鏡が映すは弓姫(ゆみひめ)第一章「王の料理人」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
帝の一人娘で、神器の鏡・海月の使い手・空竜姫。
空竜姫が帝の娘として、様々なことを学びます。
第一章 王の料理人
鳥の魔物と狼の魔物が複数、飛びかかってくる。
「キャー! キャー!」
大陸を統べる帝国の姫、空竜は、弓で一本ずつ矢を放って、逃げ回る。
当然、魔物が矢一本ごときで倒れるはずがない。
痛みに激怒して皆、空竜を狙う。
「なんで死なないのお!? 当たってるよね!?」
空竜のひまわりのように大きく開かれた目が、涙目になる。
「闇雲に当てんな! 急所を狙え! 剣だろうと弓だろうと、基本は同じだ!」
炎の式神・出雲が、端正な顔を厳しくして、狼の魔物を斬り伏せた。
そのとき、残っていた鳥の魔物が術の詠唱を始めた。鳥と空竜たちとの間に、大砂の壁が地面から盛り上がった。
それが上から落下し、二人を生き埋めにしようと迫る。
「キャー! 全然弓が効かないー!」
砂壁を突き抜けていく矢を何本も放つ空竜の手を、出雲がつかんだ。
「バカ! 走れ!」
空竜は出雲の足が速すぎて、足がもつれた。
「もっと速く走れねえのか!」
出雲が空竜を抱ええたそのとき、
「神流剣!」
水流が砂の壁を固め、進行を止めた。
「おっせーぞ、露雩!」
出雲が、立っているだけで絵になる美貌の剣士に怒鳴った。
「ごめん、水くみ場を探してた!」
そのとき、砂壁が崩れていった。
「紫苑! 倒すの早いな!」
絶世の美人である陰陽師・赤ノ宮紫苑が、鳥の魔物を炎の術で仕留めていた。
「まったく、お姫様のお守しながらだから、大変だったぜ」
夜の森で焚火を囲んで、出雲が肩を叩いた。
「ボクが肩、たたいてあげようか!」
竪琴弾きの子供、あどけない霄瀾が、パッと立ち上がった。
「おっ、いいのか? ありがとう霄瀾」
霄瀾は嬉しそうに、出雲の肩を叩き始めた。
「何よ、私が相手を牽制してる間にあんたが倒せばよかったでしょお! もたもたしてるから、私が真っ先に狙われたんじゃない!」
「あのな、都へ帰すまでの間に、お前に傷ついてもらっちゃ困るんだよ! 怒られるのはオレたちなんだぞ? それに、お前オレがいなかったら確実に死んでたろ。やっぱり、敵を倒せないお前にこの旅は無理――」
「そんなことないわよ! もっと弓矢を仕入れておけば……! 私は絶対、露雩と一緒に旅をするんだからあ! ねっ、露雩だってそう思ってくれてるよね!」
空竜は出雲を押しのけて、露雩に顔を近づけた。
紫苑の目が不安気に揺れた。
「帰った方がいい」
露雩はしっかりと告げた。
空竜のひまわりのように大きい瞳がさらに見開かれるのに構わず、露雩は淡々と言葉を出した。
「君は一人では魔物から身を守れない。出雲の邪魔もしたよね。それじゃ、これから先、生き残れないよ」
「そんなっ、露雩! だって私には絶対防御の神器・海月があるのよ! 絶対みんなを守れるわ!」
「守っているだけじゃ、いずれ倒されるよ」
空竜の必死の願いを、露雩は正確に否定した。
「露雩……私のこと、嫌いなの? 傷つけてもいいくらい、どうでもいいんだ……!」
「誰もそこまでは言ってな――」
「露雩の、バカァッ!!」
空竜が森の奥へ駆け出した。
「空竜姫!」
紫苑が呼んでも、その姿は止まることなく森に消えた。
「……ったく、ガキだなあいつは……」
出雲が呆れて頬杖をついた。
「オレ、間違ったこと言ったかなあ? 空竜姫の安全を考えると、絶対帰った方がいいよね?」
「(初めて出会ったときから、いつも露雩の真意が姫には伝わらないのよね)」
紫苑は立ち上がった。
「私が探してくるから、先に休んでていいわよ」
「はーい」
霄瀾が返事をした。
「私、疎まれてるんだ。露雩に嫌われた。もうこの世の終わりが来ればいい!」
川のほとりで、空竜は腰を下ろした。
「……好きなのに、なあ……」
ため息をついて、川原の花のつぼみをちょんとついた。
「空竜姫、露雩はいつでも、その人に最良の道を歩んでほしいと願う人ですよ」
「紫苑!」
空竜は慌てて背筋を伸ばした。臣下にこういう類の弱いところは、見せたくない。
「……ふん、どうせ紫苑も私のこと、帰っちゃえばいいって、思ってるんでしょ」
空竜はふてくされたように川に視線を向けた。
「私の答えは、桜橋のときと同じです。あなたが攻魔国を出るまでに神器を扱って、お一人で敵を倒せるなら、ご同行に異存はございません」
「神器、ねえ……」
空竜は自分の鋼鉄の弓をちらと盗み見た。何を隠そう、この常に身につけている弓こそが、神器の聖弓・六薙なのだ。
しかし、どんな局面でも、空竜はこの聖弓の力を使うことができなかった。
紫苑たちの戦いが、半端なものでないことは、河樹との戦いでわかっている。だから、神器に匹敵する攻撃力がなければ、いずれ死ぬのもわかっている。
「お姫様の物見遊山」では、ないのだ――。
「ねえ空竜、本当にみんながあなたのこと心配してないと思う?」
沈みかけた気持ちの空竜は、紫苑の言葉に顔を上げた。
「いつまですねてんだよ、ガキ」
「魔物に見つからなかった? お帰り空竜」
夜更けに、焚火をたき続けて、出雲と露雩が起きて待っていた。既に霄瀾は眠っている。
「あ……あんたたち、待っててくれたのお……?」
「ったりめーだろ、一人のままにできるかよ! 紫苑が行かなきゃ、オレが……」
「まあまあ出雲。無事に帰れてよかった」
出雲と露雩の優しさに触れて、空竜は目の中が感動でいっぱいになった。
「ん? 何お前泣い――」
「うるさいわよ出雲お! 露雩が私のこと好きなのよくわかった! 私のこと、もうお姫様だと思わないで! これからは一人のオ・ン・ナ・ノ・コッ! ネヘッ!」
出雲の腹を押しのけながら、空竜は露雩に必殺の、かわいい声と共にする片目つぶりをした。
「なんで……そうなる……?」
露雩と紫苑が真っ青な顔で理解不能に陥る中、霄瀾はすやすやと穏やかな寝息をたてていた。
各国は、攻魔国の帝都・攻清地から放たれる、魔を祓う結界の波動を増幅する札を、帝から下賜されていた。しかし、一時的にせよ都の結界が破られたことで、帝都からの邪悪な波動が各国に連鎖し、魔物が集まるもととなった。
四神・玄武の顕現で浄化されても、一度隙を見せた結界に、愚かな部類の魔族は、それをもう一度期待して、度々侵入を試みるようになり始めた。
結界の札の消耗が激しくなり、結界を補佐する陰陽師たちは激務に倒れていった。
これでは戦争が起きたとき必要な数の陰陽師がそろわない、と、各国が怒ったとき、だんだんと帝都の札に頼らず、自前の、負担が楽な結界に移行していこうという空気になっていった。
各国が、都に反するようになってきたのである。
「二度と都に頼らない」国々が、群雄割拠の様相を呈し始め、「自分の身は自分で守る」風潮が出始めた。
「(これをまとめ直すには強い指導力がいる)」
紫苑は空竜の寝顔を眺めた。
「(剣姫は見極めてしまうのか――帝の娘の器を!)」
帝でさえ紫苑を遠ざけたのだ。それが空竜のそばにいて、器を見て怒り任せに斬らねばよいがと思うのは、当の剣姫でさえそうだ。
「攻魔国を早く出るべきだ」
早めに空竜と別れよう。紫苑はそう決めた。
広大な攻魔国は、属国の他に帝都の西に、一国としての規模のない、しかし西からの戦争における見張り台になる、領主をいただくいくつかの領地が存在していて、紫苑たちはまず、多飾領内に着いた。
一行が飯屋へ向かうと、入口から椅子が放られてきた。
「代金なんか払うわけねえだろ!」
「そんな! お代はいただきませんと!」
亭主らしき人の、必死な声がする。
「誰のおかげでこうして料理ができると思ってやがんだ! お前らばっかり! バカにしやがって!!」
「……」
亭主は抵抗をやめた。
「ちょっとお、なんなのよ! お金払わなかったら料理の材料買えないじゃない! お店潰したいの!?」
「なんだ、てめえ!」
男は三人いて、入口の空竜を睨みつけた。
「ガキにはわからねえよ! こいつらがどんなに卑怯者か!」
三人の指差す先に亭主がいて、空竜は面食らった。
「はあ?」
そのとき紫苑が隣へ出た。
「でも、栄養つくもの食べさせてもらったんだから、お金払いなさい。毒じゃなかったんでしょう。なら、恩返ししなさい」
「っ……」
三人は顔を見合わせ、渋々金を取り出すと、亭主の近くの机に投げつけた。
「けっ! 店を出してられるのも今のうちだぜ!」
「そのうちお前だってオレたちみたいに……!」
そして、三人は飛び出して行った。
「おけがはありませんか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました、旅の方々」
机や椅子を直しながら、紫苑は周りの客も暗い表情をしているのに気がついた。
「彼らは、どういった人々なのですか?」
各国各地の実情を探れとも、九字に言われている。紫苑はさりげなく亭主に聞いた。
「い、いえ……つい最近、職を失ったのですよ……」
亭主は人目をはばかったのか、口ごもった。
「ごろつき相手に一人で啖呵切っちゃった、こわかったあ!」
空竜が露雩の腕にわざとしがみついた。露雩は視線で紫苑に助けを求めたが、紫苑は素早く視線を逸らした。
えっ、と露雩が声をあげる間もなく、話が先に進んでいった。
「彼らは……、私と同じく料理人だったのです。それが、ある料理に……失敗しまして……」
亭主の歯切れが悪い。紫苑は、権力者絡みの事情だとピンときた。
そこで、ひとまず食事を頼み、中の客が出て午後の休みに入ったところで、亭主と向かい合った。
「どうせ私も、いつまでもこの店を続けられないでしょうしね」
自嘲気味に笑うと、亭主は話しだした。
この多飾領の領主・歯巨は、食事の好きな男だった。
それはおいしいものに目がない美食家というより、大量にお腹にものを入れたい、大食漢としての方だった。
食事のとき、常に食べ続けていないと気が済まないほどで、これまで料理を間断なく出せなかった数多の料理人は、歯巨の怒りを買い、鞭打ち百回に加え、料理人資格を剝奪され、館から追い出された。
「ひどい! 料理は、一つ作るのだって手間がかかるのに!」
空竜が憤慨した。
「どの料理人も、最初の数日は作りためておいた料理でしのぐのですが、領主の一日で食べる量が予想以上に多く、そのうち一日中料理をしていないと追いつかなくなるのです。市場でよい食材を選ぶ時間も、新しい料理を考案する時間も、寝る時間もなくなります。そうして、そのうちに領主に味を飽きられて、その料理人はさきほど述べた罰を受けて追放されることになるのです」
沈んだ面持ちで、亭主がうつむいた。
「さっきの三人は、その成れの果てです。どんなに素晴らしい味を出せる料理人も、歯巨の空腹を満たせなければ、料理人を名乗ることが許されないのです」
「なによそれ! おいしいもの作って人を幸せにする人たちを……うむむう!」
「(ちょっと、空竜! 落ち着いて!)」
紫苑が空竜の肩を押さえた。このままでは姫の名乗りをあげて裁きに行きそうである。
姫のお忍びがばれたら、反帝国の者や、帝国に恩を売りたい連中の、格好の餌食となる。
「何人かの料理人で数日ごとに交代すれば、続くのではないですか?」
しかし、亭主は首を振った。
「何人も召し抱えたら、多飾領内には館を切り盛りできる優れた料理人が一人もいないのかと他の領主に馬鹿にされる――、歯巨はそう思っているらしいのです」
「それで一人ずつ選んでは自分を満足させないから怒って罰しているわけか。出すぎた自分の欲望を自分が我慢すれば、最初から何も問題がなかったのにな。領主だからって人々に一番尊敬される人間ってわけじゃない。誰もが他人を害する何かしらの欲望を持っている。人の上に立つ者はそれを力任せに下の者に押しつけてはいけない。自分の欲を我慢する人間が、本当に人の上に立つべき者だ」
「出雲お! それ、歯巨に言ってやって!」
「……お前が言えよ」
帝の娘なんだからこんくらい言えるようになれと表情だけで言ってから、出雲は紫苑に視線を移した。
「料理人の資格を失ったあと、彼らは皆、どうしているのですか?」
美しい紅葉色の瞳を、真剣に光らせている。
「ごろつきになったり、この領地を去ったり、隠れて店を開いたり……。領内中の残っている料理人が、怖がってますよ。歯巨の館に召し出されたらおしまいだ、って。中には指名されたその日のうちに、夜逃げする者もいるんですよ」
「これ、陛下に言えないの?」
「それがね、ボク。多飾領内にいずれ料理人がいなくなれば、帝や各国使節の到着の時に困るのは歯巨だから、いっぺんあいつに恥をかかせてやろうっていう意見が、おじさんたちの間であってね」
亭主は霄瀾に力なく笑った。
「まあ、力のない庶民ができる、たった一つのささやかな復讐かな」
そのとき、引き戸を叩く音がした。
館の雑用係が、亭主に手紙を持ってきていた。
「遂に、お迎えが来ました」
亭主は、自分を傷つけて親に復讐する子供のような笑い方をした。
「明日、歯巨の館の料理長になります」
諦めの色しか、読み取れなかった。
「歯巨にガツンと食らわせてやる! 姫の言葉、ありがたくちょうだいせよお!」
亭主と別れたあと、空竜が怒ってぶんぶん腕を振り回している。露雩が声をかけた。
「空竜、腕を振ると周りの人が危ないよ。とにかく、空竜が歯巨を裁いても、空竜がいなくなったらまた元に戻ってしまうよ」
「なんでよ? 歯巨はお役御免にするのに」
「帝の治められる攻魔国内の領主を、簡単にはやめせられないよ……」
帝の任命責任を問われるし、こんな人材しか帝のもとに集まらないのかまったく人望のないことだという、他国の庶民の、帝への侮りを生みかねない。
悪いことをしているから処刑、というのは、人間の世界ではなかなか難しいことなのだ。ただし、回復できない傷を与えた者については、人間の世界から仲間はずれにされて生きてきた剣姫なら、関係なく殺せるが。
「無駄なものを守らない」ことこそ、決断の秘訣なのかもしれない。
「歯巨を改心させることが、できるかしら……」
呟く紫苑を露雩が見たとき、既に紫苑は髪をかんざしであげて男装していた。
「あれっ? 紫苑?」
顔をひきしめる紫苑に一同が面食らうと、紫苑は手で制した。
「ここから先は俺に任せな。ちょっと調べたいことがある」
そして、一人で民家に入っていった。
「あ、この家……、飯屋の亭主が教えてくれた、隠れて営業してる店……」
露雩たちは、窓の隙間から中を窺った。
この店も今は午後の休みの時間らしく、店主と対面できる席に座る紫苑以外には、誰もいない。
女料理人と紫苑が何事か話しあっている。
すると突然、女が耐えきれない様子で立ち上がって叫んだ。
「や、約束よ! 私の裸、見て!」
「(ええー!?)」
一同がめいめい自分の口を押えていると、男装紫苑は目を光らせた。
「いいぜ。お前のきれいな肌を見るのが、楽しみだぜ」
二人は連れ立って店の奥へ入っていった。
「えっ!? なになに!? どーなってんのこれ!?」
目を丸くした空竜が出雲と露雩に交互に顔を振り説明を求めていると、
「シ・オ・ン~!! この、浮気者ー!!」
男二人は嫉妬の炎のついた猟犬のように店内へ雪崩れ込んでいった。
「えっ!? わかんない、なんなの? 紫苑て女の人が好きなのおっ?」
空竜は混乱し、霄瀾はおろおろしていた。
そのすぐあと、女料理人の悲鳴が聞こえ、包丁や鍋が投げつけられる中、男二人が逃げ出して来た。
「……あの女の人のケガ治すんなら、そう言えよ」
出雲が思いきりむすっとした、恨めしそうな目を向けた。頭にやかんが当たったのだ。
「追放されたんなら体に鞭打ちの跡が残っちまってるはずだ。俺の知りたいことを教えてくれるなら、代わりに、治癒の術で傷をきれいに消してやるって持ちかけたんだ。それをお前ら、背中を向いてたとはいえ女が裸のときに踏みこんで来て……」
男装紫苑は呆れた目を返した。
「……だって、心配だったんだもん……」
ぼそっと、露雩が呟いた。
「ん?」
「紫苑は男装すると女好きになるんだもん。あの女の人がしんぱいだったよ」
霄瀾が腰に手を当てた。
「……子供に呆れられてる……」
紫苑は一瞬、虚空を見つめた。
その仕草も何もかも、一つ一つの動作が美しかった。
空竜はなんとなく、紫苑にみとれている自分に気づいた。
「ん?」
男装紫苑のひきしまった視線と目が合い、空竜の心臓はドキッと動いた。
「(あ、あれっ? なんで私、ドキッとしたわけ? 私が好きなのは露雩よ! えっ、ちょっとお、なにこれ!?)」
空竜の内面で壮絶な闘いが繰り広げられている最中に、紫苑の目は女の子たち四人連れをとらえていた。
「やあ君たち、これからお買い物? 少しお話しない?」
「えっ?」
四人に対し、紫苑のもともときれいな顔が、いつもは硬い表情なのに、今は笑顔をふりまいている。
これで人を振り返らせないはずがない。
「きゃー!!」
女の子たちは紫苑に群がった。
「あっはははは! みーんな俺についてこい!」
女の子たちの肩を抱いて、紫苑が高らかに笑った、そのとき。
「うぐっ!?」
紫苑の首に投げ鞭が入った。
「オレより男っぽいなァ、紫苑?」
出雲が紫苑の美しい男装の顔に自身の顔を赤らめつつ、鞭を握る手で力強く引っ張った。
「ギャイン!!」
紫苑は土の上に倒された。
「な、何をする! 俺がお前に何をした!!」
「もっともらしい言いわけをするな! オレの寿命を縮めてんだよ! どう償わせてやろうか!」
鰹の一本釣りのように鞭がしなる。
「うっ……このままでは女の子たちと離れ離れになってしまう……!」
「そうはいくか!」
露雩が参戦した。
「おお、露雩! 俺に味方してくれるのか!」
「紫苑にナワかけていいのはオレだけだー!!」
出雲と露雩が鞭を奪いあった。
「ガルルルッ! 苦しっ……首に食いこ……!」
鞭に首をしめあげられて、紫苑は酸欠になり、抵抗する力が失せた。
いつのまにか、女の子たちはいなくなっていた。いや、男二人の争いに恐れをなして逃げ出していた。美形三人の三角関係に後ろ髪ひかれながら……。
「ああ~、俺の女の子たちが~」
本気で肩を落としていそうなので、露雩が紫苑のこめかみをぐりぐり親指でしめつけた。
「いたいいたいいたい!」
「平気で女に声かけてるんじゃない!」
「男に生まれた以上自分がどこまで世界中の女に手を伸ばせるのか確かめてみたい!」
「痴情のもつれですぐ殺されるぞ! お前もう永遠に女として生まれ変われっ!」
「お前が俺を女にしてくれるのか?」
「へえっ?」
え、えーと具体的に言うと、と思わず露雩がうろたえた声を出すと、紫苑はかんざしを抜いて、上げていた髪をおろした。
「お前、もう俺を見るのはやめろ」
最後の言葉が、露雩の心臓をえぐった。
「なん……だい……それ、どういう意味……」
さっきから、おかしい。彼女は、オレを避けている――。呆然とする露雩をよそに、出雲が苛々(いらいら)しながら紫苑に詰め寄った。
「で、あの女から何を聞いたんだ? それなりの情報なんだろうな!」
「料理長にしかわからないことよ」
男装から戻った紫苑が歩きだした。
歯巨が一口で頬張る量、咀嚼にかかる時間、好みの塩加減、好物の食物、食べない食材がないこと、など。
歯巨の食事に関するあらゆることを聞き出していたのだ。
出雲が思わず立ち止まった。
「お前、歯巨の館に行くつもりなのか!?」
想いを寄せる紫苑が鞭打たれたらと思うと、出雲は紫苑の前に立ちはだかった。
「だめだ! いずれ歯巨が困るぞと、脅すだけでいい! 相手の土俵で戦うなんて、兵法の鉄則に反する!!」
「そうよお、うまくいかなかったからって実は私たちは高い身分の者で、なんて言ったら、面子丸つぶれよお!? 最初から私に任せておきなさい!!」
空竜も同調した。
「……明日まで、時間をくれないかしら。……もしここでどうにかできたら、人々が無実の罪で傷つくことを止めることができるわ」
「「……」」
二人は、渋々明日まで口を出さないことに同意した。
露雩は、剣姫が出て解決しない問題でも、紫苑の力で人々を助けようとしているのに好感を持った。
剣姫では力で、舞姫では知恵で。力があろうとなかろうと守りたいものを守ろうとするその勇気を、彼は永遠に護り続けてあげたいと思った。
「(それなのに……)」
なんで急にオレに冷たくなったんだろう、と露雩が溜息をつくと、彼の腕が引っ張られた。
「――ねえ、露雩ってば! 聞いてる!?」
空竜がぐいぐいと引いて、露雩を目の前の店へ入らせた。
「私に、かわいい装飾防具、買ってえ!」
「は?」
店は防具屋で、立派な兜や盾、鎧がひしめいている。
会計の真正面に、装飾品の置かれている棚がある。これらは装飾防具といって、毒や睡眠攻撃を跳ね返したり、五行のいずれかの属性攻撃を和らげる魔石がはめこまれたりしている。
きれいな細工で囲われていて、宝飾品としての価値もある。
「え? 空竜には海月があるじゃないか」
「属性防具が欲しいのお!」
「お前なー、金持ってるだろ! 自分で買えよな!」
「ふんだ出雲、私は露雩に買ってもらいたいんですうー!」
露雩と出雲は顔を見合わせた。
「(お姫様はお前からの贈り物が欲しいんだってさ)」
諦めろ、という目で出雲が露雩の肩に手を置いた。
露雩の視線の先の紫苑は、我関せずで霄瀾と盾を見ていた。
「……いろっいろ傷つけるよね、紫苑……」
露雩の中で、紫苑を従わせたい闘志が湧き起こった。しかし、彼に浮かぶのは「話を聞く」「言葉をかける」の二つの選択肢だけだった。
「私いー、露雩の力になれるものがいいなあ! ほら、波を象った腕輪、これがいい!」
空竜が術で強度を上げた硝子細工の腕輪を手に取った。
説明書には、水の術を使うとき、威力を強めると書いてある。
「これでいつも、二手に分かれるときは私と露雩の二人組だねっ!」
「……」
紫苑への当てつけに他の女の子に物を買おうとしていた露雩は、それを聞いて止まった。
式神と主と霄瀾、露雩と空竜の組み合わせが定着しかねない。
露雩はその危機を免れるべく、全知全能を傾けた。
「紫苑」
「なに?」
「お金貸して」
「「はあ!?」」
紫苑と空竜が同時に叫んだ。
「何言ってんの、都を出るときたくさんもらったでしょう!」
「どこかに行っちゃった」
「どこかって……」
「探せばあると思うけど、今はどうしても見つからない」
「……あのね……」
つまり、空竜に買いたくないのだ。
「ちょっとお、紫苑のお金で買ったら、意味ないじゃない! 露雩のものが私のものになるっていうのが欲しいのお! 荷物どこ!? 私が探してあげるわよおっ!」
「……お前な……」
出雲が抵抗する空竜を店の外へ連れ出した。
「紫苑」
「なに?」
露雩は横顔を見せて目だけ彼女へ向けた。
「その首飾りの他に、まだ買う予定だから」
紫苑は、帝都で露雩にもらった桜と紅葉の魔石の首飾りに、思わず手を触れた。
「……」
赤くなってうつむく紫苑を見て、露雩は名残惜しそうに店を出て行った。
「んもー、信じらんない! 私がねだってもらえなかったものなんて、今までないのよ!? それがよりによって大事なときに……!」
鹿の皮を剝ぎながら、空竜が鼻息荒く愚痴をこぼしている。
「自分で買ったんだ……その腕輪」
霄瀾が膝を抱えて聞き役になっている。空竜の腕には波の形の、透き通った水色の硝子細工が光っていた。
「これがあれば露雩と二人組だもん、買うわよ! あとで露雩の荷物総点検よ! まったく!」
鹿の皮を、剝ぎ終わった。
「すごい空竜、皮に傷一つないよ!」
空竜がそれなりにある胸を反らした。
「ふふーん、穴があかないように、矢を鹿の眉間に入れた甲斐があったわ! 一発で仕留められたし、私って弓の天才!」
そう、この鹿は空竜が狩ったのだ。皮は布団の代わりにして、そして肉は夕食のために、調理することになる。
「ごはんよー」
紫苑の声が聞こえた。
「うわあー!」
霄瀾が感嘆の声をあげた。
切り株の椅子が五つと、大きな葉を各自のお盆に見立てたものが五枚あり、石の器にたった今焼きあがった鹿の焼肉がたくさん盛られ、木の器に暖かい三つ葉の汁物が入っていた。長い葉が地面に机のように敷かれ、おむすびがたくさん並んでいる。
料理だけでなく、食器も豪勢である。
「(……空竜にちょっと対抗意識燃やしたのかな?)」
出雲たちはなんとなーく、推測した。
「……しっかり料理をすると、どうしても時間がかかってしまうわね。どの食器で出せばおいしそうか、とか、料理をある程度冷ます時間、とか、けっこうやることが多いわ……」
館での予行演習をしていたのか、と一同は気づいた。
「でも、いくら手際良く数をこなしても、料理時間を短縮することはできないし、一人で一度に料理できる数は限られているわ。秘密で数人で料理を作っても、味が違って歯巨にばれてしまうだろうし……」
あまりに真剣に紫苑が考えこんでいるので、出雲が軽口を叩いた。
「料理ができるまでの間、芸でもしたらどうだ? 要は気をそらせばいいんだろ?」
「そうか! それ、いい考えね!」
「え?」
紫苑は面食らった様子の出雲と、隣で聞いていた露雩に包丁を持たせた。
「さあ! 私の芸を手伝ってもらうわよ!」
「女の料理人を呼んだ覚えはないが」
丸坊主の巨漢、多飾領の領主・歯巨は、紫苑を見て開口一番そう言った。
武人あがりの者らしく、毎日武器で戦う訓練は欠かさない。その間はいいのだが、あとはその体格を維持するために頻繁に大量に食事をとる。その間中、当然料理人に休みはない。
筋肉の盛り上がった猛々(たけだけ)しい虎の描かれた屛風の前に座り、歯巨は「まあ、いいか」と呟いた。
「見事な料理を期待する。さあ、食事の時間だ、料理長!」
紫苑の料理が次々と運ばれてきた。
鶏の丸焼きに、野菜のすまし汁。鶏骨のだしで煮た温野菜。
歯巨は一口で鶏の胸肉の半分を食べてしまうと聞いたので、骨があって食べるのに手間取るよう、丸焼きで出した。たれにつけて食べれば味をしみこませるこちらの手間が省ける。そして、食材を無駄にしないために、別の料理で出た鶏などの骨は、きちんと使ってうまみを抽出し尽くす。なるべく市場に出る回数を減らすのだ。そして、野菜は大きく切り、切る回数を減らしてこちらの時間を短縮する。歯巨の嚙む回数を増やして時間を稼ぐことも狙いだ。
そして、ところてんやもずく酢を出す。
歯巨は食いしん坊で、どんな料理でも、初めて出されたものは全部食べなければ気が済まない性格だった。箸や匙で全部取りきれないのも手伝って、液体ごと必ず飲み干すだろうと紫苑は考えたのだ。
案の定、歯巨はもずくの大皿を飲み干している。食べ物だけでなく、飲み物からも歯巨の胃袋を満たそうという作戦である。
そして、塩分の薄いつゆの、冷たいそばを出す。
運動をしている者が一番食べたいものは、塩分だ。薄いつゆにすることで、歯巨に食べたりなさを与え、飽きさせずに、そばを腹に多く入れてもらおうというのである。一つの料理が長くもつと、それだけ自分が作れる料理の組み合わせを今後に向けて、温存できるからである。
そして、こんがりきつね色に焼けた焼菓子、一皿分。
これまでの歯巨の食事の傾向でいけば、もう満腹になるはずである。これだけ腹に入れれば今日の朝食はこれで終わりだろうと皆が思ったとき、歯巨は大声を出した。
「甘いものを食べたら、しょっぱいものが食べたくなった! 持ってこい!」
この女料理人はこれで終わった、と誰もが思った。しかし、紫苑は十二支式神の「子」(鼠・ねずみ)でこの様子を観察しながら、厨房でまったく慌てなかった。
「まだか!」
と、歯巨が怒鳴ると、かっぽう着姿の紫苑がやって来て恭しく礼をした。
「箸休めなら、既にご用意してございます」
「箸休めだと?」
歯巨は机の上を睨んだ。しかし、机には空の皿と水差しに入っている花しかなかった。
「花でも食べろと言うのか!」
「その通りでございます」
「なんだと!!」
歯巨が唸り声をあげた。
「よくご覧下さいませ」
紫苑は平然と花を指差した。
「何を言って……!」
橙色の飾りだと思っていた花は、人参を花の形に切り抜いて作った、人参そのものの花だった。茎や葉も、胡瓜の細くしたものや、ほうれん草でできていた。
「貴様! 領主様に生の物をお出しするとは!」
「待て」
紫苑を叱りつける家臣に、領主は手をあげた。その目は野菜の花に見入っている。
「花びらに『寿領主・子孫繁栄』と彫ってある。とてもめでたいな。うむ、気分がいい。こういうものは、初めて食べる。余興としてはおもしろそうだ」
バリ、と花を一口で嚙み砕くと、ほど良い塩水に浸けられていた野菜の味わいが、野菜本来の甘みとともに口中に広がった。
「ふうむ、これは……」
バリバリと花の形を確かめるように歯巨が食べている間に、紫苑は皿も示した。巨大な蕪をくり抜いた皿だった。ここには『祝領主・良治民笑』と彫ってある。歯巨が珍しそうに皿までたれで食べて、机の上がきれいになったところで、次の料理が間に合った。
昼食も、間食も、夕食も、予想以上の量が必要になったときは、必ず野菜か果物を花や皿の形に作りあげた、そしておめでたく領主を祝う言葉が彫られた「箸休め」が登場した。しょっぱいものが間に合わなければ漬物にした野菜の花、甘いものが間に合わなければ果物の花が出されるのである。漬物なら、いくらでも簡単に前もって準備しておけるし、果物も仕込みがなく、すぐ出せる。皿はつけだれで食べるので、辛味でも酸味でも好みの味を提供できる。
そして、食べ物の花は決まってこの領地の紋章、水仙を象っていた。次の料理に手間取るときは、トマトで赤、胡瓜で緑、南瓜で黄、茄子や冬瓜で白色の花をたくさん作り、赤いあめで作られた紐で花束として結わえられ、水差しに入れられて出された。
歯巨は、領主としての自分に、水仙という領地の象徴とお祝いの言葉が毎日花束として差し出されるのを、快く思い始めた。大事な権力の象徴として、一つ一つ、丁寧に味わう癖がつき始めていた。また、皿ごと食べて机の上がきれいに片付くのは、大食いの歯巨に「今日もたくさん食べた」「完食」の快感を覚えさせた。
しかし同時に、料理を作りながらこの花と皿をこんなに大量に作るのは無理だと考え始めた。
一人で作っていないなら、罰しなければならない。歯巨は食事を一旦中断し、席からおもむろに立ち上がると、厨房へ向かった。
紫苑は、いなかった。
代わりに、領主以外の食事を作る見習いの料理人たちと、出雲と露雩がいた。
「貴様、それはなんだ!!」
歯巨は鋭く叫んだ。出雲と露雩の包丁と、二人の前の野菜と果物と皿を見ていた。
今まさに、野菜と果物の水仙が、完成しようとしているところだった。
二人の机の脇に、大量の食べ物の水仙と皿が積まれている。
「なるほど、あの女が料理を作っている間、お前たちがこの花と皿を作っていたのか! どうりで料理が続くわけだ!」
歯巨はやっぱりといった顔でまくしたてた。
「あの女は約束に違反した! 罰する!」
「私が違反したという証拠はございますか?」
そのとき、入口から声がした。
紫苑が市場での食材調達から、荷物を持って帰って来たところだった。
「何を言う! この光景が動かぬ証拠ではないか!」
歯巨が勝ち誇ったように水仙と皿の山を指差した。
「それを私が作らせたという証拠がありますか?」
「なに?」
歯巨の顔がひきつった。
「オレたち、料理長の弟子です。料理長の腕に近づきたくて、料理長の花と皿を練習してたんです」
「作ったものはみんな、オレたちで食べてますよ」
出雲と露雩がいけしゃあしゃあと言った。
もちろん、嘘である。紫苑の料理の時間を助けるために、「芸」――つまり食材を別の形に切ることを考えたのは、紫苑だった。
しかも、ただの「芸」では、「ただの料理」に歯巨が飽きたように、いずれ飽きられる。
そこで、紫苑は領地の紋章、水仙に目をつけたのだ。
何度もらっても嬉しい花束、それは「領主・歯巨」を肯定し祝福する意味を持つ、水仙と祝いの言葉以外にあり得ない。
紫苑は、歯巨を永遠に満足させる料理を、考案していたのだ。
歯巨には、出雲と露雩の二人が堂々と嘘をついていることがわかった。だが、証拠はない。そして――、
「(各国の使節にも、きっとこう答えるだろう)」
と、考えた。料理長が一人で作りためておいたものだと自分が言ってもいい。料理はずっと料理長が作っていた。花の漬汁も自分で配合しているだろう。この二人は花と皿を切っているだけだ。なら、人参や茄子を切るだけの下働きと同じだ。料理を作っているわけではないから、これは違反ではないな……。
「わかった。これからも頼む、料理長」
あの水仙の花束と、完食の快感をくれる皿なら、毎日食べたい。その気持ちが、歯巨の頑な心に譲歩を生んだ。「ただの料理」なら、これからも永遠に同じことが繰り返されていただろう。だが、歯巨は胃袋でなく精神が満腹する方に喜びを見出したのだ。嘘を通してでも、飽きないこの料理を食べ続けたいと望んだのだ。歯巨は自分の欲望を満たし、「満足する」ことに、手が届いたのだ。
その瞬間、見習いの料理人たちが泣きだした。
もうこれから、料理人が罰せられることはないのだ。紫苑がいなくなったあとも、料理長が料理をしている間に、自分たちが水仙を作って助けられれば、料理長が潰されることがなくなるのだ。料理に関して、歯巨の許しを得たのだ。
言葉にしないで、料理人たちは何度も紫苑に心の中でお辞儀した。料理を見つけてくれてありがとうございます、と。
「お前を正式に料理長に任命したい。名をなんという」
あまりにも料理人を追放しすぎて、歯巨は怒りから、料理長の名前を覚えなくなっていた。
「歯巨、悪いけど、紫苑は私専属の料理人なの」
空竜が胡瓜を入れたふろしきを置いて、前に進み出た。
「ぶっ、無礼な! 領主を呼び捨てに……! ひ、姫様!?」
歯巨は、改めてよく見た娘が空竜姫だということに気づいて、慌ててひれ伏した。
「食べるのが好きなのはいいけど、自分の速さに他人を強いるのって、よくないと思うわあ。都では、食材や料理の種類で分かれたりして、料理長の下に何人も細かい担当の責任者がいるんだからあ。一人に無理矢理背負わせる必要ないし、二人以上いたって料理の系統が違う二人で、この領地の食が豊かな証拠だから、いいの! わかった?」
「は、はあ……」
「帝の料理長が作る以上の料理を作ってほしいならあ、いろんな料理人を集めることお! 処罰した人たちの資格を、元に戻しなさい! いいわね?」
歯巨は、空竜の言外に、「帝の料理長以上の料理長を使っていると、自慢しようとしたわね」という怒りを察知し、ますますひれ伏した。
「お、仰せの通りにいたしますゆえ、なにとぞお許しを!」
「それ、罰した人たちに言うのよ」
歯巨が国中の料理人たちへ謝罪するのを見届けてから、空竜は多飾領を出た。
飯屋の亭主が、お礼に青菜のおにぎりの弁当を持たせて、見送ってくれた。
「うん、いいことしたあとはごはんがおいしい!」
空竜がおにぎりを草場で頬張りながら、そのおいしさにくうーっと空に声を発した。
「……まあ、オレの言いたかったことをちょびっと言えてたのは合格だったんだが」
「なあによ、出雲。お姫様に手放しで感動しなさい!」
出雲が青菜のおにぎりを食べながら、呆れたように空竜のおでこをピンと弾いた。
「いったあーい! 何すんのよっ! お姫様に傷をつけたら百倍返しの刑なんだからあっ!」
「お前なあ……、そのお姫様が旅をしていることがバレちまっただろ! 身分明かすなっつったろ!」
「え? 何よ。だって、私が名乗って命令しなかったら、料理人が救われなかったのよ?」
露雩が苦笑しながら紫苑を指差した。
「あのさ。オレたち、帝の天印を持ってるんだよ」
「えっ? どういうこと?」
空竜が目を丸くした。紫苑が視線を受けて説明した。
「星方陣の情報を聞き出すときに、これは帝の勅命であるって示すためにね。この天印があれば、私たちは帝の直属の配下ということになるわ。ある程度の命令も帝に代わってできるの。その分、私たちも誤った裁きはできないから、責任重大なんだけどね」
紫苑が天印の入った袋を見せた。
「エーッ! なんで早くにそう言ってくれないのお!?」
出雲がおにぎりの最後のかけらを、口に放りこんだ。
「お前、そのときいなかったしな」
「どうしよう、歯巨、絶対お父様に言うよね、姫が旅してるって! 連れ戻されたらどうしよう!」
「バカやろ!」
出雲が再度おでこをピン! と弾いた。
「ううっ、いつか出雲に二百倍にして返すう……」
半泣きで額を押さえながら、空竜は出雲を睨んだ。
「わかんねえのか! 帝の一人娘を抹殺しようとする輩が、出るかもしれねえってことだよ! 都の目の届かない所には、まだ帝の力の十分に及んでいない所があるんだ! それに、今どこの国も情勢がきな臭い! 全部が襲ってきたらどうする!」
空竜は初めて事の重大性に気がついた。
「それじゃ、私たち途中で忍びの者とかまで相手にしなくちゃいけないってことなの!?」
「それだけで済めばいいがな。最悪、国を挙げて捕まえにかかるかもしれねえぜ」
「ど……どうしよう、私……、こんなことになるなんて思わなくて……」
空竜が自分の胸に手を当てるのを見て、出雲は言葉を続けた。
「今すぐ旅をやめるのが一番だ」
「……そうよね」
「空竜……いいの?」
紫苑が気づかうように空竜をのぞきこんだ。
露雩と霄瀾は何も言わなかった。
「これから諸国は私が来るとわかってボロを出さなくなるだろうし……」
空竜の台詞に、出雲はこけた。
「……は?」
「偉い人がお忍びで旅するのは、お忍びだから意味があるのよお。行く先々で身分がばれてたら不正を見つけるも何もないわあ。それじゃつまんないし、人のためにもならないし、人々の心の勉強にもならないわあ」
「はあ!? 何言ってんだお前は!!」
出雲は立ち上がった。
「この大バカが! 世直しだかなんだか知らねえが、遊びじゃねえんだぞ! ましてやオレたちは星方陣を完成させる大事な旅だってのに! お前の自己満足のためにオレたちや国はあるんじゃねえ! お忍び遊びなんかやめちまえ!」
空竜も立ち上がった。
「何よ! そのときそのときで的確に罪を正しく裁くことの何がいけないっていうのお!」
「オレたちはお前のお守でいるんじゃねえ、星方陣のためにいるんだ! くだらない遊びでオレたちの目的の邪魔すんな!」
「何よ! 邪魔なんか……」
もうこのあたりで喧嘩を止めないと、と紫苑も立ち上がったとき、出雲が決心したように言葉を投げつけた。
「お前はまだ帰さない」
「え?」
一同はまばたきした。
「将来こんなバカに仕えるなんて、まっぴらだから。お前が一人前の帝室にふさわしい学を身につけるまで、可能な限りオレと一緒にいてもらう!」
「い、いやよ、なんであんたなんかとお!」
「うるせえな、嫌なら帝の娘なんかやめちまえ! だいたいお前、都で何学んできたんだ!? 言うべきことはときどき奇跡みたいな天然さで言うけど、脇が甘すぎる! そういうとこ、頭の緩んだ釘も含めてオレがしっかり打ってやるから、覚悟しとけ!」
出雲は言うだけ言うと、音をたててあぐらをかき、次のおにぎりをつかんで食べだした。
「あっ、頭の緩んだ釘いっ!? 無礼者おおっ!!」
トマトのように真っ赤になって両手を振り上げる空竜を、紫苑が抱きとめて押さえた。
「(この二人をまとめるの……、長の私、なんだよね、やっぱり……)」
これからの旅に新たな悩みの種が生じたような気がして、紫苑は空竜を止めながらうなだれた。




