美しい天使(六)
また夢をみた。
身体が言うことをきかなくて、狂ったように咳をし続ける夢。体を折り曲げて、咳をする度に揺れる背中をライラックが辛そうな顔でずっとさすってくれている。
結局、オリビエは気絶するまで咳をし続けた。
十二歳の誕生日のことだった。
薄く目を開けると、霞んだ視界にぼんやりとライラックが見えた。辛そうな表情でオリビエの顔を覗き込んでいる。
その顔が何だか、泣きそうになっているように見えて。
「ライ…っごほっ、こん、けほっげほっげほっげほっ…ゲホゲホゲホッげほっごっヒュウッ……ん、げっほげほげほげほっ、うぅっ」
『オリビエ!』
ライラックの声は厚い壁の向こうから聞こえてくるようで、不明瞭で上手く聞き取れない。
「はぁ…はぁ…はぁ…ラ…イラ…ク」
『な…だ、オ…ビ…』
「よく…聞こえ…ない」
『え…耳あ…よ…聞こえな…のか?』
苦しい。
肺に穴が開いて空気が漏れているんじゃないかと思うくらい、苦しい。
吐いても空気が吸い込めない。
「ライ…ラ…くるっ、し…息…吸えな…」
涙がこぼれる。
はあ、はあ、と自分の呼吸音がいつもより大きく聞こえて、一層息苦しさが増すようだった。
***
頬を真っ赤にしたオリビエの寝顔は息が苦しそうで、眉間にしわを寄せて時折呻き声を漏らしていた。
ライラックは昼食を摂りに行ったリエの代わりにオリビエに付き添っていた。
「議会か…」
さっきシャルロットに聞かされた話は、以前の自分であれば正直かなりどうでもいいことだった。捕まったところで人間に負けるライラックではない。監視している人間を殺して逃げれば良い。彼を止められる者など、この世に存在しないのだから。
(でもそれじゃあオリビエとは一緒にいられないだろう)
オリビエには迷惑をかけたくない。優しくて体の弱い彼は、心労で身体を壊してしまうだろう。それだけは避けたい。
素直に捕まらねばならないのだろうか。
せっかく、居場所を見つけたのに。
傍に居たいと思うひとが出来たのに。
世界は彼に、何を望んでいるのか。
何でもいいから静かにしていて欲しいのではないのだろうか。
(孤独でいろと、そういうことか?)
もしくは。
(…消えろってか)
『お前の居場所なんかどこにもねぇよ』
『何でいるの!?』
『頼む。来ないでくれんか。皆が怯える』
『しょうがないさ。君は厄介なものでしかないんだから。潔く自分で出て行きなよ』
分かったろ?お前は誰にも求められない邪魔な存在なんだよ。
そう言われた気がした。
自分でもそう思っていた。
オリビエに出会うまでは。
オリビエは、今まで誰もライラックに向けたことのない優しい目で見てくれた。臆することなく話しかけてきた。表情が乏しい彼の表情を読み取れるただ一人の人間だ。
離れたくないと思った。
でもどうすれば良いのか分からない。
ふいにオリビエの目が開き、潤んだ瞳がライラックを見つめた。
灰色の瞳が憂いを帯びる。
「ライ…」
声にならない掠れた声でライラックの名を呼ぼうとした途端、
「っごほっ、こん、けほっげほっげほっげほっ…ゲホゲホゲホッげほっごっヒュウッ……ん、げっほげほげほげほ、うぅっ」
獣が吠えるような咳が止まらなくなり、咳をする度、オリビエはぐっと顔を歪めた。
ライラックの胸が早鐘を打つ。
「オリビエ!」
「はぁ…はぁ…はぁ…ライ…ラ…ク」
「何だ、オリビエ」
「よく…聞こえ…ない」
「え…耳がよく聞こえないのか?」
怯えがヒヤリと背中にはしる。
ただ意識が朦朧としているだけならいいが、高熱で脳がやられているとかなりまずい。最悪植物人間になってしまう。
(いや、それ以前の問題か)
オリビエの弱い体ではここまでの負担は命に関わる。このままでは死んでしまう。そう長くは持たないだろう。
「ライ…ラ」
オリビエがすがるような目をする。
「…くるっ、し…息…吸えな…」
「っ!」
オリビエの目尻からつぅー…と涙がこぼれ落ちた。
「ねぇ」
ドアが開き、赤髪の女が入ってくる。
「オリビエ、大丈夫?すごい咳の音が下まで聞こえたんだけど。」
ライラックから、顔を歪めたオリビエに視線を移すと赤髪の女はサッと顔色を変えた。
「リエを呼んでくる」
バタバタと慌てた足音が遠ざかってしばらくすると、やはり同じように顔色を変えたオリビエの乳母を連れてきた。
乳母は軽くオリビエの容態を確認し、
「肺炎かも知れない。早く医者に診せないと命に関わるわ。」
頭の中でこれからの動きの算段でもつけているのか、カッと目を見開いてオリビエを凝視している。
「あの、どうされたのですか。」
シャルロットのメイド、リアが心配顔で扉の近くに立っている。
リアの問いにリエが答えた。
「若様の容態が芳しくありません。このままでは命が危ういのです。」
「ま、まあ!それは大変!魔動二輪をお貸ししましょうか?」
「それじゃあ間に合わない」
赤髪の女の訝しげな視線を無視し、ライラックは今思いついたことを言ってみた。
「僕が都まで連れて行く。飛んだ方が早い。」
「はあっ!?ちょっと何言ってるか分かってんの?」
「ライラック、それは難しいと思う。まだこんなに明るいのよ。都は結界が張ってあるし、護衛の兵士に攻撃されて危険だわ。」
赤髪の女が怒鳴り、乳母は不可能だと首を振った。
「そんなこと気にしてられるほど時間がない。大丈夫、オリビエは絶対に守る。約束する。それに…」
「それに…何?」
「結界は僕には通用しない。人間を倒すなんて、僕にとってはハエを潰すより簡単だ。」
赤髪の女と乳母はしばしの沈黙の後、
「だったら、私も連れて行って。飛んでる間オリビエの面倒をみる人が必要でしょ?それにあんただけに任せたんじゃ心配だもの。」
「そう、ね。わたしはシャルロット様のお相手をしなきゃいけないから離れられないの。ヒメ、若様を頼んだわよ。ライラックも。何かあったら手紙を頂戴。良いわね?」
「ええ。分かったわ。」
「分かった」
赤髪の女とライラックが頷いたのを確認し、乳母はリアを伴って支度のため部屋を出て行った。
***
魔法で腹に袋を持つ魔鳥に姿を変えたライラックに乗り込んだヒメルダへ、リエが食べ物とお金を手渡した。
「どうか気を付けて。ライラック、無茶しては駄目よ。目立ったり、無駄に波風たてるようなことは絶対に慎んで頂戴。若様が大事なら周りの人にも気を配って。」
ライラックは瞬きで頷いた。
「じゃあね、リエ。オリビエはわたしがきっと守るわ。だから安心して。」
「お待ちくださいませ。」
声のした方へ全員の目が向く。
そこにはシャルロットがおり、
「わたくしも連れて行ってくださいまし。」
いつもの無表情のままそう言った。
「わたくしはこれでも都では名の通った商家の娘。いた方がなにかと便利ですわ。なんなら主治医のところへ案内してもいいでしょう。彼は口が堅いですからそう心配なさることもございません。」
「ですが、お嬢様!この方たちと一緒にいるのをどう説明なさるおつもりですか!旦那様はお味方になってくださるかわかりません。」
「リア、わたくしはこの方たちを都までお連れするのが任務、そうでしょう?なんらおかしなことは無いはずよ。」
「まぁ、それもそうね。」
ヒメルダがそう言い、リエが頷いたのを見届けてシャルロットはヒメルダの隣に腰を下ろした。
「お嬢様、どうかお気をつけて。」
「ええ。リアも。」
ライラックが大きな翼を広げ、脚を踏ん張り、力強く蹴って羽ばたいた。
風を切る音と共に上昇していき、大きな翼を広げ目的地へ向けて滑るように進み始めた。
眼下を、緑豊かな町が流れ去る。空を見上げて口を開ける人、指を差す子ども、慌てて家へ入る人、色々な人の視線を浴びてライラックはまっすぐに飛んで行く。
見えてくるであろう街に向け、ライラックは大きく羽ばたき加速した。