剣姫その心を示せ第六章「白虎神殿」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、帝の一人娘で、神器の鏡・海月と、神器の聖弓・六薙の使い手・空竜姫。聖水「閼伽」を出せる、魔族の格闘家の青年で、はちまきの神器・淵泉の器の持ち主・閼嵐。
強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
竜の体の一部を使って人間を操り、人族を滅ぼそうとする者・知葉我。
第六章 白虎神殿
寄せては返す波の感触で、閼嵐は目が覚めた。
どこかの砂浜に、紫苑と二人で倒れていた。
「紫苑!」
起き上がろうとして、全身の脱力感に肘が滑った。
紫苑以外は見当たらない。
だが、霄瀾の絶起音のおかげで、息は苦しくなかった。きっと、他の仲間も無事に違いない――……。
閼嵐が固く信じて今度こそ立ち上がったとき、近くの茂みが動いた。
「……」
十二才くらいの子供の骨格をした骸骨が、こちらを窺うように止まっていた。
閼嵐は魔族で、変わった姿の者を見るのは慣れているので、特に驚かなかった。
しかし骸骨の方は、全く異なる姿の閼嵐に恐れを抱き、動けないようだった。
「ここはどこだか、わかりますか」
閼嵐は、白い金属の骨で、太陽の光を反射している骸骨に話しかけた。
「……岩島です」
骸骨は警戒しながら答えた。
岩島などという島は、白岩湾のどこにも存在しない。しかし、閼嵐と紫苑が白岩湾を出て外の海の島にたどり着いたとは考えにくい。
「(地図にない島……変わった姿の住人……)おい紫苑、起きてくれ! 大丈夫か!」
閼嵐の呼びかけに、ようやく紫苑が薄目を開けた。
「閼嵐……他のみんなは?」
紫苑の問いに、閼嵐は首を振った。
「わからない。オレたちだけはぐれたのかもしれない」
閼嵐が海と島を見比べていると、骸骨は何かを思い出したように、はっと息を呑んで肩を上下させた。
「お兄ちゃんたち、この島の人じゃないんだね?」
「ああ、そうだよ」
「じゃ、お父ちゃんにまず会ってよ。おれにはくわしいことはわからないから」
「詳しいこと?」
骸骨は、閼嵐と紫苑の先を歩いていった。紫苑は剣姫として血肉は見慣れているので、骸骨にも驚かずに、後についていく。
集落に着いた。老若男女、全員が白い金属でできた骸骨であった。
一人残らず、骨の色が一部黒ずんでいたり、ぼろぼろだったり、どこかを痛がっていたりしていた。
目がないのでわからないが、骸骨たちは閼嵐と紫苑を笑った顔で見ているような気がした。
「お父ちゃん! ただいまー」
布団に寝ている骸骨に向かって、子供が声をかけた。そばで子供の弟と思しき三才くらいの骸骨が、手足を使って獣走りをして遊んでいる。その骨の一部が黒ずんで、ささくれだっている。
「早かったな兄息子。ううっ……」
骸骨がゆっくりと起き上がった。そして、閼嵐と紫苑を見てびくっと動いた。
「お前たち、外で遊んでおいで」
「はーい」
兄は弟を抱えて出て行った。
「あなた方も不運でございますね」
「え?」
父の骸骨は自分の骨の手をじっと見つめていた。
「この島に上陸した者は、皆、その夕方にこの島の中央にある白山に登らなければなりません」
「なぜですか」
「あなた方は、私どもを見て驚かれないのですね」
骸骨は、骸骨のことを聞かない二人に対して、意外そうな声を出した。
「掟の理由は言えません。ですが、登らない場合、あなたはこの集落の者たちに食われます。私どももそうします」
「そうですか」
「あなた方は、驚かれないのですね!」
再度骸骨が、咳をするのも忘れて、閼嵐と紫苑に見入った。紫苑が尋ねた。
「あなた方は、様々な年齢のはずなのに、全員、骨が老いています。何かの呪いですか。それとも疫病ですか」
「……申し訳ありません。私どもをありのままに受け入れてくださるあなた方に申しあげにくいのですが、私どもは何も言えないのです。何が山で待っているかを告げることは――ゴホッ! ゴホッゴホッ!!」
骸骨が激しく咳きこんだ。肋骨が折れそうなほど歪む。
閼嵐はその背中をさするとき、気づかれないようにそっと閼伽を出して骨を手でふいた。
骸骨の咳は止まった。
「優しい方、ありがとうございます。あなたのお手が触れると、肺のあたりが楽になりました。ああ、こんないい方が今夜……」
そのとき、外で子供の声がした。
「おにーちゃん!! おにーちゃん!!」
閼嵐と紫苑が外へ出ると、兄の骸骨が、つけ根から外れた右足と共に地面に倒れ、弟が必死に揺さぶっていた。
「この子は普段は元気なのですが、突然関節が外れてしまうのです」
親がよろよろと出てきた。兄骸骨のそばに、生簀から取り出した魚を入れた金だらいが、転がっていた。
「これは?」
「集落へ行って、野菜と交換してくるためのものです。私はこの通り、息子二人は幼く、畑仕事ができないためです」
それを聞くと、閼嵐は素早く魚を拾い集めた。
「オレが交換してくる。夕方までに戻ってくればいいんだろ」
「あ……!」
閼嵐は返事も待たずに飛び出していった。紫苑も親に一礼して後を追った。
誰と取引しているのかわからなかったが、魚の欲しい人が向こうから話しかけてくれたので、滞りなく交換は済んだ。
「こりゃ、気のいい男が増えそうだ」
と、骸骨たちは閼嵐を見て嬉しそうに笑った。
閼嵐と紫苑はだんだんこの集落のことがわかりかけてきた。そこで、閼嵐は自分の力を試すため、交換した野菜を少し使って、閼伽の味噌汁を作った。
父の骸骨は、一口飲んだとき、すうっと骨が癒されるのを感じた。彼らは、物を食べると、体の中に落ちないで、直接骨に吸収されるのであった。
「久し振りだなあ、こんなに身体が安らかなのは」
「天国みたいだね、お父ちゃん!」
足がつながった兄も、その弟も、じっくりと味噌汁を味わっていた。
そして、三人はぱたりと眠りについた。
閼嵐と紫苑が無言でそれを眺めていると、戸がけたたましい音をたてて開かれた。
「我らが主を侮辱したのはそなたか」
桃色に近い金色の骨を持つ、白い袴の巫女服を着た祝女らしき骸骨が二体、戸に立ちはだかっていた。
「人を骨にして何が楽しい。この子らは既に死んでいたではないか」
閼嵐の目つきが険しかった。祝女らはふんと鼻を吹いた。
「それは失敗者たちの成れの果て。今まで我らが主のお力で生かされていただけありがたいと思え」
「わざと老いを与えてまでか! 一体何が目的だ!!」
「神を試す者には罰が与えられよう」
「なに?」
「ついて来い。今宵はお前たちが試す者だ」
二人の祝女に続いて、閼嵐と紫苑は白山の頂上へ向かった。
「あの集落に住む者どもは、遙か昔から、我らが主の加護を得んと上陸してきた者たちだ。そして、試練に失敗した。あの骨の体は我らが主のお力で究極に老いた姿。そして、いつ死ぬかも我らが主の思うがまま。永遠に生かされるとも知らない、哀れな連中よ」
「神を試すことは瀆神の極み。因果応報である」
「お前たちも骨だろう」
閼嵐の言葉に二人は笑った。
「一生おそばでお使い下さいと祈り、誓ったのだ。肉体が滅んでも祝女のまま侍られるなど、並の幸運ではない」
「その証拠に、我らの骨は若々しいままだ」
二人は夕日にきらめく金属の骨をひらめかせて、再び笑った。
「お前は我らが主の意志を破った。あの集落の者どもは、我らが主の生きる限り、魂をあそこに縛りつけておくつもりだったのに。閼伽で成仏させるとは」
「本来なら神殿に通すことも腹立たしいが、我らが主から罰を受けて、永遠に骸骨になるのもよかろう。夕方まで集落に置いて一瞬で殺されるより、よほどいい」
「さっきから言うその『我らが主』というのは……」
そこで二体の骨は振り返った。
「さあ、こここそが古より伝わりし四神が一柱、白虎の神殿なり!」
「神を試す者よ、畏れて進め!」
真っ白な鳥居の先に、刀でできた反り身の神殿があった。鋭い刃先は、閼嵐の淵泉の器の鎧を想起させる。
「ここが白虎神殿!?」
白岩湾の中に、本当にあったのだ。しかし、閼嵐は喜びの前にひざまずいた。
「私は悪の者の仕業と思っておりました。勝手に神の僕を三人成仏させたことは、私の罪でございます。このまま試練を受けたとしても、白虎神のお怒りは解けますまい。私をお赦しくださる罰をお与えください。その後、御許に参ります」
二人の祝女はしばし無言であった。そして、
「白虎神は、お前が金満ちる禊――つまり、金気の禊をすれば、赦すとの仰せだ」
と、神の言葉を降ろした。
「ありがとうございます」
紫苑が、白い鳥居の前で立ち止まっている。閼嵐はうなずいた。
「行ってくる、紫苑。オレが失敗したら、お前に後は任せた」
紫苑は静かに励ました。
「あなたならきっとできる」
「おう……!」
紫苑の言葉で喜びが体中に満ちた閼嵐はさっそく、白い鳥居の脇に向かった。
祝女の一人が、閼嵐に宝石の首飾りと宝石の塊を渡すと、二人して神殿に入っていった。
閼嵐は服を脱いだ。どんなに着ても隠せないたくましい体が、みるみるうちに現れる。筋肉が至るところで盛り上がり、隙のない強靭さを惜し気もなくさらけだしている。常に程よい緊張が漲り、何にも倒れない若くみずみずしい巨木のようである。人が進んで胸に飛びこみたくなるような、安心感のある強さがそこにはあった。
さて、閼嵐は裸になると、まず宝石の首飾りを手に取り、頭、腕、足にくぐらせた。そして、宝石の塊を取ると、体幹にくまなく当てた。金満ちる禊は、金気のものを使って、体の周りをくまなくくぐらせ、覆うことである。木火土金水五行の禊は、五気それぞれ方法が違うのだ。
そして金満ちる禊のあと、服を着た閼嵐は、白虎神殿の前に立った。禊で穢れが祓われた分、研ぎ澄まされた五感に、神殿の霊的な威力がひしひしと伝わってくる。
祝女は、もう姿を現さなかった。
閼嵐は、鋭利な反り刃の白虎神殿へ入った。
そのとき、閼嵐の頭めがけて何かが飛んできた。
「あ痛っ!!」
とっさにかばったその腕に、金色の、胴が四角い蛇が牙を立てていた。
「こいつ!!」
殴りつけようとすると、蛇は上へ素早く逃げた。
閼嵐は自分の体が重くなった気がした。体に閼伽を流しても戻らないから、毒ではない。自分が十才ほど年を取ったのではないかと、直感した。
「生気を吸い取るのか!?」
二十歳の若さを保つはずの自分から、生命力を大量に奪っていったことに、驚きを隠せない。天井を見上げると、金属でできた金色の蛇がいくつも、逆さになって四角くとぐろを巻いて、侵入者を待ち構えていた。時折一直線に下へ伸びているものもあって、それは地面に届くほど長かった。
自分が三十歳の体になったことによる、白虎への憎しみは生じなかった。何かを得たいなら、何かを失うことを恐れることはできない。自分の力を試すなら、人生の失敗も受け入れなければならない。
「神器・淵泉の器!!」
閼嵐は神器の鋭利な鎧に身を包むと、全力で走った。金蛇が次々と牙を打ちつけてくる。しかし、穴があき、砕かれても、閼嵐は走り続けた。
細長い廊下に出た。金蛇はもういないが、鎧はかなり穴があいていた。閼伽をかけると、鎧の傷はふさがった。閼嵐は鋭い目つきの、皺のついた四十歳になっていた。
「さすが金気の神、攻撃が手強い……」
そのとき、ガシャンガシャンとたくさんの足が歩く音が反響した。
廊下の奥から、直径五十センチの空気穴つきの丸い水晶の中に小さな丸い頭を入れて、その下に三メートルの麻紐のような細い背骨を伸ばしている、イモ虫のような形の魔物が歩いてきた。金銀、水晶、ルビーなどを土中から集めては、円盤に加工して銅銭のように自分の麻紐のような背骨に通して、それを立てて使って少しずつ歩く魔物である。人々から「お宝カモ」と呼ばれていて、そのわけは、倒せば円盤を全部金に換えられるし、また、倒さずに円盤だけ奪えば、その個体は一年後また何かしらの宝石の円盤をこさえるので、毎年刈って暮らしていけるからである。
本来の名は「七宝魔物」で、実はその宝石は五行それぞれの力を蓄積する魔石であり、装飾防具として使うために人間によって乱獲されることが絶えなかった。個体数が減って、命を奪う狩猟が禁止されても、質のいい装飾防具を作るため、七宝魔物は常に密猟の危機にあった。ただ絶滅しなかったのは、魔石の防御力を強力な術攻撃に変換する力を持っていて、時に狩る者たちを全滅させたからで、数を減らしたのは、危機意識が低く攻撃されても反撃を決断するのに時間がかかり、その間に殺されたからである。
人間にとってはまさに歩くお宝なのである。
美しい宝石の円盤を揺らしながら、七宝魔物が真珠のびっしりついた円盤を輝かせた。
無数の針が閼嵐めがけて飛んできた。よく見ると、それは滴型の珍しい真珠であった。
だが、閼嵐は一つの宝石にも目もくれず、神器・淵泉の器の鎧で砕き、よけ、転がりながら、七宝魔物の脇をくぐり抜けた。そして、驚いたように振り返る七宝魔物に、閼伽の流れを出し、滴型の真珠ごと全部、金蛇の部屋へ押し流した。七宝魔物は、命を取られるわけではないその攻撃に対し、水の魔石を使って防ぐ決断が遅れ、遠くへ流されていった。
『ほう、宝石を一つも掠め取らぬか』
閼嵐は、金属を鳴らす声のする、戸のない奥の部屋へ入った。
「ここは……」
部屋の壁は、剝き出しのでこぼこした鉱石で作られていた。
「神器の匂いが部屋中にしている!」
閼嵐が鼻いっぱいに嗅いでいると、
『これは神代玉鋼。神器の原材料だ』
そのとき、場の空気が一気に変わった。
吸いこんだとき、その空気はひどく重く感じられた。神の香りを吸えるものなら吸ってみよ、己に自信があるならば。閼嵐にはそれが白虎からの挑戦に思えた。息を吸うだけで金属を体内に落としこんだように重苦しくなるこの威圧感を、閼嵐は吐き気で胃の中のものを戻しそうになりながら、耐えて視線を一点に集中させた。
全身金属の毛で覆われた白い虎、金気の四神である白虎に向けて。
神代玉鋼の部屋は二十メートル四方の大きな部屋である。その中央に、白虎の毛先一本一本にぴったり合うように作られた宝石の寝椅子があり、白虎はそこでくつろいでいた。
『どうだ? 神代玉鋼を取らぬのか? わしの試練など受けずとも、神剣・白虎を作れるぞ』
白虎がしゃべるたびに、金属の牙が嚙み合う音がした。
『どうして七宝魔物の宝石を取らなかったのだ? 一部だけ持ち帰っても、莫大な金になったであろうが』
しかし、閼嵐は首を振った。
「ある目的のために一途に集中しているときに他のことに欲を出すと、本来の目的が失敗します。私は必要のない欲には手を出しません。だから七宝魔物の宝石には興味がありません。そして、今、神代玉鋼を手に入れたとしても、白虎神のお力がなければただの刀にしかなりません。神の力はこの世の命の浅知恵では作り出せません。どうか白虎神のお力をお貸し願えませんでしょうか」
閼嵐はひざまずいた。白虎は体を揺らして笑った。動くたびに一本一本の金属の毛が、金属板を叩いたような音をたてた。
『は、は、は! これまでどの挑戦者も欲に目がくらんで、どちらかの宝を盗み取った! だがそれは金気の武器、骨以外何も残らないほどの究極の老いを与える天罰だ! 自分の働いた実りでないものを不当に得ようとする者への、わしからの贈り物だ。お前は即死の試練を免れたのだ。しかし、その姿、若さは失われ、人生の半ばまで来てしまった。先に言っておくが、その年は二度と元に戻らぬ。人生の楽しむはずだった時を奪われて、それでもわしにひざまずけるのか?』
「神と共にない一生より、神と共にある一年を選びます。神のお喜びになることを知り、神が去られた後も、それをよすがに生きて参ります」
皺の入った顔で、閼嵐は迷わず答えた。
白虎は体を起こし、歩み寄って来た。歩くたび、試練を受ける閼嵐には詳しく覚えることができない、白虎の紋章が足の下に浮かんだ。そして、金属の尻尾を閼嵐の口に突っこんだ。冷たい白刃色の、金属の味がする。
『己を偽るな』
閼嵐はぐっと止まった。
『お前は父親のできなかったことをしたいのだ――魔族王・閼嵐!』
白虎の尻尾が閼嵐の口から出た。閼嵐は話せるようになった。
「……神には、何もかもお見通しなのですね」
そう、閼嵐は魔族王であった。
十二種の大神器の一つ、淵泉の器を守り続けてきた、魔族王の血筋の者である。
百年前の紅葉橋の戦いでその魔族王である父が誰を待っていたのかは知らないが、燃ゆる遙から逃げ帰った時点で、父はすべての魔族の認識から「王」の称号を剝奪された。
父の、誇りを失った者の苦しみを、そばで痛いほど見てきた。
閼嵐は、それを取り戻したかった。
もう一度完全に魔族王に戻って、閼伽一族の名誉を回復したかった。
二十歳は、海千山千の魔物を屈服させるには、まだ若すぎるかもしれないと思っていた。もう少し強くなったら、もう少し強くなったらと考えて、ついずっと里にいた。
失敗するのが恐かったのかもしれない。
「でも、四十歳の今なら知恵が働くに違いない」
『愚かな。外見だけ衰えて、中身が子供のままなら、何も変わりはしない。ずっと一歩を踏み出せない子供のままだ』
「えっ!? 何も知らない大人!?」
閼嵐が戸惑ったとき、白虎が吼えた。
『すべての駒が出そろった! さあ魔族王・閼嵐、わしを手にすれば魔族王の称号はお前に戻るであろう! 最後の試練だ。わしを老いさせてみよ!!』
「老い……させる!?」
閼嵐は目をみはった。金属の体には皺一つなく、おそらく人の生気で若さを保っているであろう白虎神が、老いることがあるのであろうか。
「(『すべての駒が出そろった』……? 白虎神と戦って勝つことではない……んだろうな。もしかしたら、老いを白虎神が選び取るような言葉を、紡ぐべきなのかもしれない)」
閼嵐は淵泉の器の鎧を解いた。そして、老いについて考え始めた。
「老いれば、できることが少なくなっていく。人はできないものを得ようとすると、未知なるものへの好奇心・冒険心からがんばるが、できるものが失われていくと、最高の恐怖を味わう」
白虎の尻尾が口に触れたとき、閼嵐は老いて体が少しずつ動かなくなるのを感じたし、正直に言えば文字すら一文字ずつ忘れていった。
白虎は時間を食うのだ。そして、白虎に食われた者は、もう元には戻らない。
自分の一番若くて強い時に何も為さないまま、五十歳の体にまでなってしまってよかったのだろうか、と閼嵐が心の焦りを感じ、白虎の目が光ったとき、閼嵐は自分の祖父を思い出した。
どんなに体力が衰えようと、いつまでも戦える祖父の集中力は、若者ではかなわなかった。老いた者が若者に勝てるときというのは、この世の限界を知る知識を得たときに、それを超えようとする気力を出すときだ。そのわけは、老人はこれまでの人生で、やらねばならぬ義務からは逃れることができないと、経験して知っているからである。自分の人生でなすべきことをなすために、逃げてはいけないと知っている老人は、人間の限界を超えようとする気力を、成功しようと失敗しようと最後まで出し続けることができる。
自分を諦めるな。
何もやめるな。
己のこれまでの人生で培ってきた精神理論と規則性の先を、見つけるのだ。
限界を知るのはいいが、それを自分で決めて立ち止まるな。立ち止まってしまった者が本当に老いるのだ。そのとき老いた者は向こう見ずな若者に負ける。
「オレは老いても恐れない。失うものも多いと思う、だがそれ以上に得ようとするものも多いと信じているからだ。老いても自分が好きだ! 残りの命を教えてもらえれば、なすべきことへがむしゃらに向かえる! 時間は無限にはないのだ! それを約束する永遠の若さとは、神への反逆だ! 人間は時間を教えてくれる時計なしには生きられない、だから、死期を知らせてくれる老いなしにも、生きられないのだ。『あとどれくらい生きられる』という、『自分を知る』ことが、どれだけ人間の存在を確定することか。存在の予定、なすべきことの計画。自分を知らなければ、何の設計も行動もできない。老いは人間への、神からの贈り物である。自分の人生で得たもの、もっと見つけたいものが定まっていれば、老いに恐怖はしない。失望も、若さへの嫉妬さえもない」
白虎は一本一本針になっている尻尾をなめらかに動かした。
『集中せよ。専心せよ。年ゆけばおのずと己の進むべき道が見える。芸術でも技術でも、その道の大家となるにふさわしいのは、己を知る者のみ。そのときにはその道や己の限界も知っておろう。だがそれを乗り超えようとすることができるのもまた、気力を放つ、己を知る者のみ。それができる老人とは、世界で一番大きな大人なのだ。大人は、己より若い者たちを教え、支えるのだ。それこそ老いた大人でしか他人に与えられない宝だ。それをなしつつ、老いた身に気力を使って、自分の限界を超えろ。誰もが得る老いが、人の精神の限界を超える鍵となるのだ。――だが今の言葉では、若さにすがる者の目は醒めぬぞ。
今の世は未熟な若さばかり祭り上げる傾向がある。若さゆえの短慮、お前の強き父はそれによって里を追われたのである。そしてその里は滅んだ。一人で立てない青い者が力を持とうとしたからである。これは社会が憂慮すべき傾向である。すべての年の者がすべての者を大事にする言葉を出してみせよ! わしを老いさせてみよ!!』
老いていく己の心を恐れる心は、いずれ克服できる。だが、社会が老いを軽視するこの異常な土壌は、一人では変えられない。『わしを老いさせてみよ』と言う白虎の言葉は、「子供を大人にしてみせよ」という意味なのであろう。
社会がその心を手に入れようと努力しなければ、神の加護は得られないのだ――!!
閼嵐はそこまで気づいて、深呼吸した。そして、すべての年代の命を思い浮かべた。まだ無邪気な幼児の姿が転げまわったとき、閼嵐の目に何かが見えた。カッと目を見開き、閼嵐は言葉を出し始めた。
「子供には最も多くの可能性がある。老人には最も多くの知恵がある。老人は成功の経験も失敗の経験もしている、偉大な先生だ。彼らがいなければ、子供は何も知らない愚か者だし、同じ失敗を繰り返し、社会はいつまでたっても進歩しない。身近な人々の歴史から、世界の人々の歴史まで学び、よりよい選択肢を自分の中に創造し、加えろ。人の経験は、宝の山だ。世界中の金より価値がある。なぜなら、人は自分の限られた時間内ですべきことをするのが、最も大切であり、それを素早く達成するのに、自分の求める道への道順や行ってはならない道は、人々と和し教わることで、方向が得られることが多いからだ。本や歴史以上に、何度も悩みを救ってくれるはずだ。もちろん、百年二百年の単位で社会の行末を予想するのには本や歴史が必要だ。だから、古いものに敬意を払え。同じ歴史の犠牲になるな。過去という『自分たち』を知っている者は、うまく切り抜けて、犠牲者の名簿から逃れることができる」
不意に、閼嵐の目に父の姿が浮かんだ。魔族王の称号を奪われた父。同じ轍を踏むまいという、息子の決意。すると、父が語りかけてきた。
「燃ゆる遙を、私では倒せないとわかってしまったとき、十二種の大神器の一つである淵泉の器をお前に託すまでは、死ねなかった。力の宝は私のわがままで敵の手には渡せない。神の力を、親から子へ伝えるのが、魔族最高祭司である閼伽一族の役目だと思ったのだ」
閼嵐は、初めて父の思いを聞いて気づいた。父は自分に力という未来を託したのだと。
「幼い子供は親の未来を持っている。老いた親は子供の未来を持っている」
父は閼嵐に戦いを託した。そして閼嵐は父の人生を学べるのだ。
自分の身を守るための、敵との力量の差の見分け方、無駄死にしない勇気の後の名誉の回復方法など、父と同じ失敗をせず、その分成功を増やしたり、新しいことに挑戦したりして、うまく道を進んでいくために。
燃ゆる遙から逃げ帰った弱い父に憤ったことがある。
里を追われた強き父の無念を、我がことのように憤りもした。
しかし、感情をぶつけるだけでは何も変わらない。「次はオレがうまくやるから」と言ってあげればよかったと、閼嵐は後悔した。
すべての子供は、未知の塊。すべての老人は、既知の塊。
どちらも、片方が欠ければ社会は滅ぶ。そして、生きた経験という宝が、無駄になる。子供がより成功と挑戦へと進化していくために、老人の成功と失敗の知識は絶対に必要なのである。
「可能性ばかりに目がいくのは、運頼みの根無し草だ。自分の道を助けてくれる経験豊富な宝を大切にする人が、上手に世の中をめぐって、本当に幸せになれる。可能性に賭け事のように賭けて金銭を手に入れても、知恵がないから金銭でなんでも解決する者になる。本当の宝を大切にしない人は、金銭を手に入れるしか能がない、一代限りの、後世に何の善い贈り物もできない者になるだろう。善い贈り物とは、金銭がなくても、探した者にだけ幸せが見つかるという真実だ」
その直後、白虎が全身の毛先を鳴らして咆哮した。
『よくぞ言うた! 老いこそは、この世の宝である!! 若人よ、目の前の宝を見逃すな!! 成功と失敗を繰り返すのが人生である、失敗や負け、抑圧からこそ目を逸らすな! もし人生に一度しか機会がないのだとしたら、既に先人が負けた事柄で先人と同じことをすれば、必ず負けるぞ! 人を知れ、歴史を知れ! 知識の宝庫の老人に敬意を払わない者は、己の進化の道を自ら閉ざす』
閼嵐は、七宝魔物の宝石と神代玉鋼のこれまでの豊富な提示に、ようやく合点がいった。金銭の宝を取ったら、老いではなく若さを取ったとみなされる。だから即死の天罰が降るのだ。
『わしの求める宝を、お前も求めておる。わしがお前の力になろう。魔族王・閼嵐よ、お前がわしの力と共にこの世界をどうしたいのか、見せてもらうぞ!!』
金属の牙を嚙み合わせる音をたてて、白虎が雪を思わせる真っ白な神剣に変わった。
閼嵐が一礼して手に取ると、神剣は真っ白い透かし彫りの腕輪になって、閼嵐の右手首にぴたりとはまった。
『淵泉の器を鎧に、わしを武器にするがよい』
「はい」
白虎神殿から無事に出て来た閼嵐を、二人の祝女は驚き恐れた。
紫苑が出迎えた。
「おめでとう閼嵐」
「一番にお前が祝ってくれて、オレは嬉しい」
閼嵐は口元をほころばせて、口を閉じて笑うとき滅多に見せない牙を一本、子供のように出した。
白虎は白い虎の姿を顕した。
『今までご苦労であった。わしはこの者としばらく旅をする。久々に耳よい言葉を聞いて、わしは機嫌がよい。あの集落の、天罰を与えた者どもを、解放して成仏させてやろうと思っておる。お前たちはどうする』
白虎の言葉に、祝女たちはひれ伏した。
「我らは永久に白虎神の祝女でございます。お帰りを、いつまでもお待ち申し上げております」
『そうか。では、この島に流れ着いた者は、これからは追い返すように』
「「はい」」
白虎の咆哮で、集落の人々は、永久に動かなくなった。
祝女二人が、舟を用意した。自動で動く櫂に任せれば、岩島から出られるという。
『行くあてはあるのか』
「あの……白虎神は、玄武神がもしお近くにいらしたら、気がつかれますでしょうか」
閼嵐の問いに、白虎は、少し考えているようだった。
『……ふむ。そういえば、水の神力を感じる。なんだ、玄武神殿にいると思っていたが』
「ぜひ、そこをお教えくださいませんか!! 仲間もそこにいるのです!!」
『ほう、玄武と共に在る者が仲間、か……。とにかく、まずわしの結界から出よ。それから導こう』
白虎は意味深長に閼嵐を見つめてから、くいと顎を西へ向けた。
「ありがとうございます!!」
特に紫苑は他に何も言えないほど感謝して、深くお辞儀をした。
閼嵐たちは、岩島を出た。
『先に言っておくが閼嵐』
白虎が、岩島の周りの霧の中で目を光らせていた。
『もしお前が老いに対して恐怖や侮蔑を感じたら、わしはお前を一呑みにする。お前は老いを克服している間だけ、わしと共に在る。忘れるでないぞ』
「はい」
閼嵐は、自分の声が若さを取り戻していることに気がついた。
『わしの試練に耐えた者にだけ、褒美だ。元の年齢に戻しておいたぞ。よく絶望しなかったな。たいていそこで士気が挫かれるのだが』
「独り身なので自分さえ納得すればよかったのです」
『は、は、は! 今のお前は真に魔族最強の、魔族王だな! ……できるだけ長い間、その勇ましい耳よい言葉を聞きたいものだ。白虎の力でも、お前が老いるのは止められぬのだからな』
「はい。長く生きたいです。そして、あなたの望み通りに生きられる者が一人でもいると、最期に申し上げたく存じます」
『……恐れるな。わしを思い出せ』
白虎はそれきり、何も言わなくなった。
舟は、神と神に認められし者の会話の前で口を慎んでいる紫苑をも乗せて、玄武神のもとへと向かう。
「星方陣撃剣録第一部紅い玲瓏九巻」(完)
「幼い子供は親の未来を持っている。老いた親は子供の未来を持っている」
若者は、自分の限界を超えてください。
老人は、社会の限界を超えてください。老人は、「社会の限界」という大いなる知恵を得ているからです。できたこと、できなかったことを若者に伝え、そして託してください。
「若者」と「老人」として、社会が分断されてはなりません。すべての世代が互いを必要とし、支え合っていることを思い出してください。




