式神を撃つ目第二章「不信のある世界」
登場人物
赤ノ宮紫苑。双剣士であり陰陽師でもある。
出雲。神剣・青龍を持つ炎の式神。
霄瀾。神器の竪琴・水鏡の調べを持つ、竪琴弾きの子供。
第二章 不信のある世界
出雲は、木の上で枝に足を伸ばして幹に凭れ掛かり、高い位置から遠くの空を眺めていた。
何度も思い出してしまう。
映景のあの表情を。
「式神は道具……」
式神を使役する者は、皆そのように考えているのだろうか。陰陽師ではないから、よくわからない。
「でも……、これだけは言える」
出雲は気づいてしまった。
「力のためにしか、人間は式神を喚ばない」
愛がどこにもないことに。
存在していいのは敵を倒すときだけ。それ以外は奴隷でいい。命の塚を握っている限り、式神は無条件に従うのだから。
都合のいい術としか、思っていないのだ。
「心のある者を無条件に虐げていいものかッ……!」
これまで人間を殺すまいと考えていた出雲に、初めて人間への不信が生まれた。
「出雲ー。そこからどっちの方角に町が見えるー?」
険しい顔つきをしていた式神は、主の声に、
「……あっちだ」
と、努めて平静に返答した。
「(……この人だけは違う)」
出雲を、力の道具として喚ばなかった。むしろ喚ばれた出雲の方が、彼女の生き様に心を深めることが多い。
「お前だけを主人にしていたいな。この先他の誰の式神にも、なりたくない」
「死にたいの? 私の生きている間に」
地面に降りた出雲に、紫苑は優しい瞳を向けた。
「剣姫を守れるなら、死に甲斐もあるさ」
「あなたを私のために死なせられないわ。私もね、このままじゃいけないって思ってる。でも自分じゃ止められないなら、待つしかないのかも」
「待つって、何を……」
出雲に問われた紫苑の前髪が、迷ったようにそよ風に揺れた。
「誰かが、いつか私の剣を止めてくれるのを。その人がきっと、私の生きている意味を教えてくれると思うから。私と戦えるなら、必ずその人の道が、私に何かを教えてくれるはずだから」
紫苑の剣を止める者、と聞いて、出雲は心臓が跳ね上がった。
自分ではないことは判っているけれど、それでもこの赤い瞳の少女の待っているのが自分ではないというのは、充分強い衝撃に値するものだった。
「……お前の剣を止めるのが、恣意的な偽善者なら(いい)」
思わず口に出して、慌てて出雲は最後の言葉を呑み込んだ。
「どうなるかは、私にも分からないわ。でも、私独りでは自分を変えられなかった。この剣は他人と戦うためにある。独り舞うだけでは、何も生み出せないわ」
「戦いでしか自分が分からない、か。お前の前に現れるとしたら、そいつはお前と正反対か、同じか、どっちだろうな」
「(だれかこの人を止めてあげられたらいいのに)」
木の幹にてのひらを当てて、霄瀾がひっそりと呟いた。
「(この人を止められないなら、オレは一体何のためにここにいるのだろう)」
怒りではなく虚しさが、式神の心を撃った。
帝一族の三兄弟がそれぞれ治める三国は、内部が細かく分かれていて、各々(おのおの)の領土に国守が存在して、治めていた。千里国内の毛土利国に入った後、立仕町に到着した。この町は林で覆われた山があり、かつ農業用の野に恵まれた地であった。
三人は、真っ先に警備兵の詰所へ向かった。追い剝ぎたちと、人々の奪われた荷物の場所を告げるためだ。
詰所には、既にさきほどの商人たちがいて、大声を上げて警備兵に取り縋っていた。
しかし紫苑が一歩入ると、しんと静まり返った。そして警備兵の着物の袖に隠れながら、震える指を紫苑に突きつけた。
「こ、この女です! 人を人とも思わず、なで斬りにしていった悪鬼は! こんな奴がこの町に来たら、また誰か殺されますよ! は、早く捕まえてください!」
「てめえら! 命を助けて貰っといて、そんなことしか言えねえのか!! 捕まえろだなんて、よくも!!」
殴り掛かろうとする出雲の袖を、紫苑がグイと引き止めた。相変わらず無表情である。
商人に取り縋られていた警備兵たちは、紫苑の顔をまじまじと眺めた。
「こんなか弱い可憐そうな少女が、人殺しなどするかな?」
「お嬢さん、この商人たちの言うことは、本当かな? 役人でもないのに人を斬っているのか?」
紫苑の匂うような立ち姿を見て、殺戮に半信半疑の警備兵たちは優しく尋ねた。紫苑が口を開くより早く、
「その姿に騙されてはいけません! 剣を取れば羅刹です!!」
商人たちが騒いだので、出雲は透かさず追い剝ぎたちの現状を申し立てた。
「一刻も早く向かいませんと、全員草のために死にます」
「これは一大事! よく連中を一網打尽にしてくれた、感謝する!」
「お前たちも来い、荷が心配であろう」
「はい、ですがこの女は……」
「追い剝ぎを殺さなかったではないか。そもそも、このような綺麗な少女が人殺しなどするはずがない」
「そうだ、お前たち、騒ぎ立ててあの美しい子の気を引きたかったのであろう」
「滅相もありません! そんなつもりでは!」
「ならこの話は仕舞いだ。さ、行くぞ!」
一同は慌ただしく支度を整えると、追い剝ぎたちのもとへ出て行ってしまった。
「……勝手な連中だ」
整った顔が無表情なままの紫苑を見て、出雲は、こんなにもこの少女について人々が騒ぎ立てるのは、一つにはこの美しさに裏切られたと思うからかもしれないと思った。
人々を裏切り続ける少女、それは人々の憎しみも倍になるというものだ。しかしそれは紫苑の言う通り、確かに勝手な思いでもあるのだ。勝手に思い、勝手に怒る。そのことで少女がどんなに傷つき、憎んでいるか知らないで。少女も人々にされたように人々を勝手に思い、勝手に憎んでいるのかもしれないが、一対多数で、多数同士で噂が広まるために、どれだけ少女が孤独で、全てを殺したいか知らないのだ。
「どうして自分のことは耐えてしまうのだろう。剣姫になれば、もっと楽になるのに」
出雲には、そうなれば紫苑が人間を全殺(ぜんさつ・意味『すべて殺す』)してしまうからだと、わかっている。でも、ならこの人はどうやって「今」の心を癒しているのだろう……。出雲は、先に歩き出した紫苑を見つめた。
「さて、私は図書館に行くけど、二人はどうする?」
紫苑が案内板の前で振り返った。
この町の全体の地図が描かれている。図書館、診療所、池……、名称入りで色のついた絵になっている。
「なんで図書館に行くの?」
「陰陽師の伝記があると、知らない術が見つかったり、戦った魔物の種類と攻撃方法を分類できたりして、とても役に立つからよ。知識は何でも持っていると、いつか組み合わせて使えるからね」
柔らかく霄瀾に微笑む紫苑を見ながら、出雲は急に不快になった。なぜだかわからないが、胸がむかむかする。
「出雲はどうする?」
霄瀾がなぜか返事を保留して、出雲に意見を求めた。
「オレは行かない。町の中をまわってる」
なんとかとげを隠しながら、出雲は硬い声でそう答えた。
「え……」
霄瀾は息を吐いて両肩が下がったが、しばらくうつむいたあと、紫苑に返事をした。
「ボク、出雲についていく」
出雲は意外に思うと同時に、剣姫を恐れてのことなのかと疑い、汗をかいた。紫苑に、それだけはしてはいけないからだ。
「そう。じゃ、二人で遊んでらっしゃい」
泊まる宿を案内板で決めてから、紫苑は歩き去っていった。
「紫苑の方が面倒見がいいぞ」
手を振っている霄瀾に、出雲がそれとなく話し掛けた。子供の真意を聞くためである。
「うん、しってるよ。でもね、ボク……、出雲とも、いっぱいお話したいの」
面食らって、出雲は思わず一歩下がるところだった。話したいって、何を? 数学の公式か? 月の重量か? あらゆる物の漢字か?
そこまで考えて、出雲はまた不快感が込み上げてきた。
「なんなんだ? この妙な感覚は」
「行こうよ出雲! この町の大通り、見てみたい!」
胸の感覚は一先ず後回しにして、今は子供のしたいことにつきあうのが先だ、と出雲も大通りへ向かった。
緑葉の茂る天を突きそうな木々が、道の両脇に等間隔に植えられていた。
その下を、市場の店々が、所狭しと並んでいる。
ここは立仕町の大通り、最も人々の交流が盛んな所だ。
果物屋から新鮮な甘い香りがする。その隣には、瑞々しい野菜を売る、売り子の声。
霄瀾は、なぜかそういう色鮮やかなものには目も呉れず、漬物屋の前で立ち止まっていた。
「……漬物好きなのか?」
子供の興味も十人十色だと思いながら、出雲が霄瀾の背中を軽く押して漬物屋に近づけた。気に入ったものがあるなら、買ってやるつもりだった。
「うん……おじいちゃんが、好きだったから」
その子供の答えに、出雲は一瞬霄瀾を促す手が離れた。
「(会いたい……のか?)」
ここで帰りたいと言われても困るのだが……。
「あっ! 大丈夫だよ、ボク、出雲たちと旅はつづけるよ! ただ、思い出しただけ!」
出雲の指先から感じ取ったのか、霄瀾は慌てて手をバタバタ動かした。
「ボク、さびしくなんかないよ。だって、たいせつなもの見つけるつもりなんだもん!」
「大切なもの?」
「あーっ!! ちくしょう、やられた!!」
そのとき、出雲たちから近い木の傍で、一人の男が大声を上げた。周りの人々も、何事かと立ち止まる。
「警備兵は! 警備兵はいないか!!」
切羽詰まった様子で、辺りに怒鳴り散らしている。
「警備兵ならさっきたくさん、町の外に走っていったよ。今は殆ど残ってないんじゃないか?」
通行人の一人が話し掛けると、男は「ついてねえ!!」と両拳を地面に叩きつけた。
「スられた!! スリに財布をスられた!! ちくしょおー!!」
と、辺りを見回し始めた。しかし、怪しい人物などいない。
「ちくしょう、見つけたらブッ殺してやる!! 覚えてろクソヤロー!!」
男は警備兵の詰所へ全速力で駆けていった。
「スリがいるのか。霄瀾、気をつけような」
「うん」
出雲と霄瀾の会話を聞いて、漬物屋のおじいさんが声を掛けた。
「お前さんたち、スリが誰だか知らないのかい」
「おじいさん、知ってるのか!?」
なんで捕まらないんだ、と出雲が驚くと、おじいさんは声を潜めた。
「確証はないからな。とても美しく飾り立てたきれいな女がこの大通りを通ると、必ずスリが起きる。女にみとれてほうけてた男どもが被害者だ。警備兵は女が共犯で、実行犯がもう一人いると睨んでいるが、そいつの尻尾がなかなか摑めない。女の方は商家に奉公に上がっていて、数少ない休みに大通りを歩いているだけだ。今のところ、仲間だという証拠がない。スリが女を勝手に利用しているだけかもしれんしな」
なんにせよ、きれいな女には気をつけることじゃ、と老人は笑った。
なんだか自分の主も当てはまるような気がして、出雲は返事を為兼ねたが、老人はそれを別の意味に解釈したらしい。
「ほ、ほ。奥さん一筋か。まあ、そんなかわいらしい子供にも恵まれれば、もう幸せ一杯じゃろ」
「え!?」
すっとんきょうな声を上げた出雲に、霄瀾がまとわりついた。
「おとうさん、だあい好き!」
「ショ、霄瀾!?」
「ほほ、恥ずかしがることなかろう。本当に、幸せな家族を見ると、老いた心も和むのう」
温かい目をどうにか中和するため霄瀾の欲しがる漬物を買い、さらに柔らかな目をされるという、意図と真逆な状況を作りつつ、出雲たちは大通りを抜けた。
「……漬物が欲しいなら、演技なんかしなくても、買ってやるのに」
「……おじいさんのきたいをうらぎったら、だめだよ」
子供に諭されて、出雲はぐっと言葉が引っ込んだ。
「……わかったよ」
渋々(しぶしぶ)目を閉じながら、考える。もしオレが父親で、霄瀾が子供なら、母親役は当然、紫苑だ。紫苑がオレの奥さんか……。
「ついにオレと結婚してくれるのかぁ……」
妄想があらぬ方向へ脱輪したとき、走ってくる人影に曲がり角でぶつかった。
「きゃっ!!」
尻餅をついたのは、年の頃十五、六の少女だった。頬紅と口紅をつけた、整った化粧顔は目にしたその一瞬、必ず人の目を引かずにはおかない魅力があった。紫苑が硬い完璧な美人なら、この少女は幼さの残る大人としての初々(ういうい)しさが滲み出るきれいさだった。臙脂色の着物の上に薄い桃色の着物を重ねている。それには、水色の川と波が流れる模様が入っている。頭は長い髪をきれいに巻いて、髪留めにべっこうの簪と櫛が、たくさん挿してある。
「御免なさい! 今、急いでるから!」
少女は目も合わさず、一目散に駆けていった。
綺麗だな、と思う間もなく、出雲は地面にべっこうの櫛が一つ落ちているのに気がついた。
「落としていったぞ!? 霄瀾、走れるか?」
「かけっこだね! まけないよ!」
ようい、ドン! と二人は駆け出した。もちろん、落とし主の少女を追って。
少女の足は矢鱈速かった。
よほど走り慣れているのか、それとも着物のはだけることなど気にならない性格なのか。出雲は、曲がり角の度に通行人の男どもがみとれている方角へ曲がり、走り続けた。
そのうち、男たちの視線が薬屋の中に集中しているのを見て、ようやく終着にいたった。
霄瀾も、よくついて来られたと思う。
もちろん、ついて来られなくなったときは警備兵の詰所に行っていろとは言っておいたが。
薬屋の中は、様々な薬草の入り混じった、鼻にくる匂いが充満していた。安らぐような、苦味を感じるような、独特な臭気だ。
「いた」
さきほどの少女が、薬屋の棚一杯に詰まった薬草をいくつも指差して、切羽詰まった様子で何事か頼みこんでいる。
「お金ならあるから!! 早く!!」
だん、と少女は金貨を叩きつけた。薬屋は驚いて、言われるままに、一つ一つの薬草を調合していく。
出雲は櫛を返すのも忘れて、訝った。
「(この女……金持ちの娘か? いや、御付きの者がいないからそれはない。この高価な身なり、庶民が滅多に使わない金貨、それなのに若い……。金持ちの妻か)」
そう推理していると、気配に気づいて少女が振り返った。少女は出雲を見て、さっと頬に朱が表れた。
「おい、これあんたのだろ」
「えっ」
少女は差し出されたべっこうの櫛を見て、初めて頭から一本落ちていることに気がついた。
「あ、ありがとう」
「それだけつけて、あれだけ凄い速さで走ったら、人にぶつからなくてもいつか落とすぜ。オレの脚力に感謝してくれよ!」
「あら、もう!」
少女はクススッと笑った。
「薬の調合が終わりましたよ」
少女は薬屋の薬に飛びつき、また走る構えを取った。
「……また、会おうね」
上目遣いにちらと出雲と目を合わせて、少女は走り去っていった。
「(人妻なのに少女みたいだな……。いや、今のは落とし穴だな。浮気に怒った夫が用心棒よこす展開になる。これは、巻き込まれないよう丁重にお断りしたい)」
出雲が身震いしながら少女の出ていった出入口を眺めていると、不意に薬屋が声を掛けてきた。
「あのう……。親切な方とお見受けして、お願いしたいのですが……」
薬屋は、抽出しの中から小さな包みを取り出した。
「これは、今のお客様――組葉様が買われた薬の代金の、お釣りです。どうか、これを組葉様のお宅へ、届けてくださいませんか」
「ツケで買われるよりいいじゃないか。急なときはそのお釣りの中から薬代を貰えばいいわけだし」
出雲の返答に、薬屋は震えた。
「組葉様の奉公先は、こんなにお金が貰えるほどのお給金ではありません。実家には病気の母親、自分は高価な衣装、どこからそんなお金を調達してくるのか……。もし出処の怪しいお金なら、持っているだけでこちらまで共犯にされてしまいますよ。だから私は、できるだけ関わりたくないんです。組葉様のお宅をお教えしますから、どうか……」
聞いているうち、出雲はどこか既視感を覚えた。そして、心のどこかであの少女の無実を晴らしたくなった。
「……単に金持ちの女になっただけでしょう」
ぶっきらぼうに言う出雲に、薬屋は首を振った。
「そんな話、一つもないんですよ」
出雲は次の言葉が出なかった。
その家は、長屋のうちの一軒だった。
屋根は限界まで薄く、壁はぼろぼろで穴が通じ掛けている。戸は引き戸のはずだが、簡単に押し開ける扉になりそうなほど、緩い立て付けだった。
はっきり言って、貧乏長屋である。
「ほら、おっかさん、次はこれ食べて! 香草でね、体が落ち着くから!」
焦った組葉の声が聞こえる。出雲が戸を叩いても、気づかない。家の内側から、ぜいぜいと苦しそうな息を繰り返す音がする。
「お願いおっかさん、死なないで! 頑張って!!」
只事でないと、出雲と霄瀾が中へ入り込んだ。
「な、なんだ!? あんたたちは!!」
中は一間。布団に寝かされている中年の女が、胸を押さえつけて雑音と共に必死に呼吸している。それにかがみ込む組葉、そして組葉の父親とおぼしき中年の男。道具箱が置いてある。何かの職人かもしれない。
「あ、さっきの……! なんで……!」
「組葉!! 男に知られるなって言ったろ!!」
「え、違うの、そんなんじゃ――」
「くるしんでるんだね!? ボクにまかせて!!」
父と娘の会話をすり抜けて、霄瀾が背中に背負った、五芒星を象った竪琴の神器、水鏡の調べをさっと両手に構え、奏でだした。
とたんに、苦しがっていた母親の呼吸が、嘘のように穏やかになった。苦しみに疲れていたのか、そのまま寝入っていく。
「うそ……。薬でも、治らないのに……」
「あんたら、医者だったのか?」
「ううん。ボクはただ――」
「この子は癒しの音楽を学んでいるんです」
出雲がさっと後を続けたので、霄瀾は黙った。見上げた出雲の目が、「神器のことは言うな」と言っていたからである。
「それに、あんたの跡をつけたわけじゃない。薬屋に、頼まれたんだ。お釣りを渡してくれって」
小さな包みを見て、組葉は物憂げに目を逸らした。
「すぐに薬を貰いたいときもあるのに……」
やはり、この少女は誰かに囲われているのだろう、と出雲は思った。この貧乏な家に住み、お釣りで生活費の遣り繰りもせず、こんなにお金を揃えられるはずがない。
「ねえ、そのお金で弟さん、雇えないかな」
出雲と霄瀾は顔を見合わせた。
「弟って、ボクのこと?」
明らかにふてくされたように霄瀾が腕組みした。組葉は慌てて霄瀾に向き直った。
「あ、ごめんね。お兄さんじゃなくて、直接話すね。もし、私のおっかさんがまた発作を起こしたら、また助けてほしいの……」
霄瀾には、母親も父親もいない。
どちらにするのか出雲が注意しながら待っていると、霄瀾は出雲の足に抱きついた。
「おかあさんに聞いてみる。ね、おとうさん」
「えーと、おう、そうか。そうだな、オレたちは旅の途中だしな」
やったああー!! 紫苑も参加決定ー!!
出雲が心の中で拳を天高く突き上げていると、組葉が急にしおれてしまった。
「そう……なんだ。お子さん……だったんだ」
「まあな! かわいいだろ?」
「ウン!」
出雲と霄瀾が盛り上がっていると、組葉は急に刺すような光を目に宿らせた。
「奥様は、私よりさぞかしお美しいんでしょうね」
「ん? あんたとは違う系統の美人だな」
「ボクのおかあさんは世界一きれいだよ!」
「ぜひ直接会ってお話してみたいです」
「そうだな、あいつも医学の心得はあるし」
「呪いも破れるんだよ!」
「とーっても、お会いしたいわあー!」
何かが逆巻く組葉に、出雲は一、二歩後退りした。
「えーと、じゃあ、また明日な」
出て行く出雲の耳に、組葉がさっと飛び掛かった。
「ねえ……、奥さんよりきれいだったら、私を選んでよ」
「ギョギョッ!!」
思わず死語? を叫んだ出雲に、霄瀾が疑問の目を向けた。このささやきは出雲にしか聞こえていない。
「明日、待ってるからー!」
明るく響く組葉の声に、出雲の背中がぞくりと震えた。
綺麗な女って、獰猛な奴が多い……。
「それでね、出雲ったらその女の人にみとれてたんだから!」
「ふうーん」
「バッ! 霄瀾! ウソつくな!!」
「それで、なんで私があんたの買ってきた着物着て、行かなきゃいけないわけ?」
「えーと、それはだな……」
宿屋にて。紫苑と合流した後の、今日一日の報告中に、出雲は口ごもった。まさか、紫苑が組葉に勝つためとは言えない。
そこで紫苑の肩に手をまわして、部屋の隅へ移動した。
「いいか、お前は霄瀾の“お母さん”役だぞ。一度も自分の母親のこと自慢したことのない子が、もし自慢できたら……、嬉しいだろ?」
「……」
紫苑は静止して、やがてこくりとうなずいた。
「わかったわ。いいとこあるじゃない、出雲」
「お? えーと、おう! まあな!」
これ以上他の話が出てこないように、出雲は素早く消灯し、霄瀾を真ん中にして、三人で川の字になって寝た。
翌日。組葉は持てる限りの眼力を放っていた。
目の前にいる女は、朱に桃色を混ぜた着物に、明るい黄色の帯を締めている。白から赤の濃淡の入った珊瑚の模様が、優しい鮮やかさを描き出している。
対する組葉も、花をふんだんにあしらった、白み掛かった薄い桃色の着物を着ている。
互いに、顔に化粧をしていた。
「……」
まさか化粧までしてくれるとは思っていなかったので、出雲は紫苑の顔をまじまじと眺めた。
やはり見立て通り、組葉は、顔は綺麗だけれども未完成な部分があり、心も体も強烈に強い紫苑には、到底太刀打ちできなかった。顔だけでなく、中から滲み出る、言葉にできないものが違うのだ。信念、と言っても言い尽くせないものだ。
これが人生経験の差か、と感銘を受ける出雲を他所に、組葉が炎の燃え盛る口元をゆるりと吊り上げた。
「ようこそ、先生。ぜひ母を診てくださいな」
そのとき、母親がむせ返った。
「おっかさん! しっかりして!!」
組葉が母親の背中をさする。
「ゲホッ! ゲッ……組葉、ゴホッ! いつも、すまないね……」
「何言ってるの、おっかさんの病気は絶対治るから! どんな薬でも買ってくるから、頑張って!」
「お前にはオレたち家族がついてる! 安心しろ!」
父親は水差しを母親の口に宛行った。病人が多少落ち着く。
「でも、コホ、遊びたい盛りだろうに、私の看病ばかりさせて……」
「いいのよ、おっかさん。私、おっかさんといる方が幸せよ」
「組葉のことなら心配するな、母さん。きっと自分でいい人を見つけてくるよ」
父親の言葉に、組葉は出雲へ流し目を送った。
涙目で紫苑に助けを求める出雲を知っているかどうか定かではないが、紫苑は組葉の母親に、呪文の書かれた札をつけた。
「……反応はない。呪いではないようですね」
「たくさんの医者や呪術師に見せたわ。でも……みんな……!」
その後が言えずに、組葉は内側に食い込ませるように下唇を嚙んだ。
「(助かる見込みはない。よくて遅らせる程度)」
「彼ら」のセリフを紫苑は心の内で繰り返した。紫苑の癒しの術は、傷の修復に効くのであって、病気を起こす悪細胞を殺すことはできない。
「……残念ですが……」
そう口を開いたとたん、組葉が摑み掛かった。
「なによ!! 期待を持たせといて!! あんたも他の奴らと同じ!! 一つも解決できないくせに、高いお金払わせて!! 無能!! 詐欺師!! 人で無し!!」
紫苑は組葉を無表情に真正面から受け止めていた。
自分に面と向かって罵声を浴びせる人間が、新鮮だった。
紫苑はいつのまにか強い力で組葉を抱きしめていた。なぜそうしたのか、紫苑にもよくわからない。
だが、組葉のことを守りたいと思った。
紫苑は、相手に現実を突きつけるという手段しか持っていないけれど――。
「気休めなんかしないでよ!! バカ!! バカ!!」
紫苑を振り払い、組葉は家から飛び出していった。
「診察、ありがとうございました。お代です」
硬い表情で父親が包みを差し出した。
「いりません。それより、組葉さんがどこへ行ったかわかりますか」
紫苑たちが急いで組葉の跡を追った後、家の中には咳をする母親の音だけが響いた。
立仕町の大通りを、いつのまにか組葉は歩いていた。
美しく装った組葉を、男たちは振り返って見ていく。いつものことだった。
「なんとしても私を選ばせて……あの子も引き取れば……」
組葉の頭の中は、母親のことで一杯だった。貧乏だったけど、食べるものも着るものも、なんでも真っ先に組葉に譲ってくれた母。組葉が恥ずかしい思いをしないように、内緒のへそくりで、いつも小さい綺麗な櫛を買ってくれた母。
「おっかさん……死んじゃやだ……、私、まだ一つも恩返ししてないよ……!」
組葉の目尻に涙が込み上げてきたとき、女の手がすっとそれをぬぐった。
「!! あんた……!!」
紫苑だった。しかし、無表情である。
「現実を受け入れろとでも、言いに来たの!? 私は、おっかさんが元気になる現実しか、認めないわ!! 藪医者は帰――」
そこまで言って、組葉は考え直した。
「……ねえ、せっかくだから二人で賭けをしない? 私とあんた、どっちが多くの男を惚れさせるか勝負するの。あんたが勝ったら診察代を二倍払うわ。でも負けたら――」
組葉の目が刃物に当てた光のように光った。
「旦那と子供を貰うわ。いい男はきれいな女といるべきだし、ああ、安心して、子供はおっかさんの病気を治せそうだから、一生大事にしてあげるわ」
一方的に告げて、組葉は大通りの両脇に等間隔に植わっている木々を指し示した。
「あの木に沿って歩くこと。右があんた、左が私。最後に振り返ったとき、こちらを見ていた男の数で勝負。じゃ、始め!」
組葉はさっさと大通りの左側へ行ってしまった。紫苑も右側へついた。
「な……、何始めてんだよ!!」
人混みで二人のもとに辿り着けない、視覚と聴覚に優れた式神の出雲は、霄瀾の手をしっかりと握り締めた。主の命令に全て従うつもりはないし、紫苑にも何か考えがあってのことと信じたい。紫苑は絶対自分を「道具」にしないと必死に言い聞かせながら、とにかく、男の数を水増しされたら敵わないので、出雲は組葉の方を数えようと思った。
組葉は笑顔を見せ、女の子らしい内股の軽やかな足取りで男たちに手など振っている。当然、男たちは「オレは特別」だと思い込んで、跡を追い掛ける。
一方紫苑は無表情で、硬い宝石のような美貌で静かに歩いている。その美しさにはっとする者は迷わず振り返るが、残念ながら、振り撒こうとする愛嬌が足りない。
「紫苑! もっとこう……その完璧な顔で愛想よくできないのか!」
と言ったら殺されそうなので、その一言は胸に仕舞っておいて、出雲はハラハラしながら二人の跡を追った。
その間にも、組葉を追う男は増え続けた。ついに大通りの端まで到達したとき、組葉と紫苑は同時に振り返った。出雲は天を仰いだ。
「……! 勝った!!」
組葉の後に続く男たちの方が、圧倒的に多かった。紫苑の方は、近寄りがたい美しさからか、男は疎らだった。
「やったわ!! 二人は私のものよ!!」
組葉が叫んだそのとき、
「ああっ!! スリにやられた!!」
大通りの中ほどで、男の悲鳴が上がった。
人々が騒然としたとき、紫苑が一際大きな声を放った。
「皆の者! 我は白き炎と剣の舞姫! 我を崇めぬ者には死をくれてやるぞ! 死にたくなくば、この白銀の刃、聢と目に焼きつけい!!」
紫苑が双剣を抜き放つと、剣圧が大通りを襲った。人々は戦き、一瞬全員が静止した。
……かに見えた。
剣圧の風に紛れて、大通りから脇へ逃れようと動く人影を、紫苑は見逃さなかった。
「出雲!!」
紫苑に呼ばれるより早く、出雲は大股で走り出し、街路樹の上を跳ぶと、人影の背中に膝を押しつけ、両手を捻り上げた。
懐から財布を食み出させていたのは――。
「――あんた! 組葉の父親!」
出雲は息を呑んだ。組み敷かれていたのは、中年の男、組葉の父親。出雲から顔を背けている。
全てがぴたりと組み合わさって、言葉が出なかった。組葉の豪華な衣装、大通りの装った女、それを必ず利用するスリ、母親の無尽蔵の薬。
こんなことになって、この一家は――と出雲が手の力を一瞬抜いてしまいそうになったとき、近くを巡回していた警備兵二人が、飛んできた。
「ついにスリを捕まえたか! 協力、感謝する!」
「え、あ……」
警備兵たちは出雲の手から男の身柄を引き起こし、さっと縄を巻いてしまった。
そのまま人々の視線の中、大通りを連れられていく父親に、財布を掏られた者たちが、憎しみと恨みを込めて摑み掛かろうとしている。もう一人の警備兵がそれを追い払っていた。
出雲はただ一つ願っていた。
組葉、頼むから言わないでくれ――!
振り返ったとき、組葉と紫苑の姿はなかった。
「私さえ病気が治れば、元の貧乏に戻ってもやっていけると思っておりました」
組葉の母親が上着を着られるだけ着た。
「お金は、治ってから返すつもりでした」
組葉が、母親を背負えるように、自分の背に母をしっかり縄で縛りつけた。
「おっかさん、最後にこの家の中、見ておこう。きっともう二度と見られないだろうから」
「本当に、三人でいろいろあったねえ」
母と娘は家の中をゆっくりと眺め回した。
組葉が、その間終始無言の紫苑に目を留めた。
「大丈夫よ。逃げないから」
組葉は目を伏せた。
「おっかさんを置いてなんて、行けないもの。……さ、行こうか、おっかさん」
組葉は母親を背負って立ち上がった。
家を出たとき、「そういえば」と組葉が思い出したように振り返った。
「あの勝負、私の勝ちよね?」
しかし紫苑は首を振った。
「いいや。私の名乗りで大通りの者は皆私を見た。私の勝ちだ」
「えー!? あんなの狡いよ!!」
組葉は一人で涙を流して笑った。
そして出発しようとしたとき、出雲が霄瀾を抱えて素っ飛んできた。
「二人とも……どこへ行くつもりだ?」
顔が凍りつく出雲に紫苑が告げた。
「組葉と母親はこれから警備兵のもとに出頭する。スリの片棒を担ぎ、スリを煽った罪でな」
出雲は母親を見た。襤褸を重ね着し、瘠せ細っていて、とても差し入れのない劣悪な環境の病人牢で、生き延びられるとは思えない。
つまり、今日が母と娘で会っていられる、最後の日なのだ。
「お前たち、本当にそれでいいのかよ! 今ならまだ間に合う――」
紫苑の前で言いかけて、出雲はギクリとした。しかも、その後何を言おうとしたのかも分からない。
それでも組葉は、一度も出雲に目を合わせなかった。合わせられなかったのだ。
「(犯罪は人並みの幸せ、美しさ、恋、すべてを台無しにする。この女は、私とある意味似ている……)」
そう思いながら、紫苑は組葉と母親を見つめた。紫苑には、この家族を斬れなかった。財布を掏られた男たちは皆、組葉を見て楽しんだからだ。先に踏みにじられたから、復讐し返したのだ。紫苑に今できることは、組葉と出雲の間に立つことだけだった。
「さ、行こう、おっかさん。おとっつぁん一人じゃ、かわいそう」
「そうだね、組葉。みんなで一緒にいよう」
組葉が歩き始めたとき、出雲は母親に言ってやりたいことが山程あった。
自分にも子供にも寿命を受け入れることを教えずに、家の者みんな巻き込んで、自分が助かるために盗みをさせるなんて! 娘の人生がこれからどうなるか、殆ど決まってしまったんだぞ! どう責任取るんだよ! 大切な家族なら、なんでバラバラになること、したんだよー!!
そう責めようとしたとき、母親の眼がじっと出雲を見ているのに、出雲は気がついた。
それは、恨みの眼。
お前のせいで私の幸せな家庭が壊された。
夫を逃がしてくれていたら、親子三人、これからも仲良く支えあっていけたのに。
人殺し。
私は獄中死するだろうし、夫は生きて出られるかわからないほどの長い牢屋住まい、娘はいい縁談がきっと決まらない。
人殺し。善人ぶって、人の小さな幸せぶち壊すのが、そんなに楽しいか!
その眼の放った全てが、出雲の心を刺し貫いた。
「な……なんだよ……」
出雲は痛みに呼吸を早めた。
「自分の家族を使って、自分のために盗みをさせて! なのになんで平気でそんなこと思えるんだよ! まるで咎もない家族の幸せを奪ったかのように、なぜオレをそんな眼で責めることができるんだァーッ!!」
出雲は絶叫して、両膝から落ち顔を覆った。
「もういやだ! 悪が善を踏みつけにする世界! こんな世界……生きていたくない! ならオレは一体何のためにこんな傷つけられる世界で生きていくんだァーッ!!」
「自分のために生きなさい!!」
夕陽を背に紫苑の左手が出雲の後ろから、出雲の右肩にのせられた。
「あなたは傷つけられるためにいるんじゃない。自分が正しいと思うことをするために生きている! 誰にも左右されるな!」
出雲は視線を紫苑にゆっくり向けた。紫苑が言い続けた。
「一人で苦しむことはやめなさい。あなたを理解してくれる人と共に生きなさい。きっとこの世界で避けられない痛みも薄らぐはずだから」
「……ならもういい」
出雲は目をきつく閉じ、紫苑の胸に顔を預け、涙を一筋流した。
「オレにはお前がいる……!!」
この硝子のように繊細で脆い彼を心ない針から守れるのは、結晶のように硬い心の私だけ。
「あなたは私が守る」
「ああ……おかしいな」
出雲は熱い水滴を流しながら呟いた。
「人を殺さなければいつかお前を救えると思っていたのに、オレの方が傷ついてしまった。おかしいな……殺すのが……」
正解だったのかな。その呟きはもう誰にも聞こえなかった。
母と娘は、既に去った後だった。
出雲にはもう、人間がわからなくなっていた。
追い剝ぎの首領の卑怯さと、組葉の母親の身勝手さが、嫌でも鮮明に甦る。
この連中と殺さずに関わることは、精神の摩耗以上に、人間への信頼をズタズタにされることに等しい。それは、精神の死とも言えるものだ。
殺して解決する紫苑を見たせいで、今まで人の命を守ることばかり考えてきたが、その思考は、今、出雲の中で、人間への不信によって相殺されている。
人間は、自分以外の人間がどうなっても構わない利己主義者だ。他人の人生を踏みにじり、操り、自分の思い通りにならないと周囲を逆恨みする、他の生命体にとって迷惑な存在だ。
殺すべきなのかもしれない。生かしても破壊と殺戮を振り撒くだけなのだから。
何より巻き込まれたオレの心を刺した! この不条理、絶対に許せない!!
出雲の人間不信は、明確な怒気に変わった。
攻撃されて腹を立てない人間はいない。
ああ、こうしてあの人は剣姫になって、いろいろなことを考え抜いたのかな、と、出雲はおぼろげに思った。
しかし、人間を手に掛けるのは、まだ躊躇いが残る。かといって、この傷つけられた心を未だ癒せないし、これからも救おうとする者に傷つけられるのだ。
鉛の塊が、消化しきれずに胃に溜まったように思えた。ひどく重く、鈍い憂鬱さを与える。
出雲は、人間を信じるのを、やめたかった。