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星方陣撃剣録  作者: 白雪
第一部 紅い玲瓏 第三章 一滴(ひとしずく)の夢
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一滴(ひとしずく)の夢第六章「奈落」

登場人物

双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑あかのみや・しおん、神剣・青龍せいりゅうを持つ炎の式神・出雲いずも、神器の竪琴・水鏡すいきょうの調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾しょうらん、強大な力を秘める瞳、星晶睛せいしょうせいの持ち主で、「水気」を司る玄武げんぶ神に認められし者・露雩ろう




第六章  奈落



 花初国かはつこくの首都へ向かう途中、露雩は踊るように歩きながら、神剣・玄武を光に当ててみたり、片手で持って重心を探したりして、隅々まで眺めていた。

「よかったね、露雩!」

「話聞いてるとめちゃくちゃすごい試練じゃねえか。お前よく生きて帰れたな」

 子供と式神のセリフに、紫苑も同意するようにほっと一息ついた。本当に、心臓に悪い。相手が神では、復讐する私も無事には済まないではないか――。

「ねえ紫苑。オレ玄武に認められたよ。エライ?」

 露雩が、満面の笑みを紫苑の顔の隣に寄せてきた。

「ええ、エライというか、すごい(私をすっごく心配させる攻撃力もね)」

「もっと褒めてよー」

「え?」

 心臓と一緒に飛びあがって、紫苑は隣を振り向いた。露雩が紫苑の顔に飛びこみそうなくらい近くで笑っている。

「オレの人生、これからだよね!」

「え、ええ、そうね。よくがんばった露雩! 私も次はがんばるわ!」

「応援してるよ!」

 紫苑はずっこけた。私が試練で死ぬかもしれないのにその心配はなしかい!

「(恋人みたいに褒めてほしいって言ってきたんだと思ったのに、やっぱりこの人は私のこと何とも思ってないわけね、はあ……)」

 暗い空気をかもし出す紫苑の横で、露雩は自分が仲間に積極的になれたことに驚いていた。

「自分に自信を持つということは、こんなにも自分を変えるんだ」

 体の中に一本、太く大きい柱が通った気がした。

「ぎゃあー!!」

 そのとき、一行の耳をつんざく悲鳴が森からあがった。

 嫌な予感にとらわれつつ、紫苑は三人に遅れて走った。やがて森の小さく開けた場所にたどり着いた。

 はじに縛られた人が五十人ばかり固まっていて、広場には手だけ縛られた十人がばらばらにいる。

 その上空を、タツノオトシゴを風船くらいの大きさまで大きくしたような魔物が、その突き出た口に、はすの実と思しき、穴の複数あいた丸いものをくわえて浮遊している。

 男が十人、別の暗いはじに、動かなくなった人間たちを積み重ねている。

「ようし。今度はもう少し高いところから吹いてみよう。人間ども、勝手に逃げるがいい。追いつくのに何秒かかるか知りたい」

 はすの実をくわえながら、魔物が器用に言った。

 人間たちが逃げ出すのと、タツノオトシゴが上空へ浮かび、口から息を吹くのとは同時だった。

棘霧とげぎり!!」

 魔物の口から、否、はすの実から、きらめく霧が出てきた。

 それはあっという間に逃げる人間に追いつき、覆い尽くした。その霧の粒子が触れると、皮膚に食いこんで、血を噴き出させた。呼吸器に入っただけでのどや鼻から血飛沫しぶきが飛び、人々は血の雨をほとばしらせながら死んでいった。

 近くの小動物が血を噴き出して木から落下していくのを見て、露雩はとっさに玄武を抜き、神流剣の技で四人の周りに水の護りの球を作り、霧から身を守った。

「うむ、速い速い。さすが神器の力だな」

 タツノオトシゴはご満悦で、とがらせた口の中ではすの実をくるくると回した。

「次は親子を連れて来い。小さいものの上に大きいものがかぶさったとき、下に霧がどのくらい達するのか知りたい」

「はい」

 死体を片付けていた男たちが、縛られている人々の方へ何の躊躇ちゅうちょもなく進んだ。人々は脅えたようにうごめいた。

「わあー! いやー!!」

恵野えの!!  恵野ー!!」

「二人とも、早く来い!」

 父親と五才ほどの娘の二人が、男たちに引き立てられた。子供は、極限の状態で、泣くのが止まらない。

「お願いです!! 娘だけはッ!!」

 魔物はすがる父親に上空から言った。

「お前が子供をかばいきれたら、解放してやろう。オレはその調査結果が欲しいから」

 父親は死ぬまで霧を吸い続ける決心をした。

 そして、娘を自分の体で完全に覆い隠した。

「いやだ、こわいよおとうさん! しぬのこわいよー!!」

「大丈夫だ、お父さんがついてる!!」

「ここで剣姫にならないならば、お前に生きる価値はない!! 赤ノ宮紫苑ー!!」

 怒りに燃えた剣姫が、双剣を抜いて魔物と親子の間に飛びこんだ。

「なんだお前は!?」

 タツノオトシゴが目を見開いた。

「紫苑! ……うっ、力が……」

「出雲! まってて、すぐに水鏡すいきょうの調べを弾くから!」

「いや、オレたちの居場所を知らせるな! あの霧がある限り、オレたちは足手まといだ! あいつに任せるんだ!」

「そんな……」

 二人の会話が、遠い世界の話し声に聞こえていた。露雩は、目の前の剣士に目が釘付けになった。

 なんと気高い気。そして、なんと禍々(まがまが)しい気。

 どちらが本当の彼女なのか判断しかねる。しかねる間は、目がそらせない。つまり、永久に。

「なってしまった……」

 魔物と男たちを眺めながら、紫苑はその殺気とは裏腹にひどく憂いを帯びた目をした。

 いずれこうなることはわかっていた。

 一緒にいれば、彼に見せないわけにはいかない。この殺戮の場面を。

 隠し通したかった。

 救われたかった。

 でも、もうおしまい。

「私は、知ってしまったから」

 露雩の放った神剣・玄武の聖水が体をめぐったとき、紫苑は自身の中で、清めの塩も舞もなく、炎が鎮まっていくのを感じたのだ。

 そう、熱の正体は、白き炎。

 彼の前で剣姫になるのを抑え続けたがゆえに、「悪を滅ぼさない紫苑が悪」として、白き炎に葬られようとしていたのだ。

 この力は所有者が善人を守らない悪でいることを許さない。「救うべきときに力を使わない悪」のままなら死あるのみ。この力を持った者は、命を愛する行動を取らなければ死なねばならないのだ。

 剣姫になれば人々に拒まれる。剣姫にならなければ大いなる力に拒まれる。

「ああ神よあなたはどこまで」

 紫苑が、追いつめられて断崖の下を見つめる子鹿に見えた。

「なんだこいつは? おい、調査の邪魔だからどかせ」

「はい」

 魔物に言われて、男が二人、走ってきた。

「こいつに従うのだな」

 剣姫は冷たい目を向けると、刀を一振りした。二人の影から両腕と胸が離れた。

「キャーッ!!」

「なにっ!!」

 人々と、魔物の驚愕の声が場を満たした。

「人間を……殺した……」

 露雩は自分の視界を疑った。

「離れていろ。死ぬぞ」

「ひいいいっ!!」

 剣姫に声をかけられて、父親は娘を引きずって必死に後退あとじさりした。

「人間を殺す、人間……、赤い髪の美人、双剣……。まさか、お前は人間の最終兵姫さいしゅうへいきか!?」

「……。さてな」

 紫苑は冷静に答えた。

「出雲。最終兵姫って何のことだ。紫苑は一体どうしてしまったんだ!」

 紫苑から目を離さず、露雩が語気を強めた。

「人間が嫌いなら、話は簡単だ。最終兵姫、魔族と手を組まないか。共に人間を滅ぼそう。もちろん、オレが魔族王になることが条件だ。逆らったら棘霧とげぎりでお前を殺す。最終兵姫も空気は支配できまい? オレの言う通りにしろ!」

 タツノオトシゴの自信たっぷりなセリフを聞いて、紫苑は大声をあげて笑った。

「は、は! この剣姫を、従わせるだと! 身の程知らずめ、お前のような小物に使われる剣姫ではないわ! それに、もし人間を滅ぼしたいなら、燃ゆるばるかを倒したりはせん。自分の守りたいものを守りたいから、私は戦ったのだ」

 剣姫は魔族の誘いを断った。霄瀾は胸をなで下ろした。

「バカな人間だ! オレが幸運をやったのに! どっちにしろお前を殺せば魔族王だ!! 棘霧とげぎり!!」

 タツノオトシゴが霧を吹いた。紫苑は白き炎を放って蒸発し尽くした。

 そして魔物を一刀両断にしようと地を蹴った。魔物は口で刀を受け、反動で空中をくるくると回って押しやられた。

「斬れない? あの口の中のはすの実が食い止めた!」

 着地した紫苑は鋭い目を魔物の口に集中した。

「ふふふ、これは天降あめふりの日に降り下りた神器の一つ、『砕射口数さいしゃこうすう』だ! 神器は永久に破壊されることはない! これで刀を受ける限り、オレは無傷だ!」

 はすの実にあいた穴一つ一つに、とげがびっしりついている。入れたものをそれで微粒子になるまで破砕して、噴射する神器なのだろう。

「久々に人間が手に入ったから神器の威力を確かめていたのに、邪魔しやがって! お前で試してやる!」

 一段と濃度の濃い霧が発射された。紫苑は白き炎で自分を覆うが、空気の消耗は防げない。

「……!」

 このままでは酸欠になるので、白き炎をまとったまま、飛びあがる。

「おっとお!」

 しかし、空を飛べる魔物はひらりとよけた。

「ぎゃあー!!」

 霧が、縛られた人々に迫っていた。紫苑は白き炎を放ち、人々を覆って守った。

 しかし、人々は感謝するどころか、悲鳴をあげた。

「生かしておいて、あとでじっくり斬り殺すつもりか!!」

「信じられない!! あんな残酷な殺し方ができるやつなんて!!」

 違う。人間が弱すぎるから斬れすぎてしまうだけなのだ。紫苑は思わず視線をそらし、着地して手をついた地面にうつむいた。

「どうして、私が愛しても、お前たちは……」

 それでも、紫苑は前を向いた。魔物が叫んだ。

「なぜオレと戦えるのだ! 報われないと知っていながら!」

「弱き者は強き者を攻撃するものだ。そうしないと自分の存在を消されてしまうからだ。仕方がないのだ……仕方がないのだ……」

「迷っている! それはお前が人間だから人間を思い切れないのか!」

「そんな簡単な理由で揺れていたら、人間を殺すことはできない」

 確かに紫苑は、人間に怒るたび、人間に拒まれるたび、迷ってきた。しかし、それでも何度も人間を信じた。

 河樹の言った通り、何度裏切られても何度でも信じるその硬い結晶のような心こそ、神の戦士の証にふさわしいのかもしれない。すべての悪も苦しみもぶつけて、紫苑がどう変化するのか、神は試しているのではないだろうか。

 なぜか、熱い鉄が何度も打ちつけられて、鋭くしなる刀に鍛えあげられていくさまが、思い浮かばれた。

 紫苑が中道の最強の力を持ち続けるために、人を完全に愛しそうになると、「運命」が憎ませるようにしていたのではないか。

 剣姫は露雩を見られなかった。

 力と愛どちらを選ぶと問われて、今彼女は運命の思惑通り、力と答えるのだ。

「今さら人並の幸せなどほしくない。私の手はもう元に戻せない」

 剣姫は彼のことを諦めた。

「私は独り。いつまでも独り。それがこの力を神から与えられた者の義務。私は誰にも思考を曲げられてはならないのだ」

 人間を愛し、愛さない。それが私の望み望まれた答えだから。

 紫苑は白き炎の出力をあげた。

「ふん! どんなに炎を出しても、空を飛ぶオレには届かない! 跳んでも届かない上空からこの広場を霧で満たしてやる!」

 タツノオトシゴは高く高く浮かんでいった。

 地上百メートルもの高さで、魔物は高らかに笑った。

「じゃあ、高見の見物といくか! そおーれ!」

 魔物が油断しきって息を大きく吸いこんだとき、紫苑は笑った。

「やれやれ、剣姫もなめられたものだ」

「なに?」

「はっ!!」

 紫苑は一瞬で白き炎を体から噴出して、大砲のように空へ突進した。

「バカな!!」

 絶対の安全圏で剣姫を葬ろうと思っていた魔物は、慌てる暇もなく、胴から横に真っ二つになった。

 魔物だった二つの塊が、一つずつ無造作に地面に落下する音を聞きながら、白き炎で空を飛ぶ紫苑がゆっくりと降下してきた。

 人々が怯える中、剣姫は、魔物の言うことに従っていた男たちの、残りの八人に体を向けた。

「うわっ! た、助けてくれ! オレたちは従わないと殺されるからやるしかなかったんだ!」

「今まで助けてくれなかった王国軍が悪い!!」

 紫苑は刀を振り上げ、二人を斬り飛ばした。

「いかなる理由があろうと罪は罪。誰も逃れることはできない。私もな……」

 残りの六人が尻をついて後ろへ地をかいた。

「バカを言うなっ! 自分の命を守るためだぞ! 他人を犠牲にするのはしかたないじゃないか!!」

「オレに死ねって言うのか!!」

「お前たちがいなければ、彼らが縛られてここに転がっていることもなかった。監視しなければ、彼ら自身の裁量で一部の者は逃げ出し、王国軍に救出要請をすることもできた。我が身かわいさに自ら犠牲者を増やした。お前たちは悪だ。よって、斬る」

「助けてー!!」

 紫苑が双剣を振り下ろしたとき、それを受け止めた剣があった。

「……露雩……!?」

 紫苑は顔を歪めた。二度と直視できないだろうと思っていた顔が、苦しみに満ちた表情でそこにあった。

 やはり、この男は私に耐えられなかった。直視できないほど、私を忌避するというのか。

 ああ、わかっていても、心がえぐられるようだ。

 露雩は、出雲からすべてを聞いて、何の考えもなく飛び出していた。ただ、「もう傷つけさせたくない」という一念で。

 彼女の苦しみは、彼女にしかわからない。

 だけど、だからといって、任せきりにできるわけがない!

「もう人間を殺さないでくれ!!」

「ふざけるな! 悪人の味方をするなら、貴様も悪だ!!」

 ああ、やはり! 「世界を愛する」この男と「世界を愛し愛さない」私とは、戦わずにはおれない「運命」なのだ!!

 星晶睛せいしょうせいさえも倒さずにはおかぬ気魄きはくを紫苑が見せたとき、露雩が叫んだ。

「オレは、君の味方だよ!!」

 紫苑の剣の動きが一瞬、止まった。

「何を根拠に……」

 露雩は、ただ純粋に、この人を守りたいと思った。未知の力に引きずられるところを、自分と重ねたのかもしれない。しかし、人を斬るたび、彼女の人としての心が死んで、いずれ殺意のみを糧に生きる、運命に操られた人形になってしまうと、彼は思った。

 どんなに自分を否定されても、最後の一塊いっかいだけは人を信じ、その思いを必ず守り抜き、再び人を信じ直す、精錬せいれんに精錬を重ねた、美しい結晶の魂。

 どんな深い絶望にも屈しない、この純粋に光る優しい魂を、何があっても守りたいと思った。

 この、得がたい宝を、いつまでも。

 露雩はここで、初めて自分から他者に触れたいと願った。オレに触れてほしい、温かい体温を知ってほしい、もっとオレのことを知ってほしい、傷つけないよ、その魂をオレに守られてほしい……。

 自分の力は、この美しい宝を守るために使いたい。

 そして、あなたがこの世界を好きになれるように考えたい。オレの好きなものを、知ってほしい。オレも、もっと世界のことを好きになって、探すから。

 露雩の思考は、剣姫の突きを受け止めることで中断した。

「どけ! 私をはばむことは許さん!」

「人の可能性を信じているならもう殺すな! 純粋な君はもう傷ついてはいけない!」

 紫苑が横、縦と裂く、天地を表す剣舞を放った。

「悪人を許せというのか! 傷つけられた善人はどうする! 『悪をした者勝ち』の世にするつもりか!!」

 露雩は大雨を表す長く強い振りで彼女の双剣を払った。

「君こそ、殺せばすべて終わると考えるなんて、無責任じゃないか!」

「なに!?」

 紫苑が意表を突かれて、露雩の神剣・玄武を一旦いったん受け止めた。

「善人の心は悪人が死ねばそのときは嬉しいかもしれない。でも、心の傷が必ずえると思うかい。彼らの心まで救わなくちゃ、君だって善人のために生きたとは言えないよ」

「しかし、悪人を生かしておくわけにはいかない。私は、善人にそれしかしてやれない……」

「この世に死んでいい命なんて一つもない。悪人も善人も共に救われる道を考えよう。悪人が悪人にならない方法を、考えよう」

 紫苑は戦いながら入った森の中で、遠い地平線を示す剣圧の舞を放った。白き炎が悪人を浄化するけれども、己自身が悪を全殺(ぜんさつ・意味『すべて殺す』)する前に悪に染まりきるわけにはいかない。

「だから私は白き炎をすべてに使えない……」

 露雩は垂直に落ちる滝の剣舞で、水平の剣圧を二つに割った。

「人を変えるのは力じゃない、言葉だ。みんなを救える言葉を、一緒に考えていこう」

 一瞬、紫苑の脳裏に子値丸ねちまるの晴れやかな顔が浮かんだ。この男なら、もしかして……。

「まさか! そんな夢物語が通用するか! お前は魔族を見捨て人間をかばった! 人間のみを救う者とは相容あいいれん!」

 露雩は落ち着いていた。

「見捨ててはいない。オレは世界もその中にいる魔族も好きだよ。でも、オレや大切な仲間を殺そうとしていて、オレの言葉でその荒れた心を変えられそうにないなら、戦うしかないだろう? 黙って殺されるわけにはいかないだろう? 倒すことでしか自分を守れないときは、オレも戦うよ。オレだって、生きてるから。オレの命もみんなと平等の権利を持ってるから。魔族は人間の力ではかなわないけど、一人の人間は周りの人間が抑えられるから、周りの人間の手に任せられやすい。差はそこだよ」

「確かに魔族に牢屋はない……、入れても力任せに破られてしまい、人々が危険だ。だが人間は群れると、魔族と同じくらい手のつけられない存在になるのだぞ! それでも……」

「なら一人一人に言葉をかければいい」

「そ……そんなことが……」

 紫苑は自分の足元に真っ黒な穴が出現し、落ちる寸前の錯覚を起こした。

「言葉がきっと人を変える! 人の可能性を信じよう! さあ、一緒にやろう、紫苑!!」

 紫苑は焦点を固定したまま首を恐ろしげに左右に振った。

「そんなわけがない! できるものか……! 私の、私の人生を否定することが、できるものかあー!!」

「オレは君を助けるぞ!!」

「無駄なことを! 私以外に、運命を変えられるものかッ!!」

 私の死に方を決めるのは、私なのだ!! 私の中に、入ってくるな!!

 そのとき、人が物を吐く音がした。

 剣姫紫苑の斬ったものを見て、気持ち悪くて吐いているのだ。

 広場の方から森の中の紫苑を見ても吐くし、嘔吐おうと物を出すついでに紫苑に向かって唾も吐いた。

 最も恐れていたこれを、露雩に見られてしまった。

 それでも紫苑は人々を直視して無表情だった。

 慣れていたから。

 紫苑は胸がえぐられなかった。

 慣れていたから。

 紫苑は指で拳の中に爪を立てなかった。

 慣れていたから。

 紫苑は――

 そのとき、紫苑の目が黒い服の胸に覆われた。

「見たくないなら目を閉じていいんだよ。聞きたくなければ耳もふさいでいいんだ。どうか耐えないで……!」

 露雩が美しい輝きを放つ魂を守るように、紫苑の頭から背中へ両腕をまわして抱きしめていた。

「耐えてなどいない……」

 紫苑の声は、一点を見つめる瞳が隠れていても、うつろさを隠しきれなかった。

「ねえ紫苑、オレはね、君のこと……」

 突然紫苑は強い力で露雩を押し飛ばした。脅えた目で、一瞬体を震わせていた。

「私は人からの拒絶を受け入れることができる。でも今まで友だった人々から裏切られたことだけは、忘れることができない! だから私は一人で生きてきたのに、もしあなたを信じて、もしあなたにまで裏切られたら、私はもう、何を信じたらいいのか、わからないよ!」

 剣姫ではない紫苑が、次の瞬間、声を震わせた。

「もう、生きていられないよッ……!」

 涙声で強く露雩を睨みあげる紫苑を、露雩は一息で抱きしめた。

「離してよ! 私はもう、傷つくのはいやだッ!!」

 父にも出雲にも霄瀾にも言ったことのない心を、どうして露雩に言えたのか、露雩の胸の中でもがく紫苑にはわからなかった。

「そばにいる。オレがずっとそばにいるから」

「できるわけないじゃない! すぐに耐えられなくなる! 私は、あなたなんか、いらない!!」

 ドンという音をたてて強く露雩の胸を突き飛ばすと、紫苑は逃げるように走り去った。

 いくつもの木で打撲だぼくを作りながら、葉の下を抜け、草を踏み散らし、小川で先へ行けなくなるまで夢中で走った。

 双剣を地面に突き立て、かき抱いた。

「バカだ……バカだ……あァー!!」

 刃が紫苑の美しい指も頬も傷つけるのにかまわず、紫苑は慟哭どうこくした。自分の運命は受け入れられても、他人にまでそれに関わらせることはできない。本当の優しさとは何か。本当の悲しみとは何か。

 すべてを決するには、少女はまだ幼すぎる――。


「星方陣撃剣録第一部紅い玲瓏三巻」(完)


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