その2
ビアンカを受け止めたアルバンは、そのままひょいひょいと木を飛び降りる。
「ちょ、ちょっとっ……」
抱えられているだけのビアンカではあるが、着地の度に衝撃はある。
「喋るな。舌噛むぞ」
くらくらとなりながら、アルバンの言いつけどおりに口をおさえてコクコクと頷くと、アルバンが柔らかく微笑んだ。
「じゃー、逃げるか!」
「ええっ」
無事に地上に降り立ったのに、アルバンはビアンカを離さない。そのままたかたかと走り続ける。
俵抱きにされたビアンカがふと離宮の方を見ると、なにやら武装した騎士たちが数人いて、施錠している扉をこじ開けようとしていた。
(な、なにが起きているの……)
虐げられていても王族だ。そんな第二王女の住まいに、ああして兵が押し寄せる意味が分からない。
確かに夜には侍女もいなくなり、見張りの騎士もいるかいないか分からない日々だけれど。
「話は頭領のとこに着いてからな」
凍えてしまいそうな夜に、アルバンの走る吐息と身体の温かさがビアンカを支えた。
辿り着いた先は、城下の一軒家だった。
アルバンはさっとその家の二階の窓から中に入る。
どうして玄関から入るという概念がないのか、はなはだ不思議だ。
ビアンカをそっと椅子に座らせたアルバンは、ニカッと笑う。尖った八重歯が犬のようでかわいいと言ったら、昔怒られたことがあった。そんなことを思い出してしまう。
「――第二王女殿下。よくいらした」
ほっこりとした気持ちになったところで、部屋の扉が開いた。そして、重厚で深みのある声がこの部屋に響く。
大声を出している訳ではない。それでもその声はビリビリと鼓膜に響き、威圧感からビアンカは逃げ出したくなるような気持ちになる。
「だいじょーぶ」
隣にいるアルバンが手を優しく握ってくれる。そのことで緊張が解れたビアンカは、目の前に立つ壮健な紳士を真っ直ぐに見つめた。
「わたしは、この国の第二王女ビアンカ・フォン・ツェントゥルムでございます」
「ふむ……私は訳あって王都に滞在しておるのだが、名をバルトロメウス・ザウアーラントと申す。以後見知りおきを」
「ザウアーラント……様!?」
褐色の肌に、弾ける筋肉。アルバンと揃いの赤髪は短く切りそろえられている。それに、なぜだかはだけている上着。そしてそこに見える大きな傷。何かの牙が幾重にも連なった首飾り。
ついひと息に全身を観察してしまうほどに、意外な人物がそこにいたことにビアンカは驚きを隠せない。
かの南の辺境伯ザウアーラントの当主である。
「うちの倅が世話になった」
いかつい辺境伯の眼差しは、柔らかかった。そしてそれは、アルバンに向けられている。
「アルバン……あなた、辺境伯のご子息だったの」
「うん。ちょっとワケあって」
幼い頃からずっとビアンカを支えてくれた友人が、まさか辺境伯の子息だったなんて。ビアンカは驚きを隠せない。
(ああでも。だから出入り出来たのだわ)
だが同時に納得もした。最初に出会ったのも離宮の庭園だ。一市民が普通に入れるようなところではない。
「さて、第二王女殿下。現在の状況は理解しておられるか?」
色々と混乱したままではある。だがしかし、ザウアーラント辺境伯の質問に答えるべく、一度深呼吸をしたビアンカは、ゆっくり口を開いた。
「姉であり、この国の王位継承権第一位のアデーレが、マルツ侯爵家のご子息との婚約を破棄するという暴挙に出ました。彼女の恋人であるダニエルは叙爵の話が出ているとはいえ、マルツ侯爵家を排斥してまで男爵位を賜ったとしても、王配にはなれないでしょう」
宰相であるマルツ侯爵家との縁があることで、この国の現状を憂う宰相側の派閥を抑えていた節がある。
(でも、それもなくなってしまったわ)
最近の国王は宰相を煙たがっていた。だからこそ姉の愚かな企みに加担したのかもしれない。
代わりに姉の隣に立つダニエルは、今はまだ一介の商人だ。いくら王女からの寵愛めでたいからといえ、爵位を賜ることは出来ても、王配となるには足りない所が多い。
王配とは、女王を補佐し、彼女に何かあった時に代わりに立つことが出来なければならない。
「――仮に強権によって彼を王配の座に据えたとしても、これまでの事を鑑みれば、この国の未来を憂う者は増えるでしょう。そして……」
要は、この国の中枢が弱ってしまう。
諸国にとっては好都合だ。政治的に取り込むにしろ、戦火を起こすにしろ。中央が機能しない国ほど攻めやすいものはない。
民はどうなってしまうのだろう。想像しただけで怖くなってしまう。
ビアンカは眉を寄せ、言葉を濁す。
「なるほど、第二王女殿下は正しく理解されておられる。このままでは、好戦的な諸国に乗っ取られるやもしれぬ」
ザウアーラント辺境伯は、頭をぼりぼりと掻く。南部にいるはずの彼がこうして直々にこの場にいること自体がすでに、異常事態なのではなかろうか。
「戦になるのは困るんだよな~俺たち。国境だから、最前線だし」
隣にいるアルバンは、そう言うとそっとビアンカの前に跪いた。
先ほど繋いだ手がそのままだ。
「ね、ビアンカ」
真剣な赤い瞳がビアンカをじっと見上げてくる。
これまで何度も二人で色々な話をしながら過ごして来たが、こんなアルバンを見るのは初めてだ。
「君さ、この国の王になってくれない?」
あまりに軽く言われたその言葉に、ビアンカは目を丸くする。
自らが王になる。
王位継承権は第二位であるものの、これまで冷遇されていた王女である。そんな考えは毛頭なかった。
アルバンの言葉に、ビアンカは力なく首を横に振った。
無理だ。
「私の声なんて、誰にも届かないわ。まだお父様もご健在で、お姉様たちだっているのに」
ビアンカの周りには誰も味方がいないのだ。
第二王女が王になるということは、姉の継承権が剥奪された上で、国王から譲位されなければならないのだから。
「俺がいるじゃん」
「……え」
「ビアンカのこと、ずっと見てたよ。あの二人はダメだ。この国を救えるのはビアンカしかいないし、俺がずっとビアンカの味方だから」
ニカッと笑うアルバンの笑顔に、ビアンカはたまらない気持ちになる。
「第二王女殿下。あなたが立つと言うのであれば、このザウアーラントが後見に立ちましょう。シェーンハイトの熊男とも私が話をつける。殿下の優秀さはこれから聞いておりますからな!」
「これって言い方ひどいな、父上」
「頭領と呼べ」
「へいへい。今はその呼び名が気に入ってるんだもんねぇ」
カラカラと笑う海の男に、呆れた声をかける昔馴染みの友人。
寝起きから目まぐるしく起こる出来事に、ビアンカの頭は焼き切れそうだ。
心臓はずっとバクバクと激しく鼓動している。
こわい。
(でも……私に出来ることがあるのならば)
アルバンが教えてくれた外の世界は、民の生命力に満ちていた。その暮らしが壊されてしまうことは嫌だと純粋にそう思う。
「私、この国を変えたい……です。ザウアーラント卿、ご協力お願い出来ますか」
「無論です」
立ち上がったビアンカの瞳には決意が宿る。
ザウアーラント辺境伯に礼をして顔を上げると、いかつい男が優しく微笑んでいた。
「えっちょっビアンカ、俺には!?」
「アルバンも、お願い」
慌てた様子の幼なじみに、ビアンカは思わずくすくすと笑ってしまう。アルバンが味方だと言ってくれたから決意したというのに、おかしなことだ。
ビアンカの笑顔に安堵したアルバンも、ほっとしたように息を吐いた。
「じゃあ、今日から俺がビアンカの婚約者だな!」
「えっ!?」
「えっ?」
「そうなの……?」
「違うの……?」
悲しそうに眉を下げるアルバンの頭上に、見えるはずのない萎れた犬の耳が見えた気がしたビアンカだった。