桜都の桜姫第四章「炎の精霊」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
帝の娘・空竜姫、帝都一の陰陽師・九字、九字の式神・結双葉。
第四章 炎の精霊
「私に何の用かな、出雲」
書類の山の上で、九字の十二支式神の鼠である子が、出雲を見上げた。
九字は、卯(う・兎)を肩にのせて、書き物をしている。
「あんたにしかわからないかなと思って来たんだ」
出雲は言いにくそうに結双葉をちらと見ながら、
「剣姫の力が発動するとき、オレが戦えなくなるのは知ってるよな?」
九字が手を止めて顔を上げた。
「霄瀾の竪琴でようやく動けるんだ。だけど、それじゃ河樹には勝てない。全員が全力を出せないと、オレは……紫苑の足手まといになってしまう……」
「それで、どうしたいのだ」
九字が単刀直入に促した。出雲は一歩前に踏み出した。
「オレが主の力なしで召喚される方法はあるか。霄瀾にも頼らず、自分の力だけで戦いたいんだ。オレは、召喚で紫苑の力を削ぎたくない」
「……」
九字が黙った。
「せめて、剣姫のときも普通に動けるようになりたいんだ!」
「結双葉。代わりを頼めるか」
「かしこまりました」
九字の立ち上がった席に、結双葉が座って、書き物の続きをしだした、
「やっと来たか。いつ来るかと思っていたぞ」
「……やっぱり、あんたの知ってる“オレの一番知りたい情報”は、これだったんだな」
「ついて来い、出雲」
「何かあるんだな」
九字は都の外、南西へ向かった。
「これから炎の精霊に会いに行く。炎は命の源だからな。結双葉も力を分けてもらっている」
「じゃあ、あいつはあんたの召喚なしで自由に力を使えるってことか?」
「そうだ。その代わり――、精霊が認めなければ、力を与えるふりをしてお前の身を焼失させるだろう」
「……」
「力は、資格のない者には与えられない。自分の命を賭けられない覚悟しか持ち合わせていない者には、資格などない。嫌ならここで帰るぞ」
しかし、出雲は笑った。
「心配すんな! いずれ青龍神の試練も受けるつもりだ、死ぬのなんて恐くないさ! それより、守りたいものを守れない方が、よっぽど生きてて苦しいぜ!」
「そうか」
九字は歩調を緩めず、歩き続けた。
都には、多神教の宗教があった。もとは同じだったのだが、時代が下るにしたがって教義が分かれてしまい、それぞれに信者がついて、争いあっていた。
そのうちの一派は、宗教兵の確保で頭を悩ませていた。
「他の宗派には信者が増えて宗教兵も続々と集まっているというのに、我々は弱小極まりない」
「我々の信仰こそが正しいというのに、どうして他の者たちはわからないのだ! 腹立たしい!」
「宗教兵の数で権威づけが変わるというのに……。おかげで我々は発言権すらない」
「何か、一発逆転できる案はないものか……」
うーんと、指導部は頭をたれた。
「そういえば、剣姫が都にいるそうですね。剣姫は、何派なんでしょう」
一人が、なんとなく呟いた。
「赤ノ宮神社か。あそこは千里国の神社だから、何派も何もないだろう。こんなに宗派が増えて争っているのは、帝都だけだからな」
すべては帝を取りこんで、宗派の発展を図るためである。帝の号令があれば、大陸全土の神社仏閣を一つの宗派で統一することが可能なのだ。
「剣姫か……。あれがうちの陣営に入ったら、もう誰も逆らえなくなるな」
「見下してきた連中を見返せますね!」
「よし、ちょっと考えよう」
指導部は、頭を寄せあった。
「魔物退治の依頼、ですか」
今日はお休みの日にするようです、と結双葉に九字からの言葉を聞かされた紫苑は、僧侶に呼び止められた。
「都の者は困っているのですが、『私どもの一派しか』、救いたいと思っている宗派がございません。我々も魔物を退治したいのはやまやまですが、残念なことに十分な数の宗教兵がそろいません。そこで、あなたのお噂を聞き及び、『私どもの代わりに』、退治していただけたらと思ったのです」
話す内容とは正反対に、笑みを絶やさない僧に、紫苑は不気味さを抑えて、
「では陛下に軍の出動要請を」
「いえ! 一体の鳥の魔物ですから、陛下には申し上げにくくて……。あなたの陰陽師としての炎の術なら、撃ち落とせるのではないかと」
剣姫を期待されているわけではないので、紫苑の警戒はやや薄らいだ。
「じゃあ――」
「紫苑が行くならオレも行こうかな」
「露雩が行くなら私も行くう!」
露雩と空竜がいつのまにか立っていた。
空竜姫を見て僧はたじろいだが、帝に直接話が行くだろうと計算し直して、
「では私めが案内をいたします」
と、笑顔を保った。
「この枝は布を黄色に染めるときに使うのよお」
「この薬草は咳止めに効くわ」
「この根っこはいい赤色になってねえ……」
「この実をすりつぶしたら切り傷に塗るといいわ」
「何よ紫苑! 私が露雩に話しかけるたびに一言言って邪魔するの、やめなさいよお!」
「姫様、植物の知識なら私も負けておりません」
「意地っ張り!」
「役に立つ知識は広めませんと」
都の南東の山で、二人の姫は戦っていた。
いずれ露雩が紫苑のもとを去ってしまったとしても、そばにいてくれる間は、誰にも渡したくない。
紫苑は、空竜姫に対して一歩も譲らなかった。
僧が石ころの道を選んだとき、空竜が口を尖らせた。
「ちょっと、崖下の林へ行きたいなら、こっちの草の道を通ってよ。足がくたびれちゃうわあ」
「は……、しかし、私はこの道しか存じませんが」
「私を誰だと思ってるのお? 私、大陸全土の地理と気候風土は、次期女帝として全部、教えこまれてるのよお。この山の等高線なんて、今絵に描けるくらい知ってるのお。こっちからでも行けるわあ。ついて来なさい」
空竜は、先頭に立って歩きだした。
「空竜姫って、すべき勉強はちゃんとしてるのね」
この国において女帝はならぬということは知らないようだが、すべての情報を隠されているわけではないようだ。紫苑は姫の意外な知識に驚いて、後に続いた。
霄瀾は、五人と友達になった湖の崖の上から跳んだ。
宙返りをするも、お尻から湖へ落ちる。
「うーん、うまく着地ができないや……」
「さっきから宙がえりしたりうしろから宙がえりしたりして、なんだ? れんしゅうしてるのか?」
正気が岸に腰かけたまま声をかけた。
「うん、おとうさんができるから、ボクもやってみたいなーって、思うんだ」
「みがるなんだなーおじさん! こんど見せてもらえないかな」
「わかった。聞いてみる」
「やっりー! そうと決まればオレたちもがんばろうぜ! だれが一番先に宙がえりをできるようになるか、きょうそうだ!」
「おもしろそう!」
「やるやるー!」
「えー!?」
霄瀾はゼッタイ負けないよ、と崖の上へ走った。
「(宙がえりだけじゃなくて、出雲がいつもボクを助けてくれるように、ボクも出雲を助けられるようになるんだ)」
そんな霄瀾のそばを、金色に近い光の粒が通り過ぎた。
「ックショ!」
「風邪か?」
「いや。なぜか鼻の中がムズがゆかっただけだ」
出雲は片手を上げた。
「それでは続きだ。いいか、四神の刀は持ち主の気力を硬度に換えるのだ。四神の加護によって、どんな敵の一撃を受けても折れることはないが、気が抜けていれば、そのまま使い手だけ圧力で地面に押しつぶされるだろうし、振るっても何も斬れないだろう。刀の力を過信しないことだ。すべては使う者次第だ。青龍神の試練に耐えたら、このことを常に思い出せ」
九字の、盲目になってもさっさと歩いていく後ろ姿を眺めながら、出雲は、なぜ四神の刀の試練を受けなかったのだろうと疑問に思った。
「あんたなら、四神のうちの一柱に認められたんじゃないのか」
「……私は陛下をお守りする身だ。試練で命をさらすわけにはいかなかった。それは作門も同じだ」
帝を守ることは、人間の秩序を守ること。
無益な争いの世を、防ぐこと。
「その目も……帝のためにか?」
「そうだ」
九字はしばらく無言だったが、やがてぽつぽつと、独り言のように話しだした。
十五年前、帝都は王華という国の、反乱軍の攻撃を受けた。現在の帝、星宮の即位式の最中であった。
しかし、九字の妻・璃千瑠の予言により、帝都は万全の備えをしていた。
反乱軍は奇襲のはずが予想外の反撃に遭い、総崩れとなった。
だが、その混乱のさなか、璃千瑠が殺される。的中しすぎる予言者が、これから先も帝を守ることを恐れた、政府の中枢の事情をよく知る者が、計画してのことであろう。
そのとき九字は、帝の身辺を護衛していて、そばにいてやれなかった。
「あれを一人にしておいたことを……、『一人になりたがっていた』ことを、見抜けなかった。璃千瑠は、死ぬことがわかっていたから、他に誰も巻き込まないように、庭にいたのだ。大好きだった、花園のある庭に――」
花園の中で、璃千瑠は矢で胸を射られて横たわっていた。眠っているようだった。本当に、眠っているようだった。
その光景に浸らないように、九字は首を振った。
「その前に、私は城内へ侵入した女陰陽師と戦っていた。作門は軍の指揮のため前線に出ている。私は部下に陛下を任せ、結双葉と、霧府という当時の忍頭と共に、敵の式神を倒したのだが――」
その式神は、自爆した。ただし、周囲を殺傷する爆発ではなかった。
強烈な光を放ち、見た者の網膜を灼き尽くしたのだ。
九字と霧府が目の激痛にのたうつ間に、女陰陽師は逃げ出した。結双葉は、無防備な主を置いて追えなかった。
「式神は平気だったのか」
「これから会いに行く炎の精霊が、目をその炎で守ってくれたのだ。とにかく、それ以降私と霧府は盲目になった。私は式神が目の代わりをしてくれるが、霧府はそうはいかない。忍頭を辞して、故郷へ帰ったよ」
「そうか……」
「今は靫石偉具炉が忍頭を務めておる。陛下の警備上、滅多に姿を見ることはないだろう」
妻を殺され、両目の光も奪われ。
それでも、人々のために帝を守り抜いたのだ。
殺された人々も、負傷した人々も、皆、国を守った英雄として、讃えられるべき存在だ。
今の平和は、自分の人生を捨てて体を盾にして守ってくれた彼らがいなければ、あり得なかったのだ。
「ありがとうございました」
国をつないでゆく者の一人として、出雲は九字に頭を下げた。
九字は振り返らなかった。覚悟してきたことに、一瞬も揺らぐことはないのだ。
「実は、その十五年前の反乱は、王華国だけが画策したものではないという疑いがある」
「え?」
「陛下の兄・日宮が、不例を理由に帝位を継げなかったことは知っているな」
出雲は息を呑んだ。
「星宮様の即位を恨んだ日宮が、反乱軍を差し向けたのではないかというのが、限られた者たちの見解だ。星宮様が亡くなれば、日宮が反乱軍撃退の指揮をとる。それで実力を示せれば、病弱でも月宮を押しのけて帝位につける」
「証拠はあるのか」
「反乱と同時にすぐ姿が見えなくなったこと、別の場所で日宮の将軍たちが作戦を検討する幕をすぐに張っていたこと、そこへの攻撃はほぼなかったこと、等々……。怪しめばきりがない」
「予言者の璃千瑠さんを殺したってことは、まだ帝位を狙ってるってことだよな」
「陛下もそうお考えになり、反乱を起こされる前に手を打たれた。罪もない民の命が、つまらぬ欲にまみれた帝位争いで、失われてはならないと」
「手を打ったって……どうやって?」
「……旅の途中、お前たちも日宮の国へ入ることになる。十分注意をするように」
九字は坂を下っていく。目指す場所は盆地にあるようだ。
「青龍神の力を借りたいなら、力ではなく精神の戦いをせよ。神に精神の剣の舞を奉納するのだ」
そのとき、一瞬、神剣・青龍が震えたような気がした。
「力で世界は支配されない。力しか信じない者に、神は真の神力を与えない。儀式を型通り行い、刀の剣舞を奉納すれば、神に喜ばれて力が手に入ると思っている者は多い。だが神の望みは精神の戦いだ。剣の戦争ではない。それは世界を破壊しようとする邪神でも力を与えられるのだから。
刀の剣舞は本来精神の戦いを模したもの。本物の刀の剣舞である戦争に、神による浄化も神の喜びも何もない。ただ人間が自分の戦いに酔い、祝っているだけだ。目に見える血に興奮する人間が、目に見えない精神の動きを大切にすることを忘れてしまった――魔族という『敵』が現れだしたことによってな。
だが、お前は踏みとどまれ。忘れるな。神は血を選ぶ者を選ばない。力とは何なのか。それに自分の答えを出さない限り、お前は神の試練に挑戦する資格すらない」
「強くなりたいから」とか、「一番になりたいから」とか、そんな理由で動いていいのは子供までだ。
大人になったら、「その力をどう使うか」を考えなければならない。ただ「自慢したいから」とか、「言うことを聞かせたいから」という、「心ない」理由なら、「悪」の力で手に入れたその強さは、いずれ「勇者」に倒されるだろう。
どんな力も、使う者の心次第だ。
受け取る器がなければ、神の力はいくら受けてもこぼれ落ちるか、強すぎる圧力で器を砕くだろう。
「それでも力を求めるのは、守りたいものを守りたいからだ。後悔はしたくない。この身が滅びてもみんなで力を合わせて、最後まで守り抜きたい!」
出雲の答えを聞いて、九字は雲一つない空を見上げた。
「百年前も、そうして旅をしたのだな。だから綾千代様は、お前に神剣・青龍を託せると思ったのだろう。綾千代様は、どのようなお方だったかな」
出雲は空の優しい風の香りを吸った。
「うん……、綾千代と出会ったときからの記憶だけもらったんだけどさ、印象に残ったところどころしか覚えてないけど、こんな父親が欲しかったなーって、思ったことがある。陰陽師として術も指示も的確で、仲間の傷を最小限にして守ってくれた」
「そうか……」
九字の髪が風に流れた。
「……覚えているよいものがあったら、赤ノ宮にも教えてやるといい」
「そういえばそうだな」
出雲が追い風のまま、坂道を一定の拍子に合わせて下っていくと、開けた円状の草地の奥に、石の扉が見えた。石造の屋敷がひかえている。
「ここに炎の精霊がいる。貢物をもらうことを条件に、都の守りについている」
中に入り、九字が迷わず奥に進むと、何もない殺風景な広間の先において、「火」が階段の上で石のイスに座って待っていた。
「よう九字、久し振りだな」
頭、両手、両足が特に盛んに燃えていて、全身炎でできている。文字通り、「火」の漢字の形をした炎の精霊が、右手の炎を上げた。
「悪いが、またお前の力を頼みたい」
「まっ、減るもんじゃねーしいいけどよ、規則は覚えてるよな?」
「お前の試練に耐えられなければ、焼失させられる――。この者にはもう話してある」
「んじゃ、始めるか!」
炎の精霊が飛んだ。出雲が身構えると、九字が押さえた。
精霊の右手は、出雲の心臓を直撃した。
「うわああああっ!!」
熱傷の激痛に、出雲が床を転げた。
「オレの炎を克服できなくちゃ、そもそもオレの力を宿そうなんて、無理だ。だろ?」
精霊が壁一面のろうそくに右手の火を投げると、ろうそくに目鼻がついて、動きだした。出雲を害しようという目つきをしている。
「早くしないと、どんどん火を追加するぜ。こっちだって、ヒマじゃねーし。とっとと克服しな!」
「金式出雲、律呂降臨!」
出雲が、九字によって金気の式神に召喚された。
顔以外の全身を鋼鉄の鎧で固めた出雲が、式神の縛りを表す交差した帯から、神剣・青龍を抜ききった。
「か、感謝、するぜ、九字!」
熱く荒い息を吐きながら、出雲がろうそくたちを見据えた。
「ああ、先に言っとくけど」
炎の精霊は石のイスに座って足を組んだ。
「オレの炎には、白き炎でしか勝てないから」
「なっ……!!」
出雲の心臓の炎が一層燃え盛った。
「ここに鳥の魔物が出るのお?」
林の中で、矢を手に取って警戒しながら、空竜があたりをうかがった。
すると、崖に面した上から微かな音が降ってきた。
「……?」
紫苑が見上げたとたん、大きな黒い影が急降下してきた。
両翼と尾が青く、その他は赤と橙色の羽が交互に生えている、とても派手な鳥だった。
くちばしとかぎ爪が異様に鋭く発達し、人の背丈ほど大きく、翼を広げて紫苑たちを威嚇してくる。
「こっ、こいつです!」
僧の叫びと共に、一同は攻撃から走って逃れた。
「念のため聞いておきますが、この魔物はどう人々に危害を加えたのですか?」
「え?」
僧は、紫苑に奇妙な顔を返した。
「魔族というだけで、他に理由などいらないでしょう。放っておけばどんどん殖えますよ。そうしたら我々の住んでいるところまで侵食してきます。それに、必ず通りかかる人を攻撃するに決まってますからね」
「……あなた方は、魔族がどういう存在か……」
「もちろん、絶滅させるべき相手です! 我々の神を信じれば、その祈りに応えて、神が必ずや魔族を滅ぼしてくださいますよ! いかがです、あなたも入信しませんか? 必ずあの魔物に勝てますよ!」
僧の鼻息が荒くなった。
「我々の神を信じなければ、世界平和など永久に訪れないのです! 皆、それがわかっていない! 魔族なんて一体でも邪魔な存在が、いつまでたっても死に絶えないのは、信仰心が足りないからです! 我々は、常に紅き鬼神を崇め、鬼神が魔族だけ滅ぼしてくださる日を待ち望んでいるのですよ! さあ、あなたもこの手をお取りなさい! 我々の敵を、倒してくださる神を信じるのです!」
僧が紫苑へ手を伸ばした。
「……『お前の』敵をな……」
紫苑がゆらりと僧に近づいた。
やった! 剣姫がついに我らのもとに!! 僧が興奮した瞬間。
「……崖の途中を見てみろ」
「へ?」
僧は言われるままに顔を上げた。
鳥の雛らしきものが三体、か細い声を出して崖の窪みの中で動いていた。
「あの鳥の魔物は雛を守ろうと攻撃してきただけだ」
紫苑の目が、冷たい剣姫の目になっていた。
「へ」
僧は、生まれて初めて殺気がその身に突き刺さった。大波を前にした小舟のともしびであった。
「敵を殺して、本当にそれで終わりになると思うのか! 我々が改めなければ、いくらでも魔族は出現するのだぞ!」
「人間でないのだから、毎回殺せばいい。そのための神だ。さあ、私を信じなさい。何度人間が危うい目に遭っても、神は我々だけは救ってくださいますよ」
心臓を冷たい手でつかまれたようで、僧の思考は恐怖と不安で鈍っていった。
「『その根拠は、なんだ』!!」
「!?」
突然、露雩が怒鳴った。
「ただ神を信じているだけで救われるなら、とっくの昔にみんな同じものを信じてる! だけど、自分が幸福になったから、なんだ! 他種族を踏みにじる、『そんな人間が、人間の種族の存亡の危機に理由なく救われるに値するのか』、考えたことあるのか!! 人間だけで世界のうちに生きてると思うな! 人間は魔族より生き残る価値があるのか、考えろ!!」
僧は食ってかかった。
「当然だ!! 人間はこの世界の王だ!! 神は我々がどんなに誤ったことをしても、必ず導いてくださる!! 人間だけは、世界が消えるまで生き残るのだ!! だから、人間がこの世のすべてだ!! 人間の意に沿わないものは、攻撃し、矯正し、自然の法則すらねじ曲げることができるのだ!! なぜなら神は人間をいつでも見守って、人間のすることのすべてを赦し給うからだ!!」
「『それは人間が勝手に決めたこと』だろうがあッ!!」
露雩の絶叫を待たずして、紫苑が飛び出していた。
こいつは世界の何も解決できない。
これからも人を惑わすくらいなら、今ここで!
しかし、剣姫の肩に、露雩が爪を食いこませた。
「止めるな露雩! ……ッ!?」
「……最後の……機会……」
露雩の右目が一瞬、星晶睛になり、消えた。
都合のいい解釈。
耳に聞こえのいい言葉。
そうしなければ、人間は己の弱さを克服することはできなかった。
「(だが、魔族を出現させ、互いに戦い続けているというのに、人間の誰も何もこの問題を解かないとあっては、もう……)」
露雩の隣で紫苑は白き炎をたぎらせた。
「白き炎なら、いいか?」
「だめだ。この人だけじゃない。帝もこう考えているだろう」
「……(世界を滅ぼす予言は、まさか――)」
紫苑は、露雩に神流剣の技で、蛇の形になった、玄武の神水を口に入れてもらい、白き炎を強制的に鎮めた。
僧は逃げ出していた。
「ふん、お前はいつも甘いな」
「紫苑こそ、丸くなってきたね」
「お前がいなければすぐ復活するさ」
「へえ。じゃずっと一緒にいなくちゃね」
「?」
剣姫が聞き捨てならないせりふを聞いたような気がしたとき、空竜が飛んできた。
「ねえ、倒さないなら早く帰りましょうよお! この鳥、ずっと怒ってるわよお!」
いきりたって羽をむしっている魔物から、三人は急いで離れた。
帰り道、空竜が普段の紫苑とは雰囲気の変わった剣姫に、ひそひそ声をかけた。
「ねえ、紫苑って全然男の人に甘えないのね。私なら露雩に恐かったあ! って抱きつくのに。露雩と平気で対立するしい……相手に好きになってもらえなかったらどうするのお?」
恋敵とはいえ、競争相手の行動が読めないのは、空竜も不安らしい。探りを入れてきたのだ。
剣姫は冷徹に笑った。
「私は私を変えるつもりはない。『お前が私を好きになれ』。私はそれしか言わん」
空竜は納得した。
「人を好きになったことがないのね」
「……?」
人を愛し愛さない剣姫は、自分の思考を窺う目つきをした。
「鉄壁曲道!!」
動くろうそくが出雲の心臓に飛びこもうとするたび、出雲は金式の金属の力で、地面から鉄の壁をいくつも出して防いでいる。
しかし、火剋金。
五行にある通り、火は金属を溶かし、勝ってしまうのだ。
鉄壁もすぐ溶かされるし、ろうそくの火を消しても、炎の精霊がすぐ火を投げて復活させてしまう。
強い相手を前にし、かつ死を目前にしたとき、人は己の力に絶望し、「己に対して」不信を抱き、白き炎を強く望むということなのだろうか。
炎の精霊の御膳立ての中で、出雲は自分も白き炎を持たなければここで死に、紫苑を守れないという焦りに満たされた。
赤ノ宮紫苑。
そこで出雲の思考はなぜか、じっくりと回った。
誰からも拒絶された少女。
殺戮と白き炎を運命づけられた少女。
望まない力、それにすがる心。
自分を守るために、どれだけ人を斬ってきただろう。
どれだけ自分も斬ってきただろう。
彼女を式神は救えなかった。
自分は「白き炎を救えなかった」。
今、白き炎という力を手に入れても、自分は制御できないのだ。
白き炎を消せなかった紫苑の顔が、再び浮かんだ。
紫苑は本当に本当に苦しんだ末に、やっと救いの道を一つ見つけた。
十五年かかった。
「……あいつの人生を無駄にしちゃいけない」
出雲は、はっきりと悟った。
「あいつが悩んで生きたことに、意味をあげなくちゃならない」
出雲は、鉄壁を解き、炎の精霊に向かって叫んだ。
「オレはあいつのために、あいつと同じことは繰り返さない! それがあいつの人生を尊重することだから! 白き炎に頼らなくても、オレはオレの炎で戦ってみせる!!」
その瞬間、出雲の心臓の炎が勢いを増した。
「負けてたまるか!!」
出雲が炎に呑まれまいとすると、燃え盛っていた炎はしゅるしゅると凝縮していき、心臓の内部にとどまった。
心の内のどんな寂しさも照らして暖めてくれるような、心地よい炎だった。
「……なんだ?」
「ああ、おめでとさん。オレの炎を克服したな」
精霊がさっと手をあげると、ろうそくは元の位置に戻り、自動的に火が消えた。
「何言ってるんだ? オレは白き炎を……」
「『頼らない』のが、正解なのさ」
「えっ!?」
炎の精霊は金式のもとへ階段を降りていった。
「白き炎は他の炎を弱らせる。オレがせっかく炎の力を与えても、意味がない。白き炎を使っていたら、オレはお前の心臓の火種で内側から燃やして殺そうと思っていた。『オレの炎で守るべき者』ではないからだ。オレの力を求めておきながら、他の力に頼って精霊を軽んじた背信者としてな。
白き炎ではなく、己の心を燃やせ。それがオレの火種だ。来い。オレの火をちゃんと分けてやる」
階段の一段目で止まっている炎の精霊は、近づいた出雲の胸へ右手の炎を入れた。
出雲の中で、強力な回路がつながるのが感じられた。全身を熱い血が駆け巡るとは、まさにこのことだ。
「全身の血管を網羅するまで、熱いのは我慢しな。滞っていた部分も末端の血管も全部、老廃物まで流してくれるぜ。これで全身どこだろうと、瞬時に動かせるようになる」
「すごい……! 体のすべての感覚が、以前より鋭くなっている……!」
体を動かす出雲から出した精霊の右手は、火を失って暗くなっていた。
「……悪いな。片手もいじまって」
しかし炎の精霊は、左手の炎を右手にかざした。右手に火が戻り、再び五つの炎のゆらめく姿となった。
「へっ?」
「炎はいくらでも分裂するんだよ。火種さえあればな。火をやるのは嫌いじゃないぜ。オレの分身が増えて、世界の終わりまで生き続けられるからな」
「……ふーん」
ちょっぴり感傷にひたってたのに、と出雲は肩すかしを食った気分だった。
「お前は命を剣姫に引っ張られているんだ。オレが欠けた分を補おう。だが、そのままでは、すぐ精霊の力を使い果たしてしまうだろうな。ずっと命を永らえるためには、『炎の燃料』がいる。それが何かは、その人間の一番持っている感情だから、そいつにしかわからない。ま、せいぜい火種をくれよな、式神出雲!」
炎の精霊の屋敷を出て、出雲はまだ火照っている体を風に向けていた。
「(やった……。これで紫苑を守れる!)」
高揚感を抑えきれない出雲を、九字は黙って眺めた。なぜか浮かない様子で、胸に手を当てた。
「なあ……あの精霊への貢物って、やっぱり『火種』なんだろ」
ふと出雲が屋敷の方を振り返った。
何もない部屋が思い出される。金銀や工芸品ではなさそうだ。
「貢物は『穢れたものすべて』だ。死刑囚、盗品、悪法、汚物……都で出されるありとあらゆる穢れたものが、精霊のもとに贈られる」
出雲が絶句するのを、九字は見なかった。
「火は浄化することを最も好む。穢れていれば穢れているほどよい。もちろん、他の木土金水の力も、穢れを祓う力はある。だが火に、他の力はかなわない。他の五行は穢れを覆って閉じ込めることしかできないが、唯一火だけが、原形をとどめず、何も残らない灰にすることができる。だから穢れを祓う力が最も高いのだ。浄化の白き炎が世界を滅ぼす予言を持つのは、世界が終わるまで穢れた心がなくならないからかな。それとも人間を最後まで浄化することを諦めない、神の愛か」
出雲はもう一言も出なかった。
城の前の路上で、紫苑たちは僧に呼び止められた。
先に逃げ出した僧の仲間が、この一件を帝に奏上されては困ると判断したのだ。剣姫を狙っていたことが知れたら、帝の不興を買うだろう。だから、布教に失敗は許されなかったのだが――
「(愚か者め、苟も仏門に入った者が命を惜しんで逃げ出すとは! なぜ位の高い私が尻ぬぐいをしなければならないのだ!)」
少し恰幅のいい僧が、内心とは裏腹に、笑顔で近づいた。
「さきほどは身内の者が失礼いたしました。人を守る身でありながら、魔物に恐れをなすとは、まだまだ修行が足りません。あとで修行のやり直しを命じておきますので」
「そこまでしなくてもお……。丸腰のお坊さんじゃしょうがないわ」
空竜の反応を見て、僧は帝への報告に手心が加えられると思い、目が光った。
そして、無言の紫苑に向き直った。
「それでも、彼はあなたが勝てるように、傷つかないように、祈りを捧げておりました! どうでしょう、今あなたの体には傷一つございません! 私たちの神が偉大だということが、ご理解いただけましたか?」
剣姫が無傷だという事実は、変わらない。あとはいかに「奇跡」に仕立てあげるかだ。僧の両目がギラリと光った。
そこで剣姫は冷笑した。
「なるほど、鳥は口実で、お前たちは剣姫を自分の兵にしたいのだな。やっつける敵は魔族ではなく、他の宗教か」
友好的ではない姫の態度に、僧の脂汗がぎらぎら光った。
「そうではありません、教えを守るためには教えを攻撃する組織を潰さねばなりません、それは神を信じる人々を守ることなのです!」
「命を奪うのではなく、理論で相手を変えればいい。相手を殺すのは、神の力ではない。本物の神なら、相手を変える理論を降ろすはず。誰でもできる人殺しの感情なんか、人々に降ろさない」
「何を言っているのです? 神に背く者は殺すのが昔からの習いですよ。そうして我々は生き残って来たのです。今あなたが信じている神社の神だって――」
僧の言葉に、紫苑は自嘲気味に笑った。
「これまで剣姫として十五年生きてきたが、一度も『あなたのために祈らせてください』だとか、『この神を信じればきっと救われる』と言ってくる奴が現れなかった。つまり、お前たちは似非宗教で、自分たちの神が作り物で何一つ力を持っていないことを知っているから、誰からも救われないとわかる私に、入信されるのが恐かったのだ。いつまでも救われない人間に教団内部にいられると、他の信者に動揺が広がるからな。私がもし熱心にお祈りでもしていたら、『この神にはなんの力もないのではないか』と疑惑が広がるからだ。でっちあげの神とでっちあげの宗教、それに既存の宗教も、恐くて私に声をかけられなかったのだ。私はそれを学んだから、どの宗教も信じない。これが私の学んだ宗教の真実、これが私の答えだ。なぜ私を救うと言わなかった。なぜ私の憎む力を使って人々を恐れさせようとした。お前たちに人を救う資格などない。言葉も力も持たぬ者よ、去れ。これ以上周りを跳ねるなら黙らせるぞ」
剣姫が剣に手をかけるのを見て、僧は脂汗を飛ばして全身もがきながら逃げ去った。
「紫苑を勧誘したかっただけだったのねえ。私も小さい頃からいろんな僧が勧誘してきたわあ。人を呪えるようになるとか、天と交信できるとかあ。私はお父様の信じている神を信じてるって、全部断ってきたけどお。宗教って一度信じたら変えられないわよねえ。だから、彼らのこともみんな悪いとは言えないのお。だって、みんながみんな、世界のためにがんばってるんだものお」
紫苑は空竜を眺めた。何も考えないで言っているのか、それとも……
「なに? 紫苑」
きょとんとした空竜が、剣姫の目を受け止めた。
深夜。
紫苑は、胸の中央に鈍い痛みを覚え、目を開けた。
「なに……?」
紫苑は窓から入る月明かりの下へ移動し、ふとんに座りながら上着を脱いだ。
「……ッ!?」
紫苑の両胸の、最も豊かな間を通った奥に、「穴」ができていた。
紫苑はすぐに、思い当たった。
「……まさか、ここまで……」
月明かりの下、紫苑は心を落ち着けた。
上半身裸の紫苑は、ズズと胸の穴に、第一関節まで指を入れて引き抜いた。黒い膿がついてきた。
「穿たれて……たまるかっ……!」
紫苑の顔は、覚悟を決めていた。




