メザメとジケン
彼女は夕焼けが嫌いだった、と思い出した。あの燃えるような空に呑み込まれそうになるのが嫌だと言っていた。
まぶたの裏に刻み込まれた、気絶する直前に見た赤焼けの空も彼女は嫌がるだろうか。ならば早く夢から覚めて、青空で目を洗わなきゃ。
「やあ、気分はどうだい」
気絶した私は、どうやら病院に運ばれたらしかった。夢にしてはリアリティがありすぎる。
頭を横に力なく振りながら、上半身だけ起きあがると、私の体調を確認する為に医者が近づいて来た。
質問に対して答えなければ、でも何故か一概に良い気分だと返せなくて、もごもごと口を動かし逡巡していると、医者は「困ったなあ」と苦笑した。
「声帯は異常ないから、脳機能かな? んー待ってね」
銀髪の医者が、ぼそぼそと呟きながらピコピコとタイプライターを操作し始めた。そのタイプライターには古びた蓄音機が接続されており、そこからは駆動音が忙しなく繰り返されていた。
ボーっとその光景を眺めていると、銀髪の医者がタイプライターで最後の文字を打ち終え、その直後に蓄音機から細長い用紙が姿を表した。
医者はそれを読むと、更に首を傾げた。フクロウみたいだ。
「軽く脳震とうを起こしたようだけど、それ以外はやっぱり問題ないなあ。まさか言葉が通じない? 困ったなあ~」
妙に間延びした喋り方だ。それに、よくよく見ると、後ろに軽く流した銀髪だと思っていた部分は、鳥の羽根を束ねたような形で、いわゆる『羽毛』だった。
しかも、さっきまでゴーグルをかけていたので分からなかったが、彼の瞳孔は蛇さながらに縦長だった。
その瞳が、こちらをギラリと捉える。背筋に悪寒が走って、私は嫌な汗が首筋に垂れていくのを感じた。
「あの……」
でも、どんな相手でも意志の疎通はするべきだ。
「ここはどこですか?」
医者はハハっと軽く笑って、明るい表情に切り替わった。存外人懐こそうな雰囲気だ。
「何だあ。喋れるじゃないか、肝が冷えたよ。ここは軍の医務室さ。そして僕がここの主、軍医のヴィクトル。皆からはドクと呼ばれてるよ。君は?」
「花園冬乃です」
「ハナゾノ、フユノ? こう言っては何だが、まるで呪文みたいな名前だねえ」
どうやらここは日本とは違うらしい。日本語は通じるのにおかしいな、と疑問に思う。そういえばヴィクトルと名乗った彼も、ヨーロッパ系、という以外さっぱり予想できない。
おもむろに差し出された紅茶をすすりながら、私はとりあえずヴィクトルさんの説明を傾聴することにした。
「君は……ハナゾノ君は、ここに来て6時間ほど眠っていたよ。街中で昏倒した君を連れてきたのは『フローズ准将』__彼女の管理地区で襲われたのは不幸中の幸いかな。彼女は生粋のバカ、いや生真面目でね、ぶっ倒れた君を横抱きにして運んできたんだよ」
「横抱き……」
一応70キロ以上はあるのに。
ヴィクトルさんが一段落ついたのを見計らったように、医務室のドアが盛大にノックされた。
「噂をすれば。フローズ准将だ」
恐ろしげに身をかがめて耳をふさいだヴィクトルさんにつられて、私も両手で耳を押さえる。
___そのコンマ数秒後に、頑丈そうなコンクリートの扉が紙のごとく斜め前に吹っ飛んだ。
開いた口がふさがらない。扉のクッションになった哀れな机は、ビリヤードボールのような華麗なコンボで、私の向かいにいたヴィクトルに直撃した。
まばたきを数回繰り返して、招かれざる客の相貌を拝む。
___長い黒髪、褐色の肌、白い軍服。そして特徴的な赤いマント。白い軍帽を被っているから更に分かりやすいが、そのきりりとした姿勢といい、引き絞った唇といい、全てがフィクションで描かれている軍人のイメージぴったりだった。
「ドク、ノックには二度で応じたまえ。何かあったかと思ったじゃないか。……まあそれはともかく、先程私が運んだ御方の様子はどうだ」
彼女、フローズ准将は、何の悪びれもせず、つかつかと靴音を鳴らして、ヴィクトルさんが埋まっている瓦礫の小山に歩み寄った。
そしてつま先で扉だったものをいとも容易く蹴り上げ、机を片手で持ち上げると、それを丁寧に近くの床に置き、倒れ込んでいるヴィクトルさんの額にデコピンをした。
「いたっ!! 痛い! 准将殿、私は今週はまだ規律違反はしておりません、勘弁してください!」
「貴様は淑女の耳にたこをつけたいのかね! 規律違反は一度で違反は違反! 貴様が優秀でなかったらとっくに私の餌食だぞ! それで! 私の用件を聴いていたかね! ヴィクトル・ネロ衛生伍長!」
「准将閣下! それはもうもちろん、閣下の目の前におります方がその御方でございますともええ!」
「そうか! 下がってよ……えっ」
ギギギ、と不自然なくらいゆっくり、それはもうとてつもなく時間をかけて、フローズ准将は私にようやく気づいたようだった。
私は失礼をお詫びしなければ、と彼女に視線を合わせた。
すると彼女は素早く後ずさりをして、やっとの思いで立ち上がったヴィクトルさんの後ろに隠れた。
「えっ、えっ! フローズ准将さん、……閣下? その、お礼を……」
「モモモモウシワケナイ、ササササキホドハ、ワワワワタシノセセセイデッ」
「いえ! その、こちらが逆に失礼なことをしたっていうか」
「ソソソンナ、まさかこんな紳士的な男性も昏倒させてしまうなんて私の形相はソンナニヒドイノカト………」
「まあ戦闘中の閣下のお顔はお察しですし」
「黙れ眼前不注医、秘技目潰し」
「アガア!」
カラスの鳴き声のような悲鳴を上げて、ヴィクトルさんは床に倒れ込んだ。
フローズ准将はそれを冷たく一瞥して、コホンと咳払いをすると、私に向き直った。
「……うむ……取り乱してしまい申し訳ない。改めて、私はフローズ准将だ。もう紹介されたかと思うが、あそこで沈んでいるのはヴィクトル・ネロ衛生伍長。怠け者だが便利な男だ。君は?」
「ハナゾノフユノ、です」
「珍しい名前だ。さて、ハナゾノ君、君はどうしてあんな危険な場所に『植物除け』もしないで立っていたんだね? 『警報竜』もあんなに飛び交っていたのに」
最初に空で見たあの大きなからくり仕掛けの竜だろうか。あれがアラーム代わりなんて、荒唐無稽にも程度がある。
どうせ夢なのだから、取り繕うもやめにしよう、と勇気を出して、私は本当のことを喋った。
「実は気づいたらあそこに立っていて、何も分からないんです。この世界のこと、何もかも」
准将の前を流れる空気が冷たくなるのが分かった。
一体どんな返答をされるかビクビクして待っていると、准将はおもむろに私のエプロンの裾を掴んだ。
花を扱っている最中だったから、私は店先そのままの格好になってしまっていて、夢の中とはいえ恥ずかしくなってきた。
「……臭いがする。あいつらの匂いだ。甘ったるくて鼻につく」
「え?」
「君はこのエプロンをどこで手に入れた? 悪性植物の悪臭がへばりついているぞ。これでは植物どもが寄ってくるのも無理ない」
普通に店で買いました、などと口走ろうものなら、問答無用で叩き割られそうな眼光に気圧され、私は少し躊躇して、「何も覚えていません」と言い訳した。
私の言動に准将は眉根を寄せて、冷たい空気を払拭するように髪を梳いた。
「ならば仕方がない。この医者に…衛生伍長!「はい! 伍長元気です!」ならよし! ハナゾノフユノ、あなたの身柄はしばらくこのルルハリル・フローズ准将の名の下に、ヴィクトル・ネロ衛生伍長の管理下に置くものとする。これよりあなたにはネロ衛生伍長監督のもと、記憶テストそして身元確認をおこなってもらう。よろしいかね?」
矢継ぎ早に宣告され、とりつく島も無かった。ヴィクトルさんの面倒臭そうな返事が遠くで聞こえる。
「は、はい」
「ご協力感謝する。それでは私はこれで失礼する。ドク!! 早速始めたまえ!」
准将がバンバンと両手を叩いて促すと、ヴィクトルさんはその音に顔を歪めながら、ひしゃげた机の引き出しを漁った。
何が何だか分からないが、従うしかないだろう。ここは諦めて、准将の言う通りにしよう。それに、この准将は何だかんだで面倒見が良い人のようで、危機感は募らない……そう考えてしまうのはお人好しだろうか。
ドアの無くなった出入り口を跨ぐ准将の背に、お礼の言葉を投げかける。
「フローズ准将、ありがとうございます」
「……記憶が戻って、もし君が我が国の敵ならば、その時はその首を伐採する。そんな悠長な台詞をほざく前に、よく考えておくことだ___私とて、君を斬りたくはない」
最初の気迫に背筋が凍った。けれど、最後に控えめに付け足された言葉が優しかった。
けれど、准将が眼光を鋭くした瞬間に、彼女の顔の右半分が不自然に隆起したのを目にしてしまった。見間違いかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、一度逸らした瞳を再び出入り口に向ける。もう准将は消えていた。
背後で、ヴィクトルさんの盛大なため息が空気中に霧散する。
「ハア……ごめんね、強引な上司で。それじゃちゃっちゃと終わらせて、君が早めに解放されるよう頑張ろう!」
「ヴィクトルさんは、私が怪しいとは思わないんですか? そんなに軽く……」
「まあ、悪性植物使いだったら、僕みたいな弱い奴はあっさりやられちゃうし……もし君が敵でも僕は見逃すさ。死にたくないし」
さて、始めようか。
その合図を皮切りに、タイプライターから細長い用紙がレシートのように流れてくる。ヴィクトルさんはそれを持って、私の向かいにどかんと腰を下ろした。
彼の手の中で、ボールペンに似た、常にインクをかき混ぜるスプーンのような装置が付随されている羽根ペンが、微かな歯車の音を立てて使われるのを待っている。
「ハナゾノフユノ、君の年齢は?」
「55歳です」
「ハアア!!? 僕より25歳も上じゃないか! 君、それで良いのかい? 准将からしたら、35歳も上だぞ? 苛つかないのかい!?」
「いえ、別に……」
「紳士というか無頓着というか……それで? 職業は?」
言葉に詰まる。准将の言っていた『悪性植物』という単語が脳内でループ再生されていた。花屋、なんて口に出せる状況じゃない。
「……思い出せません」
「……なるほど。住んでいた場所は?」
「……」
「気にしないで、好きな物は?」
「……分かりません」
「そうかい___」
一度嘘を吐いてしまうと、つじつま合わせの為に小さな嘘を積み重ねなければならないことは、これまでの人生経験上よくわかっている。
罪悪感にチリリと胸を焦がしつつ、私は『ある質問』まで、必死に自分を演じた。
「___じゃあ、配偶者は?」
「___!!」
分かりません。これまでの質問みたいに、そう返せば良い。そうすれば、きっと次の質問に進めるし、早く解放されるはずだ___でも、これだけは偽れない。
目線を下ろして、震えないよう頷く。
「いました。10年前の話ですが……」
「お亡くなりに?」
「……………ええ」
ヴィクトルさんの表情が曇る。
私はその憐れみがべったりと体に貼りつくようで、それを振り払おうと背伸びをした。
私の45歳の誕生日に、妻は突然天国に旅立ってしまった。思えば彼女は、こんな荒唐無稽な出来事が大好きだった。機械仕掛けの古いおもちゃを、いつまでも子供っぽく収集していたのを思い出す。
「それじゃあ、その奥さんの名前を聞いても構わないかい?」
静寂を切り裂いたヴィクトルさんの願いを、私は快諾した。そして彼女の名前をヴィクトルさんに教えようと、喉を働かせた。
「_____です」
「すまない、もう一度頼むよ」
「? ええ、____、と」
ヴィクトルさんが、訝しげにこちらを観察してくる。何か不都合でもあったのだろうか、否、私は妻の名前を『言えなかった』。何度か試しても、その名前を口にする時だけ、私の周りの音がなくなった。
ブワ、と汗がふき出る。
段々、名前の形に口を開くのも難しくなり、数秒後には完全に彼女の名前の記憶が頭から抜け落ちていた。
あまりの衝撃に、茫然とするしか無かった。何だ、夢にしてはヒドすぎるじゃないか。こんな、彼女の名前を呼べないなんて。
私と同じように茫然自失になりかけていたヴィクトルさんは、力を振り絞って細い用紙に何かを刻むと、幾分か青ざめた顔で笑った。
「何だい、今のは」
「……わかりません、いきなり、彼女の名前を呼ぶときだけ音が無くなって、試しているうちに、その形に口も開かなくなって、今では記憶から……」
「新手の薬品か兵器か……水飲むかい?」
「……いただきます」
肩で息をする私を気遣ってくれたのか、ヴィクトルさんはわざわざ席を立って、コップに水を注いできてくれた。
「はい」
「ありがとうございま……?」
受け取ったコップの飲み口が、みるみる緑色に変色し、苔に変化した。その苔が中の水に滴り落ち、水中で固まって一個の種に変化した。
「コップを離せ!!」
ヴィクトルさんの怒号にハッとして、コップを床に落とす。すると、割れるはずのガラスが鈍い音を立てただ床に転がった。
間髪を入れずに、ヴィクトルさんは准将が蹴飛ばしていった机をドアを両手で担ぐと、そのコップの上に叩きつけた。
だが、ドアが床に辿り着く前に、毒々しい紫色のツタが、ドアに巻きつき、まるで飴細工のようにそれをぐにゃぐにゃにひねり上げた。
「な、何なんですかアレ!」
「『悪性植物』! これも忘れたのかい?! 最強最悪の人間の捕食者だよ! 気をつけろ、普通の武器じゃ傷一つつけられないぞ!」
ヴィクトルさんに続いて、急いで医務室を出た。直後に廊下中で警報が鳴り響いた。
『悪性植物出現、殲滅隊はルルハリル・フローズ准将閣下を殲滅隊長とし、ただちに悪性植物の伐採および非戦闘員の避難の補助に急行してください。……また、今回の悪性植物は軍の貯水池より侵入した模様、衛生部将校4名以上による検査が終了するまで、決して水道に近寄らないでください。繰り返します__』
「ヴィクトルさん、これ……」
「走り続けろ! もう少しで廊下を抜ける! 君が悪性植物に寄生されたら僕が准将に叱られる!」
背後で、ビシビシとツタが天井を這っている。私はわき目も振らずにヴィクトルさんを追いかけた。捕まったら、さっきのドアと同じ有り様になってしまうのだ。全力で逃げる以外の選択肢は無い。
「オイ、何してる! 逃げろ!」
前方では、違う部屋から出て来た青年を、ヴィクトルさんが叱咤しながら逃がしていた。青年は慌てふためいていたが、ツタを捉えると覚悟したように足を懸命に動かしていた。
だが、ツタの一本が青年の足首を捕らえた。トゲが突き刺さったのか、青年は悲痛に叫んだ。ヴィクトルさんは、「諦めろ!」とたじろぐ私に呼びかけてきた。
「そいつは逃げるのに失敗した! ならその愚かさを利用して逃げるが勝ちだ!」
青年はツタで床に引きずられながらも、護身用ナイフを自分の足首を縛るそれに突き立てて足掻いていた___歳はいくつくらいだろうか。18歳くらいに見える。こんな若者を見捨てるなんて、そんなの___。
「…………嫌です!」
私は出口とは逆の方向に走り出し、青年の体を掴んで引っ張った。重さが増したことに耐えきれず、細いツタが一斉にこちらに攻撃を仕掛けてくる。
「これで、夢から覚められる……」
諦観の中で、青年を庇う為ツタに背を向ける。早くノアに戻らないと、そして花の整理をしないと、彼女に怒られてしまう___、
「…………………え?」
いつまでも来ない衝撃と覚醒に、薄く意識を浮上させる。
頭上では、ツタの大群が私の頭上で身動きもせず停止していた。