フユノのタビダチ
人の不幸というのは、幸せと違って限りが無いということを知ったのはいつのことだろう。
私は、至って平凡に、与えられた人生のレールを渡り続けてきた。脱線や運行休止は皆無に等しかった。人よりはのろまだったが、いつだって一所懸命に歩を進めたつもりだ。
____しかし、運命というのは残酷なものだ。
45歳の誕生日、私は愛する妻を失った。
彼女はただひとり私を愛してくれた女性だった。明るい日だまりのような彼女を失って、私のレールは暗い洞穴へと一直線に降下していった。
それでも、私は今、彼女が残した「ノア」を守らなければならない。
ノア。彼女が残した花屋の名前だ。小さな店だが、雰囲気は良く、何より花を愛でる彼女の横顔が印象的だった。彼女と結婚してから、私はサラリーマンを辞職して、店を手伝うことにした。ささやかな収入と、緩やかな日々が今でもよみがえってくる。
____目を開けると、ぼやける程の近さに机の茶色が見えた。何回か瞬きをすると、花の在庫確認中に眠り込んでしまったのだと思い出した。と同時に、夢の終わりを自覚した。
慌てて起き上がり、花の陳列スペースへ視線を移す。客は来ていないようだ。ホッと安堵のため息を吐き、もう一度机に向かう。
「(あれ……こんなのあったかな)」
机の上には、見覚えのない花が鎮座していた。首を傾げて、入荷リストを確認しても、どうにも見当がつかない。
何だろうと近寄って観察すると、その花はとても美しいものだということが分かった。
白の花弁に紫や青の細かな斑点が打たれ、全体的に淡い色合いの、バラともユリともつかない花弁の形が特徴的だ。流線型の綺麗な葉に、私はつい目を奪われた。
誘われるように鉢植えへ手を伸ばすと、土に一枚の紙が埋まっているのに気づいた。
「……ノアへ。君の力と優しさを信じて。愛をこめて。文明を生かすか、世界を生かすか、箱舟の木は君へ……?」
引っ張り出した紙には、そんな文言が書かれていた。
いや、そんなことより、私は目の前の花に心を奪われていた。とても綺麗だ。指先で触れるのもはばかられる。でも構うものか。妻を失ってはじめて、こんなに色彩豊かな物を見た気がした。私は静かに花に手を伸ばし、そして、触れた。
その瞬間、花弁がぶわりと反り、一気に散ってしまった。散ってしまったと落胆すると同時に、花が散るのと合わせて響く鈴の音色に、私はすっかり聴き入ってしまった。
目をつむって音色に身を任せていると、途端に体の力が抜けた。ぐわんと揺れた頭に驚いて、思わず辺りを見回した。
「えっ……?」
鈴の音色が止むと、周囲は強烈な喧騒に包まれた。金属音と、ガヤガヤと騒ぐ人の声だ。それに、花屋も机も花も、跡形もなく消えていた。
私の足下には、床ではなく色褪せたコンクリートが広がり、建物はすべて歯車や金具の浮き出た奇妙な造形に変化していた。道行く人は皆ガスマスクやゴーグルを身に付けていた。
軽くめまいがして、私は空を見上げた。
____赤い。夕焼けだ。煙が立ちのぼっている。そして空には、からくり仕掛けの竜のような物体が浮かんでいた。本気で気絶しそうだ。
「いや、いやいや。夢だよ。さすがにこれは……ノイローゼかな」
ゴシゴシ目をこする。そうだ、こんなの現実じゃない。私には仕事があるんだ。こんな夢を見ている場合じゃない。
深呼吸をして、もう一度空を見上げる。
今度は緑色だ。慣れ親しんだ植物の匂いもする。ああ、こうやって夢は現実に戻っていくのだな、と棒立ちになって考える。
どうやら、ツタがすごい勢いでこちらに向かって来ているらしかった。遠くからでも立派だなあと感心していると、そのツタの端っこが掠っただけの建物が、見事に横倒しになった。
「ええ、えっ!? ちょっと__!」
もしかしなくても、夢の中でもこんな恐怖は味わいたくない。一説には、夢の中であっても脳が死んだと判断すれば、現実でも同様に死んでしまうそうじゃないか。それは絶対にダメだ。
私は『ノア』を守らなければいけないんだ__!
「ちぇりゃああああああ!!!」
__足を動かそうとしたその時、鋭い雄叫びと共に、視界の緑がばっさりと両断された。
恐る恐る前を向くと、そこには長い黒髪の、褐色の肌の女性が立っていた。白い制服に身を包んだ姿は、背中の赤いマントとあいまって騎士のようだった。
「君、平気か。災難だな、『植物除け』を切らして丁度襲われるとは。だが安心したまえ、伐採は完了した」
拡声器並みによく通る、舞台がかった女性の声がこだまする。背を向けたままの女性に、お礼を言わなければならないと思い、私は女性に呼びかけた。夢とはいえ、命の恩人なのだ。礼をしなきゃ大人としてマズい。
「ありがとうございます、本当に死ぬかと思いました」
できるだけ笑顔でそう告げると、女性は嬉しそうにこちらに振り向き、笑いかけてきた。
「それは良かった! いやあ全く、私もビルから飛び降りたので筋肉痛が酷い! もしよければ薬局まで同行しようか……ってオオオオ!!!? 平気か君!」
振り向いた女性の顔は、左半分が真っ白な骸骨で、そこから黒煙が上がり、黒いコールタールのような液体がぼとぼとと垂れていた。
___私は今度こそ、意識を完全に失った。