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桜の季節(2)

「んぐ、ぅ……っ、ぁ……。……あ?」


 乱入者――昇降口で大立ち回りをした長身の少年は、目を覚ました。

 まず最初に目に入ったのは、やけに高い天井。古臭いオレンジと白の中間のような照明がぶら下がっている。

 それから、熱を感じる。窓は開いていて、風も入ってくるのだが、やけに熱気の籠った空間であるらしい。

 なんで自分がこんな蒸し暑いところで、天井なぞ眺めているのか、長身の少年は、暫く理解が出来なかった。


「何やってんだ俺は……? よっこらしょ……っと、痛っ……!?」


 まず両脚を振り上げて、その反動で跳ね起きようとして――急に、背中に痛みが走る。

 思わず呻き、体を丸めながら起き上ると、


「おっ、気付いたかぁ!」


 自分の足の向こう側に、剣条 裕也が――あの、少し小柄な上級生が、胡坐を掻いていた。


「おっ、お前――」


「すまん! いやほんとごめん! しくじった!」


 体を起こした少年が、その顔を指差すとほぼ同時――剣条裕也は座ったまま、額が床に着く程頭を下げた。床は、板張りの上に薄いマットを敷いたものだと、その時に気付く。


「あぁ?」


「本当にもう、そこまでやるつもりは無かったんだけど……あんたが思ったより強かったからさ、手加減出来なかった! ……いやー、こんだけ強い下級生とか困るわー……」


 頭を下げて自分に詫びる剣条裕也を見て、長身の少年は、始めは暫し混乱するばかりだった。

 だが、彼が顔を上げた時――


「あ……!」


 やっと、〝それ〟を思い出す。

 裕也が間合いに入って来た時――この間合いとは、長身の少年自身の拳の間合いだが――少年はすかさず、左拳で顔面狙いの突きを放った。

 両者の身長差の為、拳の軌道はほぼ地面と平行だが――その下に、裕也は恐ろしい程の速度で潜り込んでくる。

 無論、想定内。組み技なら、近づいて来て当然の事。そこへ少年が、右の鉤突き――ボクシングでいう所のフックを放った。

 前進してくる相手へのカウンターとなる筈の打撃だが、裕也はなんと、それも下へ潜り抜けた。

 この時点で裕也の頭は、少年の鳩尾よりも低くなった。

 ならばと、右膝で迎撃に行く。

 すると、少年の視界から、裕也がふいに消えた。

 ――何処だ!?

 反射的に、右肘を後方へ振るう。

 目で見た 訳では無いが、背後、人の気配がある所目掛けて肘を振るう。

 当たった――だが浅い。腰を捩じる事が出来ず、威力はかなり弱まった筈だ。

 そして、腰に組み付かれた。

 裏投げ――バックドロップと言った方が通りが良いかも知れないが――の予兆かと、少年は腰を落とす。

 その瞬間、視界が急に青くなって、それから黒く――


「……お前、何をした……!」


「ちょっと、顎をかつーんと……あっはは」


 裕也は、投げをフェイントにした。

 背後から組み付き、腰を落として耐えようとした瞬間、低い位置になった顎を、背後から掌底で撃ち抜かれたのだ。

 あまりに予想外の――少なくとも空手の試合ならば有り得ない角度の打撃。防ぐ術も無く、少年は意識を飛ばされた。

 その後は、此処が何処かは分からないが、意識を失ったまま運ばれたという事なのだろう


「ほんとは抑え込みでもしてやろーかなーって思ってたんだけど……思ったより拳速くってさ、そこまでゆっくりやってられなかったよ。俺もまだまだかなー? にしてもあんた、ガタイは良いしキレは有るし、ほんとすっげえよ――」


 座ったままの裕也は、少年の前に顔を見せた時と同じ、やたらと明るい笑みを見せたままで、


「ふざけてんのか?」


「え……?」


 少年が、それに噛み付いた。


「ふざけてんのか、って言ってんだよ!」


 それ以上の言葉は無いが――少年は、溜め込んだ激情を、ただ闇雲に吹き出すように叫んだ。

 強く握った拳が、わなわなと震えている。

 ごつごつとした、歪な拳である。硬いものを殴りつけ、鋼のように練り上げた拳である。

 それを震わせ、少年は吠えたのだ。

 怒りなのか、それとも――また、別な感情なのか。本人さえが理解していないだろう、動物的な咆哮。拳の行き場は見つけられない。


「……俺はすっげえ真面目だよ。強くなる為に」


「んだと……?」


 少年の鼻面に、裕也が拳を翳した。

 少年と同じようにごつごつした、歪な、武器として作り上げられた拳だった。

 自分がどうやって拳を作ったか知っているのと同じに――彼の拳が作られた過程が分かる。

 二人の拳は、そういうものであった。

 暫し裕也は、拳を突きつけたまま、微動だにしなかった。少年はその拳を、瞬きもせず見つめていた。


「……あんたはさ、空手部探してたんだっけ?」


 僅かな間でも生まれた緊張感を、裕也の陽性の笑みが取り払った。


「………………」


 有無を言わさぬ、おかしな力が、その笑みには有った。

 そういう性質に生まれた者なのだろう。時々そういう人間は居るが、少年は、こういう人間に出会った事が無かった。

 その笑みの前では、何を言うべきかを真剣に考えてしまい、そして問われるままに応えてしまう。


「えーと……ぶっちゃけて聞いちゃうけど、なんで?」


「……強くなりたいからだ」


「なーんだ、同じじゃん! ねぇ?」


 答えが余程気に入ったものか、裕也は、少年の手首を掴んで、


「ねぇねぇ、一緒にやんない? 〝総合格闘部〟!」


「あぁ!?」


 ぐいぐいと引っ張りながら、この日最高の笑顔でそう言った。


「いーじゃんいーじゃん、強くなれるよ? 一緒に青春の汗を流そーよーう。強くなりたいんでしょ?」


「何を言ってんだ、俺は――」


 いきなり詰め寄られて面食らった少年は、一度言葉を濁してから、


「俺は、こいつで行く」


 両手の拳を顔の前に掲げて言う。


「打撃で、って事?」


「空手で、だ。俺はこいつでやってきたし、こいつでやって行く!」


「うーん……勿体無いんじゃないかなぁ、そりゃ」


 その拳を、裕也が、ぐいと下に押し下げる。


「いやね、空手ダメとは言わないよ? 空手部の人達、強いし。けどさぁ、あんたは……空手が強くなりたいのか、空手で強くなりたいのかどっちよ? 前者だったら別に、何も言わないけどさぁ」


「どういう意味だ?」


「分かってるくせにー」


 よ、と軽く気合を入れて、裕也は跳ねるように立ち上がった。そして、この蒸し暑い建物の中を歩く。

 それに合わせて視界を動かしていけば、少年の目には、質素にして簡素な道場の内装が映った。

 床に惹かれたマットは10m四方程度で、マットの外にベンチプレス台やらサンドバッグやら。至ってシンプルな、まさに道場という雰囲気の空間だった。

 ――こんなものなのか。少年は、そんな感想を抱いた。

 こんな、近代的設備とは程遠い環境が、近代的な〝総合格闘部〟の道場なのかと。

 打撃だけでも無い、グラウンドだけでも無い。両方を合わせた、正に総合的な格闘技は、テレビなどの媒体を通じて、世界的な知名度も高まっている。

 然し、その入り口は狭かった。総合的な格闘技というものを学ぶ土壌は、潤っているとは言い難いのだ。

 普及の為の手段として、〝青少年の育成に適した〟ルールが整えられたのは、ほんの数年前の事。

 新しい競技であるだけ、近代的な環境が有るかと思ったが――


「俺も、空手はやったし、柔道もやったよ。でも、空手のチャンピオンになりたい訳じゃないし、柔道で金メダル取りたい訳でも無い。あんたはどう? 空手の王様、なりたい?」


「………………」


「まあ、それも良いと思うよ。牛も一発で倒す拳なんて、ロマンがあるじゃない! でも――」


 やけに古臭い道場の、ど真ん中に進み出て、裕也は子供のように跳ねまわる。

 この空間にいる、それだけで楽しいとでも言うように――マットに伏せたり、自分の腰より高く跳んだりを繰り返す。

 壁へ向かって走り、一歩、二歩、三歩まで駆け上がって、くるりと後ろに回って着地して、


「――俺は、それじゃつまらないと思う!」


 右手の人差し指だけを立てて、少年に向けた。

 少年は、自分の胸に向いた指先から、何かの熱が流れ込んでくるような錯覚を受けた。


「どーせなるなら、全部の王様! 皆の前でさあ、皆の声援たっぷり受けてさあ、わー凄えぞチャンピオンーって押し出して貰えるようなさあ、そーいうのが楽しいと思うし、格好良いと思う! だから俺は、此処を選んだんだ」


「……ぅお」


 熱源は――目の前の、自分より25cmも小さな先輩なのか。それとも自分なのかが、少年は分からなくなった。

 もしかすると、五分と五分かも知れない。

 何故ならば、裕也の言葉の中には、確かに少年に響く音が有ったのだ。

 ――空手の頂点に立ちたいのか、空手を使って頂点に立ちたいのか。

 強さの尺度は様々変わる。ボクシングルールならばボクサーが、レスリングルールならレスラーが、それぞれの最強となるだろう。〝最も〟といいながら、その称号の持ち主は、必ず複数いるのだ。

 そういうものだと、少年も理解している。単純に強さを突き詰めたら、ミサイルの所持数勝負になってしまうという事も。

 可能な限り、強さの尺度を広範囲に広げた〝総合格闘〟というジャンルは、正直に言えば、魅力的なものであった。


「……ね? だから、一緒にやろうよ総合格闘部? すっごく楽しいよー、部員は二人しかいないけど」


「……は? 二人?」


「うん。俺と、昨日入ってくれた子とで、二人」


「あんた一人でやってたのか!?」


「柔道部と空手部がみんな持ってっちゃうからさぁー。あははは」


「笑えねえなぁ……部活扱い、認められんのかよ」


「寛大な学校で良かったよねぇ、うんうん」


 さて、頑固という屋台骨が、ぐらぐらと揺れて、傾き始めた頃。

 勧誘の積極性の理由は何なのか、熱弁の訳は何なのか、初めて明確になって、少年は僅かな疲労感を覚えた。

 ついでに、設備の不足の理由まで判明した――部員が一名ではろくな部費も出ないだろう。


「……しっかし、昨日?」


「うん。昨日。入学式が終わって直ぐにね、その足で部室に来てくれたんだ。いやー、逸材だねー彼は。あっ、いやっ、君も負けてないと思うよ?」


 そういう、悲惨な状況の部活動に、率先して加入したがる物好きも居るという。

 少年は少し、そいつが気になった。

 そいつもまた、裕也の熱にたぶらかされたのかどうかという事と、もう一つ。単純に、そいつは強いのかを知りたかったのだ。


「どういう奴なんだ……?」


「んー……クールな子? あ、ほら、噂をすれば影とやら」


 すると、〝そいつ〟は現れた。

 裕也が指さした道場の入り口、靴を脱いで揃えてから、一礼をして入ってくる者が居る。

 背は、裕也よりは高いが、際立った長身でも無く――180cmという所か。


「お願いします! ……剣条先輩、走り込み行ってきました」


 言葉の通り、運動してきた帰りと見えて、前髪から鼻へと汗の雫が落ちている。

 呼吸も些か速く、体温の高さか、顔も赤みが差しているが――深呼吸をすると、見る見るうちに心拍が平常へと戻って行く。

 疲れなど知らぬという、平静な顔をしていた。

 成程、裕也の言う通り、クールという形容がぴたりと当てはまる。道場に異物――長身の少年――が増えているのを見ても、眉一つ動かさず、視線を長く留め置く事も無い。

 ただ、これだけは聞いた。


「……新入部員ですか?」


「んーん、これからー」


「待て、入るって言ってねえぞ。待て」


 部員で無いと分かるや、それっきり、クールな彼の意識は、長身の少年から外されてしまったように見えた。

 上着を脱ぎ、ランニングシャツ姿になると、拳にサポーターを付けてサンドバッグへ向かう。

 そして、構える。

 拳は高く、踵はべたりと貼り付けて――裕也がやっていたのと、良く似た形の構えだ。そこから、静かに左、右と、拳を真っ直ぐ突き出し始めた。

 それは、機械制御のように正確に、サンドバッグの同じ個所を打っていた。

 サンドバッグが5cm右にずれれば、拳の着弾点も同様にずらし、左右のコンビネーションを繰り返す。地味だが、恐ろしい熟練の一端が伺える。


「……随分綺麗なフォームしてんな」


「でしょー? 中学総合格闘の高虎たかとら しゅうといえば、ちょっとした有名人だもの」


「高虎……?」


「あ、やっぱ聞いた事有る?」


 空手、柔道と掛け持ちで、どちらも中学の県代表クラスの選手――と、長身の少年には聞き覚えが有った。少年自身は、あまり大会などに出た経験も無いが為、拳を交えた事は無かったが、


「……あれで県止まりって、嘘だろ?」


 一定の規則的なリズムでサンドバッグを叩いていた拳に、乱れが生じた。少年の声が、修の耳に届いたようであった。

 本来の狙いより、10cmも着弾点がずれた拳を、修は恨めし気に睨み付ける。

 暫し、沈黙が続いた。突きを放ったままのポーズで、修は動きを止めていて――


「いいなぁ、いいなぁ……! なあなあ修、組手やろうよ組手!」


 遂に耐え切れなくなったという風に、裕也が陽性の笑みを、道場全体が照らされるかと思う程に撒き散らす。

 唐突な言葉に、修は構えを殆ど崩しもせぬまま、首だけぐりんと向けた。


「は……組手ですか? 構いませんが……その恰好で?」


「いや、俺じゃなく! そっちの彼と!」


 然し、裕也が指さしたのは、彼自身の底抜けに明るい顔では無く、少し呆けたような表情をしている、長身の少年の顔だった。


「……あぁ!?」


「はい……? 先輩、何故急に」


「良いじゃん! 俺、二人の組手見たーい! 修だって、この子の拳は勉強になるだろうし――」


 指差した顔目掛けて、跳躍二回。猿のような身軽さで近づくと、長身の少年の肩を掴み、耳に口を寄せ、


「修は強いよー、やりあってみたくないの? 公式ルールに乗っ取って、三分たっぷりやらせて上げるよ? 喧嘩扱いじゃなく、ちゃあんとした部活体験の一環として、ごーほー的に楽しめるよん?」


「あんた、煽るの好きだなおい……」


「そりゃあ勿論、見るのもやるのも大好きだもん俺は!」


 先程までの笑みはそのままだと言うのに、声の質やら言葉の響きやらが、まるで契約を持ちかける悪魔のようだと、少年は引き攣り笑いを零した。

 然し、確かに〝そそられる〟提案だった。

 少なくとも、少年の腹の底では、繋ぎ止めておけなくなったものが、ごうごうと唸りを上げている。

 一度火が着いてしまって、それで止められる気性の少年で無い――その程度、軽くとはいえ拳を交えた裕也には、重々承知の事であった。


「ねーえ、三分だけで良いからさぁ」


「ぐぐぐ……ぐぬぅ……!」


 躊躇はほんの十数秒。


「……はぁ。先輩、いきなりすぎますって」


「そう言わないの、修。勉強、勉強!」


 立ち上がり、道場の中央へ進み出る少年を見て、修は肩を落とし溜息を吐いた。その肩をがっしと掴み、無理やりいかり肩にしようとする裕也は、本当に底なしの陽気を溜め込んでいるかのようで、


「それじゃあ、まずはルールの説明を――」


「いや、良い。〝余所〟のルールも、一通りは聞いてる」


「へえ、勉強熱心! んじゃ、防具は貸すから――えーと」


 長身の少年は、学生服の上着と、それからワイシャツを脱ぎ、上半身を曝け出す。

 良く鍛えられたストライカーの筋肉――見て、裕也は満足気に笑い、問う。


「一年生君、あんたの名前は?」


龍堂りゅうどう 慶次けいじ――」


 ずん、と足を踏み鳴らした。

 右手は鳩尾、左手を顎の高さで体から離し、左脚を前の半身、重心は低く。


尚武館しょうぶかん流、龍堂 慶次!」


「うほぉう、伝統派かぁ!」


 始めの挨拶を待たず、慶次は右足でマットを蹴った。

 195cmの長身が、槍の如く、伸びた。

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