喧嘩も華の一つ(4)
「はい、それじゃあ! 折角の楽しいイベントが先送りになった腹いせに!」
「剣条先輩、オブラート、オブラート」
「そ~~れ~~で~~は~~み~~ゆ~~き~~ちゃ~~ん~~」
「ビブラート」
無用なまでの美声を発する裕也は、顔にべったりと、テンプレート的な笑みを貼り付けている――怒っているのだ。
それでも、己のキャラクター性を崩す事はしない辺り、徹底して陽気な人物ではあるのだった。
「……茶目っ気の有る先輩だね」
「……まあなぁ」
もはや日常風景となった流れ、裕也がふざけて、修が窘める。その光景を御幸が、道場のマットに正座しながら見ていた――ちなみに慶次はその横で相槌役になっている。
何をしているかと言うと、御幸から話を聞くという名目の詰問会である。尤も、主催も詰問役も裕也ただ一人で、慶次と修は巻き添えを食った形ではあるが。
「ではっ、御幸ちゃん! 彼とお知り合いの様ですが、彼は一体、何者!?」
「は、え、はいっ!?」
マイクを向けるようなパントマイムで、裕也が話を促すと、御幸は眼鏡のフレームを、親指と薬指を使って、くいと押し上げて姿勢を正した。
何処かで見た動作だ――慶次は首を傾げ、直ぐに思い当たる。
つい先程、玲がしていたのと同じ動作だ。微妙な手首の角度やら、指の配置やら、そっくりそのままの動作である。
印象があまり強かった為、御幸の手をじっと見ていると、それに気付いた御幸は、気恥ずかしげに手を膝に置いた。
「えっと、玲ちゃんは……私の従弟なんですけど……ちょっと行き過ぎなとこが有って……」
「確かに行き過ぎてたねー。ああいう跳ねっ返りは嫌いじゃないけど!」
「先輩、話をさせてやりましょう」
修が手で裕也を制し、顎をしゃくり上げて話の先を促す。
「……昔っからそうなんですけど、あの、過保護なんです。私が男の子と喧嘩すると、そこに飛び込んできて相手の子を蹴ったり、私が学校で嫌な事有ったなんて言うと、その原因の子を蹴りに行ったり、先生を蹴りに行ったり……止めてって何度も言ったんですけど……」
「愛が重いねぇ……ふんふん、それでそれで?」
「それで、さっき追い掛けて話を聞いたんです、なんであんな事を言うのって。そしたら……」
一度言葉を区切り、息を吐く。
御幸にしても、従弟の行動が理解出来ていない部分は多々あるのだろう。困惑がかなりはっきりと浮かぶ。
横に座る慶次は、でかい体をぐうと曲げて、その顔を覗き見ている。多弁にならずとも、興味は津々という事だ。
「そしたら?」
「……『格闘技は怪我するから危ない』って……言われました」
「はぁ……うん、まあなぁ」
スパーン、と心地良い音が響いた。裕也の平手が、慶次の頭を引っ叩いた音である。
「痛ってえ!?」
「そこ、同意しない! ……しかし、ふんふん、読めてきたようなそうでないような」
抗議の声もどこ吹く風、すこうしばかり笑みを薄めて、事情を把握する体勢になる裕也。御幸は、また続ける。
「玲ちゃん、私が総合格闘部に入るんだって勘違いしたみたいで……部が無かったら、そんな事も無いだろうって」
「また極端な……」
「そうなんですよ、もう……」
疲労した様子で俯く御幸であったが、ともあれ、元凶は玲の過保護であると知れた。
そうなれば、慶次も修も、後はやる事は決まっている。出迎えて叩き伏せると、ただそれだけだ。
相手は二日停学処分。その間に、対蹴りに絞った練習を重ねれば良い。
二人は、別に言葉は交わしていないのだが、これは慶次の方が向いていると感じていた。頭の位置が高く、かつ自分も蹴りを撃つのに慣れているからである。
だが――
「……ふふ、ふふ、ふっふっふっふっふ……ふっはははははははっ!」
「うぉっ……どうしたんすか、裕也さん」
裕也は一人、 別な事を考えていた。
不気味な笑いを上げながら、倉庫兼更衣室へ飛び込んで行き、直ぐに、封筒と一冊の本を持って戻ってくる。
「御幸ちゃーん、悪いんだけどさー、玲ちゃんにこれ渡してくれないかなー?」
「こ、これですか……? これは……?」
「正式な挑戦状――と、ルールブック」
ルールブック――言わずと知れた、高校総合格闘の公式ルールである。
これを見た瞬間、慶次と修は揃って、部長の悪巧みの一部を悟った。
「剣条先輩、そこまで行くとむしろ尊敬します」
「だろ? もーっと崇めてくれて構わないんだよー、修ー。……それから慶次」
「押忍」
挑戦は確かに向こうから受けたが、ルールの指定は無かった。それを先んじて押し付けようというのである。自分から喧嘩を売って来た以上、玲も、そのルールを突っぱねる事は中々難しいだろう。
その上で裕也は、慶次にも何か命令を飛ばそうというらしい。呼ばれ方のイントネーションから何かを感じ取って、慶次はすうと立ち上がる。
「明日の練習にさあ、〝先生〟をお招き出来ないか、ちょっと聞いて見てくれない?」
「えっ……!?」
慶次は硬直した。聞こえた言葉を信じられぬという顔で暫く棒立ちになった後、目の前の人間が、そういう事を好む性質だと思い出して、間違いではないと確信する。
「俺がさ、〝道場破りへの作法を習いたい〟って言ってたって伝えてくれれば――」
「い、嫌です! んな事したらどうせまた、俺が――」
「拒否権はユーにはナッシングよオーケイ?」
「ノットオーケイ!」
こてこてのジャパニーズイングリッシュに対し、同じような東北訛り気味のイングリッシュで返答した慶次は、練習中にも見ないような量の汗を掻いている。
こうまでの狼狽え方は、部活でも日常でも、どちらでも見たことが無いと、修は思い切り眉根に皺を寄せて、
「先生……誰だそりゃ? 慶次、何かあ――」
「裕也さんはそりゃいいかも知れねえけど、俺は! 俺がヤバいから!」
必死の形相で叫ぶ慶次をよそに、裕也は上機嫌が振り切った様子で、思い切り飛び跳ね回っていた。壁を駆け上がって宙返りなどする様は、軽業師にも見えて――余程、明日が楽しみなのだろう。
「さーあ、明日に備えて解散! 間違っても明日に向けて、一片の疲労も残さないように!」
「勘弁してくれえええぇ……――――」
慶次の叫びがデクレシェンドを奏でる中、この日の部活は終了した。
翌日である。
この日の顔色は三者三様で、全く平静の修に、絶好調が浮かぶ裕也。そして、少し青ざめた慶次という様子であった。
彼らはこの日、正面に向かっての礼を終えてから、かれこれ二十分程正座を続けている。
その理由は、本来裕也が立つ筈の正面に、どっかと胡座を掻く女性にあった。
彼女は、空手の道着を着ているのだが、腰から下は袴である。髪はかなり短く、前髪は整髪料か何かで後ろへ流して固め――染めてはいない。
身長は170cm有るか無いかで、裕也と殆ど変わらない程度。女性としては高めであるが、目を引くのは背の高さでは無く、寧ろ内面に留めているものであった。
凶暴な臭いを、あまり隠していない性質の人間である。視線の移動、呼吸の間隔、ただ座っているだけで、そこに獣が居ると分かるような類の人間である。
そういう人間が、高校総合格闘のルールブックを読んでいた。
「よーっし、覚えたっ! このルール良いわねぇ、安全。うちでもやろうかしら……はい、起立!」
そのルールブックを脇に置くと、袴の女性は素早く、だが音も無く立ち上がる。
「お、押忍っ!!」
慶次が、普段の三割増しの声量で応じて立ち上がる。他の二人の声を、ほぼ一人で掻き消す勢いである。
冷や汗の量、表情筋の強張り、やけにまっすぐ伸びた背中――いずれを見ても、緊張が明らかな慶次に、修は違和感ばかり抱いていた。
その一方、裕也は、これからの出来事が本当に楽しみというような――いつもの事やも知れないが――顔である。
「松風先生、良く来てくださいました!」
「うむ! 裕也くんは元気で大変よろしい! ……で、そっちの子が修くん? あらやだかーっこいー」
まるで裕也が二人に増えたかのような賑やかさに押されながらも、修は首を横に向け、慶次に訊ねる。
「慶次……あれ、お前の道場の先生だよな」
「師範代、だな……尚武館師範代」
「それがなんで、裕也先輩と」
「俺だってこの前まで知らなかったよ……」
正確に言うと、知らなかったのは裕也である。
数日前の事、修が委員会活動で少し遅れてくるという時に、慶次と裕也は、各々の流派について語っていた。
慶次は、自分の学ぶ尚武館流がどれ程に実践的か、強いものであるかを語ったのだが、
「俺はね、我流なんだ。道着はお下がりで、まともな道場に通った事は無い。背が伸びなくて良かったねー、本当に!」
そう言ってから、続けて語った。
「社会人の大会とか有るでしょー? あれを見に行って、強そうな人を追いかけてって、弟子にしてくださいーって頼むんだ! そーするとたまーに、本当に教えてくれる人が居て……」
無茶苦茶な、と呆れる慶次だが、裕也はそれが、然程の事でも無いと思っているようだった。
「色んな強い人がいたけどねー、一番凄い人は、まだたまに俺に教えてくれたりしてるよ! ……月謝払ってないから、道場じゃなく、その辺の体育館とかでだけど……その人はね」
松風 紗織――それが、裕也の師の一人にして、慶次の同門の大先輩であった。裕也は、師の流派の名を、聞こうとした事が無かったのだという。
「そりゃ裕也さん、強えに決まってんじゃん……あの人、俺が四歳で入門した時、もう十年選手だったんだぞ……」
「うん! 花も恥じらう女子高生空手小町とは私の事よ――訂正、私の事だったのよ。今は二十七歳で、尚武館は二十二年目になりまーす。
……私の頃に総合格闘あればなー、優勝してたのにー。空手だけだと準決勝止まりだったのよ、もー」
「ん……空手じゃ、ないんですか?」
言葉の中に何かひっかかる物を見つけて、修が問う。答えの代わりに鼻先まで帰ってきたのは、親指をぐっと立てた紗織の拳。
それは、異形と呼ぶべきものであった。
骨の凹凸というものが、その拳には無い。その代わりに、皮膚の全てが、例えるなら畳のように、分厚く、ざらざらと固まっているのである。
突き出た親指の爪も、常人の数倍も分厚く見える。手刀――掌の小指側、側面は、ぼこりと盛り上がって、踵のように化けている。
平常の競技者では無い――悟ってたじろぐ修に、紗織は言う。
「然ぁり! 尚武館流は総合武術! 打撃・投げ・極め・絞め・武器・裏技、なんでもござれなんだから!
……でね、話も聞いたわよ裕也くんから。なんだか強い子が居るって話じゃない」
これもまた、そういう事は大好物という口調、顔。そしてその顔が輝く程、慶次の顔色は悪くなるのである。
「それじゃあ……慶次! 早速だけど、ちょっと私を蹴ってくれる?」
理由は直ぐに知らされる事となった――不幸にも、慶次の身を用いて。
紗織は構えを作ったが、それは慶次が普段やるような、腰を落とした構え方である。
左手が前、右手は鳩尾。分厚い構えであった。
「じょ、上段……? 中段……?」
「中段。前蹴りが良いかなー」
さあ! と、紗織が呼ぶ。そこへ慶次は、全力の中段前蹴りを放った。
少し離れて見ていた修が思うに、己にさえ、練習では滅多に撃たないような威力である。当たれば、足が浮いて飛ぶような蹴りであった。
それを、紗織は受けなかった。
慶次の右爪先がマットから浮いた瞬間、紗織は、早回しの映像の様な速度で動いていた。
傍目に見て、そこだけ映像の速度が間違っていると感じてしまう瞬発力。慶次の右脚が伸びきった時には、その膝の下に、紗織の左肩が入り込んでいた。
次の瞬間には、慶次の左膝を紗織の右手が掴み、更に紗織の左手が、慶次の右脚の下を潜り、背中側の帯を掴んでいた。
「ぃいいやあぁっ!」
「うぉ――」
一喝、紗織が立つ。慶次は脚を持ち上げられ、腰を支点に後方へと回転した。
受け身は両腕で取るが、その回転の速度は尋常では無い。支点が腰、力を加えたのは膝と帯――支点に比較的近い位置。そうすると、必要な力は大きくなるが、回転速度は相当に大きくなるのだ。
ずどんと大きく音がして、慶次は強かに背を打った。受け身は成功したというのに、それでも衝撃は相当なものであった。
「尚武館流脚取り技、『抱雷』! 脚なんてデカい的よ、こうすればいいの……はい慶次、次、中段回し蹴り!」
「ったたたた……えっ? あっ……押忍!」
慌てて立ち上がり、右回し蹴りを撃つ慶次。
その足首に右手を当て、蹴り足の勢いのままに流しながら、紗織は左肘で、慶次の右膝裏を押した。
すると慶次の右脚は、踵が尻に近づくように畳まれて――片脚立ちを強制されている間に、紗織の左下段蹴りが、慶次の左膝を裏から刈り取っていた。
「脚取り技、『束鎌』! 次!」
「お、押忍……!」
再び背中を強かに打って、休む間も与えられず慶次は立ち上がる。
下段左回し蹴り――慶次の左膝を左足裏で受け、踏み台として跳躍する『跳鎌』
右足後ろ蹴り――向かってくる右足裏に左手を触れさせつつ反転、右膝を脇の下に抱え込んで腰を落とす『逆跳ね橋』
上段前蹴り――足首を腕で上へ押し上げながら、膝を肩の上に担ぎつつ反転、背負い投げのように放り捨てる『梯子割り』――尚、これだけは実際に投げる前に腕を解く、言わば寸止めである。
慶次は幾度も幾度も蹴りを打たされるのだが、その度に紗織は、あっさりとその蹴りを捌いては、慶次を床に転がして見せた。
「えー、この通り、蹴りが単体で向かってくる場合、恐れる事はありません。総合格闘ルールだったら、これ全部セーフの筈だから! ……よね?」
「はいっ! 間違いなく!」
ルールは覚えたと豪語する紗織の背を、裕也が押して裏打ちする。
実際、これらは反則にはならない技ばかりだ――実際に出来るのであれば。
向かってくる脚にタイミングを合わせ、自分は負傷せず、相手だけを思うように動かすなど、容易く出来る技では無いのだが――肝心なのは技術より、寧ろ運用思想である。
「今日はね、こんな風に、蹴りを捕まえる練習をしましょう! 慶次が修くんと、裕也くんは私と組んで、交代で蹴ったり捕まえたり。まず、掴む事だけ考えてやりなさい。捕まえたら後はなんでも出来るんだから」
当たり前の事ではあるが、蹴りを打つ時、人は片足立ちになる。つまり、姿勢が不安定になるのだ。
そこで蹴り足を捕まえてしまった場合、相手は殴る事も防ぐ事も、逃げる事さえもままならない。
かと言って、その距離ではこちらも、殴る蹴るは難しい――ので、投げ落とす。
この日、紗織が教えに来たのは、そういう一連の流れであった。
技術とは、思考を内包する。
知らない技は使えないが、知っている技なら、体力が許す限り使えるのである。
つまり紗織は、慶次を実験台として、その思考方法を叩き込もうとしているのだ。
「それじゃあ、質問は?」
「し、師範代、一分だけ休ませてくださ――」
「無いわね? はーい、始めー!」
頑強な慶次がぜえぜえ言うのを聞こえないように振舞って、紗織は練習開始の号令を掛けた。
どったん、ばったん、騒音が続いている。
普段の、足を踏み鳴らす落とす音よりも、よっぽど喧しいし、埃も酷く巻き上がる。人間が丸ごとマットにぶつかるからである。
修が、慶次へ蹴りを打つ。慶次がその脚を脇に抱え込んで、拳を修の顔面へ寸止めする。
慶次が、修へ蹴りを打つ。修がその脚を肩に担ぎ上げて、拳を慶次の腹部へ寸止めする。
普段がどうであれ、いざ練習を始めてみれば、中々に息の合った二人である。双方時折は手を止めて、あれがいい、これがいいと言い合っていた。
「んー……やっぱり〝取る〟のは修くんの方が上手いわね」
その光景を、道場の壁際まで寄って、裕也と紗織が眺めている。
「そりゃ、あいつは根っからのオールラウンダーですから! 慶次も強いんですけど、なんていうか、こう……」
「あの子は頑固だったからねぇ。私、慶次が空手以外の技を習ってるって聞いてビックリしたもん」
しみじみと、思い出すように、紗織は言った。
「そうなんですか?」
裕也はそれを聞いて、へえ、と確り音に出して驚いた。
確かに最初に見た時は、他の競技を下に見て、空手だけやろうという気性だった。
だが、それもあっさりと翻って、今は組み技も学ぶ日々。根は融通の利くものだと思っていた。
然し紗織の口振りを聞けば、どうもそうではないらしい。
「長いこと道場に通ってるからさ、投げ教えちゃろかーとか、武器術教えちゃろかーとか、色々言う訳よ。でもそのたんびに、いやだ、俺は空手一本で行くって意地張っちゃってさ。それがあの通りだもん、ビックリもするわよそりゃ」
「……修がいたからでしょうね」
裕也も、今にして思えば、慶次を深く知っている訳では無い。慶次と修が組手をしたその日、初めて龍堂慶次という人間を知ったのだ。
その前の慶次が、どれだけ凝り固まっていたかは知らない。
けれども、あの組手の最中――破顔していたのは間違い無く、あの慶次だ。
新しく体験したルール、戦った相手が楽しくて、別れ難くて、其処に止まった。何年も掛けて作った偏見を、投げ捨てられる程、その体験が強烈だったのだろう。
そんな体験を、誰もが出来る訳ではない。
出来上がった考え方が曲がらないまま、何十年も生きる人生だって有る。
「……青春っていいわねぇ」
紗織は、しみじみと言った。
「ところで先生、折角教えてくれてるのに悪いんですけど……」
「ん? なによぅ、人が黄昏てる時に」
そのしみじみとした顔の前に裕也が飛び出して、
「実はあと一人、指導して欲しい子がいるんですけどー」
俺は企んでいるぞと、誰にも分かる顔で笑った。