第1話 はじめての家出
「ミー……」
漠然と時間に迫られた、しかし急かす家族はいない、ゴーストタウンのような冷たい一軒家。
人の気配が消えた部屋に、その鳴き声はよく響き渡った。
「よしよし、ご飯だね」
花柄のお皿にご飯を詰め込み、階段をゆっくりと上がる。
自室の扉を開けると、真っ白な毛玉のように可愛らしい猫がこちらを見つめていた。
今日の朝ご飯を置き、膝を曲げてその様子を眺める。
「ニャ」
「どうぞ、召し上がれ」
最初は僅かに齧り、しばらくすると本格的に飛びつき始める。普段通りの変わらない姿を見届けると、少女はそこで身支度を始めた。
「今日は六限まであるんだ。ちょっと遅くなるかもしれないけど、いい子で待っててね」
鞄を開き、教科書をチェックする。時間割と見比べ、隣に入れておいた体操着も。
「にゃご……」
「どうしたの?」
振り向くと、猫が不安げな顔をこちらに寄せて佇んでいた。
体調が悪い……わけでは無い。言葉は通じないはずなのに、こちらの想いがそのまま伝わっているようだった。
「大丈夫、寄り道はしないからね……マユ」
マユと呼んだ、その猫の頭を撫でる。心地良い毛並みと同時に、生き物の暖かさが伝わってきた。
「……それじゃあ、行ってきます」
食べ終わったご飯の皿を静かに下げ、自室を出る直前にマユに大きく手を振る。
あの子以外に、自分を見送ってくれる家族はいない。
少女……雲雀雪乃は、この瞬間が最も心細く、外へ出る足が幾分か重たかった。
疲れと汗が滲んだ手でドアを開けると、マユはいつも階段の前で待ってくれている。
「ただいま」
こちらが一歩踏み出すと、立ち止まっていたマユが階段を下りて、玄関の前まで歩みを寄せる。
今日はとりわけ、甘えん坊が強くなっている気がした。
「ミャッ……」
「おうおう、寂しい想いさせてごめんね」
鞄を置いて、マユを抱きかかえる。力の入っていた肩が、一気に抜けて心が安らいでいく。
「今日はね、体育でバスケやったの。ちょっと臭いかも」
「ミー」
まるで聞く耳を持たない。一度抱きついたら何をしても離れないので、ならばとそのまま片付けを始める。
キッチンに置いてあったクッキーを加え、冷蔵庫のジュースを注いでその場で一杯。マユのお昼ご飯を取り出し、余った指で器用にリモコンのボタンを押した。
「阿仁市のニュースです。市内の中学校に通う麦野真里亜さん、十四歳の行方が分からなくなっています」
地元のニュース。聞き流そうと思っていた雪乃の手が止まり、顔だけをぐっとテレビの方に向ける。
彼女に身を寄せていたマユも、同じ素振りを見せた。
「ん、同い年だ」
見知った公園の映像が流れる。いつもボールを持った小学生が叫びながら走り回っているそこも、夜の姿はどこか冷たく、恐ろしく見えた。
「一昨日の二十時頃、何者かに追われていると麦野さんから通報があり、およそ十分後に警察が到着しましたが、現場に麦野さんの姿は無かったとのことです。また、麦野さんの連絡が途絶えており、警察は何者かが麦野さんを連れ去ったと見て、誘拐事件の疑いで捜査を進めています」
淡々と言葉を並べられた後に、行方不明の彼女と思われる写真がテレビの全面に映し出される。
インスタに上げている画像なのか、顔の大事な部分は微妙なぼかしが入っていて分かりづらい。しかし、その隣にはブリティッシュショートヘアーらしき、愛くるしい子猫の姿が写っていた。
「見つかってないのか、怖いなあ」
「にゃあ」
ニュースの声が徐々に遠くなっていく。コーナーが変わり、地元の特産品を紹介するものに移っていった。
「そういえば……飼い主さんがもしいなくなったら、あの猫ちゃんって独りぼっちなのかな?」
つい、自分とここにいるマユを重ねて考えてしまう。
自分がもし何らかの事故に遭ったら。遭わないにしても、怪我でもして入院になってしまったら。
マユが独りになってしまうのは、きっと堪えられない。
「……にゃご」
心細さを感じ取ったのか、マユがこちらの顔に視線を移す。
優しさの込められた瞳。何も考えていない純真さか、考えているけど、それでも前を向こうとする勇敢さか。
「そう、だよね。ダメだな、悲しいこと考えちゃ」
私たちは、離れ離れになったりしない。何の根拠も奇跡も無いけれど、雪乃はそう信じていた。
自分自身を勇気付け、彼女は曲がっていた背筋を伸ばす。
「ずっと一緒にいようね、マユ」
咥えていたクッキーを噛んで頬張る。甘い香りと優しい味に、雪乃の口角が僅かに上がった。
「ミャ!」
一瞬一瞬を大切に生きていれば、きっと時間なんて気にならない。
母が帰ってきたのは、完全に日が落ちた後のことだった。
「はーい……ただいま」
疲れの混じった声で、キッチンに買い物袋を置いて歩く。
リビングで待っていた雪乃、マユと視線が合うと、彼女は穏やかな表情に変わった。
「おかえり!」
「いい子にしてた? 雪乃に……マユちゃんも」
「ミー」
静かだった家が、賑やかになる夜のひと時。日中の暑さがまだ残っているからか、今日のご飯はトマトとしその入った爽やかな素麺だった。
既に空腹が満たされているマユはそれに興味を示さず、のっそのっそと部屋中を動き回る。
「街の魅力を班でプレゼンするの?」
「そうそう、社会の発表でね。みんなで作ったプレゼンと、期末試験のミニ問題で成績が出るんだって」
小学校からの友達は、みんなエスカレータ―のように同じ中学に上がってきた。あと一年はきっと、この繋がりは切れずに続くだろう。
何の変哲も無い、平坦であまり面白くない毎日だけれど。
「聡美ちゃんと一緒の班だから、頑張って仕上げなくちゃ」
期末を乗り切れば夏休みになる。学校に縛られず、家でマユと一緒にいられる毎日。
あの子の喜んでくれる顔が、雪乃にとっては大きな支えであり、ご褒美でもあった。
「雪乃……学校は、うまくいってる?」
「んー?」
お互いの姿が瞳に映る。楽しい、と即答はできなかった。
「まあ……ぼちぼちかな」
ごちそうさまと呟き、箸を置いて席を立ちあがる。
視界から外れたマユの姿を探すと、灯りの無い真っ暗な大窓の前に立っていた。
「ミャ、ミャ」
「……あらら、お外に出たいのかしら」
ずいっと立ち上がり、そのままでは開くはずも無い窓を肉球でペチペチと叩いている。
一瞬……ほんの少しだけ、雪乃は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「こら、お外は危険でいっぱいだよ?」
「……にゃご」
「ダーメ、おうちで大人しくしてるの」
外には何がいるか分からない。先程ニュースにあった、まだ捕まっていない誘拐犯が頭をよぎる。
自分が前に出て守らなくてはいけない。他の何よりも大切なマユを、自分の力で。
「もう、困ったちゃんだな」
口をへの字に曲げる雪乃に抱きかかえられ、マユは力無くソファへと連行された。
翌朝、雪乃は布団から出る足がいつもよりも重たかった。
「雪乃、起きてる?」
「んー……まあ、起きてるっちゃ起きてる」
「二度寝はダメよ。遅刻しちゃうから」
既に出勤の準備を終えた母が、部屋の前に立って口を開く。
今日の学校を凌げば連休。それが分かっているはずなのに、あと一歩で身体が動かない。
部屋に残る絶妙な塩梅の暑さが、却ってこちらの眠気を誘って離さなかった。
「リビングとキッチンの小窓を開けてるけど、学校に出る前は閉めて、帰ったらまた開けてね。最近ちょっと怖いから」
「にゃあ」
雪乃の代わりにマユが返事をする。小窓ってどこだっけ、と頭の中で思い浮かべた。
「忘れるかもだから、メモかラインにでも残しといて……」
「自分で覚えなさい。もう子供じゃないんだから」
あーい、と反射的に答え、身体を捻じって寝返りを打つ。
子供じゃない、とは何なのだろう。子供のように可愛がられることも無ければ、大人のように頼りにされることも無い。
他のみんなは自分とは違って、こんな中でも必死に頑張って、成長しているのだろうか。
「それじゃあ、行ってくるわね」
「……いってらっさーい」
結局自室からも布団からも出ることは無く、言葉を交わしただけで雪乃は母に別れを告げる。
一人と一匹だけの部屋がまた、静まり返ってしまった。
「マユ……学校だるい、代わりに行って」
「ミ?」
束縛の強い布団から顔だけを出し、クッションの上で休んでいるマユに助けを求める。
それでも、こちらに返ってきたのは疑問の表情でしかない。
「……まあ、無理かぁ。そうだよね」
半ばふて寝に近い形で、雪乃は凹んだ枕に顔を埋めた。
「おはよーう」
この日は何故か、朝から二年四組の教室が騒がしかった。
雪乃は自席に荷物を置く。見知った顔を探すと、それは教室の隅っこで噂話をしていた。
「ねえ……聞いた、雪乃ちゃん?」
「何、担任がゲス不倫でもしたの?」
「違う違う、そういうのじゃないって」
友人の聡美は目を輝かせて、特大スクープを掴んだ新聞記者のような顔をしている。
情報の真偽はともかくとして、彼女らが大きな声で話題を撒くことによって、退屈な日常に彩が加えられる。
傍に置いておく人間としては、この上無く便利だった。
「あそこの公園に、お化けが出たんだよー」
あそこ、と聡美が指差したのは、昨日誘拐事件があったとテレビで報じられていた市内の公園。
やはり、あの場所は何かに呪われているのだろうか。
「それって……どういうタイプの?」
「子供、だったかな。パパが飲み会帰りに見たらしいんだけど、色んな遊具で遊んでたんだって」
ただの子供では、と雪乃は首を傾げた。そんな時間に出歩くなんて、警察は何をしているのかと余計な心配が出てくる。
その表情を待ってました、と言わんばかりに、聡美は胸を張って話を続ける。
「おいキミ、こんな時間にどうしたんだって聞いたら、その子は無言で振り向いたみたい」
「でも……それ普通の子供じゃ」
「瞬きした瞬間、子供が背後にスッと動いていても?」
辺りの空気が一気に静まり返る。怪談としてはよくある流れだが、雪乃も背後に子供がいる姿を思い浮かべる。
確かに、普通では説明のつかない現象……かもしれない。
「私のおうち、かえして?」
「キャーっ!!」
頷く前に、近くで聞いていた女子の悲鳴が全ての感情を吹き飛ばしてしまう。話に聞き入り過ぎたのか、それとも反射的に声が出たのか、雪乃にはさっぱり分からない。
「酔ってたんじゃないの、飲み会帰りでしょ?」
「もう、雪乃は疑り深いなあ。パパは顔に出ないタイプだし、幻を見るまでヘロヘロに酔ってなかったよ」
「そう……なんだ」
「とにかく、みんな身の回りには気を付けてね?」
はーい、と幼稚園のような掛け声が上がる。だが、雪乃だけは一転して険しい表情で動かない。
母も、最近ちょっと怖いと言っていた。うまく形には表せないが、嫌な気配を感じて身震いする。
「……そういえば、パパはその後どうしたの?」
「そうそう、それがね。南国の鳥みたいに叫びながら玄関まで走って……」
最初こそ半信半疑だったが、何だか他人事のようには思えない出来事だった。
その日の夕方。自宅に戻った時、雪乃は違和感を覚えた。
「ただいま……あれ?」
何かが足りない感覚。首を傾げると、それはいつも出迎えてくれるマユがいないことだと気付いた。
気配がしなければ、鳴き声も聞こえてこない。動物の存在さえ消えた家には、嫌な静けさがあった。
「マユ?」
駆け上がって自室の扉を開ける。いつもの定位置であるはずのクッションにも、マユの姿は無い。
頭の中で軽く浮かんできた冗談が、徐々に現実味を帯びていく嫌な感覚だった。
「マユ……?」
胸がぐっと締め付けられるようで、頭もうまく回らない。
洗面所やお手洗い、お風呂場もくまなく探す。もとより湿気の多いこれらの場所に、猫はあまり足を踏み入れないはずなのに。
「どこにいるの?」
最後に、家族で共に毎日を過ごしたリビング。昨夜マユが大窓に触れ、外に出たい素振りを見せていたここにも、猫の姿は見られない。
その代わりに、キッチンに立った雪乃は見つけてしまった。
「……マユっ!」
今朝母に言われたことをすっかり忘れてしまい、開けたまま放置されていたキッチンの小窓。
動物一匹なら通れるかもしれない大きさの網戸が、ほんの僅かに開いていた。
「マユ……いたら返事して、マユ!」
たまらず家を飛び出した。行き先なんて自分にも分からないし、探す当ても全く無い。
公園も、駐車場も、塀の上も側溝も。周りの目を気にせず、雪乃はマユの名前を叫び続けた。
「ダメ、このままじゃ……!」
今思ってみれば、マユはずっと外に出てみたかったのかもしれない。母が仕事に行き、雪乃が学校に行ってしまえば、あの子は家でひとりになる。
分かっていた。分かっていたけれど、認めたくなかった。
「ミ……」
「マユ!?」
眼前の茂みにふと、見覚えのある真っ白な毛玉が映る。
躓きながらも慌てて駆け寄る。今にも爆発しそうな心と、それでも驚かせてはいけないという落ち着きが混じり、咄嗟に言葉が出てこない。
「にゃん」
人の気配を察知した猫は、ゆっくりと振り向く。後ろ姿は似ていても……その顔付きは全くの別物だった。
「そん、な」
背中に重圧がのしかかる。立ち上がる力を失って、雪乃はへなへなとその場に崩れ落ちてしまう。
「嫌、いやだ、やだ、いやだよっ……!」
白い猫が立ち去っても、日が暮れ始めても、その涙が止まることは無かった。
「ごめんなさい。私も不用心だった……油断してたわ」
心も、そして全身もボロボロになりながら、言葉ともいえない歯切れの単語を母にぶつける。
その返事は呆然や叱責ではなく、頭を下げながら告げられた謝罪の言葉だった。
「マユは、もう……どこにもいないの?」
「ううん、きっと戻ってきてくれる」
「でも……」
きっとでは、俯いた顔を上げられなかった。原因を作ったのは自分自身なのに、身勝手なのは雪乃が一番分かっている。
冷たい部屋、一人のリビング、交わさない言葉。あんな毎日は思い出したくないし、繰り返したくない。
「ご近所さんにはこれから聞いて回るわ。もしどこかで見たって人がいれば、迎えに行きましょう」
幼い頃、いつも家族と通る横断歩道の脇に、行方の分からなくなってしまったペットの張り紙があったことを覚えている。うっすら、自分には関係の無いことだと。
まさか、同じ経験をするなんて夢にも思っていなかった。
「今日は寝なさい。もう遅いから、しっかり休むのが優先よ」
嫌だと声を上げたかった。無理でも家を飛び出して、街の隅から隅まで探そう、とも。
それでも、動こうとすると疲れがどっと襲ってくる。
「……うん、分かった」
マユをしっかり見ていなかった自分と、大事な時に動けない自分。今この瞬間、自らを殴りたい程に不甲斐無かった。
心配で寝付けなかったその日の夜は、いつもとは違う、不思議な夢を見てしまった。
「ねえ、どうして外に出ようとするの!?」
あの時の自分だった。一人でいることがたまらなく寂しくて、それでも友達を作る勇気も無い、宙ぶらりん。
ボロボロになるまでぬいぐるみを抱きしめて、枕はいつも涙で湿って汚れていた。
新しい家族が増えた時も、最初は動いて喋るぬいぐるみが増えただけだと思っていた。今振り返ると、そう言える。
「にゃ……」
「私、そんなにダメな飼い主かなあ? ご飯だって、お手入れだって……こんな、こんなに」
あの子を拾い上げ、自分の頬を押し付けながら強く抱きしめる。嫌がる声を聞いても、それを止めない。
それが幸せだと、あの時は本心からそう思っていた。
「いい子になるまで、ここから出さないから。良いね?」
そして、部屋に付いていた鍵を震える手で閉めた。
続く