剣姫その心を示せ第四章「名乗り」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、帝の一人娘で、神器の鏡・海月と、神器の聖弓・六薙の使い手・空竜姫。聖水「閼伽」を出せる、魔族の格闘家の青年で、はちまきの神器・淵泉の器の持ち主・閼嵐。
強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
帝都一の陰陽師・九字、九字の式神・結双葉
竜の体の一部を使って人間を操り、人族を滅ぼそうとする者・知葉我。
第四章 名乗り
露雩は再び愛欲の河にいた。
彼はもう、紫苑を愛することをごまかさない。
「紫苑の魂が救われたとき、はっきりとわかった。オレは彼女を愛してる。世界と同じくらい愛してる。もし彼女がいないなら、オレは世界を救ったあとに死を選ぶ」
露雩は、愛欲の河の上に「立っていた」。
「オレは彼女がいなくても世界を救う。だけど、最後に彼女を選ぶ」
老人が目の前に立っていた。愛欲の河に波紋を一つつけた。
「ああ、やはり私とは違う道を選んだな。昔からわかっていたことだ。だから私はお前を選んだのだ、不完全なお前を。運命を変えたければ戦え! お前の禁忌、貫いてみせよ! 見届けようぞ、新たなる――」
そこで露雩は我に返った。
目の前に裸体の紫苑がいる。月明かりに照らされて、月光の衣をまとっているように柔らかな陰影をつくっている。
式神に魂を分ける前の、きれいな体の紫苑を見たいと、そっとお願いしたのは露雩だった。
胸の中央には、傷一つない。
その肌を確かめるようになでる露雩に、紫苑は告げた。
「私はあなたに守られてばかりの女ではないわ。私は一人で戦える。あなたがあなたの敵だけに集中して戦えるように、私は一人で立つから。そして、隣りあって、共に同じものを見て生きていきましょう。どんなことがあっても、ずっとよ」
「うん。ときどき一緒に剣を振るって、だよ」
露雩はもう迷わない。
どんな未来が待っていても。
紫苑を愛することを。
翌朝、二人は城の外の一年桜の下にいた。
邪神・日業が倒されたことで魔族は散り散りになり、人々が城内で祝杯をあげていたので、ここには誰もいなかった。
本当は、露雩は紫苑にしてみたいことがたくさんあったのだが、空竜たちも起きているし、集中できそうにないので諦めていた。
「結婚して二人きりになったら、いろいろなことに挑戦しよう」
と、考えた。
「ねえ、露雩……」
一年桜の散る花びらを浴びながら、両手を後ろで組んで桜を見上げていた紫苑が呼びかけた。
「私のこと、好きっ?」
顔を傾けて、可愛らしく笑う。桜の精が目の前に現れたかのようだ。
「うん、好きだよ」
露雩の美貌がほころんだ。
この可愛い子と、遂に心が通じ合えたのだ。
露雩の喜びは自分でも計り知れなかった。
「なら証拠を見せて」
「えっ?」
いたずらっぽく上目遣いに笑う紫苑を見て、露雩はその可愛い歯ののぞく唇を自分のものにしたくなり、唇を重ねた。
爽やかな風が通り過ぎた。
「「んっ!」」
二人は「異変」に気づいた。
離した唇から、桜の花びらが一枚、ひらりと舞った。
露雩はとっさにそれをつかんだ。
「ふふふ、初めての口づけは桜味ね!」
紫苑が頬をほんのり桜色に染めて笑った。
「二人の初めての記念だ。押し花にしておくよ」
露雩は花びらをそっと手ぬぐいに包むと、紫苑を抱き締めた。
筋肉がたくましく隆起し、引き締まっている。竜の鱗のように硬い露雩の胸に、そして腕に抱かれたとき、その力溢れる雄々しい感触を感じ、太陽の豪放な光と月の静寂な光と星の燃える光を混ぜ合わせた力の匂いが紫苑の体中に行き渡って、紫苑ははっきりと、今自分は露雩のものになれたと感じた。紫苑は両手を硬い露雩の胸に置いて顔を寄せ身を預けると、目を閉じた。
紫苑は、露雩の他に霄瀾、空竜、閼嵐が揃ったのを前にして、これからのことを説明した。
「私は跳移陣で千里国に戻るわ。ちょっと遠いから、帝都に飛んでからになるわね。みんなは、白岩湾に面した、この厳開国の隣の国、達井履国で、船を調達しておいてほしいの。白虎神殿があるとわかれば、達井履国の王がどう出るかわからないから、天印は見せないで。船を調達したら、のんびり待ってて」
「気をつけてね紫苑」
「うん、露雩たちもね」
皆に見送られて、紫苑は跳移陣で帝都へ向かった。
「お久し振りでございます、九字様」
「ついて来い」
都で、九字はにこりともせずに紫苑を隣の部屋へ通した。例によって、部屋は九字の意のままに並んでいるので、密談ができる部屋なのだろうと、紫苑は思った。
「だいたいのことは承知しておる。閼嵐が十二種の大神器の一つを持っていたとはな。五十以上も神器を見つけたのは手柄だぞ」
相変わらずにこりともしない表情が、一瞬いたわりの色を見せた。あの剣姫対五十の神器の戦いを、式神で見ていたのだろうか。
「その中に、十二種の大神器はございましたでしょうか」
九字は黙って首を振った。
「時の帝だけに赦される、大神器かどうかを見分ける占いを陛下がされたが、どれも普通の神器であった。陛下は精神的にお疲れになり、床に伏せっておられる」
「さようでございましたか……」
五十もあるのだから、一つくらいあってもと思えたのだが、そうそう簡単には見つからないようだ。
「しかし、国庫に神器が増えたのはよいことだ。魔族の力をその分、削げる。陛下も特別にお前をお褒めになっていたぞ」
にこりともしない表情が、満足気な色を帯びた。
お互い、空竜姫のことには触れない。
それが命令だと紫苑は読み取った。
「それで、今日は何用で参った? 連絡もなしに突然戻るとは、路銀にでも困ったか」
「いえ、いただいたお金はまだたくさんございます。今日は……」
紫苑は厳開国での出来事を話し、出雲を迎えに行くためにここから千里国へ飛びたいと申し出た。
すると、九字のにこりともしない表情がぶるぶる波打ちだし、顔が赤色の塗料を噴射したように真っ赤になった。
「九字様……!?」
驚く紫苑を残して、九字は足音荒く隣の間へ出て行った。
そして振り返りざま、術を放った。
紫苑のいる部屋の上下左右に、鉄格子が下りた。
「九字様!? これは一体!?」
紫苑が鉄格子に取りすがった。
「式神出雲は主を守れなかった! 式神として失格だ! 私が葬る!!」
紫苑は鉄格子を握る手に力がこもった。
「何をおっしゃっているのです!? 出雲はこれまでも私を助けてくれました、私はずっと出雲を式神にします!!」
「ならぬ!! お前にはもっと強力な、別の式神を与える!!」
九字が跳移陣を描きだした。千里国に飛ぶつもりなのかもしれない。
「お待ちを九字様!! あなたに何の権利があって、私の式神を葬るのですか!!」
「私はお前の父親だ!!」
叫んだ九字の声が、紫苑の眼をこじ開けた。
「娘を守れなかった式神など、許さん!!」
九字は跳移陣で千里国へ行ってしまった。
あとに残された紫苑は、混乱していた。
「私の父上は、千里国の赤ノ宮殻典、母上は死亡している。私は赤ノ宮神社の跡取りで、千里国から出たことがない」
「紫苑様、九字様に代わって私からご説明いたします」
鉄格子の外に、九字の式神・結双葉が立った。
陰陽師・九字万玻水と、予言者・璃千瑠の間には、一人の娘がいた。しかし、産まれてすぐ、母の璃千瑠は殺された。母は、産まれる前の娘に「世界を滅ぼす予言」を与えていた。
このまま都にいては、帝を取り巻く様々な勢力に利用されるだろう。
人族の敵として、追われることになるかもしれない。
父は、娘が最も苦しむ道に、娘を進ませたくはなかった。
万玻水には弟がいた。赤ノ宮殻典、千里国で月宮を見張っている、赤ノ宮神社の宮司である。
都にいるよりよほどいい。
自分が技を教えて娘が最強の陰陽師になれば、世界を滅ぼすかもしれないが、殻典くらいの技しか教わらないなら、世界の脅威にはなるまい。
そう判断して、紫苑を殻典のもとに預けたのだ。あとで、世界を滅ぼす力は術力ではなく、剣技だったと知ることになるが。
「やむを得ず離れましたけれども、九字様はずっと紫苑様のことを案じておられましたよ。それでもお二人のご関係を隠すため、一度も成長をご覧になりませんし、徹底して他人を貫き通しておいででした」
「そんなこと突然言われて、素直に信じられると思うの?」
「父親でなかったら、出雲にあれだけ怒りますか?」
「……」
紫苑は、もしかしたら本当に、九字が父親なのかもしれないと思った。嘘をついたところで何の益もない。それに、共に都を守った出雲を葬るなど、普通では考えられなかった。
「それで、私がここでこうして捕えられているのを見て、あなたは何も思わないの!? 出雲がいなくなってもいいの!?」
結双葉は悲しそうに目を逸らした。
「出雲はまだ、神剣・青龍の真の使い手ではありません。私には主を止める理由がありません」
「何言ってるの!! 仲間を見殺しにするの!? あんたは!!」
紫苑は鉄格子に炎の術をぶつけた。しかし、炎は雲散霧消した。
「たとえあなたの炎でも、守ることに強い九字様の鉄格子は破れません。剣姫ならともかく、紫苑様の術力と九字様の術力は、違いすぎます」
「うっ……!」
傷一つついていない鉄格子を前に、紫苑が唇を嚙んだ。
さらに紫苑には、出雲を助けなければという焦りの他に、もう一つ別の、思考すべき感情が生じていた。
本当に、娘を守るためだろうか。
私が禍々(まがまが)しい気を持っていたから、捨てたのではなかろうか。
憎い。
苦しんでいる私を見捨てたくせに、父親面するな!!
そのとき、紫苑は気づいてしまった。
「私には、誰もいなくなってしまったよ」
幼い頃、人々に拒絶されても、父・殻典だけは味方だと思っていた。
でも、それは預かっていることから生じる、義務感だったのだ。
誰も幼い頃の私を全肯定し、生きていていいよと心から言ってくれた人がいないのだ。
「私の幼い頃を救ってくれる人が、誰もいないんだ」
紫苑はそれに気づき、ほうけてしまった。
耐えがたい絶望から己を護るため、すべての思考を止めたのだ。
そのとき、白昼夢や夢でいつも会っていたお兄さんが出て来た。
ああ、そうだね。お兄さんは、私といてくれたよね……。
露雩と出会ってからだんだん見なくなっていたお兄さんを、紫苑はしばし眺めた。救われなかった時期があるのは仕方がない、弱かったのだ。強い今、自分を救えばいい。だが、この喪失感、傷、憎しみは永久に消えないだろう。
お兄さんが紫苑の胸を指差した。
胸にしまった璃千瑠の予言状が、光っていた。
紫苑は、はらりと開いた。
『あなたが万玻水を憎んでいるのがわかります。でも、あなたが悲しみを持ったように、万玻水も悲しみを持っています。いつでも見られるのに、あなたの成長を一目見ることもできない辛さ、万玻水は毎日胸を引き裂かれる思いでした。どんなに禍々しい予言があっても、愛する私との間に産まれた子を嫌いになるわけがないでしょう。万玻水はいつも、あなたの運命と代わってあげたいと思っていましたよ。あなたのために泣かないで。万玻水のために憎まないで。あなたのことを、万玻水も璃千瑠も、ずっと愛しています。嘘だと思うなら、万玻水に直接尋ねなさい。“私のことを一日でも忘れた日があったか”と。さあ、私たちの紫苑、立ちなさい。世界はあなたを待っています』
紫苑は声が出なかった。
母が、紫苑の絶望を打ち消してくれた。
死んでなお、娘を愛し続けてくれたのだ。
紫苑は着物の袖で目の端を押さえると、母の手紙を胸にしまった。
「結双葉。私は千里国へ行く」
「なりません。私はここであなたを監視――!」
結双葉は、紫苑が剣姫になっているのを見た。この鉄格子の陣は、竹のように斬り倒されるだろう。
「私は父に聞きたいことがある」
九字を殺しに行くのではないと知り、結双葉は落ち着いた。しかし、剣姫がうまく陰陽の術である跳移陣を使えるだろうかとも思う。ここから出たはいいが、跳移陣で正確に飛べるのか――
剣姫は鉄格子をばらばらに斬り捨てた。
そのまま去ろうとする紫苑に、結双葉は追いすがった。結双葉は、紫苑を監視しなければならない身である。
「どのように向かわれるおつもりですか! 今のあなたでは、跳移陣でどこに出現するかわかりません! 危険です!」
「それでも行く」
「いけません!」
剣姫は振り向いた。
「主のために命をかける式神のために、主が命をかけることのどこが間違っているか!!」
結双葉は、己が身に置き換えて、はっとした。
固まっている結双葉を置いて、剣姫が自力で跳移陣を出そうとしたとき、結双葉が腕をつかんだ。
「放せ!」
「紫苑様」
結双葉の目が、真剣だった。
「今おっしゃったことが真実なら、私に道があります」
千里国では、赤ノ宮殻典が出雲の石碑の前で血を流していた。
「どけっ! 殻典! 出雲を葬るのだ!!」
九字が金気の術を放った。無数の針が殻典を襲う。
「炎・月命陣!」
殻典の出した三日月形の炎が針を溶かすも、溶かしきれない脇からの針が、殻典に突き刺さった。
「うぐぐっ!!」
殻典が後ろの石碑へもたれ倒れる。
「強情な奴だ。兄の言うことが聞けないのか!!」
九字が苛立った。金気の十二支式神「申」(猿)を出す。
「抱え上げて、どかせ!」
申が走ってくる。殻典が叫んだ。
「兄上は、間違っています!!」
申が、石碑にしがみつく殻典を引きはがした。
「出雲は、綾千代様の代から時を超えて私たちの一族を守ってくれました! 恩を仇で返すのですか!」
「紫苑を守れなかった!! 出雲は式神として失格だ!! 石碑を破壊しても飽き足りん!!」
申が、殻典をかついで石碑から離れた。
「主人を守れぬ式神など、要らぬわー!!」
九字の手から、巨大な針が放たれた。石碑を砕けるほど大きい。
「兄上!」
針が石碑に当たる直前、剣姫と結双葉が到着した。
「出雲ォォッ!!」
針を止めようと、剣姫が跳んだ。
しかしそれより早く、針が石碑に到達した。
そのとき、封印の光の中を漂う出雲の耳に声が響いた。
『立ちなさい出雲』
「……ん!?」
九字は眉根を寄せた。
針は、石碑を砕かず貫いて止まっていた。
「出雲!! 出雲!!」
剣姫から戻った紫苑が叫んで、針を抜こうとしている。
「まあいい、とどめは刺したはず。それより、剣姫が跳移陣を?」
九字は、隅に結双葉が立っているのを見た。
結双葉には、緊急時にいつでも九字のもとに駆けつけられる跳移陣の札を、渡してあった。
「あとでじっくり話を聞くぞ、結双葉!!」
九字はきつい調子で言い渡した。その間、紫苑が式神出雲の封印解除の霊なる言葉を唱えていた。
『強き魂よ 我こそ誘う 輝きの方陣に
束の間に歩み止め 現世のうたかたに身を委ねよ
我こそ踊らんこの光の螺旋、汝はたどらん我が命の螺旋!!
出でるがよい!! 炎式出雲、律呂降臨!!』
「無駄なことを。石碑を砕かれた式神は、永遠にこの世から消滅するのだ」
九字が満足そうに鼻から息を吹いたとき、石碑から光が溢れ、光が収縮し、その中に出雲が立っていた。
「出雲!!」
「あっ!! 紫苑、魂抜かれたの、大丈夫だったのか!?」
いつもと変わらない出雲に、紫苑はほっとして、体中の力が抜けて座りこんだ。
「なっ、なんだと!? しかも無傷!? 一体どうやって!?」
出雲は、目を見開く九字を見た。そして、神剣・青龍の刀に目を落とした。
青龍の刀は、影も吸収するほど真っ青一色になっていた。そしてボロボロと灰のように崩れていくと、風に乗って飛び散り、跡形もなく失せた。
「青龍の刀が、身代わりになってくれた。燃ゆる遙を封じた刀を守るために命を投げ出した褒美だって言われた……」
出雲は青龍の塵の去った方を、ずっと眺めていた。真の青龍の使い手が持たない以上、たとえ神剣・青龍と同じ力を備えていたとしても、不滅ではなく、元の青龍神殿に戻ってしまいうるのだ。
九字は、自分の行いが神の意に反したことを知り、我知らず戦いた。
出雲は九字に向き直った。
「……石に入ってた頃の外の様子は、なんとなくわかってる。先に言っとくけどな、九字。オレは、紫苑のためなら死ねるんだよ」
「……出雲!」
出雲は紫苑を手で制して続けた。
「確かにオレは、剣姫の力にはかなわない。だけど、剣姫が終わったあとの紫苑を、一生守り抜く覚悟があるんだよ」
九字が身動ぎした。九字ができないことを、宣言されているようだった。
「今回紫苑が魂を抜かれたのも、オレが弱いせいだ。だけど、気づいていたら、オレが身代わりになってた。オレは紫苑に生きていてほしい」
九字は、それを聞いて過去の自分と重ね合わせた。そして、出雲が死に急ぐ娘を止めようとすることを知った。
「……見ているからな」
九字は申をしまった。神の力を、人々の希望の火を、一つ奪ってしまった。罪はいずれ償わねばなるまい。今回は完全に九字の負けだった。それを理解してから、去ろうとした。
「待ってお父さん!!」
紫苑の声に、九字はびくっと止まった。しかし、振り返らない。
「お母さんの手紙、読んだの!」
璃千瑠の予言状と聞いて、九字が横顔だけ振り向いた。
「お父さん、私、生きてて辛かった! 苦しかった! どうすればこの世界と関係ない世界へ行けるのか、ずっとこの世界を憎んでた! ねえ、それでもこんな私のこと、好きだった!? 私のこと、一日でも忘れたことなかった!?」
九字の閉じた目頭が熱く震えた。
「……当たり前だ……」
鼻につまった、しかし重々しい声だった。
「愛しているから、私はお前を産んでくれと璃千瑠に頼んだのだ。どんな未来がわかっていようとも、私はお前を守る。私は、ずっとお前の味方だ」
その言葉を聞いて、紫苑は目を潤ませて笑った。
「お母さんの言った通りだった!」
「璃千瑠お義姉様のお手紙か。兄上、せっかくですから見せてもらっては」
殻典が、傷を回復してから、痛む体を動かして紫苑に近寄った。
「ついでに、我々も積もる話をしましょう、さあ」
殻典が石に腰かけた。出雲が支えた。紫苑も隣に座る。万玻水は結双葉を従えて、紫苑の隣に腰を下ろした。
「お前が帝を殺害したり、都の人々に拒絶されたら、もう人間もお前も歩み寄れなくなるだろうと思っていた」
万玻水はぽつぽつと語った。紫苑を手なずけて自分の最終兵姫にしようとする連中を密かに葬ったり、万玻水に探りを入れてくる連中の素性を、芋づる式に暴いて葬ったり。
「一番気をもんだのは月宮が相手のときだった。あやつは紫苑の前で猫をかぶっているのが明白であったからな。帝の弟では、相当な理由がなければ暗殺できない。いずれ陛下も討つおつもりでいらっしゃったが、その前に……その……」
万玻水が口ごもった。紫苑が次の言葉を待っていると、殻典が代わって話した。
「月宮はお前に恋をさせようとしていたのだ。妾になれと言うのが一番早いが、それを言ったらお前に殺される。だから、『いい人』を演じてお前が自然に月宮に恋するように努めていたのだ。お前にその気が全くないので、はたから見ていた私には滑稽であったがな」
紫苑はぽかんとしていた。月宮の戦略に、全く気がつかなかった。殺されないように、よほど慎重だったのだろう。
「お前には滑稽でも、近くでその空気を読めない私にとっては、都で気が気ではなかった」
万玻水が月宮のことを思い出して腹立たしげに口を曲げた。
「とにかく、よくがんばったな。今生きているお前は、偉いぞ」
そう続けて、重々しくうなずいた。
ずっと言ってあげたかったことを、言えた。
そんな表情をしていた。
紫苑の耳がその言葉をずっと響かせていると、
「……今、どんな扇を使っているのだ」
万玻水がふと、尋ねた。そして、露雩がくれた「玄」の字と同時に玄武の神紋の描かれている水気の玄扇を手に取った。
「陰陽の陰が、玄武神で……。露雩に頼んだのか」
「彼の考えで、彼からの贈り物です」
娘が嬉しそうに話すのを、万玻水の「子」はじっと見つめていた。
「ふむ。これは負けられんな」
「え?」
万玻水は、裏面が白地のままなのを見て、「よし」と笑った。
炎の術の使い手の娘が、炎を弱める水気の扇を持つ理由は、ただ一つ。
式神・出雲の成長に対抗するためだ。おそらく、木火土金水すべての力を備えるつもりなのだろう。そうでなければ、青龍の真の使い手になりうる出雲を、超えることができない可能性が高い。炎の精霊を出雲に宿らせて正解だった。紫苑は自分で、出雲が青龍を得たときの危機に気づいた。
「父として、初めての贈り物をしよう。私の知る限りの術を、すべてこの扇に書き込む」
「ええっ!!」
紫苑は嬉しさで飛びあがった。金気の技が、万玻水の術の力で、扇の白地の面に小さな字でびっしり書き込まれていく。
「私、まだ使えない術も……」
「わかっている。だが、いつか使えるようになる。お前はこの私の娘だ。お前ならできる。私はお前を信じている」
「っ、はい!」
紫苑は深々と頭を下げた。
「すごいのもらったな紫苑! よかったな!」
出雲も笑顔で見守った。
表が水気の玄扇、裏が金気の白扇となった。
嬉しそうに術の文字を読んでいる紫苑を、万玻水の「子」の目が見つめていた。
「星方陣を成す旅が、いつ終わるかはわからない。これが今生の別れかもしれぬ。そのつもりで旅に戻れ。私の教えるべきことは、すべてその扇に記した。きっと危機のときの助けになるだろう」
「はい! 大切にします!」
紫苑のその声を、一生大切に覚えていようと、万玻水は思った。そして、
「それさえあれば、私はもう用なしだ。お前は今まで通り殻典を父とするがいい。結双葉、帰るぞ」
「えっ」
「私は十五年間、お前を守ってやれなかった。父を名乗る資格はない」
万玻水が立ち上がったとき、紫苑はその腕にとりすがった。
「待って!」
紫苑は必死に説得した。
「そんなことない! ずっと想ってくれたなら、もう私の前からいなくならないで! 扇にすべて書いても書かなくても、お父さんはお父さんのままよ! 何かの知識を教えるのだけが育てるってことじゃないわ! 私は殻典の父上に安心できる居場所を教えてもらった! 私は、お父さんからも教わりたい! だからお父さんはどこにも行っちゃだめなの!」
「だが私は術にしか能のない男だ。その術をすべてお前に教えてやれただけで私は満足なのだ。私はずっとお前を愛している。もうそれ以外には何もしてやれない。だから……」
「自分勝手!」
万玻水は、紫苑の子供じみたののしりに驚いた。
「何もしてくれなくていいの! 価値とか、有益とか、そんなものなくたっていいの! なんで一人で決めちゃうの? 自分の役目は終わったふりして、また出雲が私を守れなかったら、もう一回父親になって怒るんでしょ! そんなのずるい! 私には何も言わせてくれないくせに、自分のときだけ父親に戻るなんて! ひどいよ! 一生お父さんでいてよ! じゃなきゃ私……!!」
紫苑は涙をぽろぽろと流した。
万玻水はどうすればいいのかわからなかった。
娘の涙に戸惑っている万玻水の手を、殻典がそっと引いた。結双葉が、「子」を自分の両手に移した。殻典は万玻水の両手を前に差し出し、重ねる。
春の風の香り。
紫苑を抱き締めているのだと気づいたとき、万玻水は目頭が熱くなるのを感じた。目が見えていたら、一生しなかっただろう。
「殻典、結双葉、お前たち……」
「本当の父親は、兄上です」
「どうかそのままでいてあげてください」
紫苑は抱き締められてますます大きな声で泣いた。
しばらくして落ち着いてきた紫苑に、万玻水は聞いた。
「二人父がいてもいいのだな」
「うん。旅が終わったら、三人で都に住もう」
殻典が同調した。
「そうだな。この地にはもう月宮もいないし、私がいる必要もないだろう」
万玻水は優しくうなずいた。
「よし、じゃあそうしよう。そのときは三人で、都で暮らそう」
「うん!」
元気よく笑う紫苑の後ろから、出雲が上体を傾けて万玻水と顔を合わせた。
「オレも紫苑についていくから、よろしくな!」
「子」の目ではなく、耳に向かって宣言していた。
「私も九字様のお供で参ります。おや、大家族ですね」
結双葉の言葉で、皆は笑った。




