堕ちた小説家
あとは足で椅子を蹴り倒すだけだ。それですべてが終わるのだ。ロープを掴む手が小刻みに震える。汗が滲んだ。心臓が激しく脈打ち、それに合わせて呼吸が乱れた。
早く蹴り倒せ。
怖い。
蹴れ。
嫌だ。
やれ。やっちまえ。
無理だ。
土壇場で踏ん切りがつかずに、暫くそんなやりとりを続けていたが、不意に自分の姿が酷く滑稽に思えて、首を輪っかから外し、早々にロープを片付けた。
死ねない。俺には、そんな勇気はない。実に情けないものだ。意気地なしだ。
あまりの情けなさに、俺は思わず笑い出した。今まで心の奥に押しとどめようとしていた感情が、それを機に一斉に溢れ出した。止めようと思っても、笑いが止まらない。声を上げてげらげらと笑い転げた。涙が流れ出た。全身から力が抜けていく。
ひとしきり大笑いし終えると、何だかすっきりしたような気持ちになって、身体が少し軽くなったような気がする。笑いすぎて喉を痛めた。
結局この日は、これ以上何をするでもなく、夜更けまでただ寝そべって、ぼけっと考えていた。
そして結論に至った。
小説のことは忘れて、第二の人生を始めよう。
翌日から、俺は新たに仕事を探し始めることにした。これまでの稼ぎはあったが、年金制度が完全に崩壊した今、これから先の全ての費用をそれで賄うには、明らかに足りないのだ。
とは言え、俺は今までアルバイトさえもしたことがなかった。学生時代は処女作の件で忙しく、そんな暇などなかったし、その作品以降も小説を書いて生計を立てることができたから、当然働く必要などなかった。
そんな、まともな就業経験もないような四〇近い中年の男を、一体誰が雇うだろうか。かなりの時間を職探しに費やし、ようやく見つけた仕事はとことん面接で落とされた。自分より年上の人間を、下っ端としてこき使うのはやはり気が引けるのだろう。その上どうにか採用されても、慣れない仕事ばかりのせいか、ミスばかりが目立ち、結局は一週間も経たないうちにこっちから辞めるか、向こうから辞めるようお願いされるかのどちらかという結果に終わっていた。
コンビニのバイトでは、もたついてすぐにレジを詰まらせたり、お釣りを間違えたりで、二〇歳近く年下の上司に頭を下げるばかり。引越や倉庫でのバイトではすぐにへばって使い物にならず、見かねた古参のおばさんに仕事を取られてしまう始末。それまで、時給千円にも満たないようなアルバイトなど、底辺のやることだと見下していた俺だったが、その仕事さえもまともに出来ないのだ。
時給の高い家庭教師の仕事も請け負ったことがあったが、教え方が高圧的だの、無愛想だのと文句を言われ、すぐにクビ。
屈辱だった。
しかし、それだけ俺が使えない人間だと言うことがわかると、自分でも呆れるしかなかった。
俺は社会不適合者なのだ。
またしてもバイト先でクビを宣告されたその日の帰り道、俺は夜空を見上げながら、そう考えていた。
暫くは転々と職場を変えながらも、どうにか働くことだけは続けていた。しかし、それも短い間のことだった。
俺は一体何をしてるんだろう。
仕事をしていると、ふとしたことで頭に浮かんでくる言葉。どの仕事をしていても、どうにもしっくりこなかった。歳の離れた同僚とは馴染めない。まるで職場に見えない壁があるみたいに、仕事が拒絶しているみたいに、俺の居場所がそこにはないのだ。
結局俺は働くことを止め、現実から逃れるために、酒と賭け事と女に入り浸った。皮肉なことに、それは俺が学生時代から思い描いていた、こうはなりたくない大人の象徴だった。
幸い、ある程度の金はあるのだから、暫くはその面で苦労することは無いだろう。むしろ賭けに勝って、一晩でこれまでバイトで稼いだ以上の大金を手にすることもあった。
ただ、一旦この道に進んでしまったら、もう戻ることは不可能だった。
賭け事に熱中し、そのあとは酒を飲んで楽しむ。さらには女を侍らせて、金に物を言わせてやりたい放題やる。お陰で今までの嫌なことを全て忘れることができた。こうしている間は、まるで世界が自分を中心にして回っているかのように思えた。俺の思い通りに事が進むのだと、大きな顔をしていられた。
何度か南戸から電話がかかってきたが、徹底して無視を決め込んだ。彼は現実からの使者だ。南戸という文字を見るだけで、まざまざと記憶が蘇った。
またあんな惨めで苦しい生活をしたくはなかった。
そんなある日、俺がいつものように行きつけのバーで酒を飲んでいると、一人の男が店に入ってきて、俺の姿を見つけると、近づいてきて隣の席に腰を下ろした。
「もしかして、真北か? いや、こりゃあ驚いたな」
酒で火照った俺の顔を覗き込むようにして、男は愉快そうに笑った。その男の顔には見覚えがあった。
東田圭一。
俺と同じ大学に通い、同じサークルに所属していた男だ。彼もまた、俺と同じように小説を書いていた。彼の方が、俺なんかよりよっぽど熱心に書いていたように思う。
しかし、彼には才能がなかった。
新しい小説を書いては、賞やコンテストに応募するも、全く功績を収めることは出来ず、持ち込みに行った出版社には門前払い。
俺はそのとき既に、処女作が某大手出版社主催の新人賞に選ばれ、一躍時の人となっていた。
彼はそんな俺に対抗心を抱き、事あるごとに突っかかってきた。俺の小説のダメ出しをしたり、自分ならもっとおもしろい話を書けると豪語したり、次は俺が賞に選ばれる番だと大口を叩いていたが、結局そのまま何事もなく大学時代が終わり、それからずっと疎遠になっていたのだ。
「最近見ないけど、どうよ執筆の方は?」
俺のことを知ってか知らずか、今一番訊かれたくない質問をしてきた。
「いやあ、まあ、ぼちぼちね。ところで、そっちは今何してるの?」
曖昧に答えて、早々に話題を俺から逸らす。すると東田は、嬉しそうに鼻を膨らませた。
「俺か? えへへ、実を言うとな、俺はな、やっとこの間、新人賞に選ばれたんだよ!」
俺には衝撃的だった。正直言って、学生時代は全くパッとしない作品ばかりを書いていて、才能がないなら諦めればいいのにと見下しさえしていた東田が、賞を取るような作家になっていたなんて。
「それで今日はその前祝いにと思ってな」
素直に喜ぶことが出来なかった。無駄に大きな自尊心を傷つけられ、悔しさが滲み出てきた。小説から逃げ、底辺の生活をしている自分が、情けなく恥ずべき存在に思えた。
「ああ、そりゃ、良かったな。おめでとう」
動揺している自分を落ち着かそうと、酒を飲む。
「それで? 先生の方は、次回作はまだなのか?」
「え?」
「いやな、俺ってばすっかり、お前の小説のファンになっちゃってさ。次の話が楽しみで仕方ないんだよ。どんな話を書いてんだ?」
すっかりひねくれた俺には、東田の言葉は皮肉にしか聞こえなかった。だが、俺を見る東田の眼は、まるで少年のそれのように眩しいほどに輝いて見えた。
「それは言えねえよ。出てからのお楽しみって奴だ」
「ちぇっ。ケチだな」
東田はカウンターに出されたカクテルを飲んだ。
「俺、そろそろ帰るわ」
この場にいたくなかった。俺は逃げるように代金を払って、バーの扉を開けた。
「楽しみにしてんぞ!」
東田の声が聞こえたが、何も言わずに店を出て行った。
結構な量の酒を飲んだはずだったが、すっかり酔いは醒めてしまっていた。
別の店で飲み直すか……。
新しい飲み屋を開拓する思いで、はしご酒をしたが、気分は晴れなかった。
この店で最後にしよう。
駅の近くのガード下で見つけた、今どき珍しいおでん屋の屋台の暖簾をくぐり、席に着いた。
「いらっしゃい、何にする?」
絵に描いたような、スキンヘッドに白い鉢巻を巻いた頑固そうな店主が訊いてきた。隣の男の皿の上を見ると、美味そうな大根とがんもどきが置かれていた。しかし視線を上に映すと、俺は驚きのあまり、イスから転げ落ちんばかりにのけ反った。
大きな音を立てて、どうにか踏ん張る俺の姿を見て、ようやくその男も気付いたようだ。
「真北先生! 何してるんですか、こんなところで。というか、一体今までどこにいたんですか? 電話にも出てくれないし、困ってたんですよ!」
南戸だった。仕事の帰りか、スーツ姿のままでおでんの具を頬張っている。よく見ると目の下には隈があった。少しやつれた様にも見える。
無視して帰ろうかとも思ったが、これも何かの縁かもしれないと、座り直して店主に注文を取ってもらい、俺はこれまでのことを洗いざらい話した。
すると南戸は俄かに身体を震わせて、
「どうして今まで相談してくれなかったんですか? こんなに心配させて……。作家と編集の関係なんて、こんなに薄っぺらいものなんですか?」
屋台とは言え店の中であり、更には怒りの対象は『元』という冠が付くかもしれないが、一応はお抱えのベストセラー作家だ。彼はそれを弁えて静かに激昂している。
「それに関しては済まないと思ってるよ。だけど、君に言ったって、どうなるわけでもないだろう? 俺はもうすっかり必要なくなって使い捨てられた、どれだけ擦っても微塵の温かみも感じられないカイロみたいなものさ。これ以上どうやったって、新しいアイディアも出てこないし、小説なんて書けないんだよ」
「本当に、もう書けないんですか?」
「ああ、お前だって、俺からはアイディアが生まれてこないこと、わかってるだろ?」
「……じゃあ、もう書きたいとも思わないんですか?」
「それは……」
心が揺らいだ。語尾は消え入るように薄れていき、言葉を失ってしまったように口をぱくぱくさせるだけだった。
バーでばったり出くわした東田のことが思い浮かんだ。あの時の心情が再びせり上がってくる。唇を噛み切らんばかりの悔しさ。自分自身の情けなさ。
そして、西生のことも脳裏に蘇ってきた。西生の死を知った後に抱いた感情と共に、波のように押し寄せてくる。そして生み出せない苦しさや、その後の辛い毎日。
俺は、書けない。でも……。
俺は、……書きたい。
「書きたいよ。書きたいに決まってるじゃないか」




