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復活の狼煙を上げよ

「俺には小説家しかないんだよ。でも、もう、どうしたらいいのか……」

 頭を抱える俺に、南戸は言った。

「先生、僕は編集です。先生がダメなときは、僕が全力でサポートする。それが僕の仕事です」

 南戸の話を聞きながら、いつの間にか目の前に置かれていた熱燗を一杯、一気に飲み干した。

「一人でダメなら、僕と一緒に作りましょう。真北星一の復活作を。きっとうまくいきます。今までで一番の作品にしましょう」

 彼も大分酒に酔っているようだ。いや、酒だけでなく、自分にも酔っているみたいに見える。それでも、彼がここまで言ってくれることが、素直に嬉しかった。

 書きたいという思いが、初めは輪郭のぼやけた曖昧なものだったその思いが、次第にしっかりとした形となって、頭の中に充満し始めた。

 また一作書き上げる自信なんてない。それでも……。

「……ああ、書こう。だが……」

 何かいい策でもあるのか?

 と訊こうとしたが、彼はそれを遮るように「書こう」と言う言葉だけを鋭く聞きつけて、満面の笑みを浮かべた。お猪口を持った俺の手を奪うように両手で掴んで、大袈裟な握手をした。

「本当ですか!? 良かった、本当に良かった」

 安心したのか、南戸は良かった良かったとうわ言のようにぼそぼそと呟きながら、身体をカウンターに預けるように、突っ伏していった。

「おい、大丈夫か?」

 身体を揺すったが、彼は起きようとしない。その後に、呑気な鼾が聞こえてきた。

「すみません。彼は俺が処理します」

 困ったように腕を組んだ店主に、苦笑いを浮かべてそう言った。


「……あれ、先生。……ここは?」

 目が覚めた南戸は、辺りを見回して困惑しているようだ。

「起きたか? あの後、お前屋台で寝ちまったから、家まで送ってくつもりだったんだが、よくよく考えたら、お前の家どこにあるか知らなかったし、仕方なくうちに泊めたんだよ」

「本当ですか? それは、すみません。うーっ、頭が……。つい飲み過ぎてしまったみたいです」

 南戸は頭を押さえて、顔をしかめた。

「その様子じゃあ、全力で俺のサポートをするなんて言ってたことも覚えてなさそうだな」

「いや、ぼんやりとは覚えてますよ。そう言えばそうでしたね。

 そうだ、そのことなんですがね、真北先生。もしよろしければ、今日からこちらに居候させていただくことは出来ませんか?」

 突然の申し出に面食らった。

「こりゃまた唐突だな。どうして?」

「サポートは是非やりたいところなのですが、昼間は他の仕事があってここには来られないので、そうなるとこの方がいいと思うんです」

「成程、確かにな。だけど、どうしてそこまでするんだ? それは最早、一編集のすることじゃないだろ?」

 すると、南戸は照れたように頭をかいた。

「多分、惚れちゃったんですよね、先生の小説に。こう見えても僕、昔は作家を目指してたんですよ。だから、先生の才能が羨ましくて……。それだけに、もう書かないなんてもったいないと思うし、書く気があるのなら、それを全力で支えたいと思うんです」

 そういえば南戸とはここ数年の付き合いだが、彼の過去を聞いたことはなかった。

「作家を目指してたって、本当か?」

「ええ、ですが、僕にはどうにも才能がなくて……。諦めきれなかったけれど、大学も卒業が間近に迫っていて、就職活動せざるを得なくなりました。しかしその頃は丁度、就職氷河期と言われる時代で、そこそこいい大学にいたんですが、いくら受けても内定は貰えず……。ようやく引っかかったのが、今の出版社でした。

 それでも最初は、仕事の合間に書いていました。未練たらたらですよね」

 南戸は自嘲気味に笑った。

「だけど編集者として、第一線で活躍する作家先生の作品や、その努力、苦しみを見るうちに、僕には無理だと思うようになりました。ようやく踏ん切りがついて、この仕事にも満足感を見いだすことが出来てきたんです。今思うと、それまで僕は、作家になるということにばかり囚われすぎていて、広い視野を持てていなかったんですね」

 場の空気がしんみりしていることに気付いて、彼は笑った。

「長々と話しましたけど、要は、切り替えが大事って事を学んだわけです」

「広い視野に、切り替えか……」

 頭の中で、久々に何かが閃いたような気がした。

「そうだ、それだよ」

 俺は弾かれたように立ち上がった。部屋を忙しく右往左往する。南戸はわけがわからず、キョトンとした顔をしている。

「何がですか?」

「俺は今まで、自分の作風に囚われてたんだ。恐らく無意識のうちに、そういうアイディアに選別していたんだと思う。大体が人の醜さとか、愚かさとかが根底にあるような小説だっただろ? だから、全く別の雰囲気の小説を書けばいいんだと思う」

 話を聞いていた南戸は、前のめりになっていた。

「それで、書けるんですか?」

 俺にはまだ、進む方向だけが漠然と見えてきただけだった。書ける自信はなかったし、具体的にどんな話にするかも決まっていない。

「いや、わからない。まだ、構想も浮かんでこないし……」

 南戸の顔に落胆の色がかかる。

「まあでも、まず一歩進んだことですし。行けますよ。きっと……。あっ、もうこんな時間だ。すみません、僕はもう行かないと」

 彼は今日も仕事があったらしく、時計を見ると大慌てで支度をして家を出ていった。


 南戸がいなくなって、一人で考えていると、なんだか徐々に頭が冴えてきたような気がする。そこら中霧で視界が塞がれた空間からもやが薄れていき、雲一つない真っ青な空が澄み渡り、清々しいほどに障害物の無いような開放的な場所へと変わっていったのだ。

 そのクリアな思考の中で、これまでの出来事を反芻していると、遂に待ち望んでいたアイディアが頭を掠めた。俺はそれを見逃さずに捕まえ、熟成し始めた。

 そこに細かな設定や演出、新たな展開を加えて、アイディアは次第に膨らみだす。

 部屋の中でうろうろと動き回りながら、俺はようやく誕生を迎えんとしている小説の卵を、必死で温めて孵らせようとしているのだ。

 

 ――ピキッ。


 卵に亀裂が入る。


 ――ピシッ、ピシッ。


 亀裂が広がっていく。

 後もう少しだ。

 俺はパソコンを立ち上げると、その前に座った。小説を書くために、こうしてここへ座ることが、もう何十年も前のことのように思えた。そうして、待望の瞬間はようやく訪れた。


 ――ビシッ。


 一際大きな音を立てて、卵は完全に割れた。

 キーボードの上で、俺の指が軽やかに踊る。すらすらと、つかえることなく言葉が出てくる。

 我を忘れて、パソコンに小説を打ち込んだ。見る間に空白は埋まっていき、また新たなページに進む。そしてそのページも、すぐに明朝体の文字で埋め尽くされる。

 

 どれだけの時間、そうしていただろうか。

 すべてを書き終えた瞬間、俺は押さえがたい達成感と高揚感、そして遅れてやってきた疲労感に襲われ、椅子から転げ落ちるように床に倒れ込み、大の字になった。

 すると、そのタイミングを見計らったかのように、南戸が部屋の中に入ってきた。

「先生、どうですか? 原稿の進み具合は?」

「終わった」

「え?」

「書き終わったよ、新作」

 俺はパソコンを指差した。南戸は急いで椅子に座ると、出来たばかりの新作小説を読み始めた。

「いつの間に帰ってきたんだ?」

 急に思い出してそう訊くと、南戸は画面から目を逸らすことなく答えた。

「大分前――八時くらいには帰ってきてました。ただ、先生が憑かれたように猛然と書いていたので、邪魔しない方がいいかと思いまして」

「ちょっと待ってくれ。八時が大分前って、今何時だ?」

 すると、南戸は腕時計を一瞥して、

「もうすぐ日が替わる頃ですよ」

 とだけ言うと、再び小説を読み始めた。

 十時間以上、休みなしで書いていたのか……。

 それがわかると、俄かに疲労感は睡魔を連れてきて、俺の瞼を鉄のように重くした。

 観念して眼を閉じると、意識はすぐに遠ざかっていった。


「先生、読ませていただきました。感動しました。ダークな作風の先生から、こんなヒューマンドラマが出てくるとは、思ってませんでした」

 南戸に揺り起こされ、寝ぼけ眼を擦り、欠伸をしながら身体を伸ばす。

「それで?」

「文句なしですよ。これから出版社に行って、書籍化の打ち合わせに行ってきますよ」

「そうか……。でもなんだか悪いな。せっかく居候までするって意気込みだったのに、一人で勝手に答え出して、その日のうちに一気に書き上げちまったからな……」

「いえ、そんなことはありませんよ。こちらとしては大助かりです。早いに越したことはありませんし」

 新作の小説『復活の狼煙』は、幼少期から突出した才能を持って活躍してきた画家が、年を経ることで自信の才能の限界を知り、全てに絶望する。しかし、プライドを投げ捨てて路上で似顔絵描きとして働く内に出逢った人々との関わり合いによって、新たな画風を生み出し、再び一線に戻ってくるというストーリーだ。

「本当に、よくできてますよ。なんて言うか、ありふれた設定ではあるんですが、リアリティがあって、この話の中に出てくる人がみんな、生きているんですよ、この世界の中で。そして意表を突いたラスト。ただのヒューマンドラマで終わらせないという、先生らしいところも残ってます」

 耳では熱心に語る南戸の話を聞いていたが、頭の中ではもう次回作のアイディアを膨らましていた。何故だかわからないが、急に流星群のようにアイディアが次々と降ってくるのだ。

「とにかく、これでようやく終わりですね。

 ありがとうございました。もういいですよ」

 突然、南戸の声色が変わった。「ありがとうございました」から、俺ではない誰かに話しかけているようだった。するとインターフォンも鳴らさず、玄関の扉が開く音がして、ぞろぞろと部屋に見知らぬ人間たちが入ってきた。

 その騒ぎのせいで急に現実に引き戻されたが、騒ぎの様子も現実のものとは思えず、俺は困惑した。

「これは……どういうことだ?」

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