優猛魔性(ゆうもうましょう)第二章「身代わりの柱」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、帝の一人娘で、神器の鏡・海月と、神器の聖弓・六薙の使い手・空竜姫。聖水「閼伽」を出せる、魔族の格闘家の青年で、はちまきの神器・淵泉の器の持ち主・閼嵐。
強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
第二章 身代わりの柱
閼嵐は腰に提げたひょうたんを手に取った。
「さーて、ひと牙折るかな!」
水を張った鍋に焼き石を入れて沸騰させると、閼伽を出して温度を調節する。そしてひょうたんの中の液体を徳利に入れると、鍋の中へ入れて燗をつけた。
ひょうたんの中身は酒であった。
「さすが百二十歳は違うわね」
空竜が竹水筒の水を飲みながらそれを眺めた。
一行は長結国の山中で、思い思いの休憩に入っていた。他の四人は日々の修練に出かけている。
「空竜、お前も弓の練習しないのか?」
「ふっふっふ、どうして私がここに残ったと思う?」
空竜はトマトと胡瓜を取り出して、にんやーりと笑った。
紫苑は無言で木の幹に上半身もたれかかり、足をまっすぐに伸ばして座っていた。
藤花。
閼水のことが頭から離れない。藤花のことを、閼嵐に聞いておくべきである。しかし、喉が声をふさいで、それができない。
ずっと、聞こう、声をふさごう、の繰り返しで、前に進めない。
紫苑の隣に黒い服の影が立ち、腰かけた。
露雩だった。
彼も、無言だった。
しばらく二人で、どこか遠くを見ていた。
露雩は、ゆっくり紫苑の胸に頭を載せた。
「過去なしに今の自分があるわけがないことは、わかってる」
紫苑は遠くを見る目をわずかにすぼめた。
「でも、いまさら……、記憶を取り戻すのが恐い……!!」
露雩は固く目を閉じて体を震わせていた。
その体を包みこむように、紫苑は露雩の頭に手を添えた。
「私もよ。でもね」
彼女は彼を見ていた。
「どんなあなたでも、大好きよ」
露雩は紫苑の暖かい光の中に包まれた気がした。彼女の中にいることは、すべてを穏やかに安らげていった。自分と戦う傷はすべて、彼女が癒してくれると夢の中で知った。
露雩は、眠っていた。
紫苑は、声をたてずに涙を流していた。
やはり、最後まで利己的なことが言えないのだと、閼水と「藤花」を前にしたとき、知ってしまったからである。
お昼になって、一同はそろった。
紫苑は、人参、ごぼう、そしてきのこの、炊込みご飯を作っていた。
「閼嵐、動物の肉は食べないんでしょ?」
「まあな。でもみんなは人間だから、人間にとっての栄養の良い食事をとってくれ。実はオレは、たいていの草や葉が食べられるんだ。だから、オレのために特別に料理を作らなくていいぞ」
閼嵐は、木の葉をむしって食べてみせた。
「……すげえ。草だけでその筋肉になるのか」
出雲が目を丸くした。
「フッフッフ、ジャーン! そんな閼嵐も食べられる料理、私も作っちゃったあ!」
空竜が大きな鉄鍋を、炊込みご飯の隣に置いた。
「……なんか味噌汁の味噌に合わない色が浮かんでいるんだが」
出雲が味噌の香る鍋に、恐る恐る顔を近づけた。空竜は聞いていなかった。
「ジャーン! トマトと胡瓜の味噌汁でえす!」
味噌汁の中に、赤と緑の野菜が、味噌の中に身を委ねることなく、個々に存在を主張していた。
「……なに、これ」
出雲が指差した。
「誰も作ってないからなんでだろうなーって思って、作ってみたのお!」
出雲が空竜に指を突きつけた。
「あのなあお前! こんな水気だらけの野菜、味噌汁にする奴があるか!」
「豆腐も水気多いのにみんな使ってるじゃない」
「あれは味がしみるから! こっちのトマトと胡瓜は不協和音だよ! しかもフニャフニャした得体の知れない物体までちらちら見えるし!」
「それ、トマトのタネの部分」
「わかっとる!」
「味噌汁にぷよんとした食感って、斬新よね!」
「……。しかも胡瓜も斜め切りで楕円形だし……生野菜の小皿じゃねえんだぞ! 千切りにしろい!」
「ひ、ひどい。一所懸命に作ったのに」
ここで紫苑がまあまあと割って入った。
「空竜はまだ創作料理をするには、日が浅いわ。もっと人の料理の真似をしてから、新しいものを考えましょうよ」
「うん……」
「やっぱり食えねーんじゃん。料理人に怒られてやんの」
「出雲。全部食べましょうね。どんな味つけでも、この世にあった大切な命をいただくんですからね」
「うっ……はい……」
紫苑に怒られて、出雲は従う返事をするしかなかった。
「僧侶みたいなこと言うなあ紫苑」
閼嵐がまじまじと紫苑を眺めた。魔族を生み出さない思想の一つに、興味津々のようだ。
「料理人てみんなそうだと思うわよ。この海と山の幸を、一つも無駄にするものか、したら命の罰があたるってね。せっかくこの命になって、そして縁あって食材になってくれたんだから、それを適当に料理して、感謝もなく食べて、命を軽んじることなんて、できないわ」
「なるほど、じゃあ丁寧に命と向き合うのが相手への礼儀ってことなんだな?」
「そうよ。そう考えるとね、だんだん料理道具も大切に扱うようになってくるのよ。片付けも手入れも掃除も、今日もおいしい料理が作れたわ、ありがとうって気持ちでするようになるの。今あるものは当たり前にあるわけじゃないって知ってると、丁寧に何かを作れるようになるわね。この犠牲になってくれた命の力に応えよう、もっといいものを作る努力をしようってね。これはやっぱり、あなたの言う命への礼儀なのね」
「ふーんそうかあ、紫苑と話してると、なんか元気が出てくるな、オレ!」
閼嵐は、動植物の命を大切にする紫苑に、わくわくしていた。
父が待ち望み、自身も待ち望んだ「ある存在」が、この女性ならいいな、と望んでしまう。
「うぬう……」
閼嵐の様子を、出雲が落ち着かない様子で注視していた。
案の定、トマトと胡瓜の味噌汁は、味に調和がなかった。
「味も水分で薄まってるしな……。食材の命を救うためにお前は二度とトマトと胡瓜と味噌を同時に手に持つな」
「ナニよソレえっ! 変な命令しないでよっ!」
出雲と空竜が言いあっている中、一人閼嵐だけは、パクパクと箸が進んでいた。
「みんな食べないのか? オレ、おかわりしていいか?」
「閼嵐! 平気なのか!」
「なんかの毒みたいに言うなっ!」
叫ぶ空竜を押しのけて、出雲が閼嵐に迫った。
「だって、そういう味なんだろう?」
「そうよ! わかってるじゃない、閼嵐!」
「だまされるな空竜、褒めてねえぞ!」
今度は空竜が出雲を押しのけた。
「おいしいとは言えないが、まずいかどうかわからない。オレ、魔族だから」
「え」
空竜は固まった。
「固いだとか薄味だとか、それは食べるのをやめる理由にはならないな。空竜の料理の味には正直驚いた。でも、新しい味だから食べる」
「……」
複雑な陰影を生む顔で硬直している空竜の肩に、出雲が手を置いた。
「よかったな。オレも初めてこんな前向きな褒め言葉聞いたぜ」
空竜は一瞬、間をあけると、
「ばかばかばかばかばかばか」
と、出雲をぽかぽか叩いた。
「しょうがねえだろ! オレは閼嵐の味覚に脱帽だ! その優しさを嚙みしめろ!」
二人が言いあっている陰で、霄瀾は小声で紫苑に「残しちゃだめ……?」と、恐る恐る聞いた。
「ああ霄瀾、こういうときはね……」
紫苑が優しく説明しようとしたとき、
「いいさいいさ」
と、閼嵐が霄瀾の頭に手を載せた。
「食べられるようになるまで、オレが代わりに食ってやるよ。必要になるときが来たら、自分から食べに行くんだから」
そして霄瀾の味噌汁を取ろうとする手を、紫苑が握った。
「ギャー!!」
「あ、あのね閼嵐!」
柔らかい紫苑の手に包まれて、閼嵐は全身がぶるぶる震えた。出雲がムカッと頭から湯気を出して、二人の手を引き離した。
「子供の教育に悪いぜ。こういう甘い親は子供をダメにするんだ」
「出雲、オレが甘いのはたぶん将来一緒になってくれるかみさんだけさ。子供は別」
閼嵐は紫苑に握られた手を自分の手で強く包みこんだ。
「へえー、そうなんだ!」
紫苑が笑うのを、閼嵐は震えるのも忘れて見入っている。
「うっ! これは、倒すべき敵とみた!」
出雲が刀を抜こうとするのを、霄瀾が必死に止めた。
「何言ってるのさ出雲っ! こんなにすごい人はいないよ。ふつうは怒るのにさ……」
「オレ、仲間だと認めたらとことん信頼するんだよ」
閼嵐の声が響いて、出雲は手の力を抜いた。
「つまりオレたちが仲間だから怒らないってことか。これじゃ、戦えねーや」
出雲は腰を下ろした。
「でね、霄瀾、こういうときは先に味噌汁の汁を飲んじゃうの。そのあと、残った野菜を、生野菜のお料理だと思って、いただくのよ」
「紫苑! せっかく味噌汁にしたのに別々に食べるだなんてえー!」
「諦めろ。それと、早く基礎を身につけろ」
出雲は空竜を尻目に、紫苑に言われた通りの方法で味噌汁を食べた。
閼嵐は、終始無言の露雩に目を向けた。
「藤花かどうか、気にしてるのか」
「……」
「藤花はな、二刀流だった。だがな、その双剣は神器だった。オレの見たところ、その玄武の神剣以外の二本はただの刀だ」
「えっ!?」
「どうしてそれがわかるの、閼嵐!?」
露雩と紫苑が身を乗り出した。
「オレの家は代々神器の名前、図、力を書に記録してきたんだ。神器か神器じゃないかは、その書にしみついた匂いと同じかどうかでわかる」
「匂い?」
「本物のそばに置いてあった書には、神器の発する独特の匂いが移っていたんだ。オレの一族しか嗅ぎ分けられないみたいだったがな。露雩の二本の刀からはその匂いがしない。だから双剣が神器だった藤花ではない」
紫苑はほっと胸をなでおろした。露雩ほどの強者が、神器を二つも奪われることは、あり得まい――。
そう、自分を納得させた。
「二刀流」に戦きながら――。
「あら? 橋が壊れてるわ」
次の村である置森村へは、幅三メートルの川を渡らなければならないが、木の橋は残骸をさらして、真ん中が川に流されていた。
「これじゃ、渡れないわあ……」
先頭を歩いていた空竜が振り返ったとき、閼嵐はひょいと紫苑のお尻を自分の右肩に乗せて、助走もつけずに向こう岸に飛んでしまった。
「えっ!? えっ!?」
慌てる紫苑を肩から降ろすと、閼嵐が空竜たちに声をかけた。
「お前たちも今、運ぶから!」
空竜はこの状況をとっさに理解して、露雩に必殺の斜め上を見上げる顔をした。
「露雩、おぶってえ!」
「ごめん空竜、霄瀾が先だよ」
露雩は霄瀾をおぶって飛んでしまった。
「あ、じゃあ迎えに来てえ!」
「何遅ったれてるんだ。ほら、行くぞ」
「ちょっとお! なんで出雲におぶわれなくちゃいけないのよ! きゃわっ!」
出雲にしがみついて、空竜も川を渡った。
「信じらんない! せっかく露雩に密着できる機会だったのに……!」
両腕を上下に振って出雲に抗議する空竜の隣で、閼嵐が紫苑に真面目な顔をした。
「紫苑、お前尻が柔らかすぎるぞ。もっと引き締めとけ」
それを聞いて、露雩の目つきが修羅のような闘争溢れる形に変わった。
「ア・ラ・ン……!! サ・ワ・ッ・タ・ナ……!!」
「え? 肩がな」
閼嵐は真面目に答えた。
「双剣が折れてもその右肩を……!!」
「コラー!! ダメ何言ってるの露雩!!」
紫苑が露雩の双剣にかけた両手を握り押さえた。
「だって、ずるいっ!!」
「下心はないみたいだし、ギリギリ許そう! ね!?」
露雩は両手に紫苑の体温を感じて、頭に血が上って熱くなっていた温度を、下げてもらった気がした。
「結婚したらすることが増えた……」
露雩の呟きは、「あんまり女の子の体を無造作に触らない方がいいわよ」と必死に閼嵐に説明する紫苑には、聞こえなかった。
置森村では、宴が行われていた。
村の守り神である巨石の女神像を囲んで、村人が地面に敷いた葉の上で飲み食いしている。
「今日はどういう日なのですか?」
料理を運んでいた女は、声をかけてきた紫苑たちを見てとても驚いた顔を見せた。
「い、いえ……村長様の息子の誕生日なのですよ……」
と、言葉を濁すと、急いで女神像の下へ向かった。
女神像のそばには、村長らしき、背の高い帽子をかぶった男が一人と、他に男の子、そして旅人らしき男が座っていた。
「どうしましょう、替えましょうか」
女が村長に小声で囁いた。
「いや。途中からでは赦されまい。さっさと追い出してしまえ」
村長は短く命令した。
女は、愛想笑いをしながら紫苑たちのもとに戻って来た。
「すみませんが、今日はみんな宴にかかりきりで、宿も営業しておりません。次の町まで向かわれることをお勧めします」
しかし、既に夕方で、このまま出ては夜通し歩くことになる。
「わかりました。食事だけでもとれるところはありませんか」
「えっ、おい霄瀾がいるんだぜ」
紫苑に出雲が抗議するのを見ながら、女は食事が済めば村を発つのだと考え、宴の食べ物をどうぞと言って、給仕に戻っていった。
「お前、今夜どうするつもりなんだよ。せっかく村で安全に眠れるのに……」
「郷に入りては郷に従えよ。その土地の風習を無視しちゃいけないわ」
宴の串焼きを取って食べ始める紫苑に、渋々出雲は従って、串を取った。
人々の話の様子から、村長の隣に座っているのは、旅の行商人だということがわかった。
旅の面白い話や各国の情勢を教えてくれたので、主賓として扱われているらしい。
その割には、人々の笑顔が一種異様なのに紫苑は気づいた。
剣姫が嫌う空気が漂っていた。
それでも、紫苑たちは村を出た。給仕の女がいつまでも見送っていた。
深夜、宴が終わってすっかり片付いている女神像の周りに、村人たちが音もなく集まりだした。
手に手に松明を持っている。
「何をするんです!! どうして私がこんな目に!!」
行商人の男が、両手を後ろで縛られた状態で、宿から追い立てられてきた。
「お前さんには宴のごちそうの分、やってもらわなければならないことがある」
背の高い帽子をかぶった村長の目が光った。
人々は行商人を引っ立てて村を出た。火に伸びた村人たちの影が笑った口は、耳まで裂けたように見えた。
彼らは急流の川に着いた。橋は壊れていた。
「神がお怒りだ!」
村長が叫んだ。
「神がお怒りだ!」
人々が続いた。
「神よ、今、人柱を捧げます。どうかお怒りをお鎮め下さい!!」
村長が合図すると、村人が行商人へ、一斉に振り向いた。
行商人の命で自分の命が助かるのだという、偽りの安堵の目だった。
「どうして私が人柱などに!! ふざけるな、お前たちの村のことを、なんで私が!!」
「この村は川に囲まれていてな、四方のすべての橋が増水で壊れたら、女神様がお怒りになった証拠なのだ。人柱を立てねばならないのだが、皆、自分の家から出したくないのだよ。そこでこの村を通りかかった人間を人柱にすることにした。さっき人柱を捧げる宴をして、女神様に約束してしまっている。お前が人柱になってくれなければ、困るんだよ」
「狂ってる……!!」
行商人は村長の視線を受けるのを、おぞましいと感じた。息子の誕生日というのは大嘘で、人柱を食事で清めて、神に捧げる準備をしていたのだ。
重石が転がされてきた。縄が結びつけられている。
その縄が行商人の腰に回された。
「誰か!! 助けてー!!」
行商人の悲鳴を村人が聞き流したとき。
重石と行商人の間の縄が、一瞬で切り離された。
「人柱か……。無駄なことをするものだ」
剣姫が立っていた。出雲たちも後ろに控えている。
「あれ!? あんたたち、村を出たはずじゃ……!?」
給仕の女が顔色を変えた。
「村の宿屋に泊らないだけで、村の外で野宿していたんだよ。いつどこで休もうとオレたちの勝手だろ」
紫苑が村を出てから言ったことを、出雲が繰り返した。給仕の女は唇を嚙んだ。
「見られたなら仕方ない。のう皆さん、ここはひとつ、黙っていてくれないか。橋が壊れると、みーんな困る。たった一人の犠牲で、他のみんなが助かるんだ。な、ようく考えておくれ。人柱はお前さんたちでもいいんだよ」
村長の声はだんだん薄暗く、湿っぽくなっていった。村人たちも、標的を狙う目になる。
狂った視線に慣れていない空竜は、無意識のうちに出雲の後ろへ寄った。
剣姫は堂々と立っていた。
「お前たち、人柱なんぞ怨念を一つ沈めるだけだ。沈めるのは神にしろ」
「えっ!?」
村人が殺気立った。広場の女神像を沈めるなど、とんでもない!
「もちろん、女神像の複製品を沈めるんだ。人間よりよっぽどご利益があるし、守ってくれるだろう」
「……」
村人たちは戸惑って顔を見合った。
「で、でも水の女神様だから、沈めるものの中には水が流れてねえと……」
「人間の中には血が流れてるから……」
剣姫が提案した。
「じゃあ、中が女神の形をしている空洞の木枠を作って、台座あたりに穴をあけて中に水を入れればいい。正真正銘『水の女神像』の完成だ」
おお……!? と、村人が声をあげた。
「完全な水の女神様をお沈めするなんて、なんてありがたい守りだ!」
「人間のちっぽけな命の力より、よほど完璧だ!」
「あんたすごい信心深いな! 教えてくれてありがとう!」
「しかし、それでも橋が壊れたら」
その言葉に、剣姫が答えた。
「人柱を立てても壊れたろう。神だって怒るときは怒るのさ。何かを伝えるためにな。その橋はすぐ壊れるから、もっと工法を工夫しろ、とかな。神が『腹が減った』とか、『誠意を見せろ』とか、言ったのか? 人柱は、すべてを捧げられるほど信心深い人間だけがすることだ。神のおわす地のために戦う者や作る者、売る者など、他のことでその信仰を捧げている者を、巻きこむな」
神官の村長はいきりたった。
「私を侮辱したな!!」
「ではお前が人柱になれ。一番力がある人柱になれよう」
剣姫に言われ、村長は、むむと口を閉め、行商人の男の縄をほどかせた。
「人柱より効果があるぞ。皆、よい木を探そう」
「おう!!」
行商人が逃げ出すそばで、閼嵐が村人の中に入った。
「その重石をくれるなら、オレが女神像を彫ってもいいが」
「えっ!?」
一同が驚く中、閼嵐は手刀で重石をバーンという低い大きな音と共に割った。
村人はこの怪力を目にして縮み上がると、
「明日の朝まで見に来るな」と言う閼嵐の言葉に従い、村へ帰って行った。
閼嵐は自分の爪を使って石を削っている。
「閼嵐、彫刻なんてできるの?」
空竜は織姫として、興味津々である。
「ああ。宝石だって研磨できるんだぜ」
「すっごおーい! 私の作った服に、閼嵐の宝石つけよっかなー!」
出雲が入ってきた。
「おい、女神像の姿見なくて、彫れるのか?」
「覚えてるから大丈夫」
「え!?」
空竜、出雲、霄瀾が驚いているのに少し離れて、紫苑が橋の壊れた川を眺めていた。
「剣姫になっても、斬らなかったね」
露雩が隣に立った。
「間違っていることは、正さなければ」
「悪人ではなく、悪の論理を討たねばならない」
紫苑の言葉を、露雩は詳しくした。
「今日は幸運だったのよ。誰も犠牲にならない世界は、難しいわ」
「でも、今日剣姫は善人の命を一人、悪人の命をたくさん、救ったよ」
紫苑は目が動いた。
「剣姫がすべてを救える可能性があるってことじゃないかな」
自分も記憶の真実に揺れて不安だろうに、紫苑を気遣ってくれる露雩。
この人を、たった一人を最期まで守りきりたい――紫苑はすべてを終わらせたとき願えるはずの願いが一瞬頭をよぎった。
「……あなたがいれば」
剣姫をここまで救ってくれたのは、露雩だ。彼と共にいたい。たとえどんな過去が待っていたとしても。
閼嵐は、石を彫りながら紫苑のことを考えていた。
面白いことを言う。
人間の命の方が、神への従順の証、犠牲にふさわしいと言う者もいるはずだ。
だが、人間は神の姿形には負けるのだと、力技でねじ伏せたのだ。
犠牲は、犠牲者の神格化を伴いかねない、危うい祭りである。
神以外の者を崇拝することは、この世にあってはならない、命の禁止行為の一つである。
剣姫がそれを知っていたかどうかは知らないが、世界の最強の集団に属する者の一人として、その方向に勘で傾いていたとしても、おかしくはない。
無駄に動物や植物が殺されないことを願っていた閼嵐は、思考に思考を重ねた結果、既に犠牲の祭りの本質に到達していた。
食べようと食べまいと、自分たちの一番大切なものを神に捧げてそれを「御下がり」として自分たちで使わない行為は、何の意味もない。ただ自分が満足するだけだ。
そしてそれは本人がすることは自由だが、嫌がる他人に犠牲を強いてはいけない。信仰の強制と同じで、してはならないことだ。やりたいなら自分が一人でやれ。神の福は人間の力では到底実現できず、畏れ感謝するのはわかる。だが、何をして感謝するかは、自分が決めるべきだ。金持ち貧乏人権力者弱者。それぞれの「表すことができる畏れ」は、もし「捧げもの」をするなら中身は違うのだ。
強制的に犠牲にされる方はたまったものではないと、人々を呪いながら死ぬし、人々にも悲しみしか起きない。
そもそも、犠牲をくれなきゃ願いをかなえない神など、聞いたことがない。それは神ではなく、偽りの神の姿をした悪の塊だ。
人々の日頃の悪事を償わなければ願いをかなえてくれないからだと言う者もあろう。しかし、悪事が犠牲で帳消しになると誰が言ったのだ? 日頃の行いを良くするしか、幸せになれないとなぜ本当のことを教えないのか? 毎年の犠牲で天災が止まったことがあったであろうか? 神のすることは人間の理解を超えているから、あるがまま受け入れるしかないと、なぜ悟らなかったのか?
人間は、神を理解したかったのだ。
ちっぽけな理解で、世界を知り、世界中を支配したかったのだ。
そして、思い通りに幸福な日々を送りたかったのだ。
そういう集まりの者たちが、「御しやすい神」つまり犠牲を捧げ、神を天から地上に引きずり下ろして隣に立たせようとしたことは、想像のつかないことではない。そして犠牲を「食べ」、神の力を身に宿したと力むのだ。
結局、神への感謝、償い、願いどの形であっても、犠牲は人間が勝手に考えたものに過ぎない。
では、神が命に本当に望むものとは、何なのか。
閼嵐は、まだ「自分と他の命を助けること」しか、わからない。
でも、この世界が続いていく以上、いつか答えを出す人物が現れる予感がしていた。
思考した者だけが得られる予感を頭の中で繰り返していた閼嵐の手先が、霧で覆われた。
顔を上げると、近くにいるはずの紫苑たちの影さえ見えない。
閼嵐は魔族の臭気を感じ、身構えた。
「キャアッ!!」
「わあっ!!」
仲間たちが何かの攻撃を受けているようだ。何かが草を蹴って飛びかかる音がする。
「霄瀾! オレにつかまってろ!」
「紫苑、絶対一人でどっか行かないでよお!?」
霄瀾は出雲が、空竜は紫苑が守っているようだ。
「炎・月命陣!」
「火空散!」
「神流剣!」
紫苑、出雲、露雩の技も、霧を一瞬払うだけで、濃霧は元に戻ってしまう。
「(この霧はおそらく魔物の吐く息だ。だから単発の技では払えないんだ)」
閼嵐は身構えて全神経を集中させた。
そして、飛びかかってきたものをかわして両腕で捕まえると、そのまま絞め殺した。
山猫の魔物であった。
閼嵐の腕で抱えるのに余るほど大きい。
その間にも、仲間が必死に攻撃を防ぐ声が聞こえた。刀を使って攻撃を仕掛けられないのは、下手に動き回って川に落ちたら、視界の悪いここでは助からないからである。
閼嵐は、この状況を打開するには、この魔物のことをよく知らなければならないと考えた。
そこで閼嵐は奇妙な行動に出た。
その魔物の首に爪を立てると、流れてきた「血をなめた」のだ。
続けて閼嵐の体に異変が起こった。顔から牙が伸び、体は縮み、四つん這いになって爪が鋭く伸びた様は、今倒した「山猫の魔物そのもの」だった。
閼嵐はじっと周りをうかがった。赤光りする眼には霧の灰色ばかり映っていた。
だが、閼嵐はピクッと動いた。人影が赤や黄色に見える。魔物たちの形も黄色く見える。
閼嵐は、この魔物は獲物の熱を感知して襲っていることを見破った。だから、霧の中でも寸分の狂いなく飛びかかれたのだ。そして、自分の鼻から出る息が、やはり霧の元になっていることを、確認した。
今、見えている魔物は十三体。魔物はばらばらに、紫苑たちに襲いかかっている。
閼嵐は魔物の黄色い形に、片っ端から飛びかかった。今この場で戦えるのはオレしかいない。閼嵐はなりふり構わず、魔物を倒し続けた。
魔物たちの悲鳴に、仲間割れでも始めたのかと紫苑たちが動こうとしたとき、閼嵐が叫んだ。
「じっとしてろ! オレに任せておけ!」
仲間を止めておいてから、閼嵐は牙で魔物たちの喉笛に嚙みつき、胴体を爪で引き裂き、尻尾をくわえて宙に引き上げ後頭部から岩に叩きつけ即死させ、腹に頭突きして臓器を破って、すべての魔物を沈黙させた。
そして魔物の血で汚れた全身を閼伽で清めると、閼伽を飲んで元の姿に戻った。
しばらくして、霧が晴れていった。
しかし、閼嵐のしたことを見た者は誰一人いない。
「どうやって倒したの!?」
魔物の死骸と、全身びしょぬれの閼嵐を見比べながら、紫苑たちは驚くばかりであった。
「閼伽で霧を弾いたんだよ」
閼嵐は嘘をついた。この「変身」の能力は、できれば知られない方がいいのだ――。
みんなは感謝したが、出雲と露雩は、魔物についている「嚙まれた」傷が、本当に閼嵐がつけた傷なのだろうかと、疑問の顔を見合わせた。
「お……おのれ……! せっかくの人柱を止めおって……!」
山猫のうち一体が、よろよろと立ち上がった。
二足歩行で歩いている。人間のような耳を持っている。山猫のと合わせると、四つあった。そして、腹から血を流していた。
「お前、純粋な魔物ではないな」
閼嵐が前に出た。
「いかにも、わしは人間と魔族の合の子じゃ……。それより、人柱をよこせ! わしは不老長寿じゃぞ! 六百歳なんじゃ!!」
力を振り絞って叫ぶ山猫は、皺もなく若者に見える。
「人柱なんか、何に使うんだ」
「わしの老いた臓器と取り替えるんじゃ! この年になると全身の代謝が悪くなって、すぐに臓器が衰える。頻繁に人柱を持ってこさせるために、何度橋を壊したか知れん! 神を装うために、人間のいないときに、できるだけ静かに! 骨が折れたわい!」
山猫は血をだらだら流しながら、死んでいる山猫の臓器を引き抜いて自分のものと交換した。手が人間の手で、細い木の枝の針で臓器を縫いつけていた。
「さ、応急処置は済んだ。早く人柱を持って来い! わしを死なせれば不老長寿の生きた見本がこの世からいなくなるぞ!」
山猫は岩に腰を下ろした。
出雲が一歩踏み出した。
「まさか不老長寿とはな……」
空竜も続いた。
「でも魔族の遺伝子で体がもってるようなものでしょ」
紫苑が近寄り始めた。
「他人の臓器で生き続けるなんて、神でなく実験材料ね。自分の力じゃないもの」
露雩がゆっくりと向かった。
「寿命をねじ曲げたから、何も為さずただ生きるために殺し続けるのみか。神を騙り人から奪い続ける者、あってはならない理屈だ……」
霄瀾は地を踏みしめた。
「神様がこれじゃ、これまでの人柱が、かわいそう……」
出雲、空竜、紫苑、露雩、霄瀾が山猫を取り囲んだ。
「な、なんじゃお前ら! 不老長寿じゃぞ! 不老長寿の秘密を知りたくないのか!?」
山猫が慌てた。
「あったとしてもだ、」
出雲が薄目で睨んだ。
「長く生きてるのに殺すしかしねえ奴の言うことなんか、真似したくねえ。早死にしても、何か世界の役に立つことをする方がいい。なんにでも時間が区切られてるから、人は火事場の馬鹿力が出るんだよ。不老長寿なんかになったら、百年でできることを三百年かかってするだろうよ。いや、もっとかけるかもしれねえ。なぜなら『完璧なもの』を、誰だって残したいからな。時間が区切られないっていう人生は、今日必要なのに一週間後にできますって言う人生になるんだよ。
いいか、オレたちは、『今』必要だからここにいるんだ。いつまでも自分は死なない、時間があると思ってる間延びした野郎は、何をしても時代に取り残されて終わりだぜ。人生は諦めの連続だ。でもその限られた時間の中でがんばるから、その人は命が輝くんだよ」
山猫はあっけにとられた。そして、自分の不老長寿をけなされたのだと気づくと、みるみる顔が赤く膨れあがった。
「なんだと!! 知識も経験も上の者に向かって、無礼じゃろう!! 謝れ!! お前なんかには秘密を教えてやらん!!」
「だから、いらねえって。知識も経験も上なのに、やってることは普通の魔物と変わらねえし」
「人間どもの神を利用してやるところが、わしのすごいところじゃ!」
「で、その臓器で若返った体で、何をしたんだ?」
「え?」
山猫は、そういえば長く生きただけで人間狩りを時折したことしかないことに思い至って、思考が停止した。不老長寿を誰かに伝えたわけでも、皆に適用できるよう研究したわけでもない。
自分の能力を、使い尽くせなかったのだ。
自分の生まれてきた意味を探している間に、臓器の縫合部から血は流れ続け、ついには山猫の意識を奪っていった。
「できた!」
閼嵐が石枠の空洞女神像を、彫りあげた。
人々は喜んで水の中に沈め、石の中を女神の形の水で埋めて、歓声をあげた。
山猫の話は、人々にとって消せない憎しみとなった。
だが、これからは何があっても女神像と共にあると誓い、二度と人柱には頼らないと決定した。
村人たちは川を飛び越える一行を見送り、深々と頭を下げた。




