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第2話 私はマユ

 大切な人がいなくなった時の感情。まだその経験の無い自分には、はっきりと言葉に表すことはできなかった。

 深い悲しみ、絶望、後悔。そして、大切な人がいないことが当たり前になってしまった……その現実から逃げようとする人も多いらしい。

 もし現実から逃げなければ、日を追う毎に自責の念は重く大きくなっていく。

「気にするな、忘れろ、なんて……」

 ベッドから起き上がった直後、反射的にマユの名を呟いてしまった。つい昨日まで定位置だったそのクッションには、もう誰もいないし空っぽなのに。

 もう何も無くなったのに、あの子がいた証を退けることも捨てることもできない。

「私にはできないよ、マユ」

 部屋に響く自分自身の声が、恐ろしい程に弱々しい。

今の雪乃は、学校に行く気にも、休む理由を考える気にもなれなかった。


「あー、最悪……」

 安い牛乳、大容量のお茶、明日のパンとみそ汁の素。

 一回は外に出ないと不健康だからと、母からメモを託されて買い物に出かけた帰り道。

 嫌な予感がしてスーパーを出ると、折り畳み傘では防ぎ切れない程の大雨が降っていた。

「雨雲レーダーの嘘つき、一生信じないもん……」

 思い切って走り出す。水溜まりを避けているはずなのに、進めば進む程足元が濡れてぐしゃぐしゃになっていく。

 それでも、前に進まずにはいられなかった。いつも大事な時に動けない自分が許せなくて、悔しくて……

「ダメ、なのにな。悲しいこと考えちゃ」

 こんな時でも、マユのことが頭から離れなかった。

 きっとあの子は頭が良いから、どこかに隠れてやり過ごせているだろう。ご飯だって誰かから分けてもらえて、誰かから狙われることも……きっと無い。

 せめてあの子が外の世界で、元気に過ごしている姿だけでも見届けたかった。

「会いたいな、マユ」

 自分でも、声に出したのか分からないような独り言。当然、誰かに充てた言葉でも無い。

 それは雨音に掻き消されて消え、やがてどこにも残らない。

 でも、その瞬間だけは違ったような気がする。


 一度は、疲れた自分の見間違いだと思っていた。

「……あれ?」

 無邪気に遊ぶ子供も、それを見守る大人もいなくなり、ただ雨音だけが聞こえる近所の公園。

 その僅かに錆びたブランコに、雪乃と同い年ぐらいの少女が、傘も差さずに静かに座っていた。

「ねえ、こんな所で何してるの?」

 声をかけたのは無意識だった。足は透けずに付いているし、濡れた肌にも暖かさがある……幽霊では無い。

 心配になって声をかけてみると、少女はしばらくしてから浮かない顔を上げた。

「貴方も、あの子と同じことを言うのね」

「……えっ?」

「いや、こっちの話よ」

 首を傾げるのに合わせて、少女の黒いツインテールが揺れる。いざ目線を合わせてみると、こちらの方がほんの僅かに長身のようだった。

「お家はどこ、お父さんやお母さんは?」

 両親のことを聞いても、少女は口をつぐんで答えない。

 雪乃は言い終わって頭を抱える。年は変わらないのに、迷子のように接するのは、流石に嫌なのだろうか。

「……無いわ、帰る場所なんて。私が自分で捨てたもの」

 怪しむよりも、気の毒な感情が勝っていた。親と何度か喧嘩もしたが、家から追い出されたことは一度も無い。

 前も見えない大雨の中、行くべき場所も見つからずに……

「貴方は違うんでしょう? 頼れる誰かがいて、喜びも悲しみも分かち合える」

「あっ……いや」

「私のことは良いから、貴方は自分の家に帰りなさい」

 一度は、思っていた言葉がうまく出なかった。でも、二度目なら決して諦めない。

 吹き込む雨を省みずに、折り畳み傘を少女に傾ける。

「やっぱり、見捨てられないよ」

「えっ……?」

「良かったら、私の家で雨宿りしない?」

 不思議と、少女の移り変わっていく表情が暖かく愛おしい。

 この数日間、姿を消したマユのことを考え続けてきた。心の拠り所が無く、帰る家を失ってしまった子を、目の前で見捨てることはできない。

「でも、貴方に迷惑じゃない?」

「ううん。迷惑だなんて、そんな」

 中々一歩を踏み出せない少女の手を、ゆっくりと握って引き寄せる。冷たい雨の中でも、はっきりと感じる体温と生命の気配があった。

「ちょっとだけでも良いから、ねっ?」

 単純な損得や、思惑なんて全く無い。ただ、この子を助けなくてはという心に突き動かされている。

 彼女の答えを待つと、繋がった手がぐっと握り返された。

「じゃあ……お言葉に甘えても良いかしら」

 それじゃあ、と歩調を合わせて進み始める。ただでさえ小さかった傘が余計に手狭になったが、意外にも窮屈さは微塵も感じなかった。


 全身を濡らした少女を自宅に迎え入れ、風呂場に案内した後、雪乃はようやく正気に戻った。

「ごめんなさいね、色々してもらって」

「大……丈夫だよ。困った時はお互い様だし」

 濡れた服は部屋に干し、サーキュレーターの強風に当てて乾かしている……とはいえ、乾燥にいつまでかかるかは見当も付かない。

 素人目にも、日の落ちる方が早いということは分かった。

「お母さんに、何て説明しよう……」

 徐々に落ち着きを取り戻す少女に反して、こちらは今更になって焦りが増してくる。

 困っていたから、の一言では決して説明が付かない。

 見知らぬ人という肩書きが、目の前にいる少女との隔たりを、より一層際立たせている気がした。

「警察は、やっぱりちょっと厳しいかな?」

「……選べるならね」

「腹、括るしかないのかぁ」

 体重を預ける先が見つからず、イナバウアーのようにソファで仰け反る。でも……彼女の手を取ると決めたのは、他でも無い自分の選択。

 だったら、最後までその責任を取るのが、自分に与えられた役目なのかもしれない。

「取り敢えず……何とかしてみる。事情を話したら、お母さんもきっと分かってくれるはず」

 ありがとう、と少女が頷く。帰宅までおよそ一時間、細かい言い訳は今から考えても遅くない。

「あっ……そうだ、名前まだ聞いてなかったね。私は雲雀雪乃っていうの」

「雪乃……ね、なるほど」

 何やら含みのある言い方だった。まるで、その名前が出てくるのを予め知っていたような。

 少女の顔をもう一度見つめる。やはり、面識は無い。

「私はマユよ」

「ん、マユ……?」

 一瞬、驚いて椅子から飛び上がりかけた。マユという名前なんて……別に珍しいものでは無いのに。

違う。どんな奇跡が起きても、これは自分の気のせい。

「凄い偶然だね。私の飼ってた猫もマユって名前だったの」

 上擦った声で誤魔化そうとする。だが、マユを名乗る少女は微笑みながら首を振った。

「ううん……偶然じゃない」

「へっ?」

「隠してごめんなさい。別に、嘘をつくつもりは無かったの」

 改まった表情で、少女は膝をつく。薄暗くなり始めた部屋に、一筋の光が差し込んだ。

 彼女は光に包まれて、一瞬だけその姿が見えなくなる。

「今から、証拠を見せてあげるわね……!」

 光が止む。驚いて辺りを見回したが、部屋そのものに何かの変化が訪れたようには見えない。

 ただ、変化は目の前にいたはずの少女に現れていた。

 真っ白な毛並みに、青い首輪のアクセント。物静かな雰囲気を放つが、表情を変えると途端に柔らかくなる。

「また会えて嬉しいわ、雪乃」

 見紛うこと無き、雪乃の飼っていたマユそのものだった。


「えっ……え?」

 目の前に広がる現象が、全くもって理解できなかった。

 人間の少女から、猫のマユに変化を遂げたそれは、引き続き人間の言葉を話し続ける。

「自分でも、どうしてこうなったのか分からないの。変わりたいって念じたら、人の姿に変身できるみたい」

「マユ、なの?」

「何度でも言うわ、私は……貴方のマユよ」

 声が出ない。腰も抜けてしまったのか、だらしない姿のまま、ソファから立ち上がれなかった。

 腕を握って、マユの感触をもう一度確かめてみたい。

 そう思っていると、マユの方からこちらに歩み寄り、ゆっくりと手を差し伸べてきた。

「もしかして、怖がらせちゃった?」

 思った反応では無いと感じたのか、心細い顔をされる。

 違う。確かに最初は驚いたけれど、自分がマユに向ける感情はいつも……

「す、すご……」

「ふぇっ?」

「マユが人になるなんて、凄すぎだよっ!」

 真っ白な身体を引き寄せて、力いっぱい抱き締める。いつも傍にいてくれた家族に再会できた喜びと、飼い猫の新しい姿を見ることができた……興奮。

「魔法……なのかな? それとも、最先端のテクノロジー?」

「いや、だから私にも……」

「何でも良いやっ! マユと一緒にいられることが、私にとっての一番だから!」

 会えなかった、数日分の充電を一気に補給する。驚きとか、わだかまりとか、そんな感情は慣れ親しんだこの顔を見ると全て吹き飛んでしまう。

 当たり前だった大切な存在が消えて、心が欠けて、それでも、元通りになることができた。

「私、ずっとマユとお喋りしたかったの。うーん、やりたいことがいっぱいだよぉ……!」

 ご飯を食べたり、なでなでしたり、学校から帰ったら、楽しかったことを勝手に喋ったり……

 よくよく考えてみれば、今までとさほど変わらない気がして、可笑しくなってきた。

「気が合うわね。いっぱい過ぎて選べないわ」

 尻尾が柔らかく曲がり、こちらの指に触れた。細やかな毛がくすぐったくて……暖かい。

「これから、一つずつやっていきましょう。一緒に」

「そうだね。マユのやりたいことも、一緒に!」

 ちょっぴり遅い、七月七日。マユと一緒にいたいという願いは、思いもしない形で現れた。

 この奇跡がいつまで続くかは分からないけれど、限りがあるからこそ、一瞬一瞬を大切に生きていこうと思える。

「改めて……これからよろしくね、マユ!」

 夏休みの楽しみが、また一つ増えたような気がした。


「えっ、マユちゃんが自分で帰ってきたの!?」

 大切な家族を抱えながら、帰宅した母を迎え入れる。思っていた通り、マユが視界に入った彼女は、買い物バッグを落としてしまった。

「うん。リビングにいたら鳴き声が聞こえてきて……そこの庭で休んでたの」

「にゃ」

「えぇ……やっぱり、ホームシックだったのかしら?」

 マユは猫の鳴き声で返事をする。この子の意思に応じて、使える言葉はそれぞれ分けられるらしい。ニャイリンガルという新しい言葉が、ふと頭の中に浮かんできた。

「お家が恋しくなったのかもねー、うりうりうり」

「ミー……」

 母には、本当のことを話すべきか。マユと一緒に考えていたが、他人に変身のことを知られるリスクを考え、今は秘密にすると決めた。

 マユの奇跡が消えたり、何かのきっかけで秘密が知られてしまったら、その時に。

「ちょっと……安心しちゃった。マユが家出しちゃったときは、嫌われたかもって怖くてさ」

「……うーん。確かに、言葉は通じないからね」

 今なら真意を聞けるかもしれない。でも、ほんの一瞬でも、この子が自分やこの家に窮屈さを感じていたとしたら……

 嘘だった。言葉が通じる今でも、マユに嫌われるのは怖い。

「でも、戻ってきたってことは、雪乃の想いはちゃんとマユに伝わったんじゃないかな?」

「そう、なのかな」

「全部分かってるって思い込むのも良くないけど、私なんてって塞ぎ込むのはもっと良くないよ」

 無事で良かった、と母はこちらの頭を撫で、次いでマユのこともぎゅっと抱きしめる。

 照れ臭いと暖かいが混在し、結果恥ずかしさも嬉しさも倍増してしまった。

「まったく……それならそうと言ってくれたら、もっと豪華な物でも買ってあげたのに」

 落としたバッグをゆっくりと拾い上げる。上段に入っていたそれは、バラエティ豊富なお刺身セット。

 落ち込んだ日、テストで大成功した日に買ってくれる、雪乃の数多ある大好物の一つだった。

「それって……!?」

「まあ、これで元気になれたらって思ってね」

 両手を上げて、子供のように飛び上がる。料理は嬉しいが、母が見せてくれた優しさも同じくご褒美だった。

 一方で……何やら不服そうな鳴き声を出す者が一匹。

「ミ、ミ」

 抱えていたマユがじたばたと暴れ出す。みんなで魚を食べたくても、人前での変身は秘密がばれてしまう。

「ああ……ごめん。そこは我慢してね」

 後で慰めてあげようと、雪乃は少しだけ気の毒になった。


 今夜はまた、以前とは違う理由で眠れなさそうな気がする。

「寝る前、外出前は、戸締りをしっかりしてね。私も気を付けておくけど」

「りょーかいです」

 お風呂歯磨き明日の準備、やるべきことを終わらせれば、母は一階に引き上げて眠りにつく。

 日付の変わる前に交わすこの言葉が、紆余曲折あった今日の締めくくりだった。

「おやすみなさい。雪乃、マユちゃん」

「はーい、おやすみ」

「ミー」

 ふう、どうにか乗り切ったと安堵し、自室の扉を閉める。

 母の足音が聞こえなくなれば、同じようにこちらの声も届きにくい。変身しても良いよ、と言いかけた刹那……

「よし、これで心置きなくお話できるわね」

 少女の姿になったマユは既に、雪乃の布団に潜っていた。

「ちょ、ちょっといつの間に!?」

「いつものことじゃない。風体が変わったぐらいで騒がれたら、逆にやりづらいわ」

 こっちにおいで、とマユはベッドの上をポンポン叩く。

 姿が変わっても、喋っても、この子が家族だということに変わりはない。中身がマユなら、異形でも……

 理屈ではそうでも、無意識下の恥ずかしさがそれに勝る。

「いや、でもそこは違……」

「大声出したら、聞こえちゃうわよ?」

「むぐっ……!」

 慌てて両手で口を押さえた。一人分のスペースを開けながら、マユは早く早くと催促をしてくる。

 最初から、自分に拒否権も猶予も無かったのかもしれない。

「この姿の方が、一緒にいると楽しいかなって」

「ち、近い……」

 足は当たるし息遣いも聞こえる。寝返りすら打てない窮屈さに、シングルベッドの限界を感じてしまう。

 隣で横になるマユを間近で見ると、元々別の生き物だったとは思えない程に、顔立ちが整っていて可愛らしい。

 仄かに甘い匂いと共に、微妙な悔しさも湧いてきた。

「私ね、外で猫ちゃんと仲良くなったの。ご飯も分けてくれたし、この数日はそれでどうにか凌げたかなあ」

 話がまるで入ってこない。身体はどうも疲れているはずなのに、揺れ動く心のせいで阻まれる。

 布団を被っていると、互いの体温も徐々に上がり始めた。

「どうかしたの、雪乃?」

「いや……」

 体調でも悪いの、と心配される。この調子で毎日が過ごせるのか、別の意味で気がかりになってきた。

「こんなの、恥ずかしくて落ち着けないよぉ……」

 窓を開けて叫びたくなる気持ちを必死に抑え、誰にも聞こえないように呟いた。


 続く

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