第3話 ふたりなら怖くない
マユが喋れるようになって、人間にもなれて、お互いにより近い場所で関われるようになる。
嬉しいことだし、望んでいたことだけれど、それはかつて思っていたよりもずっと前途多難だった。
「よし、これで準備バッチリ」
忙しない朝。学校への準備を整え、流石に一緒に行けないマユに別れを告げて家を出る。
その直前、バッグを持った雪乃は振り返って首を傾げた。
「マユ、お留守番を……あれ?」
目を離した隙にマユが消えている。窓は全て閉めているし、隙間から出られる余裕も無い……つまり、家にいるはず。
よもや炊飯器の中かと思い、リビングへと足を運ぶ。すると、真っ白な塊がキッチンの片隅で縮こまっていた。
「あー、勝手にご飯食べてる!?」
「あれま、見つかったニャ」
器用にパッケージを開け、ガサゴソと頭を入れている。心配を通り越して呆れ笑いが浮かび、手を伸ばしてキャットフードから引き離した。
「お、美味しくてつい……」
「ご飯はもう食べたでしょ。デブ猫になっちゃうよ?」
「その時はその時よ。デブ猫五郎にでも改名するわ」
変なこと言わないの、とマユを引き上げる。この子の定位置は、自室のクッションと決まっている。
一分一秒と迫る遅刻のデッドラインよりも、目の前の猫の安全が気にかかって冷や汗が出た。
「もー、こんなんじゃお留守番も任せられないよぉ!」
意味が分からない、とでも言いたげに、座らされたマユは呑気に大きな欠伸をかました。
「定期テスト?」
「そそ。点数低いと先生とかお母さんにも怒られちゃうの。しんどいよね」
テスト、課題、発表その他で擦り減った頭を軽く押さえながら、冷蔵庫に入った麦茶を取り出す。
マユはずっとテレビと向き合っていた。人間の姿になっても、戸籍を持たないこの子は学校に行く義務が無い。この時期は特に、のんびり休んでいる姿が羨ましかった。
「先月オープンした阿仁市の新しいショッピングモール、グランネストは大きな賑わいを見せています!」
番組で取り上げられているのは、近隣で新しく開業した商業施設。ふと思ってみれば、まだ行ったことが無い。
「お客さん、今日は何を買われましたか?」
「えっと……もう夏なんで、日傘とミニ扇風機を」
「今年は猛暑ですからね。熱中症に気を付けて下さい!」
対策なんて必要無い。最低限の用事だけを済ませ、夏休みは冷房の入った家に引きこもるのだから。
退屈に感じてチャンネル権を奪おうとすると、マユが不機嫌そうにリモコンを掴んだ。
「ねえ、行きたいんだけど」
「……えっ、どこに?」
「ここよ。グランネストっていう所」
人間だから行けるでしょ、とマユは詰め寄る。言ってしまえばその通りだが、今まで猫だった生き物を公共の場所で解き放つのは、言葉にし難い不安があった。
色んな意味で気が進まず、のらりくらりと躱そうとする。
「えー、でもちょっと今は忙しいかも……」
「半日ぐらい良いんじゃないの? インスタ……とかいうのを見ているより、私は楽しいと思うけど」
スマホを触るなら、外に出れば良いじゃない。あながち間違いっていないからこそ、少し面食らってしまう。
でも理由はそれだけじゃない。それだけじゃなくて……
「ま、また今度ね。あはは……」
「また今度っていつよ。先延ばしは嫌だから、前もって日にちを決めた方が良いと思うのだけど」
「いや、すぐに決めるのは……ちょっと良くないかも」
額から汗が滲み出る。どうにかして断らないと、マユはまた外出しようとしてしまう。
自分を捨てて、ひとりぼっちにして、外の世界へ。
「おうちは? ゴロゴロしてるのも、それなりに……」
もう、自分でも何を言っているか分からない。あれだけ賑やかに喋っていたテレビの音が、徐々に遠くなっていく。
「家にいるだけじゃ退屈なの、たまには外に出たいわ」
何気なく告げられた一言。きっとマユは一緒に生きたいと言っているはずなのに、壊れそうな心がそれを許さない。
退屈。自分はそう思ったことなんて無いのに、マユと一緒にいられる日が楽しいのに、退屈。
誰のために、私がここまで頑張っていると……
「ダメだって言ってるでしょ、外に出るのはっ!」
爆発してしまった。この一瞬だけは、堪えられずに。
「……えっ?」
「外は危ない……危ないの! この間は大丈夫だったかもしれないけど、次はどうなるか分からない。おうちにいたら安全だって、どうして分かってくれないの!?」
無駄だって分かっている。でも一度言葉が出てしまえば、今まで感じていた本音が連なって飛び出してしまう。
このままではまずい。そう気付いたのは、驚いたマユが目を見開いてすぐのことだった。
「私はこんなに、マユのために……あっ」
マユは狼狽えていた。恐怖に怯えて、何も言えなくなって。
興味半分で外に出れば、マユは危険に晒されて傷付いてしまう。そのことを最も心配していたはずなのに、自分はこの子を傷付けて……
「ごめんなさい、私はそんなつもりじゃ……」
謝罪の言葉が耳に木霊する。身体が小刻みに震え、手に持っていたコップを落としてしまう。
「違、違う、の。今のはちょっと、つい言っちゃっただけで」
嘘だとは告げれば後ろめたく、つい言ったと告げれば、少しでもそう感じていたことを自白してしまう。
これ以上、顔を合わせられない。寂しさと罪悪感の板挟みにあい。ぐっと押し潰されそうになった。
「と、とにかく、ちょっと考えさせて、ね?」
「あ、雪乃っ……」
こちらこそごめんなさいと、本当は謝り返したいのに。
マユの呼び止める声も叶わず、背を向けてリビングを飛び出してしまった。
自業自得という言葉が我ながら似合うと感じる、最悪な空気になってしまった。
「はぁ……」
母が帰った後も、雪乃はいつものようにマユに触れられなかった。きっとおかしいと気付かれたし、このままの状態が続けば心配だってされる。
マユはきっと怒っていないし、口を噤むことが一番良くないと分かっているはずなのに。
「じゃあ、お風呂入ってくるからね」
「はーい、分かった……」
足音が離れ、シャワーの音が遠くから聞こえる。あくまで経験則だが、この距離は話し声も聞こえない。
人がいなくなったリビングでふと手持ち無沙汰になり、ジュースでも飲もうと腰を上げると……
「……ほい」
「おわっ、マユ!?」
「サイダーよ。私はピリピリして飲めたものじゃないけど、雪乃はそれ好きなんでしょ?」
ありがとうの言葉が喉につっかえてしまう。代わりに頭を下げるが、マユは意に介さず反対側に座る。
少女の姿に変わったその子は、並々に注がれた水をちびちびと啜っていた。
「私、ずっと前から気になってたのよね」
続いていた沈黙に耐え切れず、サイダーを一口。結局、最初に勇気を見せて前に出たのはマユだった。
壁にかかった西洋風の時計。そのガラスに、弱々しい表情をした自身が映って嫌になる。
「……ん、何を?」
「外に出ちゃダメって、雪乃が言ってる理由。私が家出する前から、貴方はずっとそうだったわよね」
怒っていなければ、笑ってもいない。今まで知らなかったことを知りたいという、真っすぐで正直な瞳。
腹を割って話したい。今この場所で、母が戻る前に。
「私は貴方を拒絶しない。だから、貴方のありのままを私にちょうだい」
自分だけの力では乗り越えられなかった壁を、この子は壊してこちらに歩み寄ろうとしている。
それでも怖い。けれど、踏み出すのは今しか無い。
「ありのままだなんて、そんな大層じゃないのに」
コップを手に取り、大きな一口。痺れるような痛みが来たが、爽やかなビンタのようで、目が覚める。
「うん……やっぱり、私の口から言わなきゃだよね」
あの時の感情と同じ。一度口に出してしまえば、その次の言葉はスラスラと浮かんできた。
小学校の高学年に入った頃、母が離婚して家族が欠けた。
二人の仲は、自分の見る限り良かったけれど、その周りにひしめく親戚たちは、いつもお金で言い争っていた。
家族を取り巻く人間関係が悪化して、これからに不安を感じたせい。今なら少しだけ分かるけど、当時の自分は、そんなことなんてどうでも良かった。
「お誕生日おめでとう、雪乃」
昔より寂しくなった誕生日を迎えたある日。母はひとりで寂しい自分に、新しいおもちゃをくれた。
「私、雪乃っていうの。ゆ、き、の、だよ」
「ミ」
お手入れは大変だけれど、ご飯を食べたら笑ってくれて、いつも自分に甘えてくれる優しいおもちゃ。
繭のように真っ白だから、自分はそれにマユと名付けた。
退屈な毎日に、一つの色が新しく加わる。でも、全部が重いっていた通りにはいかなかった。
「ねえ、どうして外に出ようとするの!?」
でも、マユは好奇心が旺盛だった。元より猫は柔軟だから、僅かな隙間があれば部屋から出てしまうし、外にだって行こうとする。
視界から外れるその度に、自分は慌てて連れ戻していた。
「私のことがどうでも良いから……他のおうちに行っちゃうの? ねえ、何がイヤなの? 私、今まで頑張ってきたのに、何が……一体何が、何がイヤなのか教えてよぉ!!」
言葉なんて分からないマユを、泣きながらきつく抱きしめた。苦しそうな声を上げていたと、今思えばようやく分かる。
その真っ白な身体に全てを押し付けたいとも思えた。溢れる悲しみも、小さな鬱憤も、止まらない涙も、全部。
「いい子になるまで、ここから出さないから。良いね?」
自分は、大切な存在だったはずのマユを部屋に閉じ込めた。
心の穴が少しずつ埋まってきて、前に進み始めた今でも、それは絶対に忘れはしない。
「にゃ……?」
これが自分のありのまま。独りよがりでわがままだけど、そんな自分を強く戒めることも反省することもできない。
卑怯で弱くて醜いと言われても、仕方の無い生き様だった。
「私……怖かったんだ。みんなは大人になっていくのに、私だけがひとりのまま」
自身の両手を絡めて俯く。人差し指と人差し指が噛み合わないまま、頼りない声で呟いた。
変わることを強いられているのに、自分だけが変われない。
「……雪乃」
「死ぬまでこのままだと、思っちゃったの」
ひとりのご飯は冷たかった。ひとりの布団は寒かったし、ひとりの毎日も寂しかった。一度どこかで目を瞑れば、ひとりで生き続ける自分の行く末が夢にも出てきた。
そんな時に助けてくれたのがマユだった。それなのに……
「そんなことは無いわよ。お母さんだって言ってたじゃない、塞ぎ込むのは良くないって」
「……無茶だよ、いつでも前を向けだなんて」
「後ろを向いたって良いの。最後まで、止まらなければ」
驚いた。きっと軽蔑されると思っていたのに、この子の瞳からはまだ光が消えていないし、諦めていない。
本当の意味で、マユはありのままを拒絶しなかった。
「私は少なくとも、あの日のことは気にしていないわ」
シャワーの音が途切れる。無意識に自分が小さく足踏みをしていることに気付き、慌てて止める。
あれこれと浮かぶ思考を止め、全身から力が抜ける。
「マユは強いね……私と違って何でもできるし、どんな時だって挫けない」
「そう見えるだけよ。私だって、悩むこともあるんだから」
嘘じゃないわ、とマユが大きく頷く。悩みが何なのかを聞き出すことはできなかったが、心の中にあったもどかしさが少しずつ小さくなっていく。
「完璧な人なんていない。誰だって、些細なことで怒ったり、小さなことで落ち込んだり……それは、貴方だけの問題じゃないわよ」
人間が猫に人生について説かれる。よくよく考えればおかしな話だが、自然と納得することができた。
お金では買えない、かけがえのない大切な存在は、こういう時のためにあるのだと。
「じゃあ、これから変われるの、私は?」
マユはそこで初めて微笑む。優しさを見せ、何かを口にしようとした刹那……
「雪乃、ちょっとターバン取ってくれない?」
「……時間切れみたいね」
母の声が聞こえる。はーいと答え、ゆっくりと立ち上がって洗面所に向かう。
一方、会話の痕跡を残さぬように、マユは水を飲み干してキッチンへと運んでいく。
「行きなさい。これからのことは、ゆっくり考えれば良い」
声がして振り返ると、そこには猫の姿に戻ったマユがいた。
成長という言葉を、自分はもしかしたら読み間違えていたのかもしれない。
中学生や高校生、大学生、そして社会人になったら、いきなり子供が大人になれるわけでは無い。そこには、数え切れないの躓きがあるし挫折もあると思う。
凹んで、削れて、抉れて、傷付いて、時に誰かの踏み台にもされて、それでも諦めなかった人がどこかで成功する。もちろん、それがいつ来るかは分からない。
大き過ぎるリスクに、不明瞭ではっきりしないリターン。
何もかもを投げ捨てて逃げたいと、何度でも思うことがあった。でも途中で諦めたらそのリターンさえやって来ないし、失敗と挫折だけは時間を空けずに現れる。
今から走ってもすぐには追い付けないし、みんなよりも成功するのは遅れてしまうと思う、それは変わらない。
でも、最後にきっとゴールできる。それを目指すチャンスがあるなら……
寝ながらうっすら考えていたので、ここで思考は途切れた。
全てを打ち明けた次の日は、いつもより早足で家に戻った。
「ただいま……ふぅ」
ベッドに鞄を軽く放り投げる。水筒が僅かに鈍い音を立てたが、片付けは後回しでも構わない。
張り詰めた日々を一瞬だけ忘れて、今日は羽目を外すと決めているから。
「おかえり。学校はどうだった?」
「パンクしそうだよ……発表準備とテス勉の繰り返しだし、ちょっと頭痛いかも」
そう、とマユがか細い声を上げる。毎日ずっとこの調子なら、一緒に遊びに行くなんてとても無理な話……とでも思っているのだろう。
「だーかーら、ちょっと取り戻しに行こうかな」
「何を……?」
「私たちの青春をね」
暑苦しい制服を脱ぎ捨て、クローゼットを開ける。夏らしい爽やかな服と、必要な物だけを詰め込む小さな鞄が、二組用意されている。
「サイズはまあ同じくらいかな。ちょっと私の方がデカいかもだけど、最近はブカブカも流行りだし」
これを着て、とマユに放り投げる。少女の姿に変わって受け取るも、彼女はまだ合点がいっていない。
だから、次は自分の方からその背中を押してみせる。
「ショッピング行くよ。目星はもう付けといたから」
いつか必ず、では壁を超えられないと教わった。マユの姿を習って、自分の気持ちにはいつも正直に。
スイッチの入った蛍光灯のように、全てが繋がったマユの瞳が遅れて輝き始めた。
「おおっ……!」
阿仁市最大の商業施設を謳うショッピングモール、グランネスト。実物は映像を見るより壮大で、テーマパークを彷彿とさせる異界の雰囲気を放っていた。
「凄い……何だか大人みたいだね、マユ」
私服を着てくれと言っただけなのに、マユのコーディネートには想像以上の時間を要してしまった。
トレードマークのツインテールはサイドテールに変わり、ウェーブのかかった髪と、僅かに艶を増した唇が甘美な印象を与えている。
「一度はこんなオシャレもしたかったし……それに、一緒にいるお姫様と並び立てるようにしなくちゃね」
「もうっ、調子の良いこと言ってくれちゃって!」
マユの欲しい物は何だろう。できる限りのことはしてあげようと、一人分のお小遣いが入った財布を見る。
すると、背後に回ったマユが耳元で囁いてきた。
「……どうやら、答えは見つかったみたいね」
マユと一緒にショッピングに出かける。去年の自分に言っても半信半疑だっただろうし、きっと受け入れられなかった。
でも、一度勇気を出してみると、その後は幾分楽になる。
「まあ、吹っ切れた方が近いかな。また波が来るかもだけど」
スマホに入れておいたショップリストを見つめる。朝早起きして、ご飯を食べるついでに調べたことは内緒。
「じゃあその前に、とことん楽しんじゃいましょう」
「うん……一緒にね」
リードの代わりに手を握る。やはり暖かくて、触れるだけでこちらの気持ちも和らいでくる。
中学生になった今、正直ちょっぴり恥ずかしいけれど。
「迷わないようにね。今日は色んなミッションがあるから!」
まずは一店目。グランネストの奥に佇む、町一番の広さが自慢の雑貨店へと足を進めた。
続く