刻め神紋第五章「石」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
紫苑を封印して自らの野望をかなえようとする、結晶睛という瞳の力によって術の能力に傑出した僧侶・河樹。
第五章 石
「言うことを聞きなさい容真寝!!」
「何度言ったらわかるんだ、泣くのをやめなさい!!」
しかし子供の泣きわめく声は一向にやまない。
「うるさい!!」
親はかんしゃくを起こして、ぶって黙らせようとした。
子供は痛くてもっと泣いた。
ついに親は子供が気絶するまで殴って、ようやく腹の虫がおさまった。
いい気味だ、と思った。
私をわずらわせるんじゃない、何度も同じことを言わせて、頭の悪い子だね! でもなにもアザが残るまで殴ることもなかった、外に出たとき周りの人が何と思うだろう、私のことが暴力女だとばれてしまう。それならいっそこの子をずっと家の中に閉じ込めておこうか、でもアザが消えるまでの間だけよ、それ以上は周りの人も不審がるし、この子もかわいそうだわ。ああ私はだめな母親、でも最後には子供のことを考えられるいい母親なの。虐待なんかじゃないわ、この子がいい子にしてるときは本当に天の使いの童子のように愛しているの。この子はどうしてときどき頭が悪いことをするのかしら。それさえなければ、私も毎日笑顔でいられるのに。
容真寝は、玄関の前に立っていた。
十才の体中に、服を着ていても隠せないほど、たくさんの傷がある。女の子だというのに、毎日「言うことを聞かなかった罰」として、洗いざらしの木綿の上衣と腰巻きしか、身につけさせてもらっていない。
容真寝の体は、家の中で眠っている。彼女は、幽体離脱していた。
外に出たのは三箇月ぶりだった。普段は父母と一緒にしか出てはいけなかったのだが、以前父母が鍵をかけ忘れて外出したとき、「外に出ていいんだ」と思って広場で一人で遊んでいたら、近所の人に噂された。
帰って来た父母に怒鳴られて、それから全然外に出してもらえなくなった。
母が警備兵に、「うちの子は体が弱くてよく転ぶんです。だから学校にも危なくて通わせられません」とか、「うちは貧乏なので、普通の服はおめかしして行く所にだけしか着せられないんです」とか、頼みこむように話していた。
容真寝は、普段通りにしていた「いい子」の自分が、何か悪いことをしたわけでもないのに、なぜ怒られたのかわからなかった。
「かってに外に出て、またおこられるかな」
容真寝は家へ戻ろうかと考えた。しかし、幽体離脱するときに見た、自分の白目を剝いて横たわっている顔は、見たくなかった。
しばらくすれば、顔も元に戻っているかもしれない。
容真寝は、外でしばらく遊ぶことに決めた。
しかし、足が浮いている幽体の自分を、誰も気づいてくれない。買ってみたいお菓子が買えない。立ち読みしたい本も手に取れない。話しかけてみたい子供たちも体を素通りしていく。
何にも関わることができなくて、容真寝が悲しくて顔が歪んだところで、慌てて泣くのを我慢した。
どんなに悲しくても、泣くのは恐かった。
外の世界には父母のような人間がいっぱいいて、少しでも泣けばみんなで自分を殴るかもしれないと思ったからだった。
最近は、両親に怒られて泣くのも、殴られるまえは悲しいからで、殴られたあとは痛いからだった。
なんで泣いてはいけないのか、父母は教えてもくれなかった。「うるさいから」よりも、「なんで泣く必要がないのか」ということを、教えてはくれなかった。
私がバカでりかいできないから? それともとうさんとかあさんのほうがバカだから? ううん、そんなことない。とうさんとかあさんはなんでも知ってる、私のすべて。私はとうさんとかあさんに教えられたいじょうのことは、できないわ。教えかたがうまいかへたかなんて、私にはわからない――。
「あら? あなた……」
うつむいて口を結んでいた容真寝は、自分の目の前で立ち止まっている人影があるのに気がついた。
「えっ?」
自分が見えるのか、と驚いて見上げた容真寝の目と、赤い髪の美人の目が合った。
村の人々からおみやげに大粒の小豆をもらって喜んでいた紫苑は、なんだかいらいらしている出雲と、物思いにふけっている露雩と、朝っぱらから起こされて半分ふらふらしている霄瀾を引き連れて、意気揚々(いきようよう)と歩いていた。
後炉試町に入ったところで、前方からとぼとぼ進んでくる幽体を見つけたのだ。
陰陽師・紫苑が歩み寄ったのに合わせて、星晶睛の一瞬光った露雩と、式神・出雲と、肌に触れている神器の神力を受けた霄瀾も、幽体の容真寝の姿を見つけた。
「わ、私のこと、見えるの!? わかるの!?」
「ええ……」
容真寝は、嬉しくて涙があふれるのを、慌てて隠した。
「? 何隠れて泣いてんだよ?」
容真寝は出雲から顔をそむけた。
「だって、私が泣いてたら、みんな私のことぶつんでしょ!」
「はあ?」
紫苑たちは、顔を見合わせた。
容真寝は、これまでの自分のことをすべて話した。そして、顔を輝かせた。
「でも、ほかの家の子も、みんなこうなんでしょ? 私、ゆうれいになってだれにもわからなくなっちゃってるけど、私と同じことされてるほかの子たちと、ともだちになりたかったの! いたかったり、かなしかったりするけど、みんな同じなんだから、いっしょにがんばろうねって、おはなししたかったんだあ!」
それから容真寝はつまらなそうに顔を下げた。
「だって、私は外に出たいって言ってるのに、かあさんはいつもいそがしいからって、めったにお外に出してくれないんだもん。ほかの子たちが外で遊んでるのは、声だけ聞こえて、知ってるんだ。お人形遊びじゃ、もうつまらない。うまく言えないけど……『なんかやだ』、このお家。私の言いたいこと、だれも聞いてくれようとしないから……。だから私がかなしくて、泣くしかなくなると、とうさんとかあさんはうるさいっておこって私をぶつの」
容真寝はついに泣きだしてしまった。
「とうさんとかあさんがきらいなわけじゃないのに……! 私、わるい子だ。どうしてこんなことになるのか、わからない……!」
親の一方通行の発言ばかりで、「会話」がないことが、子供がかんしゃくのように泣く原因だった。
この両親は自分を中心に世界をまわそうとする、自己中心的な思考の持ち主で、子供のことや気持ちをわかってやろうという努力をしていない。紫苑は優しく話しかけた。
「僧侶のところへ行った? 僧侶もきっとあなたが見えるはずよ。もしとうさんとかあさんとお別れしたら、お坊さんがあなたと同じような子を集めて孤児院をやってるから、そこのお世話になれるように、話してあげる。とうさんとかあさんとお別れ、できるわね?」
「え……」
容真寝はなぜ両親とお別れしなければならないのか、わからなかった。自分が何かわがままを言ったせいではないのかとおびえた。
「自分のいる世界から抜け出すのは、恐いものよ。でも、間違った育て方をしてる人からは、逃げていいのよ」
容真寝は、紫苑の言葉にびっくりした。
「とうさんとかあさんはまちがってたの!?」
「ええ、今は。このままお家にいたら、容真寝ちゃんは一生子供のままよ。なんにも教えてもらえないから」
「……」
紫苑は、じっと待った。子供の心を完全に両親から断ち切らなければ、孤児院に保護してもまたすぐ家に戻ってしまう。世間体を気にしただけの両親の、嘘っぱちの甘い言葉にのせられて。
「毎日叩かれて痛いよ。いいの?」
「……」
容真寝はまだ迷っている。大人ならあっさり決められる。だが、そういう、大人が自分で自分にしてあげられるもので、幼い子供にはどうしても欲しいものがあるのだ。
それは無制限の愛。
大人になれば自分を愛し守れるようになるので、いつまでも他人に執着しないが、守られるしかできない子供は、愛を受けて成長していくから、自分の存在を肯定して自分を絶対的に愛してくれるはずの親を、よほどのことがない限り捨てられないのだ。
子供は母乳と米だけでは成長しないのだ。
容真寝は、今ここで両親と別れてしまったら、誰が自分を愛してくれるのだろう、と恐れた。
紫苑が容真寝に手を差し伸べた。
「少なくとも、あなたの話をちゃんと最後まで聞いて、受け入れてくれる人はいるわ」
和尚さんなら、それができる。容真寝が目と口を大きく見開き、そしてついに何かを決心して言おうとしたとき、
「い……いたい!! ギャー!!」
突如、容真寝の幽体が猛烈な速さで空の彼方へ去り始めた。
紫苑は容真寝の身に何か起こったことを察知し、紙の十二支式神「辰」(龍・りゅう)を出し、容真寝の体につかまらせた。
遠くの方で、紙の龍がのろしのように、空に向かって体をくねらせている。そこが容真寝の家だった。
紫苑たちが居留守を使う家の戸を押し破ったとき、立ち尽くす両親らしき男女と、横たわっている子供の姿があった。
容真寝は、腹にやけどの跡を残して、死んでいた。
ごはんなのに叩いても起きないことに腹を立てた両親が、煮立ったやかんの底を容真寝の腹に押し当てたのだ。
「てめええっ!!」
出雲が父親と母親の頬を、一発で二人ごと重ねて殴った。やかんが跳ね返り、沸騰水と蒸気が一斉に飛び散った。
折り重なって倒れる両親のいた空間に露雩が走りこみ、容真寝に玄武の神水をかけた。しかし、傷は回復しなかった。露雩は無念そうに首を振った。
「だめだ……内臓もやられてる。さっきの幽体離脱のときに、既に危篤状態だったんだ……」
「てめえら……なんてことを!」
また殴ろうとする出雲に脅えて、部屋の真ん中の柱のうしろにまわって、両親が反論した。
「しつけだからしかたないだろう! 時間を守れる大人になってほしいし、人に迷惑をかけない子になってほしいし、家族みんなが笑顔になるためにはこの子がききわけのよい、いい子になるだけでよかったのに! なんでオレたちを責めるんだ! 悪いのは正しい大人の言うことを聞かなかった、この子だろう!!」
「なんだと、てめえ、よくも自分を正しいなんて……!!」
出雲が前に出ようとするのを、紫苑が手で制した。
脱力を覚えた出雲は、はっとした。
既に紫苑は剣姫の燃える眼をしていた。
「この子はあと一言でお前たちを見限れるはずだった。幽体離脱するほど痛めつけられたのに、いざお前たちと別れるとなると、ためらった。こんないじらしい子を、死ぬまで虐待して、何とも思わなかったのか! しつけなんかじゃない、自分の敵に対しての、怒りまかせの行動ではないか!! 子供が反撃しないから調子に乗りやがって、お前らみたいなやつは子供が大人になってから復讐されるがいい! だがたった今死んだかわいそうな容真寝、お前の仇だけは私が取ってやる! 覚悟しろ悪党、人ひとりの未来を奪った殺人犯、私の刃に触れずに、逃げ切れると思うなよ!!」
双剣を引き抜いた紫苑に、両親は恐れで体をうごめかせた。
「悪党じゃない、私たちはあの子を愛していた! 殴ったあとはかわいそうに思ったし、悪かった、もうするまいとも思う、でもあの子が私たちを悩ませるから、手をあげるのはしかたないじゃないか! 私たちはあの子に振り回されて、神経がすり減らされた、被害者だ!!」
紫苑が本気で怒った。
「子供のことを何も知らずに産むとは!! 子供は失敗して大人になるものだ、どんな天才だって、失敗しないやつはいない! 言うことを聞かないでずっと遊びたがるのをなんで怒るんだ? お前、その子が遊び疲れてあとは腹が減って眠りたくなるだけになるくらい、思いきり遊んでやったのか!? 満足しないから、いつまでも遊ぼうとするんじゃないか!
そしてそういう愛が満腹にならないと、子供は泣くし、気を引こうとするし、ききわけなくなる! それはお前たちがかまってやらなかったせいなのに、ただ愛が欲しい、右も左もわからない子供のせいにするのか! 『ききわけのよい、いい子』ってなんだ!! 大人の都合で子供を強制するな!!
大人はな、子供を産んだらいったん『自分の時間』は優先順位が下がるんだよ。真っ先に子供を育てるために生きてくものなんだ。子供が巣立つまでは、子供のために生きるんだ。子供が責任を取れる一人前になるまで、人ひとりの人生背負ってるんだぞ、自覚しろ!」
「大人に逆らわないようにしつけることは、社会の規律を教えることだ!」
声を震わせて、両親が叫んだ。ここで紫苑に肯定したら、殺されるとわかっているのだ。
「『間違った大人』は、社会に必ず紛れている……」
紫苑が低く呟いた。
「なぜお前たちは『自分が殴られたときだけ』は役人に訴えるのだ? 子供を殴っても、子供には行かせないだろうが! お前たちは自分しかかわいくないのだ。子供を一番に思えないやつは、親になるな。子供がいるなら子供でなくてお前を治せ。お前たちは大人ではない」
「容真寝をかわいい子だと信じてたのに! 大事なものを壊すし、おねしょするし、夜泣きして人を起こすし、食べこぼして服は汚すし! 誰がくたびれて掃除してると思ってるの!? あんたに、私の苦労の何がわかるって言うの!?」
母親が金切り声をあげた。紫苑は静かに告げた。
「自分の欲をある程度殺せないやつは、社会に悪しき巣を作る。そして、その思想はそれのとどまった社会を腐らせて殺そうとしていく。もちろん自分の欲を殺しすぎたら自滅するが、他人のために自分のしたいことを殺して生きていこうと思えない限り、その社会が死ぬか、他の人々の力でその者はその社会から抹殺される。
一番、健全に自分を正しく殺せる他人は、家族か、子供なんだよ。この人の、この子のためならと思ってがんばること、自分の何かを犠牲にして殺せること、それが自分を救い、命もつなぐってことなんだ。お前が問題の片づけをしたくないからといって、子供を狭い枠に押しこめるな。子供の尻ぬぐいは、親の仕事だ。子供が大きくなったら、一緒に問題の片づけをさせればいい。腹いせにとか、言うことを聞かないからとか言って、子供を叩くのはお前の頭が悪いからだ。自分の言葉で子供を変えられないからだ。
お前は仕事で三度同じへまをやって、いきなり上司に殴られたことがあるか? あったら訴えるはずだ。だが子供はそれができない。お前は馬鹿だがそれができる。『殴ってわかるはずがない、説明すればよかったのに、それでもオレはバカだから理解できなかったし、忘れたし、三度繰り返してしまった』と言って。自分ができないことを他人に求めるな。ごはんをこぼすとか、夜の下の世話を他人にしてもらうとか、そういう出来事を怒るやつは、やはり馬鹿だ。老いたとき、自分もそうなることをまだ知らないのだから」
しかし、両親は聞く耳を持っていなかった。若い盛りの自分たちの時間を子供に割くなんてとんでもないと思っていたし、一度言ってわからないなら、自分たちが楽で笑顔でいるためにおしおきの痛みで手っ取り早く教えることは当然だと思ったままだったし、自分たちは永久に体も頭もしっかりしたまま老人になって、元気にこの世を去るものだと信じて疑わなかった。
だから、紫苑が一つ一つ彼らの信じる虚構を崩していっても、馬の耳に念仏とはこのことであった。
「じゃあ聞くけど」
両親は、わけのわからないことを大量にしゃべるうるさい女とみなして紫苑を見下して、偉そうに聞いた。
「適度なしつけって何よ! 甘やかせばろくでもない犯罪者になるのがオチじゃない!」
「家の外に締め出したら悪い大人に連れ去られるかもしれない、家の中に置いていったら、ろくなごはんも一人で食べられないかもしれない、汚いほこりだらけの押し入れに押しこめたら、空気が悪くて肺を悪くするかもしれない、こうして子供の命や健康に直結するのはしつけでなく虐待だ。子供が危険な目に遭うかもしれないと想像できない馬鹿は、『子供の一生を救うしつけ』でなく、命を奪う虐待をするわけだ。さて……」
紫苑は一歩踏み出した。両親は騒ぎだした。
「わ、わかった! 次からはそうするから! だから命だけは!!」
「改心するわ! 次の子は死なせない! だからっ……!!」
紫苑は刀を振り下ろした。
「残念だが、お前たちを独り占めしたい人間が、もういるのでな」
容真寝の霊が現れた。今しがた丸い霊魂になった二人を、もてあそんでいる。
容真寝は二つの霊魂を鎖で縛り、愛玩動物の散歩のように引きずった。
「よかった……とうさんとかあさんとさいごまではなれずにすんで」
幽体離脱のときに、紫苑たちに言いかけた言葉を口にしなかったのが嬉しいとでもいうように、朗らかな笑みを見せた。
両親を殺してくれるよう紫苑に頼んだのは、容真寝の霊だった。
露雩は止めなかった。「被害者が死んだら被害者の権利はもう終わり、生き残っている加害者の命が何にもまして優先される」わけではないからだ。「命を失った被害者にも、望みをかなえる権利はある」のだ。この世は「生き残った者勝ちの世界ではないからだ」。
容真寝は、彼女から逃げていこうとして鎖を引っぱるいきのいい二つの魂を、地面にぐしゃと叩きつけて大人しくさせ、まだよろよろと動いて逃げようとする二つの魂をなんの躊躇もなく踏みつぶして、拳で何度も殴り尽くして変形させてから、むしゃと無造作にわしづかみして、微笑んだ。
「これでずうーっといっしょっだね、とうさん、かあさん……!!」
容真寝は満足そうに昇天していった。
鎖につながれた二つの魂と共に。
「両親は殴ることと恐怖しか教えなかったから、容真寝もこの先この二つでしか両親に接することがないでしょうね」
そこまで考えて、紫苑は、はっとした。
「子供は接する者次第でいくらでも救われるのだ……!」
大人になると、その子供らしい純粋さが失われるときも来るだろうが、少なくとも子供は親が導くことができるのだ。
紫苑は、毛土利国の来場村以来、子供に不信を抱いていた。
だが、「子供は接する者次第」と気づいた今、紫苑は子供を許すことができた。男装舞姫の力が戻った気がした。
「容真寝がもし大人になって子供を産んだとしたら、大人になるまでにたくさんの人と関わり、いろんな人生を見てきているはずだから、『自分は親にこうしてほしかった』という望みが形作られているはずだ。それを子供にしてあげるのがいいだろう。子供に昔の自分を投影して、自分がそうしてもらっていると思えれば、きっと容真寝も一緒に救われる。親だけが学びの相手ではないから、他人の力を借りればいいし、自分の望みにも手伝ってもらうといい。
子供は幸せをもらったら、大人になったとき幸せを返してくれるから。容真寝が、子供に幸せになることを教えてあげるからだ。子供は容真寝を見て育つからだ。他の家の人の話を聞いても、容真寝から教わったものが一番いいとわかってくれるからだ」
「そこを動くな!!」
そのとき紫苑を囲む警備兵が四人、現れた。遠巻きに人々がこちらを眺めている。
「その二人を殺したな!!」
紫苑の双剣から血が滴っているのを、四人が確認した。開け放しの戸から家の中をのぞいた人々が、通報したのだ。
「命を救うことより、魂を救うことの方が重要だ」
紫苑は堂々と答えた。
「罪を認めたな!!」
警備兵は一斉に刀を抜き、捕物に入った。
「私の言葉を聞いていなかったらしい」
紫苑がどの瞳とも目を合わせず双剣を振って血を払ったとき、その視界で石が放物線を描いた。
首を傾けてかわし、出所を見据えると、見物人の一人が憎みきった顔をして投げ終わりの動作をしていた。
紫苑に石を投げつけたのだ。
それだけならいつものことだった。
しかし今日は違った。
「いたいっ!」
「うっ!」
「……!」
霄瀾にも出雲にも露雩にも、石が投げつけられたのだ。
「殺人者め!!」
「武器も持たない一般人を殺して、楽しいのか!!」
紫苑は一瞬、呆然とした。
「……命ではなく、魂をッ……!!」
怒りに燃え立つ赤いルビー色の紫苑の髪は、誰にも向かっていなかった。口から炎のような苛烈な息が振り絞られた。
「傷つけたな! 私の大切なものを、傷つけたな!!」
自分の存在が、大切なものを守れない情けなさから、紫苑は自殺したくなるほど打ちのめされた。
大切な人を、いわれのない罪で、私と同じ目に遭わせてしまった。
「死んでも詫びきれない……!!」
紫苑は力なく双剣を突き立て膝をついた。そのまま前に倒れれば自らの刀で斬られて死ねる。
「うう……!」
彼女に石が当たり、憎しみが彼女を現在の状況に引き戻した。
「だめだ、死ぬな紫苑。死ぬつもりならとっくの昔に死んでいる」
そして、昔の自分がいつも自分に向かって言っていた言葉をもう一度繰り返した。
「明日はきっといい日だから、生きよう。明日はきっといいことがあるよ。明日を信じて、生きるんだ」
大切な人が傷つけられた怒り以上に、彼らを通して自分が傷ついていたのだ。
そして犬歯を見せた。
「世界が私に希望をくれるなら、この世界を救ってやろう。だがもし絶望しか見せないなら、私が死ぬときこの世界も終わらせてやる! 愚かで貧弱な人間どもよ、私はお前たちが誰一人救われない世界でも構わないのだ。私一人は救われることが確実なのだからな」
彼女はどこも見ていない。
「次の世界を救えば済むこと……」
最後の無意識の呟きを、左目を赤紫色の星晶睛にした露雩がのぞいて、彼も犬歯を見せた。
石をよけたとき、紫苑の焦点が戻った。そして憎しみが再燃した。
「私ではなく、友を傷つけたことを許さない! 純粋なる罪人どもよ、無知の代償を知れっ!!」
絶対に皆殺しになるとわかって、出雲は霄瀾の竪琴を待たずに、紫苑を後ろから羽交い絞めにした。
「やめろ! オレは何ともない! お前の気持ちを少しでも理解できるなら、オレは平気だ!!」
「ボクも、ひとごとじゃなくなって、うれしいよ! だって、友だちじゃないか!!」
霄瀾のその言葉に、剣姫が目をみはって振り向いた。
石は降り続いていた。
石が当たって血が出ても、子供は紫苑から目をそらさなかった。
紫苑の方から、苦悶の目をそらした。
「……いいだろう。最後に機会をやろう」
少女の紅い双の瞳が、人々を射捉えた。人々は壁に刺されたように立ちすくんだ。
「私の殺意を止めてみろ! もし止められる世界なら、私はすべての悪を知りながら、いつか『人の憎む悪』を倒せるこの世界を許そう! 私は戦いたいんだ、自分の運命と! そして、自分と関わった人たちのために! さあ、人間どもよ、私の殺意をどう止める! 誰か、誰か私に世界を信じさせてくれー!!」
魂を引き絞る叫びを剣姫は天に突き立てた。
「たとえ果てようと、運命を変えるというのかァーッ!」
露雩の怒りが炎の柱のように立ち昇り、天を焦がした。
剣姫は自分を賭けてまで世界を試していた。
どの結末になっても必ず自分が滅ぶのに。
剣姫は、露雩に刀を持つ拳を、握り包まれていた。
「愛で世界を試すのかい……! なぜ自分を犠牲にするの!」
「運命に穿たれた者はその力を世界に是か非か問わなければならない」
「どちらになっても滅ぶ結論を出すな!」
「私は……たいのだ、露雩」
その隠された言葉に口の動きで気づき、露雩は紫苑の肩を揺すって、無理矢理目を合わせた。
「君一人ではその運命しか手に入らないかもしれないけど、他人が関われば運命に選択肢が生まれるはず! オレはその生じた道を信じる! 手を取って、君を絶対に連れて行くよ!」
「露雩……!」
剣姫の焦点が露雩に合った。
「(どうして、あなたはこんなにも私のことを気にかけてくれるのだろう。望めばどんな美女も手に入れて、こんな人から石を投げつけられるような忌み嫌われる女などにかまわず、楽しく暮らせるだろうに。美女など石を投げれば当たるほど、そこらへんにたくさんいるというのに。これは私への同情や憐れみなのか? この男の考えていることは、私をいずれ虚しくさせるものなのか、それとも――)」
露雩は、紫苑とは対応の温度差がある剣姫の視線を受けながら、考えていた。
「(昨晩から急に、ずっとこの人のことばかりが頭の中を占めている。この興味はなんだろう。この人を助けたいという気持ち以上に、もっと知りたい、もっとその優しさに触れたいと思うのは……これが……『好き』……ということなのだろうか?)」
僧侶が来て、容真寝の願いを知り、警備兵に説明した。
「次にこの両親から生まれてくるはずだった子の願いも同じですよ」
と言われ、警備兵は傷だらけの容真寝の体を観察し、深いため息をつくと、紫苑たちの囲みを解いた。どちらにせよ両親は虐待殺人で死刑だったし、僧侶が最高位の「雲海」の称号を持っていたからである。
「私が彼らに、死者の無念を救う手伝いを依頼したということにしましょう」
と、笠をかぶった僧侶がにこやかに話をまとめたのであった。
人々が去ると同時に、僧侶も消えていた。
しかし、紫苑たちは気づいていた。
僧侶は河樹だと。
「『雲海』の称号を持つにいたりながら、神に反旗を翻すとは……何があったの……?」
「野郎、オレたちのすぐそばまで、おちょくるように近づきやがって! 何が言いてえんだ!?」
「なんでボクたちをたすけたの?」
「(……剣姫を死なせないため……か……!?)」
露雩は自分の拳を我知らずきつく握りしめた。
河樹は跳移陣で後炉試町に面する玉呼山に出てから、町を見下ろした。
「私が封印するまで、神の戦士でいてもらわなければ困ります」
結晶睛が冷ややかに、複雑な光の反射を見せた。
「私の役に立たないまま死なれるのは、もっと我慢がなりませんね!」
人間に絶望したときの記憶がよみがえってきて、河樹は町から顔を素早くそむけた。
「愚かな女だ。いっそ思い切ればこちらに来られるものを」
結晶睛が光を乱反射した。
「だが……お前のおかげであの方に会える……、きっと会えるのだ……!」
河樹の絶望の中に、たった一つだけあるその希望。それだけを頼りに、今日まで己を投げ出さずに来られたのだ。
この希望のためだけに、河樹の力はあるのだ。
強大な力を持つ者は、その存在を世界に是か非か問う時が来る。
「私の正義が、もうすぐ勝つのだ……!!」
河樹は足早に山を登り、木立の影に見えなくなった。




