シニタイ
自殺に関する話です。(グロ表現はなし)
苦手な人は注意して下さい。
了承した上で読んで頂ければ幸いです。
シニタイ。シニタイ。シニタイ。
死にたい。
だから、死のう。
◇
気づけば、自殺の名所である廃墟のビルの屋上に一人で立っていた。
……いや、気づけばというのは嘘だ。
俺は死にたくて、ここに来た。
こんな薄汚れて何もない場所に来るのは自殺をしたい奴だけに決まっている。
「しかし、本当に鍵が掛かっていないなんて」
このビルが自殺の名所だということは、全国規模で知れ渡っていた。
当然、俺が通う学校でもここに近づくことは固く禁じられていた。
ビルを完全に封鎖するか、取り壊せば良いものを誰もそれをしようとはしなかった。
自殺をしたい人のために敢えて開放しているのか、自殺をした地縛霊に呪われないためか、街が裏の観光名所として残したいためか。
真相は分からないが、誰でも中に入れるようになっていることを街の人はみんな知っていた。
そして、毎日のように誰かがこのビルの屋上に来て自殺をしていた。
学生やモノ好きが肝試しにこのビルに来ることはあるが、それは1階までの話。
生きている人は、ビルの屋上までくることはない。
この屋上に来るのは死ぬつもりの人間だけ。その屋上に俺は一人で来ていた。
秋風が顔を覆うように吹いてきた。
夜も更けてきたせいか、高い場所にいるせいか、風が冷たく感じる。
ただ、寒いと感じることはなかった。
むしろ、身体の奥から燃え上がる炎のようなものを感じた。
俺は屋上から地面の方を見下ろす。
暗くてはっきりとは見えなかったが、ここから飛び降りたら確実に人が死ねる高さだということは感じ取れた。
「死ねる。もうすぐ死ねるんだ!」
ごくりと唾を飲み込んだ。
高揚感で身体が震えだしてきた。
死にたいと思ったきっかけは何だっただろう。
同級生からいじめられたこと? 成績が下がって、ゲームが没収されたこと? 好きな人に裏切られたこと? 家族に見捨てられたこと?
多分、どれかじゃなくて全部なんだろう。
一つ一つは些細なことだが。結局、嫌な事が募り俺は現実世界に、生きることに絶望した。
今まで、楽しかったものは全部なくなって、信じられる人は誰も居なくなって。
家族でさえも俺を嫌う。
誰も。誰も俺のことを見てくれない。
誰も俺に居てほしいとは思ってくれない。むしろ、みんなは俺に死んで欲しいと願っているに違いない。
誰かが言った。
生きていれば。生きてさえいれば、この先良い事が待っていると。
馬鹿を言え。
お前に俺の何が分かる。
そんな、いつ来るかも分からない夢のような未来を待っていることなんて出来ない。
俺はもう疲れたんだ。ここまで頑張ってきたけど、もう無理なんだ。
いつ来るか分からない未来よりも、俺は手に届く幸せな未来を掴むんだ。
そう死ねば幸せだ。
死ぬことで、いじめてきたやつや先生、親の顔を見ることなんて無くなる。
死ぬことで、俺もみんなも喜ぶ。
死ぬことで、この腐った現実から逃げられる。
シニタイ。シニタイ。シニタイ。
死にたい。
だから、俺は死ぬ。
足を一歩前に踏み出す。
覚悟は決まった。
俺はここから飛び降りる。
「ハハハッ」
口角が上がり、自然と笑いがこぼれた。
そして、興奮が収まらないまま重力に身を任せて飛び降り──
「ねぇ」
背後から音がした。
思わず反応してしまい、足を踏み出して身体を支える。
俺の両足は屋上に立っていた。
心臓は音を鳴らす。意識もはっきりしている。
まだ生きていた。
「ねぇ、聞こえる?」
声がする方に身体を向ける。
そこには制服を着た少女が立っていた。
月明かりに照らされた姿に目を奪われ、今まで覚えていた興奮はどこかへ消え去っていた。
俺は目の前の彼女に惹かれた。まるで、この世のものとは思えない程の整った顔つきに。
そして、まるで掴みようの無いようなその表情に。
「やっと、こっち向いた」
少女は瞼を動かし、唇を震わせる。
生きている証拠だ。
興奮が収まったせいか、思考はだんだんとクリアになる。
俺は彼女のことを知らない。
見知らぬ彼女が、なぜ俺に話しかけたのだろうか。
彼女の服装を見る。制服を着ていた。
街で何度か見たことはあるが、どこの学校のものだったかは思い出せない。
恐らく、俺と年齢はほとんど変わらないだろう。
「死ぬの?」
彼女は淡々と聞いてきた。
まるで、当たり前のことのように。
彼女も街の人間だろうから、このビルで何をしようとしていたのかは簡単に予想できたのだろう。
「うん」
俺も彼女に合わせて淡々と、はっきりとした意志で答えた。
俺は死ぬんだと。ここで自殺するんだと。
「そっか」
そう言うと、彼女は一歩だけ後ろに下がった。
そして、俺の方を見てニッコリと笑った。
止めるわけでもなく、勧めるわけでもなく。
ただ俺の方を見ていた。
彼女の意図が読めなかった。
俺に死んでほしいのか。生きてほしいのか。
俺は彼女の元に歩みを寄せる。
「どうしたの? 死なないの?」
キョトンとした顔で聞いてくる。
「人に見られたくないんだよ」
そう答え、屋上の端から中央の方へ移動した。
もう飛び降りる意志はないと主張するように。
実際そうだった。
俺は死にたいだけだ。死ぬだけならいくらでも方法はある。
道路にいきなり飛び出たり、線路から飛び降りたり。
俺がこのビルを選んだのは誰にも見られたくなかったからだ。
誰にも見られず、迷惑をかけず、ただひっそりと。
首を吊ってもよかったが、気が進まなかった。
苦しみたくないという理由もあるが、このビルが自殺の名所だから。
みんなここで死んでいるから。みんなと同じように、同じ場所で死にたいと思ったから。
結局、死ぬ間際でも俺は"みんな"という存在に振り回されていた。
俺の大嫌いな"みんな"に。
彼女はずっと俺の前に立っていた。ただじっと俺の目を見ていた。
改めて、俺は彼女の顔を見てみる。
彼女は同じ人間だとは思えないというのが最初に思った感想だ。
独特な雰囲気がそう感じさせる。
まるで彼女の考えが読めない。考えを読ませないようにしているとも感じた。
一先ず、死ぬつもりが無くなった途端、突然現れた彼女に興味が湧いてきた。
彼女はどこの学校の人なのか。なぜ俺に声を掛けてきたのか。
俺に死んで欲しいのか、死んで欲しくないのか。
「名前は?」
とりあえず、名前を聞くことにした。
名前が分からなければ何も始まらない。
まずは、彼女の情報を探ることにした。
「ん~」
彼女は顎に指を当てて、考えるポーズをする。
なぜ、名前を答えるだけなのにそこまで悩む必要があるのか。
「じゃあ、佐藤花子で」
俺は絶句した。
明らかに、今思いついた偽名だ。
どうせ死ぬのだから本名を名乗る必要はない、そんな風に思えた。
だったら上等だ。
「俺の名前は佐藤太郎、よろしく」
俺も負けじと、明らかに偽名だと分かる名前を名乗った。
「そっか、君も佐藤なんだね」
「そうだね。同じ佐藤なんてびっくりだよ」
「じゃあ、佐藤君じゃ分かりにくいから太郎君って呼ぶよ」
「分かった。俺は花子さんって呼ばせてもらうよ」
「よろしく、太郎君」
「よろしく、花子さん」
全く意味を成さない会話だ。
明らかに、お互い偽名だと分かっている状態で演技を続ける。
まるで、これから良好な関係を築こうとしているように。
そして、これ以上は詮索するなと言わんばかりに。
(女子を下の名前で呼ぶのは初めてだな)
意味がない会話のはずなのに、そんなことを考えていた。
そして、その事実に気づき少し嬉しさを覚えていた。
「これからどうするの?」
彼女が聞いてきた。
そうだ。
俺は死にたくてこのビルに来たんだ。
だけど、あれほど死にたいと思っていた熱は冷めきってしまった。
「帰るよ」
死なないと決めた以上、このビルに居続ける理由はない。
俺は非常階段に繋がるドアの方へ歩みを進めた。
「ん~、じゃあ私も帰るよ」
彼女は少しだけ悩んだようだが、俺の後ろをついてきた。
そして、二人で1段1段確かめながら降りた。
──
何事もなく1階まで降り、ビルの外に出ることが出来た。
街灯があるおかげで彼女の顔を先ほどよりも鮮明に見ることが出来た。
やはり、彼女の顔立ちはすごく整っていた。美人だ。
彼女の雰囲気は不気味で近寄りがたいものだったが、見た目は明るくはつらつとした女の子だった。
クラスではみんなの人気者で男子からも女子からも好かれている。
彼女は、きっとそんな生活を学校で送っているだろう。
俺とは違って。
「じゃあ、帰るよ」
初対面の彼女とこれから一緒にどこかへ行くというのもおかしな話だ。
俺は一人で家に帰ることに決めた。
「太郎君、また明日ね。じゃあね」
彼女はそう言って手を振り、道の奥に向かって走って行った。
「また明日か……」
あの言い方だと、明日の同じ時間にビルの屋上で待っているということだろう。
俺が来る保証なんてこれっぽちもないはずなのに。
彼女は、俺に来てほしいと願っているのだろうか。
どうせすぐ死ぬんだ。
明日もそこに行ってやるよ。
今日死ぬはずだったのに。明日なんて一生来ないはずなのに。
気づけば、明日の予定が埋まっていた。
「ふぅ……」
俺は小さく息を吐いた。何の息だろう。
明日が来ることで、また腐った現実を生きなきゃいけないことへの徒労から来たものか。
女子と話した緊張が今になって解けたことから来たものか。
死ななかったことへの安堵から来たものか。
俺には分からなかった。
ただ、これだけははっきりと分かる。
彼女と話すことで、俺は喜びを感じた。
明日、彼女と話すことが出来るならもう少しだけ生きていくのも悪くないと思った。
本当の名前を知らない彼女。
なぜ、俺に声を掛けてきたのか。声を掛けておきながら、なぜ自殺を止めなかったのか。
彼女の意図が分からない。
まるで、何枚もの仮面を被っているかのように、彼女の思いは包み隠されている。
俺は彼女に異様さを覚えた。人間とは思えない異様さだ。
だが、俺はその異様さに惹かれていた。
彼女に心を許していた。
明日彼女に会えば、彼女と話が出来れば、彼女のことが分かるかもしれない。
死ぬのはその後でいい。
俺は彼女と会うために、明日まで生きることにした。
──
学校が終わり、夜になった。昨日と同じ時間だ。
彼女はすでにビルの屋上に立っていた。
屋上の端。
少しでもバランスを崩せば下に落ちてしまう。
「また会えたね、太郎君」
彼女は俺にニッコリとほほ笑んだ。
「そうだね、花子さん」
彼女に笑顔を返す。
まるで、仲の良い友達のように。
俺は今日もビルの屋上に来た。
でも、目的は昨日とは違う。
今日は彼女と会うために来た。
「今日は死なないの?」
彼女が問う。
昨日と同じく、異様な雰囲気を漂わせながら。
「今日は花子さんと話をしに来たんだ」
「そっか、嬉しいな」
彼女は透き通るような笑顔を浮かべた。
ドキリと心臓の音が鳴った。
顔つきだけ見れば、あどけない美少女だった。
俺は彼女の真相を知るべく話を始めた。
「名前を教えて欲しい」
俺は真剣な表情で訴えた。
だけど、彼女はフフッと笑いをこぼしながら
「花子だよ、佐藤花子。忘れちゃったの?」
そう言って、また透き通るような笑顔を浮かべた。
「どこの学校行ってるの?」
「太郎君が知らない学校だよ」
「年はいくつ」
「恥ずかしいからヒミツ」
「家はどの辺なの?」
「それも恥ずかしいからヒミツ」
全ての質問をはぐらかされてしまった。
どうやら、彼女は情報を一切教えてくれるつもりはないようだ。
俺はくじけずに質問を続ける。
「じゃあ、好きな食べ物は?」
「ん~、タピオカかな」
初めて質問に答えてくれた。
「最近ハマっているんだ。タピオカミルクティー美味しいよね?」
これは、本当に彼女の意思で答えているようだ。
初めて、彼女の気持ちが見えてきたような気がした。
「太郎君は何が好きなの?」
逆に質問されてしまった。
「ハンバーグかな」
「美味しいよね、ハンバーグ」
会話が成り立ってきた。
「じゃあ、好きな動物は?」
「猫。可愛いよね、猫」
また質問に答えた。
どうやら、個人情報に関する以外だったら素直に答えてくれるようだ。
俺はこの調子で彼女と雑談を続けた。
──
「じゃあ、そろそろ帰るね」
1時間ほど経った時、彼女はそう言ってきた。
あれから雑談を続けたが、結局当たり障りのない話題ばかり。
彼女について具体的なことは何一つ分からなかった。
「帰らないの?」
彼女は一歩も動かない俺を見る。
「少しここに居るよ」
俺は答える。
「そっか、生きてたらまた明日ね。じゃあね」
そう言って彼女はドアを開けて階段を降りて行った。
「『生きていたら』か……」
俺から今から自殺するかもしれないと思っていたのだろう。
そう思ったにも関わらず、彼女は俺を止めることなくどこかへ行ってしまった。
今は一人だ。
自殺するには絶好の機会だ。
昨日、今日で俺の気持ちは簡単には変わらない。
今でも死にたいと思っている。
だけど、飛び降りる気にはなれなかった。
──
今日もまた、ビルの屋上に来た。
「まだ来ていないのか」
屋上には誰も居なかった。
俺は彼女を待つことにした。
今日も学校でいじめられた。
先生は助けてくれない。両親も助けてくれない。
学校にも家にも、どこにも俺の居場所は無い。
このビルの屋上だってそうだ。俺の居場所じゃない。
彼女と話をしていると少しは気分が和らぐ。
でも、どうにも彼女を心から信じるにははなれなかった。
名前も知らない彼女のことを。
「あっ、今日は太郎君の方が早かったんだね」
彼女が来た。笑顔を浮かべながら。
「まだ死んでいなかったんだね」
やはり、彼女の意図は見えない。
思考がまともじゃないことだけは確かだ。
だけど、悪人には見えなかった。
学校でいじめてくる奴、俺を助けてくれない奴、彼女はそんな奴らとは違うと思った。
あいつらが、人間が憎い。
「どうしたの? 顔が怖いよ?」
彼女が心配そうに顔を覗かせる。
あいつらのことを思い出したせいで、顔がいつのまにか強張っていたのだろう。
俺は小さく息を吐き、怒りで高ぶっていた気持ちを抑える。
「俺、学校でいじめられてるんだ」
ふっと、口が勝手に動く。
自分の身体がまるでだれかに操られているかのように。
「学校でいじめられた、好きな人にもフラれて、馬鹿にされて、先生も両親も俺のことを助けてくれなくて。
人が嫌い。死にたい。こんな現実は嫌だ。楽しかったのに。昔は楽しかったのに……」
喉の奥に溜まっていた膿を全て吐き出す。
自分でも驚いた。
話す順序も何が言いたいのかも無茶苦茶だ。
ただ思いのままに俺は目の前の彼女に吐き出していた。
人間さを感じない彼女に。
ただ吐いていた。
俺が全ての膿を取り除いた後、彼女は
「そっか」
と一言だけ答えた。
慰める訳でもない。詳しく尋ねる訳でもない。
まるで興味がない素振り。だけども、話は真剣に聞いていたような気もした。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
また、昨日と同じように1時間が経ったぐらいに彼女が帰ると言い出した。
「太郎君と話せるのは明日が"さいご"だから」
「……さいご?」
ずっと会って話せるとは思っていなかったが、突然に最後と告げられたので驚きを隠せなかった。
「じゃあね」
それだけ言うと、彼女は別れを告げて階段を降りて行った。
いつもの透き通るような笑顔を浮かべながら。
俺は茫然と立ち尽くしていた。
なぜ、俺は彼女に自分の心境を吐いたのだろう。
いや、理由は分かっている。
彼女に人間味がないからだ。
出会った時からの異様さ。俺が死ぬことに対しての関心の無さ。
きっと彼女は幽霊なのだろう。
俺の中でそう結論づいた。
本当は彼女が人間だろうが、幽霊だろうがどっちでも良かった。
ただ理由が欲しかった。
俺が彼女に惹かれる理由を。
生きる理由を。
でも、彼女と会えるのは最後だと告げられた。
幽霊の世界で、人間と話が出来るのは4日間だけだという決まりでもあるのだろうか。
馬鹿げた考えだが、一応理屈は通る。
いずれにせよ、彼女と会えるのは明日が最後だという事実は変わらない。
明日が終われば、また俺は独りぼっち。
彼女が居なくなれば生きる意味を失う。
明日が終われば、自殺しようか。
彼女に居なくなる前に何を告げようか。
俺は思考が定まらないままビルを離れた。
──
彼女と会える"さいご"の日。
「来たんだね、太郎君」
彼女は屋上の端に立ち、透き通るような笑顔を浮かべた。
いつものように。
「ねぇ、何しよっか。またいつものようにお話する?」
昨日、俺は全てを吐き出したが彼女の態度は何も変わらなかった。
ただ、教室で仲の良い友達と話すように。彼女は話を始める。
今日で最後だということを一切感じさせないように。
ここで、俺が何気ない話を始めれば彼女もそれに答えるだろう。
そして、いつものように毒にも薬にもならないような話が続き、1時間が経ち、別れの時間が来る。
そして、いつものように『じゃあね』とだけ彼女が告げて、いつもの笑顔を見せて帰るのだろう。
そして、彼女とは二度と会えなくなるだろう。
そして、俺は次の日に自殺するだろう。
……それだけは嫌だった。
彼女のことを知りたいと思った。
彼女は人間なのか、幽霊なのか。
彼女の本当の名前を知りたい。
彼女のことを知ることが出来れば、俺はちゃんと死ねる。そう思えた。
俺は覚悟を決める。
彼女の不気味さ、異様さを解明するために。
「何で名前を教えてくれないんだ」
俺は彼女に詰問する。
本気の目で訴える。
彼女は笑顔で答える。
「意味ないから」
声の調子は明るいはずなのに。表情は柔らかいはずなのに。
彼女の目を見ることが出来ない。
彼女から溢れ出てくる黒いオーラのようなものに恐怖した。
「名前なんてただの記号。なんの意味もないから」
ごくりと唾を飲み込む。
やはり、彼女の異様さはこの世のものとは思えない特別な何かを感じる。
「……君は人間なのか?」
恐る恐る質問をする。
普通に考えればおかしな質問だ。
彼女の恰好や容姿を見れば、100人中100人が可愛い女子生徒だと答えるだろう。
だが、彼女に会った時から彼女のことを人間だとは思えなかった。
「何を言っているの? 人間に決まってるよ」
彼女はフフフッと笑いながら答える。
まるで幼い少女のように。
「まだ疑っているの?」
俺が訝しんだ顔をしていたので、彼女が困った表情を見せ
「ほらこっち来て」
手招きをした。
彼女の方に来いと。屋上の端に来いと。
「……うん」
一瞬戸惑ったが、ゆっくりと彼女のもとに歩みを進める。
「高いね」
彼女は地面の方を覗く。俺もそちらの方を見る。
ここから落ちたら確実に死ぬ高さだ。
3日前と同じ景色。でも3日前とは1つだけ違う。
隣に彼女が居る。
もし、彼女が俺を突き飛ばしたら俺はここから落ちて死ねるだろう。
もし、俺が彼女を突き飛ばしたら彼女はここから落ちて死ぬだろう。
「ほら」
彼女が右の手の平を差し出す。
握れということだろうか。
俺はゆっくりと右腕を伸ばし、彼女の手の平にゆっくりと手を置いた。
そして、ゆっくりと握った。
温かい。
手の平に熱を感じる。人の温もりだ。
彼女は生きている。
「ね、人間でしょ」
彼女は幽霊じゃなかった。
ちゃんと手があって、温かくて、生きていた。
俺と同じ人間だった。
人間のことをあれほど憎んでいたはずなのに、彼女が人間だということが分かりホッとしていた。
「どう?」
「……あったかい」
俺は素直に感想を述べた。
彼女にどう思われたっていい。
素直に自分の全てをさらけ出すのが良いと思った。
彼女の手は温かい。
俺は今幸せを感じていた。
仮に、彼女が足を滑らせてビルから落ちたら俺も一緒に落ちるだろう。
仮に、彼女が俺の腕を引っ張って離したら、俺だけビルから落ちて死ぬだろう。
それでもかまわない。
それぐらい、彼女に全てを委ねていた。
彼女の手を握ったまま、時間が過ぎていくのをゆっくりと感じた。
……
「そろそろ時間だね」
約束の時間が来てしまった。彼女とのお別れの時間。
昨日までとは違う、一生の別れ。
「……もう、そんな時間か」
俺は自分の、彼女の右手を見る。
まだ手は繋いだままだ。
あれからずっと繋いでいたが、彼女は嫌がる様子もなく俺の隣にずっと立っていた。
屋上の端で。
一歩踏み外せば死んでしまう。生と死の境界線上で。
俺がこのまま彼女の手を握っていれば、彼女はどこにも行かずに済むだろうか。
俺が彼女の手を握り、飛び降りれば死後の世界で一緒になれるだろうか。
いずれにせよ、何かしない限り彼女は消えてしまう。
名前も知らない彼女。
同じ人間とは思えない彼女。
心を許した彼女。
俺はそんな彼女に惚れていた。
彼女と話が出来て幸せだった。彼女と居て幸せだった。
彼女が人間じゃ無ければとも思った。
俺は彼女が居る世界なら、もう少しだけ生きるのも悪くないとさえ思った。
俺は覚悟を決め、彼女に思いを告げた。
「好きだ」
たった3文字。
だけど、この3文字で一瞬で関係が変わってしまう。
一瞬で世界が変わってしまう。
彼女は顔を伏せた。
表情が良く見えない。
「俺はあなたのことを知らない。だから教えて欲しい。
あなたの名前を。
俺はあなたと居れて幸せだった。
あなたと居ればきっと俺は、俺たちは生きていける。
あなたとなら生きていける」
ありのままを告げる。
彼女のことを知りたい。
彼女のそばに居たい。
彼女が居れば生きて行ける。
裏を返せば──彼女が居なければ生きて行けない。
俺の告白が終わると、彼女は顔を上げた。
いつもの……いや、今までとは違う笑顔を浮かべていた。
初めて見る、彼女の最高の笑顔だ。
「嬉しい!!」
いつもより少し声高に、ニッコリと笑った。
そして、彼女は右手の力を緩め、俺の手を離した。
「じゃあね」
いつもの挨拶で、
いつもとは違う笑顔を見せ、
彼女は自らの意志でビルから飛び降り、
最高の笑顔のまま自殺した。
──
あれから随分と時間が過ぎた。
結論から言えば、俺はまだ生きている。
彼女は、あの日に夜から飛び降り自殺した。
俺の目の前で。
俺が告白した直後に。
彼女は自殺した。
そして、今の俺はと言うと
「おい! いつになったら仕事が終わるんだ!」
「す、すみません」
絶賛ブラック企業でサービス残業中だ。
あの頃は、最悪だと思っていたが今の方が最悪に決まっている。
タダ働き同然の安い給料で遅くまで働き、上司に怒鳴られ、後輩から馬鹿にされる。
そんな生活を何十年も続けている。
もちろん、奥さんどころか恋人だって一度も出来たことは無い。
とうの昔に婚期を逃した時点でそのことは諦めた。
幸せなんてどこにもない、暗い毎日を送っている。
彼女、佐藤花子は目の前で飛び降り自殺をした。
あれから色々と大変だった。
あの後、俺は警察と救急車を呼んだ。
彼女の命は助かることは無かった。あの高さから飛び降りたから当然だ。
それを分かってなお──それが分かっていたからこそ、彼女は飛び降り自ら命を絶った。
警察に目の前で飛び降りたと言っても信じてもらえなかった。
客観的に見れば、俺が殺したも同然の状況だったからだ。
だが、彼女の部屋から見つかった遺書により自殺だと判明し、俺の疑いは晴れた。
彼女は最初から自殺をするつもりだったのだ。
遺書の日付は4日前、俺と彼女が初めて会った日だ。
彼女は自殺をするために、ビルの屋上に来たのだった。
そこで俺と出会い、彼女は4日後に自殺した。
彼女の通夜と葬式に参加した。
そこで、彼女の本当の名前を知ったがもう忘れてしまった。
当然、佐藤花子ではなかったことだけは覚えている。
彼女の両親やクラスメートなど大勢の人間が会場に集まっていた。
それだけ、彼女はみんなから愛されていたのだろう。
口をそろえてこう言う。
彼女は明るく自殺をする人なんかじゃない、と。
彼女は幸せそうだった、と。
みんな涙を流していた。
対して、棺の中の彼女は笑っていた。
飛び降りる直前に見たあの笑顔だ。
彼女が死んでみんな悲しんでいる。
彼女は死ぬべきはずじゃない人間だったのに。
彼女は自ら命を絶った。
葬式では彼女の遺書が読まれた。
内容はこうだ。
「私は最高に幸せです。
大好きな友達と遊んだり、大好きなお父さんとお母さんと美味しいご飯を食べたり、すごく幸せです。
最高に幸せだから、私は死にたい。
だって、これ以上生きてもこれ以上の幸せは絶対に来ないから。
歳をとれば、社会に縛られ自由に生きられなくなる。
歳をとれば、しわが増え美しさが失われてしまう。
歳をとれば、病気になり身体も動かなくなる。
歳をとれば、苦しみながら死ぬだけ。
だから、私は最高の状態で死にたい。
今死ねば、私の人生は最高になる。
シニタイ。シニタイ。シニタイ。
死にたい。
だから、死にます。
私は幸せです」
彼女はとんだサイコパス野郎だった。
彼女の自殺は連日ニュースで放送されるようになった。
彼女の遺書もニュースで読まれた。
ネット上では彼女に対して賛成する意見も多かった。
未来に幸せはないのだから、今死のう。
最高に幸せな状態で死ぬことで最高の人生となる。
笑って誰にも迷惑を掛けずに死ねる、これがどうして悪いのか。
彼女の思想を敬愛し、彼女の後を追うように何人もの人間が自ら命を絶ったそうだ。
自殺した多くの人間が、円満に暮らしておりとても死ぬような環境ではなかったそうだ。
死ぬことを望まれない人間が自殺していく。
死ぬことが望まれていた俺は自殺せずに生きている。
そして、彼女が死んだビルも聖地化されて信者たちが訪れるようになった。
さすがにまずいと思ったのか、ビルは取り壊されて更地になった。
全部、ニュースで見たことだ。
俺はあの日以来ビルには立ち寄っていない。
──
ようやく仕事が終わり、俺は会社から出た。
秋風が顔に当たる。
今日はあの日と同じ日付だ。
俺が自殺しようとした夜。
彼女と初めて出会った夜。
俺は彼女に出会わなければとっくに自殺していた。
奇しくも彼女が俺の命を救ったということになる。
だが、感謝する気など毛頭ない。
彼女のことは今でも分からないことだらけだ。
彼女があのビルに来たのは自殺するためだということは分かる。
じゃあ、なぜ彼女は俺に声を掛けたのだろう。
声を掛けなければ俺はあのまま死んでいた。
なぜ、声を掛けたにも関わらず俺の自殺を止めることはしなかったのだろう。
そして、なぜ4日間だけ俺と話をしたのだろう。
なぜ、俺の目の前で命を絶ったのだろう。
未だに彼女の意志が分からなかった。
あんなサイコパスの意志なんて分かりたくない。
……だが、彼女の思想は一理ある。
最高に幸せな状態で死ぬことで最高の人生になる。
この先の人生、これ以上の幸せはないから今死ぬ。
確かにそうだ。
あの日、最悪だと思っていたがとんでもない検討違いだった。
今の方がよっぽど不幸だ。
会社では怒鳴られながら仕事をして、家に帰ってもだれも居ない。
友達も恋人も居ない。家族だってみんな死んでしまった。
毎日の生活費に苦しみながら、死に物狂いで働いている。
それでも贅沢なんて出来ない。生きるのに精一杯だ。
俺はこの世界に居場所はない。独りぼっちで生きている。
思い返せばあの日の夜が一番幸せだった。
彼女と過ごした夜が、今でも忘れられない。
まさか、あの時が人生の最高点になるなんて思ってもみなかった。
この先の人生を考える。
今より悪くなることは明らかだ。
子供の頃は、未来なんてぼんやりとしか分からずに、ただなんとなく幸せにはなれないと思っていた。
大人になることって残酷だ。
未来のことなんて簡単に見通せてしまう。
給料も上がらずに、友達も出来ず、恋人も出来ずに身体だけ衰え、独りで死んでいく。
この先、今よりも幸せになることは絶対に無い。
未来のことを考えれば、皮肉なことに今この状態が一番幸せになってしまう。
俺はあの日から何も変わっちゃいない。
今だってあの日のように──あの日以上に不幸だ。
あの日以上に、みんな俺が死ぬことを望んでいる。
そして、俺自身死にたいと思っている。
シニタイ。シニタイ。シニタイ。
死にたい。
……でも、死なない。
生きたいなんて思わない。
生きていれば幸せになるなんて思っていない。
今死ねば、彼女のように少しでも幸せの状態で死ぬことが出来るとさえも思っている。
でも死なない。
俺は死なない。絶対にだ。
生きる意味なんて見つからない。
生きる意味だった彼女はもう居ない。
俺はこの世界で生きる意味なんてない。
それでも、俺は生きる。
そこに理由なんて無い。
生きる理由なんてない。
でも、俺は生きる。
シニタイ。シニタイ。シニタイ。
死にたい。
でも、生きる。
生きる。
生きる。
生きるんだ。
生きて行くんだ。