梅橋百鬼夜行第四章「神楽舞の子供たち」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある、赤ノ宮の名字を改めた九字紫苑。強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者、紫苑と結婚している露雩。
紫苑の炎の式神・出雲。神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾。帝の一人娘で、神器の鏡・海月と、神器の聖弓・六薙またの名を弦楽器の神器・聖紋弦の使い手・空竜姫。聖水「閼伽」を出せる、「魔族王」であり格闘家の青年で、はちまきの神器・淵泉の器の持ち主の、「金気」を司る白虎神に認められし者・閼嵐。輪の神器・楽宝円を持ち、「木気」を司る青龍神に認められた、忍の者・霧府麻沚芭。人形師の下与芯によって人喪志国の開奈姫に似せて作られた、槍使いの人形機械・氷雨。
麒麟神殿の祝女の一族、砂津砂津と由曜夫婦。田野花と景矢夫婦とその子供、友元と割満。季里四と健土夫婦とその子供、地新奈と秀地。
「この世界の王にして、神」と自称し、「寒雨教」を作り宗教軍隊を組織している寒雨。
第四章 神楽舞の子供たち
男装紫苑たちは、細く曲がりくねった道が五つ並んでいる、開けた広場にいた。後ろに土の坂がある。地下三階へ降りて来たのだ。
「寒雨の宗教兵を、本拠地の雄首山の中で全滅させるとは、思い切ったことをしましたね」
曲がりくねった道を塞ぐように、十人の男女が立った。
二人の白髪の老男女、顔の似たしもぶくれに丸眉の四十代の女二人に、それぞれの夫と思われる四十代の者たち、そして、十代の男女が二人ずつだ。
「あなた方は?」
男装紫苑に、足まで隠す茶色の上着を着て、ふさふさの白髪を頭の上で一つにまとめている老女は、深々と頭を下げた。
「まことに失礼ながら、あなた方が寒雨教とどういう経緯があってこうなりましたのか、お聞かせ願えませんか」
寒雨教から助けてくれたのだし、敵ではないだろう。男装紫苑たちは、寒雨教との関係を、順を追って説明した。
老女が一礼した。
「詮索したことをお許しください。私どもの背負うものも大きいのです」
「母上、この方々はお話しても……」
四十代の女二人が、老女に囁いた。姉妹のようである。
女が主導権を握る一族のようで、夫の老人と四十代の男二人は黙って控えている。
「自己紹介いたしましょう。私は砂津砂津。これは私の夫、由曜」
老女が、自分とおそろいの茶色く長い上着を着ている老人に顔を向けた。顔の彫りが深い由曜が、二重の目を光らせて、一礼する。
「これは私の二人の娘、姉の田野花と妹の季里四」
てきぱきと紹介する砂津砂津に合わせて、黄色地に赤い巻物を散らした柄の着物を着た娘二人も、のっぺりとした顔で目だけは鋭く、きびきびとお辞儀をした。
「これは姉の夫、景矢。これは妹の夫、健土」
景矢は細い骨が浮き出て、やせている。健土は骨が筋肉を駆逐しているかのように盛り上がっていた。
「これは田野花の子供、兄が友元。妹が割満。これは季里四の子供、姉が地新奈。弟が秀地」
友元は十七、八歳頃の色黒で、骨が歩いているように長く細い手足をすらりと伸ばして、姿勢がいい。
割満は十二、三才頃で、横に長い顔をさらに広げるようなくしゃくしゃに伸びた短い髪に気を遣うことなく、赤い横縞織の帯に挟んだ木製の小さな蛙を、握ったりつまんだりしている。
地新奈は十五才の成人頃で、髪に花を挿し、三つ編みを頭に飾り、化粧も人目を引く、華やかな黄桃色の花柄の着物を着た、美人であった。腰に手を当ててこちらを見ている鋭い目つきは、祖母の砂津砂津に似ている。
秀地は十四、五才頃で、たれ目で二重の、かわいらしい顔立ちをしていた。髪はあちこちに小さくはねているが、全体的に頭の形に沿って、まとまっている。
女出雲は、完全に若者らしい美を体現した地新奈を見たとき、胸が痛んだ。
「(剣姫でなかったら、紫苑が歩いていたはずの道だ)」
誰からも愛され、恋愛の危ない橋を渡り、流行の着物を着て、装飾品でおしゃれをして、羨望の眼差を浴びるため、きわどい着方で大通りへ繰り出す――同じ目的を持った友達と。
一度しかない人生で、若いときくらいちやほやされて、異性の目を軒並奪ってみたかっただろうな。
紫苑には、それができる美貌があったのだから――。
地新奈を直視するのに胸が痛む女出雲は、自然と男装紫苑の視線を追った。顔を歪めているなら、自分が盾にならなければ。
しかし、男装紫苑は目と口を丸くして、驚いた様子で子供たち四人を見ていた。
「ん? 何がそんなに気になるの?」
女出雲が怪訝そうに眉を歪めたとき、
「神楽舞のみんなだよね!?」
男装紫苑が叫んだ。十人は、顔を見合わせた。
女露雩には、すぐにわかった。二人きりの夜に紫苑が話してくれた、紫苑が子供の頃唯一友達になって遊んだ人たちのことだ。
彼らのおかげで、どんなに人に絶望しても、最後の最後に再び人を信じられるのだと、紫苑は言ったのだ――。
「失礼ですが、どちらのご出身ですか」
男装紫苑は、質問されて気がついた。九字と名乗り、男装もしていて、相手が気がつくはずもない。
「赤ノ宮神社の娘『でした』」
「そうですか……赤ノ宮神社には確かに参りました。あのときのお嬢さんが、ずいぶん見違えましたね……」
砂津砂津は大いなる誤解のもとに、男装紫苑との再会に挨拶した。子供たち四人は驚きに声も出なかった。
「皆さんは、各地の神社をまわっていらっしゃいましたね。寒雨と何か関係があるのですか?」
「……その通りです……」
砂津砂津は、地べたに腰をおろした。一族もそれにならった。男装紫苑たちも腰を地面に落ち着けた。砂津砂津が尋ねた。
「みなさんは、四神をご存知でしょうか。北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎です」
八人がうなずくと、砂津砂津は声を潜めた。
「では、隠された五番目の神は?」
五行とは、木火土金水の力のことである。玄武に水気、青龍に木気、朱雀に火気、白虎に金気。残った土気が宙に浮く。
「実は、土気にも隠された神がいるのです。それが黄龍、またの名を麒麟といいます」
四神が四方を守るのに対して、麒麟は中央を守る。姿は鹿の体のようで、顔は龍のように彫りが深い。
「私どもは、麒麟神殿を守る、麒麟神の祝女の一族なのです」
よどみなく、はっきりと、砂津砂津が告げた。
「麒麟神殿!? 隠された神!?」
一同に激震が走った。神器の歴史では、神のうちでは四方を守る四神のみが、神剣と加護を与えうるとある。
麒麟神が第五の神で、十二種の大神器の一つとして神剣を持つのであれば、星方陣を成そうとする者はその存在に気づかず、失敗する可能性が非常に高い。
「十二種の大神器のうち五種の神器は、この五神の剣なの? お父様でさえ知らないわ。百年前に赤ノ宮綾千代がそれを知っていたら、もっといろいろ組み合わせを思いついたかも……」
帝の娘が顔を強張らせた。
「各種族の最高祭司にすら秘密にされているのは、なぜだ?」
魔族王も恐い顔をして、老女の話の真実を、見抜こうとしている。
「希望というものは、求めたものにしか与えられないからです」
砂津砂津がすぐに答えた。
「神は、各種族の最高祭司すら、疑っておいででした。情報を多く持つ者は、それだけ選択肢を持ちます。神は、王の中に、野心を抱いて他種族を滅ぼそうとする、知識に溺れた者が現れることを疑ったのです。そこで、天から神器が降り下りた天降りの日、麒麟神は、密かにお隠れになったのです。
貪りそのものの欲望を、神はお赦しになりません。もし努力なく欲をかなえるために星方陣を成そうとする者が現れたとき、麒麟神はその者には見えません。欲にくらむ目のために、神の存在が自業自得で打ち消されるのです。世界のことを心から考えた者にだけ、神は道をお創りになります。神の偉大な力・星方陣は、そのときこそ、使われるにふさわしいからです」
玄武・白虎・青龍の三柱が『下層階に呼ばれている』と言ったのは、四神と同じ神・麒麟神がいたからだったのだ。
「あなたのおっしゃる『希望』とは、神にとっての『希望』……」
男装紫苑に、老女はすっとうなずいた。
「神にとっての希望は、世界にとっての希望でもあります。神は、正しい希望を持つ者を、ずっと待っていらっしゃいました」
ここで初めて、砂津砂津が下唇を嚙んで言葉を乱した。
「寒雨のクソめが、滅茶苦茶にするまで……!!」
「麒麟神に何があったのですか」
砂津砂津は悔しそうに地下三階の広場の壁と天井をぐるりと見回した。
「この雄首山の中は、もともと麒麟神と麒麟神殿が隠されていた場所でした。麒麟神の祝女である私とその家族以外、誰にも知られていない聖地でした。
ところが、十五年前、突然寒雨と名乗る者の入った四角い御簾が山の中に現れて、私どもに戦いを仕掛けてきたのです。麒麟神の一撃にも耐える、とてつもない敵でした。神剣が神殿の中にある限り、麒麟神殿からお出ましになれない神は、防戦一方でした。
寒雨はこの山の中を麒麟神が維持しているのをなぜか知っていて、この地下三階に迷路を作って、神殿ごと麒麟神を閉じこめてしまいました。その後、この山は寒雨の本拠地になり、命を安らげる聖地とは真逆である、命を害する魔地になってしまったのです。寒雨教の者が麒麟神を外に連れ出し、寒雨と戦ってくれるわけがありません。私どもは麒麟神のお力でできた、山の外への抜け穴を通り、各地の神社をまわって、麒麟神殿に祝女として捧げる清めの塩をいただく傍ら、麒麟神に認められそうな者を探して、神のご意志に背きますが、声をかけていたのです。神の試練に耐えられそうな精神を修養した者は、神職に多いと考えましたので」
その、まわったうちの一つが、赤ノ宮神社だったのだ。しかし、
「麒麟神殿が、ここにあるのですね」
男装紫苑が身を乗り出した。それこそが、肝心であった。
「これまで誰一人、麒麟神に認められた者はおりませんでした。なかには、幻の五番目の神の存在を疑い、断る方々もいました。……山を潰せば、麒麟神殿が破壊され、麒麟神は次の鎮まる地を探すために自由になり、寒雨と対決することもできました。しかし、寒雨信徒に何の教訓も与えないまま一瞬で葬ることは、神にはできませんでした。神は寒雨信徒ですら、改心の機会を与えようとお考えになっていたのです。神は今も辛抱強くお待ちです。自力で神にたどり着く者が現れるのを……」
男装紫苑の心は即座に決まった。
「私に試練を受けさせてください」
「オレがやる」
男装紫苑と同時に言った者があった。
「――出雲!」
女出雲と目が合った。男装紫苑を見る目は、笑っていなかった。
「紫苑、オレに行かせてくれ。神の望みに応えてみせる」
出雲は、強い口調だ。
「私も、神の前に出るときの言葉は持っているつもりよ」
紫苑も、強い口調だ。
「オレはきっと失敗しない」
出雲は、神の加護を得た力で早く露雩と対等になり、剣姫紫苑の目の前に出たいと焦っている。
「出雲。私、譲らないわよ」
紫苑は、八人中最も弱い自分が足手まといになってはならないので、必死である。
二人同時に試練を受けることはできない。一方が成功したら、もう一方が失敗するかもしれないからだ。二人が神の問いに同じ答えを返す確率は、極めて低い。この世に完全に同じ思考を持つ人間が二人といないように、一つのことに対して細部まで同じことを答えられる人間も、ほぼいないであろう。どれが神の怒りに触れるか人間にわからない以上、異なる答えを出す仲間が二人、同じ神の試練に挑むのは避けるのが賢明である。
紫苑と出雲が初めて睨みあっていると、砂津砂津が口を挟んだ。
「あなたは、どなたの式神ですか?」
戦いを見ていたのか、女出雲に尋ねた。
「……紫苑です」
「主を殺す式神がありますか」
すぱっと言った。
「式神の力が主を超えれば、主は死にます。ご存知ないのですか」
砂津砂津にすぱすぱ言われて、女出雲は口ごもった。
「麒麟神に、命を補っていただけないかと思って……」
「あなたの力は火気でしょう。土気の力は滞りますよ」
女出雲は、黙ってしまった。
「出雲、今回は私に任せて。私を助けると思って」
男装紫苑に優しく言われて、女出雲はつい女のように主を上目遣いで見た。
「口づけしてくれたら、言うこと聞いてあげる」
「おふぁっ!?」
男装紫苑がのけぞった。
「なんでそうなる!?」
女出雲はすねて口を横に尖らせた。
「私の大切なものあげたのよ。それくらいしてくれなくちゃ、割に合わないのよ」
そして満面の笑みで男装紫苑の両肩をつかむと、唇を近づける。
「ほら、女同士だし、何も考えず気楽にいこう!」
「考えるだろっ!!」
女露雩の手刀が女出雲の真横の首に入った。
「あんたうちの亭主に何しようとしてるのよ! いいかげん諦めなさいよこの女々(めめ)女! いつまでもつきまとう気なら……」
女露雩がくわっと男装紫苑に目を剝いた。
「あんたの目の前で、全人類に末代まで語り継がれる口づけを、紫苑にしてやるー!」
「わはァーどうする気だ待て落ち着け人前はやめいー!!」
男装紫苑が必死に夫の手に抵抗する。
その一瞬を突くように、小さな虫が、男装紫苑の頬に激突した。
「えっ!?」
慌てて触れるも、何もなかった。
「えっ!?」
他の面々は、頬に目が釘づけだった。
男装紫苑の頬に、『恋』の字が黒く書かれていた。
「虫は言霊だったのですね。術者があなたに飛ばしたのでしょう。地下三階にたどり着いたということは、その者にも私たちの居場所が知れました。しかし、困りましたね。この『恋』の言霊は……」
砂津砂津の言葉が終わらないうちに、男装紫苑が大熱狂で叫んだ。
「この世の命はみーんな俺の魅力にひれ伏せー!!」
ひゃっほうへーいと無意味な歓声をあげている。
「男も女も好きになる媚薬の効果があります。呪いの一つですね」
砂津砂津がさっさと言ってのけた。
「どうするんですかこの状態! とても麒麟神の試練に合格するとは思えませんよ!?」
女露雩は、他の恋敵が男装紫苑に近づかないよう、両手を広げて走り回った。
「言霊を破るには、その言霊を克服することです」
砂津砂津が『恋』の字を指差した。
「紫苑にたった一人への『恋』をさせればいいんです」
それを聞いたとたん、マシハが躍り出た。
「紫苑! かっこいい女の子とかわいい男の子が結ばれるときが遂に来たのね! この日がきっと来ると、信じていたわ!」
かつらの長い髪をふんわり翻しながら、片足をくねっと曲げて、両手を傾けた頬に当てて、必殺の男殺し体勢をとった。
「へえ……かわいいじゃねえか」
男装紫苑も目を引かれた。
「かわいがってやるぜ!」
顎を軽く持ち上げられ、マシハは幸せに両手で両頬をおさえた。
「きゃあっ☆」
「ナニシテンダー!!」
女露雩が思いきり二人を引きはがした。
「どいて露雩! わたしに乗り換えてもらう好機は今しかないのよ!!」
「紫苑の夫に堂々と言うな!!」
マシハと女露雩が頬を引っ張りあっていると、男装紫苑は獅子閼嵐を見つけた。
「ふうん……俺に調教されたいって顔してるな」
鼻と鼻がくっついて、獅子閼嵐は大いに体勢を崩し、両腕を大きく振り回してようやく尻もちをつくのを免れた。
「いいいやだ姉ちゃんみたいに殴らないでそそそれとも何かご褒美くれうわわあいいいやいやいやだ」
恐怖と男装紫苑の美しい色目に心底震えている。
「なんだ体の割に。こういうことは初めてか? じゃあ、俺が優しく教えてやるよ」
頬から頭のてっぺんまで覆うように、男装紫苑のてのひらが獅子閼嵐に置かれる。獅子閼嵐は一度びくっとして、次いで心臓だけがどくどくしている。
ずっと待っていた。
彼女の方から、自分の固い殻を壊してくれるのを――。
抵抗せずされるがままになろうとしている獅子閼嵐の耳の男装紫苑の手を、つねりあげた者があった。
「あんたねえ! 夫がいる身で何やってんの!」
男空竜であった。
「閼嵐みたいな純粋な人で遊んだら、怒るわよ!」
獅子閼嵐は耳まで真っ赤にして、呆然とどこか遠くを見ている。
ところが男装紫苑は、人差し指の先を男空竜の唇に軽く触れて突きつけた。下から見上げるように不敬に笑っている。
「ふまっ、ま、まっ」
男空竜が唇の感触に気が動転していると、男装紫苑がおしおきをやめるように唇を解放した。
「お姫様には特別ないいことしてやるよ」
「~~!!」
人生で言われたこともないセリフに、男空竜は目だけ白くて顔じゅうが真っ赤になって、倒れそうになった。
「露雩!! 助けてー!!」
「女の空竜さえも攻撃を防げなかったとは! なんと恐ろしい男装舞姫……!!」
「なってないよ」
ほぼ全員紫苑に恋しうると知って女露雩が頭を抱えるのを、傍観する少女霄瀾がやっとそれだけ言葉をかけた。
男氷雨が何かを差し出した。
「露雩……私はこれしか助言ができない」
男装紫苑の周りで女出雲、獅子閼嵐、マシハが押しあいへしあいしている。
「紫苑! 口づけしてくれないなら、私の方からしちゃうぞ!」
「つつ続きは!? さっきの続きはどうなるの!? わからないよっ!」
「マシハはなんでも望みをかなえてあげるゾっ! わたしにしておくのが正解だゾっ!」
男装紫苑はその様子を余裕で眺めている。
「ふっ……美しいものは永遠に見ていても飽きないものだ。しかし一人をじっくり眺めよう。お前を隅々まで知りたい」
「「「えっ!? どの子!?」」」
三人が合唱したとき、
「安心しろ。一日に一人ずぶおっ!!」
男装紫苑の首に鎖が巻かれ、男装紫苑は体ごと後ろに引っ張られた。
「お遊びは、私を通してね!」
女露雩が飛び出す猟犬を押さえつけるように、ぴんと張った鎖をつかんでいた。
「私の主人の下与芯様は、言うことを聞かない相手にはこれを使うようにと私に教えてくださった」
男氷雨に男装紫苑が上を向いて歯を食いしばった。
「女になんてこと教えやがるんだ……!」
「あなた? ようくお聞きなさい」
鎖に吊られている男装紫苑の顔を、女露雩が上から逆さにのぞきこんだ。
「この鎖、これからも他の人に持たせようとしたらおしおきだから」
凄味で目が光っている人の顔に震え上がったのは、紫苑にとって初めてのことでございました。
「え、えーとですね、俺が相手に翻弄されなければいいのでしょうか?」
斜めに体を向けて、おそるおそる鎖を握る男装紫苑の顔を、女露雩は自分の真正面にひねった。
「もう! あんまり女の子たぶらかしてたら、オレがお前を女にしちゃうからな!」
いつかのお返しとばかりに、言ってやった。
紫苑の口が開いて歯がそろっているのが見えたが、彼女は呼吸していなかった。
時が止まった妻の様子を見て、夫の方も自分が何か重大なことを言ったのではないかと動きを停止して思考した。
「うーん……?」
夫の思考には、未だすべての知識はなかった。
しかし、どうやら知識があったらしい妻は、目がぐるぐる回ったかと思うと、夫に抱きかかえられて倒れこんだ。
『恋』の文字が消えていた。
「おやまあ。たった一人に恋したのね」
砂津砂津にあっさり言われて、女出雲たちは、ああーと地面にがっくりとして膝をついたり両手をついたりした。
「さあ、追手が来る前に神殿へ参りましょう。地新奈、割満!」
砂津砂津の指示で二人の少女が迷路の前に立ち、拍手を打ちながら叫んだ。
「祓え給い 清め給え 神ながら 守り給え 幸え給え!」
現在の麒麟神の祝女が、麒麟神の力を呼び、迷路のうち麒麟神殿へ通じる道の発光植物を、神の力で強く光らせていく。
「さあ、光る道を走って! 私どもが神殿に到着するまで、この道は光り続けます、追手も迷わず来ます!」
地下二階へ続く坂道に足音が聞こえてきた。
一同は、全速力で走り出した。
「おい秀地。月日は流れたなあ」
田野花の長男・友元が、季里四の長男・秀地に嘆息した。
「うん……。まさか男になってるなんてね……」
秀地も男装の赤い髪の美人を後ろから見ながら残念そうに呟いた。
「結婚したんだ……」
幼い頃の友達が、文字通り遠くへ走り去っていってしまった感覚を今、味わっていた。
「霄瀾君、水鏡の調べを持っているのか。四神の曲を集めているかい? 麒麟神にも曲があるよ」
姉妹の夫の景矢と健土が、走りながら少女霄瀾の隣に来た。
「えっほんとう!?」
「子供なら簡単かな」
二人が笑った。
「試練を受けないように神殿内で寝るだけだ」
「……え?」
子供に不安の陰を落としこむように、大人二人は子供の両脇で談笑しながら走っていた。




