記憶があと少しの所でつっかえて、僅かな不快感を覚えた。
きっと、一日が経てば何事も無く思い出すことだろう。
「とにかく、お母さんが起きたらどうするつもりなの?」
大きくなりそうな声をぐっと堪える。冷蔵庫の音がはっきり聞こえる程、辺りは静まり返っていた。
「それなら大丈夫よ、だって……」
一体何が大丈夫なのか、と再び問い詰めようとした刹那。
目の前のマユに意識を向けていた故に、背後に近付いていた影に全く気付いていなかった。
「ちょっと雪乃、こんな時間に何してるの?」
「ふぁっ!?」
こちらと同じく寝起きで眠い眼を擦る、母の姿があった。
仁王立ち。まずいと思って飛び上がるも、キッチンに物が散乱している現状は言い訳のしようが無い。
「あっ……いや、マユが勝手に起きて、つまみ食いしてて」
冷や汗をかきながら振り返る。しかし、マユはそっぽを向いたまま言葉を発さず、尻尾を振った。
大丈夫の意味が、ようやく分かったような気がする。
「ミ……」
「マユちゃんはそんなことしません。ご飯は朝晩だって、いつも言っているでしょう?」
はっと顔を上げる。もう中学生なのに、幼い子供のように震えて何も喋れなくなってしまう。
「今何時だと思ってるの、夜更かししないで早く寝なさい!」
「ふぇっ、ごめんなさい……!」
結局、弱々しい声で頭を下げる他に逃れる術は無かった。
ずっと、何かがおかしいと思っていたことがある。
いつもと違う日々に、いつもと違う言葉の交わし方。でも、ずっと同じは有り得ないからと、目の前の違和感を受け入れて、現実から目を背けていた。
その一つが、秘密を守る約束。その一つが、自分にはマユさえいれば良いという、昨日の言葉。
でも、自分が終わらせなければいけないのだと考える。
いつものままではいられなくなって、今の世界が壊れても、結果として自分が傷付いても、終わりを終わりと言えない自分は、きっと弱い。
期末テストだとか、発表だとか……母の悲しむ顔だとか、後の苦しみは一度頭から捨てる。
もしかすると、何より大切なあの子は、今でも助けを求めているだろうから……
だから、自分は一度勇気を出して、終わりを告げてみる。
自室に歩み寄る母を目にした時、自分は考えるよりも先に体調不良を訴えた。
「……無理はしないでね、雪乃」
心配交じりで、母は仕事に出た。それでも起きないと、と思い簡単な身支度を終えると、人間の姿を取った彼女はソファで紅茶を飲んでいた。
既視感を覚えながら、自分はポッドで白湯を用意する。
「雪乃、体調はどう?」
「そっちは……家にいれば大丈夫だよ。でも、あんなことをしちゃったら、ちょっと行きづらいからさ」
別の意味で、気分が悪かったのは本当のこと。何事も無く登校しても、きっと聡美には気を遣われるだろうし、高野には嫌な顔をされる。
「勉強しなきゃって思うけど、なーんか気分じゃないや」
期末なのにね、と微笑みながら、熱いそれを一口。
「ダメ人間かな、私?」
「人はみんなそうよ。誰だって完璧じゃない」
「……ブレないなぁ」
互いのカップから湯気が立ち上る。だが、先に口を付けた彼女の方が、既に弱まっている。
ふと返答に詰まってしまう。何から始めよう、と思いながら、自然な語り口で言葉を紡ぐ。
「ねえ、マユは覚えてるかな?」
言ってしまった。もう、これで後戻りはできなくなる。
「……何?」
「お母さんが、高熱を出して寝込んじゃった日」
小学校の頃だった。まだマユと出会って間も無く、接し方も分からない時のこと。
いつものように起きると、母が三十九度の熱を出していた。
「お薬の場所なんて分からなくて、私は泣きながら家中を歩き回ってた。そんな時、貴方は必死に鳴いて、タンスの引き出しを叩いてたよね」
うなされていて、意識も疎らで起き上がれない。もしかしたら病気かもしれないと、あの時は思っていた。
「そこに、解熱剤があった。今の私や、お母さんがいるのは、マユのお陰だよ」
自分の胸に手を当てる。結局、そこからの道も茨だったけれど、あの日を機に絆は深まった……と思う。
マユは、自分にとって大切な家族で、かけがえのない存在。
「あの時は、雪乃を助けたいって必死だった。言葉が通じなかったから、せめてできることをしよう、ってね」
彼女は快く頷いた。雨の日、初めて出会った時には、見られなかった明るい表情。
全て、自分にとっては思っていた通りの答えだった。
「私は一瞬だって、あの時のことは後悔していないわ」
「……そっか」
立ち上がって彼女に近付く。何がしたいか分かったのか、手に持っていたコップが遠くに置かれた。
「私、貴方に伝えたいことがあるんだけど、良いかな?」
「わざわざ聞かなくても大丈夫よ、気にしないで」
「……そうだね、ごめん」
思えば昨日もそうだったと反省する。もしこの先があれば、勇気を出せるように心がけてみよう。
抱きしめるように両手を広げ、自分は目の前のソファに向け、彼女を倒した。
伸ばした髪が彼女の頬に触れる、唇も、体勢を崩せば触れてしまうくらいに。
「私はマユが好き。今までも、そしてこれからも」
言い慣れた言葉を、最も重たく強く告げる。答えの間も、ほんの僅かに生じる迷いも、この距離ならよく見えた。
「雪乃……」
「寿命なんて関係無い。私は死んでも、生まれ変わってもマユのことを忘れないよ」
来世で一緒になれたら、もっと嬉しいと思う。昔なら恥ずかしくて口にできないけれど、今の自分には、遠い話のようには聞こえなかった。
「私もよ。この姿になってより一層、雪乃を知れたわ」
表情は崩れない。今目の前に広がっている光景に、何の違和感も持っていないことが分かる。
今この場でも揺らいで壊れそうな、自分とは違って。
「だから……教えて欲しい」
彼女の甘い匂いがした。吸った生き物を高揚させ、骨抜きにしてしまいそうな、甘ったるさ。
昨日猫の姿で吸った時も、同じ匂いがしたような気がする。
「貴方は一体、誰なの?」
でも……それは戻ってくる前の、マユの匂いでは無かった。
十数秒の無音。しばらくしても、マユを名乗った少女は言葉を返せなかった。
「……えっ?」
「おかしいと思ってたんだ。予想外だったけど、お母さんの言ってたことは正しかった」
仕草が違う、匂いが違う、感情のニュアンスが違う。でも、それは一時の疑心で済む程度のもの。きっかけになったのは、母から告げられた言葉だった。
言い訳をした自分に、そんなことをマユはしない、と。
「マユはお腹が空いた時、いつも鳴いて私を呼ぶの。いくら食べ物が欲しくても、自分で勝手に食べたりなんてしない」
身支度をしている時、マユが鳴いてご飯を知らせる。そして、自分がキッチンからご飯を出す。
いつも見ていたはずの風景は、とうに崩れ始めていた。
「ち……違うの。人の姿になれたから、ちょっとはしゃいじゃっただけ」
「……はしゃいだだけ?」
「そうよ。本当は分かってたから、ぜんぶ」
少女の言葉に焦りが見えた。身体はもっと正直なもので、触れた部分が熱を帯びている。
「じゃあ、あの時は? 私たちが会った日の夜、貴方はベッドで添い寝をするのを、いつものことだと言った」
「ええ。以前からずっと……あっ!」
言い終わる前に、目を見開いて口を覆う。でも、疑心は既に確信へと変わっていた。
「マユはずっと、あの部屋のクッションで寝ていたの。お互いに見える場所だったけど、一緒じゃない」
自分は一緒でも良かったけれど、マユは抜け出てクッションで寝ていた。いくら最初から懐いていても、あの子自身に好みがあったのだろう。
ほんのちょっと驚いたからこそ、今になっても覚えていた。
「落ち着いて、雪乃! 私は今でも覚えてる……そうよ、さっき言ってくれた日のことも!」
そう、自分は落ち着いている。それよりも、冷めている。
「風邪薬の話、だね」
「私は本物のマユよ。雪乃にそんな、嘘をつくわけ……」
「……あれ、思い付きで作った嘘なのに?」
一瞬でも信じて、真に受けた自分が憎かった。一度マユじゃないと分かれば、目の前の存在が発する声や姿は、一気に紛い物のように見えてくる。
「そ、んな」
「本当は私も信じたくなかった。だから、本物のマユだったら、絶対に知らないと思う話を作ったんだよ」
少女に覆い被さりながら、胸倉を掴む。マユの行方を知っているなら、こいつに逃げ道なんて残さない。
「マユのふりはやめて……あの子を返しなさい、偽物っ!!」
一呼吸。聞こえてきたのは、乾いた笑い。
「はは、あはは……気付くの、遅過ぎよ」
少女が取ったマユの姿は、間違いなくマユのものだった。
勘違いはしていない。同じ姿になっているのなら、中に宿っている魂が、全くの別物。
「それとも、信じたかったのかな?」
「……貴方、一体」
「私はイロハ」
イロハと名乗った少女が、口を開けながら微笑む。
子供のような笑み。しかし、そこに映る影が薄暗さを足し、怪物のような気配を滲ませている。
例えるなら、口裂け女のような奇怪さと、獰猛さ。
「人間の言葉で表現するなら、幽霊、ってとこかな?」
思い出した、阿仁市の公園に出た子供の幽霊。対峙した聡美の父にとっては、自分たちと同じ歳の中学生も、子供のように見えるかもしれない。
だが、今掴みかかっている存在には、確かな実体があった。
「吸われた時、どうしようかなって思っちゃった……本当、心底気持ち悪くてさぁ」
今もなお、手の上で転がされている。何かを汚されたような痛みと、湧き上がる怒り。
「貴方が幽霊か人間か、化け物かなんて知らない……マユを出して」
三度目は言わない、と握る力を増す。それでも感覚が無いのか、イロハは涼しい顔をしていた。
「無理な話ね。あの子の身体は今、私の中にあるから」
ほんの一瞬だけ、目の前に広がる空間がぐらりと歪んだ。
数日間、マユが姿を見せずに戻ってこなかった理由。外の世界で過ごした経験が無かったのに、五体満足の健康体で帰ってこれた理由。
奇跡が起きたからでは無かった。マユは、もう……
「マユは、私が殺したのよ」
九時を回った、穏やかな青空。半分カーテンの閉まったリビングに、奇怪な亡霊の笑い声が響き渡った。
続く