第4話 雪乃の帰る場所
コスメに日焼け止め、そして真っ白なポーチ。これでも欲しい物から絞り込んでいるはずなのに、カゴの重みは時を経るごとに増していった。
「マユは、何見てるの?」
「この……尖ったペン、みたいなの」
「ええ……?」
シャーペンの使い方が分からないこの子は、異様な長さにまで伸ばしたそれをまじまじと見つめている。
あんまり長いと折れちゃうよ、と念を入れて、畳む気配の無い芯をしまい込む。
「だって高そうじゃない、攻撃力」
文具コーナーに目を移す。そういえば、切れかけていたノートに、買ってみたい可愛いケースもある。購買意欲はどこまで行っても尽きることは無い。
その中でも、一際輝きを放つ消しゴムに目を付けた。
「これ前から欲しかったんだよね。近場だと売り切れてたし」
「……使えるの、それ?」
「んーん。アクセサリーみたいなものだから」
ペンギンの形をした、可愛いキャラクターの消しゴム。擦って削れて黒ずむのは忍びないが、置くだけでも華の無かった筆箱が明るくなる。
今度はマユに首を傾げられた。だが、迷う前に手を伸ばす。
「ラスイチ、いただき……」
あっ、と後ろから声が聞こえてくる。何だろうと思った直後、横からもう一本の手が伸びてきた。
止めることはできず、そのまま二本が接触してしまう。
「んっ?」
「あっ……ごめんなさい」
直後、反射的に謝罪の言葉が飛ぶ。驚いて見上げると、魔の前には見覚えのある人物が立っていた。
「しばらくぶりだね、雪乃ちゃん」
あまり私服は見ないかもしれない。勉強から抜け出し、一人で買い物をしていたのだろう、二年四組の聡美。
友達に会えた嬉しさと、思わぬ所で出くわしてしまった恥ずかしさが混じって、目が丸くなる。
「おおっ……一時間、ぶりかな」
マユがこちらに視線を向けるが、話さない手は無かった。
「聡美ちゃん、サボりは良くないんだよぉ?」
「同じでしょ、雪乃ちゃんだって。テストを前にしてエネルギーが切れちゃったんだよ」
賑やかなレストラン街で唯一、落ち着きを放つカフェ。
聡美が意気揚々と頼んだパンケーキには、アイスクリームと真っ赤な苺が上に乗っかっている。
少なくとも、あんな豪勢な物を食べる気にはなれない。
「あれ、そういえば高野さんは?」
「ちょっとね……ふはつでいそはしいの、いは」
「いや、何言ってるか分かんないけど……」
話している間に、ストロベリーチョコのパフェとレモネードが来る。疲れた頭に、冷たさと甘さが沁みていく。
隣に座っているマユにアイスティーを差し出すと、会釈と笑顔が返ってきた。
「そういえば……その子は?」
やはり来たか、と汗が滲む。マユは緊張気味のようで、自分から口を開けようとしないし、視線も合わない。
なら、自分がうまく切り抜けて繋いでいくしか方法は無い。
「親戚の子。普段はちょっと離れた所に住んでるんだけど、たまに遊びに来てくれるの」
「雲雀……真由です。よろしくね」
マユがすかさず言葉を続け、バトンは無事に繋がった。しかし言い終わってみると、夏休みを控えた期末に親戚が来るのは、どうもおかしな話に思える。
それでも、聡美はその場の雰囲気に何となく乗せられた。
「えっ、めちゃめちゃ可愛い! 何年生?」
「えと……二年生」
「同い年じゃん! すっごい、目キラキラしててアイドルみたい!」
押しに負け、マユがたじろぐ。いつもと異なる形とはいえ、自慢の家族が他のみんなにも愛されている。
自分のことでもないのに、褒められると鼻が高かった。
「ねえねえ、いつまでここいるの?」
「そう、ね……」
すぐには答えられず、マユは考え込む。こちらの念が通じたのか、アイスティーを一口啜って頷く。
「明日になれば。でもまた夏休みになったら、遊びに行く日を作りたいわね」
いつまでここにいるの、という言葉が気にかかった。もちろんこの子の事情を知らない聡美や、人間の常識にまだ疎いマユには分からないことだろうけど……
「えー、悲しいなあ……でもしょうがないよね」
マユは、人間と同じ寿命で生き続けられるのだろうか。
上機嫌な聡美と別れると、もう日は完全に落ちていた。
「あー、どうなるかと思った……」
展望デッキで風を浴びる。眩しい光が消えたからか、ショッピングの後に一息つく学生やお年寄りの姿も見られた。
賑やかだが、案外喧しいとは感じない、不思議な空間。
「でも、意外に何とかなるものね」
「アドリブでね。まあ、もし聡美が学校で喋っちゃったら、ちょっと困るけど……」
クラスメイトと会った時に備えて、言い訳を考えておいた方が良いのかもしれない。一緒に外出しようと、勇気を出して行ってくれたマユのためにも。
ベンチに腰を下ろし、深呼吸をして夜空を見上げた。
「……ねえ、それっていつまで続くのかな?」
「ん、隠し事のこと?」
「そうじゃなくて……ごめん、変身の力なんだけど」
返事はしばらく返ってこなかった。険しい表情、というよりも、何も分からない疑問の表情が見える。
「私は、一生続くと思っているわ。死ぬまで」
「人の一生? それとも、猫の一生?」
死ぬまで、という言葉に一瞬狼狽えてしまった。情けない。
貴方とマユの時間は一緒じゃない。母はいつも、心がけておくべき意識としてそれを話していた。
理解はしないといけないと思っている。受け入れられるかは、また別の話として。
「人の一生、だったら良いなと思っているわ。楽観的かしら」
「楽観的だね。でも、おんなじ気持ち」
街灯の光に照らされて、マユの横顔が光り輝く。驚いた、もう日は沈んで、周りは暗くなっているのに。
「毎日クタクタになるまで遊んで、そして笑いながら一生を終える。そうすれば、私が生きてきた証がどこかに残ると思うのよ?」
「瞬間瞬間を必死に生きる、っていう感じ?」
「生きていても、死んでいても、どうでも良いやって忘れ去られるのが、一番悲しいからね」
一番辛い死は忘却だと、誰かが言っていた記憶がある。
家族が欠けた今の自分には、その意味が分かった。自分という存在が生きてきたことを誰かが覚えていれば、限りのある一生を過ごすことも怖くない。
「じゃあ、ここでその証を残してみよっか」
「……えっ?」
今しか無い、と思って買い物袋を探った。雑貨店に置いていた自撮り棒と、そしてもう一つ。
空を舞うイルカのキーホルダーだった。単体でも可愛らしいそれは、二つ合わせるとハートの形となる。
「ベタだけど、写真はずっと残るからね」
弾むように立ち上がり、できるだけ距離を詰めていく。大切な存在とのツーショットだから、周りの通行人も何ら不思議には思わなかった。
今時の女子中高生のようで、構えているうちに興奮が増す。
「これ、持ってみる? シャッターはここから押せるよ」
「わわっ、ちょっと難しいわね……」
「ゆっくりで良いよ。リテイク大歓迎だから!」
微調整を繰り返して、二人がカメラの枠内に入る。片手にキーホルダーを持ち、マユに自撮り棒を任せて空いた手は、逆ハートを作って彩を添えた。
「笑顔でいこうね。一足す一は?」
「二―!」
「じゃあ……十一足す十一は?」
「分かんなーい!」
二十二だよ、と心の中で突っ込むと、シャッターが鳴る。
美しい夜景が後ろに見える。青空が写っていなくても、これで良かったと胸を張って言える写真だった。
「写真って案外面白いのね。もし秘密にしてなかったら、部屋に飾りたいぐらいよ」
撮り終わったスマホをまじまじと見つめる。部屋に飾るのは恥ずかしいが、フォルダのお気に入り登録は欠かさない。
カメラ慣れはしていないはずなのに、写真のマユは不思議と満面の笑みを浮かべていた。
「喜んでくれて良かった、大成功だね」
昔の記憶が忘れられないなら、新しい思い出で埋める。
一瞬を大切にすることの意義を、改めて知ることのできたショッピングだった。
でも、その大成功は思っていたよりも長続きしなかった。
「あー、これマズいかも……」
倦怠感でベッドから起き上がれない。それに、思考にモヤがかかって、頭がどうもハッキリしない。
一月に一度の間隔で、カレンダーに付けられた真っ赤な丸を見つめる。今日は、その丸が付いた日付の、五日前に該当する期間だった。
「どうかしたの、雪乃?」
「ちょっとね……ややこしんだけど、定期的な体調不良」
こんな大事な時期に、と思ってしまう。それでも身体は待ってくれないし、学校の授業もまた待ってくれない。
脱力感よりも、心配してくれるマユへの申し訳なさが勝ち、ため息をつきながら布団を捲る。
「大丈夫。今日を乗り切れば、何とかなるから」
「しんどいなら、休んだらどうなの?」
「休めって、言ってくれる人がいたらね……」
当日のために、痛み止めの用意はしている。それに、この期間はしんどいと言っても、今まで目に見えたトラブルが起きたことは無い。
油断と空元気が混じって、結局何事も無く起きてしまった。
「これ、高校とか大学になったらもっと酷くなるんだって。その時は、流石にお薬の出番かなぁ……」
パンにヨーグルト、それにハーブティーをスタンバイ。
身体がじんわりと温まる。味覚と、そして嗅覚で、華やかな香りを感じ取った。
「……難儀な話ね」
少しずつ慣れてきたが、最初はその変化にも戸惑った。
頭痛や倦怠感等、目に見えた不調の他にも、目に見えない落ち込みやイライラにも注視しなければいけない。
「お医者さんの所に行っても、どうにもならないの?」
「対策はできても、回避ができないからね。正直嫌だけど、向き合っていくしか無いよ」
パンを咥えながら、猫のマユに朝ご飯を与える。いつもよりも足が重かったが、今から出ればまだ間に合う。
大丈夫。マユがいなくても、自分はきっと何とかなる。
「本当にしんどかったら。途中で帰るのも一つの手よ。私、簡単なことなら代わりにできるから」
皿洗いや、掃除をするマユの姿が思い浮かぶ。失敗する姿しか見えなかったが、想像すると元気が出てきた。
この子に迷惑はかけられない。自分が諦めなければ、全て済む話なのだから。
「最終手段だけどね。でも、無理しない範囲で頑張るよ」
玄関で靴を履く。外の風を浴びると、ほんの気持ち程度だが元気が戻ってきた。
「じゃあ、行ってきます」
休みの連絡は入れず、いつも通りに学校へ向かった。
「……えっ、どうして?」
トラブルが起きたのは、五時間目の社会が終わった直後。
期末に控えた発表資料は順調に組み上がっている。雪乃も聡美も、不慣れな課題に手分けして取り組んでいた。
ただ一人、クラスメイトの高野という女子を除いて。
「今日までに仕上げてくるって言ったじゃん。本番は来週だけど、それまでに手分けした資料を集めないとだから」
一発目、答えは無かった。何かを呟いている気もするが、言葉として成り立たないぐらいに小さく、弱い。
「気持ちは分かるけど、期限は待ってくれないんだよ?」
「まあまあ。高野さん、今はどこまでできてるの?」
聡美が、自分と高野の両方に助け舟を出してくれた。だが、彼女の表情は薄暗いまま一向に変わらない。
それどころか、言葉をかける程に悪化の一途を辿っていた。
「……知らない」
「はぁ、知らないってどういうこと?」
自分だけでは無い。聡美や他のメンバーまで舐められている。そう思うと、溜まっていた苛立ちが溢れ始めた。
「こっちだって頑張ってるんだよっ、色々と……」
「色々だけじゃ分かんないでしょ、ちゃんと説明してよ!」
「偉そうに言わないでよ、こういう時だけリーダーぶって!」
教室中に金切り声が響き渡る。他のクラスメイトたちが、驚いてこちらに振り向いてきた。
ダメだ。もう、取り返しがつかない、戻れない。
「雲雀さんは自分の言うこと聞いてくれる人がいれば良いんでしょ! 友達なんて、人気な子なら誰でも良いって思ってるくせに!」
首を振って否定できなかった。でも、と視界が揺らぐ。
お前には言われたくない。自分の都合しか考えずに、周りに毒を撒いているお前にだけは。
「私がどうとか関係無いでしょ!? やることやってないのはあんただけなの。この班で、あんただけが!」
そうだ、最初からこいつのことは気に食わなかった。
グループの輪に、中途半端に入り込んでくるくせに、冗談を言ってもしかめ面。正論を言えば良いと思っている、何の役にも立たない奴。
どうしようも無い奴。いない方が良い、こんなの邪魔。
「あの、二人とも……」
「またそうやって上から目線。人の気も知らないで、自分勝手で気取っちゃって……」
止めに入る聡美は、もう視界に入らなかった。被害者ぶって涙を流し、両手でそれを拭う高野を、今できる最大限の鋭さを込めて睨む。
「あんたには分かんないよ、雲雀雪乃!」
鞄も何も持たずに、話を聞くことを放置した高野は、そのまま教室の外に飛び出してしまった。
十秒。何も言わず目を瞑ると、喉の奥に後悔が現れた。
マユに頑張ると言って、家を出た。頭の痛みも、倦怠感も、張り詰めた心も、全部大丈夫だと思っていた。
それなのに、自分は大事な所で転んでしまうなんて。
「どう、して……」
間を置いて、後ろから足音が聞こえてくる。振り向かなくても、それが聡美のものだとすぐに分かった。
「……高野さん、吹部の練習でずっと動いてたの。この時期はみんなテストに集中するけど、あの子は上手にできなくて、ずっと残ってたみたいで」
はっと顔を上げた。ショッピングに行った時も、いつもみんなと一緒だった聡美の隣には、誰もいなかった。
奥歯を噛みしめる。そうは言ったって、気付くはずも無い。
「あの子の分は私がやる。だから……」
「だから、今の全部無かったことにしろって?」
信じていた。いつも話に付き合っているのだから、聡美は無条件で自分を慰めてくれるって。
「いや……違うの、雪乃ちゃん」
「違わないよ、何も」
聡美の瞳には、間違いなくこちらの姿が映っている。
でも、彼女は自分の友達であるのと同時に、高野の友達でもあった。自分だけ、とは違う。
「許してくれとか、察してくれとか、そんなの要らないの」
理解したから、苛立った。でも、高野のように爆発する力は残っておらず、へなへなとその場に崩れ落ちる。
「言ってくれなきゃ、分かんないよっ……」
両手で額を覆った。それからのことは、よく覚えていない。
足早に家に戻った。ただいまも、多分言っていないと思う。
「雪乃……?」
スマホを拾い上げ、ラインの投稿欄を開く。自分と高野の爆発は、まだ誰にも拾われていない。
気持ちが収まらない。面と向かって言えないなら、ここで。
「このままじゃ、私が悪者にされちゃう……」
頭で考えるよりも早く、タイピングと変換を繰り返した。
「どうしてわたしばっかり、こんな目に」
「つらい、くるしい、こんなの信じらんない」
「今までがんばってきたのに、あいつのせいで」
誰かの目に留まれば、自分は救われる。そんなこと無いよと、貴方は十分頑張ったよ、と。明日からまた平和な一日が始まり、今日の出来事は帳消しになる。
「おまえも痛い目、見」
送信ボタンを押しかけ、突き動かされていた指が止まった。
違う。こんなことをして一時の感情を晴らしても、聡美やみんなが自分に振り向いてくれることは無い。
悪口を連ねれば連ねる程、自分自身が壊れていくだけ。
「あっ、あ……!」
慌てて削除ボタンを押す。あれだけ積み上げてきた文章は、あっという間に消えていく。発信するのも、削除するのもほんの一瞬でしかない。
最後の一歩を踏み出しかけて、冷静に立ち戻った。
「大丈夫、雪乃?」
「……ごめん、マユ。大丈夫なんて、嘘ついちゃって」
スリーブさせたスマホが、力無く床に転げ落ちる。
赤くなった頬が、またぐしゃりと潰れてしまう。弱い姿を見せたくないのに、曝け出すほか仕方が無い。
「私には、雪乃の痛みが全部分かるわけじゃない。でも、困った時には、いつだって貴方の力になりたい」
見かねたマユがベッドから降りてきた。獲物を狙うような足取りとは異なり、優しく歩み寄るように。
私は貴方を否定しない、と言われた時を思い出した。人間と猫。姿こそ異なっていても、中身の心が一貫していることがはっきりと分かる。
「今の私に、できることを教えて」
「マユ、っ……」
慰めて欲しい、傍にいて欲しい。色んな言葉が頭をぐるぐると回った。でも思考を止めれば、抑えていた涙が再び溢れて止まらなくなってしまう。
「じゃあ、一つだけ良いかな?」
「もちろんよ」
だが、浮かんでいた言葉は徐々に集まり、やがて一つの答えを生み出していく。
「吸わせて、貴方のことを」
何の躊躇いも一呼吸も置かず、マユは首を縦に振った。
「良いわよ。おいで、甘えん坊の雪乃」
広げられたマユの両手を見つめ、まずは肉球に触れる。柔らかくて、温かくて、心の中の氷が解けていく。
そして、汚れの取り除かれた真っ白な毛並みに飛び込む。
顔を優しい力で擦り付ける。特別なものは何も使っていないのに、甘い匂いが漂ってきた。
「人、付き合い……とか、みんな疲れる。しんどい。どうして、みんな自分のことばっかり、ずるい」
「そう、ね。人間はずるい、みんな」
「要らない。私にひどいことするの、全員」
半ばうわ言のようだった。でも、マユは同調してくれる。
このまま眠ってしまいたかった。この子に身を預けて、争いの無い、心地良い夢の中へ。
「人はきたない。見た目はみんな綺麗で、可愛いけれど、きたないわ」
そうだ。大切にしていた家族が欠けて、頼れる友達もいなかった、あの時とは違う。
悲しくても、辛くても、共有できる存在がいる。この子さえいれば、自分はもう何も怖くない。
「私には、マユだけいれば、それで良い……」
現実を見たくない。顔を埋めて、匂いを吸って、目の前に広がる光景に甘んじてしまった。
続く