帝都決壊第一章「疫病(えきびょう)」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
帝の娘・空竜姫、帝都一の陰陽師・九字、九字の式神・結双葉、大将軍で帝軍の総大将・作門示期大、六十五歳の二刀流の将軍・意刀織斬。
紫苑を封印して自らの野望をかなえようとする、結晶睛という瞳の力によって術の能力に傑出した僧侶・河樹。
帝都に対し、魔族軍と組んだ人族の国が反乱を起こし、攻めて来ます。
第一章 疫病
攻魔国の帝都・攻清地に、疫病が発生した。
全身から力が抜け、一歩も動けなくなる病で、人々は道のそこかしこで行き倒れのように伏し、一言もしゃべれなくなった。
何が原因かわからず、治療薬も見つからない。
医師たちは様々な薬を試しながら、病人に栄養と暖かい寝床を助言することしかできなかった。
そして、それが帝の在す城内にまで、広がり始めていた。
指揮官の将軍たちも役人たちも次々に倒れ、都は運営に支障をきたし、混乱を起こしつつあった。
陰陽寮の長である九字は、病人の部屋の通路を術で遮断し、帝や空竜姫に接触しないよう、取り計らった。
本来なら既に修行を終えた紫苑たちは、帝から星方陣を成すことを命令する勅命を受けて旅立とうと思っていたのだが、他国へ感染を広げてはならないという配慮から、未だ都にとどまっていた。
空竜は疫病にかからないよう、部屋に閉じこめられていた。部屋の隣にある庭では、都の惨状などどこ吹く風で、一年桜が散り続けている。
のどかである。
ここだけ平和すぎて、胸が痛い。
「ねえ、知頭世。私、じっとしていられないわ。私が無事でも、民が苦しんでいるのは――」
空竜は、世話係の頭である老女に、ひまわりのように大きな目をむけた。そばには五人、なぎなたを持った官女が控えている。
「ここを出てはなりませぬ。病を発したらなんとしますか。姫様のお体は、姫様だけのものではございません。姫様にもしものことがございましたら、陛下は日」
「わかってるわよ!! いちいち言わないで!!」
空竜が珍しく心底から怒鳴ったので、知頭世は口を閉じた。
「……しばらく一人にして!」
低く唸ると、空竜は一年桜の庭へ下りていった。
後を追おうとする官女を、知頭世は止めた。
空竜は一年桜から降る花びらを浴びていた。
嫌なことがあったときは、これで心身を洗い流す。優しい花びらが触れるたび、空竜の感情も和らぐのだ。
「私の人生はあ、私が決める……」
花びらを浴びながら思った。
「今行動しなかったらあ、一生籠の鳥になるような気がする」
花びらが、空竜に優しく触れた。
「私はあ……、籠から出るう!」
空竜は、一瞬で城の入口に出られる、鉢に入った蓮の花を、隠していた懐から取り出して触れた。
「……お前何してんの?」
入口で、出雲が籠いっぱいの草を背負って入ってくるところに、空竜は出くわした。
「それえ、薬の材料?」
空竜は勢いこんで尋ねた。草の生えている場所なら、空竜はすべての地形を頭に叩きこんでいるため、最短距離で調達できる。
「うーん……まだ、効くかどうか試すっていう段階だな」
「そうなんだ……。出雲が動いてるってことは、紫苑も何かしてるのお?」
「あいつは九字と、この疫病が呪いかどうかって線で調べてる。オレは式神で体力があるから、結双葉と一緒に、病人に接する医者の手伝いをしてる」
「式神って病気に強いのお?」
「体力は魔族並にあるんだよ」
「そっか、式神ってすごいんだあ……あっ! じゃあ、紫苑や九字の紙式神で、病気を吸い取れないかなあ」
「おっ、お前にしては冴えてるな。それは九字も考えた。でも、一時的に少し回復するだけで、すぐぶり返しちまったんだ。相当人間に対して強力な病気みたいだな」
空竜は、肩を落として落胆した。
「……そういえば、露雩は……と霄瀾はあ? あんたと紫苑が他で仕事してるってことはあ、無事なんでしょう?」
出雲は多少驚いた表情を見せた。
「露雩は霄瀾を面倒見てる。感染しないように外出は極力控えて、城内の図書寮で本借りて、治療に役立ちそうな植物や術を探したり、疲れたときは岩絵の具眺めてうっとりしてたり……。霄瀾は都の曲を練習してる」
「岩絵の具う?」
怪訝な表情をする空竜に、出雲の方も同じ顔をした。
「……でお前、何してんの?」
「えっ!? お、お父様がね、内密に民の様子を見て来いって言うのお! だから、私がここにいることは秘密よお! わかったあ!?」
「……お前さ」
出雲は呆れたように腕組みした。
「もっとましな嘘思いつかなかったのか?」
「ちち違うもん! ウソじゃないもん!!」
「あのな。お前は病気に関しちゃ素人だ。足手まといだから部屋にいろ。それとも興味本位で都を見物するつもりなのか?」
「違うっ!!」
大声で食ってかかってきたので、出雲は空竜の大きな目を直視した。空竜は目を逸らさなかった。
「私、何もしないなんてできない! 私も都に住む者の一人だもの! みんなが大変なとき、私も何かの助けになりたいの! ねえ出雲、人手が足りないんでしょう? 私、やるわ! 何か手伝わせて!」
出雲は、空竜の黒く深い濃淡の瞳が揺らがないのを見た。出雲は片膝をついた。
「姫様」
「い、出雲……!!」
改まった出雲に、空竜は愕然とした。
「姫というお立場をわきまえてください。御身は姫だけのものではありません。病に倒れて我ら臣下の者を動揺させるおつもりですか」
「壁」に胸をえぐられながら、空竜は気丈にも声を発した。
「私、苦しんでる人を助けたいの! 私を慕ってくれる人たちを、励ましてあげたいの!」
しかし出雲は顔を上げなかった。
「姫様は姫様にしかできないことをなさるべきではありませんか。疫病で混乱する国民に的確なおふれを出したり、専門の人間を遣わして助けることを命じたりすることができましょう。適材適所を見極めるのが君子の仕事にございます」
「出雲! だって私……!!」
空竜の大きな瞳がうるみ始めたとき、
「ですが――」
出雲が顔を上げた。
「でもよ、ここで何かしなくちゃ、『空竜』じゃねえんだろ?」
出雲のさわやかな顔が、にっと笑った。
「……!! うん!! うん!!」
言葉にできない喜びが喉に溢れ、それを振り吐こうと、空竜は大きく何度もうなずいた。
「わかったよ。好きな所へ行きな。オレが守ってやるから」
「出雲、あんた……!!」
薬草を医師のもとへ届けたあと、出雲は本当に、城外にいる空竜のもとへ来てくれた。
「お前、目立つからこの布かぶってろ」
出雲は、空竜に頭から足先まで隠せる、こげ茶色の布をかけた。
「用意がいいのねえ。私の世話係に推薦してあげるわあ」
「適材適所って言ったろ。これほどの剣士を時計係にするなんて、天下泰平すぎるぜ」
「あらあ、私の世話係は武芸にも秀でてないとなれないのよお。私の近衛兵だもの」
「あの婆さんもか!?」
「知頭世は昔、武芸大会で男の武者たちをおさえて優勝してるのよお。今は、若い近衛兵たちの指揮官ね」
「……おい、お前の近衛兵って、全員女のような気がするんだが」
「そうよお。だからあんたも女装するのよお」
「『イズ子ちゃん』はイヤだあー!!」
主との想い出に、出雲は身悶えた。
そんな会話をしながら、都の東西を結ぶ大路、南北を結ぶ大路を歩いているが、店を開けている者はまばらで、ほとんどの店が木の柵をはめて店を閉じている。
感染を避けるためもしくは乞食として外に出る力もないのか、人も歩いていない。人間にしか感染しないため、大通りは野良猫と鳥類が我が物顔で闊歩している。
民家のある小路へ入りこむと、どの家にもかまどに火が焚かれていた。
穢れを燃やす炎の精霊の火を、九字がすべての民に分けたのだ。火種は、九字たち陰陽寮の陰陽師が、力を込めた札だ。
疫病にかかった人々は、寝床について、満足な食事もとれずにいた。火があって、暖かいのだけが、唯一の救いだった。
彼らは、話す力もない。だから、呻くこともできない。診療所は基本的に、入院できる病床は手術用以外にはない。そのため、彼らは感染の危険がありながら家族に看病されて、苦しみながらただ寝ていることしかできないのだ。空竜は、看病してくれてありがとうとも、最期にそばにいてくれて幸せとも、うつしたらすまないとも何もかも、家族に伝えたいことを何も訴えられない人々の辛い気持ちを思うと、握りあわせた両手を締めつけた。
「問題は、炎の精霊でもこの穢れを燃やせないってことだ。灰にすれば完全に浄化できるだろうが、人を灰にするわけにはいかないからな。火には体温を高めてもらうことだけ任せよう。あとはオレたちで元凶をどうにかしないとな」
「人間だけに流行するっていうのが鍵なのかしら。人間だけがしていて、動物がしていないこと、とかあ……?」
「そういえば、病人には何かが食いこんだ傷があったな……全員じゃないけど」
餌をもらえると思った番犬が、吠え続けている。一家が倒れた家の犬は、都が餌を与えている。無抵抗の他人に危害を加えないよう、鎖はつないだままにしてある。
人々は一度倒れるとほぼ飲食することができなくなるため、三日ともたずに死に至る。日を追うごとに死者は増え続け、疫病発生から一週間が経った今、都において数千人規模で食い止めようとしているとはいえ、感染力がとても強いために次々に死亡したか罹患したかしていることを考えると、悠長に対策を練ることは、許されていない。
誰もいない裏路地を二人で歩いていると、不意に薄茶色の布を頭からかぶった子供が現れ、出雲に走りながらぶつかった。
「(!? オレはよけたのにわざとぶつかってきた!?)」
スリかと思って財布を確認したとき、出雲の、ぶつけられた腕から、血が滴った。
「出雲!?」
「待て、触るな!!」
慌てて絹布を出す空竜から、出雲は飛び退いた。
「この傷、病人についていた傷と同じだ!」
「えっ!?」
「あのガキを追うぞ、関係があるはずだ!!」
言うなり、出雲は全速力で駆け出した。
「兄キ、戻ったぜ!」
薄茶色の布をかぶった子供が、山の根城で楽しそうに声を張り上げた。
「まだ元気そうなのがいたから、また嚙ませて来た!」
子供は、布を取り払って、手に握った牙を誇らしげに掲げた。
その姿は、人間ではなかった。手足の長い猿の魔物が、人間の服を着て、都に出没していたのだ。
「よくやった浮坊。茶でも飲んでろ」
牙を数本抜いてある大きな牛の魔物が、椅子にふんぞりかえっていた。
「兄キの毒の牙でまず旅人を感染させ、それが都にかつぎこまれて一気に人間に感染が拡大する。都の術師は結界を張る余裕もなくなって、オレたちが自由に出入りできるようになる。どんどん兄キの牙で傷つけて感染させるから、これで都も終わりだよな、兄キ!」
周りの猿や猪の魔物がはやしたてた。
牛の魔物が大口を開けて笑った。
「バッファッファ! まさかそのオレの牙が疫病の特効薬だとは気づくまい! あいつの力なんぞなくても、オレ一人で剣姫も都も葬ってみせるぜ!」
「ふーん。剣姫がいるときを狙ってか」
いつのまにか、出雲が魔物の中に入りこんでいた。
「てめえ、何者だ!!」
「生かして帰さねえ!!」
「あっ! あいつ、牙で傷つけたはずなのに!!」
浮坊が叫んだ。
「炎式出雲、律呂降臨!」
子分の対処は、空竜の弓による外からの援護射撃に任せ、炎の式神出雲はまっすぐ牛の魔物に向かった。
「今の話、聞きやがったな! 嚙み潰してやる!!」
牛の魔物が四つん這いになって、牙をむき出して突進してくるのに対し、出雲は飛びあがって鼻面に神剣・青龍の鞘を叩き落とした。
「まず二本!」
「グブッ!!」
牛の口から生えた牙が二本、刀の衝撃で根元から血と共に飛んだ。
「て、てめえ!!」
牛が右に旋回するその頬を、再び青龍が叩いた。
「次、三本!」
牛の下顎の奥歯三本が血まみれで飛んだ。
「グッ!! グブッ!! グバッ!!」
出雲に青龍で叩かれるたび、牛の牙が根元から抜け飛んだ。
一本も残らず抜けてから、初めて牛の魔物は縄で縛られた。
「へ、へめえ、よふほっ……!」
歯がないのと口中が痛いのとで、牛はろくにしゃべれなかった。
「出雲、殺さないの? こいつ、危険よ」
「牙がまた生えてくる可能性があるから生かしておいた。あとは都で煮るなり焼くなり好きにしろ。こいつのせいで死者も出てるわけだしな」
空竜は矢で絶命した魔物たちを見渡した。
猿の魔物の子供は、いなかった。
「牙が皮膚を食い破るから感染する、でも牙を粉末にして水で溶いたものを口から飲めば薬効が全身に行き渡る……か」
牙を砕いて粉末にした出雲が、空竜の鍋を扱う手際を眺めている。
牙の粉末は、それだけでは強烈に苦いので、子供は吐き出してしまう恐れがあった。そこで、空竜が薬に味つけをすることにしたのである。
料理の上手な紫苑を呼んだ方がいいと言う出雲に対し、空竜は「帝室の姫として、私が薬入りの料理を作る」と譲らなかったのだ。
城の厨房で、巨大な鍋に水が煮立っている。
「……お湯に乾酪を入れるのか?」
出雲は湯の中で回転している乾酪を目で追った。
「やわらかく仕上げようと思ってえ」
「乾酪に合うのは牛の乳じゃないのか?」
「……」
「……」
湯の中で乾酪が回転している。
「……おい、これ……」
「だ大丈夫ッ!!」
出雲より早く、空竜が断言した。
「乾酪のうまみを出すために入れたから!!」
空竜はほぐれてきた乾酪をさっと網ですくってしまった。湯に乾酪の香りが移っている。飲んでみると乾酪のほのかな味がする……。
「おい……乾酪汁より味噌汁の方がよかったんじゃ」
「だっ、だめよお、途中で味は変えられないわ! えーとね、次は牛酪と確か小麦粉……」
「『確か』!? しかもそれをこの大量の湯の中に入れるのか!? 本ッ当に大丈夫かお前!?」
「大丈夫だもん! 白いとろみのある汁くらい、作れるもん!」
「待て! 待て待て! 傷口が広がらないうちにもう何も触るな! このままだと薬よりもやばいものができる!」
「えっ! どういう意味よそれ! ちょっと、牛酪返してよ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねて出雲の手の牛酪を狙う空竜の腰を持つと、出雲は紫苑のもとへ向かった。
紫苑が味噌仕立てにしてくれたおかげで、薬は事無きを得た。
人々は、さじでたった一口薬が体内に入っただけで、次々と体を起こし、動けるようになっていった。
皆、薬を見つけてくれた空竜に感謝した。出雲は、神剣を持つ者として目立ちたくなかったので、手柄をすべて空竜に譲った。
空竜は民から一目置かれることになったのだが、当然のことながら、それだけで終わらなかった。
「危ない目に遭ったらどうしていたのだ!! 感染していたら、三日ともたない命だったのだぞ!!」
空竜の父・帝はカンカンで、姫としての軽はずみな行動を叱り通しだった。
「でもお父様、私のおかげで薬のことが――」
空竜の反論にも、聞く耳を持たなかった。
「言い訳はいい! 疫病が完全に終息するまで、一歩も外に出るなー!!」
帝の雷が落ちたあと、空竜は自分の部屋に出雲を呼んだ。
「怒られちゃったあ」
と、ぺろっと舌を出している。
「まーた抜け出す気だなお前」
出雲にはお茶の代わりに薬の味噌汁が出された。牙の傷が治るまで、念のため毎日飲むことになっている。
出雲は味噌汁に唐辛子を大量にかけた。
「うん、辛くてうまいぜ!」
温まっている出雲の笑顔に、空竜はあぜんとした。
「なんだ? どうかしたか?」
「こんな味覚崩壊男に料理いちゃもんつけられたあー!」
なんてかわいそうな空竜、と空竜は机に突っ伏した。
「でも、オレ驚いたぜ」
お椀を持って、出雲がしみじみと語りかけた。
「お前、最初オレに会ったとき、露雩のことより真っ先に人々のこと聞いたろ」
空竜が顔を上げた。
「あ……だって、露雩は丈夫そうだし、出雲が平気ならもっと大丈夫かなって思ってえ……」
「そうか。でも人の上に立つなら、まず民の心配をするのは大事だぞ。みんな、お前のことを見てるからな。そういうところ、民の一人としてオレもありがたいと思うぞ」
「う、うん……」
褒められて照れるのを隠すように、空竜はお茶をすすった。渋みのほど良い、新鮮な茶葉の香り高い味がする。
「私もね、出雲に感謝してるのお。だって、私をお姫様じゃなくて、一人の人間として扱ってくれたでしょう? きっと他の役人や兵士に見つかっていたら、部屋に連れ戻されてたと思うのお。だから、あのとき出会ったのが、その……あ、あんたでよかったな、って、思うのお!」
空竜は恥ずかしそうに両手の指を湯飲みの外周でぱたぱたと動かした。
「あっ! でも、勘違いしないでよねえっ! 友達として、好きだからあっ!」
「へえ……オレのこと好きになったのか」
「ちっ、違っ!! いろいろ話せる友達ってイミよお!!」
空竜の両手が空中を大きく行き来した。
「知ってるさ。露雩が好きなんだろ?」
出雲があっさり言うと、空竜が縮こまった。
「う……んと、あんたの方がつまんない話も平気でできるっていうか、露雩にはオチのある話しかできないっていうか……」
「芸人の師匠と弟子か」
「とにかく露雩には気を使うのよ! あんたならなんでも話せるの! だって、あんた私のことお姫様だと思ってないもん絶対!」
「権力闘争のしがらみがないからな。そういうことなら、話したかったらいつでも言いな。帝の勅命が下るまでの間だったら、話聞いてやるぜ」
「うん!! うん!!」
この二人が楽しそうに話すのを、知頭世が黙って遠くから見ていた。
疫病の特効薬が調達され、ようやく城内も都も動き始めた頃、露雩と霄瀾のもとに、紫苑が戻って来た。
「紫苑! お帰り!!」
紫苑の腰に霄瀾が抱きついた。紫苑の、暖かい日差しに包まれた、春だと自然に笑みがこぼれる風の匂いがした。
「ただいま霄瀾。元気だった?」
「うん! 言われた通り、お部屋にいたよ!」
「えらいえらい」
露雩も出迎えた。
「まさか空竜姫が解決するとはね。たぶん出雲が陰に日向にがんばったんだろうけど……」
「あとでお礼言わなくちゃね」
「紫苑のお味噌汁にもね」
「飲みたい? じゃ今夜作ってあげようか?」
「いいの!?」
霄瀾が両手を上げて小躍りした。
「わーい、また紫苑の料理が食べられる!」
「じゃあ、市場も元通りになってきていることだし、今日の料理の買い出しに行きますか!」
「オレも行くよ」
「ボクはお留守番してる。まだ完全に安全じゃないし」
「そう? じゃ、二人で行きましょう、露雩」
露雩はおや、と思った。
いつもなら、霄瀾の大好きな紫苑を横取りする男として睨まれるのに、今日は一切妨害がない。
疫病にかかったら体力のない子供は危ないと、霄瀾もわかっているのだ――と、露雩は思いながら紫苑と外へ出た。
残された霄瀾は、畳に寝転がった。
「ボクは、紫苑が好きだよ。それだけで、いいんだ」
死を覚悟した人の邪魔を、もうしない。
霄瀾は自分の望みを他人に押しつけるのを、やめたのだ。
一週間近く、会えなかった。
ルビーの輝くように光のはねる赤い髪をうしろから眺めながら、露雩は少女たちの視線に気づいて、慌てて赤い髪の美少女の手を握った。
会えない日が重なるほど、一目でも会いたい想いが胸に広がって苦しんだ。
この人なしに生きることができないのだ――と、苦しむ心が気づかせた。
結婚。
一生そばにいること。
結婚したら何をしてもいいと、紫苑は言ってくれた。
つまり、結婚してもいいということだ。
この気持ちは、紫苑でなければと告げている。
結婚を、申し込もう。
露雩が紫苑と再会して、その決意を固めたとき。
突然右腕の真っ白いあざがうずいたと思うと、露雩の目の前が真っ暗になった。
そして、河に大きな音をたてて落ちた。
なぜと思う間もなかった。
ただ、玄武神の試練が思い出された。
泳ごうと思っても少しも体が水に浮かず、溶かした鉛の中で焦れば焦るほど沈んでいく感覚だったからである。
ドロドロの水の中、手で水をかいても何にもならない、濃度の高い不透明な液体が顔に迫り、息継ぎも満足にできない。
玄武神に選ばれた証、死を恐れない心は持っているが、もし敵の攻撃なら脱出しないわけにはいかない。
そんな中、その河の上に立っている人物がいた。
白い衣を着た、老人であった。
「辛かろう」
しわがれた声だった。敵ではなさそうであった。
「(なぜ、この人は立っていられるんだ?)」
露雩は水面をバシャバシャと手ではたいていた。
「ここは愛欲の河。愛欲に溺れる者はその名の通り沈んでいく河じゃよ。出たかったら愛欲を捨てることじゃな。わしのように。そら、河の上に立っているだろう?」
老人は片足立ちになって跳んでみせた。
「……愛欲というと?」
露雩は老人の方へ向かおうと懸命に動いた。足場があるかもしれないと思ったのだ。
「特定の者を愛することをやめるんじゃよ」
「紫苑を愛するなと言ってるのか!?」
露雩が憤慨した。しかし老人は冷静なままだった。
「お前は『あの者』より先に、『世界』を愛しておったはず。一人の人間をひいきすれば、そこから欲が生まれ、世界を平等に愛する均衡を崩す。そうなればお前はこの河に引きずり込まれ、二度と浮き上がってはこられないだろう。こうして何人もの世界を愛する者が、その使命を果たさず消えていった。
お前は世界を救いたくはないのか? その正義の炎を河に溺れて消したいか?」
露雩はすべての動作を停止した。水面が静止した。
「その力で一人の女を守るのと、世界を守るのと、どちらを選ぶのだ! お前のその強大な力はなんのためにある! 力なき弱者を救うためのものではないのか! 一人の人間しか守ろうとしない者に、そんな力が降ると思うのか!! お前は、自分の使命について考えねばならん!!」
「オレの人生はどうなる……だけど、人を助けることに最も満足を感じるオレがいる……!」
露雩の体が水面から腰まで出た。
「でも、彼女も守りながら世界も守れれば……」
露雩の体が胸までつかった。
「ならん! 一人をつまらん小さなものから守っているうちに、世界の敵は世界を覆う! お前の力は世界のためのもの! 一人を救って世界を滅ぼすか、おのれはぁー!!」
露雩は目が醒めた。
「オレの力はその強大な敵と戦うためのもの、それならばもう迷えない!!」
露雩は河の上に立った。老人のように。
「オレが一人の愛を失ったとしても、世界にいるすべての人々の愛は壊させない!!」
「よくぞ言うた! 戦え!! 世界のために!!」
老人が去ろうとするのを、露雩は素早く呼び止めた。
「あなたのお名は」
「……いつかお前の口から出るであろう」
露雩の視界が、元の赤い髪の美少女の姿に戻った。
「どうかした? 露雩」
紫苑がかわいらしく小首を傾げた。
「……うん、なんでもないんだ……」
言いかけた言葉をひとつ残らず呑み込んで、露雩は美しい顔を彼女に向けた。
「どうしよう……! 兄キがやられた……!」
猿の子供の魔物、浮坊は、牛の魔物の牙を握りしめたまま、山道を歩いていた。
剣姫が都にいるから、疫病で殺しなさい、あれを殺した者が魔族王ですよ――と、兄キに吹き込んだ人間の僧侶がいた。
そう言っておきながら、兄キがやられてるときに、助けにも来なかった。
「ひとこと言ってやらなきゃ、気がすまない!」
「それはどんな言葉ですか?」
不意に、笠をかぶった僧侶が横から現れた。
浮坊は尻もちをついた。
「あっ! おまえ、今ごろ来やがって!!」
指差すと、立ち上がった。
「どうすんだよ! 兄キが捕まっちゃったじゃないか! おまえさえちゃんと来ていたら、兄キだって……!」
「それは、あの牛の牙ですね」
浮坊のわめきを無視して、僧侶――河樹は、子供の手の中の牙に視線をとめた。
「やらないからな! 兄キに返すんだ!」
「では、返せるようにしてあげましょう」
「えっ!?」
河樹は、浮坊の体に札を貼った。浮坊の体に雷電が跳ね、少しずつ変化していく。
「愛する主は、子分の手で解放されなくてはね」
雷電の光の入る笠の内側で、河樹は満面の笑みを浮かべていた。
霄瀾と友達が、広場で互いの無事を喜びあっていると、白衣を着た兵が、都の外に倒れていた子供を担架でかつぎこんでくるのが通った。
その子供から、どこか異質なものを感じ取って、霄瀾は一行を後ろから凝視した。
「どうした霄瀾」
友達の呼びかけにも答えず、霄瀾は子供に集中した。
一行が東西と南北の大路の十字路に差しかかったとき、子供の体が突然膨れあがった。
「あぶないっ!!」
直感で危機を察知して、霄瀾は友達全員を小路に突き飛ばした。
大路を血飛沫が走った。
人々が騒ぎだした。
霄瀾が大路に出ると、東西と南北に走る大路に、血の道ができていた。
血を浴びた人は、再び疫病にかかっていた。
子供のいたところに、疫病のもととなる牙が残されている。破裂した子供――浮坊の体を穢していたのだ。
あの子供は再び強化された結界のために自らの意思で都に入れなくなった魔族で、人間に化ける札か何かで病のふりをして人々に都の中に入れてもらい、都の中で騒ぎを起こすように破裂したのだと霄瀾は思った。魔族の魔の性質、魔性も、「疫病」にくるまれていれば、穢れを感知する結界が作動したとしても、一般人にはごまかせるからだ。
再び都に疫病をもたらすためか。違う。薬は人々の手にある。
血は、都の四方を守る四神の名を冠した門まで達していた。
「都の護りが穢され、結界が弱まった今こそ、我らが好機!! 侵攻せよ!! 反乱せよ!! 帝の首を狙えー!!」
河樹の号令と共に、東西南北の門から、兵士と魔族が押し寄せてきた。
「都を攻める気だ!!」
霄瀾は青くなって叫んだ。
軍勢は、門の最後の結界を破壊しようと、術で絶え間なく攻撃している。
「早く、みんなに知らせなくちゃ!!」
「まて、霄瀾!」
走り出そうとする霄瀾に、正気が他人の家の庭を指差した。
「人ん家の庭を使えば、城まで一直線だ。オレたちはみんなに敵のことを知らせる! ……死ぬなよ霄瀾!」
「お互いにね!」
霄瀾は障害物競争よりも難易度の高い庭へ突進し、城へ駆け出した。




