天敵イザベル
「いやですわぁ、お昼前だというのになんて暗いお部屋。やっぱり乳母が下級貴族だとだめねぇ」
二ヶ月たってもまだまだマシュマロに夢中なサフィアの部屋にアポなしの訪問者がやって来た。
取り巻き集団を引き連れた、イザベル・ファーガソン侯爵夫人。宰相の奥方で、鼻たれ暴君ギスタンの母親だ。
イザベルは戴冠式の数日後に第二子を出産していて、高位貴族であり王女の後ろ盾にもなれる自分こそが乳母の座にふさわしいと公言し、マーサの蹴落としを狙っていた。そして、こうして用もないのにサフィアの部屋に足げく通い、若手貴族婦人の集団で居座ってはマーサの粗探しをしてくるのだ。
扇で口元を隠し甲高い声でねっとりと嫌味を並べるイザベル。
マーサはイザベルの毎度のマウント行為にあきれ顔で対応する。
「ご実家のご領地は深海の泥のような土地ですってねぇ。田舎者のマーサにまかせて姫様が泥臭くなっては大変ですわぁ。身の程をわきまえてくださらないかしらぁ」
「田んぼは豊かな実りをもたらす農地ですのよ。水神の恵みですわ、イザベラ様」
ふたりの攻防はさておき、__マーサの発言を耳にとらえたサフィアの脳にピキーンと稲妻が走った。
(マーサいまなんてった? 田んぼ!? うそん。それじゃ異世界にもお米あるんだ! 転生序盤なのにもう和食にたどりついちゃった。やっば! すごいラッキーじゃん)
うっかり食い意地が出てしまったサフィアだけれど、いまの主食はもちろんミルクだし離乳食はペースト状で、前世で慣れ親しんだ和食を楽しむまでに、これから序盤と言えないほどの時間がかかるとは気づいていない。
そして、ピキーンと走った稲妻は記憶域から別の情報もサルベージしていた。
衝撃の新事実〈海底王国・パールティネの領土には陸地がある〉
サフィアは記憶域になぜだか異世界の歴史、地理、人名などの情報を持っている。でもその情報は知ろうと思わなければ浮かび上がってこないもので、疑問をもったり外部から刺激を受けるとドバっとあふれでてくるのだ。
(パールティネ王国は、海底にある王都を中心に領海上に点在する大小様々な小島で構成されたネックレス状の群島である。そして王都と一部の島は海底トンネルで結ばれている)
(すごい! なんという新事実。島にはちゃんと人も住んでいて町もあるのね。絶望してたけど徒歩で陸地に行けちゃうなんてうれしすぎ!__『……』)
(__あれ? いまなにか心によぎったような?)
一瞬、心に引っかかるものを覚えたサフィアだったが、新事実発覚の喜びにその違和感を流してしまった。
暗雲がはらわれ目の前がパァッと開けたような感動に瞳を輝かせたサフィアは、こちらをガン見していたイザベルと目が合い、獲物を捕捉した蛇のようなイザベルの眼光に射すくめられた。
(こっこわい。天敵……イザベルは天敵よ。そう、彼女はいつも地獄の門を開ける! 地獄の使者なの!)
案の定、イザベラは顎をクィッとさせて、自ら引き連れてきた侍女たちに地獄の門の開門を命じる。
「今の季節は青ケヤリが見頃ですのよぉ。姫様もきっと気に入りましてよぉ。さぁカーテンを引いてちょうだぁい」
「イザベル様! おやめくださいませ」
マーサの制止を無視して、イザベルの侍女たちはカーテンを全開にした。
__サフィアの寝室の壁は一面が天井から床まで窓。じつに巨大な水壁なのです。
そして、窓から見えるのは見事な海中庭園。庭師が丹精こめた色鮮やかな珊瑚の花々が陽光に揺れる熱帯魚たちの楽園です。
イザベルのいう青ケヤリも見事な発色で、海に慣れた人魚も見惚れるほどの神秘的な空間。
(ぶぼおおおおおおおお)
サフィヤにとっては熱帯魚の楽園も地獄でしかなく、脳内は「怖い」「逃げたい」「死ぬ」の連呼です。
普段なら視界に入れないように狸寝入りでやり過ごすところを、うっかり正面から直視してしまったサフィアは、恐怖のあまりに理性をなくし悲鳴のような大声でギャン泣きをした。
耳をつんざく赤子の必死の叫び声は室内に反響し、優雅な貴族の婦人たちは耳を押さえイザベルは扇で顔を隠した。マーサのマシュマロ胸であやされても、迫ってくる海のビジュアルが怖すぎてサフィアのギャン泣きは止まらない。
「サフィア、サフィア、かわいい私の娘」
溶岩のように顔を赤く黒くしてヨダレと涙を噴火させるサフィア。
誰の声も耳に入らないサフィアを一瞬泣き止ませ振り向かせたのは、廊下を移動中だったアクアティア女王でした。
幼児のなのにさらにガッツリ幼児退行したサフィアは「うぐぅ、ぎゃあ、あぐあぐ」と、アクアティアに手を伸ばし、マーサの腕から母の胸に移ってまだ泣きわめく。
優しく背中をなでさするアクアティアの温かで安らげる母の匂い。
サフィアの呼吸は次第に落ち着き安心したと同時に、あやつり糸の切れるようにブラックアウトしたのでした。
「いつもおとなしいサフィアがこんな風に泣くなんて。なにがあったの」
アクアティアがマーサに訊ねた問いに、イザベルが横から口を出して答えた。
「マーサは子供の扱いが苦手でいらっしゃるご様子なのですわぁ」
ご機嫌取りの取り巻きの貴族たちもイザベルに同調してマーサを責めてかかる。
「繊細な指をおもちでないので加減を間違えたのでしょうね。マーサ様の無骨な手で扱われてはサフィア姫様が驚いて泣いてしまうのも仕方のないことです」
「体格がよろしいですからお乳の出には感心致しますが、家畜以上の働きを期待なさるのは酷というものですわねえ」
だめ乳母のアピールチャンスとばかりに攻撃を始めた貴族たちに、さすがのアクアティアもうんざりするが、この手の揚げ足取りは宮廷では日常茶飯事で、反論すると逆こちらの器量を疑われてしまう。困ったものだ。
「サフィアを休ませてあげたいわ。マーサ皆を下がらせて」
アクアティアがイザベルたちの暴言をさらっと流すと、イザベルは音をたてずに口の動きだけで舌打ちをした。
イザベルとその取り巻きたちが去った後、再びカーテンは閉じられ室内灯の輝きが増した。
静まった室内でアクアティアは我が子をじっと見つめる。
美しい銀色の髪とその中に淡く漂う海の色。そっと髪に触れると彼の人を思い出しチクリと胸が痛む。
アクアティアは眠る我が子に優しく頬を触れあわせると愛し気にささやいた。
「サフィア、私の娘。あなたは王冠にふさわしい。必ずやあなたを次の女王にしてみせましょう。……誰にも邪魔はさせないわ。たとえあの人であっても」
慈しみと悲しみを含んだ憂いある瞳とは真逆に、燃えるように強い決意を胸に宿すアクアティアだった。
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