青い月第一章「裂かれる星」
登場人物
赤ノ宮九字紫苑。双剣士であり陰陽師でもある、杖の神器・光輪の雫を持つ、「土気」を司る麒麟神に認められし者。阿修羅神が救いの道を示したあとの元の星に、邪闇綺羅神の力で戻ってきた。十の星方陣を成して星を救うために、戦う。
パヘト。以前竜の国で出会った小竜のパへとで、星の意思を守る存在に変わった。紫苑がこの星で存分に戦えるように支える。
第三部「黄昏の公転」では、主人公が紫苑に戻ります。
第一章 裂かれる星
三日月が青く輝いた。
その青い光は、一筋に集まり、地上に向かった。
降り立った光が失せたとき、赤い女が立っていた。
燃えるルビーのように赤い、流れるしなやかな肩までの髪。ガーネットの光彩を秘めたかと思える赤い眉。紅葉の盛りの紅葉のように赤く映える瞳、六角錐水晶のように、先も高さもほどよくとがり形作られた鼻。赤いサンストーンのように太陽の明るさを内に秘めた口唇、慎みをたたえたムーンストーンのような白い歯、そしてクリスタルが透き通ったような白さの肌。暖かい日差しに包まれた、春だと自然に笑みがこぼれる風の匂い。
赤ノ宮九字紫苑であった。
邪闇綺羅の星方陣によって作られた星が主流の星となり、元の星は神がいなくなってしまった。秩序の失われた世界に絶望する元の星に、阿修羅が道を示したあとの世界が、ここである。
不思議なことに、紫苑の右目に乾坤の書かと思えるような、世界の解説文字が現れ、紫苑はそれを読むことで世界を把握することができた。これは、この世界を紫苑に託した、愛する邪闇綺羅の与えた贈り物なのだろう。
「『神の代わりにこの星が封印した邪神は十体。この星が道をつなげるには十の星方陣が成されねばならない』……か。邪神が妨げになるか……それより仲間を集めなければ、星方陣は成せない……神器はまた集め直しなのかしら……? とにかく、どういう世界になっているか、そこから調べないと」
紫苑は周りを見回した。薄絹の白い布地に巻きつかれたような、朝霧に満ちていた。はっきり言って、何も見通せない。
目の前に、この星の幻が青色に映った。そして、光り輝いた。
紫苑は目に力を込めてうなずいた。
「生きたいのだな。皆、生きたいのだな。私も、やり遂げよう!」
すると、光る星の幻が消え、霧が晴れていった。
空から落ち葉が降っていた。
大地のあらゆる口をふさぐかのように大地を埋め尽くして降る、黄色い落ち葉だった。
そのとき、紫苑は地面が震え、大きく傾くのを感じた。とっさに近くの木をつかんで辺りを見回すと、山々が斜めにそびえていた。ここは山の中のようだ。しかし、湖の水は傾いても溢れ出さない。
しばらくすると、紫苑の目には斜めではなく、天に向かって存在する山の姿が戻った。
「なんだ? これは……」
「やあ紫苑。久し振り!」
突然紫苑の頭上に、影が差した。この時代で自分を知っている者はいない。紫苑が刀身に桃色の影を持つ神刀・桜を素早く抜いたとき、
「わあっ! 待ってよ剣姫! ボクだよっ!」
「!?」
剣姫を知っているなら、過去に会ったことがあるはずだ。紫苑は神刀桜を寸止めした。
「ふうーっ、相変わらず殺しにためらいのない人だねえ」
縦長の鼻と口、硬い鱗に覆われた太い胴体、骨ばった翼の、群青色の竜が、地上に降り立った。紫苑と同じくらいの背丈である。
「……もしかして、パへとなの……?」
紫苑は、その声から、かつてこの世界で竜の国に入ったとき、強制的に道案内をさせた小竜のことを、思い出していた。あのときは空竜の背の約半分の丈で、緑色の体であったが。竜は翼をぐんぐん動かした。
「そうだよ! パへとだった竜だよ! 今はパヘトだよ!」
「ん? うん、そう。どう違うの?」
パヘトはうつむいた。
「あのね、あれから竜族は、自分たちが世界を混乱させた責任を取れなくて、結局滅んだんだ。混乱に加担しなかった若い竜族は、ある日星の意思に呼ばれたんだ。この世界に神様がいなくなってしまったから、この星を守る手伝いをしてほしいって。星の意思を地上の命に伝えてほしいって。ボク、引き受けたんだ。それ以来ずっと、名前はパヘトになって、年齢が止まって、世界中を飛び回ってるんだ」
「神なき世界か……」
阿修羅神も星も、がんばって助けようとしたこの世界を、私はどうするのか。紫苑は重ねてパヘトに尋ねた。
「あなたがここに来たのは星の意思なの?」
「うん。紫苑にいろいろ伝えたいから、パヘトと旅をしてほしいってさ」
「いいわ。この時代に精通している人が必要だったの。ありがとう、来てくれて。懐かしい友達に会えて、嬉しいわ」
「ボクも! いろパ様に怒られるって、ビクビクしたときのこと、思い……出すな……」
紫苑は、気がついた。
「パヘト。いろパは……」
「竜王として、責任を取られて、消滅されました」
「そう……立派な王でしたものね」
そのとき、再び地が震え、斜めに傾いた。
「パヘト、これは一体何だかわかる?」
「この世界のことを説明するね」
パヘトが紫苑の真正面に立った。
「まず、神様がいなくなった隙をついて、邪なる神がこの星を乗っ取らんと襲ってきたんだ。その数は十柱。それを倒せる戦士が星に残っていなかったので、星は自らに穴を開けて、星の内部に十柱を閉じこめて、封印したんだ。ところが、その邪神が、十箇所で猛毒になって、この星を十の苦しみに遭わせているんだ。だから、紫苑にはその十柱の邪神を倒してほしいんだ。邪神は、この星で星方陣が成されうる聖地に封印されている。全種類である十の星方陣を成せば、世界は道がつながると阿修羅神がお示しくださったから、邪神を倒して、星の聖地を浄化して、星方陣を成してほしいんだ」
「十の神器と星方陣を成す十人は、やはり揃えなければいけないのね?」
パヘトは慎重にうなずいた。
「長い旅になるね。神器を集め、神器の適合者を仲間にして、邪神を倒さなければならない。でも、それを成し遂げられるのは神魔に並ぶ第三の最強、赤ノ宮九字紫苑だけです。あなただけが、全員を守り、統率し、最後まで行くことができると、星もボクも信じています。どうかよろしくお願いします」
「わかったわ」
紫苑は、愛する邪闇綺羅に頼まれたこの世界を、決して諦めないと誓った。
「私の神器・光輪の雫は使えないの?」
紫苑は三日月の入った円の中心に赤い水晶球の浮かぶ、円周に沿ってひし形の光線が出た杖を出した。星方陣を成した、月の神器である。
パヘトは、ほっと息をついた。
「十二種の大神器なら大丈夫。阿修羅様は、邪闇綺羅様によって破壊された水鏡の調べと、海月と、淵泉の器を、修復されたあと、向こうの世界に持って帰ってしまわれたから、もうこちらの世界には十二種の大神器は残されていないんだ。それは使えるから、一つ探す手間が省けたね」
「そう、それはよかったわ。それで、この世界で選ばれし神器は、何か見つける手掛かりはあるの?」
「阿修羅様は、ヴァン=ディスキースというお名で、この世にいらした時期がある。そのときに、密かに神器をお創りになったんだ。いつかこれを使う人間が現れるから、って。この時代では伝説の鍛冶職人と言われてるよ。だから、ヴァン=ディスキース作のものの中に、隠されていると思う。あと、たぶん阿修羅様は世界の自然にもお隠しになったと思う。星方陣を成すのは、人間だけではいけなかったから」
紫苑は腕組みして宙を睨んだ。
「人間が持ってたら、高く売りつけてくるかしらね。私、お金持ってないわ」
「神器はお金では買えないから大丈夫。持つべきでない人が持っていれば、その人は自滅するし」
「そうね、それが神器の特徴だものね」
紫苑に向かって、パヘトは首を一回転させた。
「それで今の状態だけど、ここ西の地方では、邪神の猛毒で星が二つに裂かれようとしているんだ。土地は傾いているんだけど、重力で垂直に立てるから、みんなそれに気づいていないんだ。ボクたちはこの見えない坂を登り続けて、裂け目へ到達し、邪神を倒さなければならないよ」
「聖地は、パヘトが知ってるの?」
「うん。道案内なら、任せて」
「……ところでパヘトはどのくらいの攻撃力なの?」
「うーん……」
パヘトは首をひねった。そして、近くの岩に炎を噴いた。炎の跡は、熱でひしゃげていた。
「ボク、戦ったこと、ない」
「ふむ……」
紫苑は、少し考えこんでから、肩までの髪を上にあげて、天に向かって一方向に逆立てて、かんざしでとめた。
「この世界にいる間は、常に剣姫の状態でいよう。邪神に即座に反応できるからな。パヘト、私が指示を出したらその通り戦え。いいな」
「う……うん」
パヘトはビビと翼を震わせた。
「ところでパヘト。……紅葉橋を知らないか」
黄色い落ち葉を見上げながら、向こうを向いた紫苑が尋ねた。
「星方陣が成された地なのだから、聖地のどこかだと思うけど、大陸の形も時代も変わっちゃったから、どこがそうとはわからないよ」
「……そうか」
この世界ですべきことをすべて終え、紅葉橋に行けば、きっとまた会えると信じている。
紫苑は、愛するお方からもらった、桜紅葉の魔石の首飾りを掌に載せて見つめた。紅水晶でできた桃色の桜に、針入り水晶でできた黄色い葉脈の透明な紅葉が二枚、ついている。桃色と黄色だから、火気と土気の護りがある。
大事なものなので、再び胸の中にしまった。
「あ。でも、万の言の葉の地に行けば、何かわかるかも」
ふと、パヘトが呟いた。紫苑は興味を抱いて振り返った。
「なんだ? それは」
「すべての言葉が落ちてくると言われてる場所だよ。過去から現在までに出現した言葉が、揃ってるんだって。星の記憶を刻みつけてる場所だから、丹念に追えば、現在どこが紅葉橋のあった場所かっていうのが、わかるかも」
「ほう……万の言の葉の地か……。ありがとう、覚えておこう。世界中を旅するのだ、いずれ見つけられるかもしれない」
「うん、がんばろうね紫苑!」
二人は、邪神を封じた聖地に向かって歩き出した。
正確には登っているのだが、山を下りていくと、町が広がっているのが見えた。ディンディーマ国のサパラパ町である。建物はパステルカラーで統一されていて、淡いレモン色や水色、黄緑色などと白の彩りが、目に優しく、かわいらしい。すみれ色からピンク色にかけてなどの様々なグラデーションもあり、目を引く。
歩いている人々は、紫苑のいた頃とは服装が大きく変わっていた。まず基本的に、男女ともゆったりとした足まである長い衣で、体を覆っている。詳しく見ていくと、男は脇腹まで垂れ下がる布のついた帽子をかぶり、日差しを遮り風が入るようにした長い衣を身に着けている。靴は、嘴の曲がった鳥の横顔のような、二点しか地面に接していない靴をはいている。女はきのこのかさのような帽子をかぶり、そこから色とりどりの紐を垂らし、ボレロの下に足元で少し広がるワンピースを着ている。お腹のところに、花のつぼみが膨らむようにお腹を大きく見せるデザインの布が丸く入っている。女も男と同じ靴をはいている。
白が基調の服だが、身に着けている耳飾りや首飾りといった装飾品は、金銀や色とりどりの天然石で、きらびやかである。
パヘトが囁いた。
「この西の地方では、女性はお腹が大きいのが美の基準なんだ。地面が熱いから、靴も地面になるべく接しないように、進化したんだよ」
「パステルカラーの町には合わないな」
「ううん。この西の地方には合ってるよ」
「?」
「紫苑の服、ここじゃ目立つかもね」
紫苑の疑問に答えず、パヘトが言った。
紫苑の見ている前で、一部の人々は黄色い落ち葉を避けるように傘をさして歩いている。一部の人々は通りを掃いている。
全員、きらびやかな服装のままで、だった。
「……確かに私の服は系統が違うし、華やかさはないな。しかしこの服は気に入っているのだ。あのお方と出会って、愛されたときに着ていた服だから……」
紫苑が困っていると、パヘトが提案した。
「華やかな布を一枚買って、服に適当に巻きつければいいじゃない。要は、この時代の人たちと同じところがあればいいんだよ。あとは周りが紫苑のことを、変わったデザインだと思うだけだよ」
「なるほど。しかし、私はお金がないからな……。空竜なら織姫だし、何か縫い物の手伝いで手間賃がもらえたのだろうが」
パヘトは紫苑の扇を見た。
「紫苑は舞姫なんだから、舞でお金をもらえばいいじゃないか」
さすがに紫苑はむっとした。
「私の舞は神への奉納だ。金のためには舞わん!」
「でもお金ないんでしょ。どうやって稼ぐの?」
「……パヘト。私を怒らせた報いを受けろ」
「……え」
人々が、がやがやと集まってきた。
その視線の先に、杭に縛りつけられたパヘトがいる。そのそばを、氷柱と同じ形に尖りを入れた石が、猛スピードで通り過ぎる。パヘトの体すれすれに飛んで、後ろの岩に突き立つたび、人々からおおーという驚きの喚声があがる。
石の氷柱を投げているのは、紫苑であった。人々の前を、紫苑の十二支式神の一体・「子」(鼠・ねずみ)が、普段の米俵の代わりに葉で編んだ籠を背負って歩く。
「美女が投げます石氷柱、見事竜を無傷にいたしましたら、どうぞお代はこちらにい! チュウ!」
人々が小銭を投げ入れていく。
パヘトが泣き叫んだ。
「人でなしいいっ! ボクを何のパートナーにしてるんだよっ! 当たったらどうしてくれるんだああっ!」
紫苑が石氷柱を投げた。
「当たりそうになったら火を噴いて逸らせ。あと、動くな。読みが外れる」
「こんな戦い方の指示いやああっ!」
パヘトの翼に石氷柱の豪速球の風が触れた。
「銅貨がいっぱいたまりましたね、紫苑様! チュウ!」
子が編み籠をのぞきこんでいる。
「パヘト。これでいくらだ?」
紫苑に対して、パヘトはすねたように編み籠を見た。
「ええ、ええ、ボクの命の値段ですからね、ボクが真っ先に知る権利がありますよ。……えーと、銀貨も交じってるから、五万ダカかな。けっこう稼げたね」
「それはこの時代ではどれくらいの価値だ」
「宿屋が食事抜きの一泊で三千ダカかな」
それは、紫苑がいた時代と同じような価値だった。
「そうか、貨幣と単位の呼び名が違うだけで、数字が同じなら計算はしやすい。よかった……」
「じゃあ、このお金でいい布を買おうよ」
二人は布を扱う屋台に向かった。紫苑がざっと商品を見ている隣で、パヘトは、光をよく反射してきらきら映える赤い布に目をとめた。
「これ、きれいだね」
店のおばさんはにこにことそれを取った。
「一メートル二万ダカだよ」
「(うっ……さすがにいいものは高い)」
自分で褒めておいてパヘトが返答に困っていると、紫苑はあっさりうなずいた。
「一メートルくれ」
おばさんは手を止めて尋ねた。
「一メートルでいいの? 服は作れないけど?」
「私はいろいろな形に切って使いたいんだ」
「ああそう。ならいいわね」
おばさんは慣れた手つきで物差しも使わず、はさみだけでシャッと布を切った。
「はい。この布があなたの役に立ちますように」
「素敵な言葉をありがとう。大切にします」
紫苑は二万ダカを払って町の外に出た。そして、刀で布を裁ち切り始めた。横でパヘトが申し訳なさそうにしている。
「ごめんね紫苑。お金がないのに、高いの選んじゃって……」
「気にするな。この時代のお前がいいと言ったのだ。他の者から見ても、華やかな布なのだろう。それに、私もこの布はきれいだと思う。こういうときでもないと、私はこういう浮かれたものを買わないからな。パヘトには感謝している。少し娘らしいことができた」
紫苑が微笑むのを見て、パヘトは胸が温かくなった。
「お金がなくなったらまた石氷柱をやればいいしな」
「人でなしいいっ!!」
パヘトの心臓が凍りついた。
紫苑は、自分の両二の腕の外側にある五芒星を隠すように、赤い布を巻いた。落ちないように縫いつけると、残りは大事そうに胸にしまった。
「あまりかわいくしすぎると、服を傷つけたくないと思って気が散って、剣がおろそかになるからな」
「……」
パヘトは、ああ、剣姫はこういう人なんだった、と懐かしく思った。子が顔を上げた。
「紫苑様のことは、チュウらが守るチュウ! 頼ってほしいチュウ!」
「ふふ、そうだな。この世界ではお前たちが頼りだ」
紫苑が子の頭をなでているのを見て、パヘトは気づいた。
「そういえば、その十二支式神召喚も、この時代ではもう使う人がいないから、目立つなあ」
「ええっ!? じゃ、もうこの時代に陰陽師はいないチュウ!?」
子の疑問に、パヘトはうなずいた。
「似た存在として、言霊師というのがいるんだ。言葉を発するとその言葉通りのことが起こるのがこの世の理で、普通は言ってからそうなるまでに長い時間がかかるけど、言霊師は言葉の力が特に強くて、秒単位で実現するんだよ。木火土金水の五行の術を使うけど、もう四神五柱の御名において力をお借りするわけじゃないんだ。どれだけ字に力を込められるかで威力が変わるんだ」
紫苑は片眉を上げた。
「字に力を込めるとは、なんだ?」
パヘトは地面に、剣の絵を爪で描いた。
「例えば、ここになんでもない一本の剣がある。ここにもし言霊師が、『正義』とか『蓄財』とか、言霊で文字の力を与えたら、この剣は持ち主の『正義』の心や『蓄財』の才能に合わせた攻撃方法と攻撃力を持つことになるんだ。欲の深さによっては紫苑と堂々と渡り合う武具が出てくるかもしれないから、気をつけて」
紫苑は、向こうの世界に置いてきた神剣・麒麟を思い浮かべた。四神五柱の神剣に匹敵しうる力が生み出されるとしたら、厄介なことだ。
パヘトは一巻の巻物を鱗の下から取り出した。
「言霊師の術の使い方のいろはが書いてあるよ。相手を研究したり、自分の技に取り入れたりするのに使って。紫苑の陰陽師としての術は使えるけど、防がれるかもしれない。こちらも言霊で強化すれば、紫苑の力ならきっと勝てるよ」
「郷に入っては郷に従えね。常に時代を理解し自らに取り入れることが、生き延びるコツ。この世界の文字は右目で教えられてるし、読んでおくわ」
「この世界には神聖文字があって、最強の術になるんだって。言霊師はみんなその文字を探してるって言うよ」
「なんだパヘト、星も知らないのか?」
「阿修羅様がお隠しになったんだ。四神五柱ほどの試練もなくその文字を目にした者が使えるようになっては、力は持つ資格のない者に奪われてしまう。だから、神器にお刻みになったけれども、それのありかは阿修羅様だけがご存知なんだ」
「チュウ……阿修羅様、さすが神器の創り手の神様チュウ。世界をお護りあそばしたチュウ。紫苑様、どうかがんばってくださいチュウ」
十二支式神・子は、紙の札に戻った。
「さて……今のうちに言霊師の巻物を読んでおこう」
紫苑は、木陰に座ると、巻物を開いた。パヘトは、辺りを見張っている。
『言霊師の心得
誰かの身体が汚いとか、部屋が汚いとかいったことは、他人でもきれいにすることができるが、汚い言葉を使う者はどうしようもない。
言葉は生きている。
なんでもない会話のうちにも、一つ言葉を間違えれば自分に跳ね返って、呪文のように攻撃してくるのである。だから、言葉を使う者は言霊師でなくとも気をつけて、腐った言葉を使わないようにするべきなのである。
心で考えたことは、体の内側を通って発声される。つまり、そのとき美しい言葉を使えば、心から体の隅々まで美しい塊が通っていくのである。毎日数え切れないほどの字をしゃべるのだから、体の内側を美しくするのに、これ以上のものがあろうか。
外見だけでなく、内側も美しくならなければならない』
「どうやら言霊師は、よい理念があったから発達したらしいな」
紫苑は読み進めた。
『言霊の力
例えば「雨」の言葉が口から出たら、雨のつぶてが口から出たのと同じだ。つまり、汚い言葉を使えば、汚いものを産んでいるのと同じことだ。美しい言葉は、それだけで口が腐るのを免れさせる。語るだけでその人が美しいというのは、声よりむしろ言葉遣いの美しさを言うのだ。
汚く産んだものは、そこに向かって呪った相手も攻撃するが、それを生成した己の体内をも汚す。吸ったきれいな空気は体内でそれによって汚れ、粗悪な燃料のように不完全燃焼を起こし、体内の気血のめぐりを悪くする。また、すすけて頑固にこびりつき、体内が掃除されなくなる。
おいしい空気を吸い、運動をして汗を流しただけでは、体内の掃除はできない。
落ちない汚れになる前に、美しい言葉を発して、簡単に終わるこまめな掃除をするべきである。でなければ、人生において言葉以外の何をしても汚いものしか産めなくなるだろう。仕事でも趣味でも、自分がするどんなことでも』
「相手と戦うときは攻撃の言霊を使うから、うっかり必要以上の言霊を使ってしまったときのために、対処法を言ってくれているのか」
紫苑はさらに読み進めた。
『言霊の初歩
初級者は、まず字を丁寧に書くこと。
それから、自分の信念を一字で思い浮かべ、それを己の技とすること。
様々な漢字一字で様々な感情を表し、技の数を増やしていくこと。
慣れてきたら、漢字を二字、三字、四字……と、増やし、字を理解しながら己の世界を広げ、己の感情の力を増していくこと。以上』
「ふーん。おもしろいな」
思わず紫苑は感想を口に出した。そして興奮冷めやらぬうちに、自分の信念の一字は何だろうと目を閉じた。
そして、すぐに目を開けて笑った。
邪闇綺羅と世界を愛する「愛」の字しか、思い浮かばなかったからだ。
「『殺』かと思っていたが。私はまったく以前と違う道に入ったのだなあ」
そして和紙に「愛」と「環」と書くと、陰陽師の術で「愛」と書かれた和紙の腕環を作って、「愛」の字が見えるよう外側に向けて右手にはめた。
「さて、町に戻ろう。もう少しこの時代を理解したい」
紫苑とパヘトは、ディンディーマ国のサパラパ町に戻った。お金がないので、これから野宿中心の旅をすることになる。まず、食料として、羊の干し肉や乾燥野菜、豆を買った。
そして、武器屋に入って、この時代の武具を探った。
刀より幅の広い刃を持つ、軽い湾曲の入った剣が並び、竜の鱗のように鉄片をつなぎ合わせた鎧が吊り下げられていた。なめらかに変形し、すぐに動かしたい方向に体が動かせる、軽快重視の鎧であった。
紫苑は武器屋を出てパヘトに尋ねた。
「ヴァン=ディスキースの作品は、なかったようだが?」
「あれは特別だから、各国とも売らずに、王宮の武器庫に保管してるよ。当時、ヴァン様は自分の武具を世界中の軍隊に行き渡らせた。各国は同じレベルの武具のために戦争に決着がつけられなくなって、やがてすべての戦争を諦めたんだ。初めて世界平和が訪れた期間だった。ヴァン様がこの世界から去られたあと、新しい鍛冶職人は出現したけれども、誰もヴァン様の武器を超えることができなかった。各国は、永久に錆びないヴァン様の武器がある限り、他国に攻め込むことができないんだ。失う利益と得る利益が同じなら、戦争は馬鹿馬鹿しいからね」
「なるほど、阿修羅様のやり方で世界を平和にしたのか。それは今も続いていると。全世界に武器を与えるなど、元手の資金はどうしたのかと怪しまれなかったのだろうか」
「ヴァン様の奥さんが稼いでいらしたから、それを隠れ蓑にしたみたい」
「奥さんんん!?」
紫苑は、剣姫でありながら素っ頓狂な声を出した。
「阿修羅様にか!?」
「うん」
「誰だ!?」
「セイラという名前で、その時代で世界中が参加するお祭りだった、歌音祭一の歌姫だったそうだよ」
「せ、星羅か!? そうか……良かったな……!!」
遂に一緒に暮らすことができたのか。紫苑は、祝福と羨望を同時に感じた。
「私も、負けてられないな」
「でも、星の記憶によると、二人は一度もキスもしないし手も握らなかったそうだよ」
パヘトが冷や水を浴びせた。紫苑はそれを振り払うように、冷静に尋ねた。
「それとパヘト、この世界の宗教はどうなっている」
「阿修羅様が世界をお救いくださったので、人々は両手を組んだ図を掲げ、美しき音の神と呼んで信仰しているよ。今のところ阿修羅様の御業については、実は自分が起こしたのだと言い出す妄想人間は現れていない。宗教的には非常に安定しているから、邪教の邪魔は入らないんじゃないかな」
「ふむ。世界が同じ方向を向いているのなら、星の真の敵である邪神との戦いに専念できる」
「ううん。邪神の猛毒にかかった人は、身体の苦しみにあうんだ。その苦しみから解放されるためには、邪神の手駒になることを誓うしかない。彼らは、動けない邪神の代わりに、分身として世界を支配しようと悪の限りを尽くすから、そういう奴らとも戦わなければならないよ。彼らは猛毒の手先だから、毒手と呼ばれているんだ」
紫苑は額に手を当てて頭を振った。
「やれやれ。また斬らねばならんな。邪神も考えたものだ」
「もし。変わった姿の魔族と一緒の娘さん」
二人に声をかける者があった。
青みがかったねずみ色の長い衣と帽子だけの、この町の住人にしては簡素な服を着た男である。
「私は商人のタンナと申します。見かけない顔ですが、どちらからいらっしゃいましたか?」
「(魔族と思われているようだが、衣装でも術でもなく、一番目立っていたのは竜族のお前ではないか、パヘト!)」
「(そんな、ボクこんなにかわいいのに!)」
「(それは今関係ないぞ!)」
紫苑とパヘトは小声で囁き交わしたあと、なんとか取り繕おうとした。パヘトが真っ先に答えた。
「ボクたち、仙雲民族のもとで、山で修行していたんです。知人を探して旅してるんですよ」
「(仙雲民族?)」
「(シッ! 紫苑、ボクに合わせて!)決して怪しい者では……」
タンナは、「そうですか……」と言いながら、二人を探ろうとする目をやめない。
タンナは、邪神の猛毒を受け、苦痛からの解放と引き換えに邪神の手先となった毒手だった。紫苑とパヘトの「邪神」という単語を聞き逃さず、どういう者か、探りに来たのだ。山で修行していた者が毒手側にいるとは思えない。何かの芽にならないうちに摘んでおこう、とタンナは思った。
タンナの目の合図で、町に素性を隠して暮らしている毒手が、目的の違う他人を装いながら、集まってきた。そして、「演じ始めた」。
「この靴は千ダカ以上する」
「嘘つけ二千ダカ以上だ」
「いいや千ダカ以上だ」
「何言いやがる二千ダカ以上だ」
同じ議論を延々と繰り返す愚かな二人を、
「バカな奴らだ。笑いが止まらねえ」
「まったくだ」
と、嘲笑する者たち。
「妹の結婚式の行列を探しているんです。田舎から出て来て、道に迷って式の時間に遅れてしまって……どこかで見かけませんでしたか」
「あっちの道に行ったよ」
「ありがとう、さよなら」
「ケッケ、バカめ。正反対の道だよ」
他人の大事な人生の分岐点を、嘘で台無しにしてしまう者たち。
剣姫の怒りが頂点に達した。それこそがタンナの狙いであった。タンナは言霊師であった。毒手だろうと一般人だろうと、嘘、中傷、そして「バカ」「とんま」などの言葉の暴力は、言った者の言霊の威力を減殺する。紫苑をわざと怒らせて暴言を吐かせ、言霊の防御力が弱ったところを、タンナの呪いで確実に仕留めようと考えたのであった。
タンナは紫苑が毒手に怒って罵詈雑言を言い放つのを、手ぐすね引いて待っていた。自分の最大の技は既に準備済みであった。
ところが、紫苑は一言、
「斬る」
と、言っただけで、一瞬で嘲笑者と嘘つきを斬り捨てた。そして、結婚式の行列の嘘の道を教えられた人を、追いかけていった。
毒手といえど、タンナは、目の前のあまりの血の海に、腰が抜けて動けなかった。
「え!? 殺人!? なんで!?」
毒手として、邪神の力を借りて、今までしたい放題をしてきた。しかし人間の皮をかぶっているので、毒手は逮捕されることはあっても、裁判なしに殺害されることはなかった。
「なんだこいつ!?」
「正義」の言霊なのか!? なんて独善的な!! と、うろたえるタンナの目の前に、剣姫が立った。
「千ダカと二千ダカを言い合っていた二人も、妹が結婚したという人も、私を見て逃げていった。どうやら全員グルらしいな。その中心で目配せをしていたのは、お前だったなタンナ」
その凍てつく視線に、タンナは震えだした。
「こんな殺人鬼、この世界で聞いたことがねえ! お前、まるで、その感じ、邪神――!!」
「毒手は死ぬと一気に腐敗して、汚水になるようだな」
紫苑に斬られた者たちは、毒の汚水に変わり果てていた。
「お前は何秒で腐敗するかな」
「人殺し――」
紫苑はタンナの口に剣を突っこみ、刺し殺した。
「三秒か。邪神と戦うとき、奴らの猛毒に注意しなければな」
紫苑は神刀を振ってタンナの汚水を取ると、刀をしまった。
「紫苑。言霊で浄化してよ」
パヘトが頼んだので、紫苑は練習のつもりで言霊を放った。
「汚浸砂漠・分解!」
大地に染みこんでいた猛毒の汚水は、その部分を生物の棲めない死の砂漠にしていたが、紫苑の言霊で猛毒が分解され、再び微生物の棲める土に甦った。
「うん、さすが紫苑は殺気で気を放つ訓練をしただけのことはあるね。もう言霊を使いこなしてる」
「これからは毒手を斬るたび、浄化した方がいいのだな」
「その通りだよ。この星を死の砂漠から救って」
「やい女!」
紫苑とパヘトの周りを、男女十人ばかりが囲んだ。
「この町で殺人とは、どういうつもりだ! 何者だ!」
男も女も全員、剣を構えている。紫苑は落ち着いて答えた。
「こいつらは人じゃない。邪神の分身だ。その証拠に、死体が残らないだろう? 毒の体だからだ」
十人は怯えたように震えた。紫苑は、十人が毒手だと見抜いた。議論していた二人の男と、妹が結婚したと言う男も入っている。自分の正体がばれたので、紫苑を、他の毒手と協力して葬ろうとしているのだ。そして、自分が死んだときの体の末路を知って、驚いているのだ。
「ちょうどいい。この地方の邪神の情報を引き出せる」
剣姫はニヤリと笑って双剣を抜くと、毒手に斬りかかった。腕や足を斬り飛ばし、即死しないように加減しながら、猛毒であろう血を浴びないように、十人の間を軽やかに飛んだ。
「さて……どいつから尋問してやろうか」
剣姫は振り返ってみて、啞然とした。
皆、即死していた。
「はあ!? 普通生きてるだろ!?」
剣姫は十人の間を駆け回った。しかし、身体の苦痛から逃れるために邪神の手駒になる人間は、そもそも身体の苦痛にとても弱いのだ。少しの傷でも、生き延びる気力を持てなかったのだ。
「う……うう……」
一人の男が呻き声を上げた。剣姫は飛んでいった。
「よし! お前の主人の邪神のことを話せ! 話したら治療してやるぞ! 毒手として人々にどうされるかまでは知らんがな! さあ言え! 痛いだろう! 楽になれ!」
虫の息の男が、息も絶え絶えにやっと言った言葉は、
「妻に……」
と、自分の家族への言葉だけだった。
「(こいつ!)」
紫苑はカッと怒りがこみ上げた。
「悪人の生き証人の分際で言うことがそれか! 身の程をわきまえろこの罪人め!」
バシと手の甲で裏拳にして男の頬を殴りつけた。
男は死んだ。
「お前の価値は親玉の正体をしゃべることだ! それが悪人のくせにいっちょまえに妻の心配だあ? 笑わせるな! チッ、死にやがって、親玉を吐きもしないで使えない奴だ! 仕方ない、次の機会だ。また襲ってきたら別の奴に吐かせればいい。汚浸砂漠・分解!」
紫苑は毒手の最期である、毒の汚水を浄化した。
パヘトが手を叩いて笑った。
「はっはっは、さすが剣姫! なかなかここまで言える人はいないよ! 本当に、第三の最強だね!」
「男装舞姫の力の源だからな。一生この性格は直らんだろう。パヘトが竜族として世の理に触れて私を理解してくれる存在でよかった。これでもし“聖人”に出くわしたりしたら――」
「あなた、何をしているのですかっ!!」
突然、剣姫に錐のような言霊が向かってきた。
とっさにのけぞって振り返ると、顔だけ出してあとは長く真っ白い布を地面までまとった、四十代くらいの男が立っていた。眉と鼻が立派で、大きな黒目がちの目が、やたら光を反射してきらきらしている。一目で、心がきれいそうだとわかる。四十代並みに皺はあるが、肌がはつらつとしている。
「私の名はエムター。聖職者として修行している者です。あなたは、この町で何をしているのですか! 殺人など、して!」
パヘトが答えた。
「毒手は殺しとかないと、みんな邪神に支配されちゃうよ」
エムターは強く頭を振った。
「毒手を殺すだけでは何も解決しません! 彼らを救う手立てを考えなければ! 彼らが一番救われたがっているのが、わからないのですか!?」
「(だから邪神を倒しに行くんだけどな……)」
パヘトは他の毒手に知られてはならないと思い、黙った。剣姫は面倒そうに聞いていた。
「(こいつは“聖人”タイプだ。悪人は意思の弱い憐れむべき人たちだから、救おうと言う。しかし、罰のない罪はないことを、復讐されるのが恐くて悪人に言えない臆病者だ。さらに、かわいそうな悪人を人々からかばう“英雄”の自分に酔っているのだ。“聖人”とは、度し難い。くだらん、お前の目にとまるだけ、好きなだけ“救え”。私は、私の目にとまるだけ好きなだけ斬るだけだ。他人に自分の考えだけを強制するな。『お前は救えないのだから』)」
エムターは剣姫に説教し続けた。
「毒手は邪神に脅された、かわいそうな人たちです! 意志薄弱な被害者です! 邪神にかけられた呪いを解いてあげることこそ必要なのです!」
しかし、ここでパヘトが紫苑の神器・光輪の雫を黙って指差した。聖人のエムターには、それが神器だとわかった。
「神器が、この者をお選びになったというのか!?」
エムターはすぐに理解した。
「神は、弱さのある人間を好まれる」
“聖人”は、完璧すぎて、隙がない。弱さを底なしの強さに変えることは、もうできない。つまり、「神の力の追加は、必要ない」のだ。それにひきかえ、この女は、毒手という「人」を憎みながら、「人」を毒手から守るという愛を持っている。真実は神だけがご存知だ、だから普通の人間は無罪かもしれない罪人を勝手に殺せないのだが、人々からただの殺人鬼と疑われても毒手を殺すその苦しみは、無限の闘気を燃やす力になる。エムターは間違ってはいない。だが、戦いの神は、完璧な聖者ではなく、弱さを持つこの女を選ぶのだ。自分の限界を超えられるのは、弱さから強く跳ねたときだけだからだ。
エムターは悟った。
「あなたは世界に望まれてそうだったのですね。あなたを変えようなどと、私はおこがましいことを申しました。あなたでなければ、できないことがあるのですね。公衆の面前で非難しようとしたことを、お詫びいたします」
剣姫の方が驚いた。
「すぐに私を理解してくれてありがとう。この時代の“聖人”はすごいな……。神器の力もあるか」
「お詫びの印に、あなたのお役に立てるものをお贈りしましょう。そうですね……呪い返しの言霊はいかがですか」
「そうか。私の戦いに役立つというわけだな。教えてくれないか」
エムターは紙と筆を取り出した。
「単純な者は、人を呪うとき“死ね”や“殺す”を使います。そういう簡単な呪いのときは、“裂葉”という言霊で呪い返しをしてください。呪いの言の葉を分解して、呪いの気を散らしてくれますよ。そして散った気は相手のもとに返り、相手はその空気をすべて吸うはめに陥ります」
エムターは、さらさらと、「裂葉」と書いた。
「次に、高度な者は、“必殺処刑”や“車轢”など、字を自由に組み合わせて、自分の思い通りの方法で呪ってきます。言霊師は字を知れば知るほど強くなり、字を知っている者ほど勝つのです。それは防御もまたしかりです。“無罪倍返”や“無傷逸柱”など、相手の呪いに対抗できる言霊を唱えられれば、呪いを受けずに返せます。相手が強く、とっさに返せないなら、“死忌刃”という言霊を使ってください。死を求める相手の呪いを忌み避け、刃に研ぎ直して相手に返せます」
エムターは、「裂葉」の隣にさらさらと「死忌刃」と書いて、その紙を紫苑にくれた。
「ありがたい。これでもっと悪人と戦える」
「人はいつでも他人に知られない自分だけの戦いをしているものです。あなたにしかできない戦いで、あなたが勝ちますように」
「ありがとうエムター。この言霊は大切にする」
エムターは去った。人々は、毒手が斬り殺されて騒然として紫苑たちを囲んでいたが、毒の汚水は浄化されたので、両手を組んで紫苑を拝んで、自分の仕事に戻っていった。
紫苑は驚きをもって人々を眺めていた。
「店の人といい、エムターといい、人々といい、この世界はよい言葉と暖かさに溢れている。こんなに心が安らぐ世界は、初めてだ」
「十の邪神の宗教が力で侵食しようとしているけど、基本的に阿修羅様への信仰が行き届いているからね。正直者は報われて、悪人は罰を受けることを、みんな知ることができた世界なんだ。阿修羅様は、誰も自分を救うために曲解できないくらい、はっきり告げて罰するお方だったから。曖昧さは与えないお方だからねえ」
パヘトがのんびり笑った。
「神なき世界なのにな……」
紫苑は、ただただ感動して呟いた。剣姫を一瞬で受け入れたエムターや人々が、あまりにも新鮮だったからだ。昔、自分を拒絶した人々の子孫だとは、とても思えなかった。
「なんとしても、この世界を救いたい。……もっと見てみたい」
紫苑とパヘトは、サパラパ町を出て、聖地へ向かった。
第一の聖地は、大地の亀裂によって中央から裂けていた。そして、直径五十メートルはあろうかという巨大な岩の牛が、首と前脚を亀裂に突っこんで、裂け目を広げようと震動を与えていた。
「あれが邪神か。星の封印から出ているのか」
「聖地から外へは出られないはずだよ。あの邪神の名はブルペード。早く倒さないと、このままじゃ、この星が真っ二つにされちゃうよ」
紫苑とパヘトの声に気づいて、岩牛邪神・ブルペードが顔を裂け目から出した。
『なんだ。またオレの手駒になりたい奴が来たのか。オレを倒そうとする勇者気取りの連中は、みんな毒手にしてやった! お前たちもそうなる! ブルッブルッブルッ!』
ブルペードは鼻で笑った。
「この星を二つに裂いてどうするつもりだ。滅ぼしたいのか」
紫苑がまったく自分を畏れないので、ブルペードは不機嫌になった。
『この聖地を裂いて、力を失わせて、オレが完全に出られるようにするだけだ。まったく、聖地だから星の気が集まりやすくて、抵抗が強い。しかし、お前を毒手にする時間くらいは取ってやろう。オレがここから抜け出せたとき、オレがすぐに玉座に座れるように、世界を地ならししておく手下は必要だからな』
「そうか。私と戦うために星を二つに裂くのを中断してくれるのか。これはありがたい」
紫苑は神刀桜と神刀紅葉を抜いた。ブルペードはブルッブルッと笑った。
『馬鹿め、人間ごときが神と本気で戦えると思うのか。お前なんぞ一瞬で――ブッ』
紫苑の神刀桜が、ブルペードの顔面にめりこんだ。
『ッツアッ!!』
目を閉じて身を引く岩牛邪神・ブルペードに、神刀桜・紅葉の双剣が、次々にめりこんでいく。
『グッ!! ガッ!! こ、こしゃくっブッ!! なブルッ!!』
「神刀でも斬れんか。邪神といえど、さすが神、防御力が高い」
剣姫は同じところを様々な角度から打ちつけ、砕きにかかる。それがわかって、ブルペードは怒りが頂点に達した。
『ちょこざいなああっ!!』
全身から岩石の弾を、全方位に発射した。
「うわああっ!!」
パヘトがおろおろして跳ね回っている。紫苑は神器・光輪の雫を掲げた。
「炎・月命陣!!」
光輪の雫が光り輝き、三日月・上弦の月・満月・下弦の月の形の炎が、雨あられと降り注ぐ。炎は、岩牛邪神のすべての岩弾を撃ち落とした。
『なっ、なにい!?』
「助かったよ紫苑!」
パヘトのもとに着地する、神に匹敵する力の使い手紫苑に、ブルペードは驚愕した。
『い、一体何者なのだお前は!?』
「やっぱこれじゃなきゃ仮にも神は倒せねえな。冥土の土産に教えてやろう。俺はな……」
紫苑は顔の左半分に、目の穴も口の穴もない完全な半月の仮面をかぶった。
「神魔に並ぶ第三の最強、赤ノ宮九字紫苑だ!! 善悪すべてを持つ、世界を愛し愛さない最強の中道の力、見せてやる!!」
男装舞姫が地を蹴った。桜の一撃で、邪神・ブルペードの左前脚を斬り飛ばした。
『ギャアッ!!』
ブルペードは信じられない思いで、宙を舞う自分の前脚を見送った。
「よそ見してていいのか!!」
紅葉の一撃で、右前脚が切断され、ブルペードは顎から地面に倒れた。
『バカなアアッ!! 神を斬り刻める者など、いるはずがアアッ!!』
「世界を滅ぼそうとする奴は、この俺がいる限り、大地に立たせねえ!!」
男装舞姫が大地の地割れに水を流し谷にする剣舞を行い、ブルペードの巨体を一直線に割った。
『アガッ、アガッ、アガッ……!!』
邪神・ブルペードは死にゆく体で猛烈に怒った。このまま神が人間ごときに倒されてなるものか。
『この星を道連れにしてやる!! 我が体よ、毒の塊となり、全世界に散れ!! 岩粒毒芽!!』
ブルペードの体が、そのすべてに猛毒が備わっている極小の岩つぶてとなり、破裂して飛び散った。全世界に飛び、汚染しようとしている。
「うわあっ!! なんて奴だ!!」
パヘトが悲鳴を上げた。この呪いの言霊は、とっさに返す新たな言霊が浮かばない。男装舞姫は両刀を広げた。
「白炎死忌刃!!」
両刀から白き炎が全方位に放たれ、すべての猛毒岩弾を、毒を浄化して燃やし尽くした。
「うわあーお、さすが白き炎の守護姫! 白き炎と言霊の二重の浄化なら完璧!」
パヘトが飛び回って喜んだ。
「ああ、エムターに感謝しねえとな。この時代の奴らとは仲良くやって行けそうだぜ」
男装舞姫の仮面を外して、剣姫は聖地が輝いているのを見た。
「邪神の猛毒から解放されて、聖地も喜んだのか」
「紫苑、星方陣を作ろうよ!」
もはやブルペードは消滅しているので、安心したパヘトがせかした。
「えーっと……どんな感じで……」
紫苑が神器・光輪の雫を抱えて戸惑っていると、聖地の中心に、水滴型の半透明の建物が現れた。
「ここで一角の星方陣が作れるみたい」
パヘトが一角の建物を見て、解説した。
「ほう、これは一角か。なるほど」
紫苑は水滴の中に入った。そして、神器・光輪の雫を天高く掲げ、星方陣の祝詞を唱えた。
『己の答えは何なのか。その思考、その誓い、己の力なり。千の剣、万の恵、己の世界に証する。是すなわち真の寿なり』
水滴型の一角星方陣が、完全なる光の雫となり、天に光を突き上げた。
「やったあ! 成功だ!」
パヘトが周囲で踊っている。
天から、星と月と太陽を象った金属が三つついた、鍵束用の金属環が降りてきた。
「なんだこれは……?」
紫苑が手にしたとたん、星と月と太陽が輝いて、空間に光の扉を照らし出したかと思うと、その鍵穴にぴたりとはまった。鍵があく金属音が響いて、扉が開いた。
扉の向こうに、人々が並んで立っていた。服装も年齢もばらばらだが、色が一様に薄い。
「死者の国か」
紫苑は直感した。一角星方陣の効果は、死者に会えるというものだったらしい。
『私たちはこの星で生死を繰り返す魂です』
人々が話した。
『邪神の猛毒に冒されるこの星を、星の意思と共に守っています。私たちの力の源は、生きている人々に忘れられないことです。生者が自分に命をくれた死者に感謝し、死んだからといって忘れるなどという非道なことをしなければ、我々は星を守れます。ひいては生者を守る力が増すのです。どうか、あなたにそのことを、生者に伝えていただきたいのです。私たちは、この星も、生きている子孫たちも、好きです。守りたいのです。だから、どうか私たちのことを想ってほしいのです。忘れられたら、寂しくて、力を出す気持ちが減ってしまうのです』
かつて四神五柱が一柱・麒麟の、孤独の試練を受けた剣姫は、その気持ちが痛いほどわかった。
「そうだ。人は想われるほど強くなる。わかった、人々が“死んだら終わりでもう自分には関係ない”と思わないよう、機会があるごとに私は人々に説こう。この星を守ってくれてありがとう。お前たちの子孫も良い思考の持ち主だから、きっとわかってくれよう」
『いえ、お礼を言わねばならないのはこちらです。剣姫様』
紫苑は、人々にその名が知られているので、目を見開いた。また私を拒むのか。
『星の意思に触れて、少しだけ存じております。昔あなたを拒絶したことを、心から悔いております。それでも私たちのために戦いに戻って来てくださったことを、厚く御礼申し上げます。この星の者が剣姫様に協力するように、私たちも働きかけるつもりですので、どうか私どもを存分にお使いください。神器のありかは、世界中の死者である我々が、存じ上げております。どうぞ、ご心配なく』
パヘトが翼をゴウゴウと風を切って動かし、喜んだ。
「やったーあ! さっすが世界中で暮らしてる人族だね! 聖地はボクが知ってるし、これはもう特大の前進だねっ!!」
「うむ……ありがとうみんな。あとは神器の使い手を私が捜すだけだな」
『ここから近い神器は、少し東で……』
紫苑は、次の神器の情報を手に入れた。
『では剣姫様、私どもと交信したいときは、その鍵をお使いください。いつでも扉が開きます』
「ありがとう。またな」
剣姫は扉を閉じた。
「わーいわーい、星がとっても早く救われるぞー!」
パヘトが飛んで宙返りして踊っているのを見て、紫苑はふと気づいた。
「(この星が救われるとは、どのような形なのだ? 邪闇綺羅様も阿修羅様もいらっしゃらないのだぞ? パヘトたちは、この世界でどうなるのだ? ……それを決めるか、決定に世界を沿わせるのが、私なのか?)」
紫苑は左右の手を見つめた。こちらの世界とあちらの世界に見えた。
「(この双子の星は、一方が荒廃したとき、もう一方を模倣して元に戻せる、という支えあう関係になれるのではないか――?)」
紫苑は、まだこの世界の行く末を、決めることができないでいる。
「この先に行けば、きっとわかる」
紫苑の手は双剣の神刀桜・紅葉に触れた。
星方陣の祝詞の中の『己の世界に証する』の『証する』は、『証明する』の意味でお読みください。祝詞全文の意味は、
「自分の答えを出した者に、その思考と誓いが千の剣、万の恵となって、自分の世界に、それが自分の力になることを証明する。このことは祝うべき真のめでたい事柄であり、また、自分の答えこそが真の祝いの言葉である」
です。




