鋼鉄(メタル)将校(オフィサー)第四章「バジ=イラデア」
登場人物
赤ノ宮九字紫苑。双子のもう一つの星を救って、神々のいる星に戻って来た。
出雲。霄瀾。空竜。閼嵐。麻沚芭。氷雨。かつての仲間が、かつての記憶がないまま、そろっている。
藜露雩=邪闇綺羅(人間の発音で「じゃきら」、神の発音で「じゃぎら」)。鋼鉄将校。紫苑と愛しあう神。
バジ=イラデア。この星が経験した疑いと憎しみによってできた黒魔の集合体。
第四章 バジ=イラデア
重苦しい陰気の流れが、一同の肺の奥まで入りこんできた。何もない薄暗い奥で、呻いている塊がある。
陽の極点として、紫苑が白き炎を出し、陰気を中和して辺りの視界を晴らした。
塊が姿を現した。体長百メートル。どっしりとした手足と胴体に、体より長い太い尾を持つ、黒い獣であった。
かつて双子のもう一方の星で阿修羅が戦ったバジ=イラデアと、同じ姿だった。
『誰か……助けて……』
暴れたがる手足を懸命に押さえつけている。黒魔たちが噴き出そうとするのを、抑えている。
邪闇綺羅は紫苑の隣で告げた。
「お前が白魔にして救った黒魔たちは、昔剣姫が斬った者たちだった。お前は過去の殺人の罰に、彼らに殺されるか彼らを救うかの二択を与えられていたのだ」
「えっ……!」
世界を救うほどの王でも、犯した罪から逃れることはできない。
「私が救われるチャンスをくださり、ありがとうございます」
紫苑は頭を下げた。その紫苑に、バジ=イラデアが気づいた。
『おお……おお……』
四匹が口々に叫んだ。
「バジ=イラデア様!! 王様をお連れしましたよ!! もうわたしたちは助かりましたよ!! さあ、早くこちらへ!!」
『おお……おお……おああ……!!』
バジ=イラデアは、身を震わせて巨大な黒い球になると、紫苑に突進した。邪闇綺羅が顔色を変えた。
「だめだ!! 一気に来ては紫苑の体がもたない!!」
紫苑の前に飛び出すと、バジ=イラデアの塊を一身に受けた。邪闇綺羅は塊に完全に呑みこまれ、姿が見えなくなってしまった。
「邪闇綺羅様ッ!! いやああーッ!!」
半狂乱になって、紫苑もその塊の中に突っこんだ。そのとたん、紫苑の心は陰気の負荷に耐え切れず、動きを止めてしまった。
小さな島の病院で、白いカーテンが風に揺れている。海風の香りのする病室で、邪闇綺羅が白いベッドの上の紫苑に何度も口づけしている。
バジ=イラデアは紫苑の陽の極点の心と中和しあって、消滅した。
だが、紫苑の心も同時に活動を停止してしまった。
邪闇綺羅の光を与えても、元に戻らない。
乾坤の書はなぜか一文字も記されなくなり、眠ったままの愛する人を取り戻すためにどうしていいかわからず、邪闇綺羅は途方に暮れていた。
「どんなに愛しても、目醒めない――」
看護師からは、
「あなたが弱気になっていたら、患者さんを誰が救えるんですか。どんなに辛くても、笑顔を忘れてはいけませんよ」
と、励まされている。邪闇綺羅は背広を着ていて、地上の世界に溶けこんでいるのだ。
邪闇綺羅は毎日乾坤の書を開き、何かヒントが書かれていないかと真剣に探すのだが、いつもすべてのページが白紙だった。そして、ある日乾坤の書を、紫苑の体の上に落としてしまった。
すると、紫苑が目を半開きにして、濁った目でうつろに天井を見ていた。
「紫苑ッ!! 目が覚めたのか!?」
しかし、急いで邪闇綺羅が本をどかして手を握ろうとすると、目は再び閉じてしまった。
乾坤の書が体の一部に触れている間だけ、目が少し開くようであった。
「それでもいい。きっとこの本が鍵なんだ」
邪闇綺羅は、乾坤の書を紫苑の上に載せると、紫苑の目を半分、開かせた。話しかけても、反応はなかった。しかし、邪闇綺羅はきっと聞いてくれていると信じていた。
それからは紫苑の上体を起こし、毎回の食事を手伝った。スプーンで食べさせたり、口の周りをふいたりして、「はい、紫苑。今日もおいしいよ」と、いつも笑顔で優しく語りかけた。水を飲ませるときは口移しで飲ませた。体を拭くときも、姫抱えして運び、下の世話も、大事そうにすべて一人で行った。
看護師たちは、なんて素敵な夫婦なのかしらと感激していた。
散歩をするときも、もちろん邪闇綺羅が姫抱えをしている。
「ほら紫苑、きれいなお花だよ。匂いをかいでごらん」
と、花の近くに顔をもっていった。
「ああ、紫苑。海が透き通ってる。魚がいるよ。見てごらん」
と、海の中にはだしでふくらはぎまで入って、紫苑に海の魚を見せた。
邪闇綺羅は店でサンゴを買った。そしてそれを彫って指輪を作り、紫苑の薬指にはめた。
「これでもう私とお前は何があっても一緒だよ。誰もいなくてもいい、二人だけで結婚式を挙げよう。お前にそばにいてほしいんだ。永遠に。誰も知らない国で暮らすんだ。野菜も果物も作って、毎日楽しく暮らそう。お前がいるだけで、私は毎日……毎日っ……嬉しくて……仕方ないんだっ……」
あふれる涙をこらえて、邪闇綺羅は、開けば慟哭することがわかっている口を無理に結びながら紫苑に微笑みかけた。
「お前がそばにいれば、もう何もいらない。愛してる……お前だけを愛してる」
邪闇綺羅は紫苑に口づけした。
紫苑がそのときわずかに動いた。
「紫苑」
紫苑の目から涙が一筋流れていた。そして唇がわずかに動いた。
「一緒に……死んで……」
抑揚のない声が小さく途切れた。
「ああ。いいよ」
邪闇綺羅は涙をためて微笑み、即答した。
「一緒に死のう、紫苑」
そのとき乾坤の書を、紫苑が目の焦点が別の方を向きながら震える手で開いた。邪闇綺羅はページを見たとき、自分が開いた時にはなかった文字が書かれているのを見た。邪闇綺羅が読み出すと、乾坤の書は閉じようとするが、紫苑が全力で押さえて閉じさせない。
「そうか紫苑、自分が押さえている間に全部読めって言うんだな!」
紫苑の手がぶるぶる震えている。その両手に自分の両手を重ねて紫苑を助けながら、邪闇綺羅は素早く本の中身を暗記した。
その後、乾坤の書はバタンと閉じ、紫苑も乾坤の書を持っても、もはや目を開けなくなってしまった。
「ありがとう紫苑、お前のくれた手掛かりを無駄にはしない!」
邪闇綺羅は紫苑を姫抱えして、この星でかつて紅葉橋と呼ばれたことのある地へ向かった。
かつて神たちが激突した地は、明るい日差しに黄緑色に輝く森になっていた。誰も足を踏み入れられないほど深い、前人未踏の聖なる森であった。
その中央に、万病を治す樹がある。
邪闇綺羅が降り立ち見上げると、鱗のような幹から露がいくつも滴っていた。
乾坤の書には、その露に「最も尊い血」を混ぜて飲めば、どんな病もたちどころに治ると書いてあった。
「最も尊い血とは、私の血のことだ」
邪闇綺羅はディルキータを抜き、腕に傷をつけて血を流すと、樹の露と混ぜて紫苑に口移しで飲ませた。
しかし、紫苑は目を開けなかった。
「えっ? ……地上での話かな。なら、王の紫苑の血か」
邪闇綺羅は紫苑の小指に嚙みついて少し血をもらうと、露を口に含んで口の中で混ぜ、紫苑に口移しで飲ませた。
紫苑は目を半分開けた。しかし、反応はなく、乾坤の書を持った時と同じ状態だった。
「紫苑の血でもないのか……? しかし、そうなると誰の血だ? 最も尊い血は、もう私以外には考えられない」
自分の切る場所のことを言っているのかもしれないと、邪闇綺羅は体の様々な場所に傷をつけ始めた。どれも紫苑を治せない。切りすぎて鮮血が草を染め、それでも紫苑を救おうと肩で息をしながら、邪闇綺羅は神体を切り刻み続けた。最後に大事な部分に手をかけようとしたとき、紫苑の手がそれを遮った。手が震えていた。全身が震えていた。泣いていた。
その涙をぬぐった邪闇綺羅の手の露と傷だらけの指が相まったとき、それに触れた邪闇綺羅の傷がみるみるうちに治った。
邪闇綺羅はハッとして、露を口に含み、紫苑のあとからあとから流れ出る涙を口で吸い取って口の中で混ぜると、紫苑の唇の中に流し込んだ。
紫苑はそれが流れた瞬間、体中の血がたぎり、すべての感覚が一気に目醒めたのを感じ取った。
「はっ……!! 私……!!」
「涙だ……。最も尊い血は、涙のことだったんだ……」
邪闇綺羅は、安心してよろめいて荒く息をついた。傷つけすぎたので、少し休みたい。紫苑は急いで自分の涙と露を口移しし、傷を治した。
すると、万病を治す樹から、水滴型の精霊が現れた。
「体の痛みは赤い血でわかる。心の痛みは涙でわかる。涙こそ心の血なんだよ。誰かのために泣く涙、それが最も尊い血。神でも王でもなくても、それが奇跡を持っている」
「それは世界の命に等しく与えられた奇跡の力……」
紫苑が呟いたそのとき、紫苑の耳に、
「紫苑ー!!」
と、叫ぶ声が聞こえた。確認する間もなく、邪闇綺羅が紫苑を抱き締めて倒れ込んだ。
二人は、小さな島に戻っていた。病院ではなく、ホテルのバルコニーで夜の海を見ている。邪闇綺羅は満天の星空の下、紫苑を姫抱えしていた。
「心が動かなかったときのこと、何も覚えてない?」
「ごめんなさい。乾坤の書を開こうと思ったのと、あなたが自分を切り刻んでいたのはなんとなくだけど、それ以外は……」
一緒に死んで、もか、と邪闇綺羅は苦笑した。
「なんだ。ちょっと残念」
邪闇綺羅は紫苑の頬や首筋にキスした。
「こんなのよりもっと激しかったのに」
「ど、どういうこと?」
と、両手を邪闇綺羅の胸に置いたとき、紫苑は左手の薬指のサンゴの指輪に気づいた。
「あれ? 私いつの間に、この指輪してたの?」
邪闇綺羅は紫苑を姫抱えしたまま部屋に入り、窓とカーテンを同時に閉めた。
「どういうことか、教えてあげる」
そしてホテルの明かりは消えた。
翌朝、紫苑はホテルのバルコニーの真正面に広がる海を眺めていた。その紫苑をはだけたシャツで後ろから邪闇綺羅が抱きすくめた。紫苑の首筋にキスする。
「……う、うん」
視線を下げて両手をもじもじさせながら、それしか言えなかった。
「よく眠れた?」
「……う、うん」
真夜中に「本番は本当の結婚式の後にね」と言った邪闇綺羅を思い返すたび、紫苑は顔がほてった。自分を見つめる邪闇綺羅の目が、もう何もかも見透かしているみたいで、紫苑は恥ずかしそうに身をよじった。
邪闇綺羅は捕まえるのが楽しいみたいに、ますます強く抱き締めた。
病院から退院するとき、紫苑は看護師たちから、邪闇綺羅がどれだけ自分を看病してくれたかを聞いた。
二人で並んで歩きながら、紫苑が邪闇綺羅の腕を取り、肩に頭をつけた。
「ありがとう。私のこと、生きられるように一生懸命守ってくれて」
邪闇綺羅はその頭に口づけした。
「ああ……あのときはもう夢中だったから……。お前と永遠に共にいられるなら、一生あのままでもいいと思った」
「(なんて素敵な人だろう)」
紫苑は目頭を熱くして邪闇綺羅を見上げた。
「私もよ」
私もちゃんと言いたい。
「私も永遠にあなたがいてくれたら、もう他に何もいらない」
「うん……」
二人は長い口づけを交わした。
「――オン! 紫苑!」
「兄者、兄者!」
はっ、と、紫苑と邪闇綺羅は目醒めた。二人は、虹色の輪郭を持つ透明な膜の中にいた。
二人は身を守りながら、同じ時間を過ごしていたのだ。
邪闇綺羅の鋼鉄将校の肩当てとマントが、白銀から虹色の輪郭に変わり、清らかな水のような黒い映りこみを持つ、透明水晶になっている。光背に円の虹を持ち、虹色の瞳が輝いている。
「私は無意識のうちに、虹晶透騎になっていたのか――」
阿修羅が皆に素早く解説した。
「紅晶闘騎は世界を破壊する力を持ち、虹晶透騎は世界を外敵から保護する力を持つ。もともと鋼鉄将校は、世界を保護したいという気持ちで、虹晶透騎の力を帯びて現れたお姿だったのだ」
「バジ=イラデアはどうした!」
虹晶透騎が叫んだ。
バジ=イラデアは、元の形に戻って、苦しんでいた。紫苑は、はっと気づいた。
「他人のために流す涙に触れたから……!?」
バジ=イラデアは、明らかに暗さが薄れている。しかし、何かがこびりついて残っている。紫苑は叫んだ。
「バジ=イラデア! こちらへ来て!」
『やめろ……!! やめろ……!! 同情の涙なんか、いらないー!!』
槍ほどの大きさの銀剣の雨がバジ=イラデアに降り注ぎ、包みこんだ。そして、一本一本がバジ=イラデアの剣鱗になった。
『我が名は銀晶魔騎!! 憐れみを拒む者なり!! 私に寄るな、触れるな! 放っておけー!!』
銀晶魔騎の全身から剣鱗が放たれた。金気の四神・白虎が巨大化し、体で弾いて一同を剣から守った。
「同情するなという人間は、何を言っても聞く耳を持たない。自分で変わるしかない」
剣の矢の嵐が無限に全方位に放たれている中、紫苑が強敵を前にして攻略方法がわからず緊張を高めていると、虹晶透騎が前に出た。
「ここは、私の出番だ」
なぜか、長らく紫苑を見ていた。
「……すぐ戻る」
「え?」
「赤ノ宮九字紫苑。お前は真の姿に戻るのだ」
「え?」
邪闇綺羅は乾坤の書を見せた。
「お前は乾坤の書だ」
阿修羅はようやく納得した。
「そうか……どうりで兄者を奪ったお前のことを嫌いになれなかったわけだ。光の神も闇の神も自らの歴史を刻むことを望む。すべてを記す乾坤の書の絵柄と文字のお前が神に比肩して戦うことを、少なくとも邪魔と思わなかったのはそのためか」
白狼は紫苑をよく見回した。
「乾坤の書に書かれている星方陣、それも赤ノ宮九字紫苑なのだな」
「星方陣こそ赤ノ宮九字紫苑そのもの……」
突然、空竜はわかった。そして、過去に何も書いていなかったとはいえ、自分も乾坤の書を開けられたわけがわかった。
空竜がすたすたと邪闇綺羅のもとに歩いて行くのを、出雲が驚いて止めた。
「どうした空竜! 何か策があるのか!」
振り返った空竜は、命の最期の輝きのように、きれいだった。出雲は息を呑んだ。
「私、行かなくちゃ」
どこへ、と聞けなかった。ただ、空竜、阿修羅、白狼が邪闇綺羅のもとに集うのを見守るしかなかった。
「私たち四名は、かつて一つの存在だった。それは覚えているな?」
邪闇綺羅に問われて、阿修羅、白狼、空竜はうなずいた。
「私がルシナ様に言われて扉を開けようとしたとき、私の中のお前たちは抵抗したな」
「本能で、力が四散するとわかっていたからです」
阿修羅が答えた。
「一撃目の剣で私はあなたの“影”として」
白狼が答えた。
「二撃目の剣で私はあなたの“獣性”として」
空竜が答えた。
「三撃目の弓矢で私はあなたの切り離す“女性”として」
邪闇綺羅が温かい目で紫苑を見つめた。
「お前だけは、開けろと言ってくれた――。開けることを躊躇しようとした私に、勇気をくれた――。ありがとう」
紫苑は口を挟めなかった。これから何が起こるのかという不安でいっぱいだった。
邪闇綺羅が宣言した。
「世界に戻らん四散の玉光!! 我、神の王座に座る者なり! 我が名は、」
光の声が放たれた。
「響晶光騎なり!!」
四重の光と四重の音は同時であった。阿修羅、白狼、空竜が邪闇綺羅に吸収されると、正十字を縦と斜めに重ね合わせた八方向の光背を持ち、第三の目を持つ、光のローブをまとった神が現れた。人間の目を焼かない優しい光が、聖なる香りとなって王尖祭昇舞台殿の全域を照らしだす。
「光と音と真実の神・響晶光騎!! この世に戻るは決心なれば、我の奇跡の跡を踏めっ!!」
――もう、戻らない。
響晶光騎に戻った瞬間、響晶光騎は――その邪闇綺羅よりも美貌の神は、冷静に決断した。
四柱に分かれて失われていた神としての万能感が、響晶光騎を満たして心も体も喜びに震えている。子供の頃にわけもわからず手放したものが、今、響晶光騎に二度と失うなと次々に告げている。
響晶光騎が次の世界への扉の、運命の扉を開けられたのは、「何も知らない」子供だったからだ。大人たちは運命の扉を調べ尽くして、何が起きるか知っていた。そして、神の力を削られることに恐怖した。それは誰も逃れることはできず、扉に穿たれて響晶光騎の力は大まかに見て四等分にされてしまった。普通の神なら怒り、嘆き、脱力し、神ルシナを呪うところだ。神々はそれを知っていて、ルシナを怒らないように心を落ち着けることを想定訓練していたのであった。ところが邪闇綺羅は違った。阿修羅と白狼と空竜を見て、
「友達が増えた」
と、喜んだのだ。そこで神の王邪闇綺羅の地位は決まった。神の証の力を四等分されても神を呪わず、喜んで神に感謝した邪闇綺羅は、この星の神の王として、ルシナ以上の神、球神の右腕になることを赦されたのだ。
「神の王になり、こうして力も戻った。なぜ今また四柱に分かれる必要がある」
バジ=イラデアは響晶光騎の光を浴びて、攻撃をやめていた。そして、導かれるように響晶光騎に近づいてきた。
『おお……おお……助けて……神様……!!』
響晶光騎も近づいた。
「よし、救ってやろう。バジ=イラデア。かあっ!」
響晶光騎の第三の目が光を放った。
バジ=イラデアは過去の苦しい記憶を一切失った。代わりに、楽しい思い出に書き換えられた。苦しみを与える者も、記憶を書き換えられて優しく接してくるようになった。
誰もが傷つき傷つけてしまうことを忘れられる世界。
「新しい苦しみが起きるたびに言うがいい。記憶を書き換え続けてやる。これが神の力だ」
しかし、バジ=イラデアは苦しみ始めた。
響晶光騎は首をひねった。
「私も本調子ではないのかな。書き換えていない部分があったか」
『いやだっ!!』
バジ=イラデアが泣き叫んだ。
『何の理由もなく救われるのはいやだっ!!』
自分は人形じゃない。
言われたことを直せないなら毎回新しい人から同じ苦しみを受ける。自分も同じことを繰り返す。
『私の問題をなかったことにしないで!! 私生きてるんだからちゃんと見て!!』
神の王はカッと第三の目を絞ると、光を放ってバジ=イラデアを消し去ってしまった。
「私の光の前に立てないほどの影だから、前に立てるようにしてやったのに……。光の神に『見て』と言うのは、たやすい。しかしお前たちも神の前に立てるほど光がなければ、立たれたときに消し去られてしまうのだ。神を見るとは、そういうことだ」
バジ=イラデアを倒したので、響晶光騎は紫苑に向き直った。紫苑はあまりのことに口が挟めない。
「さて、お前は光と音の神である私の『文字』に戻ってもらう。覚悟はよいな」
「文字……?」
光と音と文字? なぜこの組み合わせなの? 紫苑はぼうっと考えた。響晶光騎は印を結びながら話した。
「邪闇綺羅は光の神、阿修羅は音の神。しかし世界には光と音だけでなく文字が必要なのだ。それは光と音の羅列に意味を与えるからだ。星のきらめきは無秩序にあるわけではない、音の流れは何の脈絡もなく出てはいない。
必ず意味がある。
その意味を与えるのが法則の総称、『文字』なのだ。『文字』とは『意味が与えられたもの』のことだ。互いに意味がわかって初めて文字は役目を果たす。混沌で無尽蔵に溢れる光と音に秩序を与えるのは『意味を与える』という意味の文字なのだ。
光と音だけでは世界はまだ混沌の渦の中だった。意味という『文字』がなければ世界は始まらなかった。光と音の私はその意味が光と音に欲しくて、ずっと文字になるお前を探していたのだ」
響晶光騎の印が整った。「光」「音」「文字」の字が三角形の三頂点に配置されている。
「乾坤の書に戻って、私は何をすることになるのですか」
響晶光騎の圧倒的な美しさに対して、なんとか立ちながら、紫苑は震えずに尋ねた。神とは本来その姿だけで何者も抗えない完璧さを持つものである。
それを振り払うように、紫苑は響晶光騎と共にいるはずの愛する神の名を呼んだ。
「邪闇綺羅様は、私にどうしろと?」
響晶光騎は無表情に笑った。
「確かに邪闇綺羅は我が一部だが、もうこの世にはいない。そして、私は二度と四柱に分かれるつもりはない」
「ええっ!?」
驚愕する紫苑に構わず、響晶光騎はまた無表情に笑った。
「神の王の座も、元の力も手に入れたのだ。最強の神の誕生ではないか。これから世界をもっと救える。もう不完全な力には戻りたくない。お前はこの響晶光騎の乾坤の書として、世界に私の光と音を訳し続けるのだ!」
「嫌よ!!」
紫苑が叫んだ。響晶光騎は笑うのをやめて、第三の目を見開いた。
「なぜだ?」
「邪闇綺羅様に二度と会えないだなんて、私は嫌!! だってあのお方は約束してくれた、二人が神と人であってもずっと一緒にいてくれるって!! 邪闇綺羅様を返して!! 返してー!!」
響晶光騎は冷酷に告げた。
「なぜ邪闇綺羅がお前に心惹かれたか、まだわからないのか。お前は元の姿に戻るがよい。そしてすべてを悟るのだ」
響晶光騎の「光」「音」「文字」の印が、紫苑の体を真ん中にとらえ、回り始めた。すると、紫苑の体中から文字が溢れ出した。
「な、なにこれ!?」
紫苑がつかもうとする手をすり抜けて、一秒も休まることなく文字が飛び出していく。響晶光騎は無表情に悠然とそれを見ていた。
「教えてやろう。私は真実と秘密の神。お前はそれを体現する――」
紫苑の体から、創世以来のすべての文字がさらなる急流となって何筋も飛び出した。
「キャアアッ!!」
文字が紫苑の周りを覆い始めた。響晶光騎はそれを読んでいる。
「私が四柱に分かれ今再び修復されたときまでの歴史を私が完読したとき、『紫苑』は役目を終える」
「紫苑ッ!!」
出雲たちは四神五柱に押さえつけられている。神の王に、誰も逆らえないのだ。
響晶光騎は無表情に読み続けた。
「私を補う存在でしかないのだよ。所詮お前は」
バラバラと文字の飛び散る中、紫苑は絶叫した。
「いやーっ!! 助けて邪闇綺羅様ーっ!!」
邪闇綺羅は、ハッと目覚めた。阿修羅、白狼、空竜と共に、光の中を漂っていた。三人は、邪闇綺羅がいくら起こそうとしても、目覚めない。
「邪闇綺羅様!! 邪闇綺羅様!!」
紫苑の叫び声が聞こえる。
「紫苑!!」
邪闇綺羅は力一杯叫び返した。
それが響晶光騎に聞こえた。
「まだ私の一部はこの『人間』に憐れみをかけようというのだろうか。この者の名を呼ぶ声が聞こえる」
と、呟いた。それは邪闇綺羅にも聞こえた。
「紫苑に何してる! 今すぐやめろ!」
響晶光騎は無表情に考えた。
「なぜ私の一部は……いや、私はこの『人間』を助けることなど考えるのだ。この者は私が断たねば永久に私の呪縛から逃れられないというのに」
あくまで邪闇綺羅の言葉は響晶光騎自身の心の声として処理される。だから対話ではなく独り言として、響晶光騎は不思議がっていた。邪闇綺羅が必死の思いで声を響かせた。
「呪縛なんかじゃない!! 時を何度めぐっても愛してるんだ!!」
ピク、と響晶光騎の顔の筋肉が動いた。
「……アイシテる」
男女影獣を備えた響晶光騎には、男女のことはよくわからなかった。目は依然として紫苑から出る文字を見つめている。
「ほう……レウッシラに紅晶闘騎か。力を分割されたなりに進化したようだな」
邪闇綺羅は、その、麒麟が神の歌を歌うときの喜びを呼ぶような声を、張り上げた。
「私は響晶光騎から分かれて良かったと思っている! 愛すべき多くの人に出会えたし、不完全な者同士が補いあいながら生きていく美しさを知ることができたからだ! 響晶光騎では完璧すぎて人に考える隙を与えず、人を迷わせてしまう。神と共にあったすべての星方陣は、発動してすぐに皆が平和になれるようにはならなかった! 努力というものを忘れた者こそ本当の平和を乱す者だと、私を見て、気づいてくれたからだ! もし響晶光騎が星方陣を作っていたらどうだったか! 一瞬で世界を滅亡させる星方陣が用意されたに違いない! それの存在を赦すのは人の努力を無視した神の横暴ではないか! そして響晶光騎、世界を一瞬で楽園に変える陣も作ってはならない、そのときは世界がすべてを諦めるときだからだ!」
響晶光騎は邪闇綺羅の言葉は聞いているが、意識は紫苑の文字を読むことに集中している。
「私が分かれている間、邪闇綺羅は良く世界のことを見てまわったようだ。この考えは採用しておこう。阿修羅と封印しあったのか。自分で自分を封印しあうとは愚かなことをしてしまったようだ」
邪闇綺羅の言霊が光の世界を破ろうと八面玲瓏に広がる。
「神としてこの世界と距離を置いて関わりと責任を持っていた私が、こんなにもこの世界を愛せるようになったのは、紫苑と仲間たちがいたからだ! 響晶光騎も知らなかった愛を、教えてもらった! 神の自分が死んでも構わないと初めて思えるほどに!」
そこで初めて響晶光騎は不快感によって邪闇綺羅のことを認識した。
「神の身で死のうと思うとは、くだらん感情を植えつけられたものだ。私には当てはまらない」
自分の声が全く響晶光騎の心を動かさないので、邪闇綺羅は苦しんだ。早く止めなければ、紫苑は、あの人は。
「『紫苑』に封印を破ってもらい……露雩と名乗る。名付けたのは『紫苑』。記憶のない露雩……」
響晶光騎が紫苑と露雩の出会いからずっと読み始めたとき、邪闇綺羅は目頭が熱くなった。一日たりとて忘れたことがない、大切な昔の思い出。彼女といて楽しかったこと、悩んだこと、共に戦ったことの全てが鮮やかによみがえってきた。
「――っ」
不意に、邪闇綺羅は涙を一筋こぼした。
露雩と紫苑の結婚式の場面を思い出していた。
もう戻れない、あの幸せだった頃。
全てが無に帰すことが悲しくて悲しくて、邪闇綺羅はあとからあとから涙がこぼれた。
「――?」
響晶光騎の瞳からも涙が一筋こぼれた。
第三の目ではなかった。
泣くなど初めてのことだった。
邪闇綺羅の悲しみの心が響晶光騎の心で共鳴したのだ。
「なぜ……そんなに悲しいのだ」
しかし、邪闇綺羅は答えない。ただ涙に暮れるばかりである。
気づくと、阿修羅も白狼も空竜も、目を閉じたまま泣いていた。
「なぜ……なぜそんなに……」
響晶光騎は涙が幾筋も流れるのを止めることができなかった。それは愛する者を失う悲しみを、響晶光騎が、四柱の記憶から知ってしまったからだった。紫苑と露雩の別れ、ヴァンに会いたかったセイラの気持ち、好きではない男のものになると決めた空竜の気持ち、すべてを見ている白狼の気持ち、今まで何の感動もなく見ることができたものが、もう涙なしには見られない。
神は人の感情を知ったのだった。
四柱として人の中に生き、世界の一員としてめぐった想い、それがすべて響晶光騎に流れ込んでいた。すべての感情が洪水となって押し寄せてきて、響晶光騎はたまらず瞳を閉じた。
もはや、わかる。
四柱の言いたいことが。
四柱のしたいことが。
それはすべての神・邪神・悪徳との戦いに絶対に勝てるという道よりも、生死の間をさまよってでも、一人ひとりの全力で戦い勝ってみせるという決意をした道を選ぶということであった。
響晶光騎は初めて優しく微笑んだ。
「お前たちは、私より多くのものを知っているのか。私がこの先も増やせないものを」
そして、紫苑の周りをドームのように丸く埋め尽くし、地面にまで海のように広がっている文字たちを紫苑に戻した。
紫苑は体が光ったあと、文字の支えがなくなると、気を失って倒れこんだ。
響晶光騎は声をかけた。
「またお前に会うときもあるだろう。だがそのときは私はもうお前を悲しませることはすまい」
そして、光に包まれていった。
邪闇綺羅、阿修羅、白狼、空竜がその光の中から現れた。
「紫苑!!」
邪闇綺羅が紫苑に駆け寄った。
紫苑が目を開けた。
「あ……邪闇綺羅様! 響晶光騎は……?」
「帰ったよ。……元の場所に!」
邪闇綺羅は笑って自分の胸を指差した。紫苑は、少しずつ理解して、花が咲くように顔がほころんでいく。
「え、それじゃ……邪闇綺羅様は……」
「ずっとお前と一緒だ!」
紫苑は息もせずに邪闇綺羅に強く抱きついた。
「よかった……よかったっ、邪闇綺羅様……!!」
邪闇綺羅もしっかりと抱き締め返した。
そのとき、ン、ンーと空竜の咳払いが聞こえた。
「あのね、私たちも一応助かってるんですけどお」
紫苑が赤面するのを、空竜も阿修羅も白狼も、そして自由になった仲間たちも、一緒になって笑った。
そのとき、響晶光騎の光の失せた王尖祭昇舞台殿に、再び陰気が漂い始めた。そして、再び銀晶魔騎が姿を現した。
『解決しないで消した……!! 解決しないで消した……!!』
怨みのために声が震え、その言霊が銀晶魔騎を覆っていく。そして、膨張し始めた。王尖祭昇舞台殿の大きさに関係なく、壊す勢いで巨大化している。白狼が告げた。
「臨界点を超えた!! もうバジ=イラデアは陰気を抑えることができない!! この陰気が広がったら星の命が崩壊する!!」
その攻撃の威力を身をもって知っている紫苑は、邪闇綺羅の手を握った。
「私ならいけます、一緒に行きましょう!!」
「ああ、共に!!」
二人は同時に叫んだ。
「「光と音と文字の救いを!!」」
その声を受けて、乾坤の書が一枚ずつ離れ、一気に広がった。銀晶魔騎を取り囲んだ。
「(これが星方陣最終章!)」
紫苑とつながる邪闇綺羅は直感した。祝詞は紫苑から自然と心に流れ込んでくる。邪闇綺羅は歌い上げた。
「愛から生まれ、愛に死す。完全より不完全になりし者よ、傷の力で光翔べ。虹を渡し音駆けよ。透ける真理に我誘う。白き炎を汝見よ。与えられた運命にも道を信じ戦い抜いた者のため、我此の与えられた運命の力によりて最終章を書き作る! 星方陣最終章・神成星陣!!」
銀晶魔騎の周りに乾坤の書の紙が貼りつき、背中から光と音の翼が片翼ずつ作られていった。その二翼がさらに銀晶魔騎の体を包みこみ、辺りが光と音に包まれていく。
乾坤の書を構成していた紙の舞う中、邪闇綺羅は目の前に現れた紙に光で文字が書かれていくのを見た。それを見て、邪闇綺羅は少し微笑んだ。
「それでも、扉を開けて、よかった――」
その横顔を紙がかき消していく。
光と音が邪闇綺羅の体さえもかき消していく――。




