喧嘩も華の一つ(2)
「あっ、慶次くん」
「佐渡か……お前、さっきから何やってたんだ?」
流水に髪を晒し、指でがさがさと汗を洗い落としながら尋ねる。
髪は短く切ってあるので、一通り洗い流すまではあっと言う間だったが、分厚い上半身までは、休憩時間に手が回らないだろう。
腕も胸も、プロレスラーのようなとまでは言わないが、打撃系格闘家の引き締まった筋肉に覆われている、慶次の上半身。
高校生、それも一年生としては、正に規格外の体である。
「さっきから?」
「ずっと練習見てたろ……今も見てるし」
「いや、見てないよ!? ……あ、ううん、練習は見てたけど」
一度否定をしてから、言われた事の意味を悟って、慌てて御幸は言葉を訂正する。
「気付いてたんだ……」
「多分、裕也さんも、修もな。ちらちら窓から顔が見えてたら気になるだろ」
「あちゃー……ごめん」
軽く頭を下げるも、慶次はさして気にも止めていない様子で、髪を絞って道着の上を羽織った。
手馴れた様子で帯を締めると、その場で軽く何度か跳躍する。
リングに上がった格闘家がやるのと同じような挙動――踵の腱を慣らすのと、自分の動きのペースを体に刻む為だ。
休み方にも人それぞれの好みがあるが、慶次は完全に止まるのが性に合わないらしい。
「謝んなって。……それより、中で見てけばいいんじゃねえの?」
「えっ?」
「場所は余ってるしよ、見たいんだろ? 文句言う奴もいねえよ……そもそも三人しかいねえし」
「えっ、いやいやいや、あっ、ちょっと、あー……」
休憩時間はそろそろ終わる。慶次は、御幸の手を引いて連れていこうとした。
特に深い事は考えていないのだろうが、ある種強引な性格――自分が良いと思った事を、直ぐにやってしまう性質なのだ。
道場へ戻り、入り口の段を幾つか昇って、
「………………ん?」
時に話は変わるが、勘というのも、これで馬鹿に出来ない合理的なものだ。
速い話が総合的な経験則――視界の隅に写る何かやら、音やら臭いやら、そういうもの全て合わせて、言葉に出来ずとも何が起こるか推測できるのが、勘である。
試合では、勘はかなり重要になる。
相手の動きが完全に見えてから動こうとすると、とても人間の速度では間に合わない。だから、肩だとか足の小さな動きから、他の動きを推測して、事前に防御や回避を図るのが、格闘技の定石である。
それと同じに、周囲の何か奇妙を察知するのは、慶次のように格闘技に邁進する者としては、寧ろ当然の事である。
「なんだ、こいつら」
慶次が後ろを振り向くと、何mか離れて、六人の男子学生が並んでいた。
いずれもにやにやと、腹の立つような顔で笑っていて――学生服の着崩し方が、特徴的だ。
ベルトをわざわざ緩めて、ズボンは腰の高さから履いている。上着のボタンは上から二つ外して、ワイシャツは裾をズボンからはみ出させている。
そして、猫背気味で、両手ともポケット。
「……腰が痛えのか?」
「違えよ!」
その内の一人が突っかかろうとしたのを、六人の中では一番体格の良い一人が引き留める。
体格が良いとは言っても、背が高いだけだ。それも、180cmを幾らか超えた程度で、飛びぬけた長身という訳では無い。
が、人相が悪い――これは六人全員の共通点だが――おかげで御幸が、明らかに怯えた様子を見せている。
「俺はよ、三年の大垣ってもんだがよ。卒業した山瀬さんに変わって、うちの番を引き継いだんだわ」
「番?」
「アタマだよ、アタマ。うちの学校のアタマ任されたんでな、今年から挨拶参りする事にしたんだよ」
「それはどうも御丁寧に」
慶次は、先程御幸がやったのと同じように頭を下げた。
無論慶次は、大垣の言葉を理解していない訳では無い。番を張る、番を引き継ぐ――要は不良のトップを取るだとか、トップを引き継ぐだとか、そういう事を言いたいのだろう。
そうなると勿論、挨拶参りというのも、本当に挨拶をして回ろうという訳では無い。
つまる所、番長気取りが脅しを掛けて回ろうという、そういう発想なのだろう。
「なあ、佐渡。こんな伝統行事あんのか?」
「え? いや、知らないけど……」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」
大垣が叫ぶと、御幸は肩を竦めて、慶次の後ろに隠れた。
一方で慶次は、どういうリアクションを取って良いものか計りかねている。
大垣の体格は、身長は180cm前後という所だろうし――体重は、90kgにはならない程度だろう。が、喉に肉の弛みが有るし、胴体も太い。スポーツマンの体でないのは明らかだ。
「で、大垣先輩。俺達に何の用ですか?」
「部室に案内しろ、てめえんとこの部長に挨拶する」
「裕也さんに? ……マジで?」
「良いからさっさと連れてけってんだよ!」
背後で震える御幸を余所に、慶次は悩んでいた。
――殴る訳にも行かないよな、こいつら。
別に道場に連れていくのも良いし、そこでこの連中が何をした所で、怪我人はこいつらしか出ないのだろうが、それで問題になるのも面倒だ。
「何する気だ、あんたら」
「挨拶だっつってんだろ」
「そうか」
とは言え、此処で延々話し込むのも時間が勿体無い――休憩時間はとうに過ぎてしまっている。
止むを得ず慶次は、彼等に手招きをしてから、道場へ歩き始めた。
後ろを歩く不良学生六人組は、横へ広がって体を揺らしながら、さも大物気取りで満悦顔である。
「押忍、遅くなりました!」
「けーいじー、遅いぞー! ……あれっ、どうしたんだ慶次、お客さん? うっわ、すげえ七人? みんな見学希望?」
戻って来た慶次と、その引き連れた客を見て、裕也は子供のように大はしゃぎをした。
ぽんとマットの上を飛び跳ねて、5mを三歩で埋めて、来客の前に立つと、
「……でも、無さそうだね。えーと、こっちの子はさっきから見てた子でー、他のあんた達はだーれ?」
「三年の大垣ってもんだ。山瀬さんから番を引き継いで、挨拶周りに来たんだがよ、てめぇが部長か?」
おかしな雰囲気を嗅ぎ付けたのか、陽性の笑みだけそのままに、少し声の温度が下がる。その変化にも気付けず、大垣は録音したような台詞を繰り返した。
「山瀬さんって、あの卒業した山瀬さん? 良い人だったよねー、強かったし。でもあの人、挨拶巡りなんて馬鹿な事はしなかったよ?」
「知った口利いてんじゃねえぞ二年坊主。これからは俺が、ここの番なんだよ。分かってんのか?」
「分かる分かるー。んで、何がご希望なの? 入部? 大歓迎よ?」
そう言いながら裕也は、道場の中央まで戻って行く。大垣以下合わせ六名は、距離を開けずに追って行く。
「俺達よぉ、場所が欲しいんだわ、集会場が。ここは狭いが場所が良いからよ、使わせてもらいてえんだよ。良いよな?」
「部員になってくれるなら、練習に使うのは勿論オーケーだよ?」
「……舐めてんのかてめぇ?」
大垣がポケットから手を抜いた。成程、大きな手だ――拳を作ると、それなりの迫力が有る。
然し、そもそも相手が悪かった。
大垣が凶暴な顔になっても、裕也の顔はまるで変わらないのだが――その間に、慶次と修が、六人の背後に回っていた。
そして、最初に動いたのは大垣――いや、動かされたのが大垣である。一見無防備に見える裕也の顔へ、思い切り拳を振り抜いた。
「ぃよっ、とお!」
「うが――おわっ!?」
次の瞬間、大垣は前方につんのめり、仰向けにマットに転がっていた。
裕也が拳を思い切り引っ張って、併せて足払いを掛けた、たったそれだけなのだが――動きが恐ろしく速い。少なくとも、後ろでぼうっと立っていただけの取り巻き連中には、何も見えなかっただろう。
それと同時、慶次と修が動いていた。
「ふっ!」
「ぇげっ……!?」
慶次は、最も近くに居た一人の肩を掴み、背後から脇腹へ膝を入れた。
たった一撃――それだけで暫くは動けなくなる。皮膚や筋肉など無意味、例えるなら内臓を直接殴られるようなものだ。
「……何でお前達、よりによってここを狙うんだよ……」
「ぎ、ぎぎ……ギブ、ギブ……」
修は、同じく近くに居た一人の、こちらは腕を背中側に捻り上げる。
適度に加減をしているが、それでも関節が外れそうな痛みが有る筈だ。
ギブアップを示されても、修は手を放さない。暫くはこのまま、痛みを与え続けるのだろう。
「いやー、山瀬さんはほんとに良い人だったんだけどねえ。あんたじゃ駄目だ、器じゃない! あんたはつまらない!」
引っ繰り返った大垣を見下ろして、裕也はざくりと、刃物のような鋭さで言い放つ。当然、大垣は腹を立てて立ち上がるが――
「だな、つまらない……で、山瀬さんってどんな人だったんすか?」
「俺は話だけ知ってるな、剣条先輩の御近所さんだとさ」
「ふうん。で、こいつらは」
「さあ。……で、先輩。こいつらどうします、放り出しますか、歩いて帰ってもらいますか」
そのころには、取り巻き五人の内、三人がマットに引っ繰り返り、二人はそれぞれ片腕ずつ、修に捻り上げられている。
誰も顔に痣など無い辺りは、慶次も修も心得たものである。
が、一番こわいのは誰かと言えば――
「道場破りは戸板に乗せて返せ! 山瀬さんは良く言ってたからね、その流儀をお返ししよう」
「つまり?」
「放り出せ!」
取り巻きが誰もまともに立っていない事に気付いて、大垣は初めて、自分が不利なのでは無いかと気付いたような顔になる。
然しその時には、裕也が大垣の背後に回り、腰へ両腕を回していた。
両足の裏を支えとして、裕也は、90kg近い大垣の体を引っこ抜く。浮かせて、自分が反り、後方へ――
「よっ、こーらしょっ!」
ずうん、と落ちた。
反り投げ、裏投げ、色々な呼び方は有るが、世間的に伝わりやすいのはスープレックスだろうか。兎角裕也は、大垣を抱え上げ、マットに頭から落としたのである。
無論、一撃必殺。遠慮なく意識を刈り取って、確かに立ち上がらないのを、足先でつついて確かめてから、
「慶次。放り出すのは、六人な」
「うーっす」
まず引きずって二人。修が、腕を極めたままの二人を放り出す。一度戻ってきて、まだ蹲っている一人の足を修が掴んで放り出し、最後に慶次が、大垣を引きずって投げ出した。
「こういうの、良くあるんですか?」
息も切らさず修が利くと、裕也は陽気な笑みを何時もより色濃くして、まず笑みで答える。
「いーや、こういうおバカは初めてだね。普通の見学者はああいうのじゃなく――」
それから、天井へ向けて人差し指を立てて、
「彼女みたいに、楽しそうなのが普通だね!」
ぴっ、と壁際を指差すと、そこでは佐渡御幸が、行儀良く正座していた。
その表情を見るに、最初に六人組に遭遇した時の怯えは無い。それどころか、表情に輝きさえ有る。
例えるなら、胸躍る冒険映画を、映画館の巨大スクリーンで見ている子どものような輝く目。
「ねーえ、入部希望者?」
「あっ、えっ、いやその」
裕也にいきなり問われて、御幸は動転しながら、表情の明るさは変わらぬままだった。
たまにこういう人間が居ると、裕也は良く知っている。
生まれつき、特にそういう経験が無い癖に、暴力沙汰に引き寄せられる人間――所謂一種の才能である。
「心配しなくていいよ、総合格闘はちゃんと男女分けされてる競技だから! 女子の選手は少ないみたいだけどね、それでも県大会では十数人くらい出てくるし、勿論コーチだって今は女の人が増えてるんだから!
あ、そうだ、ちょっとサンドバッグ打ってみる? ちゃんと加減はしなきゃダメよ、手首痛めちゃうからね!」
「いっ、いやいやいや、私はそんな――」
元より平和な陸上競技から、尚更平和な美術部へ移っていた少女だ。
本人が争いごとを好む訳では無いのだが――然し、揺れ動く心は目に浮かぶ。
「――かっ、格闘技なんて、そんな、やらないです!」
「えー? 勿体無ーい……じゃあいい、そこで見ててよ練習。そしたら、その気になるんじゃないの?」
然し、即答は無かった。
結局この日、佐渡 御幸は、19時過ぎに練習が終わるまで、じっと道場の隅に座っていたのであった。