よく晴れた日の、裏庭での話。
「オリアーナ・グランテ! あなた一体、いつまでセシル様の婚約者でいるつもりなのかしら!?」
「貴方のように見窄らしい女は、潔く身を引くのが令嬢として正しいのではなくて?」
「全く、成金貴族がセシル様を独り占めするだなんて……はしたないとは思わないの?」
特に思いませんね、という返答が口から出かけるのを、オリアーナは唇を引き結ぶことで堪えた。
セシル親衛隊を名乗る彼女たちが、オリアーナのそういった態度をよく思っていないことは知っているからだ。こんな風に人気のない場所で囲まれた場合、最善手は口ごたえをせず、相手の気が済むまで罵倒させることしかない。
それをしたところで叩かれる時には叩かれるし、衣類を汚されることもあるのだが。
少なくともオリアーナが知る限り、ここにいる彼女たちは証拠を残すような愚かな真似はしないタイプの令嬢であった。
「いくら凡庸な見目をしているからといって、身なりに気を遣いもしないだなんてどうかしているわ。せめて婚約者が貴方みたいな人でなければ、私たちだって少しは受け入れられると言うのに……」
忌々しげに吐き出された呟きには、実際のところオリアーナも同意見だった。
オリアーナの婚約者セシル・マクヴィアンは、それはそれは美しい男である。
腰ほどまである艶やかな黒髪を高い位置で束ね、オリアーナには理解し難い過度な装飾を施した眼鏡を掛けた、少し突飛な格好をした男であると言うのに、令嬢達からはいつも熱のこもった視線を向けられている。
一風変わった格好も個性として成り立つほどの美貌なのだそうだ。
オリアーナから見れば、たまに眼鏡にあまりにも長い睫毛が当たっていて邪魔そうだな、としか思えないのだが。
別に目が悪いわけでもないのに、セシルは自身を着飾るためだけに洒落た眼鏡を掛けているのだ。わざわざ飾り立てる必要も無いほどの美貌だというのに、セシルは自分を着飾ることにいつも余念がなかった。
彼はいつだって『美しくありたい者』の味方だ。その自分が美を欠くようでは、顧客に夢と希望を与えることはできない、というのが彼の持論だった。
オリアーナにはさっぱり理解できない感覚である。だが、理解できないだけで、セシルのそうした服飾への熱意は素直に好ましいと思っていた。だから、オリアーナは自身が築いた財産を、セシルの起業を支えるために投資しても良い、と判断したのだ。
グランテ家はここ数年で急速に大きくなった商会だが、それは主にオリアーナの開発した魔道具によって成された財である。特許を取る際、ある程度の位を持った身分が必要だから、という理由で、グランテ家はいくつかの貴族に婚姻の打診をした。それに応えたのが、ちょうど化粧品開発に力を入れようとしていたマクヴィアン家である。
二人の婚約が結ばれたのは今からおよそ一年半前。政略はあれど、本人の意思を尊重した婚約だったと記憶している。
だが、二人と両家が納得していたとしても、周囲には納得がいかなかったらしい。オリアーナはセシルと婚約を結んでからと言うもの、学園ではほぼ毎日のように彼の親衛隊に絡まれ続けていた。セシルも出来る限り庇おうとしてはくれたが、火に油を注ぐようなものなので表立って庇ってもらうのは止めにした。ある程度、激情の行き場を用意してやった方が楽だったのだ。
「セシル様をお金で縛り付けるだなんて、浅ましいにも程がありましてよ!」
だったら貴方達が用意してみればどうだ、とは口にしなかった。ちょうど、激昂する令嬢達の後方に見慣れた婚約者の姿が見えたためである。
「何をしているんだい?」
突如として後方からかけられた涼やかな声に、令嬢達は弾かれたように振り返った。
「セ、セシル様……!」
さっと顔色を変えた彼女達は、現れたセシルが口元に笑みを湛えつつもあまり好意的ではないことを素早く読み取ると、取り繕うような表情を浮かべてみせた。
「いえ、その私たちは……オリアーナさんとお話を……」
「え、ええ。彼女は前学期の成績優秀者でしょう? お勉強のことで少し聞きたいことがありまして」
「そうですの、オリアーナさんのお家は珍しい商品も取り扱ってますし、わ、私達、是非仲良くしたいとおもっておりますのよ」
口々に重ねられた言い訳は、なんとも白々しいものだった。
「ふうん、そうかい」
セシルは一欠片も納得の言ってなさそうな顔で呟くと、動揺を隠しきれていない様子の三人を視線で撫でた。
普段の華やかな笑みからは想像もつかないほど冷えた視線に、三人は喉を引き攣らせる。
そのままあと数秒でも見つめていれば自らの行いを全て語り出すだろう、というところの少し手前で、セシルは何処か得意げな笑みをその顔に浮かべた。
「君たちにはオリアーナの価値が理解できていないようだね?」
あ、これはセシルの悪癖が出る。
オリアーナは直感した。
親衛隊の相手をしている時とは別の疲労感が彼女を襲ったが、オリアーナが何か言うよりも早く、セシルはきっぱりと、それでいて何とも軽やかな声音で宣言した。
「いいだろう、そこでしばらく待ち給え。僕が彼女に魔法をかけてみせよう」
此処で言う魔法とは、古代文明における魔術のアーキタイプのことではなく、現代妖精がもたらす奇跡の一種のことでもなく、単に『術式も介さず魔力消費も行なっていないのにも関わらず奇跡を起こしたように見える技術』のことである。
セシルは呆気に取られる親衛隊の前で、鮮やかな手つきで以て『化粧箱』を取り出すと、未だ身じろぎひとつせず銅像のように立っているオリアーナの前髪を髪留めでさっと留めた。
「……セシル」
「分かっているとも、すぐに済ませるよ」
「………………はあ、もう」
分かっていないじゃない。呆れと疲労の混ざった吐息を溢したオリアーナは、それでも嬉々として道具を手にしたセシルを前にして強く拒絶する気にもなれず、慣れた様子で目を閉じた。
顔に浮いた脂分を丁寧に拭き取り、日頃から処理だけは丁寧にされている肌に専用の化粧水を馴染ませ、幾つかの化粧品を重ねることでよりきめ細かく見せていく。
主張の薄い瞳を一変させるように美しい色を瞼に乗せ、目尻は少し跳ね上げるように描き足された。鼻筋が通っているのは素晴らしい美点だ、とセシルは常々褒めてくるが、オリアーナにとってはどうでも良いことだった。鼻が低かろうが高かろうが、開発には微塵も関係がないからである。
だが、己に化粧を施すときのセシルの、真剣かつ楽しげな表情を見るのは好きだった。
女性にしては短めの睫毛を長く補強し、上向きに癖をつけてから更に維持するためらしき化粧品を重ねて塗る。
オリアーナには理解できない手数であちこちを補正したセシルは、最後に艶やかな色の口紅を塗り終えると、何とも得意げな顔で令嬢達を振り返った。
「見たまえ! この化粧映えの良さを! この大陸を探し尽くしたとしても、オリアーナよりも劇的な変貌を遂げるものはおるまい!」
あまり嬉しくはない褒め言葉だったが、セシルが心から誉めているのを知っているので、オリアーナは特に不平を口にすることはなかった。
何より、呆気に取られる令嬢達がちょっと面白かったのもある。いつも嘲笑混じりにオリアーナの容姿を論う彼女たちは、目の前で繰り広げられたまさしく魔法のような手腕を目の当たりに、あまりの変わりように絶句している様子だった。
狼狽えるその様をじっと見つめてみせれば、三人は拠り所を探すように、怯えた様子でそっと身を寄せ合った。
「ちなみにオリアーナは、あと十二回ほど変貌を残している」
何やら非常に得意げに告げているが、それは単にセシルが類まれな化粧技術を持っている、と言うだけの話である。少なくともオリアーナはそう思っていたし、きっと他の誰に聞いても否定はしないだろう。
「オリアーナが着飾らないのは、彼女の信条だ。無論、相応しい場では相応の格好をする。女性の自由が唱えられる我が国で、容姿を理由に個人を糾弾するのはよろしくない行いだとは思わないかね?」
セシルは聡い男だ。日頃から美しく着飾り、美貌に磨きをかけている少女がどんな言葉でオリアーナを傷つけようとするかくらい容易く予測がつくだろう。
「何より、君たちは美しい女性だ。その弛まぬ努力の上に成り立った美貌を無粋な侮蔑の言葉を吐き出す為に使うだなんて、非常に勿体ないことだよ」
心の底から残念そうに口にしたセシルに、少女達ははっとしたように顔を強張らせた。その頬を薄らと赤く染めるのは、喜びと羞恥だろう。
最上の美を追い求めるセシルに己の容貌を褒められたことと、その彼に失望を向けられたこと。
唇を噛み締めた令嬢達は、恥じ入るように目を伏せると、殊更に美しい淑女の礼をとり、微かに聞き取れるかどうかの謝罪をしてから逃げるようにその場を後にした。
浴びせられた罵倒から考えれば謝罪が釣り合っていないような気もしたが、難が去ってくれたのなら文句はない。
オリアーナは隣に立つセシルを見上げると、素直な気持ちで礼を口にした。
「ありがとう、セシル。少し鬱陶しくて困っていたところだったの」
「いや何、礼などいらんさ。僕の方こそすまないね、面倒をかける」
「気にしないで。貴方と婚約する時点で、ある程度は覚悟していたもの。それより、これを落としてほしいのだけれど」
これ、と自身の顔を示したオリアーナに、セシルはほんの少し名残惜しそうな表情をしたのち、場所を移すように促した。
化粧というのは施す時はもちろんだが、落とす時にも気を遣うべきらしい。オリアーナにはよく分からなかったが、セシルに任せておけば綺麗に落としてもらえるので、用意が必要だというのならいつも通り従うだけだった。
「うん、やはり君は素顔が一番美しいな。無論、僕の完璧な技術によって飾り立てられた君は天上の女神の如き美しさを誇るが、素顔でこそ君の理知的な瞳の輝きが映えるというものだ」
上位貴族用に用意された一室にて。セシルは化粧を落とし終えたオリアーナを満足そうに見下ろすと、心底嬉しそうに微笑んだ。
セシルは自身の腕に絶対の自信を持っているし、オリアーナに化粧を施すのが好きなようで日に何度か頼まれることもあるのだが、素顔のオリアーナを決して貶したりはしなかった。
それどころか、まるで絶世の美女でもいるかのような褒め言葉を口にする。最初の頃は心にもない口説き文句を義務的に連ねているのかとも思ったが、すぐにそうではないことに気づいた。
セシルは本当に、オリアーナの顔を好ましいと思っているのだ。それは、彼が褒め言葉を紡ぐ時の気の抜けた、いっそふやけたとも言える笑みを見れば容易に理解できる。何処がそんなにいいのかはさっぱり分からないが、少なくとも真摯に愛されている、ということだけは事実だった。
オリアーナは、セシルのこういう顔を見る時、普段の澄ました顔よりも余程愛しいな、と思う。美の体現者として、淑女の理想の王子様のように振る舞うセシルよりも、こうして懐き切った子犬のように気の抜けた笑みを浮かべているときの方が、よっぽど魅力的だ。
「セシル、眼鏡をとってもいい?」
「? 別に構わないが。ああ、もしかして君もようやくこうした装飾品に興味が出てきたのか? それは素晴らしいな、今度僕が君に似合う眼鏡を選んであげよう」
「ううん、興味はないし、いらない。眼鏡は視力矯正器具以外の何物でもないから」
「ああ、オリアーナ。なんて悲しいことを言うんだ。これは僕の自慢の自信作で、」
「それに、キスするときに邪魔でしょう?」
外した眼鏡を手に問いかけたオリアーナに、セシルは何事か言いかけていた唇を中途半端に開いたまま固まった。
長い睫毛に縁取られた美しい瞳が、あからさまに狼狽えた様子で視線を彷徨わせる。見る見る内に赤くなっていく頬にそっと手を当てると、上質な生地に包まれた肩が小さく跳ねた。
彼はいつだって行く先々で女性に騒がれているけれど、みんなが思うほど女性慣れしている訳ではない。セシルは女性を美しく飾り立てるのが好きなだけで、完成された芸術品に手を出すような無粋な真似はしないのだ。
加えて言えば、誰も彼もが彼を神聖視して崇め奉るせいで、本当の意味でセシルに触れようとする者は酷く少ない。
だから、たかが婚約者とキスをする程度のことで、こんなにも動揺し、戸惑いと羞恥に頬を染める。
こういうところがたまらなく可愛いのだ、と気づいたのはいつのことだったか。覚えてはいないが、さほど遅くはなかった筈だ。
オリアーナは機嫌よく目を細めると、高揚した気分に従って、セシルにちょっとした悪戯をしかけることにした。
一度重ねた唇を離し、緊張から解放されたセシルが安堵したように息を吐いたところで、吐息を飲むように再度口づける。
すると、彼はあまりにも分かりやすく緊張に身体を強張らせた。
静かな部屋に、思わず溢れた、というような吐息混じりの声が響く。オリアーナはしばらく遊ぶように口付けを楽しんだあと、迷うように背に回りかけていたセシルの手が己を捕まえるよりも早く、滑らかな仕草で彼の腕から抜け出した。
此処ではちょっと、と思ったので。
赤く染まった顔でオリアーナを見つめるセシルの顔に、眼鏡を掛け直す。何処か呆然とした様子で戻されたそれを中指で軽く押し上げたセシルは、何かを誤魔化すように咳払いを響かせた後、小さく呟いた。
「オリアーナ、君は、その……いつも唐突だな」
「嫌?」
「嫌ではないよ、全然。全く」
赤く染まった顔で照れ笑いを浮かべたセシルは、言葉の通り嫌がっている素振りは全く見せなかったが、ほんの少し困ったように眉を下げた。
「ただ、……僕はあまりこういうことに慣れていないから、君に格好悪いと思われないか不安だ」
「大丈夫よ、そもそもセシルのことを格好いいと思ったことはあんまりないから」
「!? 何だって!? この国で最も凛々しく美しいと評判の僕に、格好いいところが一つも見当たらないと!?」
「セシルは格好いいっていうより、可愛いから。どんな風にしててもね」
純然たる事実を告げる声音で言い切ったオリアーナに、セシルは呆気に取られたように固まった後、少しだけ拗ねたように唇を曲げた。
「僕のことをそんな風に言うのは君くらいのものだよ、オリアーナ」
「あら、当然よ。セシルが可愛い顔をするのは私の前でだけだもの。可愛い、だなんて他の誰にも言われてほしくないわ」
オリアーナの声音は変わらない。彼女にとっては単なる事実を述べているだけだからである。ちょうど、魔道具の製作工数を確認するときの声音と全く同じだった。そのくらい、彼女にとっては当然のことでしかない。
むしろ何処か不思議そうに見上げてくるオリアーナを前に、セシルはそっと、降参を込めて両手を上げた。