優猛魔性(ゆうもうましょう)第一章「魔族の里」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、帝の一人娘で、神器の鏡・海月と、神器の聖弓・六薙の使い手・空竜姫。
強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
聖水「閼伽」を出せる、魔族の青年・閼嵐、閼嵐の双子の姉・閼水。
竜の体の一部を使って人間を操り、人族を滅ぼそうとする者・知葉我。
魔族の青年・閼嵐が登場します。また、途中で霄瀾が仙人のもとで修行します。
第一章 魔族の里
のどかな細い農道が、なだらかに続いている。
広い畑に囲まれながら、一行は景色に似合わず緊張しながら歩いていた。
既に攻魔国の内部に属する国のうちで、攻魔国の西の、長結国に入っている。
実は、都で帝から、この国に入ったら山に囲まれた名もなき盆地へ行くように、言われていたのだ。
「正規の地図にも載らないのお。ここを知ってるのは都でも要職の者だけよお」
空竜が黒炭のようになめらかですべすべした一つしばりの髪を揺らして、道案内で先頭に立ちながら説明した。空竜の初春を思わせる、凜とした甘さのある匂いが漂う。
畑を耕している者がいる。
口が突き出して、尻から尾羽を立てている。
魔族だ。
農道の向こうから話しながら歩いてくる者たちがある。
一方は口から牙が出ている。もう一方は手がひづめである。
魔族だ。
そう、ここは魔族の住む隠れ里。
紫苑たちは、帝にここへ必ず向かうように言われたのだ。
「アランを訪ねよ。百年前の紅葉橋の戦いを知っている」
帝は、はっきりと告げた。
陰の極点・燃ゆる遙を目醒めさせ、そのために出雲が人間から式神になった、人間と魔族の戦争のことである。
戦いに参加した者たちは、燃ゆる遙に吸収されているはずだ。しかし、蛍光ナマコの魔物・骸のように、隠れて生き延びたのかもしれない。
「百年前を知ってるってことは、やっぱり魔物だよね、空竜」
「そうね霄瀾。でも、この里の魔族は、人間の味方なのよお。争いを好まない、穏やかな魔族が集まって里を作ったから」
「みんな、人間への憎しみは解いてるの?」
「自分たちを放っておいてくれたら、魔族はみんな穏やかに暮らすだろうって言ってるわあ。人間と戦い続けることもなく、ねえ……」
二人の会話を聞きながら、紫苑は紅葉の盛りのように紅く映える瞳で、空竜の前方の広い畑を眺めた。魔族は生活する場所さえ与えられれば、その中で楽しく生きていけるのだ。人間の際限ない欲望さえ止まれば……。
「とりあえず、アランを探そう。おーい、すみませーん」
式神の強みで、出雲は夏の青い空の、爽やかですがすがしい匂いをさせながら、魔物二人組に軽く声をかけた。
「みなさんの中に、アランという方はいらっしゃいますか?」
二足歩行の馬の魔物二体は、斧をかついだままぽかんとしていた。
そして、出雲たちの後方を指差した。
「え?」
出雲が振り向いたとたん。
「それのどこがアランだー!」
と、出雲の脇腹に両足のそろった蹴りが炸裂した。
「グッフ!?」
出雲は体が地面を滑った。
「誰だ!! 何しやがる!!」
脇腹を押さえて上半身を素早く起こした出雲を、腕組みして見下ろす男がいた。
鍛冶師が金属を鍛えるときに放つ火花のような橙色の髪は、燃えるようになびいていた。強弓のように吊りあがった目と眉は、野性を強く感じさせ、特に光を反射した刃のようにひときわ橙色に光る瞳は、獣のように細い。鎖鎌のようにがっしりと筋の通った鼻。切れ味鋭い剣のような白い歯をのぞかせる、常に優しげな笑みに見える、刀のように、曲線の穏やかな口唇。そして名工に鍛えあげられたかのような筋骨たくましい体で、堂々と立ちはだかっていた。初秋の、果実の実りを迎えた森の匂いがした。
「そいつのどこがアランだ? 完全に木こりだろ!」
たくましい体の精悍な顔つきの男は口だけ笑って目は笑っていなかった。
怒るとき顔が笑う性格らしい。
体つきは完全に人間である。額の臙脂色のはちまきが、ますます人間の青年らしさを推測させる。
魔族の通訳の人間なのだろうか、と出雲が立ち上がったとき、馬の魔物が笑いだした。
「ヒッヒヒン、ヒンッ、そりゃオレたちは木こりだからねえ。この子たちは、アラン様が里長だってこと、知らないんだろ」
「それにこの子らはオレたち二人の中にというより、この里にアラン様がいらっしゃるか聞いていたようですよ」
「あんまり体面ばかり気にしていると、自信がないように見えるから気をつけることですな、アラン様」
「アラン!?」
紫苑たちが驚いている中、アランはその野生美を放つ顔を、ばつが悪そうにしかめた。
「……すまなかった。『アラン』はすぐに見つからないほど威厳がないのかと思って、カッとなってしまった」
アランが出雲の脇腹に手をかざした。
「誤解なんていくらでもあるさ。必死で守ってたら、特にな。……あれ!?」
出雲は脇腹が濡れてきたので、飛び上がった。アランの手から水の流れが出ていた。
「アラン様のお力、『閼伽』だよ。浄化の力が強くて、悪い者には劇薬だ。傷口に対して、回復の効果があるんだ」
木こりが説明した。
「玄武神の神水みたいだな」
太陽の豪放な光と月の静寂な光と星の燃える光を混ぜ合わせた力が匂い立つような美貌の露雩が、興味深そうに閼伽の水を眺めた。
「それで、オレに何か用かな? 商業の話ではないだろうな」
警戒している里長のアランは、都と通じていることを、おくびにも出さない。そこで、紫苑が帝の天印を見せた。
「私どもは、帝の命を受けた者でございます。本日は、アラン様のお話を承りたく存じます」
アランは、緊張が解けた。
「都よりの使者でしたか。ようこそおいでくだされた」
そして笑顔で紫苑を抱きしめた。
「うあーっ!」
出雲がすっとんきょうな声を出して、露雩が「あ」の形の口で固まったとき、アランも悲鳴をあげた。
「ギャーッ!!」
「え?」
露雩よりも厚い筋肉に抱きしめられて、一瞬驚きで脳がいっぱいになっていた紫苑は、飛びのいたアランのおかげで目が覚めた。
「え? 何?」
「こ、こいつ女だ! 女に違いない!!」
「当たり前でしょ失礼ねッ!!」
全身震えて腰を抜かして指差しているアランに、紫苑は真っ赤になって叫んだ。
「天印を持っているなら、集団の頭で、てっきり男だろうと思っていたのに……」
「(かなり思いこみが激しいわねこの男……)」
アランが尋常でないたまげかたをしたのが気にかかりながら、紫苑は仲間と共にアランの館へ向かった。
「うん? それは聖弓・六薙ではありませんか。空竜姫以外に遂に使い手が現れましたか」
「え? いえ、違うのよお、これはあ……」
アランは空竜の二の腕をつかんだ。
「ギャー!! ぷるぷるしてるー!!」
「なっ!! そんなことないもん!! ちゃんと無駄に太らないように気をつけてるもん!!」
紫苑と同じく真っ赤になった空竜は、腰を抜かしているアランに向かって締まった二の腕をぺちぺち叩いた。
「強い弓を引くには腕力を相当鍛えないといけないから、てっきり野太い腕の男だと思ったのに……」
「あんた人間の男女、見分けらんないの!?」
ぷりぷり怒っている空竜の隣を、大柄なアランがしゅんとして歩いている。
実は、アランは長身の露雩と同じくらいの、大きな背であった。
腰を抜かしてばかりいるので、一同はつい観察しそびれていたのであった。
深い水をたたえた、広い湖が見えてきた。
周りを囲む木々の緑の葉が映りこみ、緑水となっている。
「あ! アランさまー!」
耳の大きい魔物や、尻尾の生えた魔物の、子供が駆けてきた。
「さっきころんで手をすりむいたけどね、みずうみのおかげでなおった!」
「そうかそうか、よかったな。この湖は、いい子の味方だぞ」
アランが子供の手に自分の手を合わせた。
「アラン様、この湖は?」
子供を見送ったあと、紫苑がすかさず聞いた。
「閼伽でできています。飲んだり、傷を治したり、皆、好きに使っています」
「この量を生成されたのですか!?」
百メートル四方はある。
「もちろん、一日では作れません。毎日毎日、少しずつ貯えていったものです」
アランが広大な湖に視線を移した。
「この水を敵兵の顔にまけば、敵兵は即死しますから。この湖はわが里の武器庫です」
里のすべての水源に閼伽を混ぜれば、敵兵は現地調達の水で軒並死ぬ。いよいよとなったら里を閼伽の津波で洗い流す。敵兵は流され、閼伽を一滴でも口に入れたとたん、死ぬ。
この里の護りは長一人に比重がかかっているようだ、と紫苑は思った。
「館に着きましたよ」
アランが振り返った。
平屋の上で、茶色の屋根瓦が整然と並んでいる。白い壁と赤い柱、茶色い窓枠の色が、新品のように真新しく、美しい。
地面から二メートル上に、床がある。赤い柱だけが地面と床をつないでいるのは、敵襲のときこの空間を閼伽の津波が通るからであろう。
門も塀もないのは、それを遮らないためだ。
「立派なお住まいですね」
幅広に造られた階段を登りながら、紫苑が声をかけた。
「非常時には、里の者全員を入れることができます。下の柱を大きくして、上の柱に行くにしたがって小さくすることで、実際より大きく見せる工夫もしてあります。囲んでくる敵は、威圧しませんとね」
おや、こいつ少しは考えてるな、と出雲が心の中で思ったとき。
「アラン!! 畑の見回りにいつまでかかってるの!! 薪割りもやっときなさいって、言ったでしょ!!」
突然上から怒鳴り声が弧を描いてぶつかってきた。
「ねっ、姉ちゃん!! ごめんなさいー!!」
階段の途中でアランが頭をかばってしゃがみこんだ。
「……え?」
一同があ然とする中、声の主は幅広の階段を足音高く下りてきた。そして、アランの襟首をつかむと、強引に引き上げた。
「もたもたしてると、嚙むわよ!!」
アランのものとそっくりな犬歯をむき出した。
「や、やるよー!! やるから許して、姉ちゃん!!」
アランは腰を抜かさんばかりにガタガタ震えている。半泣きなのは気のせいではない。
アランの姉は、紫苑たちに気づいて、振り向いた。
黒髪で、女らしくふんわりさせた、短めの髪をしている。アランと違って黒い瞳で、しかし目が細めなのはアランと一緒であった。犬歯が好戦的に、常に口からのぞいている。
野性的なきつめの美人、といったところだろうか。
「あなた方は、どのようなご用件ですか?」
「あの、私は帝の命を受けて……」
アランの姉は、紫苑の話を聞いていなかった。
ただ、露雩を見て固まっていた。
言葉を発するより、顔を真っ赤にして涙が溢れる方が先だった。
「ト……!!」
叫びかけるその姉を首から抱え、アランが走って館の奥へ入っていった。
紫苑は一抹の不安を覚えながら、あとを追った。
「失礼致しました。姉の具合が急に悪くなりましたので。都よりの使者の方々、こちらへお座り下さい」
アランが大きな広間にいるだけで、姉の姿は、なかった。
上座にアランが座り、下座には紫苑たちが座った。血のような緋色の座布団がいくつも並べられている。よく里の者と会合をするのだろうか。
紫苑たちが、一人ひとり名乗ると、アランも一人ひとりに会釈した。
「改めて、私はこの魔族の隠れ里の里長、閼嵐です。さきほどの者は私の双子の姉、閼水でございます。この里のことをお知りになりたいのでしたら、私か閼水にご質問下さい」
閼嵐がしっかりとした声で話した。
里長の貫禄を、出そうと思えば出せるようである。しかし、それより気になっていることを、紫苑は尋ねた。
「あなたは魔族ですか? それとも、都から全権を委任されている人間ですか?」
閼嵐は鋭い目つきで紫苑を射た。
「魔族です。私を倒しますか?」
「いえ。穏やかに暮らす者は守ります」
紫苑も矢のように即答した。
「それで、何のご用でしょうか。天印は、穏やかではありませんよ」
「百年前の紅葉橋の戦いを聞くように、との帝の仰せでございます」
閼嵐はそれを聞くと、右脇にある床の節穴から地面へ、閼伽を流した。そして、窓をすべて閉めた。
「これで、床下で聞いている者があれば閼伽の揺らぎでわかります。皆様、これから話すことは他言無用です。よいですね」
一同は薄暗い部屋の中でうなずいた。
百年前、人族軍と魔族軍は雌雄を決するため、大陸の西の紅葉橋に集結した。
しかし、人族の王である帝は、自らを占って、「向かうこと赦さず」と神に宣告されたため、都を離れられなかった。
帝の代わりに全軍の指揮を執ったのが、陰陽師長、綾千代だった。
なぜ武人の大将軍でなかったか?
それは、綾千代が帝の密命を受けて、星方陣を成そうとしていたからである。
儀式の間も守りが手薄にならないよう、多くの兵士で守らせ続ければ、魔族にそこを怪しまれる。
だから、最初から大将にして、「構えが厚いのは当たり前」と思わせたのだ。
星方陣に必要なのは特別な神器である。この世界には、天降りの日に神器が数多散らばっているが、その中に三種の神器、そして四種の神器、さらに五種の神器と呼ばれるものがある。
この十二個の神器は「十二種の大神器」と呼ばれ、神器の中でも強大な力を持っていて、そのどれかをいくつも使わなければ、星方陣は完成しないという言い伝えがある。
数も名前もはっきりしないのは、安易な星方陣が成されるのを防ぐためである、と天降りの日に各々の集団の最大の祭司である為政者だけは、知った。
さらに、各為政者は、星方陣の陣形が五芒星だという重大な秘密を知った――。
綾千代は、帝室の持つ神器・海月と、四神の真の加護を得ていない玄武・白虎・青龍・朱雀の神剣をそろえた。五芒星に、五つの神器を用意したのだ。このうち青龍は、既に燃ゆる遙が封印されてラッサの民のもとにあったが、四神の刀は試練に耐え続ければ神に認められなくても仮の刀になって、複数の人間が持てる。このとき集まったのは、そういう仮の四本の刀であった。
四神は、魔族の神である。つまり、自然の摂理の神だ。
海月は、人族の最高祭司の神器である。
綾千代は、人族が勝つ星方陣を成すには、海月が四神を抑える形で陣を組まねばならないと、考えたのである。
海月も四振りの神剣も、帝の占いで、十二種の大神器の一つであることが判明していた。
しかし。
星方陣は、成せなかった。
綾千代が神器を託した五人は、「失敗した星方陣」すなわち「神に世界を問うた罰」で全員消滅した。
切札を失い、将軍たちは動揺した。
ところが、魔族もなかなか戦いを仕掛けてこなかった。
最強の名のもとに魔族軍を集めておきながら、魔族王がついに姿を現さなかったからである。
お互い決め手を欠いたまま開戦し、陰の極点・燃ゆる遙を目醒めさせてしまったのである。
閼嵐は口を閉じた。
紫苑たちは、青ざめていた。
「十二種の中から、五種を選ぶの……? 間違ったら、天罰で消滅……!」
霄瀾が、自分の五芒星の形の神器をしっかりと握りながら、皆を見回した。
「ねえ。ボクの水鏡の調べは三種の神器の一つだよ。露雩の神剣・玄武も、空竜の海月も、べつの種類の神器なんだよね。ボク……その、うまく言えないんだけど、ぜんぶそろえろって言ってるんじゃないかな? そしたら、使うものがはじめてわかるんじゃないかな? だって、そうじゃないとおかしいよ。三種類の神器が一度に集まりだすなんて。十二個の組みあわせで星方陣の内容が変わるのかどうかまではわからないけど、紫苑が目指す世界は綾千代さんとはちがうわけだし、じっくり考えるのは、ぜんぶそろってからがいいと思うよ」
神器に長く接している子供は、神の波動を敏感に感じ取っているのかもしれない。
「勘」は、冴えているであろう。
「全部か……。帝の占いでも探し出せないんだろ。これまでだって有力な情報はなかなかなかったし……。でも綾千代は四神の神殿を知ってたってことか?」
「綾千代の報告書にあった場所に行っても、何もなかったらしいわあ。四神の神殿の場所は、謎のままよお」
出雲のあとに、空竜が続けた。紫苑は玄武神殿を思い出した。
「神殿の位置が変わらなくても、『人によってたどり着ける道が違う』のかも……? 同じ試練を与えられても、答えは一人ひとり違うように……。竜ならそれも含めてすべての神殿の場所を知っているかしら。でも、竜に聞けるわけないし……。どっちかっていうと敵に近いし……」
「人族の王が神器の一つを持ってるってことは、様々な種族の王が一つずつ持ってるとか……?」
そう露雩が呟くのを、閼嵐は黙って見ていた。
「しかし、人間側でさえ正確につかんでいないこの情報を、なぜあなたはご存知なのですか」
紫苑は再び尋ねた。
「私の父も戦場に赴いたのです。ですが、魔族軍の中には入らず、両軍を見下ろすことのできる崖の上にいました。……魔族王を、そこでずっと待っていたのです」
閼嵐の表情が翳った。
「父は、燃ゆる遙の黒い半球を見て、逃げ帰って来ました。そのため、同胞の魔族を見捨てたと自分を責めるようになり、心の苦しみがたたってその後、床に伏せって一箇月で亡くなりました。母もその後を追うようにすぐ……」
「燃ゆる遙はたとえ魔族王がいたとしても、おそらく止められなかったでしょう。お父様は悪くありません」
「父は優しさと恥とで生きていられなかったのです! 仲間のために死ねなかった気持ちが、わかりますか!? あなたは何も言う資格はない!」
「燃ゆる遙は私が倒しました。魔性も断ち、半球も知ったうえで勝ちました。あの悪気はその場にいないとわからない。全身の筋肉が弛緩してもおかしくないほどの圧倒感、剝き出しの殺意、尽きない魔性。私も同じだけの殺気がなければ、前に走れなかったでしょう」
「……あなたの名は、剣姫ということで知っています。ですが、私が本当に言いたいのは、そんなことではない……!」
閼嵐は紫苑から顔をそむけた。
「……閼嵐。他の神器について何か知らない? どんな話でもいいわ」
空竜が話を戻した。しかし、閼嵐は首を振った。
「残念ですが、父の死以来、私もこの里にこもっておりますので」
話が終わり、閼嵐が宴の用意を命じた。
支度の最中、柱の陰から、閼水がずっと苦しそうに露雩を見ていた。泣きそうな顔で、頬が赤い。
そんな閼水に、紫苑は不安を覚えた。閼水は露雩の過去を知っているのか。もしそうなら、過去に露雩とどんな関係だったのか。
柱の陰から強引に閼水を連れて行く閼嵐を、紫苑は思わず追った。
「彼は藤花よ! 私にはわかる! あの姿も、あの声も、何もかも彼よ!」
閼水が物置の部屋で閼嵐に叫んでいる。
「(藤花?)」
扉の柱の一つに、紫苑は隠れた。
「落ち着け閼水。少なくとも藤花は魔族じゃなかった。あの時会ってから、今まで全く姿が変わっていないのは、おかしい! 別人だ。わかるだろう」
閼水は両手を二の腕に置く閼嵐に、激しく頭を振った。
「そんなことない! あの優しい瞳を見間違えるはずがない! 彼は藤花よ! 私が言えばきっと思い出してくれるわ!」
「(えっ……!? 閼水さん、露雩とどういう関係なの!?)」
紫苑の体は身動ぎもしなかったが、心臓だけは跳ね馬のように駆けていた。
「閼水、お前が藤花を愛してると言ったとき、彼が言った言葉を忘れたのか。藤花は、はっきりこう言った。もう大切なものがあると。藤花はその者を探して旅してたんだ。それをなんで出会ったばかりのお前が止められるのか。彼の瞳に映るのがお前ではなかったのに」
「でも、だからって私のことを覚えてないなんて、悲しすぎる……!」
閼水は、閼嵐の厚い胸に頭をつけて、すすり泣いた。
紫苑の頭は衝撃で、思考がその他一切を切り離して、たった一つのことしか考えられなかった。
もし露雩が藤花だったら。
彼には既に心に決めた人がいることになる。それが紫苑でないことは言うまでもない。藤花は魔族ではなかったというが、今の露雩が魔族であるという証拠はない。そもそも、露雩は封印されていたのだ。「藤花」がそのまま「露雩」と呼ばれるに至ったとしても、間違いにはならない。もし露雩が誰かの式神だったら? それとも式神使いだったら? 相手を探して旅をする理由になる。その相手が、もし女性だったら……。
今の状況に慣れすぎていた。
もっと真剣に考えていれば、いつかはそれが終わるとわかっていたはずなのに。
「(露雩の記憶を私は、本当は知りたくなかったのかもしれない。彼を縛りつけることはできない、だけど……、私は果たして露雩の真実の記憶をすべて受け入れることができるのだろうか。私は現実を認めることができるだろうか)」
それは、最後の場面で「私を選んで」という利己的なことを、言う勇気があるかということであった。
宴の用意が、整った。
穀物を十種の香辛料で味つけした主食に、デンプンで作られた麵に野菜を合わせた炒め物、色とりどりの生野菜と果物の大皿、複数の果物をしぼった飲み物。肉も魚も一切出てこない、完全に菜食主義者の食卓だった。
「中には動物の肉を食べる魔物もいます。その地ではそれしか食べる物がないのでしょう。
おおまかな話として、動物からなった魔族は動物を食べないのが暗黙の規律です。もともと肉食動物から魔族になった者は、人間を食べます。また、植物から魔族になった者は植物を食べません」
大きな木しゃもじで、焼いた石を鍋の中に入れて汁を沸騰させながら、閼嵐が説明した。
様々なたれをつけて味の変化を味わいながら、紫苑たちは河樹と戦ったときの様子をかいつまんで閼嵐に話していた。玄武神顕現の話を聞き終わると、閼嵐は深刻そうな顔をした。
「紫苑様。あなたは陰陽師・綾千代とは違う世界を望まれるそうですが、星方陣を作ってどうなさるおつもりですか」
空竜姫もその場にいる。だが紫苑はごまかさなかった。
「私は、人も魔族も救いたいのです。共に暮らし、共に問題を解決していける世界を目指したいのです」
「もし星方陣に望んだ通りの力がなかったら?」
閼嵐の目の奥が光った。
「それでも私はその戦いをやめることはありません」
紫苑が真正面から答えたとき、閼嵐は額に手を当てた。
微かに手が震えていた。
そのとき、外から悲鳴が押し寄せてきた。
「大変です閼嵐様! 人間たちが!」
里の者たちが、次々と館へ逃げてきた。
「何があった!」
「この里にある宝を出せと! 魔物だから皆殺しにしてかまわないと! 馬に乗った盗賊風情が百人、里中に火を放っております!!」
「……うぬら、まさか手引きを……!」
「しておりません。我々が討ってご覧に入れましょう」
紫苑が素早く立ち上がった。
「その必要はない。閼水、この五人を見張れ。民は全員逃げて来たな」
閼嵐は一人、外へ出た。
馬に乗った盗賊が百人、逃げ遅れた魔族たちを刺し殺したあとだった。
「戦いを望まず穏やかに暮らす者に、なんということを!!」
閼嵐の顔が険しくうねった。
「うるせーよ! この里にとてつもないお宝があることは、調べがついてんだよ!」
「そーだそーだ! それを守るために戦いをしないふりして身を隠してるって、お頭が言ってたぜ! 都はだませても、頭のいいオレたちはだませねーぜ!」
「さっさとお宝、出しやがれ!」
百人が一斉に喚きたてた。
「ここには確かにすごい宝がある。だがお前たちには触れない」
閼嵐は右手を突き出した。
「ああ? 何してんだあ?」
「あれ? なんだこの音……」
津波が、盗賊の背後から迫っていた。
閼伽をたたえた湖から、閼嵐が水を呼んだのだ。
これを浴びればおしまいである。
しかし、一頭の馬に乗った男が津波の前に立ちはだかった。
「神器・干拓!!」
ふたと底の開いた壺型の神器が光ると、閼伽の津波が壺の口へ吸いこまれていった。そして底から出てきた水は、閼嵐の制御を受けずに、引力のままに流れ落ちていくだけとなった。
「閼伽でなくなっている!?」
壺を持った男がニヤと笑った。
「猛毒の湖のことくらい、こっちは知ってんだよ! この神器・干拓は、あらゆる不純水を真水に変えるのさ! お前の湖は、もう使えねえぜ!」
「お頭やったぜ!」
盗賊たちが勢いづいた。
閼嵐は焦らなかった。百人くらい、倒すのにわけはないと思った。だが、一人も館に侵入させないという自信はなかった。
「やっぱ、オレたちの出番だよな!」
いつのまにか、出雲たちが隣に立っていた。
「お前たち……人間を斬れるのか」
閼嵐が警戒している。館に手引きされたら万事休すだ。
「回復できない傷を与えた者は、死んでもらうことにしている。それは私に彼らを救う言葉がなく、野放しにすれば別の誰かが同じ傷を受けるからだ。殺す者より殺される者を救う方が大切だ。安心という社会を破壊する罪は重いのだ」
後ろから歩いてきた、ルビーのように赤い髪の少女に、閼嵐の体がぞくっと震えた。
「(これが剣姫だ、この殺気、違いない!)」
燃ゆる遙を倒した剣技をこの目で見られる。
閼嵐は、剣姫に隣の道を空け、二人で前に出た。
霄瀾と空竜が入口を守り、紫苑たちは百人へ向かっていった。
出雲の刀が閃き、露雩の神剣・玄武が振り音をたてる。空竜は入口へ走りこんでくる者を、馬ごと六本の矢で射倒した。
閼嵐は盗賊の刀をかわすと、回し蹴りを見舞った。当たった方は回転しながら数メートル吹っ飛んだ。その後も馬上の相手を次々と殴りつけ、引きずり下ろして肘で首に打撃を与えた。
どうやら、格闘で戦う者らしい。
「このヤロー!」
三方向から刀が振り下ろされた。
「閼嵐!」
空竜が助けようとしたとき、閼嵐の腕がそれより早く刀に当たっていた。
「へへっ、ざまあみ……え!?」
閼嵐の腕は無傷だった。いや、刀の当たった頭も背中も、傷一つなかった。
「オレは気を操る。自分の力に応じて、強力な鎧になる。弱い奴の刀なんて、気の扱い一つで完全に防げるんだよ」
閼嵐は相手の刀を折りながら、その破片ごと盗賊を次々と殴り飛ばした。賊は血飛沫をあげて馬から落ちていった。
そして神器を扱う者を倒そうと身を翻したとき、剣圧が閼嵐の火花のような橙色の髪を、激しくなびかせた。
剣姫の通ったあとは、どの命もまっぷたつになっていた。その道が一直線で一度も乱れていないのを見て、閼嵐は戦闘中にもかかわらず自分の動きを止めるほど、感銘を受けた。
剣姫は、盗賊の頭へと向かっていた。
頭は、剣姫の剣を神器の壺で弾いた。
「水でないなら何が宝だ」
「お前に言う必要はねえな!」
頭の神器の底から真水の鉄砲水が噴き出した。
剣姫が走ってかわす間に、閼嵐が飛んだ。
「おっとお! これまでためた穢れで、攻撃するぜ!!」
頭が壺を逆に持ち替え、地面にたまっていた水を吸い上げて、底から口へ水を出し始めた。
賊の死骸が浸かっていた穢れた水が、無数の虫の死骸と共に、悪臭を放ちながら放出された。
弱き者は、穢れに汚染されて死ぬだろう。
「まずい!!」
閼嵐は、身を守れる。しかし、館の中の者たちは、穢れを防げない。
「ええー!? どうしよどうしよ!!」
海月で跳ね返せそうにないので、空竜が混乱している。水は、まっすぐ館の入口へ向かっている。
「閼伽!!」
「神流剣!!」
閼嵐と露雩が、聖水と神水を頭の水流に合流させて、穢れた水を浄化し始めた。しかし、先端まで追いつかない。
「霄瀾!! 空竜!!」
出雲が、無防備な二人の前で全身から炎を出して水を遮ろうとしたとき、霄瀾が竪琴を奏で始めた。
短い旋律と共に、光の何かが現れた。
「神器・光迷防!!」
なんとそれは、河樹の持っていた神器の一つ、光の迷路で攻撃を八方へそらす盾、であった。
穢れた水は光迷防に当たり、あちこちへ飛散した。それは、霄瀾と空竜、それに館の中へは、一滴も届かなかった。飛散した水については、それをかわし、弾くことは、剣姫たちの気や術ならたやすいことであった。
「すっごおい霄瀾、いつのまに!?」
「都で戦ったとき、光迷防から音が聞こえたような気がしたんだ。ボク、ときどき物から音楽が聞こえるから……。弾いたら、光迷防になったんだ」
「なんで今まで言わなかったのよお!?」
「河樹の武器だったから、怒られるかなって……」
霄瀾は空竜に対し、うつむいた。
「はあー、あなたすごいわ、神器を再現しちゃうなんてえ……」
感心する空竜は、神器・六薙が震えていることに気づかなかった。
「なんだあのガキは!? 入口を守り抜きやがった!!」
目をみはる頭に、閼嵐が蹴りつけた。しかし、頭はそれを腕で受け止めた。
まさか、鎧もなしに、と閼嵐は驚いた。
と、見る間に頭の全身が鱗で覆われだした。
「竜の鱗……!?」
頭は、顔まで鱗を持った。紫苑たちは、皆一つのことを考えた。
「その竜の力は、誰にもらった! 知葉我か!!」
「おや、もうばれてるのか。そうさ、この里に十二種の大神器の一つが眠ってるのを教えてくれたのもな! ついでに、この神器・干拓も知葉我様からの贈り物さ!」
頭は、壺を二回叩いた。ざらついた表面が手でこすれる音がした。
「(竜の力を得ているのか……これを使わなければならないな)」
閼嵐が額に手を当てたとき、
「お前たち、館を守っていろ。私が殺す」
剣姫が一人、すたすたと前に出た。
それを見て、閼嵐は雷が突然間近で鳴ったような驚きが走った。
閼嵐は弱い者が嫌いだった。
一匹の小型犬は大型犬から逃げるのに、小型犬が二匹になると威丈高になり、大型犬にうるさく吠えたける。
自分の実力ではないのに、さも自分が強くなったかのようにふるまうことを、閼嵐は蔑視していた。
他人の力を借りて偉ぶる弱者を、閼嵐は最も憎悪していた。
その者に誇りがないからであった。
一人で立てないクソガキが、閼嵐は一番嫌いだった。
だから、紫苑たちを初めて見たとき、「またか」と蔑んだのである。一人でなく、仲間同士で旅していたからである。
こいつらも一人では弱くて、「互いの弱点を補いあいながら戦える」なんて美辞麗句に置き換えて、単身で屹立する誇り高き強者を数に任せて倒してきているのだ。
「下衆め」
閼嵐は腹のうちで眉をひそめた。「これまで通り」、都からの使者に対して、一部しか協力するまいと思った。自分とこの者たちが対等ではないからだ。むしろ、紫苑たちが滅ぼされた方がいいと思った。
藤花そっくりの男に神器のことを教えかねなかった閼水。閼水は弟に高飛車だった。
「情報と引き換えに、私と結婚させるわ! 閼嵐、私の夫が決まるのよ、私の言うことが聞けないの!?」
しかし閼水を恐れて震えていたときとは打って変わって、閼嵐は眼に異様な光をたたえながら、退かなかった。
「閼伽一族の当主はこの閼嵐にござりまする」
ぞっとするその冷たい声音に、閼水は気圧されて口をつぐんだ。
「閼嵐の誇りまでは、姉上にも売れませぬ!」
閼嵐の父は強かった。
しかし、紅葉橋の戦いで逃げ帰ってきたことで、周囲の魔族からの侮りを生んだ。皆、父を追い落としにかかった。
だが一対一では太刀打ちできないと見て、父より弱い者たちは、数の力を頼りに集団で襲いかかった。
いくら剛力の強者でも、元気満々の新手に次々と押し寄せられてはたまらない。
父は前にいた里から、妻と閼嵐、閼水を連れて、命からがらこの地へ逃れてきたのだ。
勝鬨をあげた弱者の集団の声を、閼嵐は今も忘れていない。「一番力を持つ者は誰か」を、決めていたのだ。皆、自分だと言い張った。強い者を数の力で殺しては、次の王に名乗りをあげた。一人で立てない弱者が、王になれるわけがない。
その里はその争いで死者と逃亡者を出し、一夜のうちに滅んだが、閼嵐の憎しみは消えなかった。
「あの誰よりも誇り高かった父が、虫ケラどもに! 許せない、一生許せない! 殺してやる!!」
そのために閼嵐は力をつけ、誰がどんな卑怯な戦法を用いても負けないために、父を超えようと鍛錬してきた。
弱者を皆殺しにするために。
もちろん、閼嵐より弱い者を全てというわけではない。
戦うとき他人をあてにせず、一人で戦おうとする誇り高い者には、手を出さない。
徒党を組んで一人で戦おうとしない「弱い犬」を、閼嵐は皆殺しにするつもりだった。それは、「自分の身を自分で守る覚悟のない者、全て」という意味だ。
「強い者が弱い者のために道を閉ざされてはならないのだ」
閼嵐の確固たる信念であった。
剣姫の双剣が舞うたび、竜の鱗が削れ、月の光にきらめいて散らばった。
一度も手を休めない剣姫の剣舞を見て、閼嵐は一種の恍惚の状態に陥った。
一人で戦う者の、なんと美しいことか。
頼みにするのは自分だけ、誰にも媚びないその凜とした決意。
「きれいだ……」
閼嵐は自然と呟いていた。
自分の理想を分け合える人に、ようやくめぐり逢えた気がした。
剣姫が月の下で、鱗の砕けた敵を刺し貫いた。
「折り入ってお願いがあります。どうかこの閼嵐をあなたの旅に加えては下さいませんか」
閼嵐が、双剣をしまう剣姫に走った。
「閼嵐!?」
閼水や里の者たちが館から出てきた。
「あなたの舞を、もっと見たいのです! そして、背中合わせになって、共に戦いたいのです!」
「里はどうする」
「星方陣で平和な時代を築く希望に賭けます。この里の、守るべき穏やかさが、世界に広がる希望に賭けます! 自分を守れる人は、他人を守れる! ――あなたがそうだ! あなたの星方陣を信じる!」
この人は、自分の望みのために世界を見捨てはしない。
その星方陣の世界がもし来たら、弱者の心も少し変わるのかもしれない、そんな淡い期待も抱く。
閼嵐は額に巻いていた臙脂色のはちまきを解いた。額には、ひし形の中に丸、という紋章があった。
閼嵐ははちまきを紫苑に両手で差し出した。
「十二種の大神器の一つ、淵泉の器です。あの人間どもの言っていた、この里にある宝とは、この神器のことでしょう。これは、代々力のある魔族が守ることを許された、特別な宝です」
それゆえに、神器を持ちたい魔族たちに、閼嵐の父親は反乱を起こされた。
そして、帝も、臣下からの少なすぎる報告を受けて、閼嵐が「何か」を隠していることに気づき、閼嵐の心を変えるために、紫苑に直接会いに行かせたのであった。
「話してくれてありがとう閼嵐。共に行きましょう」
「閼嵐っ!」
紫苑と二人で立つ閼嵐に、閼水は思わず声を出した。
「すまない閼水。でも、オレの戦うべき時が来たんだ。この人の星方陣は、魔族を滅ぼしたりしない。オレは、世界の『心』を守れる人を、待っていた。だからこれまで身勝手な『種族の殲滅』をうたう誰が来ても、協力しなかった。オレは、この人と共に星方陣を作りたい。この人の考えを、もっと知っておきたい」
閼嵐の揺るがぬ瞳を見て、閼水は彼らの持つ神器の気のうねりを浴びる錯覚を覚え、よろめいた。
神器は、一つでは星方陣が作れない。
だから、諦めていた。一人では何も変えられないと。
一人で立ち、一人で守れるものだけ、守ってきた。
だが、もし一人で立ち、一人で周りを守れる者が何人も集まったら。
それこそが「最大最強」の名にふさわしい――。
翌朝、閼水と里の者は見送りに来た。
「じゃあな、閼水。里を頼む」
「私だってあんたと双子よ、閼伽なら操れるから大丈夫。……私の代わりに藤花と仲良くね!」
最後に皮肉を言いながら、閼水が閼嵐の腕をつねった。
「いたた! 藤花じゃないって、姉ちゃん!」
「藤花?」
そこで初めて露雩が反応した。紫苑の胸がざわめいた。
「百年前、お前にそっくりな男がオレたちの里に来たんだよ。あ、えーとな、一つ説明しておくが、オレの一族は人間より寿命が長いんだ。一度成人すると、二十歳くらいの若さのままで成長が止まるんだ。オレは今、百二十歳だ。それで、その男は、父上と何か話してた。すぐ去ったけどな。でも百年前だぜ? お前、生まれてないだろ?」
閼嵐が姉から逃れて露雩の後ろに隠れた。
「……。すまない。わからない」
露雩は頭を押さえた。
「藤花! 記憶喪失なのね!?」
閼水が駆け寄ってきた。紫苑の心臓は傷が痛むようにずきんずきんと脈打った。
「……すまない。わからない」
露雩は、それだけ繰り返した。
「露雩は、私のものだし!」
里を出てから、閼水を意識して空竜が露雩の腕をとった。
「へー、そうなのか。よかった」
閼嵐が真面目な顔でうなずいた。
「え? なんで?」
「え? なんでって……。あれ? なんでだろうな?」
霄瀾の問いが、閼嵐にもよくわからず、彼は宙を見上げた。
出雲は眉をピクピクとけいれんさせていた。
「……なんか、嫌な予感……」
「ん?」
視線に気づいた紫苑に振り向かれたとき、閼嵐は、
「ひー! ごめんなさーい!!」
と、木の幹に手を添えて隠れた。
「す、すまん! オレは幼い頃から閼水にいじめられてきたせいで、女が苦手なんだ! それで、その……! ぶ……ぶたない?」
目をうるうるさせて聞いてくる。
「あら、ちょっと守ってあげたくなっちゃう」
「うおー!! ダメだー!!」
出雲が視線の間に割って入った。
「だまされんな!! こいつすごく強かったろ!! こんな筋肉隆々で、お前に守られる余地なんかあるわけねえだろ!!」
「人間も魔族も意外な弱点があるものよ」
紫苑は出雲を伴って木の後ろの閼嵐に手を伸ばした。
「友達でしょ。そんなことしないよ」
にこっと笑いかけた。
お互い一人で立てる友達。
もっとこの女性のことを知りたい、そしてこの女性の戦いの行き着く先を共に見たい。
閼嵐は紫苑の手をそっとつかんだ。
「お前を、ずっと見ていたい」
「いいわよ。一緒に行きましょう、閼嵐!」
閼嵐は安心して笑顔になり、紫苑の後に続いた。
そのときまでこの女性の背中を守るのは自分だと思いながら――。




