桜の季節(5)
「十秒前!」
なんだ、まだ時間が有る。
慶次は安堵した。
まだ暫く、止まらないで居ても良いのだ。
全く、この相手は凄い奴だ。打撃も良いが、兎角、組みつかれると厄介だ。
手首一つ掴んだだけでも、投げやら絞めやらを狙ってくるから、一時でも気を抜けない。
投げがどれだけ怖いものか、立ち技しかやらない俺だって、良く知っている。
柔道で、綺麗に投げたら試合が終わるのは、路上で投げられ地面に叩きつけられれば、それで立ち上がれなくなるからという。
仮にまだ動けたとしても、関節を取られたり、馬乗りになられたりすれば、やはり負けは必定だ。
打撃の理想である一撃必殺を、柔道――柔術は、ずっと昔から極めているのだから。
それにしても、この防御の勘は恐ろしい。
手を替え品を替え、フェイントを織り交ぜた拳のラッシュを、修は一つ残らず受け、防いでいる。
一分あれば、きっと、防御する腕を壊して押し切れる。十秒や二十秒では、崩し切るまでに時間が足りない。
かと言って、焦って大振りにでもなれば、その隙を確実に、あいつは狙ってくるのだろう。
顔――受けられる。
胸――防がれる。
腹――なんと、膝で防がれる。
防御する腕の向こう、目が、途轍も無く、怖い。
高虎 修の名は、幾度か道場で耳にした。大した天才児が、二足の草鞋を履いていると。
あの時の俺は、精々が県大会止まりの天才など、どれほどのものかと思って、さして気にもしていなかった。
向かい合えば、分かる。
こいつは天才なんて、そんな安いもんじゃあない。
どれだけの鍛錬の中、どれだけの攻撃を防げば、こういう人間が仕上がるのだろう。
打撃も組み技も、その精度を支えるのは反復練習。そして、絶対の防御という裏付けが、大胆さをも加えてくる。
どんな攻撃にも、一方的には負けないと信じているから、自分は博打のような攻撃に出られる。そして、博打に一度勝てば、戦いの勝ちを一気に引き寄せてしまえるのだ。
お前は今まで、どれだけ、天才と呼ばれた?
声に出さずの問いに返る言葉は無いが、結構な回数、そう呼ばれたんだろう。
俺はそんな、安っぽい言葉を使ってやらない。天才如きが、こんな楽しい組手を出来るものか。
さあ、次は何を捌いてくれる?
とは言うが――俺は俺で、何を打てばいいのだ。
アッパー――余り得意な技じゃあ無い。上げ突きなら出来るが、この身長差では、余計に難しい。
組み技――論外だ。それで勝てないのは分かっている。
ローキック――10秒であいつを沈めるのは無理だ。
となると、あれだな。
右足と左足の間を狭めて、ガードを高く上げて。刻んで居たステップまでを、止めた。
「五!」
裕也の声が響く。
反響が小さいのは――いつのまにか、観客が増えて居たからだ。
空手部が、柔道部がいる。剣道部までいる。一対一で、どっちが強いかとやっているような部活の面々が、音に引かれて寄ってきて、眺めていたのだ。
「四!」
慶次と修は、目を合わせて、頷いた。
そして、
「三!」
修は左腕を高く上げ、慶次の右手首を狙う。右手は低い位置から、腰のベルトを掴みに行った。
――来い! 狙える技がある筈だ。
――来い! 撃ち抜いてみろ!
修は、誘いを掛けた。
「二!」
「じゃっ!」
その瞬間、慶次の左脚が、刃物となった。
膝が肩まで上がり、体の前まで周り、そこから膝下が、居合術の抜刀のように開かれる。
先に放った〝展兼〟とは違う、最高の間合いで切り落としに行く。
頭を横へ撃ち抜く、左上段回し蹴り。
頭部を打ち据えれば3ポイント。
いいや――そんなもの、慶次は狙っていないと、修は知っている。
当たれば、倒れはしないまでも、暫くマットに膝着くだろう戦慄。
それを、修は、下へと避けた。
蹴り足の下に頭を沈めて、通り過ぎた瞬間には、バネのように伸びる。
蹴りの勢いで半回転した慶次は、左足を着地させた。
左半身が、修に向けられている。
馳走を前にした飢人のように、修は貪婪に飛びかかった。
そして、見た。
「一!」
慶次の左足首は、踵側が、修に向けられていた。
捻じり、マットに置かれた足首を起点に、慶次は動き続けていた。
初めから慶次は、左上段蹴りで勝とうなどと思っては居なかった。
その程度なら、避けてみせる筈だと信用していたから――次を、既に放っていたのだ。
右踵がせり上がって来るのを、修は、視界の右端に捉えていた。
――ヤバい。
岩を見れば重さが想像出来るように、鋼を見れば硬さが想像出来るように、〝それ〟を見れば、決して受けてはならないものだと分かる。
両腕を交差し、頭の右側に構えた。極めて高い強度を誇る、十字受けである。
――これなら耐えられる。耐えて、掴む。
足でもなんでもいい、体の一部を掴んだら、そこから投げてやる。
有効でもいい、1ポイントでも取れば自分の勝ちだ。
慶次の踵が、天井へと伸びて行く。
肩の高さを過ぎた。ここからだ。ここから、斜めに跳ねて、俺の頭を狙いに来るんだろう。
――来い!
奥歯を噛み締め、左足を横へ突き出して、衝撃に備える。
絶対に耐えてやる。例え、どれだけの蹴りだろうと、俺が知らない威力だろうと。
慶次の踵は、天上へと昇って行く。
修の頭を通り過ぎて、それでもまだ、登って行く。
それが、上昇から落下へ転ずる、0.1秒未満の間――覗き見る野次馬達も、審判を務める裕也も、そして、戦いの中にある修さえも、それを見た。
軸足から蹴り足の爪先までが、ほぼ一直線となった瞬間。長身の慶次の頭より更に高く、2m以上の高度に上がった踵。
振り下ろされる。
防御の遥か上から、ほぼ垂直に、慶次の踵が、修の頭へと突き刺さった。
修の体が斜め下に飛んで、マットの上に横倒しになった。
しん――と、場の全てが静寂に呑まれる。
人の声が暫しの間、道場から消えた。
蹴り足を床に置いた慶次さえが、息一つせずに、構えを解いて立っていた。
やがて、
「い……い、一本! 赤、上段蹴り一本……赤の勝ち! おい、修! おい!」
宣言をしながら、裕也が修に駆け寄った。
防具の上から意識を飛ばされ、修は静かな寝息を立てている。
呼吸に乱れは無いが、軽く触れた程度では目覚めない。完全にノックアウトされていた。
「……慶次! なんだよありゃあ……!?」
「………………」
「慶次!」
二度名を呼ばれて初めて、慶次は両肩を震わせ、裕也の方へ顔を向けた。それまで、殆どの物事が、慶次の意識には届いていなかった。
何処かで誰かが騒いでいるだとか、そういうのは分かったが――目の前で倒れている〝こいつ〟の方が、よっぽど大事だ。
また、立ち上がってきたらどうするか――これ以上の引き出しは、自分には無い。
これで立ち上がり、掴みかかって来た時、自分はどんな技で返せばいい?
実際は、思っても無駄な事だった。
このルールでは、これで勝負がついた。後から修が立ち上がろうとも、この試合は終わってしまったのだ。
「慶次、すげえよあんた! あれは何? あんな軌道の蹴り、見た事無いよ俺はさ! すっげえ!」
「………………」
「こうだよな、まず左上段をフェイントにして、受けるか避けるかさせて、勢いを付けて……」
裕也が、あの子供のような陽性の笑顔と共に、左足を延ばしてくる。頭の数cm横へ届いた時、その足は返っていた。
それを見ながらも、慶次は、言葉を出せずに居た。
何を言いたいのか、自分でも分からない。
けれども、喉の中で音を止めていると、それが胸も腹も焼いてしまいそうな気がする。
「――ぉ、お」
「軸足を左に変えて、後ろ回し蹴りの途中で、軌道を思いっきり跳ね上げて――」
裕也が、続けて右足で、踵から入る、あの蹴りを真似てきた。身長も角度も足りていないから、結局は慶次の右肩へ落ちるような蹴りになったが――それを、慶次は、右腕で確りと受け、払った。
「おお、おおおおおおおぉぉぉっっ!!!」
そして、吠えた。
ガラス窓を振動させる程の大音声。何人かが耳を塞いで、目を白黒させる。
その声が呼び水となり、修が立ち上がった。
足元がふらつき、未だに歩く事もままならぬような様でありながら――立ち、開始線の後ろへ下がった。
――まだやるか?
そう言われているような気がした。
――やりたいな。
慶次も、心の内でそう返した。
然し、現実的には、それは叶わない。
上段蹴りをフェイントとした、打ち降ろし式後ろ回し蹴り――尚武流に於いては『双雷』と呼ぶ、必殺の一撃。
長身の慶次が放てば、軽く2m以上の高度から降る、人体最硬部位の踵。これをまともに受けて、戦える筈が無い。今も、修の視界は揺れている筈だ。
だのに、ルール上でも決着はついたのに――修は、戦おうとしている。
慶次もまた、開始線の後ろに立ち――拳を、腰の高さに置き、
「押忍!」
――また、やろうな。
その意を込めて、礼をした。
「ありがとうございました!」
修もまた、礼を返した。
――必ずだぞ。
そう言っているような気がした。
「裕也先輩」
「ん。なにかね、慶次」
「これから、お世話になります」
慶次はその場に正座し、審判を務めた裕也を、正面に捉えるように向き直った。裕也はそれに応じて、自分もまた、正座をする。
「おっ、すると……?」
「押忍」
額がマットに触れるか触れないかまで頭を下げて、
「一年、龍堂 慶次。総合格闘部へ、入部を希望いたします!」
「許す! これから宜しく!」
裕也が握手を求め、手を伸ばしてくる。慶次は、その手を固く掴んだ。
それから、修を見た。
修は、膝の上で拳を握り込んだまま、動こうとしなかった。
だが――試合の途中で見た、あの笑みが、顔に張り付いていた。
どちらも気狂いのようになって打ち合ったあの時の笑みが、ずっと、顔に残っていた。