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星方陣撃剣録  作者: 白雪
第一部 紅い玲瓏 第十五章 精霊国の剣
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精霊国の剣第五章「朱雀神殿」

登場人物

双剣士であり陰陽師でもある、「土気」を司る麒麟きりん神に認められし者・赤ノ宮の名字を改めた九字紫苑くじ・しおん。強大な力を秘める瞳、星晶睛せいしょうせいの持ち主で、「水気」を司る玄武げんぶ神に認められし者、紫苑と結婚している露雩ろう

紫苑の炎の式神・出雲いずも。神器の竪琴・水鏡すいきょうの調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾しょうらん。帝の一人娘で、神器の鏡・海月かいげつと、神器の聖弓・六薙ろくなぎまたの名を弦楽器の神器・聖紋弦せいもんげんの使い手・空竜くりゅう姫。聖水「閼伽あか」を出せる、「魔族王」であり格闘家の青年で、はちまきの神器・淵泉えんせんうつわの持ち主の、「金気」を司る白虎びゃっこ神に認められし者・閼嵐あらん。輪の神器・楽宝円がくほうえんを持ち、「木気」を司る青龍せいりゅう神に認められた、忍の者・霧府麻沚芭きりふ・ましば。人形師の下与芯かよしんによって人喪志国ひともしこくの開奈姫に似せて作られた、槍使いの人形機械・氷雨ひさめ

字の精霊・モジモジ。真の精霊王を待つねこの精霊・にゃかすけ。鏡餅の姿の精霊王・ぷんわあ。刀の精霊・将軍バスモド。



第五章  朱雀神殿



 朱雀神殿への道は、王や高官、ねこ一族しか知らない道を抜けたので、敵に妨害されることはなかった。

 炎に包まれた神社があった。不思議と、煙が出ていない。鳥居、屋根、廊下など、すべてが熱くない火を伴っている。自分からは何も燃やさず、何も害さない、ただ火中に入る者の方を試すかのような、静かな炎であった。

「にゃかすけ。事情はわかっています。彼らを中へ」

 精霊であろうか、洋梨形の壺に顔だけがついている者が二体、現れた。常に二体の間に、浮いている菱形ひしがたの炎があり、光の当たっている片側の部分だけ片側の顔がついている。一体は炎の影である右側が鳥の赤い羽根で覆われ、もう一体は影の左側が赤い羽根で覆われていた。

「私たちは朱雀神の祝女はふりめです。皆様、火のみそぎであるみそぎを行ってください。朱雀神の炎をお分けいたします」

「私たちの間にある菱形の炎の扉をくぐってください。邪心があれば浄化の炎にき尽くされます。自信のある方だけどうぞ」

 火生まれ禊とは、火をくぐることである。

「私は、朱雀神の試練に臨みたいと存じます」

 出雲が一歩進み出た。祝女二人は一瞬止まり、すぐに承知した。

「では、この炎の扉から朱雀神殿へとお入りください」

 出雲は意を決して、菱形の炎の扉の中へ飛びこんでいった。

「にゃかすけたちも早く禊をして、朱雀神の炎を」

 朱雀の祝女が三人を促したとき、魔族軍が百体、押し寄せてきた。

「ねこが走りこんだところが朱雀神殿だと精霊が言っていたが、本当だった!」

「つけて正解だったな!」

 魔族軍は炎の神殿を見上げて、やったやったと喜んでいる。

「つけられたにゃか!? 裏切り者の精霊族が、なんでもぺらぺらしゃべったにゃか!!」

 今は処刑されている精霊の中に、秘密をしゃべった者がいたようだ。

「朱雀神殿には近づかせない!」

 紫苑と露雩が前に出たとき、突然紫苑の意識がなくなった。

 倒れこむ妻を、露雩が必死に助け起こした。

「どうしたの紫苑!! 紫苑!!」

「お前たちに用はない! 朱雀を精霊族の神から、本来の魔族の神に戻すぞ!」

「朱雀の神剣はもらったあー!!」

 百体の魔族は、炎の神殿に大挙して雪崩なだれ込んでいった。

「にゃかっ!! あんなに入ったら、誰かが試練に合格してしまうにゃかっ!!」

 にゃかすけが焦って後を追おうとするのを、朱雀神の祝女二体が止めた。

「いけませんにゃかすけ。ねこ一族は精霊王に仕える身であって、精霊王にはなれません。朱雀神の試練で死にたいのですか!」

「にゃかっ!」

 にゃかすけは四つ足になってうろうろと朱雀神殿の前を回ることしかできない。

「紫苑!! 紫苑!!」

 心臓に手を当てて鼓動から生きていることを確認しながら、夫は妻を呼び続けている――。

 出雲は走馬灯のように流れてゆく自分の人生を目にしていた。

 式神になったときに失った記憶を、取り戻していく。

 一式いっしき出雲。それが出雲の本名であった。

 天才の名をほしいままにしていた。

 人より早く字を覚え、人より多く物事をこなし、人より抜きんでた記憶力で試験に高い結果を出し続けてきた。

 努力型の秀才である勇木ゆうきという名の三つ年上の兄が一人いて、卒業すれば役人になれるという、優秀な学校に入っていたが、弟の出雲は特に勉学に励まなくても高い能力を示す天才型で、飛び級をしたので、いずれ兄に追いつくのではないかと冗談交じりに噂されたものであった。

 二人の優れた息子を持つ学者の父・央待おうまちは、妻の行陽ゆくひともども、息子の評判で誇らぬ日はなかった。

「ああ、オレ、頭良かったんだっけ……」

 記憶が甦りながら、出雲はなぜか気分が悪くなってきた。この先を、見たくないような気がする。

 順調に、役人になってから出世の王道に入れる学校に合格していった出雲は、最後につまずく。

 最難関の大学校に、落ちたのだ。

 並み居る優れた学生をさしおいて飛び級までした出雲が、入試に落ちたという噂は、あっという間に広まった。

 これまで出雲の目立つ光の影にいた学生らもその親も、これを機に一斉に陰口をたたき始めた。早すぎたのよ、真面目に決まった年数勉強してる子の方が認められなくちゃ世の中おかしいわよね、あいつ受かると思ってたんだろバカでー、あいつはオレたち眼中になかっただろうしざまみろ来年大学校入試一緒だぜ、これからどんな顔して話すか見物みものだな――。

 出雲は飛び級したあと、直前に同学年だった人々に対して、馬鹿にした態度は取ったことがない。

 しかし、一抜けていく出雲に、同学年の学生は屈辱を味わっていたのだ。

 ようやく相手がちてきた。

 こいつより上を行って、泣き顔でも見てやろう、見下ろしてやろう。

 皆は、復讐の機会を得たのだ。

 人々の心ない陰口を、出雲は天才の誇りがあったから耐えられた。しかし、母は耐えられなかった。兄は何も言わなかった。父については、出雲は自分を信じてくれていると思っていた。

 出雲が入試に落ちたのは、勉強の方向性と重点的に強化する分野を、うまく分析できなかったからだと。

 その日出雲は、寝苦しくて目が覚めた。

 真夏の夜中であった。

 水を飲みに台所へ向かうと、ろうそくの明かりが中で揺れていた。

「私、もう耐えられないわ!」

 母・行陽ゆくひのすすり泣く声が聞こえた。

 出雲の体は一瞬でこわばった。皆まで聞かずとも、自分のことだとわかる。

「あんなに頭が良かったのに……! みんな私を憐れみの目で見るのよ! もうここを引っ越したいわ、出雲のことを誰も知らない土地へ行きたい!」

 自慢だった息子が浪人することが恥ずかしいのだ。

「飛び級なんてさせなければよかったわ、もう少ししっかり勉強させていれば……! 早まったわ!」

 父・央待おうまちの静かな声が聞こえる。

「勇木はまだ学生だし、動くのは無理だ。出雲は一回で合格できなかったから、出世の王道から外れた。あいつにかけた金はすべて無駄になった」

 母の言動は、ある程度予測できた。

 しかし、父が出雲を突き放すことは、予想できなかった。

 どうやって戻ったのだろう、出雲は自室の戸を閉めた。

 心臓が気持ちが悪い。跳ねているのを、混ぜ物を入れられて無理に落ち着かせられているような、混濁した不快感がある。

「なんだよ……それ」

 吐き出したくて、声を吐いた。

「まるでオレには勉強しか価値がないみたいに……!」

 何の悩みも不満も持ったことのない出雲に、両親への殺意がわいたのは初めてのことだった。働く能力のない自分はあの二人に金で飼われているだけだ。二人の思い通りに生きられなければ、生きる価値はないのだ。しかし、自分を守らない二人とどうして共に暮らす必要がある?

 出雲は頭が良かった。

 殺したら自分の将来がすべてなくなると考え、殺さない選択をした。

 では、この怒りと飼育の境遇をどうするか?

 出雲は頭が良かった。

 自分の荷物をまとめて、その夜のうちに家を出た。

 殺せない、守ってもらえない、同じ家で生きていたくないなら、家を出るしかない。

 どこに行っても勉強はできる。それが苦労を伴うか、伴わないかの差だけだ。

 これから食べていくために働かなくてはならない。もう役人になることも難しいだろう。しかし、その役人になるというのも、周囲が期待した姿であって、出雲が望んだ職業ではない。

 出雲は、勉強ばかりしていて、自分のことを何も考えたことがなかった。

 目の前の試験で良い点数を取って人から褒められることしか、わからなかった。飛び級も、人より先に行く遊びだった。出雲は、頭のいい人は皆、役人になるものだと思っていた。天から与えられた才、人から望まれた姿の上にあぐらをかいて、自分の生きたい理由を、考えたことがなかった。

「オレ、何かに本気になったことがなかったな」

 ふろしきを背負いながら、満天の星空の光を藍色の髪の毛にちりばめた出雲が瞳をも星の光で満たしていると、町の出口で人影が現れた。

「出雲」

「……兄さん!?」

 優しげな丸みのある目を持つ、物静かで線の細い兄・勇木ゆうきが、木に手を当てて立っていた。

「ど、どうしたの――」

「何を考えているんだ!」

 温厚な兄が、怒った。出雲の考えなどお見通しで、ここにいたのだ。

「な、なにって――」

「母さんを泣かせたいのか!!」

 そこで出雲もすべての感情がカッとこみあげた。

「あいつはとっくに泣いてるよ!! オレが恥ずかしいってな!! 身勝手な奴らだ、勝手に産んで、勝手に褒めて、思い通りに育たなかったら見捨てるんかい!! あんな奴らに頭押さえつけられて飼われて、あんな奴らのために勉強して望みの道を行くなんて、兄さん、子供でもオレにだって一人の人間として言う権利はあるんだ、まっぴらだよ!! オレはあいつらの子供でいることを、やめる!! 殺されなかっただけありがたいと思え、でもあいつらはオレのことなんか忘れて兄さんさえいれば楽しく暮らしていけるだろうよ!! オレはもうあいつらの目には入らないのだから!!」

「出雲!! いくら家族だからって、いいことばかりじゃない!! お前を育てるために、お前が将来困らないように、厳しくしているのがわからないのか!!」

「兄さん!! 期待を裏切った人間と裏切られた人間の間の感情は、兄さんにはわからないよ!! “いなくてもいい存在”になったことある!? 一式いっしき出雲は受験に失敗したあのとき死んで、今のオレは一式出雲の偽者なんだよ!!」

 涙を流した出雲を見て、勇木が出雲を察してつまると、出雲が駆け出した。

「死んだ子供なら、幻がいなくなっても構わないだろうが!!」

 町を出て行く出雲を、勇木は止められなかった。

 出雲の耳に、行陽ゆくひのすすり泣く声がいつまでも繰り返された。

「『飛び級なんてさせなければよかった』? 終わったことをどうしていつまでも言うんだよ!! もう変えられないって、知ってるだろ!! お前たちの判断で、オレの人生潰したんかい!! お前たちの判断に、もうオレの未来はないんかい!! オレに何も決めさせないで親面おやづらしてんじゃねえよ!! オレの人生はオレが決める!! 失敗してもいい、自分の身を守るためなら!!」

 家にいたら潰される。期待される道しか認めない家になど、出雲は生ける死体でなければいられない。

 だから家を出る。自分も家の者も殺さずに生きていくためには、これしか出雲は思い浮かばなかった。

 未成年だ。学歴も身元保証人もなく、まともな就職口はないだろう。

 それでも、自分の存在を否定する者の下にいるよりかは、よほど耐えられる。

 出雲は、両親からは否定されても、自分の才能に自信があった。たとえどのような職業についたとしても、知識と知恵と発想で必ず認められるという希望を持っていた。

 それに、お金をもらいながら学校に通える、軍医・兵士を養成する軍学校があった。

 役人にならなくても皆を命がけで守れる職業だ。自分を勉強というたった一つの物差しでしか見てこなかった両親への大きな復讐になる。オレの才能見抜けなくて、親失格だね、ざまあみろ。

 最初は、そんな反抗心からだった。

 食事の面倒を見てもらえて、寝るところがあって、体を鍛える方法を教えてもらえる。魔族から人々を守れるから、軍医ではなく兵士の道を選んだ。

 しかし、軍学校で魔族の勢力図、能力、習性などを学んでいくうちに、人間を守らなければという使命に目醒め始めた。

 圧倒的な魔族の力に対抗するには、知恵を使うしかない。出雲は、いずれ参謀になって皆を守りたいものだと考えるようになった。

 剣術の方も才能が開花し、めきめきと上達し、同学年で一、二を争う腕前にまで成長した。

 頭脳も剣も抜きんでた出雲は、軍学校の中でも特選の訓練を受け、より詳しい知識を叩きこまれたり、休みなく千人と一人ずつ戦う千人抜きを行うなどしたりして、将来の将候補として期待されるまでに至った。

 軍学校を首席で卒業した出雲は、意気揚々としていた。

「どうだ、オレは役人にならなくてもすごいんだ。オレの剣を、両親あいつらに見せてやろう。それで、金輪際こんりんざい関わらないと言って、縁を切ってやる。オレの人生にとって有害な奴らだから」

 いそいそと、首席卒業者のみに授与される、雲を象った金細工のついた短刀を懐にしまうと、正規兵として配属されるまでの休暇に、故郷へ帰ろうとした。

 しかし、出雲に密命が下った。

 陰陽師長・赤ノ宮綾千代あかのみや・あやちよ星方陣せいほうじんを成す旅に同行し、綾千代を守るというものであった。

 いくら知才と剣才に恵まれていたとはいえ、新兵の出雲がなぜ綾千代から指名を受けたのか。

 出雲は十五歳になっていた。成人の年であると同時に、まだ何色にも染まっていない。

 綾千代は、星方陣に四神の剣を使うつもりであったが、神を味方に引き入れるには、持つ者が純粋で、神を疑わないことと、神に自分の加護を受けるにふさわしいかという疑いを起こさせないことが必要だと、思ったのであった。

 子供すぎては知らずに悪いことをするし、大人では人生の癖が出て神の意向に従わない。

 子供でも大人でもない素直な、上から子供のうちに知っておくことを与えられ終えたばかりの若者こそ、最も神に染まった通りに動けるのだ。

 星方陣は人間が魔族を滅ぼす希望である。この責任重大な任務に、新兵の中でも優秀な出雲が選ばれたのは、自然なことであった。

 赤ノ宮綾千代は、赤い長髪の目立つ初老の男であった。前髪を作らず、額を見せてすべての赤髪を、広い肩幅の後ろへ直線的に流している。顔は、常に真剣に術を使うため深刻そうなしわが平時より刻まれ、笑っても決して消えなかった。赤い口ひげとあごひげがつながっていた。

 星方陣を成すという極秘任務のため、綾千代がどの五人を選んだのかは、綾千代以外誰も知らない。

 出雲は、綾千代に密かに命令された。

 朱雀神殿で神剣・朱雀を手に入れたら、一目曾遊陣ひとめそうゆうじんで即座に綾千代のもとに戻れと。

 一目曾遊陣の札を渡されて、出雲は綾千代の跳移陣ちょういじんで、綾千代が朱雀神殿があるとあたりをつけた地へと飛ばされた。他の玄武げんぶ神・白虎びゃっこ神・青龍せいりゅう神へは、別の三名が向かっているらしい。

 過無国かむこくの西、生強理国いつよりこくの山中に飛ばすと言われていたので、木漏れ日の差す黄緑色の葉の天井の中、出雲は誰もいないのを確かめると、首席卒業者の証の、雲を象った金細工のついた短刀を抜いて、剣の型を見せるように美しく舞い始めた。

 美しいものを見せて、精霊を呼ぶためである。

 だが、いくら舞っていても何も起こらない。だんだん、舞っていて虚しくなってくる。両親にこの短刀を見せていないと、ぼんやり考え始める。舞うより剣の稽古がしたいと思い始める。まったく時間を浪費している。三日続けてだめなら他の手段を選ぼうと考えたとき、思わず舞の足が止まるくらい美しい声が聞こえた。

「うわっ!」

 たったそれだけだった。

 しかし、その音が、響いた全域を支配した。

 出雲は木陰に身を隠し、木立の奥を凝視した。

 男の子が弓矢の練習をしていたようであった。弓を両手で持って、矢を持つ男にうなだれている。

「矢がそれてごめんなさい」

 危うく男を射るところだったらしい。

 男の方はどうするのだろうかと出雲が男に目を移したとき、出雲の視力は男をよく目に映そうと、ひときわよくなった。

 夜に月の光がたつように黒くつややかな髪、青龍せいりゅうのように猛々しくも優雅さを秘めた眉、陰陽の陰のように暗くどこまでも深き黒い瞳、白虎びゃっこのように千里を駆けすべてを見透かすと思える引き締められた目、玄武げんぶの蛇が神通力を這わせるときであるかのように高くすっと通った鼻筋、朱雀すざくの炎を放つ翼のように、赤みのさした形のよい口唇。そして白い狼のように真っ白に美しく彩られた歯と肌。彼からは太陽の豪放な光と月の静寂な光と星の燃える光を混ぜ合わせた力が匂い立つようだった。

 その声は、四神の守る東西南北のうち、中央を守る神・麒麟きりんが、神の歌を歌うときの喜びを呼ぶ声のようだった。

 身長の丈ほどある黒い外套がいとうを身にまとっていた。

 現在露雩と呼ばれている男が、百年前この地にいたのであった。

 出雲は、美しい気だけで圧倒されるのは、初めてだった。

 ただただ、男が子供の頭に手を軽くのせるのを、慎んで見ていた。

「最初から完璧にできるはずがないよ。子供の頃にたくさん失敗して、少しずつ、次はもっとうまくやっていけばいい」

 なぜか、出雲の心がその言葉を胸に刻みつけていた。

 子供は、ばつが悪かったのか、走り去ってしまった。

 出雲がなおも美しい男の様子を窺っていると、普通なら気づかれるはずのない距離で、男にまっすぐ見られた。

 出雲は気が動転して、思わず一歩退いた。

 男はどんどんこちらに歩いてくる。

 覗いていたようで、出雲もばつが悪くなって逃げ出そうとしたとき、その美しい声で呼び止められた。

「もし。お尋ねしてよろしいですか」

 礼儀正しい。怒られないようなので、出雲はそろりと振り返った。

「私と同じ背丈で、黒髪の、目つきの鋭い男を見かけませんでしたでしょうか。これと同じ本を持っているのですが」

 男は、黒水晶の表紙の本を取り出した。

 縦約二十センチ、横約十五センチ、厚さ約三センチで、寸分違わず断ち切られた紙がびっしりと挟まっている。

「豪華な装丁そうていだな。水晶でつづるなんて」

 出雲は、水晶の角が日光を反射するのを、感嘆と共に眺めた。

「ご存知でないなら、失礼いたしました。ごきげんよう」

 男が元来た道を戻ろうとしたとき、突然出雲の背中に、直径十センチほどの、水色の人型の氷がくっついた。

「ん!? なんか冷たいぞ!?」

 出雲が背中に手をやって足で踊っているのを見て、男が穏やかに笑った。

「氷の精霊ですよ。どうやら私の美しさにつられて出てきたようですね」

「堂々と言うなあ。これが、精霊か……」

 出雲は氷の精霊を両のてのひらの上に載せた。

「なんでオレにしがみつくんだよ」

「私が恐いからでしょう」

「恐い? 何が?」

「この機会に精霊国にも行っておこうかな」

 出雲の質問に答えず、男は氷の精霊に顔を近づけた。

「連れて行ってくれますね?」

 氷の精霊は出雲の手にしがみつくと、小さくうなずいた。

「冷たい……って、そうじゃない! オレも精霊国に連れて行ってくれ! 大事な用があるんだ!」

 精霊国に朱雀神殿がある。

 綾千代の命令を遂行するため、出雲は精霊国に入らなければならないのだ。

 男はしばらく出雲と氷の精霊を見比べていた。

「氷の精霊が嫌がってないから、いいでしょう。この眼鏡をどうぞ。すべての精霊が見えるようになりますよ」

 雲が二つ並んだ形の眼鏡であった。

「ありがとう。あんたはいいのか?」

 出雲は眼鏡をかけた。

「私はいいのですよ。精霊の方から見てほしいと姿を現してきますよ」

「だから、さっきからすごい自信だぞあんた」

 出雲は、あっと気がついて、一礼した。

「私は一式出雲いっしき・いずもと申します。あなたのお名をお教え願えませんでしょうか」

 礼儀は軍学校時代に叩きこまれた。男は微笑んだ。

「私の名は藤花とうか。お互い普通に話しましょう。わけあって、さきほど尋ねた男を探して、世界中を旅しています」

「藤花? あの紫色の花のことか?」

 出雲が名前の方に注意を向けたので、藤花は意表を突かれて歌うように笑った。

「出雲。私は精霊国で人を探す。出雲は出雲の用を済ませなさい。精霊国に入ったら、そこで別れよう。でも、一人で精霊国から出ることはできないだろうから、これをあげる。ここに戻って来られる札だ」

 藤花が、『返戻へんれい慎出しんしゅつ』と書かれた札を出雲に渡した。

 綾千代の札を持っているという余計な情報を与えるわけにはいかないので、出雲は素直に受け取った。ついてこないようだし、好都合だ。

「最後に一つ聞いていいか? ここ、精霊国への入口なのか?」

 氷の精霊を眺めつつ、出雲が藤花に尋ねた。

「美しいものが集まりやすい聖地だよ」

 次の一瞬で、二人と一体は精霊国に入っていた。

 すべてのものが整然と並べられていた。事象が具体化した精霊たちは、己の仕事に誇りを持ち、きれいな仕上がりを求め続けていた。

 藤花と氷の精霊と別れ、出雲はエックス-(マイナス)エックス=(イコール)0(ゼロ)など、きれいな数式を表札にしている家々のある路地を抜け、果物のよい香りに満ちた階段を登り、降り、湖の中の灯りが天の星図を複写している脇を通り過ぎた。

 炎に包まれた神社が、目の前に現れた。

 火を司る四神、朱雀の神殿だとすぐにわかった。

 朱雀の神剣を素早く持って帰ろうと、出雲が走り出したとき、洋梨形の壺が二体現れた。菱形ひしがたの炎を間に浮かべて、朱雀神の祝女はふりめが鋭く呼び止めた。

「お待ちなさい。畏れ多くも神の御前おんまえに進み出る者が、身を清め整えないのは、無礼です。火のみそぎである、みそぎを行いなさい。神に耳を傾けてほしければ、あなたも自分にできうる限りの慎みの気を出しなさい」

 二体は目を閉じてから、菱形の炎をくぐるよう、促した。

 出雲は覚悟を決めて服を脱いだ。腰帯を解き、上衣を落とし、袴を脱ぎ去った。

 隠されたところが一つもない全身は、刀や機敏な動きの鍛錬で筋肉が作りこまれている。若さが、筋肉を必要最小限まで絞り上げ、自在で弾みのある戦いを可能にしていた。

「(人々のために! 朱雀の神剣を手に入れる!)」

 出雲は菱形の炎の中に飛びこみ、そのまま朱雀神殿へ走り入った。

「神の御前でオレが全裸なのはよくないな」

 出雲は、禊が終わってほっとする間もなく、すぐに服を着た。気持ちの切り替えを素早くすることも、軍学校時代に教えられた。

 そのとたん、急にあたりの炎が消え、壁一面に出雲のこれまでの人生が走馬灯のように映し出された。

 どんな場所にいても、誰からも天才だと言われ続けてきた自分が、どの時代でも笑って父と母に褒められている。やめろ……やめてくれ……。出雲は目で追うことしかできない。飛び級して喜ぶ両親がいる。

「止めろ!!」

 この先に地獄が待っている。出雲は手を出して映像を止めた。

 しかし、どうする。

 迷ったとき、手が映像の中に入った。

 ここに入れば、人生をやり直せる。

 直感で、わかった。

 飛び級さえしなければ、勉強をじっくりできて、役人になる大学に入れる。父と母は自分を見限ることもなく、永遠に自分の名声も続く。

 出雲がふらりと映像の中に引き寄せられたとき、大きな音を立てて雲の短刀が床に落ちた。

 出雲は金細工の雲が美しいと思った。これまでの厳しい訓練が思い出された。教官の声、支えあった友、あらゆる気候での野宿、人を魔族からなんとしても守るという決意――……。

 今ここで自分が人生をやり直してしまったら、これまでの苦労は一体何だったのか。

 挫折したから、この金細工の雲を見ることができたのではなかったのか。

 自分の人生は、役人しか認めないのか。

 自分でさえ、自分を否定するのか。

「オレは、他人に期待された通りに生きるために、生まれてきたわけじゃない!」

 出雲は映像から手を引き抜いた。

「オレの人生で、オレの力でつかみ取ったものは、何だって美しい!」

 その手が、雲の金細工の短刀をつかんだ。

「そこでこの世界を助けられれば、それでいい! どんな場所にいたって、それができる人は、正解だ! オレは、オレを誇る! オレは、オレにできることを探す! それが、生きるということだから!」

 出雲の走馬灯が一瞬で消え、あたりは真っ暗になった。

 そして目の前の地中から、赤い刀がせり出してきた。

「神剣・朱雀か!? 地面に埋まってたのか!!」

 出雲が急いで手をかけると、神剣はあっさり抜けた。

「やった!!」

 喜びも束の間で、炎の神殿が大きく揺れだした。

 神剣という力を失って崩れるのだと思い、出雲は綾千代の一目曾遊陣ひとめそうゆうじんの札を使って脱出し、かつ綾千代のもとへ飛ぼうとしたが、札は火がついて燃えてしまった。

「そんなっ!?」

 一瞬呆然とするが、すぐに冷静さを取り戻す。生き延びるために何手も考えることとそのための精神力も、軍学校時代に鍛えられた。

「藤花がくれた札!! これしかない!!」

 出雲は『返戻へんれい慎出しんしゅつ』の札を掲げた――。


 紫苑は、朱雀神殿の外にいた。

 百年前の出雲を、見送っていた。

 現代の出雲が自身の過去を見ているとき、紫苑は、式神出雲の主として、出雲と同じものを見ていたのだ。露雩に体を預けて気絶しているのは、意識が出雲の過去に飛んでいたからであった。

 裸になってみそぎをしていった出雲の後を追おうとして、なぜか意識が神殿に入れなかった。

 朱雀の祝女二体は、当然のことながら紫苑に気づかず、奥へ引っこんでしまった。紫苑もどうしようかと周りを見回したとき。

「かわいらしいお客さんだね」

 藤花が、紫苑を見下ろして立っていた。

 自分が見えるのか。

 紫苑はぎょっとしたが、藤花のことを知るまたとない好機である。質問が矢継ぎ早に出た。

「あなたはどこから来たの? いつから星晶睛せいしょうせいなの? 使命はあるの? 探しているのは誰? あなたにこ……」

 そこで紫苑は口ごもった。

「……恋人は、いる?」

 藤花は、多少驚いたようだった。そして、深く考えこみ、しばらく虚空を眺めて、すべてを受け入れるように眉を開いた。

 藤花が無言で懐を探っているので、紫苑はせがむように近づいた。

「ねえ、恋人はいる?」

 その目の前に、紫色の藤の花が垂れ下がった。

「君にあげるよ」

「えっ?」

 笑っている藤花の、真意がつかめない。

「君に似合いそうだったから。出雲には君は見えてないから、そのつもりでね」

「えっ?」

 紫苑が藤の花を受け取ったとき、出雲が朱雀神殿の外に落ちてきた。

「あれ!? まだ精霊国じゃねえか! どうしよう!」

 藤花が、赤い神刀をしっかり抱きしめている出雲に微笑んだ。

「まさか朱雀神殿に行っていたとはね。朱雀の第二の試練から逃れるためには私の札しかなかっただろうが、もう少しいれば真の神剣・朱雀のための試練を受けられたものを」

 なぜそんなことを知っているのか、ということより、出雲の頭は任務完了、すみやかに綾千代に合流、でいっぱいだった。

「三日も歩けばオレの足なら着けるな。藤花、あんたの用は済んだのか? すまないが、オレを精霊国から出してくれないか。急いで向かいたいところがある」

 藤花は出雲の神剣・朱雀を見た。

「あなたに興味が湧いた。途中まで、一緒に旅をしないか」

「えっ、いや、急ぎなんだよ……」

 密命の任務である。出雲は藤花の美しい視線に負けまいと、なんとか目を合わせて踏みとどまる。

「嫌ならこの国から出してあげないよ」

「……わかったよ。寄り道はしないからな」

 出雲はがっくりと頭をたれた。

 生強理国いつよりこくの山中で、出雲はあることに気がついた。

「お前、ちょっと嬉しそうだぞ。探してる奴、見つかったのか?」

「わかるかい出雲。探している相手は見つからなかったけど、今日はきれいなものをたくさん見たから、嬉しいんだよ。この世界のことが好きだなあ」

「ああ……精霊のきれいなものをいっぱい見たのか」

「そう思うのか?」

「え?」

 藤花に微笑まれて出雲は戸惑った。赤い刀が、羽ばたくような揺らぎを起こした気がした。

「出雲が朱雀神殿に入っている間に、女の子に会ったよ。藤の花をあげたんだけど、紅い藤の方がよかったかな……」

 出雲は目を丸くして口をすぼめた。

「へー! お前でも女の子に花やるなんてことするんだ! “何もしなくても向こうからやって来る”って言うかと思った!」

「うん。それは言うよ」

「言うんかい!!」

「でも、その子は私が声をかけないと、絶対に近付いてきてくれないから」

「よっぽど恥ずかしがり屋なんだな。お前が声をかけたいってんだから、よっぽどかわいいんだろうな。ちえーっ、見てみたかったぜー! お前ほどの美形が好きになる子ってのをさー!」

「『好き』? 『好き』って何?」

「いまさら怒るなよ。なあ、再会したらオレにも教えてくれよなっ! もう一度会いたいだろ?」

「……うん」

「その子がオレを選んでも怒るなよ!」

「私が選ばれないことはあり得ない。出雲は私に比べて足りないものが多すぎる」

「なんでだよっ!? オレだってお前とは別の系統の美形だろっ!?」

「なぜ半泣きなんだ。私は今、顔だけではなくて全体の話を――」

「お前なんかもうオレの視界に入れてあげないっ!!」

 両手で両目を覆う出雲の耳に、呼び子の声が聞こえた。

和歌わかくらべー、和歌競ー! 外満国そとみちこくの和歌競ー! 近郷近在旅人商人、腕に覚えのある方はー、天賦てんぷの才でいくさせよ! 誰ぞ和歌の一番名乗り、ふるってご参加くだされい!!」

 和歌競とは、和歌を詠みあって、優劣を人々の投票で決める、和歌の大会のことである。熟練の詠み手から素人まで、誰でも詠むことができる。

 二人は、生強理国いつよりこくから外満国そとみちこくに入っていた。

「和歌競か……学生の頃よくやったな」

 出雲が昔を思い出した。校内の和歌競では、入選しない年はなかったし、優秀賞ももらったことがある。

「出てみるかい?」

 藤花が会場案内の札を見つけた。ここからまっすぐに行ったところの広場に集まって、大会が催されるようだ。開場まであと三十分。和歌が作れない短さではない。

「うーん……すぐに済むかな……」

 天才として人から期待されていた昔を思い出すようで、出雲の心は懐かしさのあまりついふらりと、出場したい方に傾いていた。朱雀の神剣を一刻も早く綾千代のもとへ持ち帰らなければならないが、すぐ済むなら、寄り道してもいいような気がした。

 朱雀の神剣は、じっとうかがっていた。

 出雲が一歩踏み出そうとしたとき、男が声をかけてきた。

「出雲ちゃんかい!?」

 男は、近所に住んでいる蜜ろうそく屋の横苦よこにがだった。

 出雲は恥ずかしさからさっと赤面した。受験に失敗して家出していることを、知られているはずだ。いや、自分は金細工の短刀を持っているではないか、堂々としていていいのに。

 横苦は終始笑顔のままだった。

「お父さんの知り合いの各地の偉い学者の講義を受けて、政治や経済を学んでまわってたんだって? 学生の勉強はもう十分だし、あとは考え方が若すぎて論文で落ちたから、それを成長させたいって! さすが出雲ちゃんだ、やるとなったらとことんやるねえ、たまげたよお! で、今はそのうちの一人の目にとまって、都の役人になって各地をめぐってるんだって? 今日は仕事かい? その息抜きに和歌競をしに来るなんてね! 優秀賞狙いなんだろう? がんばってな!」

 出雲は固まっていた。

「……いえ、今日は頼まれ事で急いでいて、出場する暇がないのです。残念ですが」

「おや、そうか……。今日のことはお父さんに伝えとくからね。出場すれば絶対優秀賞だったのにって。じゃ、またね!」

 横苦が去るのを、出雲は作り笑いで見送った。そして、足早に脇道に入った。藤花を置いて。

「一体どうしたんだ。彼は気に障るようなことは言っていないと思うが――」

 追ってきた藤花は、出雲が泣いているのを目にして立ち止まった。出雲は、両目を閉じに閉じて、両拳をきつく握りしめて、むきだしの歯を嚙みしめている。

「オレ……自分が生きるために家を出たのに……なんで父さんも母さんも隠してるんだよ……! 仕事してるから家にいないだって? どうしてそんな嘘つけるんだよ! こんなにありもしない話を広げて、どうすんだよ! いつかオレが病死したことにする気じゃないか! オレは二人の視線に耐えられなくて家を出たのに、それをどうして直視しないで二人の見た目のいいオレでいつまでもごまかしてるんだよ!! オレはそんなに生きてちゃ恥ずかしい人間なのか!! もう……こんなッ……!!」

 出雲は藤花の胸に飛びこんだ。

「こんな世界で……オレ……オレは……!!」

 涙が止まらない。出雲にとっての世界はまだ父と母の見ている場所だったからだ。

「ならその世界を破れ。そのためにこの旅をしているのだろう。今のお前の世界を壊してみろ。その先に必ず答えがある。泣くな。必ず答えを見つけるんだ!」

「うっ……うっ……うああ……!!」

 藤花は、泣き続ける出雲を抱きしめた。


外満国そとみちこくにご両親の家があるなら、寄って行きなさい」

 事情を聞いた藤花は、優しく諭した。

「神剣・朱雀を持つということは、神にしか相手のできない者と戦うということだ。出雲はこれから、常に死と隣り合わせの人生を歩むことになった。最後の別れになるかもしれない。会っておきなさい。けんか別れしてもいいから、お互い言いたいことを言っておきなさい。生きているうちでなければ、会えないかもしれない」

 それは自分の魂がどうなるということなのか、と問う頭も働かなかった。出雲は泣き疲れてはれぼったい目をまばたきさせ、藤花に言われるがままにうなずいた。

 金細工の雲の短刀も、朱雀の神剣もある。

 これがオレを必要としてくれてるんだ、今のオレを見てくれ! 父さん、母さん!


 外満国そとみちこくの国内の南に、可木姿町かきしちょうがある。

 温泉が町の中央にあり、町の人々も旅人も、そこで一日の疲れを取る。皆が集まるので、出雲は夜遅くとはいえ誰にも会わないようにするため、そこを避けて、町の周縁を回りこみ、南にある自宅へ向かった。出雲の家は、学者の家らしく、広く、屋敷と言っても過言ではない。

 時刻は夜の十一時になっていた。

「……こんな時間に行ったら、迷惑かな……」

 扉の前で、出雲は手が出ない。

「昼は他の人に会うから行けないんだろう? 一体いつ行くんだ?」

 藤花に言われる。出雲はうっと肩をすぼめて、懐にある金細工の雲の短刀を、握りしめた。

 鍵で、扉を静かに開ける。鍵は、ずっと持っていた。

 物音一つしない。寝息も、寝返りをうつ音も、何もしない。

 静かすぎる。

 なぜか、出雲の心臓が早鐘を打った。まさか、全員引っ越したのか。自分に何も知らせずに。

 素早く全室を探す。人っ子一人、見当たらない。出しっぱなしの服、読みかけの本が生活感を残しているが、主たちは見当たらない。

 藤花は、鼻を動かした。

「こっちに、何かある。これは……」

「裏庭か!」

 藤花が深刻そうに言ったのを見ずに、出雲は外へ飛び出した。

 月が裏庭を照らしていた。

 血を噴き出した跡を土につけて、男女の遺体がうつぶせに転がっていた。

 一人は出雲と同じ藍色の直毛の男。もう一人は黄色く波打つ豊かな長髪の女。

 顔を見なくても、見間違えるはずがない。

「父さん!! 母さん!!」

 出雲が駆けつけたとき、既に冷たい死体になっていた。

「誰が……誰が……!!」

 血だまりを吸った土を虚しく引っかき続ける。もう、二度と見てもらえないのだ。

 自分が剣士で、殺人犯に復讐する力があることも忘れて、子供は呆然と親の死体を見ていた。

「父さん……信じていたのに……そんな言葉言わないって。オレの一生は親の決めた道の上で。一つの道しか示してくれなかった! そこから外れたとき、そのままオレを排除することしかしなかったくせに! オレのこと……何とでも言いやがって! 許せない! そりゃオレは今まであんたらに何もしてやれなかったかもしれない。親の翼の下でギャーギャーわめいてるだけのクソガキかもしれねえけどなあ! オレは独り立ちする前に……あんたらに一人の人間とすら認めてもらえねえのか!?」

 言いたかったことが口をついて出てくる。むくろに向かって。

「助けて……」

 言ってから、自分ではっとする。

「でも助けてくれない、オレはここでどこにも居場所がなかった、どうすればいいのかわからなかった、だから……逃げ出すしかなかった……。オレ、間違ってたのかもしれない。苦しくても残って、二人の思うような人間になれるよう努力すればよかったのかもしれない。でもこれじゃいつまでたっても終わらないよね? いつまでも親の言う通りにして、いい大学校に入って、役人になって……。そしたらいつまでも親の決めた道の上だ、オレはいつまでも飛び立てない。親はいつまでも生きて、オレが死ぬまで先導するわけじゃないから。オレはオレの道を歩まなきゃいけない。だから……一度何もかも壊す必要があった。オレの生きる意味を見出せるように。二人がじゃない、オレが自分を生きていて良かったと思えるように」

 出雲は顔を傾けて話しかけ続けた。

「そうなったんだ。オレ……見つけられたんだよ。オレにしかできないこと。オレの生きる意味。ほら、きれいだろう、金細工の雲がついた短刀だ。軍学校の首席卒業者だけがもらえるんだよ。こっちは朱雀の神剣だ。精霊国まで行ってさ、オレ、がんばったんだ……」

 二つの刀を差し出す腕に、しずくが落ちた。

「オレを認めてくれよォ!! 父さん!! 母さん!! オレ強くなって帰って来たんだ!! オレの生きる意味、見つかった……だから認めてっ……!!」

 だが二つのしかばねは動かない。

「父さん!! 母さん!! あァーッ!!」

 出雲の両目から涙がとめどなく溢れた。彼の想いは二人に決して届かなかった。

「……おかしい。この二人の魂は……」

 藤花が二人に近づいたとき、人影が立った。

「……兄さん!!」

 出雲の兄・勇木ゆうきが、小ざっぱりした白い着物を着て立っていた。

「ああ出雲、帰ったのか。久し振りだな」

 泣いている出雲も、その周りの状況もわかっているはずなのに、勇木は落ち着いた様子で声をかけた。

「兄さん!! どこ行ってたの!! 大変だよ、父さんと母さんが!!」

 出雲が二人を指差しても、勇木は落ち着いている。

「温泉に入ってたんだ。いい湯だったぞ。出雲も入ってこい」

「兄さん、何言ってるんだよ!! 父さんが、母さんが、死んでるんだぞッ!!」

「んー? ああ、そうか」

「兄さん、どうしちゃったの!!」

 この状況に衝撃を受けて、精神が受け入れるのを一時的に拒んでいるのか。出雲が急いで駆け寄ろうとしたとき、藤花がそれを遮った。

「勇木。温泉に入っても、血の匂いは消えない」

 出雲は息をするのを忘れた。藤花は何を言っているんだ。深夜の温泉、新しい着替え、驚きも怒りも悲しみもない反応――これらが意味するものは、つまり。

 勇木は落ち着いて赤い短刀を抜いた。

「魂はいくつあってもいいですよね、風吹かぜふきさん」

 どこかで女の笑い声がした。

「兄さん……! 嘘だろ、父さんと母さんを……殺したのか!?」

 勇木は弟を真正面から見つめた。落ち着いていた。目がすわっていた。そして口が動いた。

うらやましかったんだぜ。お前のこと。オレは勉強しなくちゃできなかったのに、お前はさして努力もしないで、いつもいい成績だったんだからな。父さんと母さんはお前にばかりかまうようになった――」

 出雲は言葉が出なかった。

「出雲。お前にこの気持ちがわかるか? 先に生まれて過去を修正できないのに、下の奴と比較される、しかもそれが同じ男の兄弟だったとしたら! オレはすべてを投げ出したくなるほど悩んだし、傷ついたさ。オレを見てくれない、親たちに……!!」

 出雲は生唾を飲み込んだ。

「そしてオレは、未来にしか活路はないと自問自答で行き着いて、この世で考えられうる最大限に良い道を、努力で勝ち取った。それは勉学に励んで役人になることだった。それからオレは一流の学校を経て本当にそれになった!

 それにひきかえお前はオレと同じ学校には入れなかった。正直勝ったと思った。いい気分にもなったさ……だが! だが!!」

 仕事で認められた勇木を家族でささやかに祝ったとき、父と母がふと言ったのだ。

「出雲もいればみんなそろったのにな」

 そばにいる自慢の息子が愕然としているのにも気づかずに。

「お前は逃げ出したのに、それでも父さんと母さんはお前への望みを捨ててなかった!!」

 出雲は即座に頭を振った。

「兄さん! それは嘘だ! オレはあの二人に見捨てられたんだ! だから家を出て――」

「あの会話はなー、お前にわざと聞かせていたんだよ。それでお前が一念発起して、逆境から立ち直れるように!」

 出雲は混乱した。

「そんな……表現の仕方なんて……?」

「子供にわかるわけないかもしれない、だがあのときお前は受験に落ちて仕方なかったと思うほど勉強したか? そこまでがんばらなかったのに同情したら、お前がつけあがるだけだっただろう」

「……そ、それは……」

 出雲は図星のために口ごもった。さして勉強しなくても、高い成績を得ていた。死に物狂いで勉強したという記憶が、ない。今、兄が言うことを、聞いていることしかできない。

「あの二人はな……全部わかってたんだよ。お前が天才だったことを鼻にかけてろくに勉強してなかったこと、そしてそれに気づかないで、落ちたことをただ悔しがってただけだったこと――。ここで慰めたらお前がだめになる。お前の目を醒まさせるためにあんな芝居を打ったんだ。――厳しい愛の鞭だったんだよ!!」

 出雲の両脚が、ガクガク震えだした。胸を食い破りそうなほど跳ねる心臓が、出雲の体をばらばらにしそうだ。

 勇木は微動だにしない。

「それを立ち聞きしたとき、オレは思った。出雲は失敗しても、こんなに愛されてる。じゃあ、オレはどうなんだ? オレが失敗したとき、両親はこんな風に自分に接してくれるだろうか、愛してくれるだろうか。オレが失敗したら、ただ出雲との比較の道具になりさがるだけになるのではないのかと、怖くなった。オレは道具じゃない。父さんと母さんの子供なのに。……だから、出雲がいなくなっても二人のたった一人の子供になったオレを見てくれない父さんと母さんが怖くて……」

 口が影を動かした。

「殺してしまったんだよ」

「兄さん……何を……!?」

 出雲は声まで震えていた。

「オレを見てくれない父さんと母さんがいる現実が怖くて、オレは父さんと母さんを殺してしまったんだよ、出雲」

 出雲は絶叫した。

「兄さん!! 頭のいい兄さんが、どうして言葉で戦わなかったあー!!」

「知っているだろ出雲!! 理論ではもっと頭のいい父さんには、かなわない!!」

「だからって、逃げることないじゃないかー!! 戦って、伝えればよかったじゃないかー!!」

 言いながら、出雲は涙が溢れた。自分でもあり、父と母でもあった。なんて言葉の足りない家族だ。言いたいことを、相手に悟らせる選択しかできなかった。

 結局、互いに崩壊した。

 勇木がえた。

「言っても無駄だ!! あの二人は昔から、出雲には本気で接しても、オレには結果を出したとき以外は無関心だったのだから!! オレは、期待されてなどいない!! ずっとだ!! ずっと……!!」

「兄さんのためにお祝いしてくれる父さんと母さんが、兄さんを愛していないわけがないじゃないか!!」

 勇木は出雲に向かって、出雲を嚙む代わりに下唇を嚙んだ。

「あの二人は自分たちに立派な肩書が増えて嬉しかっただけさ!! オレのことを心から喜んでくれたわけじゃない!! オレはお前に追い抜かれまいと必死だった!! 親に比較されないようにこうするしかなかったんだ!!」

 出雲のまばたきから涙が一粒こぼれた。

「兄さんは自分の人生を一度も楽しんだことがなかったんだね。かわいそうな人だ」

「楽しかったさ……お前が生まれてなかった頃はな!!」

 勇木が突然走り、出雲に短刀を振り下ろした。

 出雲が抜刀して弾いたとき、火花が散った。

 本気で振り下ろしたのだ。

 それに衝撃を受けている耳に、勇木の怒鳴り声が飛びこむ。

「お前も殺してやる!! オレを見てくれない奴らなんか、死んでしまうがいいっ!!」

「兄さん!! オレたちは二人とも」

「やかましいーッ!!」

 勇木が短刀を振り回してくる。軍学校の首席卒業者の出雲にとっては、子供の剣技である。生かして取り押さえることができる。しかし、そのあとどうする。どこかに逃がすか。魔物が両親を殺したことにするか。それでは刺し傷をどう説明する。

 家族だから、なんとしても助けてあげたい。

 だが、父と母を殺した兄は、生きていればいずれ弟を殺しに来る。彼の恐怖に決着がつかない限り。

 兄を救うもの、それは、言葉しかない。

 けれど、弟にはその言葉がわからない。

 死刑執行人の手でさらし者になりながら処刑されるくらいなら、いっそ正当防衛のうちに身内の手でひと思いに、と出雲が覚悟を決めたとき、勇木の後ろから女の声がした。

「手こずってんじゃないよ! しょうのない男だね、『吹開ふっかい』!!」

 その呪文を受けて、勇木の持つ赤い短刀が、血管のようにあちこち筋張り、膨張し、口を開けるように割れると、勇木を呑みこんだ。出雲が声をあげる間もなく、赤い短刀が赤い刃を全身に縦に何本も走らせる人間の形になり、目の前に立った。

「兄さん!?  兄さん!?」

「勇木! その二人の魂をいただいておやり!!」

 女の号令で、短刀人間が突進してきた。刀で受けた出雲は、あまりの怪力に吹き飛ばされた。

「この力は……魔族!?」

 軍学校で、弱らせた魔族と訓練で戦ったことがある。力だけなら、到底人間に勝ち目はない。兄は魔物に呑みこまれて、魔物の一部になってしまったのだ。出雲は状況を受け入れた。

 だが、剣が振るえない。

 魔物だけ殺せば兄は戻るのではないか、魔物に体を乗っ取られたせいにすれば、兄は処罰されずに済むのではないか、将来自分を狙いに来ても、撃退し続ければいいのではないか。

 兄と過ごした、小さい頃の楽しかった思い出ばかりが次々に浮かぶ。

 出雲は短刀に向かっていった。魔物の攻撃をかわしていく。力で負ける相手には、絶対に触らせてはならない。そして、こちらは確実に急所だけを突く。

 短刀を持っている兄の右手を狙って、刀を突き出す。

 思いきり、刀が跳ねた。

 出雲の刀が、敵の硬度に耐えられず、折れていた。

「きききっ! 弱い男の子だこと!」

 いつの間にか、塀の上に、目だけ出してあとは人の形に布を巻きつけた者が、座っていた。

 そちらに目が行ったのも束の間、魔物の赤い刃が出雲に迫る。

「出雲!! 朱雀の剣を!!」

 藤花に叫ばれて、出雲は反射的に神剣・朱雀を抜刀した。赤い刃は粉々に砕かれ、魔物は自分から朱雀に真っ二つにされた。

 砕かれた赤い短刀から、魂が二つ出て、天へ昇っていった。

「ちえっ、二つも損しちまった。でも、ここに三つあるからいいか。今度はあたしが相手だ――、ッ!」

 女は裏庭へ飛び降りようとしたとき、藤花の両目を見て止まった。

「……星晶せいしょうせいっ……!?」

 紫苑は後ろから見ていたので、それが見えなかった。出雲は魔物の離れた兄を見て呆然としていた。

「……世界のどこに隠れていやがったんだい、てめえ……! 朱雀の使い手に、星晶睛……! ふん、今日のところは帰ってやるよ。あたしは未知のものは嫌いだ! でも、いずれ殺すよ! あたしの敵になるならね!」

 女は闇に消えていった。

「兄さん……兄さん……!」

 勇木は二つに切断されていた。もう助からない。朱雀の神剣から光の粉が出ている。勇木の命を少し延ばしてくれていることに、出雲は気づかない。

「あの女にそそのかされたの? あの短刀は何? 兄さんは悪くないんだよね?」

「……出雲……」

 勇木の口からは血が溢れている。藤花が出雲の肩に手を置いた。

「それを説明すれば長くなる。あとで私が教えるから、出雲はお兄さんに話したいことを話しなさい」

 なぜと思わずに、出雲はすぐに従った。勇木の手を取った。

「この手でいろんな問題を解いてきたんだなあ……、よくがんばったなあ、オレより頭のいい兄さん」

 勇木の口から血が流れた。

 出雲は勇木の頭に手を当てた。

「この頭でみんなを助けることいっぱい考えてきたんだなあ、よくがんばったね兄さん」

 勇木の目から血が流れた。

「オレは、父さんと母さんに、ずっとこう言ってほしかったんだよ」

 朱雀の光の粉が、勇木を生かして、しゃべらせてくれた。

 同じ兄弟だからわかる。親にかけてもらいたかった言葉が。

「でも、一言も言ってくれなかった。オレを見てくれなかった。二人の誇りの飾りでしかなかった」

 それを聞いた出雲が叫んだ。

「子供のことをわがことのように喜ぶのは当たり前だよ!! 父さんと母さんは肩書が増えたから喜んだんじゃない、『兄さんが喜んだ』から一緒に喜んだんだよ!!」

「……え……」

 勇木が出雲を凝視する。

「子供が悲しんだり笑ったりしたときは、親も一緒に悲しかったりおかしかったりするんだよ……! そんなの親の気持ちになってみりゃわかるだろ!? どうして待てなかったんだよ……オレが兄さんと違う道を極めるのを! そうすれば兄さんはもう比較されずに済んだのにッ!!」

「……出雲、オレはな……もうお前に追いかけられるのに疲れてしまったんだよ。お前がいる限りオレとお前の競争は終わらない。どこかで終止符を打つ必要があった。それが早まっただけなのさ……」

 出雲が詰め寄った。

「父さんと母さんが死んで寂しくないと言えるのか!! 兄さん!!」

「寂しいよ。本当なら競争相手のお前を殺すだけで終えようと思った。だがそれはお前にとっては理不尽だよな? 好きでオレのあとに生まれてきたわけじゃないんだから。だから産んだ父さんと母さんに責任を取ってもらおうと思ったのさ。そうすればお前にとっても公平だろ。オレをこんなに追いつめた両親に、オレたちを産んだ責任を取って死んでもらう。な? 公平だろ?」

「兄ちゃんは間違ってる!!」

 兄は目を大きく開けた。

「どんなに兄ちゃんにとってひどい親でも……『オレの親』まで奪う権利は兄ちゃんのどこにもない!!」

 兄は弟の涙を見て、唇を引き結んだ。

「……そうだな……。お前は傷つけられて家を出た……でもちゃんと帰って来た……。お前とオレとどこが違うのかな、傷つけられたのは同じなのに――もしかしたら、これ以上傷つけられるのが怖かったのかもしれないな……あの二人に」

 出雲は涙を一粒振り飛ばした。

「痛いなら痛いと言えばいい。言わないなら言わないで我慢しろ! オレは兄ちゃんを許さない、怖くて悲鳴をあげられなかった兄ちゃんを!!」

 勇木は出雲の声を聞きながら目を閉じて痛みをこらえている。

「でももう一度やり直せるならやり直したい!! 今度はきっと手をつないでてあげるから!! 父さんと母さんが何言っても離したりはしないから!!」

 兄の手を両手で握る弟を、兄は血を目から溢れさせながら見つめた。

「オレを許さないでくれ。オレは両親に愛してほしかったくせに、どう愛してほしいのかわからなかった愚かな兄だ。せめて生き残ったお前にだけは知っていてほしい……それでも、父さんと母さんを愛していたと!!」

 兄の目から血が止まり、しっかりとした目のまま、息絶えた。

「もっとみんなで話していれば……」

 出雲は背中を丸めて、動けなかった。

「あの真夏の夜は……オレの目を醒ますための芝居だったのか……愛されてたんだな、オレ。それなのに、立ち向かわずに逃げ出したりして、オレ……! オレが役人になってるって話も、戻って来たとき『病気で戻って来た』ことにして、一から勉強でもなんでもやり直せるように、近所の環境を整えておいてくれてたんだ……オレが勉強以外の道に挫折したときのために。なんにもわかってなかった……兄ちゃん、オレも愛がほしいなんてバカなこと言って……もらってたのにもらってなかったなんて言って……」

 出雲は勇木の手を額に押し当てた。

「兄ちゃんもきっと愛されてたよ。だって兄ちゃんは比較される代わりに“新しいことに挑戦できる喜び”を父さんと母さんと一緒に味わってたじゃないか。愛されてたんだよ……兄ちゃん愛されてたんだよ……」

 嗚咽おえつがこらえきれない。

「それをなぜみんないなくなったあとに気づくんだァー!! もっと……もっと早くに気づいていればァー!! いまさら冴えてどうするんだあー!!」

 激しく泣く出雲に藤花が近づこうとすると、出雲が声を絞り出した。

「でも!」

 出雲は魂を見送るように空を見上げた。

「これだけは言える。父さん、母さん、兄ちゃん、またもう一度生まれ変わっても、次も同じ家族でいてくれよ。今度はきっと、全部受け止めてみせるから」

 出雲は誓いの証に、金細工の雲の短刀を、三人のそばに置いた。

 それからあとの葬儀も、人々への説明も、藤花が支えてくれたおかげで、なんとか終えることができた。刀の魔物の死骸のおかげで、三人がそれに殺されたことにすることができた。

 藤花は、風吹かぜふきというあの女が勇木の憎しみをあおったこと、魂を集めているらしいこと、何が目的かはまだわからないことを出雲に伝えた。

「魔族なのか?」

「魔族ではないが、死にゆく魂を拘束する以上、許してはならない」

「家族を奪われた恨みだ。次会ったら必ず倒す!!」

 出雲が朱雀の剣の柄を握りしめるのを見ながら、藤花が切り出した。

「お互い、共にいる目的は果たしたし、ここで別れよう」

 出雲もうなずいた。

「ああ。今までありがとう藤花。この恩は一生忘れない。もし生きていたら、またどこかで会えるといいな」

「出雲も、元気で」

 二人はこうして別れた。そして綾千代のもとに四本の四神の仮の剣が揃い、帝の子が海月を使い、星方陣せいほうじんに臨んだが失敗することになる。出雲は葬儀で遅れたため、別の剣士が朱雀の仮の剣を持ち帰り、綾千代のそばにいた。藤花の『返戻へんれい慎出しんしゅつ』の札の効果が残っていて、一目曾遊陣ひとめそうゆうじんの札が使えたのである。どんなに出雲が説明しても、皆は出雲の朱雀の剣を認めなかった。勇木の命のために力が抜けていて、綾千代でさえただの剣だと思ったのである。出雲は皆を守る従者として綾千代と旅をすることとなった。

 そのときの姿を見て、戦争後に人々は、「出雲と呼ばれていた若者は、綾千代様の身の回りのお世話をしている割には若すぎるから、きっと式神だったのだろう」と推測することとなった。

 結果、陣に失敗した五人は消滅し、生き残った綾千代と出雲は燃ゆるばるかの封印に遭遇することとなる。そして、「式神」と推測されたまま、今に至る。


 出雲は、はっと全身が動いた。

 現在の、刀のない出雲に戻っていた。

「過去を見せるのか……」

 自分のなくした記憶を見ているようで、実は体験して、一緒に泣いたり、叫んだりしたように思える。

「こんなこと、あったっけな……」

 人間が式神になると、人間のときの記憶を一切忘れてしまう。出雲は、こういう家族がいたことを思い出して突っ立っていると、魔族のうなり声があちこちから響いた。

「あの野郎があのときああしていれば、オレはこんな目にあわずにすんだのか!」

「あのときあいつがここに来なければ!」

 各々人生の走馬灯を見ている。そして、「こうすれば悪いことが起きなかった」という場面で手を入れて止め、中に入りこんで、自分の歴史を思い通りに変える動きを始める。そして、永久に過去から抜け出せなくなる。過去にこだわったからだ。「成功した」人生を生き直すつもりが、同じ場面を何度も繰り返しているだけになるのである。

 過去があるから、今の自分がいるのだから、一箇所だけでも変えられた過去と、今の自分はつながっていない。よって、過去の中で何かを変えれば、現実には戻れないし、過去の時間も進まない。本人が変わっても、周囲にはそれに関わる未来がないからだ。

 何の言葉も発しないし、何の行動も起こさない。ただ、本人が「成功」した時点ですべてが止まり、巻き戻され、何度も同じ場面が繰り返される。

 一度過去を変えれば、もう二度と現代には戻れないし、記憶の中の過去も止まるのだ。

 百体の魔族のうち五十体は、皆、走馬灯の中に入り、同じ過去を繰り返していた。

 永遠に。

 二度、朱雀の試練に耐えた出雲は、五十体の走馬灯を見て神の力を畏れた。目の横に露雩と紫苑の結婚式の場面が流れている。

 手を出さず、呟いた。

「人生とは思い通りにならないものだ。生きるとは、受け入れがたい現実を受け入れることだ。家族を助けられなかったことも、そして紫苑がオレを選ばなかったことも。もし魔族たちを見る前の走馬灯のうちにあっても、オレは藤花である露雩との結婚を止めなかっただろう。なぜなら、露雩という愛する者がありながら、世界のために紫苑あなたが死ねるからだ。あなたは、この世界を愛しているのだ。だから、あなたが守りたいこの世界を、オレも愛そうと思う。あなたの守りたいものを、オレも共に守る! 愛してもらえなかったのは残念だ、でもあなたはいつも道のない先を走って戦うから、オレは一生尊敬する。愛の情熱ではなく、尊いと思う、安らぎ続ける心の炎。くべてもくべても尽きぬまき。あなたを一生守りたい。あなたに安らぐこの身なれば、我が王よ!!」

 そこで炎の精霊が呼びかけた。

「出雲の炎は、決まったな!」

 紫苑を愛する心ではなく、尊敬する心が、次の炎の精霊の糧となったのであった。

 出雲は、朱雀に導かれ、己の心に決着をつけたのだ。

 出雲と魔物五十体の目の前に、朱雀の赤い神剣が地中からせり出してきた。

 まだ、次の試練が待っている。出雲が精神を落ち着けている間に、気のはやる五十体は、次々と刀をつかんだ。

「どれが本物だ!? 全部引っこ抜け!」

「やった! オレのものだ! ――ん!?」

 神の剣を得たとたん、五十体の前に、強大な敵が現れた。凶暴な魔物、人間の弓兵軍隊、罠だらけの戦場におびき出す人間など、五十体各々にとっての敵である。神の剣を持っているのに、さんざんに傷つけられ、嘲られ、足蹴にされ、敗れる。朱雀の力を身に受けていながら、いいことが起こるどころか、悪いこと、苦しいこと、辛いことばかり起こった。

 二十五体は憤り、神を信じない、と侮蔑の言葉を吐いた。そして、身の内から燃え上がり、灰になった。

 残りの二十五体はそれでもいつか朱雀が助けてくれるとじっと耐えて待っていたが、仲間が一体ずつ殺されていったり、魔族は人間の搾取から逃れるために進化したのに、「殺戮を覚えた命がその欲を満たすために進化し、魔族となった」などと嘘をつかれて、偽りの歴史を世界中に広められて己の存在を消されたりして、容赦なく不幸が襲いかかった。

 偽りの歴史が不幸なのは、過去を変えられたら、現在の自分とはつながらないから、その先の未来が続かないからだ。

 二十五体は、傷つき、神に絶望し、挫折の証に燃え尽きていった。

 出雲は、戦っても戦っても数を減らさない魔族軍と戦っていた。神が助けてくれない限り、一生倒し尽くすことができないと、知っていた。何をすれば神が力を貸してくれるのか、わからない。大技を出すたび、息が切れる。剣の振りが鈍ってくる。緊張と集中で全身の血管がちぎれそうに張っている。神に「助けて」と言えばいいのだろうか。それとも、死ぬまで戦う姿を見せるのが正解なのだろうか。

 出雲は、どちらも選ばなかった。

 神に、頼ってはならない。

 いつか助けてもらえるからと、生きることに甘ったれていてはいけない。

 出雲は、紫苑や露雩を見て、どんな困難に遭っても、自分を諦めないで生きる人がいることを知っていた。

 だから、自分も明日を信じる心だけは失うまいと心に決めている。「必ず」神に救われるわけがない。努力が足りなければ、志半ばに散らなければならないのだ。何の努力もしないで最後は人智を超えた力で望みがかなう、わけがない。善人であることは人生において良い発見が多いが、行動する実力がなければ、祈りだけでは何も起きない。

 神を信じること。しかし神の力にすがらず、生きることに泣き言を言わない。どんな結末も、自分の力だということを受け入れる。ただし、天変地異や事故など、自分の力だけではどうしようもないことは、神の力の領域である。

 出雲が神を尊敬しながら己の力で立とうとしているのを見て、神は出雲の敵を、燃え尽きる前の二十五体に変えた。

 全員、朱雀の神剣を持っている。

『全員殺せ。そうすれば彼らの持つ朱雀の神剣も消え、今分散している朱雀の力は、皆、汝のものだ』

 神の力によってそれを知った出雲は、百年前の惨めな自分を思い出した。先に朱雀の神剣を得ておきながら、星方陣せいほうじんの神剣とは認められなかったこと。嘘つきを見るかのような、一同の視線――。朱雀の神剣が何本もあって、力を分散させたからだ。

 こいつらを殺せば、真の神剣・朱雀が手に入る。

 出雲の体力がみなぎる。回復した生命力のままに、力の限り暴れたい衝動に駆られる。

 だが。

「生きていくって、そういうことじゃない」

 朱雀の刀を握る手が止まった。

「朱雀神の力が分散したままでもいい」

『なぜだ?』

 純粋に、神に問われる。

 自分なりに考えた答えが、今、必要だ。

「そのことは確かにオレにとって不幸だ、でも、神を信じても不幸が起きるなら、それは自分が成長するために必要なことなのだ。神と自分は、常に一対一だ。他人は関係ない。むしろ他人を踏みにじる者こそ、神を信じる資格はない」

 二十五本の朱雀の神剣が、一本ずつ砕けていく。早く殺す決断をしなければ、朱雀の力は奪えず、不完全な神剣・朱雀となってしまう。

 しかし、出雲は動かなかった。

「神は苦しみや怒り、責めで試しているのだ。その、口では神を信じていると言う者が、その神の神力を授けるにふさわしい心の持ち主かどうか」

 朱雀の神剣が砕かれていく動きが、止まった。

「志の高い者ほど高い神力を授かるだろう、だが神の力は人間には劇薬と同じ。器がなければ人生は崩壊する。耐えられる者だけに授けるために、神はその前段階で、不幸を与えてその人間の耐久度を測るのだ。不幸な目に遭ったとき、それでも神を信じて耐えて、悪事の誘惑に負けず、傷つきながら正しいことをできるかどうか、と。

 だから、生きることは不幸と隣り合わせなのだ、神が与えるからだ。

 だが克服すれば、認められて神の加護を得ることができる。

 人は神の力に耐えられる分だけしか、力を受け取れない。

 そうして神は人間を守っているのだ。

 だから、なんでも願いをかなえてほしいと思うのは己を知らない者のすることだ。己さえ器を広げれば、いつでも力の用意が神にはあるのだ」

 不幸は神が自分をじっと見つめている証である。不幸だからとすぐ避けたり、全面的に他人の力で解決したりしては、神の問いに答えることをせず、問いを飛ばしたことになる。

 神は、一人ひとりに正解する権利をくれるが、何の理由もなく最後の一人になるまで殺しあわせることはしないはずだ。だから、今、出雲の持つ剣が不完全な朱雀の神剣になることは不幸だが、何か自分の別の努力で、完全にする方法を考えよう、と出雲は思ったのであった。

『突発の事故、事件、理不尽な収奪に答えせよ』

 突然、神の思念が届いた。出雲は考えた。

「理不尽な喪失をオレは許さない。だが、不幸が予告してやって来ることは一度もない。起きてしまったことを受け入れて、次の手を考える。不幸の起きない人間はいない。しかし不幸をふまえて考えることで、別の道を開拓し、悲しみを克服し、成長できる。

 近い将来の死を覚悟することで救われる人がいることも知っている。

 でも、この世に無駄なものはない。命も、事象も。

 不幸から何も学ばなかったら、無駄になる。自分の百年しかない人生を、もっと貪欲に、一秒一秒が戻ってこないことを大切に思いながら生きることが、失われたものへのはなむけになる。どんなことも無駄にしてはいけない。考える。生まれてきた意味も、他人が生きている意味まで。すべて自分の成長の力になると思えば、起きてしまった不幸と闘い、勝つことができる」

 二十五体と二十五本の剣の幻が消え失せた。

 真っ暗な空間の真正面から、炎をまとった巨大な鳥が飛んできた。

 城一つが止まり木になるかというほどの大きさで、両翼の長さと胸から長い尾の先までの長さがほぼ等しい朱色の四神・朱雀が、体から散る火の粉を炎の蝶に変えながら、出雲の前で着地した。

 朱雀のまとう空気を吸うだけで、出雲の体内に炎が駆けめぐるような心地良い熱が充満し、体中が香辛料を食べたときのように、バチバチ弾ける痛みを起こす。血が沸騰しかけているからだということに、出雲は初めて気がついた。

 朱雀がくちばしを開くと、パチパチという、火によって何かがぜる音がした。そして、炎の体の奥で深く暖められたような、穏やかでゆっくりとした声が響いた。

『生きるとは、幸福のみにあらず。不幸を恐れる者に、日々を生きる資格なし。生きるとは、神を畏れることである。神によってすべてを与えられる日々の中、何が起きるかわからずとも、困難の壁を、考えて打ち破り、乗り越えていくのが生の道なり。そのとき、われここにり。生きることを受け入れた男よ、さあ、我を手に取るがよい! ただし、生きることすなわち戦うことに疲れたら、我は汝を一呑みにするであろう』

 神の力を受けたとき、それが大きければ大きいほど、少しの邪心も赦されない。

 一生の覚悟を決めて、出雲は神剣・朱雀を手に取った。


「人間にとって北南西東は上下左右だけど、魔族にとっては『北』が南東、『南』が北西、『西』が北東、『東』が南西だったのね。四神は魔族の神だから、魔族にとっての北南西東で鎮座していたんだわ」

 朱雀神殿を出ると、意識の戻った紫苑が、露雩とにゃかすけと雑談しながら待っていた。

「紫苑! もーうちょっと心配してくれてもいいんじゃねえの? オレ、がんばったんだけど?」

 朱雀の前を歩きながら神剣・朱雀を抱えて腕組みしてすねる出雲に、紫苑はふふふっと笑った。

「ええ、ちゃんと見てましたよ」

「んえっ?」

 何をだ、どこからどこまでだ、と混乱する出雲に、にゃかすけが飛びついた。

「にゃあー! にゃあー!」

 にゃかすけは、泣いていた。ようやく精霊王に出会えたのだ。朱雀神の祝女はふりめが出て来た。

「にゃかすけ、積もる想いはあとで。精霊王出雲様、この国をどうぞお救いくださいまし」

『安心いたせ。我がついておる』

「朱雀様。どうぞお元気で。朱雀神殿は私たちにお任せを」

 祝女二体は朱雀に別れを告げた。出雲が叫んだ。

「王として、この国を護る!!」

 神は炎の蝶を乱舞させると、出雲たちを乗せて戦場へ飛び立った。


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