心は結実に伸びる第六章「青龍神殿」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者、紫苑と結婚している露雩。
紫苑の炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、帝の一人娘で、神器の鏡・海月と、神器の聖弓・六薙の使い手・空竜姫。聖水「閼伽」を出せる、魔族の格闘家の青年で、はちまきの神器・淵泉の器の持ち主で、「金気」を司る白虎神に認められし者・閼嵐。輪の神器・楽宝円を持つ忍の者・霧府麻沚芭。
反乱を起こした忍集団・靫石一派。
竜の体の一部を使って人間を操り、人族を滅ぼそうとする者・知葉我。
第六章 青龍神殿
カッカッ。
小気味良い音をたてて、手裏剣が鋭く幹に突き刺さった。
「すごい麻沚芭、深く刺さってる!」
「霄瀾もやってごらん」
「うん! えいっ」
カンッ、カンッ、カンッ。
三回とも、刺さらずに弾かれた。
「全然だめだあー。当たってるのにな」
霄瀾が下顎を伸ばしてため息をついた。
「素質はいいよ。この年で全部当てるのは難しいものだからね。刺さらないのは筋肉が絶対的に弱いことが原因だ。それはこれから鍛えればいい。でも、それだけじゃないんだ。当たった部分をよく見てごらん、霄瀾」
幹には、三箇所の傷がついていた。
「傷を一つにしなければいけないよ。幹にただ三回当てただけじゃ、敵には勝てない。投げ攻撃は間合が命。一撃で仕留めることはとても大切だ。相手の急所を正確に狙うための訓練をすること。それは、非力な今からでもできることだよ」
「はい、わかりました!」
麻沚芭は、手裏剣投げの訓練を霄瀾にしてやっていた。投げの先生である。
お互い、どんな人間なのかを知ろうともしている。
同じ三種の神器を持つ者として、特に気になるのである――。
その傍らで、そんな微妙な空気に対してなんら気を遣うこともなく、空竜が聖弓・六薙をどうにかして弾こうと格闘していた。
「弦楽器って!? 海月の矢で弾くのかなあ!? うーん、まだ私に心を開かないのね六薙!?」
思いきり弦をこすっているので、紫苑が慌てて止めた。
「力押しで神の力は借りられないわ。自分の中の何かが変わらないと」
「うーん……。でも、靫石の賊軍と戦うお父様をなるべくお助けしたいし、知葉我と遂に戦うと思うと、一つでも武器が多い方がいいと思うのお」
「神は意味のない力はお与えになりませんよ。敵を倒す力が欲しい人は、敵を倒した後にその力を何に使うかまで示せなければ、力に目醒めないのです」
紫苑は目を伏せた。
「力を先にもらって、あとから何に使うべきか気づく者もいますが……」
そこへ、灰色の鳩が麻沚芭の胸に飛びこんできた。
「おう、よしよし。お前は加増の鳩だな」
鳩は、麻沚芭の胸に頭をすり寄せ、クルック、クルック、と鳴いている。
「そのハト、なあに?」
霄瀾がよくなつく鳩を、うらやましそうに見上げた。
「靫石流に忍びこませてある、霧府の忍からの通信だ」
「霧府流は全滅したわけではないのか?」
閼嵐がやって来た。
「里は滅びたけど、全国に諜報活動中の者が散っている。霧府の再興は、彼らを集めて行うつもりだ」
「そうだったの……」
紫苑に麻沚芭が片目をつぶった。
「そのときはヨロシクネッ!」
「……で! どうしてこの伝書鳩は里じゃなくてお前のところに来たんだ? 里に行かないのはおかしいだろ!」
その視線を遮るように出雲が腕と脚を広げて体を大きくしながら、鳩に目をやった。
「オレが里の太陽……楽宝円を持っているからだ。霧府の動物はどこにいても、みんなこの太陽を目指して帰ってくる。戦争や災害で人間と離れ離れになっても必ずだ。なぜなら一度武器化した動物は、体が里の太陽の光に満たされ、その温もりが忘れられなくなるからだ。動物たちは、里の太陽の光のそばから夏でも離れないよ。傷も早く治るし、オレたちは動物のお風呂――温泉だと言ってた」
麻沚芭が出雲を睨みつけながら、鳩の小さな頭を人差し指でなでた。鳩は幸福そうに里の太陽のある、麻沚芭の胸にもたれている。
麻沚芭は質問がなくなったので、素早く鳩の脚の結び文を解いた。
「靫石が自分の里に退却するらしい。知葉我も合流する。地の利のある里に誘いこんで、官軍を追い返し、独立国になるつもりらしい。まずいな、他の国が追随して乱世になる」
麻沚芭が口元を歪めた。
「それと、再び帝の暗殺を企てているらしい。帝を殺せば『帝を殺せた私は天に次の帝になることを赦された』と宣言し、独立国を飛ばしてすぐに帝になれるからだ。陛下をお守りするためおそばに参るべきか、靫石偉具炉を最速で討って靫石一派を無力化するべきか。くっ……!」
自分が同時に二箇所にいられないことに、再び麻沚芭は苛立った。
「官軍はいつ靫石の里に到着するんだ」
突然、露雩が尋ねた。
「奴らの里までは、十日はかかる。ここからは八日かかる。もしオレに一目曾遊陣を使わせてくれたら、靫石偉味巣を手がかりに靫石の里へ行き、偉具炉を暗殺してみせる」
「だめだ。一目曾遊陣は術者がまともに戦えなくなる。それに一人では行かせない。里の近くまで走り続けて、そこから体の調子を整えてみんなで近づく。空竜の道案内があれば必ず素早く着ける」
「えっ? 露雩が私のことを褒めているのお?」
空竜が身を乗り出した。
「全員で行ったって、帝の命は危ないし、偉具炉を討たなければ戦いは終わらないし……」
麻沚芭の次の句を、露雩が制した。
「官軍が来る前に、オレたちで偉具炉も知葉我も倒すんだ」
一同に、少なからず緊張が走った。神剣・神器の使い手とはいえ、人族と魔族の軍勢とまともにぶつかるのは、体力勝負である。
「でも、それしかないな」
麻沚芭はよく考えて、うなずいた。
戦場において、守るものは少なければ少ないほどいい。
「乗ったぜ露雩。これで自由に戦える。靫石一派は我が怨敵! 何があろうと地の果てまでも追って殺す!!」
灰色の鳩が熱さに驚いたような羽ばたき方をした。
紫苑たちは、空竜を先頭に走っていた。
靫石の里は都から見て西南で、紫苑たちのいる場所からは南であった。誰も近くの地に行ったことがなかったので、官軍より少しでも早く里に到着するために、走り続けているのである。
空竜は迷わず走る。
大部隊の作門大将軍は、兵を休ませながら、馬や糧食の通れる道を選ぶのに、慎重に時間をかけるはずだ。
何もなくて十日の道のりなら、到着はもう少し延びるだろう。
出雲が霄瀾を背負って、走っていた。
体力に自信のある一行は、食事と睡眠以外は走り続け、五日目に靫石の里と山一つ隔てたところにたどり着いた。この日は、ゆっくり休んで、決戦に備えて疲れた体を休めることになった。
細長いまがりくねった川があり、その両側を切り立った崖が聳え、川を隠すように岩影を精一杯落としている。しかし、陽に当たった部分は、どこまでも透き通る美しい青色で、きらきらと輝く水面に、思わず吸い寄せられそうになる。
「この水でお米を炊いたら、おいしそうね」
紫苑は皮袋に川の水を汲んだ。しかし、今は炊かない。煙が出ては靫石に発見されてしまうからだ。
霄瀾、出雲、閼嵐、露雩が眠っている。交代で眠ることと見張ることをして、常に警戒を怠らないのだ。
「ねえ紫苑。あなた……露雩と結婚したのね」
山でもいだ山ぶどうの房の実を食べながら、空竜がゆっくりと言った。
「ええ……。私、いつ死ぬかわからない身だから、後悔したくなかったの」
紫苑は正直に、まっすぐ答えた。
空竜姫は怒るだろうか。姫の命令で、婚姻を解消するよう迫るだろうか。
それでも、人の気持ちは権力にも購いの財宝にも動くことはないのだ――。「おめでとう」
文句を予想していた紫苑は、山ぶどうの実を一粒、嚙まずに呑みこんでいた。
「幸せになってね」
空竜は山ぶどうの実を見つめながら、淡々と言った。
「空竜……露雩のこと……」
「素敵な人だと思うわ。でも、露雩が一生守りたかったのは、私じゃなくて紫苑だった。剣姫を救うために露雩がどれだけがんばってきたか、霄瀾からも話を聞いて、知ってるの。紫苑がどれだけ帝の娘の私を大切にしてきてくれたかも、知ってるの。こんな想う心を見せられたら……応えなくちゃ、人じゃないよ……!」
空竜の鼻がつまった。
「両想いの二人の仲を裂くなんて、私はしないから。むしろ仲を裂こうとする出雲と麻沚芭には、私がデコピンしてやるんだからあ!」
二人の少女は、笑いあった。
「ありがとう、空竜。祝ってくれて……」
「紫苑は強くて優しい子よ。私にはできないことがいっぱいできるから、ああ、きっと露雩を幸せにしてくれるだろうなって思ったの。そうすると不思議ね、自然と受け入れられるのね」
空竜は昼の空を見上げた。
真っ青な空には雲一つない。
長い風の羽ばたきが髪を一筋一筋ほぐしていった。
麻沚芭は休息所の周りを大きく見回っていた。
両側が断崖の、あのきれいな川にさしかかったとき、川の上で直径三十センチの羽虫の魔物が三体、静止しながら飛んで、水を飲んでいるところに出くわした。
三体は麻沚芭に気づき、羽音を強くたてて興奮し、粘着質の液体を口から吹いてきた。
よけたあとを麻沚芭が振り返ると、草が溶解していた。強酸の液であった。麻沚芭に毒は効かないのだが、この酸のような、他の特殊な攻撃は受けてしまう。
今起きているのは紫苑と空竜だ。ここで騒いで二人が来て、強酸を浴びたらと思うと、男としてそれは自分が許せないと思った。
羽虫は川の上で羽ばたいている。
「よし! 二人の来られない川の上で戦ってやる!」
麻沚芭の草履は薬草の汁に浸けこんであって、それによって撥水加工が施されていた。
麻沚芭が川の上に一歩足を置くと、羽虫たちは一瞬驚いてたじろいだ。その隙をついて、麻沚芭は川の奥へ走り抜けていった。
羽虫たちは、反射的に「逃げる」麻沚芭を追いかけた。
しかし、いくら素早い羽虫といえども、「羽虫が川の上にいるので相手が羽虫に攻撃できない」という利点がなければ、麻沚芭の敵ではない。とまっている蚊のように、あっさり切断されていった。
死骸が川に落ちて川が汚れると、青龍の刀が震動しだした。
「何者か! 神聖なる川を穢したのは!!」
突然、川の奥から女の怒声が響いてきた。
一方川の入口の方から、
「おい、人の足跡があるぞ! 川に入ったようだ!」
「入ったら必ず死体で戻ってくる魔の川にか? オレたちの仲間か?」
「とにかく、帝の軍と戦うときに、奴らを誤った情報でこの川に入らせれば少しは戦力が削げるだろうというお達しだ。最後の洞窟の中に入ったら死体になるが、途中までとにかく向かおう。水が干上がったりしていないか、確認しておかなければ」
「みんな、舟に乗れ!」
麻沚芭は、川の入口から向かって来るのが靫石流の忍たちだと気づいた。かといって、隠れる場所もない。交戦したら、麻沚芭たちが山に潜んでいることがばれる。自分と紫苑と空竜はまだ十分に回復していない。いきなり軍隊を差し向けられて戦いが始まったら勝ち目がなくなる。
やり過ごすしかない。奴らは洞窟の奥までは入らないと言っていた。麻沚芭は、洞窟を目指して駆け出した。
三十分は走っただろうか。曲がりくねった川のおかげで、後ろから迫る敵には、発見されずに済んだ。
真っ暗い洞窟に入ったと思った瞬間、中がぱっと外のように明るくなった。
早く身を隠さなければと焦る麻沚芭の前に、つむじ風が起きた。
「あらまた人間が来たわ。懲りないわね」
「いいじゃない。暇つぶしになるわ」
背丈は麻沚芭の腰あたり。頭頂の角が柔らかくたれさがり、逆三角形の体に、しなる二本の腕と、ひだをつけた一本の足を持っている。体の色は緑色の濃淡だけである。ただ、化粧なのか、青いまつ毛がいやにふさふさとついていた。
二体は、精霊であった。
麻沚芭の背後で、洞窟の口が閉じられた。
「なんのつもりだ」
人喰い精霊なのだろうかと麻沚芭が間合を取った。
「無作法は慎みなさい!」
突然片方がぴしゃりと言葉を放った。
「ここは四神・青龍の在す青龍神殿! 神域に足を踏み入れし者は、神に認められるか、死するか、いずれかのみ! 畏れて進め! 神の御前で何人も退くこと能わず!!」
麻沚芭の腰の、神剣・青龍が消滅した。
神は奥で待つつもりなのだ。
麻沚芭の全身は硬直し、心臓だけが大きく脈打っていた。
逃げられない。
覚悟も固まらないうちに。
どこに命を懸けた戦いが転がっているか、わからないものだ。
神の問いに答えられるだけの人生を、自分は歩んでこられただろうか。
逃げられない。
常に退路を確保することを教えこまれてきた忍者は、あまりの重圧に指一本動かせなかった。神の絶対包囲に死角などないのだ。
世の中には畏ろしい場所があるものだ。
麻沚芭は一般的な感想をわざと述べて、精神の平衡をかろうじて保っていた。
「あらあら、この子、立っているのがやっとだわ」
「これは望み薄ね。せいぜいあたしたちがお茶を飲む間くらいの命だわ」
二体の精霊は、風が葉をこすりあわせるような音で笑った。
「あんたら、青龍神のなんだ?」
ようやく麻沚芭は二体の情報を得ることに思考が働いた。
「あたしたち? あたしは翻」
「あたしは旗芽来。青龍神殿の祝女になった風の精霊よ」
「青龍神の祝女……。これまでどんな者が挑戦していきましたか?」
神の試練に失敗した者の情報は、貴重である。同じ轍を踏まないためにも。
だが、祝女二人は、そっぽを向いた。
「そんなの、あたしの知ったことじゃないわ」
「どうせ死ぬもの。興味ないわ」
麻沚芭が言葉を失っていると、祝女二体はつむじ風になって、麻沚芭の体を持ち上げて、巨木のもとへ連れて行った。
「木気の禊をしてから青龍神のもとへ向かうのよ。ここからはもうあたしたちは一切何もしないわ。勝手に奥に行きなさい。死体になったら川に流してあげるから」
二体は風のままくすくすと笑い、去っていった。
木気の禊の方法は、移動中に二体が早口で教えてくれた。
麻沚芭は服を脱いだ。
少年らしいなめらかな線を残しつつも、時折筋肉の起伏で内側の芯から、硬い体に育っていることが垣間見える。そして、男らしさだけでなく女のような肌の輝きを備えた体をしていた。
そのまま、片手を巨木に当て、もう片方の手を巨木の枝ぶりと同じ格好にして、目を閉じ、息を止めて静止した。
木気は、「木成り禊」という名の禊をする。木の状態を真似しながら、木との一体化を目指すのである。木の鼓動と自分の心臓の鼓動が一致し、木と一つの命になることで、心身が木に浄化されるのだ。
麻沚芭が木成り禊を終えて服を着たとき、がやがやと声がしてきた。
「洞窟が昼間みたいに明るいから不審に思って入ってみたが、ここがまさか青龍神殿だったとはな!」
「あの精霊は全員死ぬなんて失礼なこと言いやがったけど、あいつらはオレたちの強さを知らねえのさ。全員でかかれば、青龍もおしまいよ!」
靫石流の忍が、洞窟に入ったのだ。
青龍が多人数に奪われる! 麻沚芭はとっさに禊の巨木の前に立ちはだかっていた。
「ん? なんだお前は」
「おい、こいつ小太刀を持っているということは、忍だぞ!」
五人いる向こうも、麻沚芭に気づいた。
「動物を連れてないから霧府流ではないな。だが、帝側に違いない! ここで仕留めるぞ!」
「よし、葉牛! ここで足止めしておけ! 青龍の刀はオレたちが持ち帰る!」
忍四人が、奥へ走っていった。
「待てっ!!」
焦る麻沚芭の後ろに、火球が回りこんだ。長く伸びた麻沚芭の影を葉牛が斬ると、麻沚芭の体も同時に血飛沫が舞った。
「ぐわああああ!!」
胸を一文字に斬られた。
「まだ生きているか、浅いな……ここは昼のように明るいからな」
葉牛の技はおそらく影を斬れば直接影の持ち主に傷を負わせられる「影切」。影が濃いほど深手になる。麻沚芭は一瞬で分析した。
「火球を増やすか」
葉牛は火球を三つばかり新たに出した。火の術の心得があるらしい。
麻沚芭が火球を斬り落としても、次々に新たな火球が増える。逃げたり、影に近寄らせない位置にいたりしても、火球がまわりこんですぐに攻撃可能な状態にされてしまう。
火球に追い立てられて、麻沚芭は一時たりとも休むことができなくなった。こんなことをしている間にも、四人は数にまかせて青龍神を手に入れようとしているのだ。青龍神殿の奥に歯がゆい思いで目を向けた麻沚芭は、はっとした。そして、葉牛に斬りつけると見せかけてそのまま青龍神殿に入りこんだ。
「行かせるか! すり抜けられたとあってはオレの面子が丸つぶれだ!」
怒り任せに後を追った葉牛は、ぎょっとして歩みを止めた。
内部は完全な暗闇であった。風だけは、奥から吹いてくる。挑戦者は、青龍の息吹を頼りに、神の導きのみで目的地を目指すのだ。
「(隠れていやがるのか? それとも先へ行ったのか?)」
葉牛は火球を先に放ち、隠れられそうな岩は重点的にまわって、相手の奇襲を封じこめようとした。見つけ次第照らして殺すつもりだった。
だが、次の一歩を踏み出したとき、顔から倒れて二度と動かなくなったのは葉牛の方であった。
天井にはりついて顔だけ下を向いて微動だにせず、岩と同化していた麻沚芭が、下を通り過ぎた葉牛の首の後ろに、自分の血でできた毒矢を吹いたのだ。
葉牛は、自分が確実に勝てる状況、つまり火球を自分に向けたとき、敵の影がこちらに伸びてこられる位置にしか関心を払わなかった。天井にいては影を斬りようがない。だから、自分の攻撃できない場所を、隠れ場所として初めからありえないとして、考えなかったのであった。優勢な状態だったので、勝つ方法ばかりを見て、判断が鈍ったのだ。
麻沚芭が音もなく地上に降りた。
「真の忍は完全なる暗闇の中に生きる。自分に都合のいい闇にしか生きない時点で、お前の負けだ」
傷薬を胸に塗り、麻沚芭は青龍のもとへ急いだ。
再び明るい場所に出たとき、強い風が吹いた。青龍の長い体の中を抜けたような気持ちがした。すべてが青色に塗りあげられている、木造の神楽殿がある。その上で目視できるほどの複数の強風が、絡みあっては離れ、対称に跳ねては回って、踊っていた。
神剣・青龍は、その神楽殿を見下ろす一段高い位置に直立していた。ほっとしたのも束の間、
「他の四人はどこだ?」
敵に備えて麻沚芭が壁を背に四方を睨んだとき、呻き声が聞こえた。
「助けて……! 助けてくれ……!」
麻沚芭が小太刀を構えた先に、四人の靫石流の忍が、全身赤く腫れ上がって直径三センチのこぶ大の吹き出物だらけの姿で、青い刀を握って震えていた。
それぞれが神剣・青龍を一本ずつ握っていた。
「偽物なのか? それともこの中に本物が?」
麻沚芭は、露雩と閼嵐から四神の試練については詳しく聞いていなかった。神の試練は、みだりに口外するものではない。答えを知った者は、試練に失敗する。成功したとしても、成功するのがひどく難しくなる。だから、青龍の刀がなぜ何本もあるのか、麻沚芭にはわからなかった。
麻沚芭の目の前に、青龍の刀が地面からせり出してきた。神楽殿の上の刀は、いつの間にか消えている。
「神は、悪の存在とは違う。陥れるための罠は、作らない。何かあったら、それには必ず理由があるはずだ」
麻沚芭は、青龍と自分を信じて、青龍の刀をぐっとつかんだ。
そのとたん、麻沚芭の体に激痛が走った。一秒ずつ剣で刺されていくようだ。
痛み止めの薬を飲んでも、神経遮断が効かない。指一本動かすことさえ、そよ風が耳をかすめることさえ、狂乱を起こしそうなほどの苦痛だった。
この一秒ごとの痛覚を防ぐためには失神しかあるまい。だが、眠りは一瞬の逃亡でしかない。生きている限り、この痛みから逃れることはできないのだ。
これが、神の気を受けること。
この神経を痛めるほどの莫大な力に耐えた者だけが、神と共に戦うことを赦される。神を恨まず、神を信じる限り、神は人と共に在る。
この状態は、不治の病である。
麻沚芭の脳裏に、その真実が刀から流れてきた。
これが一生続くのか。
麻沚芭は、破れんばかりに脈打つ頭の血流の音以外、真っ白になった。そのとたん、麻沚芭の青龍の刀を握る手が、みるみる赤く腫れ上がった。
「うっ、うわああ!!」
青龍の刀は手から離れない。麻沚芭の心臓が早鐘を打つ。全身にそれがまわった四人を改めて恐怖の目で見たとき、一人が叫んだ。
「こんなに苦しみながら生きるくらいなら、生きる意味なんかねえー!!」
あいている手で自分の小太刀をつかむと、心臓を刺して自殺した。
「一秒ずつ殺されるようだ!! もう耐えられない!! 楽になりたい!!」
二人目も自殺した。
「もう何を見ても、何を聞いても、一度も楽しいと思うことはないだろう!! オレの人生だ、オレが自分の手で自分の命を終わらせることに、誰にも、神にも邪魔させはしねえ!! この苦しみを味わったことのねえ神も人も、きいたふうな口をきくなよ!!」
三人目も自殺した。
「たった十分前が懐かしい、遠い過去のようだ。十分前のオレは、もっと違う人生になれたはずなのに」
四人目も自殺した。
「(みんな耐えきれずに死んでしまった! くっ、オレは……!)」
麻沚芭の腕は既に腫れ上がり、赤みを帯びていた。そして一秒ごとに剣で刺されるような度を越えた痛み。苦しい、生きているのが辛い。
「……生きているのが辛い?」
そのとき、麻沚芭は、はっとした。
あの世に行った父や母や兄、そして里の仲間の顔が思い浮かんだ。
「……違う」
今、身を突き刺すような感覚が、生きているのをやめたくなるほど耐えがたい。
「だけど、父上と母上と兄上と、みんなが死んだときの方が、もっと痛かった!」
麻沚芭は、他人を生かすために死んでいった者たちのために、歯を食いしばった。
「オレが死んだら、オレをここまで助けてくれたみんなの想いが無駄になる!! 苦しくても生き続けることは、天国で応援してくれるみんなや、オレが生きていることを知る誰かを励ますんだ!! だからオレは絶対治ると信じて病気に負けない!! 自分のためにも、みんなのためにも!! この痛みに耐えて、誰かの生きる勇気にもなるんだ!!」
痛みのために、意識が度々(たびたび)中断する。叫ばないと、思考が呼び戻せない。でも、神に宣言したい。
「全員が絶望して自殺する病気だったら、そこに希望はない!! 誰かが踏みとどまって、闘わねばならないんだ!! 自分に負けてたまるか!! 耐えて、克って、誰しもに起きる病気に勇気を遺してみせる!!
すべてを試してだめなら悔いはない!! そしてそれは、他人の治療の役に立つから、無駄ではなかった自分の人生に満足できる!!
オレは一生すべてを奪われても、残った力を全部かき集めて、そのときそのときで自分にとっての全力で生きる!!
オレは生きたい!! オレはたとえ不治の病でも、治すと貫き通す!!」
身を刺す痛みに、余計なことは考えられなかった。たった一つの感情を、麻沚芭は全身ではっきりと、明確に叫んだのだった。
麻沚芭の体は赤く腫れ上がり、直径三センチのこぶ大の吹き出物に覆われていた。
「それでも、オレは生きたい!! オレはこの先、辛いことだけでなく、嬉しく思うことをも見つけられると、オレは自分を信じてる!!」
神剣・青龍が強い風に解かれ去った。
突然、場の空気が一変した。
一息吸っただけで体中に心地良い風が吹き荒れて、まるで麻沚芭の体を浄化してくれるかのようであった。花々が一斉に咲きそろった甘い香りが、爽やかな春風に乗って目の前に広がるような気さえした。
巨大な青き龍が、長い体をくねらせて進んできていた。
四神の一柱・青龍である。
青龍が動くたび、その起こす風が白く色づいて、光の筋のように鱗の一枚一枚にまとわりつく。
青龍は諭した。
『自分の才能を最高の状態で出しきれない人生を送っていると思っている者は、とても多い。だがそれが普通だ。制限された条件でも、不満を言わず生きよ。病に陥る、時代が変わる、天変地異が起こる。誰しも制約を抱えているからだ。人はいつ才能を制限されるかわからない。常に明日より今日を思え。今日できることが、明日もできると思うな』
風が優しく森を抜けるような、低く柔らかい声だった。麻沚芭に病気を受け入れよと迫っている。だが、麻沚芭はそれをしたら明日生きられないことがわかっていた。
「たとえどんな苦しい制約があっても、助からないと言われても、オレの人生はオレが決める、どんなときも、オレは生きて希望を見つける。その状況でしかできないことを見つけて、オレだけの物語を終わりまで紡ぎきる!」
麻沚芭は、腫れ物と吹き出物の体で、身を刺す衝撃に一秒ごとに耐えながら、自分の病をいくらでも重くすることができる神に怯まなかった。「治ることを信じる」ことは、「神の成す事」への反逆であろう。だが、答えがあっていようと、あっていまいと構わなかった。間違って神罰を受けて病が増えたとしても、後悔などしない。
病で明日死ぬとしても、今日きっと何かができるから。
「神の問い給うた病気〈試練〉に、オレは最後まで治る希望を胸に答え続ける!! 生きたいから!! 苦しくて死にたいけど、本当は生きたいから!!」
そう叫んだとき、麻沚芭の腫れ物だらけの体がぱあんと破裂した。
血だらけの麻沚芭が、尻もちをついて呆然としていた。
吹き出物と一緒に、腫れた部分が失せていた。
一秒ごとに起こる、剣で刺されたような激痛も消えていた。
麻沚芭は、元の体に戻ったのだ。
青龍の体に風が起こった。
『どのような状況にも喜怒哀楽はある。どう生きるかは、己次第。己を気遣ってくれる他人にどう生きてもらうかも、己次第なり。そこで生きる糧は、きっといつか神が己を癒す答えに気づかせてくれるという、「希望」である。病に絶望するな。治る希望を最期まで持て。そのうえで生きていく日々の制約の中で、今日できる何か。お前の答えが毎日見つかる限り、我は汝と共に在り!!』
青龍が優しい風で麻沚芭の血だらけの体を包みこんだ。これまでの痛めつけられた肉体の中を、清涼な風がほぐしていくようだった。
「制約を受け入れよ。だが、治る希望も持て」
それがわかった麻沚芭は、心地良さとこれまでの緊張の疲れと安心から、あおむけに大の字に倒れた。
『汝が病に絶望したとき、我は汝を呑むであろう。また、お前の武器が小太刀なら、我は汝の望む形となろう。我の認めし者よ、汝、神器・楽宝円を持っているな』
青龍が気づいた。
『それは動物と共存する神器。汝、いずれ決断するときが来ようぞ』
麻沚芭は、耐えていた疲れのせいで、半分眠っていた。
青龍神殿の祝女二人の狼狽した顔を手土産にして、小太刀の長さにおさまっている神剣・青龍と共に戻って来た麻沚芭に、一同は驚き、喜んだ。
一人出雲だけが輪の外にいると、茂みが動いた。
「誰だ!!」
気配もなくこんなに近くまで来るとは、靫石流の忍が戻ってこないことで偵察隊が来たかと思った出雲の前に、見覚えのある顔が現れた。
「……氷雨か」
人形師・下与芯の作品にして、人喪志国の姫・開奈そっくりの顔を持つ人形機械・氷雨が、こちらを見ていた。
「下与芯は知葉我の配下だ。その部下だからお前が偵察隊か」
「違う。私は知葉我を殺そうと思っている。今日来たのはお前たちを使って兵を手薄にすることで、私の知葉我暗殺に協力してもらうためだ」
「下与芯の主人を殺せるわけねえだろ」
出雲が疑ったまま聞く。
「知葉我は下与芯様の命を奪った。私は許すことはできない」
「人形にも敵討ちの感覚があるのか」
出雲が腕組みしてうさんくさそうに氷雨を眺めた。人形は無表情である。
全員、罠だと思った。
「あなたと組むと、どんないいことがあるのかしら」
紫苑が尋ねた。
「知葉我は靫石と連合軍を作ったように見えるが、実態は違う。偉具炉と共同で指揮を執ると見せかけて、自分は里の奥の何重にも張った結界の中に隠れて、通信で指示を出している。私は結界を作る間の守りでその場に立ち会ったから、場所を知っている。供の者は近衛隊が十体だ。千の軍勢に守られた知葉我を素早く殺すには、ここを狙うしかない。だが、私は結界破りの力がない。赤ノ宮紫苑、お前の力を貸してほしい」
罠だとしても、どこかに隠れるというのは、知葉我のやりそうなことであった。
「どうする? 紫苑」
出雲たちが顔を寄せあった。
「麻沚芭。霧府流の仲間は、知葉我のことは?」
「靫石のことしか書いてなかったよ」
「そう……。なら、氷雨に案内してもらいましょう」
「いいのか?」
「罠だったとしても、知葉我は何らかの術でその様子を見ているはずよ。その術の痕跡を見つけて、逆にたどるわ。そして知葉我を真っ先に倒す。氷雨について行けば、少なくとも魔族軍と先に戦えるでしょう。靫石一派と戦ったあと、知葉我軍と戦うのは、体力がもたないと思うの。罠に賭けてみましょう」
一同は、麻沚芭も紫苑も空竜も含めて、その夜ぐっすりと眠り、体力をすっかり回復させた。
「これからはあなたが先頭よ。氷雨」
「……」
空竜に何か言いたげにして、しかし口を閉じると、氷雨は歩き出した。
知葉我の隠れる場所へと。
「星方陣撃剣録第一部紅い玲瓏十巻」(完)
「これがあるから全力が出せない」という制約は、人間には必要なものです。なぜなら、何の妨げもなく全力で事に当たって、それでも負けたり、失敗したり、諦めたりしたら、「自分は全力でがんばってもこの程度か」と自分に失望し、見限って、それ以上のことをする力が失われてしまうからです。
しかし、制約があれば、「これのせいで全力が出せなかった。これを克服して次は必ず勝ってやる」と、次に行き明日を生きる「希望」が持てるのです。「制約」とは、私たちの「自殺と自滅」を防ぐ、尊いことです。人は皆、全力を出させてもらえないけれども、それは人が守られているという証なのです。




