神なき世界第四章「大罪(たいざい)一・怠惰(たいだ)」
登場人物
阿修羅(ヴァン=ディスキース)。神の発音で「あじゅら」、人間の発音で「あしゅら」。邪闇綺羅(神の発音で「じゃぎら」、人間の発音で「じゃきら」)の弟。神刀・白夜の月を持つ。神に背いた罰を受け、この世界ではヴァン=ディスキースと名乗って旅をする。
セイラ=サザンクロスディガー。栄光の都レウッシラで阿修羅が助けた星羅と同じ姿をしている。歌姫。
黒魔。星の持つ、憎しみと絶望の権化。すべての命を喰らい、すべてを葬ろうとしている。
第四章 大罪一・怠惰
崖の下に、氷塊をいくつも浮かべる青い海が広がっている。吹きつける風は強く、凍らせてくるようで容赦がない。全身を切るような痛みを起こす寒さに耐えながら、セイラはヴァンと共に風魔法で、誰の目にも触れないうちに、一気にワッダーンに到着した。
夜に着いたので、王都に入る門は閉じられていた。都市を囲む城壁の上に、等間隔に丸い雪玉が載っていて、中で明かりが灯っている。都市が祭りのように明るく浮かび上がっていた。
「雪灯といいます。魔法の力で明かりが灯ります。さすが王都には、魔力の高い魔法使いがたくさんいるのでしょう。これだけの明かりがあれば、黒魔の影が忍び寄っても、すぐにわかりますよね」
セイラが羨ましそうに雪灯を見上げた。
そのとき、城壁の外側で動く影があった。何か道具を持って、去っていくところである。ヴァンが影のいたところを確認すると、黒魔の呪いの印が描かれていた。
「黒魔が、この王都を呪っているのでしょうか?」
呪いの印を消すヴァンに、セイラが恐れながら尋ねた。
「人が多いところに黒魔は集まるらしいしな。充分考えられる」
ヴァンは、城壁を回り、他四箇所に描かれていた呪いの印を消した。風魔法で上昇し、空から見てその頂点を結ぶと、都市を囲む五芒星になった。
「(この星は、自分を傷つけたがっている)」
ヴァンはそのうち、このワッダーンが果樹園だらけなことに気がついた。全部同じ種類である。
「セイラ、今日は外で野宿する。呪いの印のあった場所を見張る」
情報を集めなければならない。ヴァンとセイラは近くの森に隠れた。
早朝、まだ太陽の昇らない暗がりに、そっと呪いの印のあった壁に近づいた者があった。
「なぜ消えているんだ……! 誰かに感づかれたのか? いや、もう誰も何もできないはず……」
濃い灰色のフードつきローブをまとった男だった。呪いの印を描いた紙を、今度は地中に埋めて、立ち去った。
ヴァンは炎の魔法で紙を灰にしてから、セイラと二人で男の後を、風で浮きながら追った。
男は黒く長い影を出すと、それに乗って城壁をまたぎ、都市内に入った。
ヴァンは目を疑った。その影は、阿修羅の創った四神五柱が一柱・青龍にそっくりだったからだ。
「(青龍の気の流れはない、私の青龍ではない! 青龍も神剣・青龍も、使い手の霧府麻沚芭も、もう一つの世界にいるはず。この青龍の正体は一体……)」
男は、大きな屋敷に入っていった。
朝が過ぎ、人々が活動し始める頃から、ヴァンは聞きこみを始めようとしたが、人々はいやにのんびりしていた。リンゴほどの大きさの赤く丸い実を食べながら、ひなたぼっこをしている。
この白黒の世界で、なぜこの実だけが赤い色をしているのであろうか。しかし、それはヴァンだけに色がわかったのであって、他の者には濃い灰色に見えているようだった。
市場にいる売り子たちも、旅人のために仕方なくいるという風で、のんびり赤い実を食べていた。王都内をよく観察してみると、果樹園にはその赤い実をつける木が植えられていた。一つの木に若芽、つぼみ、花、未熟果、熟果、腐った果、枯れ葉など、すべての時期が揃っていて、一つが育ち始めると別の一つが終わり、一つが終わると別の一つが育ち始めるというように、果実が木から絶えることがないようであった。
この王都で一人だけ走り回っている者がいた。広い額を持ち、髪を後ろにきれいになでつけている。目は奥まってついていて、昼でも影ができる。鼻筋は通っているが、唇が異常に薄い。
呪いの印を王都の城壁に仕込んでいた者だった。
布を頭に巻いた短いヒゲの、市場の布売りの男が、ヴァンに男の素性を教えてくれた。
「名前はカナスタ=ヨッパ。この国の宰相さ。この赤い実のおかげでみんな働かなくても食べていけるようになったのに、カナスタ様だけは、働くことをほとんどやめた国民のために、雑務をこなしてる。偉い人だよ」
男は赤い実をかじった。ヴァンの目が光った。
「その赤い実は、どこから誰が持ってきたのか」
「んー? んー、確か旅の商人だったかなあ……。山で拾ったから名前はわからないってさ。これ一個に一日に必要な全部の栄養素が入っているから、この木さえ植えておけば、もう畑仕事も放牧もしなくて済むんだよ。一年中実がなり続けるし、はっきり言ってこの実を売った金で旅商人から他のものを買えばいいわけで、オレはもう働きたくないね。今も体を動かしたいから、散歩がてらここに来て座ってるってかんじかな」
怠惰。
ヴァンは、この国を覆う空気を文字に変換した。
「国王もそう考えているのか」
男はおいしそうに赤い実を食べながらうなずいた。
「言ったろ。この国で動き回っているのはもうカナスタ様だけだ」
ヴァンは胸が苦しくなった。カナスタ=ヨッパは明らかに怪しい。それに少しでも青龍が関わっていたとしたら。
「四神の青龍を見たという男を、知っているか」
男は赤い実を食べ終えた。
「シジンのセイリュウか。それも、カナスタ様だね。王都中に魔法陣を描いて、呼ぶらしいよ。どんなものだか知らないけど、動ける人が何かやって、国が続くならいいじゃないか。オレたちはただ安心して寝てればいいんだ。もういいかい? 眠くなったよ」
男は、売り場の奥で売り物を気遣いもせず、横になって寝てしまった。
「向こうの世界からこの世界に青龍を呼び戻すつもりなのか!」
ヴァンが魔法陣を確認しようと空へ飛び上がろうとしたとき、
「私の話を聞いてください!! 信じてください!!」
市場の外の通りで、兵士三人に囲まれた男が声を上げた。三十代だろうか、彫りのしっかりした顔で、やせている。その訴える先に、カナスタがいた。カナスタが怒鳴り返した。
「赤い実を国民食とし、健康と経済の発展に資することは、国王のご命令である! 貴様は赤い実を食べず、野菜や肉などという、栄養の欠けた、生産に手間のかかる非効率的な、たいした価格にもならない非経済的なものを、食べ続けている! 我が国の国力を減らそうとする、国賊め! 命令に背くなら、処刑するぞ! この国は、もう無駄な作物を栽培する土地の余裕も経済力も、ないのだ! 赤い実を植えるのだ! 食べるのだ! なぜ従わないのだ!」
男は反論した。
「赤い実を食べた者は、例外なくすべてのことに対する気力を失っている! まるで何かの薬のように! 赤い実にすべての栄養素がつまっているというのは、今の技術と知識からそう言えただけのことであって、これから先新しい栄養素が発見されたら、その栄養素をとっていなかった我々は、どうする! 滅びているかもしれないんだぞ!」
カナスタは言い返せないので、代わりに顔を真っ赤にしてぶるぶると震えた。
「いつもいつもオレの先で……!!」
そして、兵士に命令した。
「縛り上げろ!!」
「カナスタ!! 級友の私でも聞く耳を持たないのか!!」
「ユード!! 級友だからだ!!」
カナスタは言ってから、なぜ口走ってしまったのかと驚いた。城壁の呪いの印を消し、自分の計画を妨げたのもこのユードだと思い、憎しみがわいた。
「昨日、喚ぶはずだったのに……」
この王都で赤い実に抵抗する最後の一人、ユードを捕まえて、カナスタはほっとして声が出た。
「お前は昔から頭が良くて、みんなから尊敬されていたな。オレが宰相になっても、オレのことなんか覚えてなかっただろ」
あとはユードを処刑すれば、邪魔する者はもういない。
「カナスタ……? 何を言い出すんだ」
「オレは学校じゃ底辺の成績だったもんな。どんなに勉強しても上の奴らにかなわない。でもオレは人より上に立ちたかった。上から下を見てみたかった。でも、かといって、家柄のいい女の踏み台すら見つけられなかった」
この話を理解してくれるのは、この王都ではもうユードしかいないのだ。
「だからオレは人々を怠惰と無気力の状態に陥らせて、オレだけが力に満ち満ちているようにした。これで元の力が低くても、周りが自滅するから上に立てる。努力して上に立つより、いい眺めだったよ、みんなはいつくばってた!」
ユードは呼吸を速めた。
「カナスタ、赤い実のことを言っているのか!? お前、みんなになんてことを!!」
カナスタは目を細めた。
「そう……一人でいいから、そう言わせてみたかった。そして一人でいいから、こう言ってみたかった。――オレを馬鹿にした報いだ!! 全員死ねっ!!」
ユードの返事を待たず、カナスタが剣を抜いて斬り殺そうとしたとき、ヴァンがその剣を弾き飛ばした。
「っ!!」
旅人に今の話を聞かれたと、カナスタは真っ青になった。ヴァンは冷静に語りかけた。
「一つの強さだけを求めては、それだけでしか満足を得られなくなる。ライバルを倒し、ゆくゆくは世界一強い者を倒せたとしても、それがなんになる。それ以上に強くなれない不満が残るだけではないか。そして自分もいずれ後続の他の者に倒される」
カナスタは恥で顔が熱くなったので、両手で覆った。
「では強さを保ち続けるためにはどうすればいいのだ。相手を永遠に倒せなければ力には何の意味もない」
ヴァンの目の光がカナスタを射抜いた。
「何かを助けられたら、それがゴールだ。自分の実力と誇れ。『最強』など、何の価値もない。もし相手が倒すべき悪の者であるなら、その悪の者の力とは別の力で倒せばよい。だが、お前にその力は天より与えられないであろう。お前が人々を陥れる悪だからだ」
カナスタは恐怖に怯え、じりじりと後退りした。
「言え。四神の青龍とお前とは、どのような関係だ。まさか、青龍が――」
お前を認めたのか、とヴァンが言おうとしたとき、カナスタが叫んだ。
「『四神の青龍』を知っている!!」
カナスタの目から耳から口から、さらには腕から脚から大量の黒魔が溢れ出て来た。
「セイラッ!! カード!!」
「はいっ!! タロットカード・太陽!!」
セイラのカードは、カナスタ以外のその場にいた六人を光のドームで覆うだけで精一杯で、王都を埋め尽くす黒魔が多すぎて、すべてに光が届かなかった。
大量の黒魔が、隊列を組んであらゆる路地に溢れ返った。カナスタは王都内の壁にも呪いの印を描いていたようで、呪いの印から続々と黒魔が這い出てくる。
黒魔兵たちは、カナスタの残骸を先頭にして並ぶと、あっという間に一本の長い体になった。
真っ黒な青龍が、王都のすべての路地にその黒い身を伸ばしていた。
王都の人々は、さすがに何事かと起き出したが、黒青龍が上空に浮かび上がって雨を降らせると、力なく倒れてしまった。果樹園がいきいきとし、赤い実がよく成長した。
「これは麻痺の雨! 赤い実を育てたということは、この実は麻痺の効果があったか!」
ヴァンの風魔法が、六人に降る雨をよけている。
『抗うのはやめて、私の力の前にひれ伏すのだ』
突然、黒青龍がしゃべった。
「青龍!! お前は本当に阿修羅の創りし青龍なのか!!」
ヴァンが黒青龍の目の前に出た。黒青龍は鼻息で吹いた。
『阿修羅? 私を捨てた神か。そんな者は、今この世界には関係ない。この世界を滅ぼすこと、それが私の成したいことよ』
「何を言い出すのだ!! 霧府麻沚芭と戦うことになっても阿修羅に仕え、世界を滅ぼさんとする璘・阿留巳鎖津火とも戦った神が、血迷うたか!!」
『古の知識によく触れておるのう。だがそれは今の私には何の意味もない。我が名は七つの大罪が一つ、“怠惰”!! 世界を滅ぼす力なり!!』
ヴァンは、黒青龍が阿修羅に気づかないので、赤紫色の星晶睛を出した。
しかし、それを見たとたん、黒青龍は怒り出した。
『まだ私の力で、白黒になっていない部分があったのか!!』
黒青龍が白と黒のねじりあった風を吹いた。ヴァンの星晶睛を狙ってくる。
「この風に触れれば、白黒になるのか。世界をこんな白黒の世界にしたのは、お前なのか」
ヴァンは青龍を斬らねばならない悲しみに沈んだ。
「七つの大罪とは何なのだ」
『世界の救済なり!! さあ、お前たちも怠惰に流れ、思考を止めよ!! できないことに挑戦するな、何も達成するな!! 食べる物は永遠にある、苦しむな!!』
黒青龍の白黒の風を、ヴァンは白夜の月でそらした。黒青龍は自分の力を受けて平気なヴァンに驚いた。ヴァンは風魔法を出して、黒青龍を押した。
「そんなことを口にしてはならない!! 結果がだめだとわかっていても、できる限り何かをすることで、すべての可能性は生まれるのだ!! 生きることを放棄することはするな!!」
『結果が出ないなら、何をしても無駄な時間である!! 我が木を見よ、どこにも行かず、永遠に同じ実を結び続ける。これぞ怠惰な者への救いである!!』
生息域の広がり方にも、長い年月がかかる。それも怠惰に通ずるのだろう。
「木気が、このような世界を作ろうとは……!」
ヴァンは、黒青龍を見ているのが苦しかった。「怠惰」とは、つまり「できないからやらない」ということである。それは、世界を「できるかできないか」の二つでしか判断しないということだ。しかもその判断は、未熟な地上の命が勝手に下している。
この世界に神がいないという状態が、「できるかできないか」という極端な結果を拝む世界にしてしまったのではないかと、ヴァンは悩んだ。
「青龍、お前は私の青龍の偽者だ。神がいる世界とは、失敗してもやり直しのきく世界のことである。人間だけの世界とは、失敗したらすべてが終わり、負け組として一生チャンスを与えられない世界のことである。それは、目に見えるものしかわからない人間が、他人の未来を信じられないからである。お前は今、人間と同じことをしようとしている。よって、お前は四神五柱が一柱・青龍ではない。何者だ、名乗れ! 神を象り世界を惑わすこと、赦すまじ!!」
ヴァンが白夜の月で青龍神紋を描き、黒青龍に刻印した。すると、黒青龍がぱあんと弾けた。
黒魔が分裂して飛び出してくるかと思ったが、予想に反して、ハート型の花びらが空間いっぱいに飛び散って、空も大地も海も覆い尽くし、花吹雪になって世界中を満たした。
それらが風に乗って光となって消滅したとき、世界に色彩が戻っていた。
世界中の人々が驚きあい、次いで歓喜の声を出すのを、ヴァンは聴いていた。ハートの花びらのしみ渡った空気が、どこか安らぎを含んでいるのも感じた。
そのとき、空に光の文字が現れた。
――十全の章授・一章・終、七つの大罪・一・怠惰・終――
「十全の章授? なんだそれは?」
しかし、ヴァンの問いに答えることなく、光の文字は三枚のカードに変わった。
「あっ! タロットカードです!」
セイラが駆け寄った。それぞれ「恋人」と「奇術師」と「星」が描かれた三枚のカードだった。「恋人」は二つの道のどちらを行くかを迫られる、「奇術師」は演劇・口先のうまさ、「星」は回復の効果があると、手にしたセイラにはわかった。ヴァンには、星がセイラに力を分けていることがわかった。
王都ワッダーンの人々は、狂ったように騒ぎわめいていた。
果樹園のすべての木が、枯れ木になっていたからだ。赤い実に頼って働かなかった人々は、今日食う物もない有様だった。
ユードが彼らの中心に立って、カナスタのことと事の経緯を説明し、もう一度人々に働くよう促して自分の畑で育てていた作物と家畜を分けると、国王にすぐ食糧を緊急輸入するよう進言した。
ヴァンは、ワッダーンの人々が再び「怠惰」に捕まらないように、王都全域に神の力を与えた。
それは、「自分の望む作物が、自分では実らせられない」という力であった。例えばリンゴ好きの人は、リンゴの木を育てても実がつかない。別の人が育てたものを買うしかない。リンゴ好きの人がミカンを育てていたとしたら、別のミカン好きの人は、自分で育てても実らないから、リンゴ好きの人から買うしかない。つまり、自分の望む実が欲しければ、他人の畑仕事のがんばりに期待するしかないのだ。そして自分もまた、他人に畑仕事のがんばりを期待されることになるのだ。
全員ががんばって初めてうまくいく、という社会にしたのであった。怠惰に捕まっていたらだめだと全員が理解したとき、この力は解かれる。
ヴァンは王都を囲む五芒星の五つの頂点に光の糸を張った。風になびいて振動を起こすのを見届けると、光を隠してセイラと二人で次の町へ向かった。
――十全の章授・二章・始――
の、光の文字が、空に現れたからである。
この星の訴えに違いない。
ヴァンは、空を見続ける。




