刻め神紋第一章「避けられない二人」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主で、「水気」を司る玄武神に認められし者・露雩。
紫苑を封印して自らの野望をかなえようとする、結晶睛という瞳の力によって術の能力に傑出した僧侶・河樹。
魔族の誕生した理由がわかります。また、主人公・紫苑たちは、それに対して答えを求め続けます。
第一章 避けられない二人
出逢わなければよかった。
早足で急ぎながら、赤い髪の美少女、赤ノ宮紫苑は思った。
藍色の髪をした少年・式神の出雲と、楽器の三種の神器の一つである竪琴・水鏡の調べの使い手である霄瀾が、遅れじと後ろについてくる。
そのさらに後ろに――、紫苑にため息をつかせる、美貌の青年・露雩が、黙ってついてきていた。
紫苑が露雩を拒んだことは、本来なら顔を合わせるのも気まずくなるはずのところだが、今はそれどころではなかった。
タツノオトシゴの魔物に捕われていた人々は花初国の商人で、毛土利国へ商売に出ていた。来場村で毛土利国王・利周が死亡したのを、毛土利国の将軍は花初国の仕業と断定し、報復に戦争を仕掛けるつもりなのだと聞いていたのだ。
その認識は、花初国が軍隊を編成していたのが原因らしい。しかしこの軍隊は歩毬が谷隠町を救うために要請したもので、毛土利国を害するものではない。
事情を知っている者は、行動しなければならない。紫苑たちは、花初国王に魔族の仕業の可能性をちらつかせ、毛土利国を説得してもらおうと考えたのである。河樹のことを言えば、剣姫のことも言わざるを得なくなる。権力の象徴と目される剣姫の正体を無闇に明かすのは避けたい。
よって、紫苑たちは歩毬の報告で謁見し、その「ついでに」河樹の特徴を少し加えたあいまいな形で魔族の話をして、花初国王に毛土利国のことをうまく切り抜けてもらうつもりなのだ。もちろん、裏で帝に真実を奏上し、両国の仲裁に入っていただくつもりでもある。
花初国の王都、治方に着いた。
「早く国王にお目通り願いましょう。華椿の筆がまた役に立つかも」
「紫苑!」
露雩が鋭く話しかけた。人からどんなに忌避されても、その人々を守るために、今戦争を真っ先に止めようとしているのだ。剣姫が知れれば自ら狙われる身になるというのに。
あなたのような優しい人を、オレは守りたい――。露雩が口を開くより早く、紫苑は低く素早く、切るように返した。
「この世界のどこにも安住の地などない。私は倒れるまで走り続ける、それだけだ!」
振り返らない彼女が見せる赤い髪が、風で広がった。
「私のことを思うなら、止めてくれるな! 正義がなければ、誰がどうして、何のために生きられようか!」
完結している、と露雩は思った。これまで紫苑には、関わってくる他人がいなかった。だから、彼女は自分一人ですべてを決めるしかなかった。紫苑が他人の介入を許さないのも、彼女が他人と出会う前、独りでいたときに、独りで向かい風に立ち向かう方法を完成させたからなのだろう。
赤ノ宮紫苑というこの女の子を救う言葉とは、行動とは、一体何なのだろう。露雩が少女の隣を歩こうとしたとき、
「あっ! 赤い髪の双剣士だぞ! あいつじゃないのか?」
「あの女か? あんたらの言ってた殺戮者は!」
「そうだ! 人間の命を、ゴミを捨てるみたいに片付けていったんだ! あいつはオレたちを殺そうとした魔物と変わらない! 早く警備兵を呼ぼう! でないと殺される!」
この声には聞き覚えがあった。タツノオトシゴの魔物に言われて、自分の娘を体で覆っていた父親である。
紫苑たちは、タツノオトシゴの魔物に捕まっていた人々が、商人の抜け道を使って紫苑たちより先に王都に着き、王都の門を入ってすぐの広場で、人々に介抱されているところを通り過ぎたのだ。
かなりの人が集まっていて、動きを止めて紫苑の顔を覚えようと食い入るように見ている。
「やばい! 目ェ合わせるな!!」
紫苑の視線に気がつくと、皆は一斉に目をそらした。
「助けても、これか!」
紫苑は、裏切り者たちに呪詛を吐きだし始めた。
「目に映される価値もない人間が、ほざきおるわ。お前らは私より美しくない。お前らは私より弱い虫けらだ。それでも一人前に他人を批判するのだから、呆れたものだ。何か発言していいのは『大人』かすべてを得た者だけだ。足りないものだらけのお前たちに発言権はない」
え? と出雲は思った。普段なら弱者に等しい卑しさになる、『言い返す』ことをせずに黙っている紫苑が、珍しく怒りを口に出したので、違和感を覚えたのだ。今の紫苑は、いつもと違う。
「おい……」
どう声をかけていいのかわからなくて、出雲が紫苑の肩にそっと触れると、人々の目に触れない角度に顔をそむけて、紫苑が目をぐっとつぶって笑った。
「でも、式神は私と共にいてくれるだろう?」
その笑顔は、全然嬉しそうではなくて、苦しまぎれで無理があった。
痛みを精一杯隠して、笑いたくもないのに笑ってる。
「主人は誰も欲しくないのです」
オレにまで気を遣わないで、と出雲は真顔で紫苑の手をつかみ、人々から離れようと大股で歩いた。
「霄瀾。おいで」
「うん」
いつのまにか、霄瀾を抱えあげた露雩が、早足で出雲と反対側の紫苑の隣へ来た。その長身で、人々の視線をふさぎ、紫苑の姿を隠したのだ。
「……」
心の揺れが目の揺らぎに表れるのに気づかずに、紫苑は露雩を無言で見上げた。いつのまにか、手がつながれていた。
「オレ、譲らないから」
彼はまっすぐ前を見たままだったのに、その言葉が紫苑の心の中へ、透き通った水晶に光が差しこむようにまっすぐ飛びこんできた。
「(だめよ、そしたら今度はあなたが顔を覚えられてしまうのよ。私一人なら耐えられる。だけど、私以外の他人に私と同じ思いをさせたくないの! 私と関わったせいで、私と同じ苦しみを味わうなんて、だめ!!)」
意を決して、唇をわなわなと震わせながら、紫苑が露雩に想いを伝えようとしたとき。
「死ね!! この殺人鬼!!」
「王都から出て行け!! 誰が入っていいと言った!!」
一行の後ろから、追いすがる声と足音がした。王都の者たちが、手に手に棒切れや看板、包丁など、近くにあった物を凶器にして、紫苑を睨んでいた。
「ここはお前みたいな奴がいていい場所じゃねえ!! とっとと失せろ、この罪人が!!」
「お前なんかにやる食事も宿もねえんだよ!! おい、みんなで叩き出すぞ!! 一度でもこの王都で、人様と一緒に飲み食いできるなんて、思わせないように!!」
「ほんとに、オレたちと金のやり取りでも話す資格があると思ってやがるんだから、腹が立つぜ!!」
紫苑を人間以下に罵る人々に、出雲はカッと頬を紅潮させた。
いくらなんでもひどい。ひどすぎる。お前たちこそ、そんなことを言う資格があるのか!
「お前ら……!!」
殴るために離そうとした紫苑の手が、出雲を行かせなかった。
「おい、だって……!!」
また人間をかばうのか、とやり切れない目を主人に向けたとき、式神は絶句した。
人間を守るためではなかった。
怒りに拳が固まっただけだったのである。
殺すべき者しか殺してこなかった少女は、赤い髪と紅の瞳が燃え上がっていた。
「もうどうなってもいい……、知るか!」
サンストーン色の唇は呟いた。「彼」に徹底的に見せつけてやろうと思った。「彼」がいなかったら、今少女が無表情を貫かず、反撃に出ることもなかったであろうに。
「剣姫」は二つの手を放って振り返った。
「ふざけんじゃねえ愚民めらが!! 私の方がお前らより何倍も生きてる価値があるんだ!! お前らこそ死ね!!」
双剣を抜いた衝撃波で、数人が背中から倒れた。
「私はなあ、お前らみたいなクズしか斬らねえんだよ!!」
クズだから紫苑を敵とみなし、数を頼みに口撃(こうげき・意味『言葉で攻撃すること』)してくるのだ。
ついに言い返してしまった。もう引き返せないとわかっていながら、心を殺されもう許さない剣姫は、一撃を放った。
「ヒイイッ!!」
人々が武器を握って目をつぶったとき、姫の刀から人々を守った者があった。
「きぃーさぁーまぁー……」
紫苑の憎しみに燃える紅の瞳が、潤い澄んだ深い陰で真正面から受け止める露雩の瞳とぶつかった。
「許さん許さん許さん許さんんー!!」
しかし露雩は少女の呪詛を全て浴びてもどかなかった。
「やめるんだ、人に大切なのは絆と信頼なんだぞ! オレは、君にそれを失ってほしくない!!」
紫苑は憎しみを吐き出した。
「誰からも拒絶されたことがないであろう人間が、私に意見するな!!」
「拒絶されなかったかどうかの記憶は、ないよ! むしろ何もない! それはつまり、今オレは誰からも顧みられないということだ! 誰からも絆を無視される気持ち、君にはわかるだろう!」
紫苑には父・殻典がいた。
露雩は他者から無視され、紫苑は批判される。
一見真逆、だがこの二人は同じなのだ。他者の誰にも頼らせてもらえないという点で。
それがわかって、紫苑は語気を弱めた。
「……そのうちお前を好く奴が出てくる。その美貌だ、困るまい」
「美しさが何の役にも立たないと教えたのは君だろう! 美しさだけでは、これから先、オレに何の打算も下心もなく笑ってくれる者は、いないんだ!」
美しさが何の役にも立たない、彼はどこまでも紫苑と同じなのだ。
「ではお前はこれからどうするのだ!」
少女は答えを求めて、不安を虚勢で隠した。
「これから絆を作る! 自分の力で! 他人から言われれば嘘と疑いの念が起こる、だから自分から人に向かう! 待ちはしない!」
青年の淀みない答えに、少女は、己が拒絶されるのを恐れて人を避けるか憎むかしかしなかったことを思い起こした。ああ、心を開いて裏切られたらどうする。この恐れを自分勝手と言えようか。
「お前は知らないのだ……。人間がどれほど他人を傷つけることができるのか!!」
再び怒りがぶり返し、剣姫は二撃、三撃を放った。
露雩が止めるたび、剣の衝撃波が人々を転がした。
紫苑は、地上を吹く風を表す剣舞をしても、それを露雩の柔らかい半円状に振る剣舞で、風に押されるさざ波のような最小限の力になって押し返されたので、躍起になって続けざまに剣舞を放った。しかし、そのどれもがやはり、露雩の同心半円(どうしんはんえん・意味『同心円でなく半円が二つ以上あること』)に広がる波のような柔らかい剣舞で、弱らせられていった。
「だめだ。剣舞で相手の気を散らせない」
紫苑は、露雩と彼の言葉に燃ゆる遙のような陰気がないことを、二度の戦いではっきり悟った。
「剣舞は効かない。荒打であろうとも、撃剣のみで倒す!」
それでも自分を守るために、紫苑は闘志を白き炎に換えて走りだした。
露雩からは四神・玄武のものと思われる黒い闘気が出ている。
白と黒が激突したとき、あたりに火花の流れ星が散った。
「おのれ! 善でありながら闇の気をまとうとは、許せん!!」
「紫苑……!!」
このままでは本当に悪に身を委ねてしまうと思い、紫苑の刀を折るような力の込め方をしようとしたとき、露雩の頭の中に、突然声がわんっと響いた。
『殺せ!』
「えっ!?」
一瞬、誰が誰に言ったのか、わからなかった。
紫苑をか、と心臓の止まる思いをしたが、どうも紫苑に「人間を殺せ」と命令しているようだ。
『生かせ!』
そのとたん、別の思念が生じた。露雩に「紫苑から人間を守り、生かせ」と言っているようだ。
露雩はすぐに、自分の中にある二つの人格、「星晶睛」の二人だと気づいた。
そう認識したのは束の間だった。あっというまに膨大な量の思念が流れこんできて、露雩の思考回路は洪水の中で息継ぎもままならないほど許容量を奪われた。
『殺せ!』
『生かせ!』
『殺せ!』
『生かせ!』
紫苑が動きの止まった露雩の隙をついて人々に刀を振り上げるのに対して、二つの声が命令した。
『やめろ! 人間を守るのだ!』
『待て! 悪人を殺すのだ!』
露雩の思考は正反対の二つの思考がせめぎあうために、押しつぶされそうになった。意識が臨界点まで達しそうになったとき、刀を振り下ろす直前の、紫苑の絶望の炎に満ちた紅い瞳が光点となって、何も見る余裕のない露雩の目の前をよぎった。
「……うるさい……」
なおも反対しあう二つの思考の中に、澄んだ光が一点、ともった。
「うるさいだまれ!!」
二つの思考は一瞬、静まった。
間髪を容れず、露雩は渾身の力をこめて叫んだ。
「オレはあの子を、守りたいんだあー!!」
自分の揺るがない想いの点の光が、二つの思考を押しひしいでいった。
彼の意思が思考のすべてに澄み渡ったとき、二つの思考は消え失せていた。彼は神剣・玄武を構えて彼女の剣を受け止めた。
「自分がある限り、星晶睛には負けない!」
その証の一つである神剣・玄武で、露雩は紫苑の腕を払った。傷つけて、剣を振らせない計算である。
「! 斬れてない!?」
飛びのいた紫苑も、玄武の刃先を見た露雩も、目を見開いた。
神剣・玄武から、四神の一柱・玄武神が語りかけてきた。
『我が司るは「死」。死を恐れぬ者は、斬ることができぬ』
「そんな……!」
自分では彼女の助けにならないのか、と露雩が刀の重みに任せて刀の先を地面に刺したとき、玄武神が何事か囁いた。
「私も神剣・玄武の使い手に、なれそうだな!」
紫苑の発言で、自分だけが玄武の「特別」でないと知り、露雩は初めて無防備な頭に硬い石をぶつけられたような怒りを感じた。
これは嫉妬であった。
「神流剣!!」
露雩は強烈な玄武の水流を起こすと、蛇のように紫苑の体に巻きつかせた。
そして、水の蛇は紫苑の口の中へ逆巻きながら入っていった。
「んっ! んぐっ!」
息のできない紫苑が暴れるのに構わず、蛇は体の血液中にしみ渡っていく。紫苑の白き炎は、強制的に鎮められていった。
「ゴホッ! ゴホッ、ガフッ!」
殺気の削がれた紫苑が、地面に向かって水を吐いた。
「ず、ずるいぞ……! こんな勝ち方、反則だ!」
自分が負けたことを真っ赤になって怒る紫苑を見て、
「これで許してあげる」
と言って露雩は、白き炎を収めることを助言してくれた玄武神の、神剣をしまった。
「はあ? 許すって、ちょっと! 私死にそうだったんだけど!」
「皆さん、この通りオレがいますから、彼女は大丈夫です。でも魔物がいると恐くなりますから、皆さんも魔物のような態度をどうかとらないで下さい」
露雩ににこにこと話しかけられて、人々はようやく全員が立ち上がり、武器を下ろした。
「ちっ、わかったよ。でもあんたと一緒じゃなかったら追い出すぞこの女」
「人間を二度と殺さないよう首に縄つけてろ!」
そして早々に、逃げるように立ち去った。紫苑の剣圧に恐れをなしたのである。
「……だってさ。首輪は何色がいい?」
「こらっ!」
「ははは」
拒む前と変わらない笑顔を、紫苑はまじまじと眺めた。剣の舞姫と臆せず渡りあうこの青年に、剣姫としての心が注視しつつあった。
露雩は、自分を傷つけてまで世界の正しいもののために戦う紫苑を、
「ずっと、放っとかないから」
そう言って、柔らかな日差しのような眼差をして、唇に穏やかな笑みを起こした。
出雲は、胸の中に体を悪くする液体が広がり、体内のそこかしこに充満していくような気がした。
もし、本当に露雩が紫苑を変えてしまったら。
オレは、取り残されてしまう。
露雩と同等に見てもらうにはどうすればよいか。
少なくとも、「青龍神」に認められることである――。
自分に星晶睛はない、力も紫苑には及ばない。
でも、オレはずっとあいつを支え続ける。
オレは式神、あいつの死ぬ時同時に死んでやれる、たった一人の特別な存在。
変わるのか、とどまるのか。決まるのは、彼女のその選択によってであった。
霄瀾が、紫苑から目を離さずに、無意識のうちに出雲の袴の裾をつかんだ。
城へ向かう前に、紫苑は塩屋に寄った。蓮の花のように花びらを幾重にも広げた、「塩の花」と呼ばれる、塩でできた拳大のものを数個、買った。岩塩が長い間風雨に耐えていると、「耐えやすい形」に削れていく。それが、この地方の風雨では、蓮の花の形になるのだ。
調味料の補充かと皆が思ったが、紫苑は、
「今のままでは穢れで城の僧たちに拒まれて入れないだろうから、水垢離をしてくるわ」
と言い残し、川へ降りていった。
「……ありがとな」
不意に出雲がぼそっと声を地面に落とした。
「あいつを助けてくれた。ありがとう」
振り返る露雩と、目を合わせた。
「(こいつは本当に剣姫を止めてしまうかもしれないのだ)」
届かない自分の力に絶望とめまいを覚えながら、出雲はそれでも露雩の存在に感謝した。彼女の傷つく回数が、減ったからだ。
「これからもずっと、あの子を守るよ」
露雩のその一言が出雲の胸を刺し貫いた。「ずっと」。それはつまり、こいつは――。
紫苑が剣姫の力を失えば、興味を無くすのか、どうか。彼のその歯車が動きだした理由はわからないが、出雲はまた胸の中に体を悪くする不快な液体がしみわたるような感覚を持った。
「どこへ行くんだ出雲」
「……ちょっと開けた場所で風に吹かれてくる」
深呼吸したいがために、出雲は緑の切れ間へ向かった。霄瀾も後をついていく。
紫苑の張りのある体が露になっていた。
大きく盛り上がる胸、お尻、そしてくびれた美しい腰の線、水晶が透き通るかのような明るい白さを持つ肌。
女が見てもみとれるであろうその恵まれた裸体に、紫苑は遠慮なく塩の花をこすりつけていた。大きめの塩粒が硬く、少し痛い。
しかし、紫苑は、舞う代わりに血の穢れを浄化する清めの塩をこするのを、やめなかった。塩の花の花びらを一枚一枚はがしては、強い力でなすりつけていった。肌が赤くなり、血がにじみ、塩が劇薬のように苦痛を与えても、やめなかった。そのうち塩の花が肌の上に層となり、蓮の花びらを咲かせたように盛り上がった。
紫苑はなおも新しい塩の花を取り出し、花びらを割った。その両手を上から両手で包みつかまれた。
「もうやめるんだ」
「――露雩!」
露雩が、ところどころ血のにじむ紫苑の、塩の花びらに包まれた裸を痛々しそうに見回すと、玄武の神水で塩を洗い流した。紫苑の傷も、癒されていた。
「罰しているんだね」
露雩に濡れた前髪を梳かれて、紫苑は羞恥を忘れて、横顔を伏せている。
「せっかくきれいな体なんだから、傷つけないで」
「……清めには必要なことよ」
目を合わせないように、紫苑が小さく口を動かした。
「じゃあ、いつもオレが同席するよ。で、玄武の神水できれいにしてあげる」
「……気が散るからそれは」
「だって、君、加減を知らないから。放っとくと何かのために命まで差し出しそうだから」
「……! それはあなたの方で……」
思わず顔を向け拳を宙に振った紫苑に、温かい感触が伝わってきた。
露雩が素肌の紫苑を優しく包んでいた。
「君が自分を大切にしないなら、オレが大切にしちゃうよ」
「な、な、な……!」
「きれいな体だね紫苑。もっと見てていい?」
一瞬で、紫苑は体中が真っ赤になるのがわかった。触れあっていた体を離して無邪気ににこにことしっかりこちらの体を眺めている露雩を見て、
「あわ、あわ、あわ、……」
と、無意味な言葉を息とともに押し出すことしかできない。
「ほ、本日は閉店しましたあー!!」
服と剣だけかっさらうと、紫苑は後ろも振り返らず川の中へ飛びこみ、濡れるのも構わず服を水中で着た。
露雩は「出雲が移動したよ」と伝えに来ただけで、まさか紫苑が裸でいるとは思わなかったらしい。
「衣の上から塩水浴びるのかと思ったよ」
川から上がってきた紫苑に、笑顔を見せた。
「あっそう」
ずぶ濡れになってもまだ顔の火照りがおさまらない紫苑は、それを見せないようにわざとあっさり言って、目をそらした。
しかし、紫苑はこんなに剝き出しの好意を受けたことがない。剣姫の心もきっと、こんな人がいるなら、もう少し生きてみようかなと思うはずだ。密かに自信のある体に起きたことを思い出して、紫苑は赤面した。今日からもう少し、傷がつかないように注意してみようかな。
「次の水垢離のときは絶対呼んでね」
帰り道、露雩が紫苑の手を引いた。
「剣を持たない無防備な姿をさらせません!」
「オレが守ってあげるから」
「私の体ばっかり見てて、どうやって敵に気づくの?」
「それもそうだ。ははは」
「否定しないのね!?」
ずぶ濡れで正直少し寒いけれど、露雩が握ってくれている手からは、温かい体温が流れこんできた。
「(全然気まずいとか思わないところ、天真爛漫っていうのかなあ……)」
不思議なものを見る目でいる紫苑の視線を知ることなしに、露雩は露雩で、彼もまた自分の手の中のぬくもりに神経を集中していた。
温かくて、柔らかくて、そして、なんてもろそうなのだろう。
他人と自分との間には隔てがあって、他人はみんな滝の流れで覆われていて、一生触れあうことはないと思ったのに。
この人のことをなんでも知りたい――。相手の体の水滴で濡れていく服を体温で温め返しながら、露雩は一歩一歩を踏みしめた。
「さて、城へ行きましょう。用事をさっさと済ませて、旅を急ぎたいし」
往来の人々がみんな、自分に後ろ指を指そうと見ているようで、紫苑はわざと目を合わさず、憎い人々の顔を覚えないように、無視して普通にふるまった。
その行動が仲間の三人には謎だった。ともあれ、何の目的もない場所に長居は無用である。人々の気が変わって再び攻撃してくる前に、四人が王に直接目通りがかなうであろう物、華椿の筆を確かめたとき、
「ちょっと、あんた……!」
紫苑を強く、そして消え入るほど弱く呼び止める女の声があった。
振り返った先に、頭に両手持ちの鍋をかぶり、前掛けをし、おたまを三個抱えて戦闘態勢をとっている、目と頬にしわとしみの集中した女がぶるぶる震えながら立っていた。
紫苑をここから追い出しに来たのか、と出雲がさっと顔色を変えると、女は精一杯声を張り上げた。
「めっぽう強いってのは、ほんとかい!?」
霄瀾が紫苑を見上げた。話が見えなかったのである。それは、紫苑たちも同じことだった。
「お金を払うから、頼みをきいてくれないかい!?」
震えを必死に隠すため、声が大きく上ずっている。出雲がゆっくり歩み寄った。
「話を聞いてからだ。あんたが安全と思える所へ案内してくれ」
女はそれを聞くと震えるのをやめ、
「こ……こっちだよ」
と、路地へ入っていった。何も話さないままでいる沈黙が恐いのか、途中何度も後ろを振り返って、襲われないか確認していた。
やがて、王都のはずれの一角にある畑が見えてきた。
収穫物を仕分けする場所である大きな納屋の引き戸を、女が開けた。
中にあったのは収穫物の山ではなく、人が五十人ばかり、思い思いの所に座っている図だった。生気を失った目で、ぼんやりと宙を見つめている。
「みんな、今帰ったよ」
農具を立てかけてある壁から、それを揺らしていち早く駆けてきた男があった。
「力代! どうだった!」
力代と呼ばれた女は、紫苑たちに手招きした。
一行が入ると、納屋のあちこちから混乱と身構える音がした。
「こちらから呼び出しておいてすまないね。私は頼介。力代の夫だ」
畑仕事をしていたらしい土だらけの顔を見せながら、頼介がわびた。
「みんな、来とくれ! これから、この人たちにあたしらのことを説明するんだ!」
力代に言われて、人々がのそのそと集まってきた。
ほぼ一人でまくしたてていた力代によると、この王都で最近人さらいが多発しているらしい。狙われたのは、全員若い女。三人、五人と行方不明者が増えていくにつれ、人々の間から役人と国に対する不満が広がっていった。
ついに不明者が十人に達したとき、事件を捜査していた責任者の役人が、取るに足りない理由で引責の自尽をさせられた。人々はいつまでも犯人を捕まえられないからだと同情しなかったが、後任の役人が「事件は神隠しによるもの」と断定し、その後ろくに捜査しなくなったので、さすがの民衆も怪しいと感づいた。
前任者は事件の真相に近づいて自尽させられたのではないか。周りの役人に聞いても、何もしゃべらず、らちがあかない。その間にも行方不明者は増え続け、全員で二十人を超えた。
「ここに集まってるのはみんな、娘が消えた人か、年頃の娘を持つ親たちだよ。こんな国で暮らすのが、心配で心配でたまらないんだ」
力代に言われて、何人かは紫苑たちに会釈した。
「この行方不明には国の偉い人間が関わってるに違いないんだ。でもあたしらが詰め寄ったって、誰も本当のことを教えてくれるわけがない。だから、あんたに頼みたいんだ。その刀で脅して、娘たちがどこにいて、どうなって、犯人は誰なのか、聞き出してほしいんだよ」
強い人間に助けてもらおう、ということか。紫苑のことをさんざんけなしたくせに、虫のいいことだ――と出雲が思ったとき、当の紫苑が口を開いた。
「もし犯人がわかったら、私に斬ってほしいのか」
「斬ってくれたら、なんでも言うことを聞くよ」
子を想う親の目が赤みを帯びてうるんでいるのを見て、紫苑は直視できなくなった。
「……わかった。できるところまででよければ、私が力になろう」
「ほんとかい!?」
「紫苑……」
騒ぐ人々をよそに、仲間の三人は言葉が出なかった。
「大丈夫よ。戦争を回避するついでにちょっと脅すだけだもの。そのまま花初王に処罰させればめでたし、めでたし」
剣姫になるような事情がないのなら、己の嫌いな、力で安易に強盗のように解決する道を、紫苑が望むはずがない。
「私は強いから、そんなことないけど」
三人の思考を遮るように紫苑が続けた。
「女性って、本当に非力で、危ないことがいっぱいあって、武器なしには生きていけないの。そんな非力な女性を狙うなんて卑怯だわ。女の子を持つ親も、ものすごく心配するの。だから、私は弱い女性の味方なの。一歩違えば自分もその中に入ってたから。同じ女として、そして幸運にも力を持った者として、私は女性を守りたい」
三人はそれに説得されて、黙って従うことにした。
「……で、なんでこうなるんだ!?」
夜の闇がすっかり王都を覆った頃、人通りの全くない道で、出雲は右横から垂れ下がった一つしばりの髪をつかんで、身悶えした。
青い地に桔梗の模様のついた女物の着物、そして黄色い帯。どこからどう見ても少女の姿である。
「なんでオレだけ女装すんだよ! 露雩もやれよ!」
わざと敵に捕まって、敵の本拠地まで行くと言う紫苑が心配で、出雲はすぐに一緒にいると言い出した。女装は自然な流れ(?)だった。
「しょうがないでしょ、霄瀾のそばに誰かいないと。それにいざってとき陰陽師が一番頼りにするのは、式神なのよ」
「え?」
「あんたの偽物の胸、よくできてるわね。触らせてくれない?」
「きゃああ! おさわりは、ダメェ~!」
出雲のかわいらしい悲鳴に、紫苑は心底楽しそうに笑った。
「似合ってるわよ、イズ子ちゃん」
「勝手に名前変えるな! かんざしを挿すなあ!」
紫苑が面白がって出雲のかつらに飾り玉のついたかんざしを挿すのを止めながら、出雲はもう一度主の作戦を思い出した。
犯人の「偉い人」とは誰なのかを探るため、紫苑と出雲が囮になる。露雩と霄瀾は二人が危なくなったら助けに入る。
毛土利軍のことを伝える前にこれをするのには、理由がある。
「城中に犯人がいたとして、城主も知りながら放置していた場合、助ける必要はないでしょう? そんな人たち」
紫苑は当然という顔をして言った。
「毛土利軍には一般人を傷つけさせない。まっすぐ城内へ突入させて、城の中だけで殺しあわせればいい。私の腕なら、それができる」
事もなげに決められたのは、城内の末端に近い役人まで腐っていたからだろう。
そんな記憶をたどっていくうち、出雲と紫苑は大通りに出た。
すると突然、黒装束の覆面男が十人ばかり現れ、紫苑と出雲の口をふさぎ猿ぐつわをかませると、慣れた手つきで手を縛り、用意していた引き戸のついた立派なかごに放りこみ、全速力で駆けだした。
「紫苑が!」
「霄瀾、オレに捕まって!」
露雩が霄瀾を左手で肩に抱えあげると、一散に駆けた。
ときどき振り返る覆面たちが入っていったのは、花初王の城の裏門であった。五層に屋根の広がった、夜陰に白く浮かびあがる大きな城である。
霄瀾が城内を毛土利軍に破壊される予感を抱いていると、十人の囲むかごは本丸のある中央の城ではなく、それに隠れるようにして独立して建っていた、こちらから見て左の小城へ向かった。そちらは三層の、それでも下は石垣の組まれた、二百坪はある立派な別城である。
十人とかごは、その小城の裏戸から出てきた門番に促され、中へ吸いこまれていった。そして戸は閉じられた。
「どうしよう露雩、入っちゃったよ!」
「大丈夫」
露雩は焦る霄瀾を降ろして、なんのためらいもなく裏戸へ近づいた。そして霄瀾が驚く間もなく、戸を叩いた。
「何者だ」
戸ののぞき穴にあたる、目のあたりしか開かない格子窓から、さきほどの門番が静かに、しかし威圧するように返事をした。
「この子供が女たちをさらうのを見てしまった。上にお伺いを立てたい」
露雩は素早く霄瀾を抱え上げた。霄瀾は目を丸くしている。睨みつけるような門番と目が合ったせいもあるだろう。
「……もしかしたら加えられるかもしれんな。しかしお前は何者だ? 知らない顔だが」
「秘密に編成された部隊の者でございます。私のことはあとで。今はこの子供をどうにかしませんと」
「よし、とにかく中へ入れ」
門番が裏戸を開けたとたん、露雩は門番のみぞおちに拳を入れ、気絶させたうえで口と手足を縛りあげ、上にござをかけて隠して転がした。
門番は一人しかいないようだ。
「後ろめたいことは最小限の人数で行うということか。行くぞ、霄瀾。紫苑は今猿ぐつわをかまされて、出雲の式神封印解除ができない」
「うん!」
二人は足音に気をつけながら、広い城内を走りだした。
自分で提案しておきながら、これは失策だったと紫苑は思った。猿ぐつわで、声が出せない。例によって、自分の双剣と出雲の神剣・青龍は露雩に預けてある。式神出雲の炎か、自分の剣姫の白き炎しか、頼れないのだ。
「(力を過信したかな)」
紫苑がそう思いながら出雲と歩かされていると、やがて壁に石垣がめぐらされている、床が土の広場へ下りた。ここは、外から見えた石垣の内部なのだが、かごの中にいた紫苑たちはもちろん知る由もない。
一歩足を踏み入れたとたん、血の匂いがむっと二人の鼻をついた。
出所をよくよくたどると、固まって土煙の立たない土の床のあちこちに、濃いしみができている。土の色かと思っていたが、そうではない。大量の血を吸った跡なのだ。
広場の奥に木でできた格子の檻があり、二人の兵士が番をしていた。中には二人ばかり、少女が手を縛られて眠っている。
紫苑と出雲は猿ぐつわを外され、檻の中に入れられた。
その音で少女らが目を覚ました。
と、突然、そのうちの一方が甲高い声で悲鳴をあげだした。髪はほつれ、ぼさぼさで、瞳孔が開ききっている。
兵士たちは「うるさい」とも何とも言わず、ただにやにやとそれを眺めている。
甲高い声の続く中、紫苑はもう一人の押し黙っているこげ茶色の髪の少女に声をかけた。
「私の名前は地外。もう一人のこの人は……わからない。私が来たときからこう」
地外も、夕方の稽古事の帰りに、いきなり覆面の男たちに誘拐されて、ここに来ていた。
「もうかれこれ十日になるわ」
その間が地獄だった。何人かいた檻の中の少女たちは、三、四日に一回、一人ずつ外へ引きずり出されるのだ。
「するとね、兵士に守られた平卓がやって来るの」
「平卓?」
「この花初国の、王の嫡男の名前よ。わざと戦争で着る鎧なんかつけて、やることは毎回同じ。逃げ回る手を縛られた女を、刀で切り刻むの。女が叫んだ分と、血が流れた分だけ満足するようだったわ。それを見続けてこの人はこうなったって、この間死んだ人が言ってた」
甲高い叫び声が異様に檻の中に響いた。
紫苑ははっきりと知った。娘たちには一つも落ち度がない。倒すべきは人でない思考を持つ平卓と、悲鳴をあげ続けるこの少女を平気で眺めている、取り巻きの兵士たちだと。
『炎式出雲、律呂降臨』
自らは白き炎で縄を燃やしながら、剣姫は力を抑えて、式神出雲がうまく動けるように配慮した。
「たまにはお前がやってみるか? 出雲」
この状況とその意味を理解して、出雲の顔全体に緊張が走ったとき、広場の出入口が開いた。
「来た! あれが平卓よ!」
地外に指摘された男は、鎧だけは立派だが、人を楯にしようとして人の後ろに隠れて歩く癖があるようで、ともすれば周りの屈強な兵士たちに埋もれて当の本人が見えなくなっていた。血のめぐりの悪そうな目の下の青黒いくまの影が、顔のどの部分よりも第一印象を与えて、目立っている。
「新しい女が入ったそうだな」
檻に近づきながら、よく言葉の聞き取れない、かすれた、消え入りそうな声を出した。そして、中空に焦点が浮いて叫び続けている女を見つけると、畜生のような下卑た笑いを起こした。
「ケケケケッ! こいつ、まだ生きてるよ! いつ死ぬか賭けてるんだから、ちゃんと監視しとけよ!」
「ははっ」
「ん? なんだ、新しいのは手を縛ってないじゃないか――」
平卓が檻を指差したのと、紫苑が白き炎の爆発で木の檻を弾き飛ばしたのは同時だった。城全体が揺れ、石垣でなかったら壁の一部が崩れていただろう。
「ギャーッ! ギャーッ! 指が、指がああ!!」
平卓の人差し指が、飛んできた格子に真正面からぶち当たって、つぶされていた。真っ赤な血にまみれているそれが自分のものだと認め難く、平卓は卒倒しそうになった。その頭の髪を、紫苑がつかんだ。
「よう」
「きききさまよくもこの私の指をー!! 死刑だ!! 死刑だー!!」
かすれて全く響かない汚い裏声を出しながら、平卓が刀に手をかけた。
その手は剣姫が蹴り払うと、ありえない方向にひしゃげてまとまった。
「ギャー!!」
両手からの激痛にのたうちまわる平卓の刀を、紫苑が抜き取った。
「さて、と……」
「おのれよくも国王のご長男を!!」
剣姫は向かってくる屈強な兵士たちの中を、一陣の風と共に走り抜けた。兵士たちは、今度は自分の血を土面に吸わせることになった。
「さて、と……」
紫苑が、兵士を見るのと同じ目つきで平卓を見たので、平卓は足だけで後ずさりながらわなわなと震えた。
「待て! 私は今両手が使えないのだぞ! 不公平だと思わないのか! この状態で平気で人が殺せるなんて、人でなしだ!!」
紫苑は鼻で笑って剣を振り上げた。
「お前自身のことがよくわかっているらしい」
「父上! 父上ー!!」
「待て女!!」
紫苑の耳に、男の大きな声が鋭く入った。
「(……やはり花初国王か)」
寸前で手を止めた紫苑は、銀糸の織りこまれた毛皮を羽織った男を見て、面倒そうな顔をした。近衛兵を百名ほど、連れている。
「先程の爆発はなんだ。それと、この空間はなんだ? 私はここを武器や食料の貯蔵所にしろと申しつけたはずだぞ!」
王はそこで、両腕が血まみれの息子と、壊れた檻の中の叫び続ける少女、その他の情報を視界に入れた。紫苑がこれまでの経緯を手短に告げると、きつく両目を閉じた。
「この状況で、言い逃れできると思うな。なぜだ。なぜこのようなことをした!」
平卓は父にすがるように二、三歩、膝で向かった。
「私は悪くありません! 悪いのは私に付いたこの使命です!」
「使命とな? なんだ」
「私は生まれついての世継ぎ、ゆくゆくは王になる身でございます。それが私には重荷だったのでございます! 自信がなかったのです、民に嫌われるのが恐かったのです、何かにすがらなければ、心の平衡を保てなかったのです! それが他人に自分のことを全思考で考えてもらうという道に行き着かせたのです! 女たちは死ぬとき、生死を決める私だけのことを考えるでしょう! 私はこんなにも民に思ってもらえたと満足できるでしょう!? だから斬りました! 『いい王になる』という重圧をはねのけ、自分を保つために、他人の思考のすべてを占めたかったのです!」
なんて身勝手なんだ。出雲は怒りに血が沸騰した。
「それを、自分の力でどうにかできる女で、しかも若い者を選んで!!」
「どうせ思ってもらうなら、若い女の子の方がいい!」
「この野郎ー!!」
出雲の体が炎をまとったとき、花初王がゆっくりと進み出た。
その手がゆっくりと刀を鞘から抜いた。
平卓が恐怖にひきつった目で、すべる肘と足をその場で後ろへ必死に動かした。
「ヒッ! ち、父上! 我が子を斬るおつもりですか!」
「子の不始末は親の責……。覚悟はよいな平卓!!」
花初王が刀を両手に持った。平卓は痛みも忘れて、つぶれてひしゃげた両手を押し出した。
「お待ちください! 私はただ父上の期待に応えようと文武に励み、このような形ではけ口を探してしまっただけでございます! すべては父上のためだったのでございます! あなたの嫡男、花初国の世継ぎを、殺してもいいのですか!!」
できまい、嫡男は最も多くの儀式や学問を学ぶのだ、今さら修めるべき事柄を修め終えた、一人前に育った世継ぎを、殺せるはずがない。恥をしのんで人前で大泣きしよう。泣いて頼めば、父上も臣下の手前、抜いた刀を引っこめる理由にもなろうというものだ。さあ、勝負どころだ平卓、泣き落としで助かるぞ!
平卓がこう計算して、両手の痛みを使って泣く準備を始めたとき、花初王はゆっくりと口を開いた。
「平卓よ」
「はい!」
こちらが泣く前に父の気が変わったのかと、平卓が嬉々として返事をしたとき。
「民を生かしてこその城主だ。それを根底から覆すお前に、誰が国を任せられようか」
「……!!」
血が散った。
血のついた刀を握りながら、花初王は静かに泣いた。一言も漏らさぬ、音一つない涙だった。
そして、叫び続ける少女を含めた紫苑たちに一礼すると、その刀で腹を割ろうとした。
「あっ!!」
その場の全員が息を呑んだとき、出入口から素早く入りこんだ影が、花初王の手をつかんで刀を止めていた。
「十二支式神『申』(猿)!」
河樹かと一瞬緊張した紫苑だが、この申は金属でできているので、別の陰陽師の式神だとわかった。陰陽師は、己の力に合わせて、十二支式神の素材を好きに選ぶのだ。
「花初王。自刃はなりませぬ」
申がしゃべったとき、紫苑は、その声に何か落ち着くような心持がした。しかし、王は取り乱したままだった。
「お情けを!! 不肖の息子の罪は父である私が!!」
「民のことを考えろと言ったのはあなたですぞ!! 毛土利国が軍を明日にもここに寄越そうとしています!! これは一体どういうことですか!!」
「毛土利が!? 一体何の話を……」
ここで紫苑が子細を語り、花初国は誤解を解くために急使を出すことになった。
「私の十二支式神『午』(馬)をお使い下さい。私も間に入って説明申し上げます」
「九字様、かたじけのうございます」
急使は金属の午に乗り、すぐに発った。
一連の式神を用意しているのは、九字という、都の帝に仕える陰陽師らしい。
「花初王、あなたはご子息をお斬りになりました。それで十分でございます」
申が王に話しかけたとき、悲鳴をあげている少女の声が耳についた。場に少女の声だけが響き渡り続けた。
「……殺された者も、あの娘も、もう戻らない……。やはり私は……」
「あなたにできることは、殺された者を手厚く葬り、あの娘の一生を支えてやることです。死ぬことではありません!」
紫苑は黙って少女を眺めた。剣姫の白き炎は、悪徳を燃やし尽くし浄化する炎。悪ではないあの少女には、意味がない。
「(そのような力も、必要だったのか……!)」
紫苑が戦士でしかない己に憤ったとき、
「……あの、もしかしたら緩和できるかもしれません」
出入口の外から、この血で濁りきった場を浄化するような、澄んだ声が広がってきた。
露雩だった。人々の間を堂々と、しかし素早く歩いてくる。霄瀾は離れないように必死に小走りしている。
「はい、二人の刀だよ。危ない目に遭わなくて良かった……」
露雩は紫苑と出雲に刀を戻しながら、紫苑を見つめた。
「……止めに来なかったのね」
「……父親以上のお仕置きがあるかい? 残念な結果だったけど、国民の反乱を防ぐにはこれしかないって、兵士たちに止められたんだ。毛土利軍のこともあるし、オレは事情に精通している人に任せるしかなかった」
「お前は何者だ。あの娘を緩和するとは、どういうことだ」
少し早口で、申がせきたてた。
「オレの名は露雩です。特別な剣を持っています」
「玄武」の名を隠したのは、賢明な判断であったろう。
露雩は真っ黒な鞘から漆黒の刀身の玄武を引き抜くと、水流を通わせた。
そして、叫び続けている少女の目の前で刀を払い、神水を目に浴びせた。
すると、少女は叫ぶのを止めた。そして、何を見るともなく、何を考えるでもなく、ただおぼつかなげに広場に視線を向けている。
「わ……た……し……」
露雩は優しく微笑んだ。
「この剣は死を司る剣。君の視界の中の、死への恐怖の心を聖水でおさえておいたよ。つまり、この聖水は人を、死を恐れない心に変えていく効果があるんだ。だから自分の中に死をいとわない確かな理由を持たない人には絶対使ってはいけない力なんだけど、君の視界を晴れさせることはできる。でも、神の力で理由なく一気にできるのはここまで。こうして、神は君に生きるきっかけを与えるにすぎない。納得する理由のない力は身を滅ぼすからだよ。これから生きる勇気を取り戻せるかは君次第。でも希望を失わないなら、君が生きていくうちにきっと君の勇気の形が見つかるよ。だから、諦めないで」
これまでの殺伐とした音から、急に包みこまれるような音が聞こえて、少女はみるみるうちに聖水に引き出されたように、大粒の涙を三粒も四粒も横にくっつけてこぼした。
「こうするしかなかったの!! 自分を守るには、こうするしかなかったの!!」
「うん、よく耐えたね。もう終わったよ。これからは、自由だよ」
少女は、大きく口を開けて、子供のように泣いた。しばらく、少女の声だけが場にこだました。
「私、ひっく、治っていいます。私を、あなたのお嫁さんにしてください! 私を、守って!」
思わず紫苑が色を失うと、露雩は泣きじゃくる治に頭を下げた。
「ごめん。オレ、結婚してるんだ」
「え?」
驚いて治が泣くのをやめると、
「この人、オレの奥さん!」
と、露雩は紫苑の肩を抱き寄せた。
「ねっ!」
露雩が、紫苑の顔の間近で元気になる清涼剤を浴びせるように片目をつぶった。紫苑は、「結婚」「奥さん」の単語と相まって一瞬頭が真っ白になって、顔は真っ赤になりながら、
「……はい」
と、うつむいた。
「そんな! じゃ、私はどうすれば……」
「花初王の名にかけて、そなたの一生に必要なことは私が引き受けよう」
花初王が進み出た。治はそれを聞いて混乱から回復した。少しだけ落ち着いて、露雩に尋ねた。
「いつか、一人で生きていけるって、思えるようになるかな」
「君の道を切り開くのは君自身だよ。どんな目に遭っても、なりたい自分が遠くても、なろうと思わなければ歩きだせないよ」
「うん……、わかった……!」
治はもう一人の少女、地外と共に、護衛付きでこの広場から出て行った。花初王も、これから力代たちに謝罪し、誠意ある対応をするために、準備に行った。
紫苑たちも小城の外に出たとき、不意に金属の申が口を開いた。
「神剣・玄武だな。よくやった」
紫苑は一礼した。
「青龍の式神出雲はどうした。全く現れなかったではないか」
「イズ子ちゃんならここに」
「イズ子ちゃんじゃないっ!」
真面目な紫苑の隣で、出雲がカツラを脱ぎ捨てた。
「青龍を扱うには女装しなければならないのか……」
「九字様!! 冗談っぽくないですよその言い方!!」
三人が盛り上がっているのを、露雩が遠くから見ている。
「おい。あの男と結婚しているのか?」
「え?」
「まあいい。早く都に来るように。次は千里国の属国の端、信時国だな。一つ頼まれ事もしてもらおうか」
申は何気なく言って、説明し終えると駆け去っていった。
行方不明になっていた治と地外以外の少女たちの親は、涙にくれるしかなかった。しかし、王の誠意ある対応に、反乱だけは思いとどまった。そして、紫苑たちに何度もお礼を言った。力代の娘は戻らなかったが、それでも紫苑の手を両手で握り、
「……ありがとう」
と、絞り出すような深い声で、額に押し当てた。
そして、紫苑たちは隣の信時国へ旅立った。
「九字殿、余計な用事は他の者にさせればよろしかったのでは?」
夜、ろうそくの光の中で、親しくしている将軍が酒を片手に九字に話しかけた。
「あれがただの娘ではないことは御存知でしょう。都に入る前に少しでも情報をと思いまして」
「そんな小娘がなあ、陰の極点の燃ゆる遙を倒したとは、信じられんよ」
将軍はぐいと盃を飲み干した。
「しかし事実を冷静に分析しなければ、戦局を見誤ります。信じられないことでも、事実は真実なのです」
「ん?」
九字の言い方に違和感を覚えた将軍が酒瓶を持つ手を止めた。
「私は見極めなければならない」
九字は自分に言い聞かせるように呟いた。
「赤ノ宮紫苑、あの娘は世界を滅ぼしても死ぬし、世界を救っても死ぬと予言された子供なのですよ」
将軍の目が大きく見開かれた。
外では夜の虫がそれ以上の言葉をかき消していくかのように、大きく大きく鳴いていった。




