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汗はあんまり裏切らない(1)

 日が傾いている。

 五月の夕刻、川辺は未だに肌寒さを残していた。

 冬の、喉まで凍り付くような寒さではない。肌の上に薄く水が広がって、染み込んでゆくような冷たさである。

 大橋から一帯を見渡せる河川敷である。

 風は弱い。春先の、花を吹き散らす風は吹いていない。柔らかく緑の草を揺さぶって、川面へ抜けて行く風であった。

 高虎 修は、その風の中に居た。

 汗が冷えている――体も既に冷え切っている。大会前の熱が、一片も残っていないのだ。

 疲労さえ薄い。試合はたったの二度で、二度目の試合で負けた。

 痛むのは一箇所、指先で突かれた左手首のみである。酷く殴られも蹴られもせず、関節を極められた訳でもない。首を絞められて落ちた、それだけだ。

 目を覚まして暫くは、まだ自分が試合をしているような気分になっていた。だが、試合場に飛び込む事など出来ず、気付けば慶次が紅を蹴り倒し勝っていた。

 まだ夢を見ている気がする。だが、自分は負けたのだ――その事実だけは知っている。


 ――また負けたのか、俺は。


 手元の草を引っ掴んで、引き抜いた。無抵抗に引き抜かれた雑草を川に投げてやれば、ぱらぱらと広がって、下流へ流れて行く。

 眺めながら、修は、己の感情を言葉にしようとしていた。 

 悔しいか――当然だ。だが、そんなものでは済まない。今の想いに比して言葉が軽すぎる。

 腹立ちだとか、哀しみだとか言うのも違う。合致している所も有るのだが、そうでない所も有るからだ。

 少しずつ空が暗くなっていく。遠く大橋の上を、小学生だろうか、わいわいと騒ぎながら、家路を帰って行く声がする。

 まだ動く気にはなれなかった。

 何もしないなら、今日が終わらない気がするのだ。


 ――そんな事をして、どうなる。


 どうにもならない。自分が負けた、今日という日が、何時迄も過ぎないで其処に有るだけだ。

 自分は立ち上がり、歩かねばならない。

 けれど、どうしても体を起こす気力が湧かぬのである。

 胸の奥に鉛が沈んでいる。

 呼吸をする度に溶けて、肺に流れ込む鉛である。

 これが重くて、立ち上がるばかりか、呼吸するだけでも嫌気がさす。

 いっそこのまま、自分まで溶けて、草むらに広がっていようかと思った。

 錆びかけたチェーンの音がした。

 それはどうやら、歩道を外れて、河川敷の坂を滑り落ちるように下って来る。

 随分と荒っぽい運転の音が、自分の後方、数mばかりの距離に止まったと気づいて――


「修」


 名を呼ばれ、振り向いた。龍堂慶次が其処に居た。

 修は、己が立ち上がっている事に気付いた。






「……どうした、お前」


 慶次は自転車から降り、律儀にそれに鍵をかけてから、修の方へと一歩だけ歩いた。


「どうもしない」


 真っ正面からその視線を受け、修は――無意識にだろうか、視線を逸らしていた。

 慶次は動かず、じっと修を見ている。


「……暑かったから、外にいた」


 付け足すように、修が言う。横へ逸らした視線が、斜めに向いて、今は下を見ていた。


「何処に行くかくらい言っとけよ、探したぞ……」


 そう言って慶次は、閉伊宮高校の方角を、ぐいと親指で指し示した。帰れと促しているのだ。

 太陽が落とす影が、少しずつ、少しずつ伸びている。もうじき全ての影が混ざって、夕が夜に変わるだろう。

 だが、修は動かなかった。

 足元に視線を落としたまま、片足をほんの少し横に動かして、そのまま立ち尽くしている。


「……修?」


「お前、あいつに勝ったな」


 ただならぬ声である。

 慶次は知らず、一歩、後方に下がっていた。


「逃げるなよ」


 修が追って、言う。


「始めの合図みたいだろ」


 その両手が、開手のまま、すうと持ちあがった。

 右足を半歩だけ引いて、左足は半歩だけ進めて、背を丸めた。

 何時もより少し低い構えである。

 何時もならば修は、後方に重心を置き、高く構える。

 この時の構えはどちらかと言えば、前へ前へ進む為の形と見えた。


「……おい」


 慶次には、もうその意図が見えていた。

 喧嘩を売られている。

 それも、他に誰も居ないような、夜に近い時間帯の河川敷で。


「馬鹿、止めろ。危ねえぞ」


 いや、危ないなどというものではない。

 暗くて足元は見えないが、雑草の中にも、木のように尖った奴がある。

 砂利も、小石も転がっている。

 誰かが投げ捨てた空缶やら、割りばしやらも転がっているだろう。

 背の低い草の中には、何でも有るのだ。

 慶次も修も、普段はそんな事を意識せずに歩きまわるが、それは靴を履いているからに過ぎず――靴もまた、危険の一つ。

 加えて、地面が堅い。

 畳やマットとは比較にならない程、硬く、でこぼこした地面が続いている。


「おい、修!」


 修はそれでも、前へ出る。

 慶次は一歩下がりながら――気付けば、左手は開いたままで前方へ突き出し、右手は拳を作っていた。

 腰は、常よりは高く浮かせている。

 後ろへ置いた右脚に、何時もより多く体重を掛けている。

 修がいきなり踏み込んできた場合だろうと、飛び退けるようにしている。


「思いついたんだ、これを。慶次、お前で試させてくれよ」


 ずちゃっ、という足音。摺足で、土と靴底を擦れさせて、修が前に出る。

 それを受けて慶次が下がり、また修が追って、間合いが縮まって行く。

 おい、やめろ、と。慶次は幾度か、修を止めようとした。

 だが間合いは埋まり続けて――慶次は構えを解かなかった。


 ――どうしたら良い。


 構えを解いて、逃げればいい。それだけで済む問題だ。

 まさか修も、こちらがそういう意思を見せないのに、一方的に飛び掛かってくる事もあるまい。

 よもや俺をぶちのめしたいと、そういう訳でも――いや、どうなのか。

 こっちが手を出さないからと言って、向こうまで行儀良くしている保障は無い。

 理由は分からないが、修はどうも、俺に技を仕掛けたい気分らしい。

 そうまで思考が行き着くと、慶次の中に、ふつふつと湧き上がる思考が有る。


 ――要するに、喧嘩だ。


 言うまでもないが、尚武流に限らず、私闘を推奨する武道などまず有るまい。

 争いは避けるべし。道端の喧嘩で用いる為に、力を付けるのではないのだ。戦わずに済む局面で、双方共に怪我をする程、無益な事も有るまい。

 だが、それは飽く迄、流派としての話である。

 もっと根幹的な、龍堂慶次という人間の根っ子は、そういう作りになっていない。

 慶次は、喧嘩を売って歩く事は無い――少なくとも相手に殴りかかるだとか、掴みかかるという事は無い。

 然しそういう目に遭った時、自分がどう対応するべきかは、常日頃考えながら生きている。

 いや、夢想していると言っても良い。

 うっかり肩をぶつけてしまった不良に、いきなり殴られたらどうするか。

 道を歩いていて突然、数人に取り囲まれたらどうするか。

 慶次の場合、殴るか蹴るかの何れかで対処しようと考えている。

 どれ程に表向き、武道に邁進する健康な少年であったとしても、腹の内側は塗り変わらない。喧嘩を売られるというのは、慶次にとって、夢のような話なのだ。

 それが、此処に有る。

 しかも相手は高虎修である。

 昂らぬ筈が無かった。


「止めようぜ、修。俺達だと、危なすぎる」


 制止しながら、構えている。

 互いを気遣う言葉を発しながら、唇が吊り上がっている。

 止めたいが、受けたいのだ。

 慶次は既に、己の間合いを測り、力を溜め込んでいた。


 ――止めろ、近づくな、始まっちまうぞ。


 ――来いよ、こっちまで。手が届くぞ。


 相反する思考が、慶次の中では矛盾しない。

 そうして慶次は、下がるのを止めた。

 埋まった間合いの中へ、修が、前方へ倒れ込むようにして飛び込んできた。


「らっ!」


 迎撃。

 左掌で、慶次は、修の右肩を突き飛ばそうとする。

 届かなかった。

 修は、踏み込んだと見せた次の瞬間には止まり、更にスウェーバック――後方に上体を傾けていた。

 左手首を、修が掴んだ。

 修の右足が、慶次の左膝を踏んだ。

 慶次の背中を、ぞわっとする冷たい何かが駆け抜けて行く。咄嗟に右腕を、顎の下に割り込ませた。

 腕ごと顎を、修の左膝が蹴り上げた。

 首が上へ向く。見上げた空はもう、夜空になっている。

 修が着地するに合わせ、慶次は左腕を引きながら、右拳を思い切り突き出した。

 修は慶次の腕を掴んだまま引き寄せられ、胸の中心へ向かう拳を、左腕で受ける。

 防具は無い――裸拳である。ただ一撃で、修の左腕に痣が出来た。


「今のが、思いついた技か」


「そうだ。此処から幾らでも変化出来る」


 変化――成程、如何様にも変えられる形であると見えた。

 構えの変化では無い。修が言うのは、慶次の左膝を踏んだ右足の事である。あれが、幾つかの技の起点となる。

 前へ出る相手の、膝を足裏で御す。

 左右に曲げてやれば、力の向きが変わり、拳から重さが抜けて行く。

 動かぬなら、慶次にして見せたように、踏み台にして蹴りに行く。

 或いは、膝を踏み砕いても良いだろう。

 踏む足を少し滑らせ、両脚で絡み付けば、足関節へと転じられる。


 ――こんなものか。


 慶次は内心、悲しんでいた。


 ――こんなものを、思いついたと、嬉々として言うのか。


 確かに最初の一撃は、完全に不意を打たれた。

 腕を割り込ませて打撃を受けたが、まだ軽く視界が揺れている。

 けれど、其処までだ。

 試合中、動き回る脚の、動きの起点の一つである膝に、正確に自分の足を乗せていられるものか。

 それが出来るならば、そんな曲芸に頼らずとも、もっと簡単に勝てる技が有る。


 ――認められないんだな、まだ。


 慶次は、そう悟った。

 自分と相手の間に、そう差は無かったのだと思いたいのだろう――そういう風に、覚ったのだ。

 修は負けず嫌いだ。負けない為に、練習は人一倍やっている。

 それで負けた事に、理由が欲しいのだろう。

 向こうは自分よりも技術が有った――単純にそう考えたくない。

 知らない技を、向こうが持っていた。だからこちらも、知らない技をぶつけて行こう。そういう風に考えているのかも知れない。


 ――違うんだよ、修。


 高虎修と、神巫紅。力量に大きな隔たりは無い。

 それは確かに、防具無しで向かい合って、どちらが動けなくなるまでやるのなら、紅が勝つのだろう。

 然し、高校総合格闘というルールの中でならば、慶次は寧ろ、修の方が上だと思っていた。

 修は、そういう練習をしてきた男だ。

 幾度も二人は試合をしたという。それを、慶次は一度たりと見た事は無い。

 ただ、高虎修という選手が、県内では強いのだと、それだけ聞いていた。

 実際に拳を交えて、強いとも思った。

 だから、違うと分かる。


 ――お前が負けたのは技術の差じゃない。負けると思ってやったから、負けたんだ。


「……なあ、修」


 慶次は、構えを変えた。

 両足は狭く近づけて、拳は顔の高さに。

 腹部はがら空きのように見えるが、然し、これで良い。

 そして、踵を浮かせた。


「本当はな。俺は、お前の顔を思いっきり殴りたい」


「……へぇ」


 修は、意外そうに答える。


「顎を素手でぶち割るのもいいんだろうし、膝を外から蹴り折るのも、肋に膝を入れるのも、どれも楽しいんだろうよ。その代わりお前が、俺の指を折ったり、腕を折ったり、脚を折ったりするんだ」


「怖いな」


「此処で続けてたら、そうなる。だから止めとこうぜ」


「………………」


 ずう、と修の体が傾いて、前へ進み出た。

 先と同じ、倒れ込むような踏み込み。初動は見えづらく、低く入り込んでくる。

 だが、二度目だ。

 先と何も変わらない踏み込み――それに慶次は、右足を合わせた。

 地面を離れて、真っ直ぐ、鋭く。

 30cm以上あるごつい靴が、修の顔へ迫り――止まった。

 顔面までの距離を一寸だけ残して、慶次は足を止めていた。


「一本」


 そう言って慶次は足を降ろし、構えを解いた。


「終わりだ、戻るぞ」


「…………」


 促せば、修も、構えを解く。

 そうするしかない。

 それ以外に、出来る事も無い。

 彼我の力量がさして変わらぬのだ。互いが互いに、いずれが勝ち、いずれが負けたかを悟った。

 負けたが、それは関係無いからもう一度――そう言えるなら、どれ程に楽であっただろう。そう出来ぬから、高虎修なのだ。


「修、びびんな」


 そう言って、自転車を押して行く慶次の後ろを、修は歩いて追いかけた。


「俺だって怖かった」


 慶次は、半分本当で、半分は嘘の事を言った。

 マットも防具も無しに組手をするのは怖いが、けれど、そうしてみたかった。

 ただ、そういう考え方は普通でなく、理解をもらえないものであるとも、何処かで気づいている。

 だから、怖かったとだけ言うのだ。

 それが修には、気遣われたとでも思えたのだろう。


「惨めだな、俺は」


 血を吐くような声で、修は言った。


「そうでもねえよ」


「次は勝つ」


 ぶつっ、と区切るような決意の言葉。


「次は勝つ……!」


 握りしめた拳が震えている。

 慶次は修の顔を見ないままで、校舎への道を帰って行った。






「やっ、慶次、お疲れさーん」


「うっす」


 道場まで戻った二人を、裕也は、走り込みに出た者に向けるような口振りで出迎えた。

 すっかり日は落ちて、烏も鳴かない夜になっている。

 だが、道場には、総合格闘部が全員残っていた――慶次と修を除けば三人だけなのだが。


「修」


「……はい」


 裕也は、短く修の名を呼ぶと、その隣まで歩いていった。

 顔の向きを同じにするように立って、肩に腕を乗せ――


「そいやっ!」


 いきなりぶん投げた。

 首を脇の下に抱え込み、腰で投げる、豪快な投げであった。


「ぐえっ!?」


「甘い! 甘いぞ修!」


 不意を突かれ、受身も不十分に落下した修を見下ろし、裕也は腰に手を当ててふんぞり返る。

 そればかりである。

 何も言わないし、何も聞かない。ただ勝ち誇って、普段のような得意顔をするのみ。

 然し裕也がやると、それだけで、大概の事がどうでもよくなるのだ。

 何も言わせない強引さが有る、と言い換えても正しい。

 周囲にある種の諦めを与える、おかしな強さが、裕也の笑みには有るのだった。


「さて、全員集まったところでいきなりなんだけどね、明日からちょっと二週間ばかり、特別練習をしようかと思う!」


「また唐突な」


 裕也の発案は、常に事の直前である。慶次が呆れたように言うのも、考えを改めさせようというのではなく、諦念が声として零れただけの事だ。


「まあ、今回の大会で、三人それぞれに学ばなきゃない所も見つかったと思う訳だけれども! 御幸ちゃんは試合にも出られなかったけれども! 当然みんな一年生な訳で、弱点はたっぷり有る!

 これを今月末までに全部直すなんて当然だけど不可能な訳だ!」


 人間の動きは、日々の動作の積み重ねである。

 同じ拳を突き出すという動作でさえ、熟練により、やがては氷塊さえ叩き壊す必殺技となる。

 然しそれは、途方もない時間の積み重ねが生む成果であり、三週間で何ができるかというと、かなり難しい。

 そういう事を裕也は、改めて認識させてから、


「という事で、先方には話を通してあるから、はいこれ」


 各人に一つずつ、封筒を配った。

 口は閉じていないものだったので、中に収まっている手紙は簡単に引き出せる。

 裕也以外の四名は、その手紙を開き、文面に目を通して、


「……は?」


  声を上げて不理解を示したのは玲だけだったが、他の三人も殆ど同じように、裕也の顔を見ていた。


「暫くは大変よー、がんばってねー」


 龍堂慶次――柔道部に投げられ続けるべし。

 高虎修――相撲部に吹き飛ばされるべし。

 浅上玲――陸上部と走り続けるべし。

 佐渡御幸――空手部と殴り合うべし。


 極めて大雑把な指示を与えて、裕也はあの、自分は企んでいるぞと知らしめる笑い方をしていた。

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