一滴(ひとしずく)の夢第四章「本物の小人(しょうじん)」
登場人物
双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑、神剣・青龍を持つ炎の式神・出雲、神器の竪琴・水鏡の調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾、強大な力を秘める瞳、星晶睛の持ち主の露雩。
第四章 本物の小人
次の魅競町を抜ければ、玄武神殿だ。この町は御競町と名前が酷似しているが、もとは両者は一つの地で、統治のしやすさのために、無理に境界線で分けられたのであった。
道を踏みしめながら、露雩はずっと考えこんでいるようであった。目醒めてからこれまで、立て続けに事件が起きたので、頭の中で整理をしているのだろう。
「特別な誰かに対する愛ってさ……」
露雩は思考の一つを口に出した。
「それって自己中心的じゃない?」
「え?」
「オレが世界を愛してると言ってみたところで、仮に同時に誰か一人を一番愛してたとしたら、人をだます論理、偽善じゃないかな。矛盾していて、両立しないよ」
紫苑は困ってしまった。
「うーん、そう言われると……。でも人間の社会をうまく維持していくために、愛が最も尊いと教えられてるわけで……。確かに人間への愛は人間にしか通用しないわね。世界のすべてを愛するならあなたこそこの星に望まれた人なわけで……」
出雲が振り返った。
「人を好きになったことのない奴って、人の中身を見ようとしたことのない奴なんじゃねえか? 一人でも気にしてみろよ。人を知って、もっとこの世界を守りたくなると思うぜ」
「絵」だった主を知って、共に歩むことを選び、自分の守りたい世界を大きく広げた出雲が、紫苑に続いて言葉を返した。霄瀾は黙って三人の顔を交互に見上げている。
「でも、一人だけ愛するのは、不平等だ。オレは世界を愛してるんだ。世界を裏切れない。好きという感情は、世界を守る際にオレの行動原理の妨げとなる」
露雩の成立している思考に落ち着かない紫苑とは対照的に、出雲はあっけらかんと、
「一人でも気になる女ができれば、そんな理論なんてすっ飛ぶさ」
露雩は、不確定要素の出現の可能性に、鼻白んだ。
魅競町に入り、補充の品を買い求めてから、食堂に入った。紫苑と出雲は鯖の味噌煮定食、露雩と霄瀾は湯豆腐の定食を注文した。
紫苑にこの味が再現できるかと楽しく会話し、食後のお茶をすすっているところへ、店の外が騒がしくなった。
「領主様に切りつけた女がいるぞ!」
「取り押さえろ!」
ただごとではない様子を察して、四人は外へ駆け出た。
「離して! 私の恋人を、返して!」
警備兵たちに衣服を引っ張られた女が、明るい黄茶色のひょうたん型の髪をめちゃくちゃに振り払い、貴人用の牛車に乗っている人物へ向かって、刃物を振り回している。
白粉をはたいた、毛虫を四匹横にしたような細い眉と目の領主が、紅をさした口元を扇で隠した。
「お前の恋人は私の近習として館で楽しく働いておる。男に捨てられた女子が、私に逆恨みして刃を向けるとは、心得違いも甚だしい。罰しておけ」
「はっ」
「待って! 剛太を返して!!」
扇で口元を隠しているのをいいことに、一瞬笑いをこらえた領主の目が、それを偶然観察していた露雩の目と合った。
領主は、露雩の姿を見て、雷の直撃を受けたように目をみはった。そして――。
殺気と憎悪と恨みのこもった赤筋の走る眼で、露雩に呪いの視線を放った。
露雩は、そんな視殺(しさつ・意味『視線で殺す』)の目を受けたことがなかったので、その憎悪の念が心胆を寒からしめ、思わず心臓が大きく鳴った。
そんな領主の様子には気づかず、牛車は館へ引きあげていった。
「……一体どういう理由で……」
呆然と硬直する露雩の脇から、紫苑と出雲が飛び出した。
「この女、領主様に手を出すとは! 腕をへし折ってやる!」
「キャアアー!!」
女の腕をつかんだ警備兵の顔に、出雲の神剣・青龍の柄がめりこんだ。そして衣服を引っ張る残り二人も、青龍の鞘で脳天とあばら骨を叩かれて、地に倒れた。
「大丈夫? 怪我はない?」
女は紫苑が肩に手を置いても、しばらく口を開けて立ち尽くしていた。
そして人々の騒ぎが大きくなると、
「あっ! こっちへ!」
と、紫苑の手を引いて、五人は人ごみの中へ紛れた。
人気のない裏路地の一角に空き地があり、大きな物置小屋が建っている。女は、迷わず中へ入った。
「亜下! 早まるなと言ったではないか!」
密閉された小屋の中で、一本だけ火の灯ったろうそくが揺らめいた。
明るい黄茶色の髪の少女が、肩を縮ませた。
「……すみません。でも、剛太が連れて行かれてから、もう半年です! 今頃どんな苦痛を受けているか……!」
頭を下げていても、その整った両目は揺れず、芯の強さをうかがわせた。
長四角の机に十人ずつ座っている女たちが、紫苑たちを見てざわめいた。
「……それで、そちらの方たちは?」
亜下と話をしているのは、小屋の最も奥で、長い机の短い辺に腰かけている男だった。
灰色の粘土のように蒼白な肌で、黒目が小さく、わし鼻が異様に目立つ男である。
「耕世様、この方たちは私を警備兵から助けてくれた恩人です」
「……たったそれだけの理由でここに連れて来たのか? 領主の間者だったらどうする?」
耕世の黒目が鋭く点に縮んだ。紫苑たちを疑い、見定めようと神経を集中しているようだ。
「……この町の者ではないな」
すべての町民の顔を覚えているのだろうか、耕世が確かめるような調子で断定した。
「旅の者です」
「残念だが、疑いが晴れたわけではない。明日まで、ここに拘束させてもらう。我々の秘密の場所を知ってしまったのだからな」
「耕世様、そんな……!」
「亜下、決行は明日に決まった」
居並ぶ女二十人が、彼女たちに目を走らせた亜下に、うなずいた。
「急に明日ですか? 反乱軍が動いてくれるとわかっていたら、今日あんな真似は、思いとどまれたのに……!」
「なるべく秘密にしなければ、どこから情報が漏れるかわからないからだ。それに、お前たちは反乱軍の周りで民衆に領主の真実を叫び、人々の目を醒まさせるのが役目だ。準備といえば、時間に遅れないことだけだ」
「……はい」
瞳をまっすぐ下に向ける亜下を見ることもなく、耕世は席を立った。
「私は準備があるのでもう行く」
紫苑たちが縛られるのを確認してから、耕世は出て行った。
女たちは安堵の息を漏らしたかと思うと、立ち上がって、手を取りあって喜んでいる。
「ねえ亜下さん、あなたたちはどういう人たちなの?」
「ごめんなさい、言えないの。恩人に、こんなことして悪いんだけど……」
「ここに拘束されているのだから、聞く権利くらいあると思うけど」
「……」
亜下は折られなかった腕をちょっとなでると、紫苑たちのそばに尻をついた。
「半年ほど前、領主が亡くなって、息子が跡を継いだんだけど――」
名を子値丸。年は十七。虫がはったような細い眉と目で、お世辞にも美しいとは言い難い顔を、ふんだんな化粧で隠そうと努めている、美に執着した男である。
「『美しいものを称讃している』って、演説のときに言っていたわ。そして、よく町を『視察』するようになったの」
そして、牛車の中から町民のうちで美しい顔の男を見つけては、「召し抱えてやろう」と次々と取り立てて、館に居住させるようになった。
「みんな、彼らは領主様の身辺を守る、兵士にしてもらったんだと思ってた。半年間一回も町に戻ってこないけど、きっと訓練を受けてて忙しいんだろうって、誰も何も疑わなかった。だけど、違ったの……!」
恋人と連絡が取れず寂しがっている女たちに次々と、耕世が接触してきた。この小屋に集められた女たちは、真実を告げられた。
「館で領主の兵士になってたなんて、まったくの思い違い。本当は人目に触れない館の地下で、地下迷宮を掘るために重労働をさせられているんだって。子値丸は、彼らの若さをここで奪って、自分にない美を持っている男たちに、復讐するつもりなんだって」
露雩は、子値丸の憎悪の視線を思い出した。
「なるほどな、この町の女たちが露雩を見て混乱を起こさないのは、待っている男がいたからだ。両想いだろうと片想いだろうと、関係なく……」
出雲が一人で大きくうなずいている。紫苑が身を乗り出した。
「ねえ亜下さん、耕世さんて何者なの? そんなことを知ってるなんて、領主の近くにいる人間よね?」
「……あの人は、使いの人なの。なんでも主人って人が大金持ちの商人で、美男の身内を領主に召し出されたきりだから、探らせたんだって。それで真実を人々に知らせて、反乱を起こそうって言い出したそうよ。この空き地も小屋もみんなその人が手配してくれたの。反乱軍も、組織させたんだって」
まさに至れり尽くせりである。亜下たちは、ただお膳立てされた計画で、「一民衆」として人々に真実を訴えればいいだけである。武器を持って命を懸けることもせずに……。女だから足手まといということなのであろうか、と紫苑は黙りこんだ。
「反乱して男の人たちを解放して、そのあと領主をどうするつもりなの?」
代わりに霄瀾が質問した。
「え? さあ、そこまでは知らないわ。私はただ、剛太が無事に戻ってきてくれたら、それでいいから。耕世様たちの素性や、なさることに質問するのは、禁止されているし……」
「……出雲、この縄を解きなさい」
「はーいご主人様」
紫苑に式神化され、藍色から黒い髪になった出雲は、炎を出して難なく自分の縄を焼き落とすと、神剣・青龍をひらめかせて三人の縛めを斬り払った。
「えっ!? えっ!?」
整った目を交互に揺らして、亜下が尻をついたままのけぞった。他の女たちも、騒ぐのをやめた。
「反乱したとき、領主が報復に地下の彼らを殺そうとしたらどうするの? 彼らに逃げ場はないわよ」
紫苑の言う可能性に、女たちは恐怖で、落ち着かなく体を動かした。
「き、きっと耕世様たちはそこもお考えになって……」
「他人に任せていいの? 正体を明かさないなんて、怪しい。反乱に失敗したら、表に出たあなたたちに責任を全部かぶせて、雲隠れするかもしれないのよ」
「それは、正体を明かしたら、誰かが密告したとき耕世様たちが領主に反乱を悟られてしまうから……」
「私たちは彼らを守ってあげるって言ったら?」
「え?」
亜下が目を一回まばたきした。
「出雲と露雩、行ってくれないかしら。子値丸が噂通りのことをしているかどうか、調べてほしいの。私と霄瀾は――」
紫苑の目配せで、出雲と露雩には紫苑が耕世と反乱軍を調べてみるつもりなのだとわかった。
「よーし! じゃ、ちょっくら行ってくるか! オレと露雩の美貌なら、一発合格だろ! みんな、心配するな、オレが強いってことは、この亜下さんが説明してくれるから!」
「……でも、耕世様がなんておっしゃるか……」
「反乱が起きたあとに殺されたか、起きる前から殺されていたか知るだけでも、行く意味はあると思うけど」
亜下は力なく紫苑にうなだれ、両てのひらを地に吸いつけた。
「失礼いたします。こちらでは美しい男を召し抱えてくださるとうかがって参ったのですが」
「自分から売りこむとは大した自信だな。ほお、これはまた……よし、通れ。領主様もお喜びになるだろう」
「ありがとうございます。では」
「おい、お付きの者は帰っていいぞ」
「誰がお付きですかー!! オレだってこいつとは別の系統の美形でしょ!?」
「男の顔は関心がないからよくわからん。領主様にお決めいただくといい」
出雲と露雩は、門番を夢の顔見せのみで難なく(?)通過し、領主の館に入ることに成功した。
調度品は灰色と黒のものばかりで、息苦しい。一歩進むごとに気分が沈んでいくような、重く活気のない館であった。
「失礼いたします。子値丸様、志願者でございます」
「通せ」
壊れた弦楽器の音のような、高いキイキイと鳴る声がした。
暗い憂鬱に伏せっていると見える目が、床の一点をどこを見るともなく見て、視線の重みで窪みを作ろうとしているかのようである。
牛車に乗っていた男、子値丸が、無気力に領主の椅子に座っていた。
「今日は誰も指名した覚えはないが――」
姿勢を変えず、重たそうな目だけ上目遣いにした子値丸は、顔が狂喜に硬直した。
露雩を目にしたからである。
「よかろう。今日から私のもとで働かせてやる。連れて行け」
「ははっ」
急に調子外れの弦のように勇んだ声を出した子値丸は、兵士と露雩たちが去った後も、しばらく早足で同じ楕円をぐるぐる回っていた。
「刀は持ってないな」
「はい、領主様にお会いするのには物騒かと存じまして、置いて参りました。必要とあらば、取って参りますが」
「いや、好都合だ。お前たちにふさわしいものが支給されるからな」
「左様でございますか……」
黒髪の出雲が相槌を打った。
出雲の神剣・青龍と、露雩の双剣は、紫苑に預けてある。噂が本当だった場合、刀を取り上げられるに違いないからだ。神剣とはわからなくても、刀を一時的にでも他者の手に渡すのは、すぐに転売・取引・盗難などで所在が不明になる可能性が非常に高く、絶対に避けるべきである。
その代わり、出雲を最初から式神化させ、いつでも脱出できるようにした。
式神化を最長一日分行うというのは、並々以上の陰陽師にしか、不可能なことである。「陰陽師」の紫苑は絶対にしないだろうが、望めば「一騎当千」の技も放てるのではないか、と出雲はちらと考えている。
自分の黒髪に気を取られていたので、出雲は歩いている場所が階段で、下っていることについて、何も考えなかった。露雩に肘で突かれて、初めてああ、噂通りかもと気づいた。
階段の下は、鉄格子のはまった小さな四角い窓がついている、木の扉が一枚あるだけだった。床は狭い半円状の空間になっていて、案内してきた兵士は鉄の大きな鍵で錠を回して扉を開けたと思うと、いきなり二人を足で蹴って中へ強引に入れた。
「痛ェ!! 蹴ることはねーだろ!!」
わめいて振り返った出雲の目の前に、武装した巨漢の兵士が三人、立ちはだかった。皆、目の上が筋肉質に隆起して、力こぶを見事に作った腕の先の、厚い手から鞭が垂れ下がっている。
「死にたくなかったら大人しくしろ」
自分と露雩の足首に鎖つきの重りがはめられるのを見て、
「予想はしてたけど、けっこう精神的に重いな……」
と、思わず口の動きをつけて、心の中で呟く出雲であった。
出雲たちは、地下迷宮の奥へ連れて行かれ、そこで土壁を掘り進める係となった。行く途中で見た通路のあちこちで、見目形のいい男たちが、百人ばかり、つるはしを使って掘削を続けている。それを監視しているのが、腕力に自信のありそうな、巨体の兵士たちである。剣を帯び、鎧をつけて、男たちの逃走を阻むように常に目を光らせている。私語すらも許されないらしく、土の音以外は聞こえない。
自分たちのたどった道順を覚えながら、出雲は、反乱のとき、男たちを守るために戦わなければならないことを確信した。耕世の言っていたことは真実であった。あとはどう脱出するかだ。
出入口はさきほど蹴られた扉一つしかなく、十人程度の兵士で常に固めている。
こちらを一人も傷つけずに、これだけの監視兵の数を相手に逃げ切れるだろうか……。と、出雲がつるはしを振りながら考えているとき、後ろから大勢の足音が聞こえた。
「子値丸様、新入りはこちらでございます」
出雲と露雩が振り返ると、子値丸が護衛の兵を引き連れて、領主を最も補佐する、領主の次の地位の大臣下と共に、視察に来たところであった。
子値丸は、露雩の顔に泥がついているのを見て、奇声を発するように笑った。
「ヒッヒッヒッ! どうだ、まさか奴隷にされるとは夢にも思わなかっただろ! 自分の顔に自信があるなんて思い上がるから、天罰が下ったんだ! ヒッヒッヒッヒッ、ざまあみろ!!」
腹の皮をよじって大笑いする領主を、誰も何も言わない周囲が黙って見つめていた。
そのとき、ずっと黙っていた露雩が口を開いた。
「お前はなぜ美しい者を憎む。お前こそそんな白粉を塗って、一番美に執着しているじゃないか。自分が持っていないものを持っている者を、ねたむんじゃない。お前の価値は、たった一つなのか」
思いもよらない言葉で反撃を食らって、子値丸は白粉の上からもわかるほど激怒と蒼白で交互に色が変わった。
「こいつ!! 奴隷のくせに生意気だ!!」
調子の外れた弦に似た音を出して、子値丸が兵士の鞭をひったくり、露雩に突進しようとするのを、大臣下が止めた。
「子値丸様、お召し物に血が飛びまする。汚らわしいことは、兵士にお任せください。さあ、明日は子値丸様の誕生日の祭りです。今日は演説の最終確認もございます。お早くお戻りください」
「なんで止めるんだ! 今日、女がここの秘密をわめいて私に切りつけてきたぞ! お前がばらしたのか!!」
「めっそうもありません。ここにいる者は皆、いなくなれば他人にまで騒がれる、美しい者ばかりです。恋に狂った者が探りを入れてもおかしくありません」
「きいいい!」
子値丸は鞭を地に叩きつけた。
「こいつには、一番きつい仕事を与えとけ!!」
子値丸は、露雩を血走った目で睨みつけると、足を踏み鳴らして帰って行った。
直後に、夕食の時間になった。
多少の私語が許されているらしく、男たちの伸びをする声があちこちから聞こえる。全員に一椀ずつ、野菜のへたやら、傷んだところやらをごった煮にした汁が配られる。領主の館の厨房で出た、捨てる部分を皆放りこんだもの、のような中身である。米はない。
「この扱いすげえな。汁に味ねえぞ? しょうゆ持って来ればよかった」
「……」
そんな出雲と露雩のもとへ、土が肌にこすりついている、髪が針のように強いコシを持った青年が、近づいてきた。ここにいるだけあって、眉の濃い、目鼻の大きい、形の整った美男である。
「よう。大丈夫か? もう今日は子値丸は来ないし、おしゃべりしても平気だぜ」
「平気? って……あれ?」
見れば、男たちと兵士が、あちこちで談笑している。
「あれ!? 兵士が監視してて逃げられないんじゃ……!?」
驚く出雲たちに、目鼻の大きい男は笑った。
「子値丸が来たときだけ、監視しているふりをしてるのさ。みんな、子値丸が間違ってると思ってる。ここにいる連中は誰も従ってないぜ。オレは、剛太だ。お前たちは?」
「あんたが剛太か! オレは出雲、こっちは露雩だ。亜下が心配してたぜ――」
出雲が一部始終を話すと、剛太は暗い顔つきになった。
「亜下、早まらなければいいが。オレたちは明日の決行のとき、兵士たちに無事に地上へ連れ出してもらう手筈になってるんだ」
「お前に会いたいんだよ。まあ、亜下の方はオレの仲間がついてるから、心配するなよ」
「ああ……」
「ところで剛太、ここにいる兵士たちは、子値丸でなかったら、誰に従ってるんだい?」
ずっと話を聞いていた露雩が核心的な質問をした。兵士全員が、仮にも領主に反抗するには、「別に命令し、給料を払ってくれる誰か」が必要なはずだ。それは誰なのか? その者が、耕世の主人であろう。
そのとき、兵士が樽を運んできた。男たちが歓声をあげる。
「今日も大臣下様から、酒の差し入れだ! みんな、ありがたく飲もう!」
「……大臣下か……」
露雩が剛太に確認した。
「ああ。あの方は最初から子値丸の行動に反対で、いつか出してやるからって、裏でこっそり励ましてくださった。ああして毎日、一人につき一杯だけでも、子値丸に内緒で酒樽を届けてくださるんだぜ。明日の決行だって、オレたちのために計画してくださったんだ。オレはあの方について行く。そして、子値丸を倒す!」
「毎日か……金がよく続くなー」
出雲が酒盛りの男たちを眺めた。露雩はじっと考えこんでいる。
「さてと、前祝いだ。一緒に飲みに行こうぜ」
出雲と露雩は剛太に向かって、残念だけど、と首を振った。
夜。皆が一杯の酒で幸せに寝ている中を、二人は忍び足で地下の出口へ向かった。
同じく眠っている兵士の腰から鍵束を失敬し、扉を開ける。
「明日は大事な日だってのに、のんきだぜ」
「みんな大臣下についてるっていうからね。安心しきってるんだね」
二人が向かう先は子値丸の寝室である。
明日子値丸は殺されるかもしれないから、これまでのことを誰かにそそのかされてしていたかどうかを見極めなければならないと、露雩が言い出したのである。
「あの笑いが本心以外から出るとは思えないけどなあ?」
「しっ! 兵士が二人立っているあの部屋が怪しい。行くぞ!」
兵士二人が、露雩たちに気づいて武器を構えようとしたとき、部屋の中から男の弱い泣き声が、ふわあと漏れ出してきた。兵士たちは、慌てて口に人差し指を当て、もう片方のてのひらを前に突き出して、露雩と出雲の制止を図った。
露雩と出雲が静かに扉の前に来ると、扉の内側から、独特の、壊れた弦を引き伸ばしたような声が、はい出てきている。
「ううっ、うっ、ううう~~!!」
子値丸が泣いている。
「憎い……憎い……憎いー!!」
思わず露雩と出雲が顔を見合わせると、兵士が哀れみをこめた調子で、小さく頭を振った。
「かわいそうな人なんだよ、あの人も」
「かわいそう? なんでだよ? 人の人生奪っといて……」
兵士は扉を眺めながら出雲に答えた。
「あの人の母親はそれはそれは美人だったんだけどな、情熱を求めて美男と駆け落ちしちゃったんだよ。妻に捨てられた前の領主様の面目は丸つぶれさ。だからあの人は、自分を捨てて父親を辱めた原因を作った美しい男を、許さなくなったんだ。領主になってから美男たちを地下送りにしたのは、そうすることでしか復讐できないからなんだよ。本当は母親を八つ裂きにすれば、すべてが終わるんだろうに」
「憎い……憎い……憎い……!! ううっ、うううっ……!!」
「毎日泣いてるんだよ」
兵士の言葉と、子値丸の押し殺した泣き声だけが、廊下に小さく反響していた。
「いよいよ明日でございますな」
耕世が初老の男に酌をした。
「うむ」
白髪混じりの眉ともみあげをばらばらな毛流れに生やした、深いしわがいくつか刻まれた浅黒の男が、盃をあおいだ。
名を加次。この町の領主を補佐する大臣下である。
「この町の者は、彼らの話を聞けば皆、加次様に従うことでございましょう」
「うむ。まさか子値丸がここまで馬鹿だとは思わなかったからな。人々はあれを殺すだろう」
加次の、異様に白目の白く浮かびあがる目が、ぎょろりと耕世をとらえた。
「我々がただ女たちに真実を告げるだけで済むとは、反乱の計画を練る必要もありませんでしたな。向こうが勝手に自滅してくれるとは、幸運というものです。天が是が非でも、加次様を御領主に据えたいと思し召したのでしょう」
加次は、声にならない声で、白目の強調される目を開けたまま、笑った。
「まったく、寝取られ亭主に神経質な子供にと、親子二代にわたって仕えてきたが、そんな甲斐性なしの治める領地の大臣下だと、他領地の人々に自己紹介するときほど、恥ずかしいときはなかったわ。この有能な私が仕えるべき、立派な上役ではなかった。ついていけないなら、私が代わりに領主になればいい。才能のある者が愚かな者の下についていることほど、不毛で不幸なことはあるまい」
「おっしゃるとおりでございます」
耕世は再び加次に酒をついだ。
「民衆は皆加次様の味方……。我々は手を下さず、民衆に子値丸を殺させましょう。そしてその場で民衆におされて、加次様が御領主に。さすればこちらのもともとの反乱の意図も隠せますし、国王も加次様を正式にお認めになるでしょう。『また国内で領主を殺されたらこちらの支配が滞るから』、と。半年間、晴れ舞台が整うまで子値丸に好き放題させた甲斐がありました」
「フッフッフッ、その間に兵士と男どもは酒で、女どもは『善意』で手なずけられた。『いい領主』とは、いいものだなあ! たった一面を見せるだけで、全員が味方してくれるのだから!」
加次の高笑いが部屋中に鳴り響いた。
その床下に、十二支式神の紙の「戌」(犬)で、耕世を追ってきた紫苑がいるとも気づかずに。
翌日。子値丸の誕生日に、何も知らない人々が道を飾りたて、演説を聴きに広場へと向かう。
亜下たちは反乱軍と合流し、広場から離れた建物の陰に隠れている。
兵士に守られた子値丸が台に登り、民衆が歓声をあげたとき、
「今だ!」
耕世が叫び、反乱軍と亜下たちが走り出した。
子値丸は、あっという間に二人の屈強な反乱兵に拘束された。
「なんだお前たちは!? 兵士、助けろ!!」
しかし、子値丸の兵士は誰も動かない。
「加次!! 加次!!」
必死に大臣下の名を叫ぶ領主に、加次は苦り切った顔をした。
「無能に頼られ、支えねばならない……なんと道理に反することか。その我慢も今日で終わるのだ……」
突然の出来事に民衆が騒然としているのを、亜下が、声を大きくする円錐形の拡声器を口にあてて叫ぶことで、静めた。
「皆さん聞いてください!! この領主は、何の罪もない人々を、地下迷宮で奴隷にしています!!」
亜下の演説が始まった。人々はその話に驚き、どよめき、混乱し始めた。
そこへ間髪を容れず、
「その話は真実です!!」
地下から脱出してきた、汗と泥まみれの百人前後の男たち。
決定的であった。
騒いでいた民衆は、やがて一つの方向性を持った。
「なんという領主だ!! 自分では逆立ちしてもかなわないからといって、恵まれた人間を不当に差別するだなんて!! こんな不平等な奴は、領主にしてはおけない!! 殺せ!! オレたちを守るためだ、殺してしまえ!!」
殺せ、殺せと民衆の声が逆巻く渦を形成したとき、その渦の目に水滴のような音が落ちた。
「もう二度と捨てられたくなかったんだよな」
露雩の声だった。その澄み渡る響きが、渦にさざ波を起こし、平らにならしていくようであった。
「美男をみんな閉じこめても、母親を奪った男には復讐できない。でもせずにはいられなかったのは、母親を惑わせた美男がまだあちこちにいたら、また捨てられると思ったからだよな。もう母親はどこにいるのかもわからないのに……」
子値丸は紅をさした唇を引き結び、白粉の白色に負けている、濁った白目を剝いた。
「そんなに執拗に化粧をするのは、自分が美しければ母親は自分を捨てなかったのだと、自分を責めているからだ!」
子値丸は歯も舌も見えないがらんどうで真っ暗な口を開けた。そして、そこに両側から水流が流れこんでいった。
「憎い……憎い……!! 母を連れていった男も、母に連れていってもらえなかった自分も、同じだけ憎いー!!」
そして子値丸は大声で泣きだした。
民衆はこの有様を見た。どうやら子値丸は美男に復讐するというより、むしろ母を奪われた子供が、必死に捨てられる恐怖を追い払うために、美男を目の届かない場所へ追い出した、ということだったようである。
「子供の駄々で百人が半年間も……」
「いや待てよ。それなら責任の所在は……」
慌てて耕世が叫んだ。
「何の罪もない百人が受けた仕打ちを、許してならない!! 子値丸は、領主にふさわしくない!!」
そうだそうだと叫ぶ反乱軍や亜下たちに民衆がつられる中、露雩が子値丸に声をかけた。
「美男を百人見てきてどうだった? 彼らは美しいからって、なんでも思い通りに生きていたかい?」
子値丸は、泣くのを休んで、露雩を見上げた。
「違ったろ? 同じように苦しんで、同じことで悩んで、同じもので痛みを覚える。みんなお前と同じなんだ。お前の立場になったら、みんなも悩むよ。苦しいよ。だけど、だからって、関係ない人を巻きこむことは、誰もしないよ。みんな、自分なりに答えを出して、前に進んでいくんだよ」
「私は母に会いたい……!! 戻ってきてほしい!! ううっ!!」
子値丸の両目から、再び涙が流れ出した。
「母親に傷つけられた自分を受け入れて。起きてしまったことは仕方がない。他のことに逃げてはいけない。いいかい、何の悩みもなく、すべてのものに恵まれた、全部を持っている人間はいないんだ。みんなそれぞれ、苦しい目に遭ってる。そしてこの話は逆のことも言えるんだ。全部を持っている人間がいないということは、全部を持たない人間もいないということだ。どんな人も、何か恵まれたものを持っているんだ」
「そんなもの、一つもない! それがあれば、私だって少しは――」
「ただ単に探し出してないだけだ。子供が自分の一生をわかった風な口をきいてはいけない。命は長い。探しなさい。そしてそれを自分と人のために役立てなさい、それが人生だ」
露雩にぴしゃりと言われた言葉が、子値丸の涙を引っこませた。
「自分や他人を思い通りにしようと憎むより、自分の持っているものを見つけて伸ばさなければ、自分は何のために生まれてきたのかわからないぞ! お前の人生は、他人の決めた基準に振り回されて終わって、いいのか! しっかり、自分を持て! 自分の答えを、出せ!!」
子値丸は、美を基準にしていた母が、目の前から永久に去っていくのを感じた。まだ恐い。いつか美しい男が、また子値丸の大切な何かを奪い去りそうで。だが、
「全部を持たない人間はいない……」
子値丸は、露雩の言葉をかみしめた。また同じ目に遭ったとしても、その見つけた、たった一つの「何か」が、少なくとも今よりは子値丸を支えてくれるような、そんな気がした。
子値丸は民衆に土下座した。
「皆さん、謝って済むことではありませんが、申し訳ありませんでした!! 私の身勝手な行動で、罪のない人々を奴隷にしてしまい、この罪は私が奴隷として彼らの下で働くことで償います!! その後、死刑にして下さってかまいません!! でも、どうか半年は奴隷として働かせて下さい!!」
子値丸はすっきりとした目で顔を上げた。
「その間に、こんな私のいいところを一つ、探しておきたいので!!」
民衆は黙っていた。
と、あちこちから拍手がまばらに響いた。
それはやがて大きなうねりとなり、盛大な拍手と口笛に変わった。
「いいぞー!! やってみろ、子値丸ー!!」
「罪を償うところをオレたちにちゃんと見せてみろ!! がんばれよー!!」
「罪を認めて死ぬ覚悟、お前はきちんと悪事と向き合ったな! どう償うか見守ってやるからな!!」
剛太たちも、償いをするならその機会をやろうとうなずきあった。
皆が皆、子値丸を応援する空気になったので、加次と耕世は平静を失った。
「どうなっている耕世!! これでは私の出る幕が!!」
「あの男、小屋に縛っておいたはずなのに、余計な真似を!!」
「ええい、待て皆の者ー!!」
加次が荒々しく壇上に踏み登った。人々は何事かと熱狂が静まっていった。
「たとえ罪を償ったとしても、果たして子値丸は領主の器かな!? 私は子値丸の所業を目にし、半年前から百人を逃がす計画を練ってきた!! 私の方がよほどこの町のためを思っているぞ!!」
一瞬人々は何が言いたいのかよくわからなかったが、
「加次様、領主様が間違っていたら正すのが大臣下のお役目ですのに、なぜ諫言なさらなかったのですか」
と、老人たちが聞き返した。
「そ、それは……」
言いよどむ加次の声を、はねのけるような声が響いた。
「事を大きくして、子値丸の代わりに自分が領主になるためよ」
「なっ!!」
図星をさされてうろたえる加次の反対側から壇上に登ったのは、赤い髪の美少女、紫苑であった。
「でたらめを申すな! 私はただ救出のときをうかがって……」
「民衆が集まって、勝手に子値丸を殺して、勝手に自分を領主にかつぎあげてくれるのを、待ってたのよね」
「なんだそれは!?」
「どういうことだ!?」
顔を見合わせる人々に、加次は真っ赤な顔で両腕を上げ下げし、鎮めにかかる。
「この女は嘘をついている、こんな話は事実無根だ!! 皆、信じるな!! 私は潔白だ!!」
紫苑は涼しい顔をしている。
「焦っているようね。領主にはなれないわ、投資した金は回収できないわで、ふんだりけったりですものね。でもこの半年間、毎日の酒を与えて反乱軍を組織するくらいで、使ったのは数千万イェンにもいかないでしょう? 大臣下の地位にしてみれば、大した額じゃないと思うけど」
「そういえば、どうして大臣下は酒をくださったのだろう。地下では粗末な食事だから、栄養のある食べ物にしてくださる方が、本当にオレたちのことを考えていることになるのに……」
剛太が独り言を言うと、やせ細った百人も考えこみ始めた。
「栄養失調の姿で現れないと、民衆に訴えられないからよ」
「違う!!」
加次が民衆に怒鳴った。
「違う違う違う違う!! 子値丸に気づかれては困ると思ったからだ!! この女は私を陥れようとしている!! 何の証拠があって私を訴えるのか!! 何を根拠に、私に陰謀があるなどと――」
「では誓ってください。これから一生子値丸を支え続けると」
「――ッ」
一瞬、加次は息が詰まった。つまらない主君、有能な自分、半年間の投資、その他一切の、子値丸を否定する感情が押し寄せてきた。
その一瞬を、民衆に見られてしまった。
加次の思惑は、露見した。
「加次様……。信じていたのに……」
剛太たちが加次から一歩、また一歩と離れていった。
加次はそれを見て、どう態勢を立て直すかと四方へ足踏みを繰り返したが、民衆の目に気づいて、開き直った。
「ええい、わからぬか! この領主親子は、我々が主人とするにふさわしくない人間性の持ち主なのだ! 親は領主でありながら女一人翻意させられぬ甲斐性なし、息子は権力を自らの救いのためにしか使わないろくでなし! こんな無能どもに我々の人生を任せていいのか! 私が上に立てば、力をもっと有効に使い、皆を豊かにすることができるぞ! 私を領主にするべきだ! この小僧には、無理だ!!」
怒鳴り声がやむまで、民衆は黙っていた。そして、静かに返した。
「息子の方は百人に罪を償って、大人になるって言ってる。親の方も、奥方が逃げたのはオレたちには関係ないことだ」
「なにい?」
加次のばらばらの毛流れの眉が上がった。
「大切なのは、領主個人の人間性よりも、我々をどう導くかだ。もちろん、悪人は許さないけれど、領主だって人間なんだから、誰かを思い通りにできるわけがない。奥方のことは、不幸だった。それで十分だ。領主様を責めたらかわいそうだ。むしろ、思い通りに縛りつけることの方が問題だ」
民衆が子値丸の父親を疎ましく思っていないことに対して、加次は激しく頭を振った。
「ふざけるな!! 下につく者の身になれ!! そんな無能を補佐することがどれほどの苦痛か、お前たちは知らないのだ!!」
「大臣下、ならあなたが彼らを領主にふさわしい人間に、育てるべきだったのです」
老人たちがゆっくりとしわがれ声を出した。
「社会や人を教育することが、我々や機関の老人役である大臣下、あなたのすることだったのですぞ」
「嫌だ!! 私は、自分の実力を世に問いたい!! 領主として、この町を金持ちにしてみせる!!」
「政治の成功が富を得ることだと思ってるうちは、ろくな行いはしないわね」
紫苑が口を挟んだ。
「政治に求められているのは、人の心をつなぐことだというのに。あんたみたいな奴が金を出すときには、目的があるわ。何もなくて善意でお金を出す人は百人に一人もいない。金を出された方は、この契約には必ず裏があると思わなければならないわ。望み通りにいかないとき、金を出した奴は本性を現す。そのときは手遅れだから、そうなる前に金を出す奴の意図をよく考えなければならない。安易に流される者は、安易に人生を使われる」
人々は加次に告げた。
「あんたを領主にはしない。また人を買収されては困るから、町から出て行ってくれ」
それを聞いて、加次は、ふらふらとよろめいた。華やかな地位、潤沢な財産、尊敬と名誉、すべてを失ったのだ。
思わず周囲の意思を確認するため、目を走らせた。無意識に、子値丸と目が合った。とたんに、憎しみが脳天へほとばしった。子値丸はまだ反乱兵二人に挟まれている。
「殺せ!!」
加次の口をついて出た。
「子値丸を、殺せー!!」
加次に金をもらっている反乱兵は刀を抜いた。
紫苑が犬歯を見せて双剣に手をかけようとした。
それらは止まった絵の連続のようだった。
その中で一人瞬時に動いた者があった。
式神出雲が、兵二人と加次に拳を入れ、気絶させたのだ。
耕世も、すべてを観念して、腰から尻を落とし、地べたでうなだれた。
「これからは、いろいろな人と話して、自分がすべきことを見つけていきたいと思います」
民衆の目の前の壇上で百人に謝ってから、子値丸が露雩にまっすぐ向かってきた。迷いのない、一点、光さえ生じたかのような目だった。露雩が柔らかくうなずいた。
「悪がのさばっていたとしても、一時期だけだ。なぜならそれ以上の悪がいるからだ。『善の皮をかぶった悪人』だ。善人は悪を倒してもらうことを望む。『善側』のお偉方はそのために兵を整える。しかし実はここで駆け引きがある。皆が皆、自分の手柄にしようと企んでいるのだ。悪はこの『善のふりをしている悪』に利用され、彼らのために必ず葬られる。
悪人は、彼らの株を上げることに貢献するためだけに、生まれてきたようなものだ。本当に恐いのは知恵のある悪人だ。それを倒すには、お前が知略家として、悪を見抜く目を持つしかないぞ」
「はい! 人々と接して、学びます!」
子値丸は、はっきりした声で歯を見せて笑った。
「百人を、本物の官吏に召し抱えることにしたのです。そして私は半年間彼らに仕え、私が間違ったことをしたら、正してもらうつもりです」
「私たちの意見も聞いてもらうわよ。この町は、みんなの町なんだから!」
剛太の隣で仁王立ちする亜下に、子値丸は「もちろん!」と返し、みんなが笑った。
紫苑は気づいたことがあって、ともに笑っている露雩の腕を肘でこづいた。
「これよ!」
「え?」
紫苑が小声で囁いた。
「初めは一人の人間が好きで戦ってた。だけど最終的にその人と自分の暮らす町を守りたいと思った。ほら、一人を愛しているうちにどんどん周りも愛せるようになっていくでしょ? こうして人は世界を愛するようになっていくのよ!」
「はあ……」
「あなたみたいに最初からぶっ飛んでるのはまれ。人間って最初は自分の周りにあるものしか目に入らないものなの。そこから少しずつ世界を広げていくものなのよ。つまり、誰かを守りたいって気持ちから広がって、世界を救いたいって思うものなのよ」
露雩は亜下と剛太を眺めて、感心したように息を多く吐いた。
「へえ、なるほど。スキにそんな使い方があったのか!」
半ば感動しているかのような声の調子であった。
「ね? 偽善じゃないでしょ?」
紫苑がうかがうように笑いかけたとき、
「でもその後、世界とスキな人どっちを取ると言われたら、世界を選ぶんだよね?」
露雩が何の疑いもなく微笑むので、紫苑は無言になってしまった。彼に言われて残念だったからだし、自分が選ぶのがどちらか瞬時にわかってしまったからでもあった。
「こんなにも素直になれたのは、私もまだまだ可能性がある、捨てたもんじゃないんだと、教えていただいたからです! どんな自分が見つかるのか、わくわくしています!」
興奮して話す子値丸の視線の先にいる露雩を眺めながら、紫苑は体は熱く、心は冷たく沈静していった。
剣姫なら、斬っていた。
子値丸も、加次も。
それなのに、この男は両者を斬らずにすませた。むしろ、「生かした」。
「私とは行って帰ってくるほど違う奴だ」
冷ややかに、見つめた。
「そして、世界を愛する本物の言葉を持っている――」
無意識が手を双剣に伸ばした。
出雲は、露雩の人を変える言葉に心を動かされていた。きっと、人が迷ったとき、露雩は答えをくれる。紫苑と同じくらい、彼を守りたいと思った。
霄瀾も、この人ならもしかして、紫苑を変えられるのではないかと、幼心を震わせた。
紫苑は、両手にひやりとした感触を与えながら、露雩の、世界を愛する気持ちを考え始めた。彼は、悪がいなくなった後も喜んで生きていくだろう。翻って、私はどうだ? 悪を倒した後、私は何のために生きようか?
山の上に住もうと思っていた、でも、彼と暮らせたら……。それともこの世界からは用済みで消されるのか……。
「神よ私に道をお示しください」
心の中で祈っても、剣姫化から救ってくれなかった神は、やはり何の徴も示さなかった。
紫苑は届かなかった思いに怒り狂い、
「私にそんな迷いを与えておいて、何も言わないなら、この力で世界を滅ぼしてしまうぞ!」
と、暗い影を額に落としこみ、脅した。
目に悪徳の芽生えが見えたとき、紫苑の体中から白き炎が噴き出し、紫苑は壇上で倒れた。




