闇の影王(かげおう) 紫灰(しかい)の炎舞(えんぶ)の守護姫第三章「シン」
登場人物
赤ノ宮九字紫苑。世界の王。新しい世界への扉を開けた者。
シン。骨の翼を持つ少女。
第三章 シン
「これで旧き世界には誰も残っていないであろうか」
紫苑は、朝日の昇る光に当たっても薄紫色の砂の大砂丘から、周囲を見回した。すると、太陽を背に骨の翼で飛んでくる少女があった。
「シン!?」
シンは、紫苑と似た紫色の髪をなびかせて、紫苑の前に降り立った。黒いロングドレスを着ている、紫苑に雰囲気の似た、挑むような目をした美少女だった。
「この世界には、もう私しかいない」
シンが、ささやくような静かな声で言った。しかし、次の瞬間、強烈に叫んだ。
「私が世界だ!! 世界のことは私が決める!! 人一人救えない世界など、消えてしまえばいい!!」
「どうしたのだシン!?」
あまりの激しさに、紫苑は近寄った。シンは手を払った。
「こんな風に思うのは、神様が見ていてくださったからだよ!! 神様しか見ていてくれなかったよ!! 私が正しいって!! だってこうでもしなくちゃ私は存在してる理由を見失ってしまうもの!! 私を笑いものにした人間を許さない、最後の復讐なのよ!! 私は誰も愛さない、私は誰も顧みない、私は正しい者だけ救う!! 敵が欲しかっただけなのかもしれない。戦って殺しても誰にも文句を言われない絶対悪が」
紫苑は胸の奥が息苦しくなってきた。シンは言葉を続けていく。
「千人に二、三人は私に普通に接してくれた。それだけが私の心の支えだった。人間はまだ改心の余地があると。それだけで私は耐えたのだ。私は虚しい愚かな期待をしたのか? 人間を信じるなどという、虚しい愚かなことをしたのか? もし私が愚かだとしても、私はこの空虚な心を抱えたまま正義のために生きるだろう。何かにすがっていないと、爆発しそうなんだ」
紫苑はシンを救えるのは神しかいないと知っていた。しかし、次のシンの言葉で、その考えは打ち砕かれた。
「世界には千人に二、三人の割合しかまともな人間はいない。私は、この世界にはもう生き残る価値はないと思い始めた。だが、全員殺すのは難しい。ナイフで刺しても、銃で撃っても、大した人数は殺せない。その間に志半ばで世界を滅ぼすことを阻止されたのでは不本意だ。ちまちました殺人など意味がない。もっと簡単に世界を滅ぼす方法がある。それは誰も血を流さない。だが確実に死を与えられる。どうすると思う。世界を思想的に殺すのだよ! 偽りの神の名を唱えよ! 不徳よ道理にまかり通れ! 愚かな悪徳を賛美せよ! 狡猾に生きよ、でなければ出し抜かれる世の中となれ! 不信の関係、汚染しあう世間。悪に染まらねば生き残れぬ世界。あっという間だ! あっという間にこの世界は終わる! あっはははは!」
紫苑は目を潤ませて怒った。
「千人に二、三人、人間への憎しみ! 私はお前に共感するところが多々ある! だが私とお前は決定的に違う! 私はその二、三人を守るために正しい世のため悪を祓おうと戦った! お前はその二、三人まで悪に染めてからめ取る気か! そして『正しい者がいない世界』を滅ぼして、己の罪を逃れようというのか!」
シンは不敵に笑った。
「本当に心正しければ、私の罠にははまるまい」
紫苑が怒気を強めた。
「勝手な言い逃れを! 救う気などないくせに!」
シンは目元に陰を作って挑むように笑った。
「誰でもいい。ナイフで刺しても銃で撃っても、大した人数は殺せない。七人? 二十人? 自分の力はこの程度かと情けなくなる。私はそこらの犯罪者とは違う。私は世界を殺してやる!」
「会ってもいない人々までも!」
「会わなくてもわかるっ! 誰に会っても……誰に会っても奴らは私を憎み、嘲るのだ! 僻なき罪に苦しむ正しい者の呪いがどれほどの力を生むか、思い知れ!」
シンは骨の翼を広げ、紫苑を突き刺そうと迫った。紫苑は神刀・桜と紅葉の双剣を抜き、弾き返し、よけ、跳ぶばかりである。シンが叫んだ。
「どうして私ばかり苦しい目に遭うの! こいつら私が苦しんでまで救う価値があるのかよ!! なんで私ばっかり!! もう生きてなどいたくない! こんな連中を救うために生きるのなんて、したくない! 世界を救ったら死のう。もう嫌だ! 神様お願いです。私をもう二度とこの世に生まれ変わらせないでください。てめえらの顔なんか見たくねえ! てめえらに救われる価値なんかあるのか! このクソバカ野郎ども!! アー!!」
シンは骨の翼が生えてから初めて大声を上げて泣いた。それまではどんな苦しいことがあっても、涙が流れるだけで声は耐えていたのに。
シンの骨の翼が、紫苑への攻撃をやめ、シンを守るように閉じられた。
「ああ、敵意を向けてくる者に柔和に接することができるだろうか。私が悪いのか相手が悪く愚かなのか。愚かな者にかかずらって神の救いが遠のくことが恨めしい。愚かな人間たちを一掃してしまいたい。私の徳をすり減らし世の中の害にしかならない役に立たないクズどもを。何の科もない私がなぜすべての者から敵意を向けられねばならんのか。生かしてはおけん、戦ってやる! 戦って死んでもかまわない、それまでに人間どもを根絶やしにしてみせる! 私は心を和らげることができない。私の心は鏡。映すお前の心が醜ければ、醜い最期をくれてやろう!」
「お前は考えることから逃げている!」
紫苑が叱った。シンが挑むように、キッと睨みつけた。紫苑が目の力を極めた。
「この試練で神は何を私に考えさせたいのだろうかと、模索しなければならない! 与えられた運命と戦うとは、そういうことだ! 人には全力を発揮すべき時がある。そのときがいつか知るために、人は葛藤し、戦いながら生きていくのだ。その証拠に、神は私に理由もなしに運命を押しつけたりはしなかった。すべてのものに意味があった。それを一つでも知り、解いていくのが、人のなすべきことではないか。それが神から与えられた運命を変えるということだ!!」
シンがたまらず紫苑の目をよけた。
「だって、変えられない運命がありながら、そんな夢見てるみたいなこと、考えられるわけないじゃない! 虚しいだけよ!!」
紫苑は逃がさなかった。
「苦しみがなければ、神を知ることもなかった。苦しみがなかったら、私は人間の求める欲をかなえるだけに生きていただろう。普通に結婚して、普通に平凡な一生を送っていたかもしれない。でも、今ならわかるだろう、それは本当の私の望みではなかったのだ。苦しんだからこそ、今があるのだ」
シンはついに紫苑の目の光を見た。怯えながら震えていた。
「一生、人から嫌われたら、どうするの?」
紫苑の声は柱のようにしっかりと立った。
「私はもう、迷わない。たとえ人から嘲られても、罵られても、怒りの対象になっても、人を信じることをやめない! 昔は戦えるからだと思っていた。復讐の炎をずっと燃やせるからだと思っていた。でも今は違う。誰もが私を嘲るこの世界、しかしそんな誰もがきっとその世界を変えられるこの世界、私は希望に賭けたいと思ったの。会わなくても皆私を嫌悪し嘲ることがわかる、でも会わないからこそわからないこの世界の人間たちを、私は信じられると思ったの。人が人を信じられたように、人は人を信じられることに気づけたから! 人が信じたものは、間違ってなんかないって、人を心の底から信じてた日々が教えてくれたから! 人を信じる以上、人を信じないのは人じゃない! それは人の否定なの! だから私は、もう迷わない! どんな苦しみが待っていようとも、人を信じて生きたいのーッ!!」
シンが両膝をついた。
「誰も私のそばにいてくれないのに!? みんな、みんな私を遠巻きに眺めるだけなのに!?」
紫苑が翼を広げた。
「その者が苦しい目に遭ったとき、その者の真価がわかる。それは……『その者を見る周りの者も同じこと』なのだ。苦しむ者を見て嘲笑い、見下すならば、『嘲笑い、見下されることを経験しなければならない者』となる。お前はその存在を人々に知られることで周りの人々の魂の真価を引き出していたのだ」
シンは憂いを帯びた表情になった。
「私さえいなければ、人々は己の罪が確定することはなかったの?」
紫苑は首を振った。
「運命の時を延ばすことはできない。お前も、周りも」
シンは他人のことを考えていたのを否定するように激しく首を振った。紫色の髪が乱れた。
「私を否定してきたこの世界を、どうしても破壊するなっていうの!? 私は許せないのに!! 新しい世界へ行って、新しい世界をめちゃくちゃにしてやる!!」
紫苑は新しい世界への扉を出現させた。
「では生きるべき者が死ぬぞ。お前に優しくしてくれた者たちもいた。彼らに恩返しもせず、本当に殺していいのか」
「恩返し」と言われて、シンが動揺した。何も考えず、自分を受け入れてくれた人々に、攻撃するというのか。人間は嫌いだ、だがこの人たちは自分が人を信じてきた希望なのだ。
「あ、ああっ!!」
シンは真正面から両手で頭をつかみ、背中を折り曲げた。
「彼らを……裏切ることが……! できないっ……!!」
善と悪の拮抗するのがシンの運命であった。
紫苑は昔の自分を見つめるように、目の光を極めた。
「迷うことはない。殺そうとする者より、生き残るべき者に目を向けろ。彼らは最後の一人を待っている」
シンは紫苑の目の光を受けて、同じく目の光を極めた。
「最後の一人? それは誰?」
「お前と私だ」
「え……」
紫苑はシンと見つめあいながら近づいた。
「お前は私が解決したと思っていた、剣姫が救われる前の人間への憎しみの心だ。お前はずっと血の復讐を欲していたのだな。人間を全殺するまでは許さない刺殺剣姫・シン。ずっと独りにしていてすまなかった」
紫苑はシンを抱きしめた。
「知っていたよ……私は、本当は人間どもを全殺したかったんじゃない。
一人でも愛してくれる人がいたら、それでよかったんだよな……!」
シンの目の光から涙が一筋流れた。
「誰もいなかったの! 誰もいなかった! これが神の定めた運命とはいえ、私は寂しかったの! 独りでいるのが運命だってわかっているのに、どうしても……私だって、人の心を持ってるんだもの!!」
紫苑は頭をなでてやった。
「うん、そうだね。あの頃は、人でなしにされて、ずっと独りぼっちで、化物呼ばわりされて、なのに人としての心はズタズタで……」
シンは紫苑の胸に顔を埋めた。
「寂しいよ……辛いよ……苦しくて、憎い……もうこの世界に未練がなくなるくらいに!!」
紫苑は優しく語りかけた。
「それが神の望まれる道。私たちが新しい世界を必ず見つけて真っ先に到達するために」
シンは目一杯目を見開いた。
「何もしてくれなかったと思ってた。でも、そばにいてくれたのですね。これが運命、なら私のそばには御一方だけいらした、神よあなたが!」
どんなときも独りではないと教えてくださった。これこそ、神の救いである。
紫苑が旧き世界から新しい世界への扉を通して新しい世界へ虹のように言葉をかけた。
「神様がいつか人間の善悪すべてを帳消しにして世界を救ってくれるわけではありません。自分を救うのはいつも自分です。人間が自分を救う答えが出せるまで、寄り添って自然現象や周囲の命を保って守ってくださるのが神です。
そして、自分で自分の式に答えを出せた人間だけが、私の創った扉をくぐることができます。性格の良い人も悪い人も、貧者も金持ちも関係なく、全員に解く機会を与えられます。『自分は世界をどうしたいのか?』私は、支配層から子供まで、この式に答える機会を平等に与えます。
神は完全なる支配を望みません。いつも人間の答えを待っておられます。人間のことが好きだからです!」
シンは、世界の問題に自分なりの答えを出して、この世界の最後の一人として新しい世界への扉をくぐっていった。紫苑はゆっくりと扉に近づいていった。
「行くがいい、『旧き』世界の最後の敵、世界の王よ。世界の最後に立っている者、赤ノ宮九字紫苑よ。私の心は、ようやく救われました」
神々が止めていた時が動きだした。紫苑は新しい世界への扉の先の光の中へ消えていった。そして扉は向こう側から閉じられた。
旧き世界のすべてが一瞬光の中に包まれて、そしてそのあとを追うように全き混沌が何もかも呑みこんでいった。
「星方陣撃剣録第六部闇の影王 紫灰の炎舞の守護姫・通算二十九巻」(完)
――第六部紫の章・完――
第六部が完結いたしました。お読みいただき、ありがとうございました。引き続き、よろしくお願いいたします。




