桜都の桜姫第五章「薬の開発」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
帝の娘・空竜姫、帝都一の陰陽師・九字、九字の式神・結双葉。
第五章 薬の開発
「あの、好きです! つきあってください!」
「ごめんなさい」
「唇くれなきゃ自殺するー!!」
「……(全速力で逃げる)」
「いくら積めば結婚してくれるの!? うわーん!!」
「お金で買えると思ってる人なんか、好きになると思うのか!?」
露雩が一人で都を歩くと、どんどん女の子が周りに増えていく。
みんな、露雩のこの世ならぬ美貌に撃たれ、そばに寄っていってしまうのだ。
そしてすぐに告白する。断られても、一言でいいから会話したいのだ。
さっきから露雩は、女の子たちに押しあいへしあいされて、二メートルも進んでいない。
「ちょっと、君たち、いいかげんに……!」
「あなたあーっ、おまたせっ!」
露雩の言葉を呑みこんで、赤い髪の少女が彼の腕に抱きついた。柔らかい胸の感触に、一瞬彼の思考が停止する。
桜と紅葉の首飾り。水滴型の水色の耳飾り。
これから彼氏と楽しく愛会なの、と言ってもおかしくない装いだった。
「紫苑!」
露雩はほっとした。これでもう大丈夫だ。
「あなたって……、どういうこと?」
「なんであんなになれなれしいの?」
ざわめく女性たちに、露雩は、はっきりと告げた。
「悪いですけど、オレもう結婚してます。この人とっ!」
「やだあ、あなたったら、照れるっ!」
紫苑は片足を跳ね上げて、ますます露雩の腕にしがみついた。
胸の感触にぼうっとなっている露雩をよそに、紫苑は剣姫並の殺気で女の子たちを睨みつけた。
「……で、うちの亭主に何か用?」
背筋を刃物でなでつけられたような震えが女の子を襲い、一人、また一人と後退り、最後にはてんでばらばらに逃げ出した。
二人の周りは空洞となった。
紫苑が露雩の腕を離し、手をつなぎなおすと、露雩の意識も戻った。
「ありがとう、紫苑……!」
露雩は心から彼女に笑いかけた。
その美貌を間近で見て、美しさではひけをとらない紫苑でさえも、思わずみとれてしまった。
それをごまかすように、紫苑はわざと露雩の手を引いて歩き出した。
「もう、私の舞の面が必要よ! あなた、女の子にもてすぎ!」
「必要ないよ。だって、いつも紫苑が守ってくれるもん」
「私をあてにしないの! 私だって、……」
守られたいんだから、という言葉を言いかけて止める。
「わかってるよ。お返しはちゃんとするからね」
露雩の手が紫苑の手と指を絡ませた。
彼がこんなことをしてくるのは私だけ――。
それを嬉しいと思う興奮が紫苑を満たしたとき、彼女はつい口に出した。
「……最速で待ってる」
「え? 何を?」
「わ、私にもよくわかんないけど……」
いろいろ考えすぎて、とりあえず全部最速で起きろという結論にたどりついて……ということを説明するはめに陥らないために、紫苑は話を本来の目的に戻した。
「これから行く研究所の場所、わかってるわよね?」
「北西だね。オレたちは薬を盗難から守る警備係だ」
都で暮らしている人々の中には、特定の食物を摂取すると、体を防衛するための過敏反応を起こす人々がいる。ときに命の危険になりかねない症状を呈する。
これまでの対策としては、料理の中の食材を一つ一つ確認して、その食物を注意して摂取しないことが重要であった。
だが、このほど都の薬学研究所が、新しい薬を開発したという。
過敏反応を起こす原因物質であるその食物の栄養素を、調理などのあらゆる可能性に対応してすべて遮断するという、粉薬である。
重症者にとっては、宴会など外で食べるときに、どの料理に原因物質のその食物が入っているかわからない場合、非常に効果を発揮するはずである。
これで、好きなときに好きな場所で、牛乳の飲めない人は牛乳の温かい野菜汁を飲んでも平気、エビの食べられない人はエビの入った野菜の炒め物を食べても平気となる。
誰にも、苦手なものを知られずに済むのだ。自分の仕事の内容に対する、敵からの暗殺や妨害の計略を、防げるのだ。なにより、みんなと同じものを食べられるのだ――。
味と食感を楽しんだあと、栄養は体内ではじかれ、吸収されることはない。
今日はこれから、薬を人体に投与する臨床試験が行われるのだ。
被験者に料理を作るのを紫苑も手伝うし、効果が確認できたら薬の作り方の一部を特別に聞いていいことになっている。
遮断の薬の応用、それはつまり、「毒が体内に入ってもそれを体内で遮断する薬」を作れるということだ。
露雩も薬の組成に興味津々であった。
「霄瀾は学校だから仕方ないとして、出雲も来ればよかったのに、『今日は寝てる』だってさ。疲れてるみたいだったから寝せといたけど」
「珍しいわね……」
紫苑は薬学研究所の警備兵に通行許可証を見せた。
被験者たちは百人いて、座って雑談していた。原因物質となる食物一つごとに、複数人で試すのだ。
粉薬は、原因物質の食物ごとに一つ一つ違う成分が入っている。自分に対応する食物用の粉薬を飲んでから、被験者たちが各々の食事を口に運ぶ。その粉薬は直後の食事に効果を発揮する。そのうち一日中効果が持続する錠剤など、順次開発していく予定である。
命の危険に備えた医師や研究者らの見守る中、全員が驚きと共に完食した。
ずっと発症が抑えられたままか調べるために、しばらくは断言できないが、被験者は、薬について概ね好意的だった。
誰もが、新薬は成功したと確信した、翌日。
「ない!! 薬が、ない!!」
研究員が血相を変えて、薬の保管室から飛び出してきた。
扉の外で寝ずの番をしていた紫苑と露雩は、驚いて立ち上がった。
「誰も通してないわよ!?」
急いで部屋に入ると、前日確かに薬を置いていた場所には、何もなくなっていた。
「こういう事態を避けるために、あんたらに警備を頼んだのに!! どうしてくれるんだ、帝は今日、食物の過敏反応の薬の開発が軌道に乗ったと、宣言されるんだぞ!! 肝心の薬がないなんて、我々は切腹ものだ!!」
「とにかく、薬は私たちで探します。あなた方は、万一に備えて薬を作り直して――」
「原料が足りないんだよ! 山で補充しないと! 今から山へ行って帰ってきて、間に合うと思うのか!?」
自分の努力の結晶を失った研究者たちは、怒り任せに紫苑と露雩に詰め寄った。
紫苑は十二支式神「酉」(鳥)を出した。
「……で、なんでお前も来るわけ?」
出雲がだるそうに聞いた。
「あんた、薬の材料になる草の生えてる場所、知ってるのお?」
「うっ……」
空竜姫は、山道をすたすたと登りながら相手をやりこめた。
「女のお守りかよ……。疲れるなあ」
まだどこか熱をもっている体を引きずりながら、出雲は大きなかごを背負った霄瀾に振り返った。本来なら二人で草を取りに行くところを、空竜が割りこんできたのだ。ちなみに学校は、今日はお休みである。
「お姫様に向かってなんか言ったあ? 出雲」
「オレの足引っ張んなよ!」
「あんたお姫様に向かって遠慮ってもんがないのおっ!?」
空竜はこほんと咳払いした。
「とにかく、今日、お父様が薬のことを民に知らせるのは変更できないわあ。『ほぼ完成』は、『完成』として扱って、人々に希望を与える。民には定期的に良い知らせをしなければ、人心が国家から離れてしまうものお。
その薬が盗まれたとわかったら、お父様が恥をかくわあ。娘として、お父様を助けてあげたいのお。私が最短距離で行くから、昼までには草を研究所に届けられるはずよお」
いつになく真剣な空竜を見て、出雲は道案内を完全に任せることにした。
「問題は、誰が盗んだかってことだ。帝の権威失墜を狙った奴の仕業か……? うーん」
「それは草を届けたあとで考えようよ」
霄瀾は硬い表情だった。紫苑と露雩に気づかれずに盗みができる人間がいることに、衝撃を受けているのである。
紫苑と露雩は、薬を保管していた部屋をくまなく調べながら、昨夜のことを思い出していた。
二人は互いに一睡もしなかった。扉は一度も開いていない。保管所に窓はないから、誰も出入りできない。
天井に雨漏りのあとがある。昨夜、一時的に雨が降った。薬を溶かしたのだろうか? いや、それなら薬を入れていた紙包みは残っているはずである。
夜のうちに、部屋の中で物音が継続してあった。鼠が動いたのだと思っていた。窓はなく、扉からは誰も入れていないのだから、なおさらである。では、鼠が薬を食べてしまったのだろうか? 全部食べ尽くせるであろうか。それとも、鼠が大量に出たのであろうか。
夜中、花火をする若者たちが近くの路上にいた。彼らは何らかの手段で薬が盗まれていた場合、運搬役だったのであろうか? とにかく、やたら騒いでうるさかった。
「しまった……! 職務質問して連絡先を押さえておけばよかった。何か知っていたかもしれないのに……」
紫苑は悔しそうに額に手を当てた。
「……昨日の夜に起こった怪しいことは、このくらいかな。人間の犯行なら、何か証拠が残っているかもしれないけど……」
薬瓶の並び方、机の配置、遺留品など、露雩も紫苑もくまなく探したが、何も見つからなかった。
窓の外を、昨日の被験者のうち二人が歩いていた。薬が効いていて、もう診療所に運びこまれることもないだろうと朗らかに話しあっている。
「お金がなくて、薬が開発されても買えない人の犯行かな。この研究所に薬があると思って忍びこんできたのかも。昨日の被験者たち全員に話を聞いてみよう」
露雩は被験者の名簿をもらいに行った。
「キャーッ! 猪!!」
空竜の弓が、突進してくる猪の眉間を貫いた。猪は即死した。
「まったくう、危ないじゃない! まあいいわ、草を届けたら都へ運ばせて、みんなで猪鍋にしましょう」
「薬が間に合ったらな」
「もーっ、温度差あるなあ、私とあんた! どうしてお姫様の言うことにいちいち口答えするのお!?」
怒って振り回した空竜の弓が、蜂の巣に当たった。
「……え」
巣を攻撃されたと思った蜂たちが、猛然と襲いかかってきた。
「キャアー! やだやだあ!!」
一匹に一矢ずつ浴びせて逃げ回っている空竜の二の腕を出雲がつかんだ。
「バッカやろ! 面倒起こすなっつったろ!!」
そして、霄瀾を抱えて走り出した。
「副作用の調査」をしている研究員に混じって、紫苑たちも被験者に、昨夜犯行ができないという証明ができるかどうか、それとなく昨夜の行動を聞いたが、皆、快眠していたという答えであった。
「ありがとうございます、これから発売されるのが楽しみです」
そう言う人がいて、紫苑と露雩は顔を見合わせた。
副作用の調査をするとわかっていて、前夜睡眠せずに何かするのは、他の被験者と違う結果になる場合があるので、まずしないだろう。
また、過敏反応者と登録されているにもかかわらず、他の被験者に比べて薬の処方量が長期間ないというのは、真っ先に怪しまれる。
「被験者の中には、いないのかもな」
「そうね。話してる様子も自然だったし」
「そうなると、転売してお金儲けしたい人間がいたか、別の研究所が、自分たちが開発したとでっちあげるためか、うーん……」
「とりあえず、望みは花火の少年たちね。何か知っていてくれるといいんだけど」
彼らが花火をしていた場所には、花火が残っていなかった。都には都の清掃人がいて、早朝に前日までのごみをきれいに片付けてしまうのだ。
清掃人は、仕事を退職した老人たちである。無償で行っていて、清掃後は政府からお茶の無料提供があり、政府の建物の一室で、仕事のあとの、仲間内でのお茶と世間話を楽しんでいる。毎日一年桜の花びらをほうきではいて、持ち帰り、自分の庭を花びらのじゅうたんにする人など、皆がそれぞれの好きなように都をきれいにしている。
そういうわけで帝都・攻清地は常に清潔なのだが、今回はそれが災いした。
「花火の名前がわかれば、誰が買ったか店で聞けるのに……!」
焦げた土を前に立ち尽くしていると、おじいさんがとげとげしく声をかけてきた。
「もしかして、昨夜ここで花火してた人かね?」
「えっ?」
おじいさんは頭から湯気をたてた。
「だめだろう! やりっぱなしで帰っちゃ! 水でちゃんと消して、ごみも持って帰りなさい! みんなの道は、みんなが安全に使わないと!」
「は……、はい……」
紫苑がおじいさんに気圧されていると、
「これは、自分で捨てなさい! 自分の始末は、自分ですること! わかったね!」
おじいさんは、花火の燃えかすやら包み紙やらを全部袋に入れたものを、地面に置いた。
「「やったー!!」」
「え?」
怪訝な顔をするおじいさんに、二人はそろって何度もお礼を言い、さっそく、花火店でこれらの花火を近いうちに買った者たちを聞きこんだ。
買ったのは十七、八才の若者十数人で構成される、社会からあぶれた不良少年集団で、「溢れる才能」で壁に落書きをしたり、「自由を求めて」裸で歩いたり、「食べたかったから」公園の鯉や木の実をむさぼり食うことをしていた。警備兵が何度も捕まえるのだが、彼らの行動を止めることができなかった。
「なに? お前たち」
彼らは、すぐに見つかった。
全裸だったから。
紫苑は男装していたが、男の裸十二人を前にしてなんでもないふりをするのは、骨が折れた。
「この花火を、どうしてあの場所であげたんだ?」
露雩が前面に出て質問する。
「ああ、あれは――」
「おい、バカ! 言うな!」
一人を一人が止める。
「紫苑。リンゴ」
「? はい」
露雩は渡されたリンゴを一握りで粉々に握り潰した。
「君たちの大切なものを握り潰されたくなかったら、ちゃんと話しなさい」
口は笑って、目は笑っていなかった。
「過敏反応を扱う医者の先生に頼まれただけ、花火代も先生が出した。自分たちのしていることを称賛してくれたから、嬉しかった、だからまだ名前を出したくないという先生のために、昨夜の頼みは秘密にしておくことになった。こういうことね」
「医師の誤算は彼らの中に自分の過敏反応の患者の息子がいたことだ。匿名でやらせるつもりだったのが、正体を知られてしまった」
「それでもやらせたというからには、何かありそうね。怪しいわ」
紫苑と露雩が去るとき、十二人は肩を寄せあって、
「オレたち、もう一生服を着ていよう。束縛は安全だったんだ」
と、震えていた。あのリンゴ瞬間圧搾にどんな意味があったのだろうか。紫苑にはよくわからなかった。
「あのさ、十二人分も見た記憶を消すためには、オレの体を十二回見せればいいのかな?」
という、露雩の怒りのにじむせりふも、よくわからなかった。
患者の息子の話によると、食物の過敏反応が出ると、人々は必ずその医師――丸根に診てもらっていた。過敏反応の薬ができれば、もう店で買うから、改善や完治のため以外では、丸根のもとに行くこともない。寂しいような、感謝したいような気持らしい……。
十二支式神「酉」(鳥)で研究員に話を聞くと、丸根は昨日の試験のときに待機医として来ていたこと、今の診療所で開業する前、薬学研究所で働いていたこともあったことが判明した。
ただ、研究所の鍵は既に取り換えているし、丸根が合鍵を持っている可能性は低いという。
二人は丸根の診療所へたどり着いた。
密かに十二支式神「戌」(犬)を小さく召喚し、紫苑の胸の中へ隠す。
それを露雩が羨ましそうに見ていると、丸根の診察室へすぐに通された。心なしか、待合室も閑散としているようだ。
「薬学研究所の方が、どんな御用でしょうか?」
頭皮全体を覆う程度に生えている短い毛の色が、うっすら灰色になっている。
下の広い三角形のようなたるんだ体つきをした、中年太りの白い衣の男であった。
部屋の隅に、白い布で脚まで覆われた机がある。
「先生は今まで過敏反応の患者をいろいろと支えてこられたそうで……」
「いえいえ、私など全然……。そちらの薬の方が、すばらしいですよ」
「実は、我々の薬は、卵白を抑えられないことが判明しまして……。もし患者さんがございましたら、引き続き先生のお力をお借りしたいのですが」
丸根はひどく驚いた。
「えっ!? 卵白はまだなのかね!? 一番過敏反応の多い食物の一つなのに、そうか、残念だ……」
そこで紫苑は戸棚を見上げた。薬の瓶が所狭しと並んでいる。
「いろいろな薬を置いてありますね」
「都だからね、珍薬もあるよ。見ていきますか?」
露雩は丸根の目を見続けた。
「露雩もどう?」
「オレはこっちの絵に興味がある」
「そんなこと言わずに、一緒に見ましょう」
丸根はチラ、と布のかかった机の下あたりを見た。
露雩はその視線の動きを見逃さなかった。
「では、お言葉に甘えまして」
露雩は紫苑の隣に立った。
帰り際、露雩は小筆を落としたふりをして、その布の下へさっと入った。
「!!」
丸根の顔がこわばったが、床には四角い切れ目が入っているだけで、何も存在していなかった。薬も、もちろんない。
「この切れ目はなんですか?」
「災害に備えた貯蔵庫なんです。他人に見られると恥ずかしいので、布で隠しているんです」
「あの貯蔵庫、怪しいわね」
帰り道、紫苑はまた女の子の視線を集め始める露雩と手をつないだ。
露雩も再び指を絡めた。
「でも卵白の薬が効かないって嘘を教えといたから、卵白の薬は今夜にでも捨てるんじゃないかな。見張っていれば必ず尻尾を出すだろう」
「もし丸根が犯人なら、まだ手はあるわ」
紫苑の胸の中から、戌がぴょこんと飛び出した。
ほんとーに羨ましかったので、露雩は戌の頬をつねった。
「きゅうん!」
「こらっ! いじめないの!」
「うう~」
露雩はしぶしぶ手を離した。戌の尻尾のはじが黒くなっていることにも気づかなかった。
研究所に帰ると、丸根の匂いを覚えた戌は、一目散に走っていった。
薬の保管室の、籐籠の積まれた下で、待っている。
丸根の机の下と同じ、四角い切れ目があった。
丸根が声の反響する地下空間で一人毒づいていた。
大量の薬が、地面に直に置かれている。
「くそ……! これは薬じゃなかったのか」
卵白の薬を酸に入れて溶かそうとしたとき。
「やめてください。それも立派な薬です」
紫苑と露雩が、奥の通路から現れた。
「あ、あんたらどうやってここに!? 診療所の鍵は、かけたはず!」
丸根がひどく狼狽した。
「研究所の地下から来ました。診療所とつながっている空洞があったのですね」
丸根が使った盗みの手口が明らかになった。
薬学研究所と診療所のあった場所は、魔族の侵攻に備えて作られた地下空洞で、互いにつながっていた。人々の避難所だったのだが、犯罪者のたまり場になりかけたため、石でふさいで封鎖された。研究所の研究員たちは、もうそんな場所が内部にあったことを知らされなくなっていた。
しかし、丸根は、噂話でそれを知り、密かに場所を特定し、石を石にそっくりに着色した軽石と変えておいたのだ。
そして、自らは何食わぬ顔で今の診療所を買い、地下を通って研究所の数値資料を常に盗み見ていたのだ。丸根が過敏反応の分野で一目置かれる治療ができるようになったのは、ひとえにその数値資料のおかげである。
昨夜は、若者に花火をさせて、丸根のたてる音を消し、地下通路の途中に薬を置いた。
薬がある以上、もう言い逃れはできない。
丸根は力を失って薬にもたれかかった。
「なぜこんなことを! 患者は早く治療したいと願っているのに!」
「オレの仕事がなくなるからだ!」
丸根が吐き捨てた。
「オレには過敏反応の知識しか技がないんだ! これまでは研究所の数値資料を見てなんとか的確に動けた! だがそこへ新薬の発表だ! もう店で買える薬を、誰も『医者』のオレから手数料つきで買う奴なんかいやしねえ! オレが食べてくためには過敏反応で困る患者が必要なんだよ! 患者用の特別食の献立を作ることも、薬の処方も、みんなオレがするんだ! こんな薬なんかいらない! オレがいればいい!」
「患者は医者のものじゃない!」
そのとき、紫苑が土壁を叩いた。
「患者は病気を治すために医者のところへ来るの! 病気になったことある? 不安だし、悲しいし、絶望したくなるわ、それを救うのが医者の仕事なのよ! それを忘れるというなら、あんたはもう医者でもなんでもないわ! 犯罪人よ!!」
人の命を預かる医師としての誇りは、「犯罪人」と言われたことへの驚愕により砕かれた。
丸根は、自首した。
「オレは、昔は第一線の研究者で、自分で言うのもなんだが、優秀な医師だった。でも、開業したら、研究所の発表する都合のいい実験結果しか手に入れられなくなって、治療の腕がだんだん落ちていった……。最初は、『正しい情報』を手に入れて、人々を治すためだった……」
警備兵に連行される丸根の後ろ姿を、紫苑は静かに見送った。
「どんなに優秀でも、正確な情報を手に入れる手段を持たない者は、すぐに時代に置いていかれるのね。盗むという方法ではなく、他人の心を動かすような、情報を手に入れる方法がもっと他にあったでしょうに……。そして……、その心があれば、きっと新しく人を救う方法を見つけられたでしょうに……」
紫苑と露雩は薬を運び出す準備にかかった。
「あれよお! あれが私たちの求める草よお!!」
空竜が草原で思い切り指差した。
そこは猪の魔物の後方である。発色のいい緑の草が風に揺れていた。
「さあ! 露雩のためにがんばるぞおー!」
空竜がいきなり弓矢を放った。よけた猪の横腹に斜めに刺さった。
「あっ! バカ、不用意に……!」
出雲が叫んだが、もう遅い。攻撃された猪の魔物が怒り、突進してきた。
「キャー! なんで少しも効いてないのお!?」
「狙うなら脚の腱を狙うとか、一撃で効果のある矢にしろ! 中途半端な攻撃は、敵を怒りで暴れ回らせるだけだ!」
「なんでそれ先に言わないのよお!!」
「じゃ聞けよ!!」
出雲は霄瀾と空竜の前に立ち、胸の炎に意識を集中した。
「炎式出雲! 律呂降臨!!」
出雲は、自力で炎の式神となっていた。
「えっ!? どうして、出雲――」
「あとで話す! 霄瀾、姫を頼んだぞ!」
出雲が飛びだすのと同時に、霄瀾が幻魔の調べで幻を作り出した。
ところが、出雲の神剣・青龍が振り下ろされようとしたとき、空竜の弓が猪の耳を貫いた。
「ブギーッ!!」
猪が痛みに頭を振り回した。動きが読めず、とても近寄れない。
「援護するわあ! 出雲!」
空竜が得意気に弓を構えた。
「しなくていい! 仕留めそこねただろ!」
「なんでよお! 敵を弱らせたじゃない!」
「いきりたたせただけだ! お前な、攻撃ってのは、ただ的に当てればいいってもんじゃねえんだよ!」
「何言ってんのお? 一人より二人の方が早く倒せるに決まってるでしょお!」
空竜がちょろちょろと猪の周りを走り回る。
「邪・魔・だー!!」
出雲の怒りの叫びがこだました。
やっとの思いで草を刈り取って帰ると、既に都では帝の詔勅が民に周知されていた。
「事件が解決したんだね」
草のかごを背負った霄瀾が、ほっと胸をなで下ろした。
「ちええ、つまんないの。せっかく露雩に喜んでもらおうと思ったのにい」
弓を背負い直す空竜に向かって、出雲が眉をつり上げて勢いよく振り返った。
「お前は地理だけでなく兵法も身につけろ! いいか、戦場では数の少ない相手に大軍が負けることもあるんだ! 数の多さで勝てるほど、戦争は甘くない!」
「うるさいわねえ。だから謝ってるじゃないのよお。私がいたから大技が出せなかったこととかあ、私の矢のせいで敵の動きがいつも変っちゃったこととかあ……」
空竜は気の抜けた声で、手をひらひらと振った。
「(……わかっているのに直す気がないというのか……)」
最初に空竜の仕留めた猪を背負っ(うことを命令され)た出雲は、この女、主になったら末恐ろしいと身震いした。
夕方、紫苑と露雩、出雲と霄瀾と空竜は、猪をさばいて猪鍋を囲んでいた。
出雲が遠くを思い出すように目をつむった。
「本当に空竜姫って、問題を起こす姫、略して問姫だぜ」
「変な省略しないでよお! 出雲こそ私のおかげで草が見つかったのに、恩知らず!」
「戦いはオレに任せてろ。弱い奴が何人加わっても勝てないときがあることを知りな」
「なんですってえー!!」
「まあまあ」
霄瀾が慌てて二人の間に口を挟んだ。
「私たちは幸運に恵まれて、無事に薬を回収できたわ。研究所の人たちも、出雲たちの草に感謝してたし、とにかく今日はみんなご苦労様、ね」
紫苑が霄瀾の取り分け皿に鍋の具を追加してよそった。
「そうよねえ、さすが露雩だわあ! 推理して犯人を見つけだしちゃうなんて、尊敬しちゃう!」
空竜が露雩にしなだれかかった。
「いや、紫苑の協力もないと薬のありかにたどり着けなかったよ」
「またまた謙遜してえ!」
紫苑が静かに箸を置いた。
「今回の奪還で、私と露雩は陛下から謝礼をいただいたわ。私、そういうお金を貯めて、将来都を守る陰陽師を一回だけ教育しようと思うの。今回、私が九字様に教えをいただいた恩返しにね」
空竜が顔を上げた。
「えっ……」
露雩も笑顔でうなずいた。
「さすが紫苑だね。足りないときは言って。オレの分あげるから」
「ありがとう、露雩」
空竜は、都を思い、恩に対して義理を果たそうとする紫苑に反論のしようがなかった。
「……そのときはあ……、露雩じゃなくて私に言いなさい。面倒見てあげるからあ」
「恋敵」に素直に優しくできない空竜は、そっけなく言うふりをして、あさっての方を向いた。
「ありがとうございます姫様」
それを微笑ましく見守りながら、紫苑は一礼した。
その日の晩。
舞台の周囲には、人の背丈ほどあるかがり火が焚かれていた。
それは城内にあり、隣の部屋は帝や貴族たちの観覧室である。
二つの部屋は、開いた扇の形に切り取られた窓で、つながっているばかりである。舞がないときは障子が閉められ、あるときは開け放たれる。
帝たちの目には、隣の部屋で舞う舞姫が、あたかも扇に描かれた絵巻物の一部になって、動く物語を見せてくれるように見える。
都の舞台らしく、観覧室から見える壁の四角い窪みに、金や銀、瑠璃、玻璃、硨磲、珊瑚、瑪瑙といった七宝の細工品が、舞を飾るように配置されている。
今から、帝の希望で、紫苑の舞が披露されるのだ。
さつまいもを横にしたようなふくらみのある土笛を、楽士が吹いた。
許された伽羅の香りをほのかに漂わせながら、祝女服に着替えた紫苑が、舞台へしずしずと歩いた。
邪気を祓う金と銀二つの扇を、右手に金、左手に銀と、両手に一つずつ持ち、今日は扇舞を見せるつもりなのだ。
笛に合わせて体と扇をひらめかせながら、紫苑は考えていた。
「(私の本気の剣舞は彼らに見せない方がいい。狂喜と苦痛に満ちた、見た者を後悔させる剣舞だから)」
精神を戦わせる剣舞をせよ――、九字に言われたことが紫苑の頭の中で繰り返された。
「(なぜ私だけ殺戮の剣舞を望まれたのだろう。もしこれが神の望みなら、私は最も見放された舞姫だわ)」
紫苑の金扇と銀扇は火を反射して、見る者の目を貫いた。
「(一緒に踊ってくれるあなたがいてくれることが、私にとっては唯一の救いなの)」
末席でこちらを見つめている露雩を目の端にとらえながら、紫苑は長い舞を続けた。いつまでも舞える気がした。
舞が終わったとき、
「ちょっと待ってえ! 私も舞います!」
と、空竜が舞台にあがってきた。
その姿は、猪の毛皮の円柱の帽子に、猪の牙の連なった首飾り、そして緑と赤の簡素な服を着ているもので、原始的な時代の祝女のようないでたちである。
「紫苑ばっかりい、目立たせないわよ」
紫苑に囁いてから、空竜も笛に合わせて舞い始めた。紫苑は慌てて舞台から降りた。
「ん? あれ、今日獲った猪の牙か?」
ふと、出雲が気づいた。
「え? じゃあ、あの毛皮の帽子も?」
霄瀾が目をこらすと、近くにいた九字が静かに口を開いた。
「姫様は、素材を加工するのが得意なお方なのだ。服であろうと、飾りであろうと、ご自分の欲しいものはなんでも自ら作られてしまうのだ。民からは織姫と呼ばれているぞ」
「あいつ器用なんだなあ」
出雲が目を丸くした。
「新しい衣装ができると、それを着て神を祀る舞を舞ったり、都の中へ出てみたりなさっている。どの衣装が神の力を受けやすいか、お知りになりたいともおっしゃっていらしたな」
「一応いろいろ考えてんだな、あいつも……」
出雲は腕組みして空竜の舞を眺めた。
紫苑は、弓の弦を弾いた音で魔を祓いながら獲物を狩りたてる、空竜の弓の舞が、どの位置にいても中央に弦を弾くのを見て、何か考えているようだった。
二人の舞姫は、帝からお褒めの言葉を賜った。




