式神を撃つ目第四章「交流の条件」
登場人物
赤ノ宮紫苑。双剣士であり陰陽師でもある。
出雲。神剣・青龍を持つ炎の式神。
霄瀾。神器の竪琴・水鏡の調べを持つ、竪琴弾きの子供。
第四章 交流の条件
斯の人にオレは必要ないのだ、という事実が積み重なり、出雲は重い目で主――紫苑を見上げた。
精神は揺れ、力も及ばず、愛――さえ、届かず――。
何も彼もが無気力に成って、紫苑に従って人間を斬る「道具」に成る事さえ、受け入れてしまいそうだった。
斯の人の瞳に映るなら。
何も亡くなった自分に目的をくれるなら。
然し、何処かでそれに警鐘を狎らす意識が有って、出雲は何もできずに、ただただずっと混乱為ていた。
紫苑は夫れを知ってか識らずしてか、特に美味しい味付けの、猪肉の香辛料料理を作ったり、鮭のとろみ牛乳汁を作ったりした。
紫苑たちは、次の町まで行くのに足駆山の山道を歩いていた。
粉っぽい霧が繫かっているのが妙に気になる――。
足駆山を、一人の女性が歩いていた。
手拭いを首に巻き、仕事道具の木箱を背負った、行商人である。
年の頃十八、名を由未生という。
自分の商売を人に知って貰う為、裕福な女性の多い町に目星を付けて赴き、自分の技を売り込む日々だ。
旅費ばかり繫かって、未だ元を取り返せるだけのお金は稼げていない。
「初期投資よ、初期投資。最初から売れるとは思って無いわ。だって私の商売は、新しいんだもの」
由未生は孤独と焦りと戦い乍ら、暗闇に成る夜迄の時間を気に為ず、山道を進んでいった。
「今日も此の山で野宿かな。携帯食料足りるかしら。もっと先に進みたかったな」
由未生が山越しの夕陽を眺めて、寝られる場所を探し始めた時、大きな唸り声が聞こえた。
「(……魔物……!?)」
思わず由未生は硬直した。山に入ればいることくらい分かっていた。女の一人旅に出る時、皆から散々(さんざん)言われていた事だった。「女一人で如何立ち向かうのか」と――。
か弱い女が戦う方法。由未生は、毒を塗った小刀をゆっくりと、抜いた。切れ無くても、触れただけで大の大人が即死為る、危険なものだ。
由未生が即死為る場合も在るが、女性は、魔物に八つ裂きに為れるよりは増しだと思って熬る。
油断無く小刀を構え、周囲に目を走らせて熬ると、再び大きな唸り声が聞こえた。
「た……す……け……て……」
人間より遙かに低音の声が、弱々しく呻いた。
魔物が何かで弱って熬るのだ。由未生は、急に生存本能に全身の動きが支配された。
魔物が死ぬ処を見られるかもしれない。魔物は如何死ぬのか、如何いう状況に弱いのか、どんな状態になると負けるのか。
由未生は、そろそろと声の為る方へ歩み寄り、懸と懸に剪まれた谷間を上から臨いた。
象ほど大きい、明るい薄茶色の分厚い皮膚を為た、手足の大きい魔物が、懸の傍で弱い呼吸を為ていた。
懸から墜ちて登れ無くなったのだろうかと見て熬ると、左手を右手で握り締めて必死に引っ張って入る。
「あ。爪が刺さってる」
其の魔物の爪が懸の岩壁に突き刺さって入るのに気づき、思わず声を上げた由未生は、仕舞ったと思う間も無く、顔を上げた其の魔物と目が合った。
「「……」」
互いに暫く沈黙為る。
「殺すのか。おれを」
低音が、由未生の腹に響いた。普段なら恐怖の震えと思ったろうが、今は魔物の悲哀が全身を揺さぶった。
「私を殺さ亡いなら、助けて上げてもいいわよ」
魔物は、理解出来亡かった様な顔を為た。斯の女は自分を殺さ亡くても、無視して去る選択肢があるからだ。
「此の山に要る間、私を守ってくれ亡い?」
困っている者を助けてしまう人間の情が理解されないのは仕方がないから、由未生は魔物に分かり易い取り引きを提案為た。本当に護衛為て貰えたら、有り難い。
「……分かった」
漸く魔物は納得し、由未生の方に自由な手を差し上げた。
由未生が其の皮張りの長椅子のような大きな手に飛び降りると、手は懸下へ由未生を降ろした。
平衡感覚を崩し掛けた由未生だが、魔物に怒ってもこじれるだけなので、兎に角岩に刺さっている爪を観察した。
片手に三本ある指の爪のうち、外側二本が岩壁に深々(ふかぶか)と突き刺さって入た。魔物が、ゆっくりと、辿々(たどたど)しく説明した。
「懸から落ちて、おれの体重で刺さった。人間の力で、抜けるか」
「抜くのは無理ね」
「……」
「でも安心して。私、爪の扱いは上手いから!」
「?」
由未生は素早く木箱を下に降ろすと、引き出しの中から大風の断ち切り剪みを取り上げた。
「爪が伸びすぎた客もいると思って、大きい剪みも用意して擱いて良かったぁー!」
而して何の躊躇いも無く其の刃に爪を挟んだ。
「ま、まて! おれの爪をどうする気だ!」
鈍重な口調乍らも、精一杯焦って、魔物が自由な方の手で由未生を押さえ付けた。
押し潰され掛けている恐怖と戦い乍ら、由未生は答えた。
「決まってるでしょ! 截るのよ!」
魔物は目一杯仰天して、できる限り何回も首を振った。
「だ、だめだ! 爪はおれの武器! 截るな!」
「爪は又伸びるでしょ! 其れとも、此処で死ぬつもり? 毛片方の手があるじゃ亡い。爪が伸びる迄、敵が来たら逃げてりゃ入いの!」
「……」
由未生の言うことは尤もだが、未だ踏ん切りが吐かない魔物に、由未生は苦笑した。
「截った爪も、きれいに整えて挙げるから。安心して」
「整える?」
押さえ付けられる力が緩んだので、由未生は魔物の手の下を潜り抜けて、爪を二本とも截って仕舞った。
「おっ……おっ……おれの……!!」
突然自由になった魔物は、尻餅をついた。懸下の土地が揺れて、思わず由未生は、笑って仕舞った。
「もう日が暮れてる。何処か安全な場所は在る? 寝る事に為るから」
鉄の剪みを終い、木箱を背負って、由未生は尋ねた。
「……おれのねぐらへ来い。爪を治してもらう」
魔物は力を込めて由未生を左手に摑むと、懸上へ飛び上がった。而して、暗闇の中を迷わず駆け出した。
「え!? 痛いっ!! 木の枝!! 葉っぱ!! ブホッ!!」
由未生に何が当たろうが、お構い亡しである。岩にぶつけられ無かっただけ、奇跡であった。
「いま帰った」
暗い山中を彼方此方駆け回り、魔物は漸く火の灯りのある洞窟に到着した。
結婚して家族が居るのかしらと由未生が再び好奇心に駆られた時、中から出迎えたのは、意外な魔物であった。
「遅かったではないかツタノジ。飯が冷めてしまったぞ」
由未生より背が小さく、横幅が太く、顔に深い皺が幾本も刻まれた、老人の様な姿の魔物であった。
耳が鰓なのと、目が顔の三分の一を占めるほど巨大なのを見て、魔物だ、と判断できる。
「すまんサカナイ。爪がはさまっていた」
由未生を降ろして、ツタノジは説明為た。
「ニンゲン! ニンゲン!」
其の時、洞窟の奥から提灯くらいの大きさの蛾に似た魔物が、粉っぽい鱗粉を撒き散らしながら、ひらひらと出て来た。緑色の翅に白い駁の模様がある。
「トブチ、待たせてわるいな。飯にしよう」
「このニンゲン、クうの?」
トブチと呼ばれた魔物が、甲高い声で無邪気に由未生の周りを飛び回るので、由未生は恐怖を覚えたが、ツタノジが庇うように由未生に手を翳した。
「こいつはだめだ。おれの爪を治してもらうから」
「ナオしたらクうの?」
由未生が冷や汗をどっと画いたとき、ツタノジが首を振った。
「だめだ。こいつはおれの命の恩人だ。この山にいる間は、おれの客だ」
「ふーん」
別に落胆もせず、トブチは甲高く無邪気に返事をした。
「娘。ツタノジの恩人のところ悪いが、飯は三体分しかない。今夜は我慢してくれい」
「ご心配なく。食料はあります」
ここで由未生は三度好奇心が起こった。魔物は普段、何んな食事を為ているのだろう?
涼しい秋風の凍みる岩場から、暖かい洞窟の中に案内されて、由未生は焚火を凝視した。
焚火を囲む三点に大きな緑色の葉が敷いてあって、その上に木の実や野菜、果物が載っている。そして、焚火の脇に木の枝に縛られた鹿が丸焼きにされて置いてあった。サカナイの言葉通り、だいぶ前に焼き終わっているようだ。
「(ツタノジは体が大きいから、沢山食べるのね。もし獲物が獲れない日があったら、代わりに私を食べるかもしれない。長居してはいけないわ……!)」
由未生は硬く決心為ると、三体から少し離れて、携帯食料を齧った。
「さあ、爪を治してくれ」
鹿を骨ごと丸齧りしたあと、ツタノジが由未生の前に左手を平たく置いた。外側の二本の爪が、綺麗に四角く並んでいる。
「ほう、これはまた見事に截られたものだ」
鹿の血を木の湯呑みから飲むサカナイと、鹿の角の欠片をしゃぶるトブチがそれを臨き込む。
「治すのは無理よ。でも、上手く整えて上げるから」
「整えるって、なんだ?」
木箱から例の大剪みを取り出す由未生に、ツタノジは拒否反応を示すように、体を動かした。
「爪を小さい武器に為るって事よ!」
然う言うと由未生は、両腕の力を使ってツタノジの四角い爪を三角形に切り、爪鑢を皹け、角度を整えると、爪の表面其のものも鑢で仕上げて輝かせてしまった。
今まで蘿や傷、汚れだらけだった分厚い爪が、綺麗に水拭きした板張りの床の様に光沢を放っている。
「なんと!? これがツタノジの爪か!?」
「キレイ! キレイ!」
サカナイとトブチが心底驚いているのに気を良くして、由未生は油混を溶いて色絵の具の皿を幾つか創り、ツタノジの爪にサカナイとトブチの絵を描いた。
「なんだこれは??」
サカナイが首を傾げると、由未生は得意そうに胸を張った。
「爪絵よ。私の職業。爪屋なの、私! 爪のことなら、何でも任せて!」
「爪絵? 爪屋?」
「うん、未だ新規開拓中の分野だけど、私は絵を描くのが好きだし、女性は爪まで綺麗に成り度いと思ってるって、信じてるから。此からみんなに広める処なんだ!」
「ニてる! トブチ、サカナイ、ツタノジとみんなイッショ!」
トブチが粉っぽい鱗粉を撒き散らし乍ら、喜びに舞って沃る。
其れを見乍ら、然ういえば本人に意思確認もせず描いて仕舞ったということを思い出し、由未生は急いでツタノジを上目遣いに見た。
ツタノジは、長い間自分の爪を見詰めていた。
「……すごい」
低音の声が安定していた。
「すごく、――」
跡の言葉が続か亡かった。
「すまん。なんて言ったらいいか、わからない」
「気に入ってもらえたら、私は其れが一番嬉しいわ」
由未生は朗らかに笑った。
翌日、ツタノジは由未生を握り、山の外へ出ようと直走った。
「人間の足で三日かかる。おれは一日。ねぐらが山の真ん中にあるから」
「助かるわ!」
今度は、木の枝の中に激突しないように、ツタノジは上手く由未生から其等を避けてくれる。握る加減も、心なしかタマゴを摑む様に包まれて入る気が為た。
一時間程走った頃だろうか。
ツタノジは、急に減速し、立ち止まった。然して、一歩も動かない。
「……如何したの、ツタノジ」
「しっ」
ツタノジは由未生をきつく握り締め、身動きが取れない様に為た。由未生がツタノジの目線を追うと、青紫色の、成人の人間並みの高さで鎌首をもたげている蛇が要た。地面ではとぐろを巻いて要るから、全長はその倍以上だろう。
「強い毒蛇だ。一撃で象も死ぬ」
「あなたは?」
「……動かなければ大丈夫。刺激するな」
「はい」
由未生も、旅に出るにあたって毒草や毒を持つ動物の本を読み漁ったので、斯の蛇が如何に危険かは心得て煎た。
名前は青紫。鱗は亡く、綺麗で滑らかな皮膚を為ていて、ほっそりとした体でしなやかに動く、ともすれば見る者に美しいとさえ思わせる、毒蛇の王だ。
青紫は美しい立ち姿で全く動かず、青い眼で此方を直視して要た。
ツタノジと由未生は息を殺し、眼力に競り負けまいと必死だった。
息を詰めた一分が途方もなく長かった。漸く青紫が動き出して解放されると思ったのに、事も有ろうに、毒蛇は真っ直ぐ此方へ向かって来た。
何か、探る様な目付きである。
「(ツタノジ! 私たち、何か蛇の気に障ることした!?)」
「(いや、攻撃しなければ去るはずだ。青紫は毒を持ってる奴しか食わないし)」
其れを聞いて、由未生は全身が硬直した。
自分は毒を持っている。小刀に、だ。若し青紫が、毒を満遍無く塗った由未生の小刀に反応して煎るのだとしたら、青紫は確実に此方へ来る。然して、嚙み付いてくる。
「ツタノジ降ろして! 危ない!」
「大声出すな!!」
その空気の振動に刺激されてか、青紫が電光石火で飛び掛かって来た。
「キャアッ!!」
何かを振り回し、何かを叩く音が聞こえた。
目を閉じて居た由未生が目を開けると、毒蛇が手傷を負って去って行く様子が映った。
しかしその直後、由未生は自然落下した。
「痛っ!」
木箱から落ち、体への痛みを和らげたのも束の間、巨体の滑るように倒れ込む音が為た。
「ツタノジ!!」
見ると、ツタノジが右手首を押さえて、呻き苦しんで熬た。
右手の幸に、血を流す咬み傷が四つ付いている。
青紫に咬まれたのだ。
「私を庇って……! 御免なさい、私……!」
「お前は、命の、恩人、だから、気に、為るな。其れより、トブチを……。彼奴なら、治せる」
青褪めた顔を為乍ら、ツタノジは喉の震える深呼吸を繰り返した。
一刻の猶予も無い。
由未生は木箱から昨日の油混の絵の具の残りを取り出すと、木の幹に筆で線を引き乍ら、トブチの居る洞窟まで走り出した。道に迷わずツタノジの所へ全速力で戻れるように、場合に因っては由未生を置いてトブチが最速で駆け付けられるように――。
サカナイとトブチは洞窟の側の花の蜜を集めていた。
由未生の知らせに、トブチが飛び出していった。矢張り魔族の速さに、人間はついて行け無かった。
由未生とサカナイがツタノジの旧へ辿り着いた頃、ツタノジはトブチの鱗粉の中、浅い眠りに就いていた。
「まずはカラダのナカでドクとタタカう。オこさないで」
トブチがサカナイと由未生に指示した。
「由未生。なぜこのようなことに……」
サカナイに問われ、由未生は小刀の事を正直に話した。
「でも、青紫が小刀にまで反応するとは思わ無くて……」
「此迄平気だったのなら、きっとツタノジが小刀を握り隠して、青紫に“この生き物の中には毒がある”と誤解させて仕舞ったのだろう。事故としか言えん」
由未生は衝撃を受けた。てっきり、由未生を責め立てて、腹癒せに殺すかも知れないと思って熬たのに。其れでもトブチを呼びに走ったのは、完全に自分の所為だと思ったからだが、魔族の中に此んなに冷静に怒りを抑えられる者が居た言が、此迄の「魔族は皆激情行動型」という概念を覆して、由未生にとっては大きな驚きだった。
「話せば分かる魔族」も、居るのか――。
魔族は全て人間の敵と叩き込まれた由未生は、「全て」とか「絶対」などという「満場一致」に何時も、「私が違うと言ったら、“絶対”“全て”じゃ無くなるよね」と考える子供だったが、其の「大人の押し付け」に反対して入た頃の自分が実は本当に正しかったのだ、と実証を得て、人と違う言を為たがって入た此迄の自分が、急に過去の者になってもいいと思えて来た。
「由未生。ツタノジは我々(われわれ)で介抱するから、お前はこの山を出なさい。ツタノジの匂いが体に残っているし、青紫が再び狙うやも知れん」
「……残ります」
「ん?」
「私、ツタノジの看病を為ます!」
由未生は自分にもはっきりと聞こえるように、大声で宣言した。
「併し、お前は旅が……」
「水、汲んで来ます! 要りますよね!」
由未生は荷物の木箱の中から一人用の鍋を取り出すと、来る途中にあった小川へ走り去っていった。
「……」
サカナイとトブチは、訳が分からず顔を見合わせた。
「ツタノジ! 目を覚ましたのね!」
由未生は、ツタノジの汗を手拭いで拭いていた手を止め、安堵して両肩を下げた。
「……由未生……」
居るとは思っていなかったので、ツタノジが混乱して居ると、サカナイが口を挟んだ。
「由未生はな、ずっと付きっ切りで看病して呉れたのだぞ。お前は重すぎて運べ無いから、風除けの枝を地面に突き立てたり、目覚めた時歩けるように、太い枝の杖を探して来たり……」
なぜ、と問う間も亡く、由未生が焚火で沸かした鍋の中の湯を、椀に入れて差し出した。
「沢山飲んでね!」
何の裏もない其の笑顔に、ツタノジはますます混乱した。斯の人間は毎回、自分を置いて去る選択肢が在ったのに、何故其れを選ばないのだろう。斯の人間は、自分が斯の人間にしてやった以上の物を、自分に呉れているというのに。
同じだけの物を自分は返せないのに、如何してこの人間は、自分の傍に居るのだろう――。
其の答えを知りたくて、知らずにツタノジはゆっくりと身を起こしていた。而して、湯を飲み干した。
「しばらく、居るから」
其丈言って、由未生はツタノジに杖を渡した。
其れから痕は、ツタノジにとって上手く説明出来ないことばかりだった。
由未生は、毎日ツタノジの爪を整えて呉れた。食事用の野菜も木の実も、四人分採って来た。暇ができると、油混の絵の具で洞窟内に絵を描いた。入口には青紫。外を向いて、本物の青紫やその他の敵が驚いて入って来られ無くなる様にという、魔除けの意味を込めている。
トブチの望みで食べ物が描かれ、次々(つぎつぎ)に無地の壁が亡くなっていくと、サカナイが落ち着きを無くし始めた。
「どうしたサカナイ」
「うむ……その……な」
暫く老魔物は足の指だけを上げ下げしていたが、
「お、お主たち、詩に興味はないかな!?」
と、意を決して声を上げた。
「詩?」
ツタノジとトブチが首を傾げて、由未生は一人理解した。
「若しかしてサカナイ、詩も壁に書いてほしいのね?」
「詩?」
もう一度ツタノジとトブチが繰り返した。
「う……うむ……」
消え入りそうな声のサカナイに、由未生は新しい筆を渡した。
「好きな色で書いてよ。サカナイが何んな詩を好きなのか、興味あるな!」
本心から微笑んでいる由未生の言葉に安心し、サカナイも表情を和らげた。
「実はわしは昔、人間の落とした本を読んでから、詩の世界が好きに成って仕舞ってな! 密かに自作の詩を詠んで、楽しんで居たのじゃよ!」
筆を撮ったサカナイは上機嫌で饒舌で、猛烈な勢いを見せた。
「むずかしそうな字ばかりだ。でも、そんなに詩が好きなら言えばよかったのに」
「キくのに」
自分の後ろ姿を見守って居るツタノジとトブチに、サカナイは目だけ振り返って答えた。
「お主ら、そのとき寝たではないか」
「あれが詩なのか」
「ジュモンかとオモった」
「……」
サカナイは反論する言をやめて、詩を書くことに集中した。
一人由未生だけが、笑いを嚙み殺していた。
三体と一人の、和やかな、楽しい、夢の様な時間はあっという間に過ぎて居った。
ツタノジの爪は、全てに爪絵が描かれていた。サカナイとトブチの絵以外は、皆炎や風などで、其の力を取り込める様にという「お守り絵」だ。
ツタノジも、今更聞けなかった。何故、由未生が旅を中断して自分たちと暮らして居るのか。何か目的が有るのか。其れとも――。
其れを聞いた時、由未生が去って仕舞いそうで、ツタノジは恐かった。望、由未生は、ツタノジたち三体に笑顔の時間を増やして呉れる、無くては無らない存在だった。
「ずっとみんなで、これが続くといいな……」
ツタノジが一人、幸せと其れの壊れる恐怖と戦って煎ると、由未生が洞窟に戻って来た。
「ねえ、私、さっき人間を見かけたわ」
「人間?」
半分警戒心を持ってツタノジが顔を上げたので、由未生は気圧された。
「人間とは何度か戦った。おれたちを殺そうとしたからだ」
兵士たちだろうか、と由未生は緊張した。だとしたら、此迄ツタノジが由未生に優しくして呉れたのは、人間全部が魔族に敵対心を持っている理では無いと、意識してもしていなくても、わかって呉れて炒るからということになる。
本当に、魔族は人間と分かり合える可能性が有るのだ――と思い乍ら、由未生は急いで説明した。
「大丈夫よ、人間は三人で、一人は男、一人は女、一人は子供。きっと家族なのね。兵士じゃ亡いわ」
「家族?」
ツタノジの直視を浴びて、由未生は思わず顔を伏せた。何故だかは、自分でも判らなかった。
「兎に角、顔は見て擱く。やつらの武器もだ」
由未生を左手に載せて、道案内を頼むと、ツタノジは水汲みから戻って来たサカナイとトブチと連れ立って、三人を見に行く言にした。無害そうに思えても、誰が如何敵に成るか判らないからだ。
暫く歩いて、三体と一人は、三人の人間を遠目に眺められる場所に着いた。
藍色の髪の少年が一人、赤い髪の少女が一人、竪琴を背負った七才くらいの子供が一人。
「女の二刀流に、赤い髪……もしや!?」
サカナイが声を上げるのと、藍色の髪の少年が、木の幹の一部が剝がれているのを見つけたのとは、同時だった。
「あの木……トブチを呼びに行ったとき、私が油混で線をつけた……!」
青褪める由未生を、ツタノジが落ち着かせた。
「大丈夫だ。木の皮を剝いで、線はもう残っていない」
しかし、藍色の髪の少年は皮の剝がれた木を順々(じゅんじゅん)に辿って、三体と一人の洞窟の方へ向かっている。
「な……なんで!?」
「木の皮を剝ぐ動物がいると思わせてしまったようだ。今日の食事の獲物にしようというのだろう」
サカナイが近づいて来る少年から目を離さないまま、早口で説明した。
「イエがミつかったらタイヘン! トブチ、やっつける!」
「待て! もっと重要なことがある!!」
飛び出そうとするトブチの脚を、サカナイが間一髪で摑まえた。
「あの下にいる赤い髪の女、あれは、おそらく人間の“最終兵姫”、赤ノ宮紫苑だ!」
「あれが?」
「最終兵器?」
ツタノジと由未生に答えず、サカナイは、見る見るうちに距離を詰めて来る藍色の髪の少年を注視し乍ら、皆に決断を迫った。
「我々(われわれ)は決めねばならん。あの少年に洞窟を見つけられ安全な住所を失うか、赤ノ宮紫苑と戦うか」
「燃ゆる遙が負けたのだぞ!」
「此の山を熟知為ている我々(われわれ)に、地の利は有る。トブチもいる。此の山から追い出すくらいなら出来る」
「不死身の骸でさえ……!」
「しかし我々(われわれ)の姿を見れば、向こうは必ず戦いを仕掛けてくる。何しろ人間側の最終兵姫だからな。魔族を滅ぼすのに、理由など射るまい。其れなら先に奇襲すべきだ。此方が有利なうちに」
千里国のすぐ隣の国の者で在っても、「最終兵姫」の認識は誤っていた。其れは骸が徹底的に外部への情報を統制したからであり、自分以外の魔族が魔族軍を率いて最終兵姫ら人族軍と戦えない様に為る為で在った。
然うとは知らないサカナイたちは、先制攻撃の決断を論じ合っていたのだ。
「ねえ、さっきから最終兵器って、なんのこと? あの人たち、人間じゃないの。私が話してきてあげる。少年に、家に来ないでとか、女の子の方に、山の出口まで案内してあげる、とか」
訳も分からず由未生が、洞窟に辿り着きそうな少年を指差した。
「それはいかん! 今晩泊めてくれと言われたらどうする! それに、赤ノ宮紫苑は人間も平気で斬るぞ!」
「えっ!?」
由未生は動揺して、サカナイと赤い髪の少女と、交互に視線を送った。
「燃ゆる遙が魔族を殺すように、最終兵姫も簡単に人間を殺すのだ! 人間の社会が混乱するから、これまで同じ町の人間にしか、知らされていなかったのだ!」
「殺人鬼だから最終兵器、それを……」
あんな綺麗な少女が、と由未生は言い知れぬ言葉を呑み込んだ。
「どのみち逃げ場はない。洞窟に辿り着いたら、絵で魔族が暮らしていることがばれる。サカナイの書いた詩は……魔族語だ」
「……!!」
由未生は絶句し、サカナイは後悔に下唇を嚙んだ。
「てっきり古語だと……わた……」
「奇襲しよう」
由未生の言葉の続きを遮って、ツタノジが二体に告げた。
由未生は、其れきり何も言え無かった。
出雲は、足駆山全体に軽く係っている粉っぽい霧が、どうも好きに狎れ亡かった。
どこか、生物の残滓に思えたからだ。
紫苑と霄瀾は特に気に成らないというから、感覚に敏感な式神だからこその違和感なのだろうか。
一晩野宿して、翌日正午頃、出雲は山の中心に来て粉が濃くなって沃ることに気づいた。
ふと、より濃度の高い方を見上げると、木の皮が意図的に剝かれている木が、点々(てんてん)と一つの道を作っていた。
「この山の魔族の頭か? 動物か? 孰れにせよ、確認為て措いた方がいいな」
出雲が呟くと、紫苑が声を掛けた。
「毒じゃ亡いならいいじゃない。藪をつついて蛇を出すって言うし、やめときなさいよ」
「いや、オレは如何しても知りたい。二人は其所で待ってて呉れ。魔族でも動物でも、観察するだけに為るから」
出雲は斯うして、木の皮の剝かれた道を、辿って行くのであった。
其の時、粉の塊が目の端をよぎるのを、出雲の鼻が感知した。
振り返った出雲が目に為たのは、巨体の魔物が象の様に下って行く姿と、大きな蛾の魔物が大量の鱗粉を撒き散らし、辺り一帯を埋め尽くす様だった。
下から紫苑と霄瀾の咳き込む声が聞こえた。
「しまった! ずっと狙ってやがったな!」
式神化していなくても人並以上の感覚と耐久力を持つ出雲には、鱗粉攻撃は効かない。出雲は、夢中で山を駆け下りた。
巨体の魔物の腕が霄瀾に迫った時、霄瀾は咳き込み乍らも竪琴を弾いた。
とたんに紫苑と霄瀾の幻が複数現れ、魔物は幻の一つに手を空振りした。
霄瀾の竪琴、神器・水鏡の調べの聖曲の一つ、「幻魔の調べ」である。見せたい幻を複数作り出すのだ。
其の時、他の幻が水流にかき消された。
「ツタノジ! 攻撃を続けろ! 今しかないぞ!!」
鱗粉の在る今しか、紫苑たちが其れの溜まる低い道に居る地の利のある今しか、子供を人質に取れない。
サカナイは、自分たちで最終兵姫に勝つのはまず無理だと考えた。だから、子供を捕まえて、山の出口へ全速力で逃げ出す事に為たのだ。最終兵姫も、少年も、直ぐに追って来るだろうから、少年は洞窟の存在に気づかないし、子供を出口で置き去りに為れば、三人で亦戻って来る事も無いだろう。
此れが、三体の取れる唯一の手段だった。
「サカナイ! どれだ! どれが本物だ!!」
然し、予想外の技でその目算が外れ、ツタノジは焦りで混乱為ていた。
その手を、一払いの刀で斬りつけられるまで。
「ツタノジ!!」
トブチの鱗粉がツタノジのてのひらに振り撒かれた。すると、周囲の視界が晴れていった。
紫苑と霄瀾も咳が修まった。
「あ! ごめん、リンプンが……!」
「よい。こちらも状況を把握せねばならん」
サカナイがトブチたちに合流した。
藍色の髪の少年が刀を構えて射るのが見えた。
「トブチの鱗粉が効かない人間がいるのは誤算だった。これからは三体で硬まるぞ。トブチは回復にまわれ。奇襲が成功しなかった以上、覚悟を決めろ! もはや、殺すか、殺されるかだ! 我々(われわれ)の平和を、守るのだ!!」
三体は三人に突進して煎った。
「なんなの!? こいつら!!」
残りの鱗粉を手で振り払い、紫苑が霄瀾の前に立った。
「炎式出雲、律呂降臨!!」
二人の元に駆け付けた出雲の封印を、解除する。
「出雲の神剣・青龍か、霄瀾の神器・水鏡の調べを狙ってるのねきっと! 魔族も情報が早いわ!」
紫苑の推測に、出雲は、狙われたのが最終兵姫かも知れないという言は、言えなかった。
其れを言ってしまったら、本当に紫苑が「世界の敵」に成ってしまいそうで、恐かった。
其の時、二体が突進してくる地響きが為た。
「出雲は大きい奴、私が残り! 霄瀾は私の援護!」
「「わかった!」」
紫苑の声に二人が応じた其所へ、水流が向かって来た。
「炎・月命陣!」
扇を振り翳した紫苑の炎の術が相殺し、水蒸気を発生させた。
見ると、魚の鰓を耳に付けた老いた魔物が、術の体勢を執っていた。
「ん……?」
その傍に蛾の魔物はいない。何処かで奇襲しようと、隠れた様だ。霄瀾が狙われて射るのだろうか、と紫苑は考え、子供に注意するように、とささやいた。
出雲は、厚く、明るい薄茶色の皮膚に覆われているツタノジと、凶器を振り合った。
体重に委せて伸し掛かられたら、幾ら出雲でも敵に隙を与えてしまうので、極力其れを避けていた。
然し、何度か刀と爪を合わせて魔物のクセが判ると、出雲は難なく素早い一撃で魔物を斬り払った。
「まずは一体」
出雲が残りの二体に向かおうと為ると、
「ツタノジ!! だめ!!」
蛾の魔物が現れて、斬り伏せられた魔物に鱗粉を振り掛けた。すると、
「うう……」
ツタノジがむっくりと、起き上がった。
「! 此奴、回復術の使える魔物か!」
出雲は真っ先に蛾の魔物、トブチに跳んだ。回復役から殺すのは、戦闘の鉄則である。
「トブチじゃない! おれと戦え!」
その間にツタノジが割って入った。
出雲が何度斬り付けても、その度にツタノジの傷をトブチが塞いだ。其れは、紫苑の術に火傷を負うサカナイも同じだった。
三体は一団と成って、離れない。二体が回復役のトブチを守り、トブチが二体を守る、鉄壁の戦術だった。
半永久的に戦う事に、出雲は焦り始めた。式神化は、永久には続かない。一度成ったら敵を全滅させるまで止まらない剣姫とは違い、紫苑の術力が尽きれば、式神状態は終了して了うのだ。
紫苑は、魚の魔物と何度も術をぶつけ合っている。
全ては、出雲が象の魔物を倒す迄式神化が解け無い様、力を抑えて温存為る為だ。
併し、其れも彼の回復役の蛾の魔物を如何にか為なければ、勝ち目は無い。
「クッ! 今まで……」
如何に剣姫に頼ってきたか、戦いの心の支えだったかが、出雲には在り在りと判った。
彼女に触れた者は、大抵忌み嫌う。だけど、一度でも彼女を知ったら、頼ら無いではいられ無くなる――。
「まさか魔族も協力し合って攻撃為てくるとは、思わなかったわね」
出雲の葛藤も知らずに、紫苑が驚きの声を漏らした。
「魔族は自分本位で、他の同族を操ることは在っても、力を合わせる事は無いと思って熬たのに……」
「オレが綾千代と旅してた頃、魔族軍は人間の軍みたいに統率されてたけど、軍としてのまとまりしか無かったと思う。然ういう時代だったから、魔族の本質のこと、よく知る事が出来なかったのかもな」
「孰れにせよ、一体一体は弱いのに、集まると弱点を補い合って強くなるというのは、厄介だわ。人間がそうだけど」
最後の一言に冷水を浴び掛けた気分に成った出雲だが、ふと霄瀾に目を向けた。この子を、この先も、唯守られるだけの子供にしてはいけない。自分と紫苑が象と魚に封じられている今、蛾を叩けるのはこの子しか居ない。
而して、ある考えが閃いた。
再度襲ってきたツタノジとサカナイに、出雲と紫苑は、今度は本気で応じた。
出雲はツタノジの爪を躱すと、脇腹に深い傷を与えた。瞬く間に地に血溜まりが広がっていく。
紫苑はサカナイの水の術に全力の炎の術を返した。サカナイは重度の火傷を負い、倒れた。
「ツタノジ!! サカナイ!!」
トブチが鱗粉を振り撒こうと為た時、霄瀾が竪琴を奏でた。
「!?」
突然トブチの目に、沢山のツタノジとサカナイが映った。どれも同じ格好で、地面に横たわっている。
「どれ!? どれがホンモノ!?」
トブチが混乱しながら飛び回っている。
「よし……掛かった!」
出雲が刀を握り直した。霄瀾の「幻魔の調べ」を、トブチに掛けたのである。
出雲は、滅茶苦茶に鱗粉を撒いている蛾の魔物へ跳んで、斬り下ろした。
三体の死骸を前に、出雲は刀を仕舞った。
「思ったより手間取ったな……」
「旅を続けましょう」
何の感想も無く紫苑が二人を促すと、
「待ちなさい!!」
人間の女性の声が、戦慄いて三人に追い縋った。
「……?」
振り返った紫苑の赤色の瞳と目が合った時、小刀を両手で握った其の女性は一瞬、怯えたように見えた。
「如何為たんだ? この三体に捕まってたのか?」
一歩、歩み寄った出雲に、女性は、
「みんなの敵!! 殺してやる!!」
と、駆け出した。
「――ッ!」
しかし、出雲の刀が由未生の喉元に突き付けられ、刺さる寸前で全身が硬直して止まった。
「お前は人間だろう? 魔族が仲間? 如何いうことだ」
由未生は、猛何んな言葉も手遅れなのを知っていた。何を言っても、ツタノジたちは戻って来ない。由未生は、きっ、と紫苑に怒りの悔し涙を向けた。
「殺しなさいよ! 人間の命なんて、なんとも思って無いんでしょ! この三人が居ないなら、私だって生きる意味なんか無い!!」
其れを聞いて、出雲は刀を下ろした。
霄瀾にも、如何やらこの女性がこの三体と友達だったらしいことが判った。
紫苑が口を開いた。
「なぜ襲ってきたの? それとも、なぜ止められ無かったの?」
由未生は目を剝いて、而して恨みを込めた。
「殺してやる!!」
出雲は刀を了った。
「その魔物の爪の絵……、あんたが描いたのか」
「そうよ! 殺人鬼! 斯の人は自分たちを守るために……!」
「どんなに仲が良かろうと、どんな理由があろうと、他者の命を奪おうと為る者は、自分の命を賭け無ければ成らないのよ」
由未生の非難を、紫苑は退けた。
「金を盗もうと為る者が自分の金も盗まれる覚悟を為無ければ成らないように、命を奪おうと為る者は命を奪われる覚悟を為無ければ成らないわ。善行でも悪行でも、自分の為たことは同じだけ返ってくると覚悟為無ければ成らないの。其処にどんな事情も入ることはできない。殺す者は、殺されても文句を言えないの」
黙って殺意を三人に向け続ける由未生に、出雲が代わりに言葉を発した。
「何故今オレが殺意をオレたちに向けるお前を斬らないか分かるか。お前は未だ守りたいものを守る為の戦いを始めて居ないからだ。オレは守りたいものの為に強く成ろうと為る者を殺しはしない。強く成って、オレを殺せるくらい努力した時、オレに向かって来るがいい。其の時こそ技量では亡く信念の対等の相手として、返り討ちに為てやろう。だが今のお前は何も始めて居ない。何かを守りたいなら、其れを守れるように知識を求めて、自分なりに考えて、強く成らなければ成らない。だから今のお前はオレが殺す価値は無い。此れから自分と戦い始めるかやめるか、お前が決めろ」
由未生の返答を聞く前に、出雲は霄瀾の手を引いて背を向けて、二度と振り返らず歩いていった。
一人残った紫苑は、自分の為ようとしていた事の膨大さに呆然と為ている由未生に、言葉を投げた。
「あなたが私たちを殺そうとするのは自由よ。敵を討っても討たなくても誰も何も言わない。言う権利はない。でも――」
紫苑から、穏やかな欠片が消えた。
「もしあなたがあの二人を殺したら、次は私が相手に成るわ。而して、生きて帰さない」
紫苑の去って行く様が、冷たい水晶が歩き去って行く様に思われた。
たった一人取り残された由未生は、放心状態の任呟いた。
「私にとってはそれが……この人だったのに……ッ!!」
そして堰を切ったように噎び泣くと、三体の死骸に覆い被さった。
何故か、自分の此迄の深く考えずに行った全ての選択に、全身で支え切れないほど後悔した。
それを遠くから覗っている影が在った。
「成る程、剣姫の通す筋は大体分かりました」
影がくっくっとさざめいた。衣擦れして僧服の端が光を浴びる。
「しかしこれでは、何も知らない人間は誰も剣姫に味方為ないでしょう……。神器を探す此方には好都合ですね」
影は闇に溶け込んでいった。




