01
「―――お前、こんなトコでなにやってんだ?」
薄暗い森の中。危険な魔物が蔓延るその場所に“落ちた”わたしを助けてくれたのは、傷跡だらけの肌にボロ布を纏った1匹のぶっきらぼうなゴブリンだった―――。
◇
平凡な日常の中で、わたしは息を殺すように毎日を過ごしていた。
気が小さくて、引っ込み思案。そんな性格のせいか、学校のクラスメイトにはわたしを揶揄って笑い遊ぶ女の子達が居た。
毎日、毎日。彼女達の視線や機嫌を伺いながら生活するのは疲れる。
だけど溜息を吐こうものなら『生意気だ』と髪を掴まれ、痛がれば笑いながら彼女達は行為を更に酷くしていく。
前に顔に傷を作ったときは、流石に両親にバレて学校に抗議することになってしまった。
最初電話で担任に。だけど何も変わらないと憤慨したお父さんが学校に来て直談判した。
だけど無意味だった。わたしが彼女達を怖がって何も言わなかったせいか、先生達は『生徒達の間で少し行き違いがあっただけだ』と言って虐めを主張するお父さんの言葉を聞かなかった。
その日の学校からの帰り道、『頼りない親でごめんな』と力無く項垂れるお父さんに、わたしは申し訳無さで泣きそうになった。
わたしがもっと強い人間だったなら、お父さんにこんな悲しい思いをさせずに済んだのだろうか…。
そんな日々を過ごし、いつしか色んな痛みに慣れ始めてしまった今日この頃、いつも通りの授業中の教室で不思議なことが起きた。
突然、教室の中に光が溢れて眩しさに目を閉じると浮遊感が全身を包んだ。
驚いて目を開けると同時に地面のような場所に降りられたが、辺りは一面の真っ白な空間だった。
雪景色、というわけではない。本当に何も無い、白い場所。
周囲には次々にクラスメイトが現れ、みんな突然のことに驚いたり怖がって泣きだしたりと反応を見せている。
その光景を見ながら何も思わないわたしは薄情者なのだろうか。なんだか居心地が悪くて自然と視線が下を向く。
『―――よく来てくれました』
頭上から、声が降ってくる。
女性のような、少年のような。そんな中性的な声に全員が不安や驚きにざわついている。
見上げても、何も無い。ただ、白が広がっているだけだ。
『突然お招きして申し訳ありません。しかし、今、私の世界は危機に瀕しているのです』
声は言う。
此処は、わたし達の世界とは別の世界で、魔法や魔物が存在する世界なのだという。
人間を始め、様々な種族が共存するその世界では今、マナ不足が深刻化しているそうだ。
マナというのは自然のエネルギーの一つで、魔法や魔具という道具を動かすのに欠かせないエネルギーなのだそう。
しかし、世界中でマナが不足し始めたことで、災害や魔物の活性化、危険度の高いダンジョンの出現など、その世界の住人達の命を脅かすことが増えているそうだ。
その改善の為、この世界では定期的に異世界から人間を召喚して助けてもらっているのだという。
まるで小説のような展開に殆どの人が驚きながらも少なからず興奮している様子。でもわたしはなんだか不安だった。
魔物なんて小説や漫画でしか見ないようなものが実際に存在する世界で、戦いも知らないわたし達にどうやって助けてくれというのか。
なんだか恐ろしいことが待っているような気がする。そう感じて一歩下がると、突然周囲が円状に光を発しながら収縮し始めた。
『それでは皆様、よろしくお願いいたします』
だんだん狭くなっていく足場に恐怖を覚えて、じわじわと迫る光を見ながら後退る。
取り敢えずその光から逃げようと振り返ると、トン、と肩を押された。
グラリと傾く体。見えたのは、いつもわたしに意地悪をする女の子のニヤついた顔。いつか、階段の踊り場で見たものと同じ景色に喉がヒュンと音を立てた。
光を超えると体を浮遊感が包んだ。落ちていく。そう認識する中で見た白い空の向こうに、酷く冷ややかに此方を見下ろす目を見た気がした―――。
葉擦れの音がする。土の匂いと、草の匂いを含んだ風が頬を撫でる感触がする。
ゆっくりと瞼を押し上げる。眩しさのせいか微かに痛みを感じて眉を顰める。何度か瞬きをしながら時間を掛けてなんとか目を開けると、視界一杯に緑が広がった。
「……え」
自然と溢れた声は風に攫われて掻き消える。
さっきまで居た白い空間ではない。頬に触れる風の感触も、指先を滑らせた地面の感触も本物だ。
此処は、あの声が言っていた異世界なのだろうか。
凭れ掛かっていた木の幹を支えに立ち上がり、自分を落ち着かせるように深呼吸をしながら周囲を見渡す。
何処をどう見ても森。人の手が入っている様子はなく、自由に伸ばされた木々の枝は青々と茂らせた葉を重ねながら高く高く背を伸ばしている。そのせいか、枝葉の隙間から見える太陽の位置は高いのに周囲は薄暗く空気も少しひんやりとしていた。
少し 薄気味悪い。
漠然と、なんだか嫌な感じがして音を立てないように慎重に立ち上がる。
足音を立てないように一歩一歩ゆっくり足を運び、息を殺して木の幹の影に身を隠すようにしながら進む。
此処が本当に異世界だというのなら、こんな人の手の入っていないような森にはきっと魔物がいるはずだ。戦う術の無い今のわたしにできることは、見つからないことだけ。それに全神経を注ぐ。
草木が風に揺れるだけでビクリと情けなく震える体。折れそうになる足をなんとか気力で支えながら進んでいく。
生き物の気配のしない、殺伐とした雰囲気に恐怖心が煽られる。
この森は普通ではない。この短時間でそれだけは理解できた。
なぜなら、頭上には鳥の一羽も居なければ木々の上に小動物の姿も、小さな虫でさえ見当たらない。
異世界だからこんな森が存在するんだろうか。この世界ではこんな森が他にも存在するんだろうか。
恐怖を紛らわせるように思考を繰り返す。そうでもしないと座り込んで立てなくなってしまいそうだ。
走り出したい衝動を必死に抑えてゆっくりを足を進めていくと、遠くから地響きのような音が微かに聞こえてきているのがわかった。
何かが、近付いてくる。
自然と後退る。素早く周りを見回し隠れられそうな場所を探すが、周囲にあるのは真っ直ぐ生えた木々以外はわたしの腰ぐらいの背丈しかない藪木だけだ。
しかし背に腹は変えられない。近付いてくる足音に急かされるように細い枝の隙間に体をねじ込んで、全身を隠せるようにできるだけ体を縮めて膝を抱え丸くなる。
大きな足音が近付いてくるたびに周囲が揺れる。
一体どんなに大きな生き物なのだろうか。僅かな好奇心が顔を上げさせようとするが、ドシン、と揺れた地面の振動がそれを制する。
自分を抱き締めるように腕を強く握る。
「……っ」
腕に走った指すような痛みに眉を寄せる。
どうやら先程藪木に体を入れた時に細い枝に引っ掛けて切ってしまったようだ。深い傷ではないが僅かに血が滲んでしまっている。
出血している様子はないが、もしかしたら臭いで気付かれてしまうかもしれない。
慌てて傷を掌で抑える。そうすると同時に、すぐ隣でドシン、と大きな音がして地面が一層大きく揺れた。
恐る恐る視線を向ける。
目に入ったのは闇を溶かしたような黒い肌の、二足歩行の巨大な怪物。
岩のようなゴツゴツした硬そうな肌。わたしより二周り、三周りは太い大きな足。前傾姿勢で歩く姿はまるで恐竜のようだが、眼の前の怪物はそれよりも恐ろしい異形の姿をしている。
3つの目が色んな方向をギョロギョロと見回している。少しでも身動きをすれば気付かれるような気がして、口元を覆いながら怪物が去っていくのを待とうとすると、ギョロリ、と目の一つが此方を捉えた。
―――気付かれた…!
本能のようなものでそう理解した瞬間、藪木の枝に引っ掛けた肌が切れる痛みも気にせず飛び出すように走り出す。
耳を劈くような大きな咆哮が背後から響いてくる。
早くもない足を必死に動かし、木々や背の低い藪木の間を蛇行して少しでも狙いをずらしながら走る。
ドンドンと強い振動と共に響く重低音の足音があっという間に背後に迫り、大口を開けて襲い掛かる。
「ひっ………!!」
反射的に身を屈めると頭上を掠った怪物の口は、勢いのまま噛み付いた木の幹をバキバキと噛み砕いた。
わたしの二周りは大きい木の幹が、まるで柔らかいものかのように食い千切られている。
サァっと血の気が引いていくのがわかる。
恐怖に体が竦むのを感じながらゆっくりと顔を上げると、噛み砕いた木を吐き捨てた怪物の目が真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。
鋭い牙が並ぶ口が喉奥まで見える程大きく開けられる。
―――食べられる…。
怪物の生暖かい吐息が肌を掠めるのを感じながら死を覚悟してギュッと目を瞑った。
「―――まだ諦めるには早ぇよ」
ぶっきらぼうな声が、絶望に沈んだ心を引き上げる。
声の聞こえた方向に顔を上げる。頭上にあったのは一つの影。
人とは違う褪せた緑色の肌に、尖った耳。小柄な体に纏ったボロのマントを靡かせながら、それは頭上に剣を振り上げていた。
「伏せてろ」
「!……っ!」
言われて反射的に頭を抑え身を低くする。
鋭い風が吹き抜ける。肉が裂ける生々しい音が耳に届くと、次いで血の飛び散る音、そして、地響きのような音が周囲に響いた。
顔を上げると、怪物が力無く倒れている姿が目に入る。
首が無い。彼が切り落としたのだろうか。わたしより小柄な、彼が……。
「お前、こんなトコでなにやってんだ?」
動かなくなった怪物の上から、真っ直ぐにこちらを見下ろす彼。
ぶっきらぼうな物言いに反してこちらを気遣っているような雰囲気の彼の真っ直ぐな目を、わたしはただ見つめ返すことしかできなかった。