02
「おーい。大丈夫か?」
ぼんやりとしていると彼は目の前に来て、おもむろにわたしの頬を両手で包むと捏ねるように動かし始めた。
頬から彼の手の感触が伝わってくる。
少し荒れた肌。剣を握ってできた肉刺だろうか、硬い感触が時折当たる。
だけどなにより、子供のような少し高めの彼の体温がじんわりと伝わってきて、体の底から湧き上がってきた安心感に自然と涙が出てくる。
突然泣き出したわたしに彼は驚いて大きな目をより大きく見開いたが、何かを察したのかすぐにフッと笑みを零した。
「怖かったな。もう大丈夫だ。オレが一緒に居てやるから安心しろ」
頬を捏ねていた手が、頭を優しく撫でる。その手付きがまた優しくて涙が次々に溢れる。
彼はわたしが泣き止むまで頭を撫でていてくれた。
涙が止まった頃、改めて彼を見ると、視線が合ったことに気付いた彼はニカッと笑ってくれた。
「よしっ!泣きやんだな!……で、なんでこんなとこにいたんだよ。装備も無しに『深淵の森』に入るなんざ自殺行為だぞ?」
「ぁ、ご…ごめんなさい…。その…、え、と……」
「焦んなくていい。ゆっくり喋れ。な?」
「…うん。あの、ね…」
一つ一つ思い出しながらここに来た経緯を彼に話す。
改めて思い出してもなんだか夢みたいな話で現実味が無い。もしかしたら、彼も信じてくれないかもしれない。そう考えたらどうしても声が尻窄みになるが、その度に彼は「大丈夫だ」といいながら頭を撫でてくれた。
こんなにも親身に話を聞いてくれたのは、最近では両親ぐらいだったので凄く嬉しくて、だけど少し恥ずかしてくて視線が下がる。
話を終えると、周囲を静寂が包んだ。
もしかして彼も呆れているんだろうか。そう思って恐る恐る顔を上げると、予想に反して彼は怒り心頭といったような顔で、こめかみには太い青筋が浮かんでいた。
「…クッソ野郎ばっかじゃねぇか!!」
突然の大声にビクリと肩が跳ねる。
彼は怒りながらも気遣ってくれるが、どうして彼がそんな風に怒るのかわからなくて呆然と見つめていると、目が合った彼はフン、と鼻を鳴らして腕を組む。
「何でって顔だな?怒って当然のことをお前が怒らねぇからだ!なんでそんなやられっぱなしでいんだよ!ちったぁやり返せ!」
小柄な体の割に大きな彼の手がわたしの髪をかき混ぜる。手付きは豪快だが痛くはない。
「女神も女神だ。あンのクソアマ…!勝手に連れてきといて随分と性格悪ぃことしやがる…!」
「クソアマ……」
女神様をそんな風に言うとは…。
しかし、彼が言う通りならあの時感じたのは女神様の視線なのだろうか。あんな冷たい目…、元の世界でも向けられたことはない。
「……まぁいい。取り敢えずお前の事情はわかった。行くトコ無ぇならオレについて来い。身の振り考える間の宿ぐらい貸してもらえるはずだ」
「……何処で?」
「冒険者ギルド」
歩き始めた彼の背中を見つめる。
抜き身の片刃剣を肩に担いだ彼は振り返るとニヤリと笑った。
「オレ、こう見えて冒険者なんだよ」
冒険者。
小説などのフィクション作品で何度か目にしたことがある。だけどそれらの作品に出てくるのは人間であることが多い。
「冒険者って、誰でもなれるの…?」
「加入試験とかはあるけどな。オレ等魔物の場合は安全性を示す為に1ヶ月人間と仮パーティー組んで生活しろ、とか他の条件もあるが、人間なら試験に合格すらだけでいい」
魔物。やはり彼は人間ではないのだ。
それもそうか。彼の姿は以前本屋に並ぶ漫画で見たゴブリンの姿そのものなのだから。
「そういやぁ…お前みたいな流界者は無条件だったか?うーん……。ま、ギルドに戻ってから確認すりゃあいいか」
「…るかいしゃ……?」
「お前等みたいに異世界から来た奴等をそう呼ぶんだ。“異世界から流れてきた者”で、流界者だ」
「…わたし達以外にも、いるの…?」
「世代は違うし珍しいことではあるが、過去に何度か居たって聞いてるぜ」
わたし達みたいに、あんな風にこの世界に来た人達がいる。考えても実感が湧かないのは、自分でも今の状況を上手く呑み込めていないからだろうか。
先導するように歩く彼の背を追うように歩く。
先程襲われたのが嘘のように森はどこまでも静かで、穏やかに風が吹き抜けている。
時々彼がわたしを確認するように振り返る。虐められるようになってから気配も足音も殺して生活するようになっしまったから、その癖が出てしまっていたようだ。
わたしの姿を確認する度に小さく息を吐く彼の姿を見ると、少し申し訳無くなる。
それから特に会話も無く森を進んでいくと、木製の吊橋が掛かった大きな亀裂に辿り着いた。
吹き抜ける風がまるで生き物の咆哮のような音を立てる。それに足が竦みそうになるが、前を歩く彼に置いて行かれてしまう方が怖く感じて、なんとか勇気を振り絞り彼の背を追いかける。
整えられているとはいえ、丸太を縄で繋いだだけの橋は亀裂を吹き抜ける風にユラユラと揺られている。
先に足を掛けた彼が進む度にギシギシと音を立てる橋に、続いて恐る恐る足を掛ける。わたしよりも軽そうな彼でも軋んだのにわたしの体重で軋まない訳がない。
不穏な音を耳に聞き、足裏から感じながら手摺になりそうな縄を掴みゆっくりと進んでいく。
ふと、橋が軋む音や風の音の中に微かに水音が聞こえてくるのに気付く。どこから聞こえるのかと周囲を見回して、僅かに視界の端を掠めた亀裂の底にそれがあることに気付き、鳩尾辺りが冷えていく感覚がする。
「大丈夫だ!そのまま下見ずにこっちまで来い!ゆっくりでいい!」
「……う、うん……」
他を見ないよう、既に橋を渡り終えていた彼を真っ直ぐ見ながら一歩一歩慎重に進んでいく。
普通なら渡るのに一分と掛からないだろう橋を五分以上掛けて渡り、漸く足裏が硬い地面の感触を捉えたところで、遅れてやってきた恐怖心と渡り切った安心感でその場にへたり込んでしまった。
「やるじゃねぇか!お前見かけによらずなかなか根性あるなぁ!」
「あ、ありがと……」
豪快に頭を撫でられる。こんな風に褒められるのは初めてかもしれない。
「ギルドがある集落まではもうすぐだ。疲れてないか?」
「うん。大丈夫」
「よし!じゃあ行くぞ」
歩き出した彼の後をついて行く。
橋を超えてから、森の雰囲気が肌でわかる程ガラリと変わった。
遠かった鳥の囀りが近くなり、吹き抜ける風は乾燥した土の香りではなくみずみずしい草木の香りが乗っている。
その変化を不思議に感じながらも、異世界ならこういうこともあるのだろうと自分を納得させて黙って彼の後をついて行く。
どのくらいの時間が経っただろうか。
見上げた太陽が少し傾いたような気がする頃、目の前の景色が突然開けた。
森を切り開いて作ったであろうその場所には、空まで真っ直ぐに伸びた木は点々と聳え立ち、その上にはツリーハウスが造られている。地面にも幾つかの建物が並んでいて、人が行き交う姿が見える。
「(…人…じゃ、ない…?)」
よく見ると尻尾が見えたり、獣耳があったりと、人間とはかけ離れた容姿をしている人達ばかりだ。
「驚かせたか?此処はオレみたいな魔物の冒険者達が集まってできた集落なんだよ。店開いてる連中も全員魔物なんだ。人間はお前みたいに外から来たヤツぐらいさ」
「そうなんだ…。…大丈夫。怖くないよ」
「…そうか」
あまり表情は変わらなかったが、どことなく安心したような顔をして再び歩き出した彼の後を追う。
幾つもの建物の前を横切り向かったのは、この広い集落の中で一番大きな建物。地面に建てられた二階建ての建物の背後には見たことのない程大きな木が聳え立っていて、その太い幹に幾つもの窓のような穴が見える。
まさか、この木の中にも入れるのだろうか…。
呆然と見上げるわたしの横で慣れた様子で建物に入っていく彼に遅れないようについて行く。
中は酒場のような雰囲気で、飲食をしている人達も居る様子から実際酒場でもあるようだ。
幾らか視線を感じながらもそれをあまり気にしないようにしながら彼に付いて奥へと歩いていくと、バーカウンターのような場所でグラスを拭いている、毛量の多い小柄な男性がこちらに気付いて片手を上げた。
「よう、アッシュ。仕事行って女連れて帰ってくるなんてやるじゃねぇか」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。『深淵の森』に落ちてきた流界者だ。保護したんだよ」
「……そいつぁ運が悪かったなぁお嬢ちゃん」
「あ、いえ…。でも、危ないところを助けてもらって、なんとか……」
カウンター席に座るよう促されたのでアッシュと呼ばれた彼に続いて腰を掛ける。
「自己紹介が遅れたな。オレはドレッド。ここの管理を任されているドワーフだ」
「あ、そういやぁオレも名乗ってなかったな。アッシュ。ゴブリンだ」
「わたしは、葛籠場日夏といいます」
「ツヅ……、いや、ヒナか!よろしくなヒナ!」
ニカッと明るい笑顔を向けられて自然と頬が緩むのを感じる。
こんな気持ちになるのは久し振りだ。胸の奥から湧き上がるポカポカと温かいものを噛み締めるように、両手をギュッと握り締めた。