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星方陣撃剣録  作者: 白雪
第一部 紅い玲瓏 第三章 一滴(ひとしずく)の夢
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一滴(ひとしずく)の夢第三章「重ねの呪い」

登場人物

双剣士であり陰陽師でもある赤ノ宮紫苑あかのみや・しおん、神剣・青龍せいりゅうを持つ炎の式神・出雲いずも、神器の竪琴・水鏡すいきょうの調べを持つ竪琴弾きの子供・霄瀾しょうらん、強大な力を秘める瞳、星晶睛せいしょうせいの持ち主の露雩ろう




第三章  重ねの呪い



「ねえー、あれ教えてよー!」

「だーめ」

「ねえー、技に溺れないからー!」

「だーめ!」

 キュウリとトマトをさいの目に刻んで混ぜ合わせたものに塩を振って、葉物野菜の大きな葉を皿代わりにした中に盛りつけた、簡単な料理を昼食に摂りながら、霄瀾と出雲はその作り主である紫苑と、彼女にお願い攻勢をする露雩を眺めていた。

「あの剣圧、すごかったなあ! 傷つけたくない人がいたら、あれで止められるだろ? お願いだよ紫苑ー!」

「だめなものはだめ! 私は人に教えるような剣技は、持ってないわ!」

「持ってるじゃないかあー」

 紫苑がまったくとりあわないので、出雲が露雩に忠告した。

「剣姫に何言っても無駄だぜ。紫苑だって制御できないんだから」

「剣姫?」

「とにかく!」

 紫苑が勢いよくさいの目のトマトを口へ放りこんだ。

「よくない癖が隠れてるかもしれないし、我流の私の真似はしない方がいいの。師につくなり、本を読むなり、自分でなんとかしなさい!」

「じゃーいつかオレのやり方であの技出せるようになっていい?」

「……やりたければやりなさい」

 紫苑は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

 ここは花初国かはつこくの領内で、御競町みせるちょうへと続く街道のただ中である。

 玄武げんぶ神殿は、その先であるから、紫苑は気がくのだ。魔族に先を越されてはならない、と。

 そのとき、何か耳の奥を突き刺すような衝撃が走り、四人分の木の湯飲みを片付けようとした紫苑の全身は、感覚を失った。

「――!?」

 ぐにゃりと抵抗もなく草地に転がった。見ると、他の三人も身動きせず不自然に横たわっている。

 いつのまにか何かの波動が、辺りを波打たせていた。

「術の音波……!!」

 体の機能を一時的に低下させられたのだ。

 草をする音がして、一メートル丈の植物が現れた。小さな花が三つ、一つの目と二つの口が三角形の配置でついており、一つの口は常に開いて、音波を出し続けていた。残りはまばたきと呼吸のたびに釣鐘のような長い花びらがすぼんで開いた。

「どっちが星晶睛せいしょうせいだろう?」

 三つ花の魔物が紫苑と露雩を見比べた。

河樹かわいつきは一番美しい奴だって言ってたけど、男か女か忘れちゃったな」

「(河樹! あいつが今ここにいたら、私たちはひとたまりもない!!)」

 紫苑は必死にこの音波から逃れることを考えた。一番効くのは風の波動だ。風といえば青龍の力だが、出雲は未だ神剣・青龍を使いこなしてはいない。

 自分の体の中で炎を燃やし、音波を遮断するしかない――。しかし、紫苑の体調は谷隠町たにがくれちょうを出たときから、思わしくなかった。この微熱の体に炎を流すなど、再起不能を自らに与えるに等しい。

「素早く殺さないと反撃の機会を与えるって言ってたし、とっとと殺そう。こっちに決ーめた!」

 三つ花が向いた先は、露雩だった。鋭い木の枝を、振りかぶる。

「(露雩!!)」

 出せない声が紫苑の体内に炎を呼ぼうとしたとき、露雩の左目が光を放ち、三つ花を跳ね飛ばした。

 風。

 露雩の周りに風が渦巻き、音波を遮断している。彼はゆっくりと立ち上がった。

「(――星晶睛!!)」

 正方形を二つ、縦と斜めに重ね合わせた八角形が現れ、好戦的な情熱をほとばしらせる赤紫の光が宿っていた。

 青紫色の右目の露雩とは違う。雷ではなく風の術を出したこともさることながら、不敵に笑う様子、冷静さより野性味を備えた闘気に、紫苑たちは度肝を抜かれた。

「(この人は、まだ私たちの知らない世界を持っている!)」

 二種類の星晶睛を持つ男は、左目だけそれを見せながら、三つ花に刀を一本だけ抜いた。

「こんな技ごときにこの私が倒されると思ったか!」


 竜の鳴き声と、七色の玉の入った鈴の音が、合わさった音となった。


「よくもオレをひっくり返したな!? もっと音波を増やしてへろへろにしてやる!!」

 余韻も味わわずに、三つ花が波動を放った。

 露雩が強い風を起こした。前髪が一瞬で上向き、その後ゆっくりと元に戻る頃には、音波は散り散りになっていた。

「ザコはひっこんでな!」

 うろたえる三つ花を、露雩は一太刀で斬り伏せた。

「そ……んな……!」

「ハ! 技を過信するもんじゃない。いい例だな!」

 露雩は刀を振って三つ花の緑色の血液を飛ばし、死骸を街道の脇へ蹴飛ばして笑った。

 かなり変化した性格に紫苑たちが息を呑んでいると、露雩が、まだ地に伏したままの出雲の方を向いた。

「……なんだよ」

「使えない奴だ。お前はそれでも式神か? こんな術も破れないとは」

「……なんだと!」

「使えない」と言われて、出雲の頭に血がのぼった。しかし、脳がくらくらして、へばる。

「お前みたいな奴は式神のもらい手もいまい。ご主人様の足を引っぱってばかりで、存在する意味がないからな」

「(こいつも式神オレを道具と見やがった!!)てめえ!! ぶっ殺されてえのか!!」

「露雩!! なんてこと言うの!!」

 露雩は左目を光らせながら、式神とその主人の言葉を冷静に受け止めた。

「その怒りよう……。否定しない主人。図星だったようだな」

「……ッ!」

 出雲が言葉につまると、露雩はクルクルと軽く刀を回した。

「弱い奴と一緒にいるとこっちは大変だよ。何から何まで面倒見てやらなくちゃならないからな」

「だ……誰がお前の世話になんか!」

「ほう。この私と戦えるだけの力があるというのか?」

「見くびってんじゃねえ!」

 突然露雩が真上から空を裂いて出雲を斬った!

「出雲ォ!!」

 紫苑の大声を遠くに感じながら、出雲は声が出せなかった。

 しかし血が出ていない。

「ッ……動ける……」

 思わず見上げる出雲を、露雩の左目はぞっとするほど冷たく笑って見下ろしていた。

「本当に斬られたか、寸止めされて風圧だけ来たかくらいわかるようにならなければ、お前はまだまだお子様さ」

「……!!」

 出雲は何も言い返せなかった。

「(……違いねえ……)」

 紫苑と霄瀾にも風の術を放って音波を完全に散らしている露雩を見て、既に露雩のおかげで動けるようになっていた出雲は、悔しそうに呟いた。自分はまだあいつの域に達していない、戦うまでもなく負けがわかっている。歯軋はぎしりしてもしたりない、でもあいつはすごい……。相反する感情が、出雲の中に生まれた。

「ありがとう、露雩……」

 露雩は、警戒している紫苑の顎をつかみ、顔をよく眺めた。紫苑は八角形の星晶睛に、吸いこまれそうな錯覚を起こした。

「お前……。どこかで私に会ったか?」

 左目の星晶睛の男は、純粋に疑問に思ったことを口にした。答え如何いかんで対応が変わることもない、問いであった。

「いいえ。ないわ」

「そうか……? だが、お前のことはどうもひっかかる。お前は――」

 彼は言いながら、前のめりに倒れた。再び紫苑が、全体重で彼を支えた。

「う……、あれ、オレはどうして……。確かしびれてたはずだ」

 星晶睛の消えた露雩が、紫苑に支えられながら体勢を立て直した。

「身体の危機に突発的に星晶睛が発動するけど、体力が切れたら星晶睛も休むのね」

「露雩、いつか決着をつけてやる。オレが追いつくまで待ってろ!」

「え? あ、ああ」

 紫苑と出雲に立て続けに言われて、曖昧な返事しかできない露雩だった。


 露雩は油混ゆーこんの実を数個もいできた。

 つぶして、油性の液を抽出した。

「どうしたの?」

 紫苑が水くみの足を止めて声をかけた。

 出雲は「打倒左目紫の露雩」で修行中、霄瀾は狙った的に投げる訓練をしている。

「絵を描くんだ。霄瀾からいろんな色の岩絵の具をもらったから、砕いて色を作って」

 岩絵の具とは、様々な色を持つ岩のことである。砕いて粉状にして、油混と混ぜて絵筆につけて塗る。岩なので持ち運びに便利だ。

「紙はあるの?」

「なぜかね、今、この黒水晶の本が開くんだ。ただし、白紙のページだけ。だから、絵を描くことにしたんだ」

「どうして日記にしないの?」

「だって……」

 露雩は岩絵の具の岩石を選ぶ手を止めた。

「みんなの顔を、忘れたくないから……」

 露雩と目を合わせて、紫苑はそばへ寄って座った。

「――怖いんだ」

 岩絵の具をつかむ指に力がこもった。

「オレやみんなの危機に、その星晶睛になるんだと思う。圧倒的に強い力なら、みんなを助けることができて、嬉しいよ。でも……記憶がまったくないし、その星晶睛のときはオレの知らない人格なんだろう? オレじゃないのに、オレの姿をして敵と戦っている。自分じゃない自分が、何をしようとするのか、たまらなく怖いんだ」

 確かな感触を身に与えて自我を保とうと無意識に思うあまり、その指は既に岩石を砕いて、その腹に爪を食いこませていた。

 意識を飛ばして戦うこの人と、意識がありながら制御できない剣姫と、はたしてどちらが幸せなのであろうか、と紫苑はふと思った。

 剣姫には、自分で抑えきれないものへの彼の苦しみが、痛いほどわかった。彼に言葉をかけられる者は私しかいないと、しみじみと思った。

「守りたいときに誰かを守れる力なんて、素晴らしいわ。私は殺したいときに誰かを殺す力だもの。抑えきれない衝動にいつも苦しめられるけど、私は父上がいつもそばにいてくれたから生きてこられたんだと思う。露雩には私たちがついてる。だから自分を怖がらないで。受け入れてみれば、きっと何か教えてくれるわ。私も、その旅の途中。一緒に探そう、答えを」

 紫苑は優しく、露雩が食いこませている指をほどいて握った。露雩はその柔らかな手に岩絵の具が溶けていくような心持こころもちがした。


 仲間の修行が一通り終わった夕暮れ時に、御競町みせるちょうに入った。

 町を歩く人々は、皆驚愕のあまり一行を振り返った。

 露雩の美しさは、群を抜いていた。

 そして、隣の紫苑の麗しさも衆を圧倒していた。

 露雩は、清らな眼光鋭く、すべてを映しだすような深い瞳、星のあらゆる力をその身に受けるかのような男らしさが、溢れていた。

 紫苑からは、可憐な花のような、淡く匂いたつ柔らかな美しさが、溢れんばかりであった。

 紫苑は、露雩の男性的な力強い美しさに並ぶと、なぜか自然と女性的な、か弱く和らいだ雰囲気を出してしまった。今までどんな人間にも、対等以上に張った気を、使い減らしたことのなかった紫苑が、である。紫苑の美しさが今、はっと人を振り向かせるのは、ひとえに剣姫としての殺気で固まった硬質の美が、人を受け入れる柔和な美へと傾いたためである。

 娘たちは、息をするのも忘れて露雩にみとれた。そして、傍らの紫苑を見て、二人の仲を納得するのだ。

 何も知らない人々には、二人がそう見えた。

 だが彼らは知らない。

 このもろい美の覆いが、彼女の覚醒一つで千々に千切れる危うさを内包しているということを。

 彼らは、ただただこの世で最も美しい男と女を見たとだけため息をつき、この二人には何の悩みもないのだとさえ信じこんだ。

 人々の思考を知る由もなく、一行は宿屋へ向かい、二部屋をとった。


 この先に何が待っているのか、彼は知らなかった。

 ただ、開けなければならないと思っていた。

 目の前の扉を。

 誰もが彼を止めたがっていた。

 だが、たった一人だけ、彼を呼ぶ者がいた。

「――開けて!!」

 たった一人のために開けた扉から、彼を貫かんとする豪速矢が襲いかかった。


「うわああっ!!」

 思わず右腕でかばいながら、露雩は宿屋のふとんを跳ね飛ばした。

 ふとんは出雲の顔にかぶさった。呼吸が圧迫され、酸欠の出雲がふとんを跳ね飛ばした。

「誰だ!! オレにいやらしい瀕死攻撃をした奴は!! 何の術でもなくただふとんかぶせるだけなんて、オレを困らせて喜ぶ愉快犯としか思えない!!」

「ごめん出雲。愉快じゃないけどオレが犯人だ」

 うずく右腕を押さえながら、露雩が、空気を求めてぜいぜい呼吸している出雲におずおずと声をかけた。

「ん? お前、その右腕どうしたんだ!? あざになってるぞ!」

 露雩の白い右腕に、鋭い流線を複雑に区切った模様で、真っ白いあざが浮かびあがっている。

「なんだこの模様……、狼みたいだな……」

 腕を一回りして眺めた出雲が率直に呟いた。

「矢を防いだと思ったんだ……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

 露雩は、これ以上自分の存在を不明にしてしまうものを、自分の一部と認めることに激しい抵抗を覚え、右腕のうずきに対して、刀を当てて冷やした。

 紫苑は、避止ひとめの姿を夢に見ていた。

 剣姫として、睨みつけてはいるが、夢の中の紫苑は動かない。

 これまで、この力の暴走を防ぐために、善と悪を単純化し、悪を倒すことのみに力を使うよう、専念してきた。もし善と悪がはっきりと区別できないものだと知ったら、紫苑は恣意に力を使いだすであろうからだ。悪に触れることで、独裁的に断罪し始め、「悪に対する明確な己の基準を持たない者」として簡単に悪の論理に引きずりこまれるだろう。

 だから紫苑は悪を即撃てと考えてきたのだ。

 自分を守るために。

 結局、信念を持たなければ、自分勝手な力として、他者から倒される側にまわってしまうのだ。

 避止に「教育」された者たちも、倒される側なのだ。彼らの運命は歩毬ほまりにかかっている。

 そんな許せない避止をなぜ斬らなかったのだろうか。己の殺したいように人々を殺す避止に、剣姫の末路を垣間かいま見て体が硬直したからだろうか。

 ほてった体にだるさを覚えながら、紫苑は目を覚ました。

「わーい! 朝からリンゴをすりつぶしたのみものだー!」

 霄瀾が飛び跳ねた。

 食卓には、宿屋で出される鮭の切り身とごはんにみそ汁、漬物の定食に加えて、白木の器に食べられる薄桃色の花が引っかけてある、リンゴの果汁の飲み物が並べられてあった。紫苑がリンゴをすって少し砂糖を加えて甘くして、作ったものである。

 四人分の白木の湯飲みからは茶の湯気がたち、縁の一箇所に短く縦に割られた隙間に、紅葉が一枚、上に向かってさしこんである。

「おいしい! ありがとう紫苑!」

 霄瀾が両手でリンゴの飲み物の器を持って味わっている。

「あら、よかった!」

 本当は体調がよくないなか無理をしたに等しいのだが、そんな様子はおくびにも出さず、霄瀾に微笑んだ紫苑は、次にちらと露雩を盗み見た。定食を食べ終えて、紫苑の飲み物に移ろうとしている。

 主な動機は、この人に食べてもらいたいという気持ちからであった。甘い飲み物に、花。つい気分が高揚して添えてみたのだ。

 花を眺めて、口をつけて、食べて、噛んで味わう。その一つ一つの動作がゆっくりに見えて、もどかしい。感想は? 感想は? 感想は?

「花ってすっぱいんだね。でもリンゴの甘さがあるから、気にならない」

 紫苑は露雩の感想に撃沈した。しまったっ、見た目ばかり気にして味を考えていなかった、いや、もっと果汁の方を甘くすればあるいは……!

「きれいで見た目はよかったけど、花の中には毒を持ってるものもあるかもしれないから気をつけてね」

 逆に忠告という名の警告を受けて、紫苑は体のほてりが一層強まる思いがした。

「なんだ露雩、すっぱいのか? こうすればいいのに」

「出雲! リンゴの味がわからなくなるほど自分の持ってる砂糖かけるの、やめなさい!」

 紫苑のほてりは一層悪化した。

「あの……! よかったらこれ、食べてください!」

 不意に、食事の終わった露雩の視界に、ふた付きの木の入れ物が差し出された。

 年の頃十六、七の、明るい模様の着物を着た少女が二人、もじもじしながら露雩に微笑みかけている。

「なんですか? これは」

 他人に対して丁寧な言葉で問いながら、露雩が木のふたを開けた。

「栗の甘露煮です! 昨日作りました!」

「食べていいということですか?」

「はい! あなたに食べてほしいです!」

 二人が栗の甘露煮の出来具合の感想を予想して赤く震えている。

 紫苑はおもしろくない。おそらくこの二人は、昨日、夕方に露雩を見かけて急いで作ったのだろう。昨日の今日で、朝っぱらから、ご苦労なことだ。

 自分のことを棚に上げた少女が、自然と机に片肘をつき、口と頬をその手でわしづかみにして気に食わない顔を支えていたのだろう、彼が彼女に問いかけた。

「……食べていい?」

「いいわよ」

 どうせ私の方がおいしいから、とまでは言わずに、紅葉を飾った湯のみの茶を一口飲んだ。

「……おいしいです」

「本当ですか!? よかった!!」

「あの……こちらにはいつまでご滞在ですか? よかったらお名前を……」

「待って、私が先よ!」

「そうよ、私はこのお守りを作って渡しに来たんだから、あんた邪魔よ、どきなさいよ!」

 いつのまにか、宿屋の食堂は露雩に一目会いたい女性たちで、いっぱいいっぱいに膨らんでいた。

 皆が皆、贈り物だの、名前を書いてもらうための固い紙だのを持ち、めいめい長い髪を流行に編んだり上げたりしてきれいに装っている。

「あんたちょっと早く来たからって生意気なのよ! お名前を聞くなんて、あんたみたいな小娘の出る幕じゃないのよ!」

「化粧に時間のかかるおばさんがうるさいわよ! 何さ、こんな髪型、気合い入れちゃってさ! そらっ!」

「あんた、私の髪をめちゃくちゃにしたわね!? ええいよくも! こんな浮かれた着物、脱がせてやる!!」

 一組が始まると、連鎖反応で女たちは互いの髪を乱しあい着物を脱がせあい、半狂乱に叫びあった。

 髪をひっぱり振り回しあう影、食器が人の骨で割れる音、なすりつけられる料理の断末魔の最後に広がる香り。愛染あいぜん阿鼻叫喚あびきょうかんが始まったとき、

「静まれーいい!!」

 地の底から響く怒声がした。

 半裸の女たちはその震動に体の動きを止められた。

 剣姫化している、と出雲は力が抜けながら恐れた。殺すな、殺すな紫苑!

「な……なによあんた。仲裁なんか受けないわよ!」

 一人が勇気を振り絞って震える声を出した。紫苑は右手の人差し指をゆっくりと動かした。女たちが気圧けおされてさざ波のように身じろぐ。

「この男と私は夫婦である」

 高らかな声で紫苑は食堂に爆弾の術を投下した。剣姫でなかったら自身も自爆していただろう。

「そ……そんな! 昨日はそんな素振りはなかったのに!」

「許せない……! 私が好きになった人を、よくも奪ったわね!」

「そうだ、みんな! この女を殺せば、彼は私たちのうちの誰かのものよ!」

「そうよ、この女を殺せ! 殺せ!!」

 人を狂わせるほど美しいのか、と出雲は露雩に瞠目どうもくした。いや、感心している場合ではない。なんて危ない男だ、露雩も将来こいつの妻になる女も、相当の手練てだれでなければ人並に生きていくことさえできないのか。最も幸福になるはずの者は、他人が入れば最も不幸せな者になるのだ――。

 かわいそうに、と出雲は哀切の言葉を噛みしめた。たった一つの町でこの騒ぎだ、この男はこれから先、人のいない地でしか住めないだろう――。

 女たちが手に手にかんざしを逆手でつかむのを見て、紫苑はゆっくりと腕組みをした。

「殺そうとするか……。では一つたずねるが、この中に私以上の美人がいるか? いないだろう?」

 あっさりと大変な自信を公言する紫苑に、女たちはひるんだ。

「私はあんたに勝ってるわ!」

 何人かの、愛らしい花を思わせる少女たちが、名乗りをあげた。紫苑とは別の系統の可愛い美しさを持っている。審査員の好みによって評価が分かれるような、甲乙つけがたい美女たちである。しかし、紫苑の目の動きは迷うことなく、毅然としていた。

「確かにお前たちは可憐な顔だな。美しさの基準は人それぞれだから、お前たちに票を入れる者もあるかもしれない。女装では優劣はつくまい。だが男装したらどうかな? お前たちの顔は女性的すぎて、男装の私にはかなわない。真の美とは男の顔と女の顔の両方の美を持つ者のことだ。お前たちは女の顔しか持っていない。よって男と女二つの顔の美を持つ私には勝てない」

 女たちは、男――露雩が、二つの顔を望んでいるのだと知った。そして、かんざしを力なく下ろしていった。

 力には力を、自信には自信を。女たちが攻撃をしかけてきて紫苑が斬る前に、紫苑が美貌で女たちの美の自信を砕いたのだ。美ほど効果の高い攻撃はない。狂おしい煩悩に対して心の美しさを説いていては、間に合わない。女たちを斬らないために、紫苑は即効の制止を図ったのだ。

「わかったら去れ。お前たちに私は倒せん」

 ぞろぞろと足音だけを響かせて、女たちは無言で食堂から出て行った。あとにはひっくり返った椅子や、なぎ倒された机、割れた食器などがあちこちに残された。

 あまりのことに口と目を開けて固まっている霄瀾と、無表情に硬直している露雩を席に残して、紫苑と出雲は食堂の片づけを手伝った。

「すみません、弁償します」

「いいよ、一人もケガ人出さずに収めてくれたから。ありがとうね、やっぱりこういう商売だと、刃傷沙汰が宿の中であると困るから」

「……」

 黙ってしまった紫苑を、出雲は盗み見た。精神力を使い果たして、疲れているように見える。

らなかったな。やったじゃん」

 ぼそ、と他に聞こえないように呟いた。

「……」

 紫苑はかすかにうなずいただけだった。よっぽど自分を抑えたのだろう、と出雲は納得した。

「これが……愛か」

 茫然自失ぼうぜんじしつから回復して、露雩が踏みつぶされた栗を拾った。

「これが愛なら……オレはいらない」

 誰も反論できなかった。一般にはこんなことは起きないが、露雩には日常的に起きるのだ。人間のことを嫌いになってもおかしくなかった。

「でも紫苑たちみたいな人もいるから……、オレは人を信じられる」

 まっすぐな目を向けられて、紫苑は心の内で熱っぽい深いため息をついた。この男はまだ知らないのだ、彼女のもう一つの姿を。

 だるい体を引きずって、休みをとろうと椅子に腰かけたとき、同じく席に着いた出雲の後ろの通路で、女性が派手に転んだ。

「キャアッ!」

 お盆のお茶がひっくり返るのをよけて、湯飲みをつかみ、倒れてくる女性の口に飲み口を押しつけて体を支えた。そうしなければ、出雲は首筋に口づけをされるところであった。

「失礼。大丈夫ですか?」

「く、口をこんなふうに封じられるなんて、未体験……!」

「はあ?」

 口の周りに湯飲みの丸い縁のあとをつけて、女性が自力で立ち直った。

 どんぐり色の長い髪に波状のくせのついた、目尻とほうれい線に少ししわのついた四十代くらいの女性が、小さくて丸い目をくりくりさせていた。

「あなたに決めたわ! 私を助けて! 報酬は私の体よ!!」

「なななんだー!?」

 とんでもない発言をした女性に抱きつかれて、出雲は湯飲みを危うく取り落としそうになった。

「実は私はもともと十三才の学生で学年首席だったんだけどあなたが好きそれを妬んだ二番目の生徒の親がまじない師であなたが好き一日ごとに一才年を取るように私に呪いをかけてきたのあなたが好き今三十日目で四十三才であなたが好きこのままだとあと五十日もしないうちに死ぬほどあなたを愛してる!」

「『た』抜き言葉みたいに抜いていい言葉があるな。腕まくりして探すぞー」

「真顔で抑揚よくようもなく言わないで! 私は湯飲みをあてがわれたときからあなたが好きよ!」

「なんだそれは!? きっかけ変だぞお前!!」

「ああ、露雩がまた愛を誤解しそう……」

 無表情に出雲と女性を眺める露雩を見て、紫苑の胃は未消化物がたまり続けるように重くなっていった。

「それで、オレにどうしてほしいんだ? その呪い師をやっつけてほしいのか? 警備兵は何て言ってる? オレだって証拠もないのに倒せないぜ」

 奈痛希なつきと名乗った女性に、出雲は人差し指を手首より下にして突きつけた。

 すると、奈痛希は悔しそうに下唇を噛んだ顔をうつむかせ、手の甲をもう一方の手でつねった。

「やっぱり証拠がないとだめなのね……。警備兵にもそう言われたわ。でも私が“病気”で欠席して、一番喜ぶのは二番のあの子。十日休んだときにわざわざ私を見に来たわ。見舞いだって言ってたけど、絶対に違う。私を見て吹き出すのを我慢してたもの。あいつらが私をこんな目に遭わせたのよ!」

「……」

 証拠がなくては動けない、と出雲が困って黙ったのと、おもむろに紫苑が口を開いたのは同時だった。

「その呪い師の名前は?」

大夢以磨おおゆめ・いま

「おい、名前を聞いてどうす……」

「それで、もし大夢以磨が犯人でなかったら、どうするつもりなの? 術者が見つからなければ、あなたは五十日もしないうちに死んでしまうけど」

「諦めて身辺整理して、遊んで暮らすわ。だって、他にどうしようもないもの」

 さばさばした口調で、奈痛希は目尻にしわを寄せて笑った。

「せめて死ぬまで、好きな人と一緒にいたいな」

 湿っぽくなってもおかしくない話なのに、奈痛希はからからと笑って出雲にもたれかかった。出雲は紫苑を反射的に見た。

「五十日は無理だけど、今日一日だけでも一緒にいてあげたら、出雲」

「……そうだな」

 本当は私の恋人だから仲良くなりすぎないようにくらい奈痛希に言ってほしかったが、露雩と仮定の夫婦関係にある紫苑にそこまでは言えまい。それに、出雲も呪われた奈痛希が哀れに思えていた。十三才であと五十日の命。想像を絶する葛藤があったに違いない。

 最期のいい思い出になるかもしれない。共にいてやろう。出雲が奈痛希を眺めたとき、紫苑が立ち上がった。

「私はちょっと調べたいことがあるから」

「え? おい」

 紫苑は早足で歩き去ってしまった。あとには、子供と、無表情と、四十三才と、あっけにとられた出雲が残った。


「ねーねー全速力でかけっこしようよ! せーの、うおおおおお!」

「栗のいがって痛いー! でも草履ぞうりで踏めばなんとかむける! ねえ、いくつ見つけた?」

「相撲しようよ! 投げ飛ばしていいよ!」

 奈痛希は、体が疲れることばかり要求した。休憩で栗をゆでている間中、奈痛希は栗のいがで自分の手を突いていた。肌にあとができ、赤い斑点になっている。

「ねえ。次は二人きりになって、私を思いきりぶってくれない?」

 危険な発言に、出雲は奈痛希からいがを取り上げた。

「お前、さっきから何言ってるんだ? 自分の体を痛めつけるのはやめろ! 年を取ったら、ただでさえ治りが遅くなるんだぞ!」

「生きてる意味なんてないんだから、いつ死んだって、いいじゃない」

 奈痛希は火を見つめていた。出雲はいがを取り落とした。

「自殺する勇気がないから、自然に他殺されるように、自分の限界まで体を酷使してるの」

 奈痛希は火を見つめていた。

「死の恐怖ってすごいのよ。自分を傷つけて苦しまないと、生きている実感がなくなっちゃうの。もう、『普通』でいるとね、自分が透明になって、消滅するって、わかっちゃうの。それを受け入れたとき、私は死ぬんだってわかるんだけど、その死に方が恐いから、私は体に悲鳴をあげさせて、生きた実感を味わいながら死のうって決めてるの」

 奈痛希は火を見つめていた。

「どうせ死ぬし、今さら自分を大切にしたって、意味ないよ……」

 奈痛希は加齢で突き出た一段腹ごと両膝を抱えて、火から顔をそむけるように側頭を載せた。

 出雲はかける言葉が見つからなかった。露雩は何かを考えこんでいる風だった。

 そこへ紫苑が戻ってきた。

「みんな、急いで私について来て」

 栗を残したまま、一同は紫苑に導かれすすきの原っぱへ来た。

「えっ! 大夢以磨おおゆめ・いま!?」

 奈痛希の声に、白い衣の男が視線を向けた。吊り上がった目の周りに切れのある白い化粧をし、顔の下半分は真っ白に塗っている。

「この女に相違ないか」

 紫苑の言葉に以磨いまはうやうやしくうなずいた。

「はい。確かに私が呪った相手でございます」

「なっ!!」

 一同が驚いていると、以磨が目を細めて真っ白な唇を歪めた。

「その証拠に、これから私めがさらに呪いを重くしてみせましょう」

 以磨は呪いを唱え始めた。奈痛希は震えている。

「紫苑! どういうことだ!」

「呪い師たちの集まりで、『呪会じゅかい』というものがあるの」

 紫苑が奈痛希の斜め前へ、ゆっくりと移動した。

「そこで呪い師たちは己の技を見せあい、優劣を決めて順位と地位を獲得していくの。上位者は各国で役職を得ることができるわ。でもその呪会の中に、禁じられた会合もあるの」

 以磨は呪いの詠唱に集中して紫苑の言葉が耳に入っていないようである。

「本来魔族に対してしか呪ってはいけないところを、人間を呪ってその効果を確かめる集まり。その力の強い者が呪い師の裏の支配者となる――。その会を『呪祭じゅさい』というのよ。大夢以磨は呪祭に出席して、自分の力を誇示するために奈痛希を呪ったの。この呪いが完成して奈痛希が死ねば、呪会の幹部になるそうよ」

「呪祭!? でもどうして紫苑がそれを」

「今から呪い返しをするわ。そうでないと一度かかった呪いは除かれない。以磨の術が速ければ、私の呪い返しで二倍の速さになる呪いを奴は防げない。でももし防がれたら四倍の速さで返される。速さによっては私も防げない。二秒以内なら、私は負ける」

「負けたらお前も同じ呪いにかか」

「来る!!」

 以磨の言霊ことだまが呪いの風となって、空を切って奈痛希に襲いかかった。紫苑が一振りで扇を開いた。

りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜん! 忌鬼帰ききき急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!!」

 扇で縦横に九字を切り、呪い返しの半円を出現させる。跳ね返った呪いが二倍の速度で以磨へ吹き迫る。しかし、

「呪い返しなど日常茶飯事よ! 五行厄病やくびょう返戻へんれい急急如律令!!」

 九字を、あらゆる魔除けつまり呪い返しにもなる五芒星の図形を持つ、「五行」の言霊で省略して、速度ある呪い返しが以磨へ到達する前に再び紫苑へ向けて放たれた。到達予想一秒半、四倍の風で、紫苑は唱える隙もない。

「この呪い返しで負けたことはない! 華椿はなつばき様の名をかたった不届き者め、共に死ね!」

 以磨が勝利を確信してわずかな間、笑った。

「紫苑! 間に合わ……!!」

 風を目の前にして、紫苑は左手で仮面を左にかぶり出雲の背を踏みつけ大の字にした。

「うきゅっ!?」

 かわいらしい声は紫苑の右手首のみ動かす剣舞が九字を切る音と、

「急急如律令」

 の、素早い声にかき消された。

 言霊の風が鋭く跳ね返されて、今度は八倍の速さで以磨に向かった。

「そんな! ……な奴が!」

 考える暇もなく、一瞬で以磨は呪いを浴び、すすきの中へ吹き飛ばされた。

「な……なんだ? 何が起きたんだ?」

 紫苑の足を背に乗せられたまま、出雲が首を持ち上げた。

「呪い返しは返すごとに倍の速さになる。呪い師なら皆、一回はできる。でもそれの三回目の八倍の速度になったら、憎念が強いほど基本が速くなるから、呪い返しが間に合わない。だから呪い師が呪いをかける時は、自分の痕跡を残すまいと努める。呪い返しの応酬になったとき、もし相手が二回呪い返しをできるなら、先に呪った方が不利だからよ。この男は憎念が強く、近距離で呪った。二回目の呪い返しを持っていても、返せる時間がなかったのよ」

「で、お前がオレの上に乗っている理由は?」

「呪い返し二回目の四倍の速さになって、一秒半では九字を唱えるのが間に合わないから、出雲を大の字にして五芒星にたとえて代わりにしたの。九字は五芒星の印に乗って切ると力が増すのよ。さっき以磨が九字の代わりに五芒星を使う『五行』を唱えたのも時間短縮のための省略ね。それを見て、私、出雲を踏むことを思いついたの。私の方はさらに仮面で左を隠して男装したから、女でありながら男、つまり男女の陰陽の力も加わって、以磨の呪いをより大きな力で跳ね返すことができたの。ありがとう、あなたがいてくれて助かったわ」

「……ご主人様のお役に立てて嬉しゅうございます」

 紫苑に踏まれながら、出雲は複雑な表情で顎を前へ突き出した。

「呪い返しをするために以磨に呪わせたんだね。でもどうして以磨は自分から白状したの? 言ってもぜんぜん利益がないのに」

 霄瀾に、紫苑は懐から蓮華れんげをあしらった円筒の彫刻の入った筆を取り出した。

「あ!! それ、華椿雪開はなつばき・ゆきひらの!」

 華椿の力の象徴である筆が、主を失ってもなお、重々しく、その存在を主張している。

「帝にお渡しするよう、華椿家に頼まれたの。以後、あなたが支配者ですって意味をこめてね。そうでないと一族は皆殺しだから」

「そうだったんだ……」

 霄瀾は思わず、触ろうとした手を引っこめた。

「この筆を以磨に見せたの。華椿はまだ表向きは千里国で力が残っているから、『華椿家で召し抱える用意がある』ってことをちらつかせたら、簡単にしゃべったわ。奈痛希を呪ったってね」

「自分の出世のために、他人を嬉々として呪い殺すのか!」

 出雲は奈痛希をいたわろうと紫苑の肩ごしに視線を投げた後、一瞬目を疑った。

「あれ!? 奈痛希か!?」

 紫苑の後ろに立っていたのは、しわ一つなく、肌には張りが溢れ、むくみもまったくない、若い少女であった。小さな丸い目をくりくりさせて、両手で顔じゅうなでさすっている。

「あれ? たるんでない、カサついてない、すべすべ! わ、私……私……!」

 紫苑の差し出した鏡をのぞいて、奈痛希の小さな目から、あっという間に涙の波が溢れた。

「元に戻った!! 元に戻ったよー!! あーん!!」

 奈痛希は紫苑に思いきり抱きついて、その背中に向かって声の限りに泣いた。

「ありがとうございます!! このご恩は一生忘れません!!」

 紫苑は他人に対して緊張しながら、普段やり慣れていない抱きしめ返す動作をした。

「ねえ、大夢以磨がさっきから動かないよ? 反撃のときをうかがってたらあぶないよ?」

 霄瀾がすすきのぎ倒された方を指差した。

「呪い返しは速度が倍になるだけじゃない。威力も倍になるの。そいつは八倍の呪いを受けた。これから毎日、八才年を取ることになるわ」

 紫苑が以磨に向かって歩いていった。

「今、四十代として五日で四十才加わる。七日も生きないでしょう。死の恐怖を、今度はこいつが味わうのよ」

 以磨が横たわりながら悔しそうに苦しがった。吹き飛ばされたとき腰を痛めて立てなくなったようだ。早速八才年を取って、身体の痛みに対処の思考が追いつかないようだ。

「七日もあったらまたこの子を呪うのでは?」

 露雩の問いに、紫苑は奈痛希の肩に手を置いた。

「私が呪い返しの札をあげるから大丈夫。一生使えるように、最高級の紙と水、筆と墨で書いてあげるからね」

「はい!! ありがとうございます!!」

 自分から相手に触れようとするなんて、今までなかったのにな、と出雲は紫苑の行動の変化に、少なからず驚いた。

 奈痛希の呪い返しの札を書いている間、紫苑と奈痛希は友達のようによくしゃべりながら、笑い声を空に吸収させていた。

「(死なないということは、こんなにも人を活発にさせるのか)」

 出雲は、奈痛希の頬が笑うたびにつやつやと光を反射するのをぼんやりと眺めながら、こんなに明るいなら、ちょっとかわいいかもしれないと漠然ばくぜんと考えた。

「(いや! 好きとかじゃなくて、友達に言う『かわいい』だ! オレが好きなのは――)」

 ふと、視線が赤い髪の少女に移った。

 抜群の美人。

 だが、なぜか男は近寄らない。

 奈痛希の波状のくせのついた長い髪が、軽やかにひるがえる。

 そういえば、今まで見てきた町の娘は、ほぼ全員が髪を長くしていた。様々な髪型で男を魅了するためだ。なのに、この少女の赤い髪は、肩に届いたあたりで断ち切られている。もっと伸ばせば、もっとかわいい少女が見られるのに。

「いや……、根本はそれじゃない」

 髪一つで説明のできることではない。彼女は「戦いの邪魔だから」と言うだろう。それが核だ。

 少女には、「隙」がないのだ。

 結晶のように硬質で完璧な美しさが、男に二の足を踏ませるのだ。それゆえ、少女は露雩と並んでもその美に遜色そんしょくがないけれども、露雩の周りの女たちのような、男たちの混乱が起きないのである。

 男たちは、彼女に遭遇したとき、「きれいな絵を見た」という感覚に陥るのだ。出雲も初めて彼女を目にしたとき、そう思ってしまった。彼女の中身を知ってようやくはばかることなく話せるようになったが、すれ違っただけの人間に、それは無理だろう。

 だからといって、露雩に紫苑を見習えとは言えないし……、と出雲が主人を見つめていると、それに気づいた奈痛希がニタニタしながら駆けてきた。

「あなた、式神だったのね」

「……そういうことだ。だからお前の気持ちには応えてやれない。わかってくれるな?」

「うん! ご主人様に『うきゅっ!?』だなんて、こんなかわいらしいとこ見せられたらもう、お子様の出る幕じゃないわ!!」

 鼻から大量に息を出し入れして興奮する奈痛希に、大慌てで出雲が人差し指を左右に振った。

「えーと、バカ! シー! シー!」

「ん?」

「しし紫苑! なんでもねーよ! そそそうだ!」

 出雲は話題をらそうと紫苑のそばへ走り、囁いた。

「えーっと……、呪祭の連中はどうする?」

 紫苑の動きが一瞬止まった。本来ならば剣姫が斬ってもおかしくない者たちである。

御競町みせるちょうの警備兵に連絡しておいたわ」

 それだけ言うと、紫苑は札作りに没頭していった。

「殺さないのか!?」

 地割れに遭遇したときのような丸い目をして、出雲は驚きの声をあげた。

 しかし紫苑はそれきり何も言わなかった。筆を持つ手が、奇妙に揺れているように見えた。

「それじゃ、元気でね」

「もう体を痛めつけるなよ」

「はい、でも湯飲みを見るたびあなたのことを……」

「その方法では思い出さなくていい」

「じゃあうきゅ……」

「もうオレを思い出すなああ!!」

 奈痛希と別れたあと、別の家で若い女の大声で泣き叫ぶ声が聞こえていた。


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