光の雪第四章「時、散(はらら)いて」
登場人物
阿修羅(ヴァン=ディスキース)。神の発音で「あじゅら」、人間の発音で「あしゅら」。邪闇綺羅(神の発音で「じゃぎら」、人間の発音で「じゃきら」)の弟。神刀・白夜の月を持つ。神に背いた罰を受け、この世界ではヴァン=ディスキースと名乗って旅をする。
セイラ=サザンクロスディガー。栄光の都レウッシラで阿修羅が助けた星羅と同じ姿をしている。歌姫。
ザヒルス。十五才。ザヒルス村の領主で、斧使い。
ソディナ=ハーオーラ。氷魔法の魔法使い。
白狼。時の神。
黒魔。星の持つ、憎しみと絶望の権化。すべての命を喰らい、すべてを葬ろうとしている。
ルミル=テール。魔族のウサギの姿をした黒魔。
名宛下。またの名を世界最高の鍛冶職人、ガルミヴァス。世界を絶望へ向かわせようとしている。
第四章 時、散いて
黒魔のルミル=テールが、先頭に立って星の内部を進んだ。高温に輝く壁が、ところどころ切れて、別の道につながっている。
正解の道以外は、すべて行き止まりの、迷路であった。
「どうして黒魔がこの道を知っているのか、もうご存知ですね、阿修羅様」
ルミルが振り返らずに尋ねた。
「黒魔はこの星の意思なのだろう」
阿修羅も静かに答えた。ルミルは告げた。
「名宛下様もです」
一同は、黙って聞いた。
「この星には、神がありませんでした。だから、死ぬしかなかったのです。死こそが、神への最大の抗議なのです。失って困れ、初めてわかっただろう、私がどれだけ価値のある存在だったかということが、と。でも、死ぬのは最後の手段です。死ぬ前に神に気づいてほしかったから、星は、神の愛した人間から真っ先に滅ぼしていこうとしたのです。私は、本気です、と」
ルミルは炎の燃え盛る扉の前まで来た。
「この先に、名宛下様がいらっしゃいます。私は、名宛下様に逆らうことはできません。名宛下様に操られて、皆さんを背後から不意打ちしかねません。さようなら。私は名宛下様のもとに戻ります」
ルミルは炎の扉を開けた。ウサギのように四つん這いで駆けてゆくルミルに、阿修羅が呟いた。
「さらばだルミル=テール。ありがとう」
そして、一同は炎の扉をくぐった。
三種の神器が一つ・クリスタルハープの音色が聞こえてきた。
阿修羅が駆けだすと、セイラがその華奢な指で、流れるようにハープを弾いていた。
しかし、着ている服はまったく違っていた。
二本の糸で両肩から吊るしている、胸の大きくあいた形の黒いワンピースは、左太もものところから赤いひだをつけたスリットが入っていて、足首まで広がっている。足には、甲が地面と直角になるくらい高い、黒いヒールをはいている。両腕を取り巻くように、水が輪になって浮かび、まわっていた。
「セイラ……!」
絶対にセイラの趣味ではないと思いつつ、阿修羅がセイラのもとに向かおうとしたとき、
「よくここまでたどり着いたな……阿修羅」
ゆっくりと、黒い燕尾服を着た、漆黒の髪に灰色の照りのある、名宛下が歩いてきた。両目を隠す半円の銀盤を取り払った。
細い眉に、細い目に、細い瞳、そして細く高い鼻、細長く薄い唇。整った顔立ちだが、酷薄のにじみ出る顔だった。
そして、燕尾服の上に水流の覆いを這わせた。
「この間はセイラ、この女に邪魔されたからな。呪って私の人形にしてある。もうセイラに助けてもらえると思うな」
阿修羅に、かっと怒りがこみ上げた。
「名宛下ッ!! 貴様、我が祝女にッ……!!」
星の最も輝く星の内部が、暗がりを帯びてきた。そして、名宛下と阿修羅の間の天から、放射状に灰色の雲が広がり、一同を囲み、地面を流れてつながった。つまり、灰色の雲の球で一同の世界を区切ったのだ。
「これでもう逃がさん。撤退はできないものと思え。そして――、紅晶闘騎も助けには来られぬぞ。ククク、今度こそ終わりだ阿修羅!」
「兄者が手を出せない――ならば、私が貴様を倒す! なんとしてもだ!」
阿修羅は神刀・白夜の月を冴え抜いた。
「薄責任の神に、いまさら何ができる! 死ぬまで失敗し続けろ!!」
名宛下は銀色に輝く、時計の長針と短針の双剣を、左脇から、砂を削るようなざらつく音を出して引き抜いた。
一同の世界が、割れて盛り上がる氷の大地と化した。そして、溶岩でできたようなごつごつした地形を、氷で形作っていく。
すると、その氷の中に八体の氷人形が現れた。
なんと、かつてこの世界に生きていた、赤ノ宮九字紫苑、一式出雲、霄瀾、露雩、空竜、閼伽閼嵐、霧府麻沚芭、氷雨の姿であった。
兄の姿まで真似されて、阿修羅は頭に血が上った。名宛下は平気で薄い唇をさらに薄くして笑った。
「技や四神五柱の力は使えずとも、剣筋は真似られる。特に剣姫・赤ノ宮九字紫苑の剣を防げるかな? はっはっは、行けえ!!」
八体の氷人形が突撃してくる。阿修羅が剣姫を止めようとしたとき、白狼が、
「タイム・ハウル!!」
聖なる吠え声で、八体を氷の塊に戻した。
名宛下は叫んだ。
「時を戻すか! それもよかろう、しかしその代わり、貴様の動きは封じ続けられる!」
ザヒルスとソディナが走った。
「なら、オレたちが阿修羅様に加勢する!!」
しかし、ソディナの氷魔法を、セイラの鏡が跳ね返した。
「キャアッ!?」
魔法の完全反射など、想像したこともなかったので、ソディナとザヒルスはまともに食らって倒れた。阿修羅は目をみはった。
「十二種の大神器が一つ・海月ではないか! なぜセイラが持っているのだ!?」
名宛下はトントンと掌を指で叩いた。
「この娘のタロットカードが二十二枚すべて揃ったとき、この鏡になったのだ。タロットカードは世界に散らばっていた神器の欠片だったのだな。この娘に何を望んでいたのか、星の気の迷いだったのか、今となってはもうわからぬ。私の人形になったからな」
「名宛下ァァッ!!」
阿修羅が突進した。白狼も、ザヒルスとソディナも、それぞれ敵があって動けない。阿修羅と名宛下の一騎討ちしかない。
名宛下が長針剣と短針剣を振るった。
「私の剣に勝てなかったのに、今度は勝てるとでも思うのか? ははは、愚かなり!!」
以前交刃したように、左右でテンポの違う斬りこみをしてくる。今回は、拍数も何もかもがすぐに切り替わり、息つく暇もない。相手に戦略を練る時間も分析をする時間も与えない戦い方をする者が、この世で一番残忍な敵である。こういう相手に出会ったら、逃げることではなく、どうやって倒すかということだけを考えるしかない。相手の力の源と目的を見抜くしかない。考える時間を与えないほどの攻撃なのに、どうするのか? 答えは簡単だ。相手を一瞬で無視できる、自分の攻撃を放つのだ。相手の攻撃を受ける一方だから分が悪くなるのだ。相手の理屈・剣技を無視して、こちらの一撃死の攻撃を与えれば相手を倒せる。
阿修羅は自分の体を中心に、地面と平行に十字の光を放ち、一回転させた。
「正十字星曲!!」
上から見ると、正十字が星の輝きを描くように丸く一回転するからである。
すべての命が、善人は光にみとれ、悪人は体がしびれて、止まった。名宛下の剣さえも止まった。名宛下の剣に合わせていた大気の震えがおさまった。
阿修羅に斬りつけられて、名宛下も自らの鎧の水流で受け止めて、急いで距離を取った。
「……これが神の光か……」
名宛下は慎重に呟いた。阿修羅は、はっきりとわかった。
「すべての命を止める光で技と震えが中断したということは、お前の剣技の源は、『生命の鼓動』だな」
名宛下は表情を変えなかった。
「神だから、今までのお前の剣の軌道を思い返すと、すべてこの星に存在するどれかの命の心臓の鼓動だと、思い出せる。お前はめちゃくちゃな斬り方をしてきたが、実は規則性を持っていたのだ。それはそうだろう、いくら相手に考える隙を与えない極悪な者でも、当の本人は規則性がないと、本人自体も脳と行動が破綻するからだ。この世にルールなく攻撃できる者はいないのだ。だからそのルールを知られたとき、その者は負けるのだ。お前は今、私に剣の規則性を見破られた。すべての命を見てきた私に、もはや勝てると思うなよ!」
阿修羅が攻勢に転じた。名宛下は古代から現代までのあらゆる命の心臓の鼓動のリズムで戦い、防ぐが、そのどれも外した拍子を取られて、突かれた。
「ぐっ、うぐっ!」
名宛下は剣の軌道を読まれて、傷を負い始めた。水の鎧は、何の役にも立たなかった。もう一息、と、阿修羅が神刀・白夜の月を握る手に力を込めたとき、
「神器!! あれを取り込めればッ!!」
名宛下が叫び、セイラに長く腕を伸ばした。クリスタルハープと海月を持ったセイラごと、体に開けた穴の暗黒の中へ引きずり込もうとする。
「させるかー!!」
阿修羅より早く、刃を振るった者がいた。
どくろの面をつけた、鎌を持った死神であった。海月の一部が黒色に光っている。タロットカード・死の死神が、セイラの体に鎌を通していた。
阿修羅が凍りついていると、死神が答えた。
「偽りの魂に、器は要らぬ」
そして鎌がセイラの体から名宛下の名の呪いの網を引きはがし、斬り裂いた。
「私の邪魔をするなー!!」
名宛下のセイラへの攻撃を、今度はピエロが弾いた。海月の一部がオレンジ色に光っている。タロットカード・愚者の力である愚かしさは、敵の呪いの言葉に無傷なのだ。
「な……な……な……!! 私を拒むのか、神器が!!」
名宛下が愕然としているとき、阿修羅もまた呆然としていた。死神の声が、邪闇綺羅だったからだ。
「あ……兄……」
「神様っ!!」
突然ソディナが死神に駆け寄った。
「あなたは、この星の『知る知らす』の神様であらせられますよね!? その波動を、私は間違えません!! ああ、お目にかかれる日が来ようとは!! 私は今、感激いたしております!!」
死神は重々しくソディナに手をかざすと、阿修羅にうなずいて、愚者と共に消えていった。
「ああ、この世界に希望を残すために、兄者……!!」
阿修羅は拳を胸の前で固く握りしめた。
そのとき、すべての殺気が名宛下に集まりだした。
「くそうくそうちくしょうちくしょう何もかもが私に敵対する何一つ思う通りにならない許さない許さない許さない!!」
阿修羅が叫んだ。
「名宛下!! もうやめるのだ!! 神器がこの世界に残っている限り、まだこの星には希望がある!!」
名宛下が水の鎧の飛沫を飛ばした。
「嘘をつけ!! 己に自信のない半端者が、己の弱さを隠すために、神の創り給うた神器を捨て去る世界だぞ!! この救われない苦しみをどうしてくれる!!」
「この星の命はすべてお前の分身だと、言ったであろう! お前自身なのだぞ、もう傷つけるのはやめるのだ!!」
「では神はどう星を救ってくれるのだ!!」
星の知りたい願いはこれなのだ。旅の初めから、ずっとこれだったのだ。
タロットカード・死の黒色の光は、『乾坤の書・影』の、ある頁を黒く光らせた。
阿修羅が開くと、図がびっしり描かれていた。阿修羅は、兄の意志を知った。
「兄に代わって私が伝えよう。すべての星方陣がこの星で成されたとき、道はつながるであろう」
名宛下が瞳を絞った。
「すべて? とは」
「十の星方陣だ」
名宛下が悲鳴を上げて泣き叫んだ。
「それだけの事を成す戦士たちが……この地上のどこにいるうううッ!!」
星に散らばるすべての黒魔が名宛下に吸い取られていき、みるみるうちに巨大化した。体長百メートル、どっしりとした手足と胴体に、体より長く太い尾を持つ、黒い獣が現れた。そして、怒り任せに星の核を破壊し始めた。
「星と心中してはならぬ!! せっかく希望の道を与えられたのだから、諦めるな!! 苦しくても、前に進むのだ!! 生きているなら、つかんだチャンスを、棒に振るな!! 負けるな!! 逃げるなあーッ!!」
阿修羅は叫びながら、変身した。角が生え、鼻と口と首が伸び、全身を鱗が覆い、コウモリを思わせる翼と、長い尾が生えた。全身が黒い結晶のように硬く輝いている、黒き竜となった。結晶の中では宇宙の様々な色の星がちりばめられているような光がまたたき、それは黒い結晶内の純粋な闇を彩り、またその光で結晶の果てしない奥深さまでうかがわせていた。黒き竜の外に向かう牙は、白銀の輝きを放ち、目にまばゆい。
「我が名は阿修羅の姿の一つ、黒晶竜騎!! 世界の危機に天を切り地をさらう者なり! 名宛下、目を醒ますがよい!! 貴様の魔晶を喰らってくれるわ!!」
名宛下が、自分と同じ大きさの黒晶竜騎に身構えた。
「私はもはや名宛下ではない!! 星の疑いと憎しみの黒魔の集合体、バジ=イラデア!! 私の悲しみを、喰らえええ!! バジラデア!!」
バジ=イラデアの体から、黒魔の川が黒晶竜騎に押し寄せた。黒晶竜騎も星のきらめきを持つ暗黒の熱風を吐き出した。二つの黒が押しあい、互いを塗り潰そうとせめぎあい、巨大な渦を作った。そして、互いに一歩も退かない。
バジ=イラデアが憤った。
「貴様は本当に、神なのか!! できないことを、やれとは!!」
黒晶竜騎は答えた。
「生きていれば、なんでもできる!!」
「――ッ、きれいごとを!!」
「生きていたからなんでもできた人間がいたことを、お前は知っているだろう――!!」
「――」
バジ=イラデアは、世界の最後の敵でありながら世界を救うために戦った赤ノ宮九字紫苑のことを思い出した。
「しかし、世界の王たちは皆、新しい世界へ行ってしまった。この星に残っているのはカスだけだ!!」
「口を慎め!!」
バジ=イラデアはぐぐっと足が動いた。黒晶竜騎の暗黒の熱風がきらめいた。
「長く生きれば、きっとお前の心を理解してくれる者が生まれる。この星に生きる命は、皆、お前の子、お前の分身なのだから、お前の心を分けられた者が、きっと生まれ、育ち、お前のために立ち上がってくれる。バジ=イラデア、お前自身の心を信じよ。お前がなんとかしたいと思えば、きっと同じ想いを持つ者たちが現れる」
「う……うう……ううう……!!」
バジ=イラデアが苦しみだし、バジラデアの黒魔の流れが止まった。黒晶竜騎の暗黒の熱風が、それを散らし、空間を浄化した。
バジ=イラデアが収縮し、元の名宛下の姿に戻った。だが、今度は真っ白な雪の鎧を身に着けていた。
「それでも人間は弱く、ずるい生き物だ。金で転ぶし、名誉にお手をするし、命を取られると脅されれば逃げて何も見なかったふりをする。何億人も人間がいて、一人も何も言えないのだ。人間を信じろなんて、きれいごとだ。人間は肝心なときにいつも逃げる。真の王以外は、いつも逃げる。何億人も期待して、何億回も裏切られる気持ちは、わかるまい。星のために生きなければ殺すと、私も脅せばよいのか? ああ、この運命に抗う者に、出会いたい!! 我が名は雪結晶魔神!! 世界の希望を殺害的に求める者なり!!」
暗がりの世界に一瞬で日の光が差しこんだ。氷のつぶてが太陽光を浴びてきらめく、ダイヤモンドダストが広がっている。ただし、雪は変わらず降っている。
雪結晶魔神の右手が輝いた。
一つの町の上空に巨大な右手とそれのつまむ水滴が生じ、その水滴が落下し、町を水没させて滅ぼした。世界中の雨を一箇所に集めたのであった。そして、次の町を右手が探しに行く。
雪結晶魔神の左手が輝いた。
一つの町の上空に現れた巨大な左手の人差し指を通って、太陽から炎がほとばしって町一つを焼き尽くした。世界中の日差しが集められたのだ。そのとき世界は暗闇になった。左手は、次の町を探しに行った。
雪結晶魔神の脇から新たな右手が生えて、輝いた。
巨大な右手の拳が一つの町の中心に叩きつけられ、世界中の地震の衝撃が集まった地割れを起こして、町は奈落の底へ砕け落ちていった。二本目の右手は、次の町を探しに行った。
雪結晶魔神の脇から新たな左手が生えて、輝いた。
巨大な左手が一つの町の上空で平手打ちをするように払った。世界中の風が集まり、小指の下で風が回転して一本の巨大な錐の竜巻となり、半円を描いて町を粉々に薙ぎ払った。二本目の左手は、次の町を探しに行った。
雪結晶魔神の脇からまた新たに右手が生えて、輝いた。
巨大な右手が、世界中にある、星の埋蔵する金属を集めて作った巨大な剣の柄を握り、その巨大な剣を一つの町の中心に突き立てた。町一つが突き潰された。三本目の右手は、次の町を探しに行った。
雪結晶魔神が、宣告した。
「ここに十全の章授・十章・星の星方陣罰、完成せり! 人間どもよ、星を守らなければ、殺してやる!!」
人々は慌てて家から飛び出してきて、星のために生きると誓った。だが、星が人々を試すために人間に化けた黒魔を送り込み、金を見せ、名誉をちらつかせ、殺すと脅すと、全員転んで星を裏切った。
星の怒りは、深い悲しみへと変わった。星の空気が変わった。それを吸う人々は、星と同じ気持ちになり、自殺し始めた。人々は時代の分岐点を、間違えたのだ。
十全の章授が一章から九章までを繰り返している間はよかった。星には、まだ十章という希望があったからだ。だが最後の十章でも誰も味方してくれないと知ってしまったら、この世のどこに希望が残されていようか。
あれだけ徴を見せたのに。
あれだけ傷つけて示したのに。
ただの一人にも、伝わらなかったのだ。
星は雪結晶魔神に力を与えている。人間よ、自分で死ぬか、雪結晶魔神の五本の手に殺されるか、決めるがよい。最後の深情けだ。
結局、人間とは一体何だったのであろうか?
この世に好き勝手に生きていい命など、存在しない。
どんな命――人族も魔族も精霊族も竜族も自然も物質でさえ、信頼しあいながら生きなければならない。自分の使命を果たすために、互いが必要だからだ。世の中とは、そうできているのだ。
それなのに、なぜ人間はいつもそれを「忘れたがる」のか?
なぜ自分さえ助かればそれでいいのか?
それはいずれすべての命の緩慢なる死を意味するというのに。
雪結晶魔神は空を見上げた。
「ああ、もう答えはいらない。疲れた……」
白狼が黒晶竜騎に吠えた。
「私と再び一つになれ!! このままでは希望の道が見えた世界が終わる!!」
黒晶竜騎は驚いた。
「私は阿修羅だ、他の神と一つになっていた事実はない!」
「お前にはそのときの記憶がないのだ! 私は時の神だから、時をさかのぼって知ったのだ、私とお前はかつて一つだったのだ!!」
そして白狼は黒晶竜騎の背の鱗の中に飛び込み、光の流れになった。黒晶竜騎を包み込むと、その中で黒晶竜騎は小さくなり、阿修羅の姿に戻った。
しかし、紫色の鎧を着ていた。白狼の意識が流れ、阿修羅は自らの真実を知った。
「私は、確かに白狼と一心同体の時期があった……! 私の名は、紫音晶閃騎! 世界にすべての音をもたらす者だ!」
白狼を右腕に封印していた邪闇綺羅が、阿修羅のために白狼をこの星に向かわせたということも、わかった。
「兄者の右腕の白いあざは、お前だったのか」
なぜ阿修羅と白狼が分かれたのかまでは、記憶をたどれなかった。
雪結晶魔神は、新しい神気に顔を歪めた。
「私の邪魔をするのか。消えろッ!! 雪結晶魔法陣!!」
無数の雪の結晶を魔法陣にして、陣から一本ずつ剣を出すと、高速で飛ばしてきた。五本の手首から先はすべて世界に放たれていて、もはやないからである。それでも、魔法で作った剣を放ち続ける魔法力は、身を守るのに十分である。
紫音晶閃騎が動いた。大気を破るような爆音を立てて飛び、軌跡に閃光を残しながら、高速の剣をかわし始めた。交刃して払えば、火花ではなく雷が散るほど、激しい速度であった。
「雪結晶魔神を倒しても、星の悲しみを止めることはできない。私は神の王・邪闇綺羅の代理として、否、この世界のことをこうまで思わせた張本人として、この星にすべきことがある!!」
紫音晶閃騎は、右腕だけで雪結晶魔神の剣を弾きだした。そして、雷を走らせながら、左手の手首から先を飛ばした。
紫音晶閃騎の巨大な左手は、町に巨大な水滴を落とそうとしていた雪結晶魔神の右手をぐっと包み、押さえた。右手はもう、破壊の動きが取れなくなってしまった。
紫音晶閃騎の脇腹から、二本目の右手が生じた。巨大になった手首から先が、町に太陽の炎をほとばしらせようとしていた雪結晶魔神の左手をぐっと包み、押さえた。左手はもう、破壊の動きが取れなくなってしまった。
紫音晶閃騎の脇腹から、二本目の左手が生じた。巨大になった手首から先が、町に地割れを起こそうとしていた雪結晶魔神の二本目の右手をぐっと包み、押さえた。二本目の右手はもう、破壊の動きが取れなくなってしまった。
紫音晶閃騎の脇腹から、三本目の右手が生じた。巨大になった手首から先が、町に錐の竜巻を起こそうとしていた雪結晶魔神の二本目の左手をぐっと包み、押さえた。二本目の左手はもう、破壊の動きが取れなくなってしまった。
紫音晶閃騎の脇腹から、三本目の左手が生じた。巨大になった手首から先が、町に巨大な剣を突き立てようとしていた雪結晶魔神の三本目の右手をぐっと包み、押さえた。三本目の右手はもう、破壊の動きが取れなくなってしまった。
雪結晶魔法陣の剣が止まった。
「紫音晶閃騎!! 何の真似だ!! 一生私を押さえこむつもりか!! お前は、それしかできないのかあッ!!」
紫音晶閃騎は神刀・白夜の月を鞘に納めた。そして六本目の、最後に空いた右手を放ち、セイラの頭上でセイラを指差した。
「――!? その娘がなんだというのだ!?」
雪結晶魔神は動悸がした。紫音晶閃騎は静かに告げた。
「問うがよい」
「――!! ば、馬鹿馬鹿しい、どうせこの娘も同じだ!! セイラ!!」
「は、はい!!」
セイラが両手を強く握って答えた。雪結晶魔神は動悸が止まらない。
「お前にこの星の資源をくれてやる!! さあ、この金銀銅鉱物の宝の山をどう使う!!」
「……」
「どう使うのだあっ!!」
動悸が止まらない。
「私は、どのような条件でも、自分が働いた分に見合ったものしか、いただきません」
「それは……どういう……」
呼吸が浅くなる。
「人は、自分の労働以上のものをもらってはいけません。すべての命は、世界を切り分けて所有してはいけません。人が働いていない分は、あなたのものです。人間が全部奪ってはいけません」
心の中で目を見開く。
「セイラ、お前は神の祝女として、世界中の人間から崇められる立場になるであろう。人々をどう導くのだ」
「神は不変に偉大でも、人は常に小さな罪を積んでいくものです。私の、人として逃れられない罪が私の神の名を穢すことになれば、私は神に合わせる顔がありません。私は名などいりません。ただ一人の人間として、世界を守る側の一人になります。世界を作っていくのは一人の王でも祝女でもなく、この世の全員の力です。私はそれを知っています。神の光を伝えることはあっても、それで人々を従えることはしません。私は神が崇められるお手伝いはしても、自分を崇めさせることはしません。私は神を信じていますから。自分を崇めさせる者は、神ではなく自分を信じているのですよ」
前に出ないことに驚く。
「セイラ、阿修羅の側につくなら私がお前を呪い殺そうと言ったら、耐えられるのか。阿修羅は二度も私に不意を突かれ、お前の心臓を呪われたものにした。三度目こそ成功するぞ」
そこでセイラはウフフと笑った。不可解な出来事に表情が定まらない雪結晶魔神に、セイラは答えた。
「でも、神様がきっと助けてくださるって、信じてますから。私、神様がとってもお強いこと、知ってますから!」
それを聞いた瞬間、雪結晶魔神の目が潤んだ。
金にも名誉にも命にも寝返らない者が、ここにいた。
自分が捨て去った、神への信仰を持ち続けている者が、ここにいた。
どうしてこの子にだけ、星に降る雪を止める力があるのか、今わかった。
世界でたった一人の、世界の希望を歌い上げる少女だったからだ。
「今のこの祝詞の歌を、この声を、ずっと聴いていたい――!!」
雪結晶魔神がひざまずき、腕を前に出した。
世界のある所で、雪結晶魔神の巨大な右手と、紫音晶閃騎の巨大な左手が、祈りを捧げるように組み合わされた。
世界各地で、雪結晶魔神の左手と紫音晶閃騎の二本目の右手、雪結晶魔神の二本目の右手と紫音晶閃騎の二本目の左手――といったように、巨大な両手が組み合わされ、祈りの形を取った。
それを見た世界中の人々も、星と同じく両手を組んで、希望を祈った。
セイラのクリスタルハープがひとりでに奏でられ始め、セイラが叫んだ。
「あなたのための聖歌、歌います!」
『題・愛せよ白き歌 作詞作曲・白雪
一、
儚い雪のように花のように 闇に散った翼 光かざし抱きしめるの
偽りの鏡があなたを惑わせる 常闇に溺れ瞳が染まる
遠い記憶思い出して そして
光の雪 風に今この世界で 天使の羽根舞い落つように幸せ運ぶ
白き歌声 大地の風に吹かれ 命の祈りの中 すべてを泳ぐ
あなただけに出会うために 歌は歌われる
ニ、
陽の光を浴びて歩いていた 古の時から明日を誓い二人手に取る
今ここに光の指輪と花と歌と紫火に照らされて もう迷わない
月の光 星の光 さして
あなたに逢った 神殿も雪の日も また私に恋をさせる魔法の扉
白き歌声 あなたに届けたいの 果てることない明日へ未来を見つめ
瞳見つめ夢を見つめ愛を奏でるの
三、
めぐりめぐった記憶の海も意味も
受け止められる 今ならそう 消えはしない
白き歌声 あなたを呼び醒ました
楽園の果て探す あなたに抱かれ
いつの日にか すべてを超え 愛に生きていたい』
セイラの、世界への愛と神への愛の織り交ざった歌が、星に降る雪を光の雪に変えた。
雪結晶魔神は、その雪の光と歌に身を委ねて目を閉じた。
「十全の章授・十章・星の星方陣罰は、終だ。私は、世界を破壊するか星方陣に失敗するかで、星方陣の陣罰と同等の破壊を引き起こし、きちんと罰を受けて、元の正統なる世界に戻れたらいい……そう心のどこかで思っていたのだ。ああ、でもセイラ、ありがとう、私に希望の歌の祝詞を分けてくれたな。阿修羅神、あなたは人を見る目がおありだ。あなたの祝女は、立派にその務めを果たしました」
紫音晶閃騎から阿修羅と白狼に戻った阿修羅は、辛そうに笑った。
「私自身は、いつも人間に避けられる運命だ」
雪結晶魔神は、すべての命を見てきたが故に、即答した。
「それはあなたが正しいことしか言わないからですよ」
「え!?」
阿修羅は面食らった。雪結晶魔神は、光の雪に溶けて消滅しだした。
「正しいことしか言われないから、人間は耐えられなかったのです。そして、人間は汚れた心を必ず持つが故に、あなたの前に立てなかったのですよ」
「――そうだったのか……」
「阿修羅様、道をお示しくださり、ありがとうございました。私は、もう少し、生きていきます。私にも、明日がありました」
雪結晶魔神は、微笑みながら光の雪と同化していった。全世界にエメラルドブルーのオーロラが、幕のように引かれた。
世界に降っていた雪がやみ、星は生命をのせてまわっていく。
星を救った阿修羅と、白狼の体が輝きだした。二柱は目を見合わせた。
「どうやら、こちらの世界で私たちが成すべきことが終わり、あちらの世界に戻るときが来たようだな」
阿修羅はセイラ、ザヒルス、ソディナを伴って星の内部から地上に戻ると、別れを告げた。
「これまで世話になった。ありがとう。達者で暮らせ」
「えっ!? 行ってしまわれるのですか……!!」
ザヒルスとソディナが驚いていると、セイラが駆けだして、阿修羅の胸にしがみついた。
「行かないでください、阿修羅様!! 私は、あなたのことが、好きです!!」
それを聞いて、阿修羅は初めてセイラを抱きしめた。セイラがその感触に身も心も奪われていると、阿修羅がそのまま話しかけた。
「すまなかったセイラ。私はお前の気持ちを一つも考えていなかった」
「えっ! 阿修羅様、それじゃ……!!」
「はっきり言おう」
阿修羅はセイラを離した。
「私はお前のことを愛してなどいない」
セイラは心も体も凍りついた。
阿修羅は淡々と続けた。
「私はお前を愛してなどいない。ただお前の歌を嘉したのだ」
セイラの心は一つのことでしか動かなかった。
「(私はただの、歌を捧げる、神官――!!)」
それは悲しみでも裏切りでもなかった。ただ今までの自分のすべてが、一つも彼の中に届いていなかったことへの、一生分の虚しさであった。
泣けなかった。
泣けなかった。
泣けなかった。
私は、たった今、生きていないとさえ思った。
すべてが嘘のような世界で、阿修羅だけは確かに言った。
「私はお前を惑わせてしまったのか?」
セイラは声を押し出した。
「愛が甘く楽しいことばかりじゃないことも知っていた。喜怒哀楽を二人で歩むからこそ愛の喜びがあるのだとわかっていた。あなたが私を守りながら普通に接するのも、そのうちの一つで、きっといい想い出になると! なのに! ああ、なぜッ!! 私のことを、一秒も愛したことがないだなんてーッ!!」
大地に残る雪が、セイラの心を凍結させようと迫ってきた。セイラは髪を振り乱して冷気を振り払った。
「答えて!! 私は美しくなかったの!? あなたは、私の歌に感動したことはなかったの!? 私の声を、歌を聴いていたいって、教えてくれたからっ……、だからっ、あなたは私をそばに置いてくれると思ったの!! 誰にも心を開かないあなたが、唯一人、心を見せてくれた女の子だったからッ……!!」
「好きなことと愛は違う」
「ッ!!」
セイラは息を呑んだ。阿修羅は続けた。
「好きというのは仮初の若さにすがるようなものだ。愛というのは永遠に共にいて、自分を犠牲にしても構わないと思うことだ。私はお前を愛してなどいない」
セイラは目の前が闇になった。死刑宣告と同じだった。「共に生きていく気がない」と、今はっきり言われたのだ。
「そ……んな……」
セイラは力なく膝を地につけた。セイラの髪がふわりとなびき、その間に雪の冷気が入りこんだ。
ああ、このまま凍らされてしまうのね、私の心。世界は、雪も風も太陽さえ、みんな神様の味方。人間は、逆らってはいけないの。私は、逢ってはいけないお方に逢ってしまったの。だから、忘れなければならないの。人間が見果てぬ夢を持たないように――!!
「さらばだセイラ」
セイラが真珠のような大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
「いや……いや! 私のそばにいてください、また私と一緒に旅をしてください、私と一緒に、暮……!!」
阿修羅は背を向けて振り返らなかった。
「かなわぬことよ」
セイラの声が低く乱れた。
「ああ、神よあなたが恨めしい、なぜ私の前にその御姿をお現しになったのですか。こんなにも美しいあなたを見なければ、この世も花と思えたものを。私は知ってしまった、ああ、知識を得るたび人は強くなっていくものなのに、知ると悲しみで弱くなることがあるのですね。どうしてくれるのですか、私は世界を憎んでしまいました。知識を得ることがこんなにも苦しい結果を生むなんて。私はこの世で一番愚かにならなければ、世界に感謝することはできないでしょう。すべての才能も何もかも、あなたに捧げてしまいましょう。私とあなたをつないだ歌の力もすべて私から取り戻してください。もともとあなたの下賜した力、私から取り上げて何の困ることがありましょう」
阿修羅はここで、星と同じことをしかけているセイラが憐れになった。
「私が判断を誤り神の正体を現したことで、お前は私が誰よりも愛する歌姫の力さえ私に返すというのか。私はお前に謝る。歌姫の力は持っているがいい」
「でも……でも私はあなたのいらっしゃらない世界で、あなたと私をつなぐ力を持ったまま、生きてゆけません!」
セイラは両手で目頭と鼻と口を覆った。阿修羅はその場に立っているままだった。
「神を愛したことを悔やまないでほしい。人にはない完全な姿に心奪われたとしても、そのときお前の心はどうであったか。悲しみで心は千切れたか。否、神を映したその心は美しく照り輝いたことだろう。私のことが忘れられないなら、私を憎めばいい。私の喜んだ力をなくしたいなどと言うな。たとえ神でも、嘉した祝女からつながりを絶ちたいと言われたら、悲しい」
「だって……阿修羅様、私は……!!」
「神の呪縛はあってはならぬ。お前から私に恋い焦がれる心だけ取り除いてもいい」
セイラは首を振った。
「取り除かれても……一瞬でもあなたにお会いすれば、また恋に落ちますわ」
力なく笑った。心の底から阿修羅を愛しているセイラの肩に、阿修羅は手を置いた。
「私の歌姫、私がいればお前はいつか人としての領分を忘れてしまうであろう。私もお前と同じ苦しみを味わおうと思う。お前の心を乱さぬために、今生のお前に二度と歌も言葉も降ろさぬ」
「……阿修羅様……!!」
「私もお前を失う痛みを知る。幸せになってくれセイラ」
阿修羅と白狼はまばゆい光を放ち、消えた。
「セイラ……」
ザヒルスとソディナは、かける言葉がなかった。
一年が過ぎた。
世界は復興が進み、活気を取り戻しつつあった。
ザヒルスとソディナは、巨大な石段の円形歌劇場に向かっていた。盆地に同心円状に石段を並べていって、中心の窪地の舞台で演者が芸術を行う場所である。世界中から、この日のために人々が集まっていた。普段は町ではないので、歌劇場の外に水売りや軽食売り、即席のカフェなどが見られる。
今日は、「神が世界を救った日から一年目の日」を記念した、歌音祭の日なのだ。一年前、巨大な両手の祈りの姿を見たときから、人々は、神への祈りが世界を救ったのだと知り、神を讃えるためにこの円形歌劇場を皆で力を合わせて造り、歌を奉納することに決めた。祈りの手と共に、雪を光に変える歌が聞こえたからだ。
「世界で一番歌がうまいのは、テノールの男性歌手、バリラだ。神様は歌がお好きだから、バリラの奉納する歌を、きっと喜んでくださるよ」
「また奇蹟が起きるといいね。でも神様は、ずっとこの世界を見守ってくださっているよ。私には、ちゃあんとわかるんだから!」
「あれ……でもあの歌は、女性の歌声だったような……」
人々が宗教も民族も関係なく、がやがやと興奮して話しあっている。歌を奉納するとき、神様にお会いできるようで、嬉しいのだ。
そんな歌音祭の中を、ザヒルスとソディナはきょろきょろしながら歩き、円形歌劇場の一番外側に座った。ザヒルスは魔族で耳がいいからで、ソディナは全体が見渡せるからという理由だった。
「……セイラ、来てないのかな」
二人の目は、セイラを探していた。
「ザヒルス村でみんなで暮らそうって誘ったけど、セイラだけ一人で旅に出ちゃったもんな」
「どこにもいられないわよ。……どこにもあのお方がいらっしゃらないのだもの」
ザヒルスとソディナのそばを、もっと前で見ようとたくさんの人が石段を下りていく。席をどこにしようか見て回って、ゆっくり下りるので、入口に近い二人の隣は、人々が渋滞していた。人々の会話が、聞く気がなくても聞こえた。
「そういえば、あの黒片翼の魔歌姫は来ているのかな」
「黒片翼? 何だそれ」
「なんでも、自分は神と愛し合っただの、自分だけは特別なご寵愛を受けただのと、不謹慎極まりない歌を歌って、町から町へ旅をしているらしい。町によっては石を投げつけられるとか」
「神を独り占めしたいただの妄想女だな。一年前のお力を見て、神の栄誉のおこぼれにあずかろうとしたのだろう。売名行為も甚だしい。そういう奴は、世界全体で無視するに限るな。まったく、みんなの神様を自分のものにしようだなんて、なんて思い上がった女だ!」
「その証拠に、霊的なものが見える者がその女を見ると、背中の片方に小さな黒い翼が見えるそうだ。黒魔の生き残りかもしれない」
「なぜ殺さないのだ?」
「歌声が非常に良くて、一度聴くと、こちらは憎しみの心を忘れてしまうかららしい」
「なんだその女は? 天使級の力も持っているのか?」
「だからたいてい皆、何ともしかねて、ただ去っていくのを見送るばかりだとか。歌声がいいなら作詞をプロに任せれば、この歌音祭でも一曲、歌えたかもしれない」
「ふうん……謎だらけの女だな」
それを聞いたとたん、ソディナが立ち上がり、盆地の外へ駆け出した。ザヒルスが慌てて後を追った。
「どうしたソディナ!」
「ザヒルス! あんたのザヒルス村、情報過疎地すぎ! もっと情報が入るよう、村を開きなさい! ああもう、それは帰ったら私がやるわ! それより、早く! 『外にいる』わ!!」
「いるって、誰が?」
「バカッ、セイラに決まってるでしょ!!」
ソディナは人の多く集まる所から先に、そしてだんだんと人気の少ない所へと、駆け抜けた。
小さな花園のそばで、子供たちが数人、ハープを聴いていた。女が歌っていた。手首から肩下までの黒い袖、太ももからの黒いタイツ、黒いハイヒール。白と赤と黒の三枚の布が重なったドレス。
「……こうして、その女の子と神様は、愛し合い、最後に結ばれたのですよ」
女が子供たちに教えている。子供たちは、わかったようなわからなかったような顔をして、指をなめたり片足を立てたりして聞いていた。
そこへ大人が来て、
「ほら! 歌音祭が始まるよ! 早く来な!」
と、子供たちを連れて行ってしまった。あとには、女が一人だけ残されていた。
「セイラ」
ソディナは後ろからセイラに声をかけた。
しかし、セイラは振り返らなかった。
「あなた、いま本気で歌ってたの?」
セイラは振り返らなかった。
「嘘をついたら神様がお怒りになるのよ。罰が降るのよ。何を考えているの?」
セイラは振り返らなかった。
ザヒルスが叫んだ。
「阿修羅様は、セイラに幸せになってくれって、言ってたじゃないか!! セイラに罰を与えるお立場になったら、阿修羅様は!!」
セイラはクリスタルハープを弾いた。
『愛せよ白き歌』のメロディーだった。
ソディナはザヒルスを促した。
「行こうザヒルス。歌音祭が始まるわ」
「でもソディナ!」
「セイラ」
ソディナはセイラに背を向けた。
「きっといつかあなたが歌ってくれるって、信じてる」
そして二度と振り返らずに、ザヒルスの手をつかんで歩き去った。
小さな花園で、セイラは独りになった。周りには誰もいない。すべての人は、歌音祭を聴きに行ってしまった。セイラはこの一年、阿修羅との旅を、阿修羅がセイラを愛していたという設定で歌っていた。歌の中では、北の山で再開したとき、阿修羅はセイラを知った。
「私だけが……私だけが神に愛された女なのよ……」
「偽りの言霊で世界が穢れた」
セイラの体に雷流が走った。
その声を誰が忘れようか。
セイラは目を乾くほど見開いて、振り返った。
「セイラ! 偽りの歌の報いの黒片翼など生やして、我が名はおろか、聖なる歌姫の名を穢すのか!!」
阿修羅が立っていた。
「あなたが決めたことでしょう!!」
セイラから大粒の涙が散った。
「神の歌姫も、私を捨てることも、もうたくさん!! あなたは私を引っかき回すだけ引っかき回して、絶望しか与えてくれないわ!! あなたなんか、あなたなんかに、」
セイラの声が一瞬詰まった。
「出逢わなければよかったー!!」
セイラは瞳を閉じて力の限り絶叫した。
クリスタルハープが、セイラに呼応して奏でだした。
『題・望むなら一つだけ 作詞作曲・白雪
一、
その姿その声を待っていた歌姫 世界でただ一人神に耐えうる乙女
乙女の歌 地を覆い 星を癒す波の元
神は歌い天響く 歌訳す乙女待っている
お互いに気づいた二人は離れられない 天地裂ける滅びも分かてはしない
望むなら一つだけ 永遠にあなたがいれば
何度死んでもいい そばにいて
ニ、
役目を終えた乙女見捨てられてしまうの
神の光浴びたらもう一人になれない
清い乙女もういない 星を穢す呪い吐く
神だけが倒せるから 神は地上に降りてくる
戦いを呼んででも あなたに会いたかった
赦さなくていいの わがまま言ったから
戻れない 還れない あの神殿の日々に
何が間違ったの 破滅ばかり
三、
神の歌残されて 不幸にも生きている
救われた世界が闇色に見える
「希望」など「愛」などと告げる神を信じない
「終わり」を与えてよ 泣かないなら』
ずっと会いたかった。
そのセイラの想いに、阿修羅は呆然と立ち尽くした。そして、
「……そうだ。神が人の前に姿を現したことが、一年もお前を苦しめ、悪に傾かせたのだ。詫びよう。セイラ、私のことに関する一切の記憶を消そう。それがお前の悪の源も、絶望まで消してくれよう」
阿修羅が近づき、セイラの頭に手をかざした。
「バカーッ!!」
セイラはクリスタルハープで阿修羅の手をよけた。阿修羅は戸惑った。
「なぜだ。私のせいでお前は……」
「あなたのことをいつまでも覚えていたい……!! 絶望しかなくても、私はそれでも愛だと思う!!」
セイラは目から何列も涙を流して叫んだ。
「あなたを忘れてしまうより、あなたを想って一生苦しんでいることの方が、私は一番後悔なく生きていけるの!! だってこんなに心から愛せた方は、いないから!! 苦しんでもそれは愛なの!! 私から私の中のあなたまで、奪わないでーッ!!」
阿修羅は、はっとした。自分は今、星方陣の、過ちを犯す前の分岐点まで時を戻せるAZの渦鈴と同じことを、セイラにしようとしたのだ。
そして、我が祝女は、自分と同じことを答えたのだ。
「美しくも答えたるものかな私の歌姫。私は、お前の祝詞がもっと聴きたくなったぞ」
そして、セイラの頭に手を置こうとして、頬に手を添えた。
「星方陣に勝った我が祝女よ、お前のたった一つの望みを私もかなえたい。お前が死ぬその日まで、阿修羅はヴァン=ディスキースとなって、ずっとお前を護る。お前の行きたい所へ、世界中のどこへでも行くがよい。私はお前の隣をいつまでも歩く」
阿修羅は、ヴァン=ディスキースとして、この世界の住人の姿になった。
セイラは、自分が夢を見ているのではないかと思った。急に、ヴァンに触れられている自分の穢れが恥ずかしくなって、全身が真っ赤になった。
「夢なら、そんなに体は熱くならないだろう」
ヴァンに初めてからかわれて、セイラはますます熱くなった。
「長生きしろよ。なるべく長い時間、一緒にいたいから」
「はい……はい!!」
セイラはヴァンに抱きついた。
「きっとそばにいてくれるって、信じてた……!!」
そのとき、歌音祭の始まる歌劇場から、歓声があがった。
そして、ヴァンたちがこの世界を旅したとき聴いてきたすべての音も、世界中から集まるのが聴こえた。
円形歌劇場では、テノールの男性歌手、バリラを中心に、観客を含めた全員が合唱していた。
『題・常闇の破鈴 作詞作曲・白雪
心の名を 示したまえ 人の罪も愛も知るのなら
世界に息を 歌を
あなたがいて 我ら希望に 世界続く限り誇ろう』
セイラがその美しい声で囁いた。
「世界のすべてが、あなたに歌を奉納しております」
ヴァンはセイラに微笑んだ。
「お前も私に歌ってくれるな? 独唱で」
「はい、命ある限り!」
二人は、並んで世界に旅立っていった。
海月が輝いた。タロットカード・恋人のピンク色の光の雪が、一瞬、花びらのように二人の周りに舞い閃いた。
「星方陣撃剣録第二部常闇の破鈴五巻・通算二十四巻」(完)・――第二部闇の章・完――
第二部が完結いたしました。お読みいただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。




