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星方陣撃剣録  作者: 白雪
第一部 紅い玲瓏 第十一章 逆臣を討て
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逆臣を討て第四章「最後の分断」

登場人物

双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑あかのみや・しおん、強大な力を秘める瞳、星晶睛せいしょうせいの持ち主で、「水気」を司る玄武げんぶ神に認められし者、紫苑と結婚している露雩ろう

紫苑の炎の式神・出雲いずも、神器の竪琴・水鏡すいきょうの調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾しょうらん、帝の一人娘で、神器の鏡・海月かいげつと、神器の聖弓・六薙ろくなぎの使い手・空竜くりゅう姫。聖水「閼伽あか」を出せる、魔族の格闘家の青年で、はちまきの神器・淵泉えんせんうつわの持ち主で、「金気」を司る白虎びゃっこ神に認められし者・閼嵐あらん。輪の神器・楽宝円がくほうえんを持ち、「木気」を司る青龍せいりゅう神に認められた、忍の者・霧府麻沚芭きりふ・ましば

人形師の下与芯かよしんによって人喪志国ひともしこくの開奈姫に似せて作られた人形機械・氷雨ひさめ、靫石流に潜入していた霧府流の忍、加増かまし

 竜の体の一部を使って人間を操り、人族を滅ぼそうとする者・知葉我しるはが




第四章  最後の分断



 肉の塊が、次々と地面に落ちた。

「ゆ、靫石ゆぎいし流の幹部たちの術が、かないっ!?」

 靫石流の一人が、腰を抜かして震えた。

「やれやれ。神器を百四十個分も使っておいて、援軍をくれとは、さすがのわたしも呆れてものが言えないよ」

 暗がりの中から、知葉我しるはがの声がした。赤い二つの光が光っている。

「我々は同盟を結んだ! 危機の際に助力を乞うのは当然の権利だ!」

 一人が仲間の返り血を浴びた体で叫んだ。

「あんたたちみたいな愚か者に、かわいいわたしの手下をやれるかい。無駄死にさせるだけさ。靫石流はもうおしまいだから、今からこの里はわたしがもらうよ」

「ふ、ふざけるな!!」

 しかし、向かっていったすべての忍は、知葉我にたどり着く前に、肉塊になって地面に落下した。

 知葉我は、神器を奪われたことを一言もなじらない。

「竜の力を得た者は精神を侵される。かわいい手下でなく捨てていい靫石に十分に使わせたから、七十個の神器でさえもう用済みなのだ! 何という奴だ、次もまた靫石流のような集団を力で釣って、同じことを繰り返せるのだ! 悪党め……!!」

「帝を暗殺しようと動けるあんたらに言われたくないね」

 しわがれ声が笑うと、最後の靫石の忍も肉塊になった。


御方様おかたさまのおっしゃる通りに里の地図を考察しますと、知葉我は靫石の里から外れた大滝の上にいると思われます」

 加増かましが地面に、木の棒で里の全体図を描いた。

 里の中央が、さきほどまでいた偉具炉の館だ。

 大滝は、里の北東に位置している。奇襲した台地と、北回りでつながっていた。

「土地はそこそこ開けていまして、二千五百の兵も、多少森に分散すれば配置できます」

「知葉我にたどり着くには、やはり二千五百の魔族軍を倒さなければならないか……!」

 麻沚芭が地図を眺めて、必死に最短かつ無事に進める経路を割り出そうとしている。

「滝を登れないかしら」

「二十メートルはあります。とても姫様には……」

「でも、そんな所から来るとは思わないだろうから、魔物も周りにいないだろうな」

「あれっ? それって……」

 霄瀾が皆の注目を集めた。


 全員が大滝の下に集まっていた。

「この上に知葉我がいるのね」

 滝の瀑音(ばくおん・意味『滝の轟音ごうおん』)が響いている。一同は滝を見上げると、霄瀾に振り返った。

「じゃ、さっそく霄瀾――」

 そのとき、魔物が三体、一同の周囲を取り囲んだ。

「あぶねえあぶねえ、うっかり寝てたぜ!」

「一応見張っとけって知葉我様に言われたときは、こんな所に誰も来ねえよって思ったけど、本当に来るとは思わなかったぜ! こいつらこの滝登る気だぜ! バカじゃねえの?」

「とにかく、上に知らせとこうぜ。ほらよっ、信号弾だ!」

 紫苑たちが止めるより早く、魔物が花火を打ち上げた。滝の上でパアンと炸裂した。

「まずい!! 二千五百体がみんな降りてくるぞ!!」

「早くこいつらを倒して、作戦を練り直さないと!!」

 紫苑たちは焦って次々に武器を構えた。一行は、霄瀾の絶起音ぜっきおんで滝の上に行き、知葉我本体に奇襲をかける作戦であった。しかし動きを知られてしまった以上、もはやこのまま強行突破しても二千五百体とまともに戦うことになる。一旦隠れて、仕切り直さなくてはならない。

 空を飛ぶ脚長鳥の魔物には空竜と紫苑が、花一輪の盾を持つ二本草の魔物には出雲と麻沚芭が、指の第一関節のように上部の丸い、短いこけだらけの一メートルほどの高さの苔の魔物は、露雩と閼嵐が対峙した。

 霄瀾と氷雨は、滝の上から降りてくる二千五百体に備えての、見張り役になる。

ほのお雪舞ゆきまい!」

 雪のように丸い火の玉が脚長鳥の周りに無数に生じ、一点に収束して突進していった。しかし、紫苑の術を、脚長鳥の魔物は数発当たりながら高速上昇し、よけた。

「私の技は一直線すぎる……!」

 紫苑は扇にある父・万玻水よろはみの技を読んだ。

「よそ見するな女ぁ! 死ねええ!!」

 その脚長鳥を、空竜の六本の矢が刺し通した。

「空の敵は弓使いに任せなさい!」

「助けてくれてありがとう空竜。私もまだまだね」

「『神魔に並ぶ最強』が、なあに言ってるのよ! でも、私にもできること、私もするだけ! あなたに任せきりにしないからあ!」

 空竜は片目をつぶった。旅をるうち、いい顔になった。様々な場面に即座に対応できて、さらにその機転が頼れると思わせるような、顔だ――。

 しかし、紫苑はその良い想いにひたれなかった。剣姫でないときの自分は、弱すぎる――。

火空散かくうちる!!」

 出雲の炎球が五発、二本草の魔物に向かった。植物は火に弱いから、これで終わりだと出雲は思った。

 しかし、二本草の魔物は一輪の花の盾をかざした。火球が花のおしべに当たって砕けると、花から黄色い花粉が大量に飛び散った。

「ううっ!? なんだこ……れ……」

 その花粉を吸ったとたん、出雲の足から力が抜け、目が半分も開かなくなり、眠りについてしまった。

 誘眠効果のある花粉だったのだ。

青龍円曲せいりゅうえんきょく!!」

 麻沚芭の神剣・青龍から風の流れがほどばしり、龍のように回りくねった。一帯の空気を清浄に清め、花粉が吹き飛ばされていく。

「起きろ出雲! いつまで寝てんだ!」

「う……うーん……」

「わあっ! 紫苑が攻撃されて全裸になってるっ!」

「やめろー! オレ以外見るなああっ!!」

 出雲が背中から飛び上がった。

 麻沚芭と出雲は見つめ合った。

「……」

「……」

「かわいい奴め」

「うるせえっっ!!」

 出雲と麻沚芭がつかみ合っているところへ、二本草の魔物が花の盾を回し、花粉をき散らしながら突進してきた。

「青龍円曲!!」

 神剣・青龍の風が花の盾を包みこみ、花粉を盾の周囲に押しとどめた。

「なにっ!?」

 二本草の魔物が驚く頃には、出雲が横一線に刀をいでいた。

「空竜もだけど、お前、紫苑を使ってオレを起こすのやめろ! 心臓に悪い!」

「一番確実な方法しか戦場で使えねーだろ」

「なんだとう!?」

 二人は睨み合った。

 ぺったんぺったんと、吸盤の音をたてながら、黄緑色のこけの魔物が跳ねてくる。上部の丸い、円柱形の体は苔で覆われていて、逆三角形の緑色の目だけが二つ光っている。

 吸盤が地面に吸いついているときは、閼嵐が殴ってもびくともしない。そして、あまり効いていないかのように無反応であった。

 円柱苔の魔物を止める術がない。閼嵐と露雩は、吸盤が地面から離れている瞬間を狙おうと、二手に分かれた。

 円柱苔の魔物は、閼嵐に向かってきた。

「これならどうだ!」

 閼嵐は走り、木の幹に両手をかけ、地面と平行に回ると、その勢いのまま両足で敵に蹴りつけた。

 しかし、宙にいたはずの敵の吸盤が伸びて、地面にしっかり吸いついて、閼嵐の攻撃にも多少振動を帯びただけだった。

「両足でもだめなのか!?」

 驚く閼嵐の隙に乗じて、円柱苔魔物は吸盤を閼嵐の腕に吸いつけた。

「はっ、離れない!!」

 強すぎる接着力で、引きはがせば腕がもげるか、少なくとも皮膚がはがれるかと思えた。

 そして、敵は、閼嵐をがっちり押さえたところで、苔を閼嵐に吹きつけた。あっという間に、閼嵐が苔まみれになっていく。中が溶け出し、閼嵐を巻きこみ始めた。

「閼嵐!!」

 露雩が魔物に神剣・玄武げんぶを突き立てようとするも、まるで苔の衣に刃を立てているようで、魔物は涼しい顔をしている。

 閼嵐に神流剣しんりゅうけんの神水を出そうとしたとき、閼嵐が苔の塊を吸盤ごと弾いた。

 閼伽あかの水を全身に行き渡らせていた。

 円柱の魔物の再度の苔攻撃も、閼伽がすべて流していった。吸盤も、水面では役に立たない。

「よう」

 怒りに燃える目の二メートルの閼嵐が、一メートルの魔物を目だけで見下ろした。

「オレを溶かそうなんて、いい度胸してるじゃねえか」

 大きな筋肉質の手が、がしっと魔物の円柱を真上からつかんだ。

 持ち上げられてたまるかと、円柱苔の魔物は全ての吸盤を地面につけて、踏ん張った。

 魔物が持ち上げられることはなかった。だが。

「せいぜいがんばりやがれー!!」

 閼嵐の手は、そのまま、右方向にねじり回った。そしてその状態を左手で押さえ、右手はまた右方向にねじり回す……を繰り返した。

 魔物はねじ切れた。

「来たあ!! みんな逃げてー!!」

 霄瀾の絶叫が聞こえた。大滝の上から、二千五百体の軍勢がバラバラと降ってくる。

「みんな!! 走って!!」

 九人は全速力で駆け出した。だが、元動物の魔物は、人間より足が速い。

 先頭の魔物が、すぐ後ろに迫っている。

「うわああー!! 絶起音ぜっきおん!!」

 恐怖で混乱した霄瀾が、絶起音で九人全員を宙に飛ばした。魔物たちは驚きすくんでいる。しかし、魔物はどんどん集まってくる。

「ごめんなさい、囲まれちゃったよう……。どこに逃げても追いつかれて、おりたときにぜったい戦うことに……」

 霄瀾がしょげて、溢れ続ける魔族を見下ろしたとき、紫苑がはっとした。

「これでいいのよ、霄瀾!!」

 二千体くらい地上に集まったところで、魔物は増えなくなった。

「ようし!! 今よ!!」

 霄瀾たちは、紫苑のかけ声で、宙に浮いたまま、大滝の上へ向かった。

 地上の二千体は慌てた。今更いまさら大滝を登ろうにも、二十メートルもすぐに登れるわけがない。空を飛ぶ魔物は飛んで戻り、ひづめが発達している一部の魔物は、岩伝いに跳び上がっていった。

 残りは、大滝を登りきった順に、疲れたところを紫苑たちに殺されるのを避けるため、軍が一まとまりで行動できる案を選ぶしかなかった。つまり、靫石の里を、偉具炉の館、広場、台地、そして北回りに森、大滝へと、大きく迂回うかいして戦場に戻るという案であった。

 魔物たちは大慌てで、走り出した。

「でかしたわ霄瀾! これで魔族軍は五百とちょっと! 二千が走って来る前に、知葉我と戦うのよ!」

 紫苑が霄瀾を褒めた。知葉我さえ倒せば、魔族軍は散り散りになる。霄瀾は大滝の上の地で、照れたように竪琴を抱きすくめた。

 残った魔族軍五百は、驚きながら襲いかかってきた。即座に、霄瀾が竪琴を奏でた。『幻魔の調べ』が、霄瀾たちの幻を作る。

「魔族の攻撃は、これでしばらく防げるから!」

「ありがとう霄瀾! さあ、知葉我はこの先よ! 今のうちに森に隠れて、魔物をまくのよ!」

 紫苑たちは、方包決閉陣ほうほうけっぺいじんで閉じ込めた鏡によって、知葉我の正確な位置を捉えると、葉のびっしり茂る森の中を縫うようにして進んだ。

 一行は、大きな沼に出た。

「この先にいるわ」

「……敵から丸見えだな」

 紫苑の声を聞きながら、出雲が渋い顔をした。狙ってくれと言わんばかりの、遮蔽物しゃへいぶつのまったくない、だだっ広い土地だった。迂回している時間は惜しい。

「知葉我が、ここに何も仕掛けていないわけがない――」

 出雲が重ねて呟いたそのとき、突然、巨大な沼から何か丸いものが無数に出てきた。

 人間の頭だった。死んではいないらしく、苦しみの声をあげている。

「底無し沼なのか?」

 一歩近づいた出雲の前で、なまずの魔物が沼から顔を出した。ひげが無数にあって、一本につき一人ずつ、人間たちとつながっていた。

「今、こいつらで手一杯だから後で来い」

 鯰の魔物が沼に戻ろうとするそのひげを、慌てて出雲がつかんだ。

「待て! こいつらに何しやがった!」

 沼にいるのは老人・女・子供であった。老人が青灰色の頭巾をかぶっているのを見ると、皆、靫石流なのであろう。

 鯰は怒って睨み上げた。

「オレはこいつらの善心を吸い取ってるんだよ! オレを善で満たすためにな! こいつらが吸い尽くされて死ぬまで、待ちやがれ!」

「善心を吸う!? なんだそれは!!」

「オレは仙人になってすげえ力を手に入れてえんだよ! でも、体が善で満たされなきゃ開眼できねえ! だから人間の善心を片っ端から吸い取ることにしたんだ! 今日は大漁だぜ、道徳を一番心得てる老いぼれと、無邪気が一番溢れてるガキが、こんなに手に入ったんだからな! だから、今日はこいつらの吸収で、てんてこまいさ! お前らは後だ!」

 鯰の魔物は驚く出雲の手からするりと逃れると、沼に潜り、遠い対岸に顔を出して、吸収を始めた。無数の不協和音が沼から生じた。

「知葉我は靫石を見捨てて魔物のエサにしたのか……」

「……」

 麻沚芭は出雲に何も答えなかった。霧府の里を滅ぼした靫石流を魔族が代わりに片づけたのを、見届けていた。

 紫苑は別のことを考えていた。髪が怒りで逆立った。

「仙人に、他人の力でなるだと? 苦しみも知らず善の者になれると思うのか! 何も知らない愚かな者が、仙人として世の理の力を得る? 片腹痛いわッ! 人の真心を喰らう邪悪な魔物め、私が一刀のもとに切断してくれる!」

 鯰は怒鳴った。

「うるせえなあ! どのみちこの沼に入ればオレに吸われるんだよ! 静かにしてろ! 集中できねえだろ!」

 そして、楽しい吸収の時間に、身も心も戻っていった。

 剣姫は躊躇ちゅうちょせず、吸われている人々の頭を飛び石のように踏んで、沼を渡っていった。

「なんて禍々(まがまが)しい野郎だ!! 憐れみのひとかけらもないのか!!」

 鯰の方がたいそう驚いた。

 こんな奴を吸収してもろくな善心はないと思ったが、逆にこのような悪人と戦うことで、己の善心の力がどこまでたまったか確認できるのではないか、ということに思い当たった。

 そこで鯰の魔物は、剣姫から逃げずに戦うことを選んだ。

 そしてあっさり真っ二つになった。

 剣姫は沼を渡り切り、

「早く来い」

 と、振り返った。

「剣姫。よくここまで来たね」

 突然、剣姫の体に覆いかぶさるようなしわがれ声が響いた。

「お前さんの方包決閉陣ほうほうけっぺいじんを破るまで、まだ少しかかる。その沼で全員が渡るのを、苛々(いらいら)しながら待っているといいさ。その間に二千の兵も戻ってくるだろうしね」

 剣姫は焦った。仲間は、人の頭を踏んで来られないだろう。今動けるのは私しかいない。

「みんな! 私は先に知葉我と戦う! 後から来い!!」

 剣姫はそう言い残して、駆けて行ってしまった。

「ええっ!? 紫苑!?」

 慌てて皆も渡ろうとすると、小鬼の魔物が現れた。

「鯰の旦那が死んでも、この沼は相変わらず善心を吸い尽くしますよ。もともとこの沼が善心を吸うのであって、鯰の旦那は養分の吸収しかできません。自分の心も善心になっていくと、勝手に思っていただけですな。滑稽こっけいなことです」

「なんだお前は!」

 出雲に斬られそうになると、小鬼はヒッと短い悲鳴をあげた。

「わ、私は靫石流の頭に命じられて、この沼の管理人になっている者です! ここは靫石の里の処刑場。里の規律に背いた者が、鯰の旦那に吸い尽くされるところです」

 処刑場は逆に、攻めてきた敵への死の落とし穴にもなる。だから人間ではなく、何倍も目と鼻と耳がきく自分が管理人に選ばれたのだ、敵に素早く気づき、敵勢をうまく誘導する作戦を一分でも早く始められるからだ、と小鬼は胸を張った。

「で、どうすれば渡れるんだ」

 先に行った剣姫を気にしながら、出雲が苛々(いらいら)して先を促した。

「渡れるには渡れますけどね」

と、小鬼は靫石流の生死不明の人間たちを見下ろした。

「ここはね、早く渡れば吸い尽くされる前に向こうに着けるんですよ。最初は善心で満たされているから平野のように地面が固く感じられるほどです。でも、急がないで『怠けていると』、」

 小鬼のかげった顔にしわが寄った。

「抜けていった善心の代わりに、悪の塊が沼から心に入りこんで、その重みで沼に引きずりこまれてしまうんですよ。悪に足を取られて、前に進めなくなる――これから先もみんなと希望を持って生きていきたいという思いより、自分の欲望をかなえる悪を為したいという思いにかってしまうのですよ。ここにいる靫石流の人間たちは、善心の代わりに悪心が入りこみすぎて、みんな自分の欲望に負けて、幻想の世界に入っちゃっていましてね。そのうちその思考が体をむしばんで、沼の一部になります」

「なんでこんな場所が……!!」

「世界中に聖地があるように、魔地まちも世界中にあるということですよ。特に命が死ねば死ぬほど力も強くなりますね」

 あっさり言えるのは、人間ではないからなのであろうか。

「じゃ、がんばってください」

 小鬼は尻をついて座って、高みの見物を始めた。

「オレが行く」

 露雩が駆け出した。一刻も早く紫苑に追いつきたい。そのとき、足元で呻き声がした。

 死体の中に、生きている者が残っていた。

 放っておいてもいずれ衰弱死するだろう。

 ちらほらと、呻き声がした。

 放っておいてもいずれ衰弱死するだろう。

 愛する紫苑が心配だ。

 早くしなければ二千の兵が追いつく。

 麻沚芭の里は一人も助からなかったのだぞ。

 露雩は、近くの老人を、自分の善の論理を使って引き上げていた。老人がとらわれていた欲を、論理で潰したのだ。

「露雩!! 何してるんだ、早く行けっ!!」

 出雲が叫んだ。

「もう助からないとしても……『確実に死ぬ』という絶望を味わう罰を受けた以上、それ以降は、生きている間は何かしてあげたい。罰を受けた以上、最後の一秒で、ああ、いいことがあったなって思ってほしい。オレもいつかそう言って死にたいと思ってるから……」

 露雩の足は平野を歩いている如く、沼の上に立っている。その足で、一人、また一人と、引き抜いていく。

「露雩……」

 全員が見守る中、小鬼は手を叩いた。

「へえ、偉い偉い。でも……いつまで“善人”でいられるかなあ?」

 露雩の足元が沈み始めた。

 人々を引き抜く善の論理に集中して、自分を悪の論理から守る善の論理を、全く構築していないからであった。

 最後の人間を引き抜いたとき、遂に悪が露雩の中に入りこんできた。

 露雩は剣の舞姫をやめた紫苑と仲良く暮らしていた。出雲たちはいない。夫婦水入らずで、花畑には蝶が舞っている。

 今こそなんでもする好機だと、二人は花畑の中に倒れこんだ。露雩が紫苑に口づけしようとした。この口づけをすれば、もう元の二人には戻れない。頭のどこかでそんな歓喜と警告が鳴り響いた。そのとき。

 紫苑の瞳が冷たい氷のような眼差まなざしで露雩を射ていた。

 露雩は凍りついた。

 上体を起こして、後退あとずさる。

 紫苑が冷たい瞳のままゆっくりと起き上がった。

「わからんか? 露雩」

 立ち上がった紫苑が両手を伸ばした腰には、双剣が備わっていた。

「(剣の舞姫! オレを斬るつもりだ!!)」

 露雩が考えたのと同時に、紫苑が双剣をあっという間に引き抜いた。

「善を為さぬ貴様などに、興味などないわーッ!」

 露雩は紫苑の剣に引き裂かれ、

「わああーッ!!」

 と、絶叫したとき、気づくとそこは沼の中であった。

 出雲たちが、引き抜こうとしていた。

「気づいたか露雩!」

 露雩は、自分が欲望の中にいたことを一瞬で理解した。

「ありがとうみんな。もう大丈夫だ」

 露雩は自分を守る善の論理を構築した。

「世界のために……」

「嘘だ!? 沼から復活する人間がいるなんて!?」

 小鬼がたまげて、両手を背中より後ろの地面につけた。

 露雩は固い沼の地面をコンコンと蹴った。欲望が克服されたのだ。

 心の中で紫苑とすぐにも楽しく暮らしたいと思ってしまった。世界のく末を決めなければ、どこにも安住の地などないというのに……。

 剣の舞姫でなければ、紫苑は紫苑ではない。彼女の為すべきことに、自分の理想を押しつけては、紫苑の一生を台無しにすることになる。二人が自然なままで互いの使命を受け入れるのが、本物の愛だ。

「なのに夢の中でも……助けてくれたね」

 露雩は紫苑を想うと、沼を駆け抜けていった。出雲たちも続いた。


「知葉我!! どこだっ!!」

 剣姫は、岩や木がまばらにある草原に出た。

「うまく一人で来てくれたね剣姫」

「なにっ?」

 知葉我のしわがれ声が、風に乗ってやって来る。

「わたしはね、お前さんを一番、一人にしたかったのさ!」

 風が強まり、剣姫を殴りつけた。

「しまった!! 仲間と分断されたのか!!」

 剣姫は新しい作戦でなおこちらを封じる手が打てる知葉我の知能に、慄然りつぜんとした。


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