闇の影王(かげおう) 紫灰(しかい)の炎舞(えんぶ)の守護姫第二章「世滅(せいめつ)教(きょう)」
登場人物
赤ノ宮九字紫苑。世界の王。新しい世界への扉を開けた者。
第二章 世滅教
旧き世界をめぐって、紫苑はわかったことがあった。
この世界を劣化させ、出口のない迷路に追いこんでいく勢力が、確かに存在したのだ。
「差別だ」「人権侵害だ」と言って、相手の意見を封じこめ、自分以外を議論なしにすべて否定する。
どこかの国が敵国を能なしにするためにスパイと協力者を使って言論封殺をしているのかと思ったら、中身は違っていた。
彼らは、「地球を滅ぼしたい集団」だったのだ。
民族も宗教も関係ない。「家族を殺された」「性的暴行を受けた」「奴隷にされて人生を奪われた」など、完全に償うことも完全に癒すこともできない攻撃を受けて、怒りと憎しみと悲しみに支配された人々であった。
「神に救ってもらえ」? 神はあのとき救ってくれなかったではないか。
「相手を皆殺しにしよう」? この傷は元に戻らない。
だとすれば、悪人どもを生かす世界ごと、自分も死ぬしか救われる道はないではないか。悪人を生かすなら、他の者たちも、世界も同罪なのだ、そして、自分の肉体が死に、世界を滅ぼした罪でこの魂が消えてなくなることこそ、忌まわしい記憶が消滅し、自分の真の救いになるではないか。
彼らは世界を滅ぼしたい宗教で、その名は世滅教という。
これはどの時代にも世界に常に一定人数存在する。
この苦しみを誰も癒すことができない、救ってくれなかった神など敵対するに値する、自分をこんな目に遭わせた世界と社会が恨めしい、自分はこの世界に復讐する権利が生じた。世界中の全員の思考を劣化させてやろう、嘘を広めてやろう、言論を封じてやろう、死刑を廃止してこちら側が自由に何をしても殺されないようにしてやろう、賛成派と反対派にそれぞれ取り入って各国内を分断してやろう、凶悪な死に方をする武器をどんどん開発しよう、環境は次々に搾取しよう、密猟して一種ずつ生物を絶滅させよう、毒物を製造して世界中にたれ流そう、戦争と内戦の火種をまき散らし続けよう。
世滅教は世界各国に必ず一定人数存在し、国と世界を壊して消滅させるために動いている。すべては復讐のために。
そして、特に「神が私を救ってくれなかった」ということを強く恨んでいる。ある者たちは、生まれ変わってもまたこの神がいるなら、もう生きる望みはないと言って魂の消滅を望みながら自殺した。生きる選択をした残りの者たちは、その神に祈ることでその神から力を与えられる信者たちを、まず真っ先に皆殺しにする決意を固めた。
「何をしても何を見ても幸せに暮らしていた頃がよみがえる。苦しい、憎い。こんな世界、地獄になればいい。私の苦しみを貴様らも味わえ!」
その一念から、「一人でも多くの人間を殺すと徳を積める」という教義の、偽りの宗教をたちあげた。
「異教徒を殺しましょう」
を、合言葉に、神を盲目的に信じる何も知らない信者たちを集めている。
神が好きなのは人間や命だから、その命を根絶やしにすれば、神に復讐できるのだ。
だから、この星を壊すことならなんでもするのだ。
紫苑は荒野の地平線を眺めていた。火山灰のような細かい薄紫色の土の大地だった。
「神々の御名を汚して消し、世界を偽りの神で誘い、滅ぼそうとする者たちか。雄牛の神様のおっしゃった者たちとは、世滅教の者たちのことだな」
空には天高い雲、地には風に舞う薄紫色の土埃。
「不思議だな。人は嬉しいとき天にも昇る気持ちになるのに、神のことを考えて感謝するだけだ。本当に自分のことを考えるのは、苦しくて悲しくて、心が地に沈むときだけだ。神から離れているときが、一番自分を見つめられるときだとはな。天にも地にも近づきすぎず、両方を大切にして生きていくことのなんと難しいことよ……」
世滅教は、人類を確実に絶滅させるために、世界宗教戦争を起こそうとしていた。神を信じる者同士、私の敵よ殺しあえ、と。戦争を後押しするために、各国の世滅教は新兵器を全世界同時に開発し、各国の指導者に「この威力を試してみよう」という気にさせようとしていた。
次世代兵器は、天候を操る性能を持つ。
そこで世滅教は、各国の各宗教の神々の能力と同じ効果を持つ兵器に、その神の名をつけた。例えば、灼けつく日照りを発生させる兵器には各国の太陽神の名、相手の兵器を攻撃し進軍を阻む雷雨を発生させる兵器には雷の神や水の神の名などがついた。人々は、神の力を地上に降臨させ、自分たちの味方につけたようで、大変に満足した。
まず、無宗教の国が狙われた。「神の加護がないから滅ぼすのは簡単である」し、「神敵の一番目」だからだ。また、国土が荒廃する核兵器は使わなくなった。自分の神が世界を統一したとき、神と自分たちが支配できない土地を作ることは赦されないことだからだ。人々は自国と他国の神を覚え、どの神にどの神で戦うかという戦略を練ることとなった。多神教は神々の兵器の数が圧倒的に多い。神と能力の数だけ、武器の着想がいくらでも湧き出てくるからだ。一神教は苦肉の策で天使を兵器にしている。世界中の世滅教が、「生き残った民族の神が降臨し、世界を導く」と「嘘のお告げ」をし、宗教戦争をしてはいけないと納得していた人々を、「世界中でそのお告げが出たのか。これが神のご意志か」と惑わし、戦争準備へと向かわせていた。
「新しい世界を、旧き世界と同じに染め直す気か!! 新しい世界を、滅ぼす気か!!」
紫苑が叫び、全世界が神の名を冠した全兵器を配備したとき、天界からすべての神々が降りてきた。そして、全世界に散り、機械の神々を、本物の神々が破壊し始めた。神々が大声を出しあった。
「お互い恨みに思わないように、各々自分と同じ名と能力を持つ機械だけを倒そう!!」
人々は、神々の御姿が見えないので、なぜ兵器が動かなくなったのかわからず、大騒ぎになっていた。一神教の神だけは、天からの雷のみで兵器を撃っていった。
全世界の人々が、自分たちが神の怒りに触れたとおののいた。
「偶像崇拝をしたということだったのか!?」
誰かが叫んだ。
「でも、オレたちはオレたちが勝って、我らが神に世界を捧げたくて……」
神の名を冠した兵器が残らず動かなくなって、人々は大恐慌を来した。
「誰だ!! 宗教戦争をやろうなどと言い出した奴は!! 誰の責任だ!!」
人々が調査し、元をたどっていくと、世滅教にたどり着いた。
しかし、既に世滅教の信者は、各国の核のボタンやミサイル兵器の発射装置のそばに、兵士として立っていた。
それらはすべて、世界中に照準が合っていた。
「これを押せば世界は終わりだ!!」
全員が拳を振り上げたとき、全員の目の前が真っ暗になった。
「ボタン!! ボタンは!!」
必死に探す暗闇の中、目の前に翼を生やした女性が立っていた。翼のある頭飾りをつけ、白いフリルが三箇所についた紫色のドレスと、腕当てを身につけ、ハイヒールをはいた、紫色の髪の紫苑であった。
全ての神々が告げた。
「赤ノ宮九字紫『音』、お前と世界に我らの力を与え、しばし時を止める。彼らの憎しみと悲しみに決着をつけてやれ。新しい次の世界のために! 一人も見捨てるな!! それが神々の望みである!!」
紫音つまり紫苑は、翼を大きく広げた。羽根が舞った。
「神の光が差す限り、私は希望の光を通す水晶になる!! それを訳した私の七色を見よ!!」
これから世滅教との対話が始まる。
暗い色の服の男がナイフを持って道端に立っていた。
誰からも顧みられることもなく、社会から無視されて生きてきた男が、自暴自棄になって通り魔をしようとしていた。
「誰もオレを必要としてくれなかった」
と、叫んだ。紫苑が問いかけた。
「誰もお前を支えてくれなかったというのか」
「そうだ! だからオレはお前たちに、オレはここにいると伝えていい権利があるんだ!!」
「甘ったれるな!!」
紫苑に怒鳴られて、男も怒鳴り返した。
「なんだと!! オレのことを知らなかったくせに何がわかる!!」
「その服は、誰が作った!!」
男は、一瞬怯んだ。紫苑がたたみかけた。
「工場で働く人がいて、その機械を作る人がいて、その材料を作る人がいて、完成したら運んだ人がいて、店で売った人がいてくれたからだろう!! みんながいなかったら、今のお前はその服を着てないぞ!!」
「それは、金のために動いて――」
「ではお前は金さえあれば、自分一人でその服が作れるのか!!」
男は、言葉につまった。紫苑は重ねて問いかけた。
「お前、明日何を食べるつもりだった!!」
男は、動けなかった。
「弁当の米を作ってくれた人がいる、おかずの野菜や家畜を育ててくれた人がいる!! 鳥や虫に食べられず、病気にもかからなかった、幸運のつまった米や野菜や家畜のことを、自分のもとに無事に来てくれてありがとうと、思わないのか!! お前は、その年まで何度多くの人に助けられて育ってきたか、わからないのか!! お前が必要だと思ったとき、これだけ多くの人がお前を助けて生かしてくれたではないか!! どうして自分の悲しみばかりぶつけるのだ!! お前がこれから傷つけようとしている見知らぬ他人は、お前を助けてくれていたのだぞ!!」
それを聞いて、男は泣き叫んだ。
「世界はつながっている!! 誰かのおかげでオレは今『自由』に生きてる!! だけど、それならなんでオレは独りぼっちなんだよ!! みんなオレの言うことを信じない!! ささやきあって無視をする!! なあ、オレは薄っぺらい人間なのかな!? 話を聞く時間も無駄なほど、価値のない言葉しか言えない人間なのかな!? みんなに好かれる人間ってなんなんだ!? どうすれば……どうすれば……」
鼻をつまらせながら続けた。
「みんなが話しかけてくれるのかな……わかんねえんだよ……好きになってほしいんだよ、こんなオレを……ときどきだめな奴になるってわかってるけど、こんなオレを……!!」
泣き崩れる男を、紫苑の翼の光が包んだ。
「神様はこの世界が好きなのだ。みんなで支えあって生きているから、この世界が好きなのだ。だから、人間も自然も、すべてを大切にする者が好きなのだ。この和を乱してはならない。和を乱す者は、誰からも助けてもらえなくなる」
男は、顔を上げた。翼の光が差した。
「もし自分が今存在しているのはこの世の全員のおかげであると感謝し、世界の和の中に入りたいと願うなら、きっと神様がお前に道を増やしてくださる。それを見つけるのがお前の人生だ。そのとききっと神様と世界を見たお前は、お前だけにわかる何かが見える。それが、お前の答えだ」
男はうつむいた。
「オレ……がんばれるかな。寂しいよ……」
「きっと変われるから、最後まで私の言葉を聞いていたのではないのか」
「――!」
男はうつむいたまま、服をつまんで見て、昨日の夕食のコンビニのおにぎりを思い出した。
「変わりたいよ……」
男は、再び紫苑を見上げた。再び翼の光が差した。
「なあ……あんた、名前はなんていうんだ? せめてオレが知ろうとした人の一人目になってくれ」
紫苑は名乗った。
「そうか……オレの名前、覚えていてくれる……?」
「ああ」
男も名乗った。紫苑は翼を羽ばたかせた。
「じゃあな。お前も世界の和の一員だということをずっと覚えていろ」
男は笑った。
「ああ! ずっと……覚えてる……!!」
紫苑が空に飛び去ったあとを、男はずっと見送っていた。
「ありがとう……」
ゆっくりと、その言葉を胸にしまいこむように声を丸めた。
紫苑の前に、犯罪者によって大切な人を殺された遺族が現れた。
「私から永遠に娘を奪った! なんで娘が死ななければいけないの!」
紫苑は母親に答えた。
「生きているのが当たり前だと思ってはいけない。様々な人間の感情と行動を神が組み合わせたからあなたは今生きている。生きることはとても難しいことだ。死が不幸というより、生きていることが幸運であると気づくのだ」
父親が胸をつかんだ。
「でも、一生苦しい」
紫苑は父親に答えた。
「死んだあともその人のことを想っていれば、必ず守ってくれる。それは、この世にいたらできない助けだったのかもしれない。死んだら終わりだと思わないなら、ずっと見守ってくれていることを信じなさい」
兄が叫んだ。
「殺人犯が許せない」
紫苑は兄に答えた。
「憎みたいだけ憎んでいいし、一生許さなくてもいい。裁判の判決がどんなに不公平でも、神は公平である。正しい罰を受けなかった犯罪者、正しい罰を与えなかった周囲の者たちにしかるべき罰をお与えになる。長い時間がかかるかもしれないが、安易な復讐をせず、神を信じていれば、犯罪者が最も苦しむ方法で罰を受けているところである犯罪者の末路を知ることができるだろう」
妹が泣きじゃくった。
「死ぬのがお姉ちゃんじゃなくてもよかったんじゃないの? 私はこれからどう生きていけばいいの?」
紫苑は妹に答えた。
「それはあなたがなぜ生きているのかと問うことに等しい。それは、誰にもわからない。人の生死の理由は、神の領域である。私たちは、受け入れたあと、一生かけて考えていくしかない。あなたは今、人はなぜ死ぬのかと、問うているのに等しい」
家族が声をそろえた。
「神様は私たちを裏切って、一生癒えない傷をのこした」
紫苑は答えた。
「一生残る傷なく生きていける人はいない。そして、そんなときも、その他のどのようなときも、人は自分一人の力で生きてはいない。社会と自然があるから生きていける。それをまわしているのは神なのだ。あなたは見捨てられてなどいない。生かされているこの一秒をしっかり感じなさい。そして、考える時間と環境が与えられていることに気づきなさい」
一家は、ミサイルのボタンを探す手をためらい、動けなくなった。
紫苑は、人々が騒いでいる平野に降り立った。
お金をたくさん稼いで贅沢に暮らす人々を「悪だ」と軽蔑し、社会の敵だと攻撃していた。金はこの世で平等に分配されるべきだ、成功者と失敗者がいてはいけないと。
紫苑は答えた。
「時代の読みが甘かったり、決断を間違えて倒産したりする人が出るのは仕方のないことだ。そういう人が借金を返済しやすく、そして最低限の生活ができる社会を人々が政府に求める方が正しい。『失敗しても何度でもやり直せる社会』を作ることにこそ、人生を懸ける価値がある。そう、停滞とは神罰の対象になることなのだ。なぜなら神は世界の発展、進化を望まれているからである。永久に変わらない世界には、存続する価値はない。よって、何も前に進めようとしない者は、神の懲罰を与えられる。それも、その者がそれによって目を醒まして、前に進めるようにという神の愛からである。
お金は大事で、世界になくてはならないものである。なぜなら、お金があるからこの世界がここまで進化したからである。
食べていくため、子孫を育てるためでなかったら、誰が服や筆記具や建物など、考えられうるあらゆるものを作ろうとするだろうか。また、誰が今身につけている持ち物をすべて一人で作れるであろうか。稼いで大切な人にいいものを買ってあげて、売れるようにいいものを作って。だからよいものが世界を進化させてきたのだ。
そして、『自分が人生の寿命と健康を使って作ったものを相手が喜んでくれる』という事実は、何にもまして幸せなことである。働くというのは尊いことである。皆の喜ぶ顔が見られるのは、自分を皆に承認されたのと同じことだからである。
今、世滅教が金を目の敵にするのは、自分が働けないのに周りが稼いで好きに暮らしていることへの嫉妬である。
周りを自分の状況に下げてはいけない。自分が這い上がれる社会を勝ち取ることに力を注げ。他人が作ってくれたもので暮らしているのだから、彼らが突然働けなくなったり借金をしたりしたときのために、社会の制度を整えてやれ。『置き去りにするな』で止まるのではなく、『こうしたい、こういう状況の人にはここを手伝ってほしい』と言って、社会の全員を救う提案をしろ。『私は働けない』と言うのは、『私は普通の人と同じように働けない』ということであって、『何もできないわけではない』。一人ひとりにできることを探し、仕事を任せるのは、政府と社会の義務であるし、『自分はこれができる』と伝えるのも、『置き去りにされた』人々の義務である。本当に働けない人々は、宗教組織が最期まで生活を引き取るべきである。宗教が集めた寄付金は、そのためにある」
お金の概念なくして、もはや社会は成り立たない。人々が、お金の価値を「なくせ」という思想から、誰もがやり直しも挑戦もできる社会を「創る」ことの方に価値があるのだという方向に傾いたとき、一部の者が騒ぎたてた。
「だまされるな!! 低賃金で厄介者扱いされて終わりだ!!」
彼らは、弱者のふりをして働けるのに働かない人々であった。世滅教を隠れ蓑にしていて、世滅教が救われたら困る人々であった。よって、弱者に金が入ってこないのは非常に困る人々であり、またそのために天にその盗み取った金による借金が積み重なって、救いからそのたびに遠ざかっていく人々であった。
紫苑は答えた。
「お前たちは、社会的に成功した同胞・同族からか、生まれ変わったときに、金を盗んだ分を、盗まれた人々に対して、何らかの形で払わされるだろう。何兆円企業として稼いでいても、同胞のツケを払うために、盗まれた人々のために、金銭なり何かを無くすであろう。罰のない罪はない。いずれ同胞に恨まれるか共倒れになるであろう。だから人は、社会のあらゆる問題を放置してはいけないのだ。謝っても天の借金を変えることはもうできないのだ。天から地上に溢れて永久に失われる前に、償わなければならない。私は忠告したからな」
金をもらえなくなるのが困ると思っている人々は、「嘘つきの天使に化けた悪魔め」と罵った。しかし紫苑は、無言だった。それが紫苑の答えだった。
「罰のない罪はない。たとえ人々を脅し、ゆすり、支配しても、天の借金をごまかすことはできない。私は忠告したからな」
人々は、「天の借金」に不安になってきた。
「償うなんて無理だ。額が多すぎる」
紫苑は静かに答えた。
「償える。私は忠告したからな」
人々は、その一言にひとかけらの希望が入っているのを感じながら、紫苑が飛び去っていくのを不安な顔で見送った。
紫苑は、一軒家の中でしくしく泣いている中年の女性のもとに降り立った。女性が声を絞り出した。
「私は、どの男性とも結婚できなかったわ。両親と暮らしていたけど、両親が亡くなって、独りぼっちになってしまったわ。寂しいわ。誰でもいいから結婚してもらえばよかった。子供だけでも産ませてもらえばよかった。そんなことしちゃいけないってわかっているけど、寂しくてしかたないの。若い頃に戻りたい。結婚しなかった自分を、結婚する道に戻したい。私はその当時は両親がいてくれるからがんばれた。だけど二人がもういないから、私の選択が間違っていたんじゃないかって、ずっと後悔しているの。結婚してる人が羨ましいんじゃないの。ただ、自分の選択に後悔しているの。だから、私を独りぼっちにする世の中が憎くて、みんなばらばらになれと思って世滅教に入ったの」
紫苑は答えた。
「結婚している人も、結婚したことを後悔するものだ。あなたは、大半の既婚者ができないことをしている」
女性は涙を少し止めた。
「それは、何?」
「両親と一緒に暮らして、看取ることだ」
女性は涙があとからあとから溢れた。
「私を一番大事に想ってくれる人たちと、仲良く楽しく暮らせてよかった。私、幸せだよ!! お父さん!! お母さん!! 大好きだよ!! うっ、うわああー!!」
お願いだよ、長生きして。寝たきりになってもいいから私と話して。私の目を見つめてくれるだけで、嬉しいんだよ。私今日も生きようって、思えるんだよ。大好きなお父さんとお母さんに会えるから。
両親が生きていてくれた頃の自分の気持ちを思い出して、女性は号泣した。
「お父さんとお母さんを看取れたから、私、これでよかったんだ。結婚してたら、相手が一緒に住みたくないって言ったら終わりだし。子供がいなくても独り者同士で仲間作ればいいや。私は幸せだったんだ。世滅教はもういいや。他人の幸せにもう用はない。私はお父さんとお母さんを選んだんだ。私は間違っていなかった!」
紫苑は告げた。
「結婚したら両親と一緒に暮らさないというのは、人間の望みなのか。独身のあなたの立場になったらあなたのように思うであろうに。自分がもし親や祖父母になっていて、子供や孫が結婚して家を出てしまって、そこで楽しい家庭を築いていたとしたら、『私はその数の中に入っていないんだ。これまで愛情かけて育ててきた時間はなんだったのだろう。虚しい』と思うことになるだろう。結婚してもしなくても、両親と一緒に暮らしていくべきだ。自分が見捨てられた場面を想像すると悲しくなる。それに、結婚した人たちも、今相手がいて幸せなのは、みんな義父母が愛する相手を産んでくれたおかげなのだ。愛する相手のおいしいところだけ持っていって、あとの義父母は知らんぷりなんて、それは本当の愛じゃない。経済的に自分が助かったとか、子供を産んでくれる相手が見つかったとか、自分ばかり愛している。相手を愛するというのは、相手の系譜、つまり義父母や先祖をも愛するということだ。『自分と相手と子供たち』で世界を終わらせていては、子供に何も伝えることはできない。愛する相手を産んでくれた義父母と先祖を知り、敬い、一緒に暮らさなければならない。愛する相手を一人前に育ててくれたあとは『用済み』のように扱うのは、自分も子孫もいずれそのように扱われることの前兆である。結婚しても親と暮らせ。誰でも、家族が増えるのは嬉しいのだ。嫁や婿が来ても、子供が産まれても」
女性は、ゆったりした気持ちでそれを聞いて、微笑んでうなずいた。
「そうだね。私の両親は幸せだったろうけど、他の家の親たちは――。親が死んだら、泣くほどの後悔の気持ち、結婚した子供たちも私と同じくらい親に出すんだろうね」
紫苑もうなずいた。
「後悔するな。あとのことはそのとき考えろ。自分を愛してくれる人のことを、必ず真っ先に考えろ」
女性は、翼を羽ばたかせ空へ飛んでいく紫苑を、手を振って見送った。大切な人との思い出に満ち満ちたこの体を、大事にしようと思いながら。
紫苑は、世滅教が集まる夜の大砂丘に降り立った。世滅教が叫んでいる。
「世界を救うことなどさせるものか! 私が救われない世界など滅びてしまえ! 私を助けてくれなかった神を、どうして信じ続けられるのか! 私一人を滅ぼすなら滅ぼしてしまえ! この裏切りと悲しみで疑い続けるくらいなら、いっそ魂が失せた方が救われる! 復讐してはいけない、それは神がすること、それでもこの悲しみは一生残る! どこで何をしていても、自分は本当は幸せではないと思ってしまう! どうしてくれるのだ、私は世界を疑ってしまった! もう元に戻れない! 記憶を無くして別の人にしてよ! でないともう私は神を信じることはできない!! できないなら、私が全人類を滅ぼすのを邪魔するな!! 私をこんな目に遭わせた奴ら、その親、その友人、敵を支えるすべてを全滅させてやる!! 私を裏切った世界など、殺してやるー!!」
断固として旧き世界に残り、扉をくぐらず、旧き世界と共に滅びようとしていた。
紫苑が驚いて追いかけた。
「何をしているのです、早く問題にあなたの答えを出して、新しい世界への扉をくぐりなさい!」
「嫌だ!! 神が私を救ってくれなかった!! もう信じない!!」
逃げ隠れようとする世滅教を、紫苑の白き炎が円で囲った。夜色の薄紫の砂が舞い上がった。紫苑の紫色の髪が輝き月虹を放った。
「私の愛は、それくらいで消えると思うのか!!」
人々はなぜか涙が出た。きっと月虹のせいだ、珍しいからな、きれいだからな、でも、聞きたい、これだけは。
「どうして私を助けてくれなかったの」
月虹と共に紫苑は答えた。
「すべてを告げてはいけない」
ああ、そうか。人々はため息と共に思った。
「そこに救いがあるからか」
もはや逃げ続けることはない。
どこまで堕ちても来てくれたという感謝と共に、世滅教の人々は扉をくぐっていった。
男性もこの世界に必要です。




